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心霊電流 下


二人のなれ初めから、約二十年の間、離ればなれになっていたジェイミーとジェイコブズ師の数奇な縁。
一度は身を持ち崩しかけていたジェイミーは、再会したジェイコブズ師から手を差し伸べられる事で身を持ち直す。そして、それを機に二人の縁は再び離れる。

ジェイミーは、ジェイコブズ師から紹介を受けた音楽業界の重鎮のもとで職を得て、真っ当な生活を歩み始める。そして数年が経過する。
ジェイミーが次にジェイコブズ師の名を目にした時、ジェイコブズ師の肩書は、見せ物師から新興宗教の教祖へと変わっていた。電気を使った奇跡を売り物にした人物として。

かつて信仰に裏切られたジェイコブズ師が、今度は自ら信仰の創造主となる。その動機には何やら不穏なものを感じさせる。
それどころか、ジェイコブス師の弁舌に魅せられたコミュニティまでできている。太陽教団やマンソンが率いた教団のような。
ジェイミーは、ジェイコブズ師との数十年にもわたる因縁に決着をつけるため、再び会いにゆく。

老いたジェイコブズ師は、自らの研究の集大成として、ジェイミーをとある場所へと誘う。
そこは、彼らが最初に出会った街の近くにある、雷を集める自然の避雷針スカイトップ。
ひっきりなしに雷が落ちるこの場所を舞台に、ジェイコブズ師は最後の忌まわしい実験に乗り出す。
それはまさに、神も恐れぬ冒涜。おぞましく不吉な結末が予感できる。

この結末は、著者が今までの傑作の中で描いてきたカタストロフィーと比べても遜色ないっq。

ただ、今までのカタストロフィーは、壮健な人々によって演じられてきた。
それに比べて、本書では老いてゆくジェイコブズ師によって成されてゆく。そのため、演者としての迫力は弱い。
ただ、本書で展開される世界の秘密のおぞましさ。そこにホラーの帝王である著者の本領が発揮されている。

ジェイコブズが呼び出したおぞましき世界。そこでは、神の冒涜を主題とした本書のテーマを如実に体現した、究極の終末とも言える世界だ。
神の救い、神の恩寵、神の御手。それはどこにもない。ひたすらに救いようのない世界。
私たちが信ずる来世のおぞましさ。
今まで、神の名において未来への希望を掲げていた教団は、神の名を借りて、人々をたぶらかしてきた。

われわれは何のために生き、そして何のために死んでいくのか。
本書の結末は、そのような問いをはねつけ、絶望に満ちている。
果たして、ジェイコブズ師が一生をかけて神に背き続けた復讐は、この世界を呼び出す事によって成就したのだろうか。
なぜ、私の妻子は無残に死ななければならなかったのか。なぜ私はそれほどまでの仕打ちをくだされなければならないのか。私が神に何をしたというのか。
絶望と呪いに満ちたジェイコブズ師による実験。
その目的が残酷な現実とは違う、理想の世界を見ることにあったとすれば、神の虚飾の裏にあるおぞましい世界を呼び出した事は、牧師の人生にとって最後のとどめとなったはずだ。

本書は、あくまでも神の不在と神への冒涜が主題となっている。
もちろん、本書で描かれた世界が真実とは限らない。来世は誰にも見えない。
だが、神なき世界の真実とは、案外、このようなものなのかもしれない。

本書のカタストロフィーは、それを主宰するジェイコブ師が老いているため、迫力に欠ける事は否めない。
だが、現れた世界の圧倒的な欠乏感。そこに、今までの著者の作品にはない恐ろしさを感じる。

それは、上巻のレビューにも書いた通り、ホラー作家として突き抜けた極みだ。
神の徹底的な否定。そして、私たちが真実と信じているはずの科学技術、つまり電気が引き起こす奇跡の先に何が待っているのか。
本書は著者による不気味な予言ではないだろうか。

あわれなジェイコブズ師がまだ敬虔な牧師だった頃、ジェイミーたちに示した電気じかけのキリスト。
それはまさに、今の世の中に氾濫する価値観の象徴である。
私たちは一体、何を頼りにこれからの世界を生きていれば良いのだろうか。
宗教もだめ、科学技術もだめ。では何が。

