今の社会はこのままでよい。そう思っている人はどれくらいいるのだろう。大方の人々は、今の社会や経済の在り方になんとなく危うさを感じているのではないか。本書は、そんな社会の在り方に疑問と危機感を抱いたテレビディレクターが、ドキュメンタリーとして放映した番組を書籍化したものである。

今の日本社会は資本主義に基づいている。右肩上がりに成長することが前提の社会。その成長の前提が、限りある資源をエネルギーとして消費することで成り立っていることは言うまでもない。

しかし、便利さに身を委ねているとその事に気付くことはない。私も含め、いつかはなくなる資源の上にあぐらをかき、依存する日常。

昔からこの事に気付き警鐘を鳴らしてきた人々は多数いた。しかし、大多数の文明のぬるま湯に浸かる人々の心には響かぬままだった。しかしここに来て、少しずつ未来を憂える意見が注目され始めている。このままでは人類に未来はない、との危機感が少しずつ実感を持って浸透している。

とはいえ、人々に染み付いた文明の快さは容易には拭い去れない。資源を消費し信用貨幣を流通させる今の経済の仕組みを転換することは難しい。それでもなお、違う未来を切り開くための努力は世界のそこかしこで続けられ、それを紹介する映像や文章は求められ続ける。本書は、その一角を占めるに相応しい一冊である。

本書は、NHK広島支局の取材班による特番放送を基にしている。当初は中国山地の山間にある庄原市に住む和田芳治さんの取り組みからこの企画が持ち上がったという。本書も和田さんの取り組みの紹介から始まる。その取り組みとは、エコストーブである。

エコストーブとは一言でいえばリサイクルである。先に、今の経済の仕組みは資源の消費を前提にしていると書いた。遠方のどこかで産出された原油やガス、またはウランから取り出されたエネルギー。これが津々浦々に張り巡らされた送電網を通じて送られる。今の日本の繁栄は、それなくしては成り立たない。和田さんはその仕組み自体は否定しない。否定はしないが、依存もしない。依存せずに済ませられる方法を前向きに探す。その行き着いた結論の一つとして、裏山にいくらでもある枯れ枝を燃やす。それだけで、ガスや電気の替わりとなる。

和田さんは、消費経済から発想を転換するため、言葉も自在に操る。「廃棄物」→「副産物」。「高齢者」→「光齢者」。「省エネ」→「笑エネ」。「市民」→「志民」。本書59ページには和田さんの哲学が凝縮された言葉も紹介されている。「なぜ楽しさばかり言うかというと、楽しくなければ定住してもらえないだろうと思っているからです。金を稼ぐという話になると、どうしても都会には勝てない。でも、金を使わなくても豊かな暮らしができるとなると、里山のほうが、地方のほうが面白いのではないかと私たちは思っています」

たかが言葉も前向きな言葉に変えるだけで印象が変わる。人の心はかように不安定なもの。今の社会を形作る貨幣経済への思い込みもまた同じ。そこからの脱却は、思い込みを外すだけで簡単に実現できる。和田さんの姿勢からはそのようなメッセージが滲み出ている。第一章では庄原市の和田さんの他に面白い取り組みが紹介されている。同じ中国山地にある真庭市の銘建工業の中島さん。製材の過程で出る木屑をペレット状に加工し冷暖房の燃料に利用する。これによって真庭市全体で自然エネルギーの利用率は11%と、日本の平均1%を大幅に上回っている。一般にバイオマスエネルギーには否定的な論調を目にすることが多い。例えばアメリカではとうもろこしをバイオマスエネルギーの原料として使うが、それによって本来食糧として作付けされるべきとうもろこしがバイオマス原料として作付けされ、供給量や市場価格に影響を与える云々。

しかし、製材の木屑や枯れ枝利用であれば、そういった批判は封じ込められるのではないか。原子力や火力発電に成り代わることはないだろうが、風力や地熱や潮汐力発電の替わりにはなり得る。なおかつ、日本の国際収支を悪化させる火力発電用の燃料輸入費用を少しでも減らせるとすれば、普及させる価値はある。

第二章では、国ぐるみで木屑をバイオマス燃料として推進利用しているオーストリアの事例を紹介する。

数年前のユーロ危機において影響を最小限に止め、その経済状態は良好であるオーストリア。その秘密が林業とそこから産み出されるエネルギーにあることが明かされる。国ぐるみで林業を育成し、林業で利益をあげ、林業でグローバル経済から一線を引いた独自の経済圏を築く。本書によると、オーストリアでは再生可能エネルギーが28.5%にも上るのだとか。

ゆくゆくは、原発由来の電力すら完全に排除することも視野に入れているとのこと。国民投票により脱原子力を決議したが、それを実践しているのがオーストリアである。

本書ではオーストリアの代表的な街として、ギュッシングが紹介されている。木材から出る木屑をペレットにし、それを街ぐるみで発電する。外部から購入するエネルギーはゼロ。逆に売電を行い、安定した余剰電力を求める企業の誘致にも成果をあげているという。

