本書は実際に読んだほうがいい。読んで、じっくりと味わったほうがいい。そして、食べることの意味をかみしめた方がいい。本書はそんな小説だ。

インド人の彼氏にある日突然捨てられた倫子。ふるさとに帰り、私生児として産んでくれたものの、心が全く通わない母の家で居候し、食堂をオープンする。

その食堂の名は、食堂かたつむり。

振られたショックで話せなくなった彼女は、母の愛豚エルメスの飼育をしながら、豊富な食材と素朴で温かみのある里の人々に支えられ、一日一組限定で心のこもった料理を作る。それこそ全身全霊を掛けて。ずっと守り続けていた祖母からの糠床を基本に、メニューもないまま、その日の食材によって料理を変える。おもてなしは素朴だが、食べものへの感謝の気持ちが詰まった料理はやがて評判を呼び・・・という内容だ。

料理を作ること。料理を食べること。人が生きるということは突き詰めて行けばそれしかない。情報だ、地位だ、名誉だという前に、人はまず物を食べる。それによって人は生きる。あるいは生かされる。生きるためには限りある命を奪い食材とする。それを人は原罪と呼ぶのだが、本書は現在という重いテーマを問う前に、何よりもまず生きるということの根源を見つめる。生きるとは活きるに通じ、生かされるとは活かされるに通じる。

単なるグルメに堕さず、料理が人を幸せにするということの意味、料理を食べるという営みにはこんなに素晴らしいストーリーが流れているのだよ、という著者の想いが伝わってくる。

だが、そんなじっくりとした歩みは、終盤から結末へ掛けて急展開を見せる。怒涛のような勢いで進んでゆく筋。急ぎ足になるあまり、お涙ちょうだい的な作りになってしまったことは否めない。こういう展開もはまる人にははまるのだろう。だが、折角ここまでじっくり弱火でトロトロと煮込みつつ育ててきた物語は、結末に至るまでじっくりと料理して欲しかった。とろとろと煮込んだ料理を最後の最後になって強火で油を注ぎ、フランベしたら焦げが付いてしまった。私にとってはそういう読後感だった。途中までが良い感じだったので、そこが残念。

ただ、救いなのは急展開の中にあっても、語り口はあくまでスローな風味を失わなかった。前半のゆっくりじっくりとした語り口に浸れるものならいつまでも浸っていたい。そう思わせる魅力が本書にはある。そのゆるりとした流れの中で、じっくりと自らの人生の意味に思いを馳せたい、と思わせるだけの魅力が。そして、本書からは今自分が生きていられることの喜びを感じ、生かされていることの意味を知りたい、とまで思わせられる。

生きるということは綺麗ごとだけでない。残酷さや汚さや不条理もある。しかし、それでもなお人は物を食べる。食べて生きる。本書は決してメルヘンチックなほのぼの物語ではない。が、生きるだけではなく活かしたい。生かされるだけでなく活きたい、というメッセージが込められている。それが本書である。

できれば、結末の急展開を終えた後は、もう一度最初から読みなおすことをお勧めしたい。

‘2015/6/8-2015/6/11


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