そんな戸惑いを尻目に、時間は私たちを等しく老いへと追いやる。
下巻では、上巻でジェイミーの初体験の相手となったアストリッドが老いて死に瀕した姿で登場する。
その残酷な現実は、まさに本書のテーマそのものだ。
人は誰もが老い、そして誰もが取り返しのつかない人生を悔やむ。誰もその生と時間を取り戻すことは不可能だ。

結局、人間にとって唯一の真理とは、時間が人を死に追いやってゆく事に尽きるのかもしれない。
だが、人はその事実を認めようとせず、欲望や見栄や見かけの栄華を追い求める。ある人は神や宗教を奉じ、自ら信じたものを信じて時間を費やす。

そのような人生観にあっては、死さえも救いとなりうる。本書には何度か、このような文句が登場する。
「永遠に横たわっていられるなら、それは死者ではない。異様に長い時の中では、死でさえも死を迎えうる」(263ページ)

それに比べ、ジェイコブス姿が呼び出した世界の寒々としたあり様。それはまさに無限の生。無限に苦しみの続く生なのだ。死してのちも続く無残な生。

おそらく著者は、老境に入った自らの人生を顧み、本書のような福音のない世界を著したのだろう。
そして、その事実に気づくのはたいていが老年に入ってからだ。
私はまたその年齢に達しておらず、自分の人生を充実したものにしようと、一生懸命、日々をジタバタと生きている。
私の考えが正しいのか、それとも間違っているのか。それは死んでからの裁きによって決まるはずだ。そもそも永遠の無が待っているだけかもしれないし。

本書に唯一の救いがあるとすれば、救われない未来が待っていたとしても、本書によってある程度は免疫が得られる事だろうか。
でも、著者は神の背後に覆い隠されていた言いにくいことをズバリと書いた。本書は、ホラー作家としての著者の畢生の作品だと思う。
著者にとって、もはや思い残すところがない。そう思う。

‘2019/5/19-2019/5/20


任務の終わり 下


本書では、上巻で研がれたハーツフィールドの悪の牙が本領を発揮する。
人々を自殺へと追い込む悪の牙が。
ハーツフィールドの狡知は、旧式のポケットゲーム機ザビットのインストール処理を元同僚の女性に依頼する手口にまでたどり着く。

そのインストールが遠隔で実現できたことによって、SNSやブログ、サイトを活用し、ハーツフィールドは自らの催眠処理が埋め込まれたソフトを若いティーンエイジャーに無差別かつ広範囲に配り、自殺願望を煽る手段を手に入れた。

さらに、身動きならないはずのハーツフィールドの肉体から、他の肉体の人格を乗っとる術に磨きをかける。その結果、自らの主治医であったバビノーや、病院の雑用夫の体も完全にのっとることに成功する。
ところが、そんな恐ろしい事態が進んでいることに誰も気がつかない。病院の人々や警察までもが。
何かがおかしいと疑いを抱きつつあるのはホッジズとホリーだけだ。

果たして、ハーツフィールドの狡知をホッジズとホリーは食い止められるのか。
本来ならば、本書にはそうしたスリルが満ちているはずだ。
ところが、著者の筆致は鈍いように思える。
かつての著者であれば、上巻でためにためたエネルギーを下巻で噴出させ、ジェットコースターのように事態を急加速させ、あおりにあおって盛大なカタストロフィーを作中で吹き荒れさせていたはず。
だが、そうはならない。

『ミスター・メルセデス』で描かれていたハーツフィールドは、頭の切れる人物として描かれていた。
ところが、脳の大半を損ねているからか、本書のハーツフィールドにすごみは感じられない。
ハーツフィールドの精神はバビノーの肉体に完全に乗り移ることに成功する。
とはいえ、そこからのハーツフィールドはいささか冴えない。
そればかりか、ハーツフィールドはおかしなちょっかいをかけることでホッジズにあらぬ疑いを持たせるヘマをしでかす。
かつての著者の諸作品を味わっている私からすると、少し拍子抜けがしたことを告白せねばなるまい。

本書は、ハーツフィールドがどうやって人々にソフトウエアを配布し、自殺に追い込むか、という悪巧みの説明に筆を割いている。
そのため、本書にはサスペンスやアクションの色は薄い。著者はスピード感よりもじっくりと物語を進める手法を選んだようだ。

