著者の執拗かつ克明な描写には読むたびに感心させられる。行間から生活感が臭い立つとでも云えばよいか。実在の建物や店舗が登場し、ちょっとした細かい風景は現実をそのまま映したかのよう。街の描写がリアルなあまり、道行く人の動きが見え、車の通過音が聞こえ、路面店の食材の匂いが漂うのが著者の文章だ。

ましてや、その場所が読者にとって良く知る場所だったら猶更である。著者の出世作「黄金を抱いて翔べ」では、吹田や大阪のあちこちが登場した。「黄金を抱いて翔べ」を読んでから数年後、私は吹田に引っ越すことになる。「黄金を抱いて翔べ」の舞台を巡るような気持ちで自転車を漕いだのを覚えている。

本書では、町田や相模原が多数登場する。登場する交差点、パチンコ、通りなど、全てリアルに映像が思い浮かぶ場所ばかり。本書に登場する二人の男が衝動のままにATM破壊やコンビニ強盗や空き巣物色を行う場所が、私や家族の行動する範囲と重なる。それは、読んでいて背筋に戦慄を感じる経験だった。本書で犯人達が移動した軌跡は、おそらく我が家から20メートルも離れていない場所を通っている。つまりは私の妻子が短絡的で刹那的な男たちに遭遇する可能性があるということ。それが本書では現実のものとして感じられた。今まで様々な本を読んできた私だが、虚構の小説からリアルな慄きを感じたのは本書が初めてだ。

ただし、本書でメインの犯行現場となるのは東京都北区の西が丘だ。町田と相模原をさまよった男たちは、空き巣物色で意に沿う家が見つからず、その挙句、ふとした思いつきから赤羽へと向かう。犯行現場となった歯科医家族の住む家は、本書で番地はおろか号まで出される。伏字ではなく。実際にWebマップで調べたところ、番地こそ実在しないものだったが、そのひとつ前の番地までは実在している。つまり限りなくリアルに近い犯行現場。しかも、その近隣にはいくつか歯科医院が建っている。その歯科医は、ひょっとすると著者の中で犯行現場のモデルとして対象になったのかもしれない。現実にある当の歯科医さんにとっては心穏やかではない話だ。もし本書の犯行現場が町田の歯科医であれば、私は果たして本書を最後まで読み通せたか心許ない。きっと動揺なしには読めなかったことだろう。

場所描写の緻密さもさることながら、本書は犯人二人の心中の描写にもかなりの語彙を費やす。冷血というタイトルに相応しく、著者は犯罪者の内面を念入りに追い詰める。風景描写以上に執拗に。何故犯罪に手を染めるのか。何故衝動に駆られるのか。動機が復讐や金、名誉といった分かりやすいものならまだいい。しかし本書の二人の犯罪者は、金がない訳でもない。復讐する相手がいる訳でもない。ただ偶然にネットで連絡を取り、そのまま犯罪へと突き進む。その行動は支離滅裂で破天荒。目的もないままの行きあたりばったりの犯罪。だが、著者の筆さばきは冷静極まりない。パチスロの音や虫歯の痛みなど、犯罪者たちの脳内にうごめく意味不明な音また音が紙面に垂れ流される。著者はそういった意味不明な部分まで計算しきったかのように描く。その冷徹さには凄味を感じるほかない。冷血とは著者の紡ぎだす筆致を指すのではないかと思いたくなるほどだ。

そのような異常な世界とは対比させるように、著者は本書の冒頭から被害者となる歯医者一家の日常を淡々と詳細に描写する。犯罪者二人の狂気一歩手前の描写に比べ、よくある小金持ち一家の、幸せそうな日常。幸せそうでいて、内面は家族それぞれが別々の方向を向いているよくある一家の日常。その日常が、中学生の長女の視点から描かれる。おとなの判断力を身に付けつつある中学生女子の突き放しながらも家族あっての視点。それと脳内に意味不明な音を反響させる狂気一歩手前の男二人の視点。その正反対の描写が交互に描かれるのが本書前半である。読者は中学生女子を被害者として連想することは出来るものの、二人の男の行動があまりにも無軌道なため、筋書き次第では町田・相模原での惨劇も畏れつつ、ページをめくる。歯科医一家の住む地区が北区西が丘であることが分かっていながらも、交互に描かれる加害者と被害者の心理描写がじわじわと読者を不安に陥れる。私のような町田市民にとってはその効果は猶更である。北区の読者にとってもおそらく同じような緊張感をもたらすに違いない。

惨劇が起こった後は、被害者の視点はもちろんのこと、二人の犯罪者による視点も本書からは退く。替わって登場するのは合田雄一郎の視点だ。合田雄一郎といえば、著者の長編小説にとって欠かせない探偵役として知られる。探偵役といっても、合田雄一郎が快刀乱麻を断つがごとく解決する訳ではない。むしろ合田雄一郎は組織には逆らわない。人情味や酷薄さ、アウトローといった性格付けもされていない。癖がないキャラクターとして設定されているのが合田なのである。組織に忠実なのが却って個性と言えるぐらいに。

本作では、合田雄一郎が係長として捜査本部の仕切りを担当する。仕切りとは、どの刑事を何の操作に割り当て、といった仕事だ。通常の警察モノのドラマや小説では取り上げられることも少なく、脚光を浴びにくい仕事だが、実は捜査には欠かせないキーマンだったりする。捜査一課長が訓示を垂れる裏側では、合田係長のような体制づくりのプロが必ず捜査本部の仕切りを行っているのだ。

そして合田係長の仕切りは無難にこなされ、優秀な日本警察の捜査網によって犯人像は絞り込まれ、あえなく二人の男は逮捕となる。それが本書上巻の幕切れである。通常の警察小説だと、犯罪が起き、捜査の過程を描き、追う警察と追われる犯人の息詰まる攻防を描くのが定石だ。しかし本書ではどのように犯罪者たちを追うのかに焦点を当てると思いきや、呆気なく犯人逮捕に至らせてしまう。いったい著者の意図はどこにあるのか、と思われるかもしれない。私もそうだった。

しかしこの後、本書には下巻がある。物語はまだ半分しか進んでいないのだ。下巻に至り、著者の凄味はますます冴えわたることになる。冷血という題を付けた著者の意図も明らかになる。

‘2015/8/11-2015/8/15


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