バダシュ市長による言葉が本書の100ページに出ている。「大事なのは、住民の決断と政治のリーダーシップだ」

さらに本書は、オーストリアで出ているCLTという木造高層建築も紹介する。鉄とコンクリートいらずで、同じような強度を持つのだとか。耐震性・耐火性も備えており、日本の耐震実験施設で七階建のCLTが震度七の揺れに耐えたのだという。

先にあげた中島さんは、日本へのCLT導入へ意気込んでおられた。すでに日本CLT協会の設立も済ませ、法改正にむけた訴えもされているとか。その後CLTはどうなったであろうか。調べてみようと思う。

本書はここで、中間総括「里山資本主義」の極意と題し、著者に名を連ねる藻谷氏による中間総括を挟む。

中間総括は、一章と二章で取り上げられた内容のまとめだが、それだけには止まらない。かなりの分析が加えられ、中間総括だけで十分書籍として成り立つ内容になっている。特に138ページにある一文は重要である。「われわれの考える「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、お金に依存しないサブシステムも再構築しておこうというものだ」

また、マネー資本主義へのアンチテーゼとして三点が挙げられている。
1 「貨幣換算できない物々交換」の復権
2 規模の利益への抵抗
3 分業の原理への異議申し立て

一章、二章とこの中間報告は今の日本とこれからにとって良き指標となるかもしれない。そのくらいよくまとまり、なおかつ既存概念をうち壊すだけの破壊力も備えている。

三章は、瀬戸内海に浮かぶ周防大島でジャムを作る松嶋さんが主人公だ。新婚旅行で訪れたパリのジャム屋に触発され、大手電力会社の職を捨ててまでIターンした経緯や、そのあとの開業への取り組みなど、サラリーマンに疲弊している方には参考にも刺激にもなるに違いない。まずは都会の常識を取っ払う。さらには、田舎の常識をも取っ払う。ここに松嶋さんの成功の鍵があるように思える。都会の発想では仕入れは安く、製造工程は効率化するのがセオリーだ。田舎の発想では、なるべく店舗は繁華街に、人の集まる場所に構える。しかし、松嶋さんはそのどれも採らない。原料は高く買い、人手を掛けて作り、人家のあまりない海辺の一軒家に店をだす。

ここで、本書は重要な概念を提示する。ニューノーマル。震災以降の若者たちの新たな消費動向のこと。要は本書が目指すライフスタイルであり、グローバル経済、消費前提、マネー資本主義とは対極の消費動向のこと。成長が前提の経済とは対極の生き方を選ぶ若者が、今増えているという。

第四章は、”無縁社会”の克服と題し、里山での人々のつながりを豊かにする取り組みに焦点を当てる。持ちつ持たれつという日本的な近所付き合いへの回帰。これもまた、金銭換算しない里山資本主義の利点。

第五章は、「マッチョな二〇世紀から「しなやかな二一世紀」へ、と題した次世代社会システムの提言だ。とはいえ、その概念のパイオニアは本書ではない。すでにスマートシティという言葉が産まれている。スマートシティプロジェクトという公民学産の連合体が結成され、その中で議論がなされている。それも日本有数の企業メンバーによって。スマートシティとは本書によれば、巨大発電所の生み出す膨大な量の電気を一方的に分配するという20世紀型のエネルギーシステムを転換し、街中あるいはすぐ近くで作り出す小口の電力を地域の中で効率的に消費し、自立する二一世紀型の新システムのこと。

スマートシティの精神と里山資本主義には、さまざまな符合があることが本章で指摘される。今の疲れきった都会のインフラやそこで働く人々。それに対し、スマートシティまたは里山資本主義の考えが広く行き渡った暁には、日本は持続性のある社会として住みよい国となる。本書が一貫して訴えてきたのも、都会中心の生活からの脱却なのは自明だ。私が強く賛成したいのもこの点だ。

最終総括として、今の日本に対する楽観的な提言がなされる。曰く、日本はまだ可能性も潜在力も秘めており衰退などしないという。さまざまな経済指標が掲示され、さまざまな角度から日本の力が残っていることが示される。「日本経済ダメダメ論」の誤りとして三節に渡って日本経済悲観論者へのダメ出しを行うこの章もまた、本書において読むべき章だろう。特に日本の大問題とも言える少子化問題についてもそのプラス効果が謳われている。ただし、それにはマネー資本主義からの脱却が必要と著者は指摘する。そして2060年。人口の減った日本からは様々な問題が去っていることを予言している。

今の日本は灰色の悲観論が覆っている。私は悲観論には与したくない。だからといって、今の日本がこのままでいいとは全く思わない。要は行動あるのみ。今の経済社会のあり方は早晩崩壊するだろう。それは私の死んだ後のことかもしれない。しかし、今動けば崩壊を回避できるかもしれない。キリバスが海面下に没するのは遠い異国の話ではない。同じ目に日本が遭わないとは限らない。いや、津波という形で間違いなく被害に遭うだろう。しかし、本書を読む限り日本にはまだ望みがある。私に今すぐ出来ることは、本書で取り上げられた取り組みを少しでも広めること。そう思って本稿を書いた。

‘2015/04/01-2015/04/07


コメントを残して頂けると嬉しいです

読ん読くの全投稿一覧