おそらく、著者は最後まで本書をミステリーとホラーの両立した作品にしたかったのだろう。
それを優先するため、ホラー色はあまり出さず、展開もゆっくりにしたと思われる。
老いたホッジズと、精神だけの存在であるハーツフィールドの対決において、ど派手な展開はかえって不自然だ。
本書はミステリー三部作であり、ミステリーの骨法を押さえながら進めている。

上巻のレビューでも少しだけ触れたが、本書には技術的な記載が目立つ。
どうやってSNSに書き込ませるか、どうやってソフトウエアを配布するか。
そうした描写に説得力を持たせるためもあって、本書はほんの少しだが理屈っぽい面が勝っている。

理屈と感情は相反する。
理屈が混ざった分、本書からは感情を揺さぶる描写は控えめだ。
ところが、感情に訴えかける描写こそ、今までの著者の作品の真骨頂だったはず。
感情と理屈を半々にしたことが、本書からホラーのスピード感が失われた原因だと思う。
本書に中途半端な読後感を与えるリスクと引き換えに、著者はミステリーとしての格調を保とうとしたのだと私は考える。
だが、それが三部作の末尾を飾る本書に、カタルシスを失わせたことは否めない。

だが、その点を踏まえても本書は素晴らしいと思う。
本書の主題は、ホッジスという一人の人間が引退後をどう生きるのかに置かれている。

それは本書で描いているのが、ホッジズの衰えであることも関わっているのだろう。
より一層ひどくなっていくホッジスの体の痛み。それに耐えながら、ホッジズはハーツフィールドの魔の手から大切な人を守ろうとする。ホッジズの心の強さが描かれるのが本書だ。

ホッジズの死にざまこそ、本書の読後感にミステリーやホラーを読んだ時と違う味わいを与えている。
そうした観点で読むと、本書のあちこちの描写に光が宿る。

ホッジズの心の持ちようは、ハーツフィールドの罠によっていとも簡単に心を操られるティーンエイジャーの描写とは対照的だ。
ハーツフィールドがゲームを通じて弱い心にささやきかける自殺の誘い。
その描写こそ、著者の作家としてのテクニックの集大成が詰まっている。
だが、巧みな誘惑に打ち勝つ意志の強さ。それこそが本書のテーマだ。

さらに、その点からあらためて本書を読み直してみると、本書のテーマが自殺であることに気づく。
『ミスター・メルセデス』の冒頭は、警察を退職し、生きがいをなくしたホッジズが自殺を図ろうとする場面から始まった。
ところが、三部作を通じ、ホッジズは見事なまでに生きがいを取り戻している。
そして、死ぬ間際まで自らを生き抜く男として描かれている。
それは、あとがきにも著者が書いている通り、生への賛歌に他ならない。

人はどのような苦難に直面し、どのような障害にくじけても、自分の生を全うしなければならない。
それが大切なのだ。
何があろうと人の精神は誇り高くあるべき。
人は、弱気になると簡単に死への誘惑に屈してしまう。
そこにハーツフィールドのような悪人のつけ込む余地がある。
上巻のレビューにも書いたように、電話口で誘い出そうとする詐欺師にとって、人の弱気こそが好物なのだから。

また、本書の中でザビットと呼ばれるポケットゲーム機やゲームの画面が人の心を操るツールとなっているのも著者の意図を感じさせる。
いわゆる技術が人の心に何を影響をもたらすのか。
著者はデジタルを相手にすることで人の心が弱まる恐れや、情報が人の心を操る危険を言外に含めているはずだ。

私も情報を扱う人間ではあるが、情報機器とは、あくまでも生活を便利にするものでしかないと戒めている。
それが人の心の弱さをさらけ出す道具であってよいとは思わない。
ましてや、心の奥底の暗い感情を吐き出し、自分の心のうっぷんを発散する手段に堕してはならないと思っている。

技術やバーチャルに頼らず、どうすれば人は人であり続けられるのか。
本書が描いている核心とは、まさにそうした心の部分だ。

‘2019/4/25-2019/4/26


任務の終わり 上


『ミスター・メルセデス』から始まった三部作も本書をもって終わる。

前作の『ファインダーズ・キーパーズ』のラストは、昏睡し続けるミスター・メルセデスことハーツフィールドの不気味な姿を暗示するかのようにして幕を閉じた。
『ミスター・メルセデス』では、ホリーがハーツフィールドの頭部に叩き込んだ一撃によって大量殺戮の惨劇はすんでのところで食い止められた。
脳のかなりの部分を破壊されたハーツフィールドは、植物状態で昏睡し続けているはずだった。

