上巻で著者がまき、そして丹念に育てた疑いの種。
その疑いは、藤田優馬からは同居する大西直人へ向けられ、洋平からは娘の同棲相手の田代へと向けられ、泉からは無人島で出会った田中へと向けられる。はらむ闇を濃くしながら。

下巻では、登場人物たちの心に巣食い始めた相手への疑いが、当の本人を翻弄してゆく様子が描かれる。疑いが心に巣くい、行動は乱れる。その結果、疑いの対象となる人物との関係もぎくしゃくする。

疑いによって壊されるもの。それは、安心できる関係だ。
安心できる関係は、人が社会を営む上で欠かせない。
日本の文化では特に安心が重んじられる。安心とは同じ組織の中で長い時間をともに過ごすことで醸成されてゆく。
欧米のように契約に裏付けられ、個人単位で身につける信頼に基づいた関係とは違う。

本書の三つの物語に登場し、周囲の人々を不安に陥れる人物。彼らは何かの屈託を抱え、容易に素性を明かそうとしない。信頼はもちろん、安心の属性すら備えていない。
社会や組織にとって安心しにくいのは、外部からやってきて日が浅い人物だ。
いくら気を許したようでも、安心が根本にない関係はもろい。
一度、心に疑いが生じた時、まっさきに疑いの対象となるのは、安心が醸成できていない人物だ。

日本人の気質とでも呼べそうな、安心の上に乗ったもろさを著者は三つの物語の中で丹念に書いてきた。
ひょんなことから生じた一期一会の縁。その縁が安心の域に達する前にニュースに流れた疑いのタネ。その疑いが登場人物の関係をかき乱してゆく。

果たして山神一也は誰なのか。徐々に捜査の網が狭まり、読者に山神の身体の特徴が開示されてゆく。それは三人の怪しげな男たちにも少しずつ備わっている。
そうやって情報を小出しにしながら、著者は読者の興味を逃がさない。繊細かつ絶妙に著者は物語を進める。

そもそも、本書のタイトルである「怒り」とは何か。
それは、山神一也が逃亡する前に殺した夫婦の家の壁に大きく書きなぐった文字だ。
怒りとは、何に対して向かった感情か。他人の振る舞いへ向けられた怒りなのか。それとも自分の置かれた境遇への怒りなのか。あるいは自分の不甲斐なさに憤る怒りなのか。そもそも社会の仕組みへの怒りなのか。

山神は、匿名掲示板に罵倒と呪詛に満ちた書き込みを繰り返していたという。それらの書き込みで山神は他人の振る舞いをあざ笑っている。
そこから感じられるのは山神の視野の狭さだ。自分を客観視できず、他人の振る舞いの欠点をあげつらい、攻撃することに終始する。
山神の視野には自分の振る舞いが今の境遇を招いたという反省はないはずだ。それどころか、山神には社会の仕組みも見えていないはずだ。
そうした山神の怒りの根源には、他者への共感の欠如があると言える。

では、他者への共感は簡単に身につけられるものだろうか。それは正直、難しい。生まれてから保護者に養育され、地域や学校で対人関係の機微を学んでいればよいが、その機会が与えられなかった場合、共感を欠いたまま成長してしまう。
仮に生まれてからの環境によって相手の気持ちを理解できたとする。それでも、相手の気持ちを慮るには、まず相手の気持ちを読み取る能力が求められる。
それだけならよいが、世の中を生きていくにはさらに複雑な思惑としがらみがからんでくる。ましてや、本書で描かれるように疑心が紛れ込むと、相手を理解することはますます容易ではなくなる。

私が思うに、山神の抱く怒りとは、自分や他人や社会に向けられたものというよりも、もっと根源的なもの。つまり、自分の自我と周りの社会が意識で分断されていることへの怒りではないだろうか。
それは自我と世界のあり方にまで影響する完全な断絶だ。そこにはどうしようもない隔たりがある。
いくら自我を解放しようが、守りを固めようが、世界はただそこにある。他者も世界も含めて。

生まれてきた以上、全ての自我には世界は広がっている。自我と世界の間には、絶対に破れない壁がある。
そのどうしようもない無力さの中で生きていかねばならない不条理。それを山神は怒りとして表したのではないだろうか。
彼がネットの掲示板に匿名で書き込む呪い。
その対象は一見すると他者に向いているように見えるが、実は違う。
他者の行動をいくらあげつらっても何も変わらない外の世界への絶望があるのだと思う。

その怒りは夫婦を惨殺し、死の現実を味わおうとしても簡単には消え去らない。
他者を殺すことによって、自我と世界の間の壁を壊そうとする衝動。死を自らのうちに取り込む試み。それらはしょせん叶わぬ願いだ。
死とは自分が死ぬことによってしか経験できない。
そして、死ぬことによって自我と世界が融和できるのかは、誰にも分らない。
それを証言できた人間は古来から誰一人としていないのだから。

絶対的な矛盾におかれながら、なおも生存本能のおもむくままにどこかに生きている山神。
本書の三つの物語のどこかに山神はいる。普通に会話もできるし、思いやりもできる人間として。
著者の筆は少しずつ山神の正体を暴きたててゆく。
そして本書の結末は予想もつかない方向へと向かう。

果たして山神の自我は世界と融和できたのだろうか。
そのことを著者は明かさない。それどころか山神の内なる心理を描くこともしない。
彼の心の闇はただ、壁に書き殴られた怒りという言葉でしかわからない。
そして世の中の大半の人は、そうした子供じみた暴言を発することもなく、ひたすら社会生活を営みつつ、内面で疑惑の種を育て続けている。
社会とは、人間の関係とはなんと難解で、罪作りなのだろう。

そのような宿痾ともいうべき人と社会のかかわり。それを行方不明の犯人を配置することであぶりだした本書は傑作だと思う。

‘2019/02/19-2019/02/20


カテゴリ: 読ん読く.
最終更新日: 4月 27, 2020

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