横浜の港の見える丘公園の一角に、大仏次郎記念館はある。著者の仕事が収められた文学館だ。こちらの記念館に訪れたのは2015年10月末のこと。本書を読み始める50日ほど前だ。館内では学芸員の方に丁寧に説明していただき、ただ展示品を眺めるだけにとどまらず、著者の遺した足跡をより深く理解できた。

こちらに訪れる前、私が著者に対して知っていたのはわずか。通俗・歴史小説の書き手としてなんとなく認識していた程度だった。しかし記念館の展示を観て、私の認識がいかに浅いレベルであったかを知った。著者は通俗・歴史小説の書き手としても一流だったが、それだけではない。日舞・歌舞伎からバレエ・リュスなどの西洋舞踊にも造詣が深かった。また、フランスの近現代史にも通じ、フランスに関する多彩な角度からの書物を著している。また、純文学の分野でも傑作をものしたかと思えば、一流劇場で掛かるような戯曲も発表している。さらには「天皇の世紀」という日本の近代史をライフワークとしていた。そして本書のようなエッセイも多数残している。実は横浜だけでなく、日本の文学史上でも有数の巨星であったのだ。

今回、こちらの記念館を訪れるのは初めてのこと。しかもこちらの記念館を訪れたのは、近所の神奈川近代文学館で催されていた柳田國男展の会場と間違えてだった。しかし、私にとっては怪我の功名では済まぬほどの深い印象を著者の業績から受けた。

本書は著者が残した多数のエッセイの中の一つに数えられる。稀代の猫愛好家として知られた著者が発表した、猫に関するエッセイ・小説・童話を集めた一冊である。記念館でも著者と猫の関わりは展示されていた。しかし、著者と猫の関わりを知るには展示物よりも本書の内容が全てだ。全編とにかくねこねこねこネコ子猫猫ネコ。猫しか出てこないのである。

本書の中のエッセイにはさまざまなネコエピソードが登場する。

「来世は猫だ。」という書き出しから始まる『ホテルの猫』
「この次の世には私は猫に生まれて来るだろう。」と終わる『台風記』
「私は物など書かないでネコのように怠けて好きなことをして日だまりで寝ていたい」と始まる『わが小説-スイッチョ猫』
「女房の話だと、私の家に住んだ猫の数は五百匹に余る」という文が冒頭に来る『白ねこ』

全部で58編の随筆が猫の事。さらに小説が一編、童話が四編。いずれも猫が登場する。

その中にはフランスにあるル・シャ家という猫を姓とした一族についてのエッセイが2つ。ほぼ同じ内容で載っているのもご愛敬だろう。『ねこ家墓所』『猫家一族』

あまりに猫好きが有名となり、ひっきりなしに捨て猫を敷地に投げ込まれる。「猫が十五匹以上になったら、おれはこの家を猫にゆずって、別居する」と宣言するほどの猫屋敷。『猫の引越し』

私は今まで猫好きな文豪とは内田百閒氏のことだと思っていた。内田百閒氏といえば『ノラや』である。愛猫ノラが家出したことで取り乱し、辺りを探し回る顛末を延々と書き連ねる百閒氏にネコ好きで勝る文豪はいるまい、と。しかし著者もまた猫好きでは百閒氏に劣らない。そして百閒氏のようにネコ可愛がりにメロメロになるのではなく、猫に対して人間の矜持を保ちつつ、ネコに溺れている著者の様子がまたよい。

猫は人間に対して媚びないから猫なのである。同じように人が猫に対して媚びてはいけない。私も猫好きだからその点は良く分かる。その点、著者の猫に対する態度は本書のエッセイを通して凛としていて気持ち良い。猫には媚びないのが一番である。

また、これは猫とは関係ないが、本書の文章は実に読みやすい。私は著者のことをもう少し古い時代の方と思い込んでいた。しかし著者の文体は漢文調でも文語調でもなく、分かりやすい口語体で統一されている。これは通俗小説の書き手として分かりやすい文体に気を遣っているからだろう。

巻末に収められた『白猫』という小説はエッセイに比べてずいぶん長めの分量となっている。短編と中編の間くらいの紙数はあるだろうか。その内容とは、戦時中から戦後の横浜を生きる敏子の目からみた、銃後の市民の戦争や軍隊に対する本音が描写されたものだ。昭和二十年の十月から発表を始めたというから、敗戦後すぐである。空襲下、統制され文筆活動を制限されていた著者の鬱々とした気持ちを発散させるような、戦時下の窮屈さや軍部の独走を批判する内容となっている。この物語において敏子のささくれた心を癒す動物として白猫が登場する。

童話四編も実によい。中でも著者自身がエッセイ『わが小説-スイッチョ猫』で自賛する『スイッチョ猫』は今の世でも通用する優れた童話だと思う。私は『子猫が見たこと』という復員軍人が家に帰ってくる様を描いた一編の童話にも印象を受けた。

没後40年を過ぎた今、著者の名前はだんだんと忘れられていきつつある。その多数が絶版になった著者の作品の中でも、本書はロングセラーとしての扱いを受けているらしい。本書を読むとロングセラーになっている理由がよく分かる気がする。今後、私がネコを描いたエッセイについて良いのない?と聞かれたら本書を薦めようと思う。

‘2015/12/12-2015/12/16


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