本書は、意識を取り戻したハーツフィールドの視点で物語が始まる。脳に障害を持ったまま、意識を取り戻したハーツフィールド。脳に負った重大な障害により、ハーツフィールドの肉体は機械によって生かされているに過ぎない。
復讐の念だけが肥大したハーツフィールドの歪んだ想念は、ハーツフィールドの主治医である神経科医師のバビノーが違法に処方した薬によって、特異な能力を覚醒させる。
その結果、ハーツフィールドは人の心を操る術を身に付ける。

古いポケットゲーム機のゲームの画面から、人の脳を催眠状態に導き、人の脳を操る能力。それによって殺人鬼であるハーツフィールドことミスター・メルセデスが再び蘇る。

その設定は、本書を正統なミステリーの枠からはみ出させる。
『ミスター・メルセデス』は、正統なミステリーとして著者にエドガー賞を受賞する栄誉を与えた。
それは、著者の筆力がミステリーの分野でも認められた証であり、もちろん素晴らしいことだ。
だが、著者の本分がホラーにあることは言うまでもない。
人の心を操れる殺人鬼、との非現実的な設定は、著者がホラーの分野に戻ってきた事を意味する。著者のファンにとっては喜ばしい事でもある。

ところがホラーに戻ってきた著者は、本書を荒唐無稽な設定にしない。そこが著者の素晴らしいところだ。
ハーツフィールドの体は自ら動かせられない。だから殺人鬼にとって制約は多い。
人の心に操れるようになったとは言え、体が動かせない以上、手段は限られる。
その手段とは、人の心を催眠状態に導くゲームしかない。
そこをどうやってハーツフィールドが成し遂げていくのか。これが本書の主眼だ。

本書は、ハーツフィールドによって徐々に操られていく人々を描く。ハーツフィールドの意志が徐々に彼らの意思を侵食してゆくにつれ、二つの意思が混じり合ってゆく。
それを書き分けてゆく手腕は、著者の筆力の真骨頂だ。
本書には著者がかつての作品で描いたような、原色のけばけばしさを想起させるような描写はあまり現れない。
あくまでも端正な描写でありながら緊張感を保っている。

その中でどうやっハーツフィールドが人の心を操るのか。どうやって人の脳を催眠状態にもっていくのか。そしてどのようにしてゲーム機の中身を改造し、それを人々に広めていくのか。
そこには、ハーツフィールドの職歴にあったプログラマーとしての知識が欠かせない。
そこの部分を荒唐無稽にせず、あくまでも理路整然としたミステリーの体裁を崩さないところがとてもよい。

一方、ファインダーズ・キーパーズ探偵社のホッジスとホリーの2人は、コンビネーションが板につき、順調に業務をこなしている。
そして、『ミスター・メルセデス』ではホッジスは、定年で退職した刑事との設定だった。
そこから長い年月がたち、ホッジズの肉体はさらに老い、異変が生じる。ホッジズが残された人生の中で何を成し、何を防ぎ、何を残してゆくのか。そして何を引き継いでいくのか。
それが本書の読み応えだ。

本書はホッジズとハーツフィールドが繰り広げる頭脳と頭脳の戦いとして読める。
前作の欠点として、登場人物がベラミーとホッジズとホリー、そしてピートとアンディの限られた人数に絞られており、人物の動きに予定調和が見られ、著者によるご都合主義が見られると書いた。
本書には、そうした欠点はあまり見られない。

ハーツフィールドが脳に障害を負ってから、少しずつその能力を悪事に発揮してゆく様がじっくりと時間を掛けて描かれている。
そこに不自然な印象や著者のご都合主義は感じられない。
人を催眠に掛け、操るスキルがハーツフィールドの中で熟していく様子が気を遣って書かれている。

