新年には普段読めない全集を。

昨年と同様、2016年も文学全集から読書道楽の日々を始める。とはいえ、今年は仕事上の目標が控えている。その目標とは、四月から常駐先での仕事を半分に減らすというもの。つまりは四月からは自分自身の力で0.5人月分の仕事をとり、しかも、前と同じだけの収入を確保しなければならない。

もちろん今年も暇ができれば本をひもとき、読書を楽しみたい。だが、新年早々、重厚な本から始めると、読むのに時間が割かれ他のことが疎かになりかねない。そんな訳で手元にある全集の中でも比較的薄く、さらには読みやすそうな本書を選んだ。

そんな目論見で読み始めた本書だが、読破まで案外時間がかかってしまった。本書が期待に反して難解だったわけではない。つまらなかったわけでもない。しかし、軽率に読み飛ばせる類いの本でもなかった。軽妙でありながら、イメージがあちこちを飛び回るため、ついて行くのに時間がかかってしまったのだ。ま、全集に収められるほどの本だから一筋縄ではいかなくても当然かもしれないが。

本書は一人の老いた男の回顧談だ。ホテルの給仕から身を立て、一流ホテルのオーナーへと登り詰めた男の。その過程で男がたどる摩訶不思議な体験が、たくさんのエピソードと尽きることのない挿話に埋め尽くされながら、一気呵成ともいうべきスピード感で描かれる。

ホテルの給仕が億万長者になり、人生を語るという構成。ひょっとすると映画好きの方にはピンとくるかもしれない。グランド・ブダペスト・ホテルの名前を。2015年度のアカデミー作品賞にもノミネートされた作品だ。

私も映画館で観たので印象に残っている(レビュー)。グランド・ブダペスト・ホテルは、ウェス・アンダーソン監督自身によるオリジナル脚本を基に制作されたという。だから、本書とグランド・ブダペスト・ホテルとの間には何も関係がない、はずだが、本書がまったく影響を与えなかったとは考えにくい。そう思わせるほど、作風に似通ったところがあるのだ。でも、それはあくまでインスパイアレベルだろう。お互いのシナリオに似通っている点といえば、ホテルのボーイが成長して数奇な運命に翻弄されるところぐらいだろうか。

グランド・ブダペスト・ホテルが、上品さと滑稽さを交えていたのに比べ、こちらは上品さが影を潜めている。本書はなんといえばよいだろう。慌ただしさといえばよいだろうか。何か一人の人間の一生を慌ただしく、そして滑稽かつ一歩引いた目で眺めているような。

ここまで考えて思い至る。本書から受けるイメージとは、チャーリー・チャップリンのフィルムであることに。もちろん、チャップリン作品には、本書ほどあれもこれも盛り込まれているわけではない。だが、あの忙しい動きとそこはかとなくただようペーソスには、本書と通底する何かが感じられる。

繰り出されるエピソードとイメージの氾濫。そして奇矯でユーモラスな登場人物の行動。そこに内面の描写は不要。いや、本書にももちろん内面描写はある。そして、主人公の一人称で語られる本書は、主人公の内面を独白で表す。つまり、映画で言うとナレーションだ。

なぜここまで本書が映像的なのだろう。考えてみると、本書にはとにかく改行が少ない。各パラグラフの塊は一気に書かれ、読者にも一気に読むことを求められる。著者あとがきや解説によれば、本書は18日間で書かれたそうだ。つまり即興の勢いが行間を満たしている。文章のテンポとエピソードの豊富さが絡み合い、それが本書を映像的な内容に仕立てているのだろう。本書は『英国王給仕人に乾杯!』のタイトルで映画化もされており、おそらく映像的には高いレベルの作品に仕上がっていることだろう。

だが、映像的なイメージだけに目を奪われ、本書の隠れたテーマを見過ごすことのないようにしたい。隠れたテーマとは、人生を客観的に見る視線だ。

本書は単にレストランの給仕が奇妙な出来事に振り回されているうちに、成り上がっていくだけの話ではない。主人公のヤン・ジーチェは、あらゆるものを見聞きする。給仕見習いとして、支配人からこう言われる。「まだお前はここじゃ給仕見習いだから、よく心得ておくんだ!お前は何も見ないし、何も耳にしない、と!繰り返し言ってみろ!」(5P)。そしてすぐ「でも胸に刻んでおくんだ。お前はありとあらゆるものを見なきゃならないし、ありとあらゆるものに耳を傾けなきゃならない。繰り返し言ってみろ」(5P) と。

冒頭にあるこの言葉が、本書には一貫して流れている。つまりヤンは、何も見ないし何も耳にしない。これは主観で考えないということだろう。そしてありとあらゆるものを見て聞くというのは、客観的な態度のことではないか。ヤンの行動は本書を通してどこか他人事のようだ。ホテルの支配人からオーナーに上り詰め、ドイツの女性と結婚し、ナチスの暴虐に守られながらユダヤ人からせしめた切手で大金を得、戦後はその経歴をとがめられ、収容所に入れられ無一文となる。

そういったヤンの人生の全ては、自ら進んで動くというより、運命の見えざる手に導かれたかのようだ。ヤンはどこまでも受身を貫き、それが彼の人生を揺さぶる。山あり谷ありの人生を終えようとする彼の心中には諦めも充実感もない。どこか他人事のように自分の人生を振り返る。そもそも私は英国王に給仕した、という題からして他人の行いなのだから。英国王に給仕したのはヤンではなく、スクシーヴァネク給仕長だ。ヤンが給仕したのはエチオピア皇帝のハイレ・セラシエなのに、ヤンにとっては自分ではなく給仕した上司の行為を語るのだ。これを客観的な態度といわずして何を客観的といおうか。

小説というのは話者が他人であれ自分であれ第三者であれ客観的に語ることで成り立つ。そして、それは何も物語を語る時だけに限った話ではない。それは自分の人生を振り返る時の態度にも関係するのではないだろうか。老年になって自分の人生を振り返る。その時に主観的に自分中心で考えてしまうか、それとも高みからの視点で自らを語れるか。そこで人生の締めくくりは全く違ってくる。一説によれば自らを客観的に見る訓練をすると痴呆や老化からは程遠い老後が送れるという説もあるぐらいだから。

本書がグランド・ブダペスト・ホテルと違うのは、自分を客観的に見る視点の面白さ。そして大切さではないだろうか。私はそう思った。

‘2016/01/01-2016/01/09


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