ホラーの要素も盛り込みつつ、そうした配慮が本書をミステリーとして成立させている。

本書がテーマにしているのは、人の心の強さと弱さだ。
人が自我を保ち続けるためには、何が必要なのか。
そしてその鎧を壊すために最も有効な方法とは何か。
著者は長年の作家生活で得た心理学の知識の全てを本書に詰め込んでいるように思える。

人の心がいかに弱いものか。
それは私たち自身がよく知っている。
例えば催眠状態とは、人が意識する事もなしに、簡単に自らにかけることができる。
暗示とは、自分への罠でもある。
例えばテレビをボケーっと見る。例えば携帯をなんとなく眺める。それだけで人の心はたやすく無防備な状態になる。

心理とは人の心にとって弱みであり、強みでもある。
ハーツフィールドのように超能力を使うことがなくとも、私たちは弱みにつけ込まれやすい。
電話越しに聞く詐欺師の口調、いわゆるオレオレ詐欺の類の手口が一向に減らない事でもそれは明らかだ。
不意をつかれた時、弱みをつかれた時、狼狽した時、人は簡単に自らの弱さをさらけ出す。
それは、ハーツフィールドのような悪意を持つ人物には格好の弱点だ。

本書の設定を荒唐無稽と片付けるのはたやすい。
だが、それを絵空事として片付けていてはもったいない。
本書をせっかく読んでいるのだから、スリルを愉しみながら学ぶべきこともあるはずだ。
どうやって自分の心の弱さをさらけ出さずに済ませるか。
ホッジズのように体に異変を覚えつつも、信じる者のために突き進む意志の保ち方とは何か。
本書からは得る物が多い。

‘2019/4/23-2019/4/24


ファインダーズ・キーパーズ 下


上巻を使って、ベラミーの凶行の動機がどうやって生まれたのか、そしてベラミーの狂気がピートとアンディにどういう運命をもたらそうとするかを描いた著者。

ピートとその家族に害を成すベラミーに対するは、前作と同じくビル・ホッジズの役目だ。上巻のレビューで、本作を読むまえに前作『ミスター・メルセデス』は読んだほうが良いと書いた。それは『ミスター・メルセデス』で果たしたホッジズの役割が何度も言及されるからだ。本書の肝はベラミーがロススティーンの残した未発表原稿への執着に尽きる。そのため、上巻の多くはロススティーンに対するベラミーの殺害の一部始終と、ピートが未発表原稿を見つけ、なぜそれをアンディーが営む稀覯本の店に持ち込もうとしたかの理由を描くことに費やされている。

そのため、上巻では探偵役であるホッジズは多く登場しない。そのかわり『ミスター・メルセデス』のエピソードを何度もはさむことで、ホッジズの人となりを描いている。著者はホッジズのことは『ミスター・メルセデス』を読んで理解してほしい。あらためて本書で紹介するには及ばない、と考えているのだろう。

下巻では、ホッジズに相談が寄せられるシーンで始まる。相談を持ちかけたのは、ピートの妹ティナ。ティナの友人が『ミスター・メルセデス』で重要な役割を果たし、ホッジズの友人であるジェロームの妹のバーバラだ。兄の不審なふるまいに不安を覚えたティナがバーバラに相談し、二人でホッジズのもとへ訪ねて来る。そこからホッジズはこの事件に関わってゆく。ここにきて『ミスター・メルセデス』で登場した主要な人物が顔をそろえ、物語が動き始める。このあたりの人物描写は『ミスター・メルセデス』を読んでいないと理解できないと思われる。なので、前作は読んでおいた方が良い。

上巻のレビューにも書いた通り、ベラミーの凶行がアンディーの稀覯本屋で繰り広げられる。そこにやってきたのがピート。当初、未発表原稿をアンディーの店に持ち込んだところ、盗んだ品ではないかと逆に脅される。それに対し、精一杯虚勢を張ろうとしていたピートが見たのは酸鼻に満ちた店内。ベラミーに遭遇したピートは、かろうじて惨劇の場から逃げ出すことに成功する。だが、ベラミーはピートがかつて自分が住んでいた住まいの今の住人であることを知る。やがてその家はベラミーに蹂躙される。さらに、万が一に備えてピートが未発表原稿を隠しておいた娯楽センターを舞台に、ベラミーの未発表原稿への執念は燃え盛る。

なお、本書のエピローグでは、『ミスター・メルセデス』その人が登場する。ホリーによってすんでのところで凶行を邪魔され、逆に脳が壊れるほどのダメージを負わされたブレイディ・ハーツフィールド。彼の登場は唐突なので、このエピローグは前作を読んでいないと全く理解できないはずだ。上巻のレビューで本書には細かな傷が見受けられると書いたが、これもその一つ。今までの著者の作品はキャッスル・ロックやデリーといった架空の地を舞台とし、世界はつながっていた。だが、ここまであからさまにシリーズを意識した書き方はしていなかったように思う。本書はシリーズを同士の繋がりが特に強い。だから前作『ミスター・メルセデス』を読まねば本書のいくつものエピソードは理解できないように書かれている。これはささいだが本作の傷だと思う。

だがその傷を含め、著者はどうやったら本書をミステリーとして成り立たせるかについて苦心したようだ。少なくとも私にはそう感じられた。どのようにしてそれぞれの作品のエピソードをつなぐのか。どうやってベラミーやピートの内面をストーリーに添わせるのか。本書ではそういった著者の手腕が堪能できるし、参考にもなる。

もう一つ、本書から感じられることがある。それは、著者が持つ純文学への憧れだ。ここ近年の著者の作品には純文学作家への言及が増えてきたように思う。たとえばサマセット・モーム。ジョン・アーヴィングを意識したと思える描写にも時折出くわす。本書もそうだ。ロススティーンという純文学の大家とその代表作。そしてその遺稿。ロススティーンの代表作とされるジミー・ゴールドの粗筋を本書の随所に挟みこむことによって、著者は読者が真に読みたがる純文学とは何かを問うているように思える。

本書を読んでいて、いつか著者が作家としての集大成として純文学を発表するのではないかと思わされた。今までの著者の作品の中で、私があまり感心しなかったのが『アトランティスの心』だ。これは純文学のアプローチを著者が試し、うまくいかなかった例だと思う。だが、本書を読んだ結果、ホラー、そしてミステリーと範囲を広げてきた著者が、最後に向かうのは純文学ではないかと思うようになった。

著者はきっと成し遂げてくれるはず。読者を感動の渦に巻き込み、人間とは、世界とは何かを十分に感じさせてくれる作品だってものにしてくれるはずだ。ここまで読者を恐怖に叩き込み、読者を寝不足にさせる作家は古今東西を見回してもそうそういない。これだけの筆力を持つ著者であるからには、素晴らしい純文学の作品を発表してくれると信じている。著者は今までの作品でアメリカの人種差別にも触れてきている。その現実と融和も描こうと苦心している。例えば著者が現代アメリカの闇とその融和に苦しむ現実を世界のモデルケースとして描いたら、ノーベル文学賞だって夢ではないと思う。

私はぜひ、著者の純文学作品を読んでみたい。そしてもし、著者の未発表作品が手元に舞い込んできたら何をおいても読みたいと願い、狂奔することだろう。ちょうど本書のベラミーやピートやアンディーのように。本当に優れた本にはそれだけの魔力がある。著者はそれがわかっているし、そういう作品を世に問いたいと願っているはずだ。本書はそうしたことを意識して書かれているように思う。

今まで著者は読者を驚かせ、怖がらせるために読者の視点を大切にしてきたと思う。そして今は、読者の視点から純文学の構想を練っているのではないか。その視点を生かしたまま、著者の熟練のスキルが純文学で発揮されたら果たしてどんな傑作が生まれるのか。期待したい。

‘2018/07/01-2018/07/04


ファインダーズ・キーパーズ 上


『ミスター・メルセデス』は、ホラーの巨匠がミステリ作家としても一流である事を証明した。とても面白かった。

本書はその続編にあたる。だから、本書を読むのはなるべく『ミスター・メルセデス』を読んでからの方がいい。なぜなら本書は『ミスター・メルセデス』のエピソードに頻繁に触れるからだ。もちろん、知らなくても本書の面白さは折り紙が付けられる。でも、読んでおいた方がさらに面白くなるはずだ。

私は著者の作品のほとんどを読んでいる。そして、あまりハズレを引いた経験がない。著書がストーリー・テラーとして信頼できる作家であることに間違いはない。そう思っている。私は本書を読みながら、その面白さがどこから来るのか確かめたいと思った。本書はミステリ小説として書かれている。つまり、超常現象には頼れない。また、読者に対してフェアな書き方が求められる。本書を読み込めば、著者のストーリーテリングの肝が会得できるのでは、と思った。

そんな意気込みで読み始めたが、面白さに負けて一気に読んでしまった。さすがの安定感だ。

本作の粗筋はこうだ。現代アメリカ文学の大家として名声を得たロススティーン。最後に作品を発表してから10数年が過ぎ、世間からは引退したと思われている。そんな田舎に隠棲したままの大家のすみかに三人の強盗が押し入る。強盗のボス格ベラミーが狙っていたのは金だけではなく、ロススティーンが書き溜めているとうわさされていたジミー・ゴールド・シリーズの未発表原稿。ジミー・ゴールドに心酔していたベラミーは、ロススティーンがシリーズの最終作でジミー・ゴールドを平穏な小市民として終わらせたことに納得がいかない。押し入ったその場でロススティーンにそのことを問いただし、激怒のあまり撃ち殺してしまう。

ベラミーは、未発表原稿の束や現金とともに現場から逃亡する。そして、一緒に逃亡する仲間を途中で殺し、身をひそめるため故郷に帰ってくる。故郷で身を隠しつつ、ゆっくりとジミー・ゴールド・シリーズの最新作を読もうと思っていた。自らの望むジミー・ゴールドのその後が知りたくて。ところがロススティーン殺害のニュースは故郷にも届いており、かねてからロススティーンへのベラミーの偏執をしっていた友人のアンディーは、ベラミーに未発表原稿や金の詰まったトランクを隠すよう忠告する。その忠告に従ったベラミーはトランクを隠した後、酒を飲みにバーにしけこむ。そして強姦事件を起こす。それがもとで36年間の長きにわたって投獄されてしまう。

36年後、ベラミーが住んでいた家にはソウバーズ一家が住んでいた。そして、ソウバーズ家は、家長が職を失ってしまう困窮の中にあった。『ミスター・メルセデス』がひき起こした大量ひき逃げ暴走事件によって体にダメージを負ったからだ。そんな中、13歳の長男ピートは、偶然にもかつてベラミーが埋めたトランクを見つけ出す。そして一家の困窮を救うために、トランクに詰まっていた金を匿名で自分自身の家に送る。さらに、その中に隠された未発表原稿を読み、文学に目覚める。ところが、一家の経済状況は一息ついたとはいえ、妹のティナの進学費用が工面できない。そこでピートはロススティーンの未発表原稿をアンディーの経営する稀覯本の店に持ち込む。そして足元を見られたアンディーに逆に脅される。ベラミーが仮釈放を勝ち取ったのは、ちょうどその時。仮釈放で保護観察中の身でありながら、さっそく36年前に隠したトランクを掘り出したベラミーは、その中が空になっていることを知る。36年の月日が彼の未発表原稿への狂気を熟成させ、それが盗まれたとしったベラミーの理性は沸騰し、その刃はかつての旧友アンディーに向けられる。

今回、私は本書を分析的な眼で読もうとした。それだからだろうか、一つの大きな傷を見つけた。

まず、ストーリーの構成だ。事件が起こるタイミングに作者の意思が見え隠れする。それはつまり、作者のストーリー展開の都合に合わせて登場人物が動かされていることを示す。登場人物が、著者の組み立てたプロットの上で動かされる。その感覚は本当に優れている小説を読むと感じないものだ。だが、本書からはその感覚が感じられた。著者の今までの優れた傑作群には見られなかったように思う。

もちろん、今までの著者の作品にも著者の作為は見受けられた。著者の作品では多くの登場人物が交わり合い、感情をぶつけ合う。その中には、著者によって仕組まれた偶然の出会いや偶然の産物から生まれた悲喜劇も含まれる。それは当然のことだ。たくさんの人々を自在に操る手腕こそが著者を巨匠の高みに押し上げたのだから。そもそも小説である以上、全てが著者の作為の結果でしかない。だからこそ、それをいかにして自然に見せるが作家の腕の見せ所なのだ。それを巧みに紡ぐ筆力こそ、ベストセラー作家とその他の作家を分ける違いではないだろうか。

本書は、著者の作為がうまくストーリーの中に隠し切れていない。「神の手=著者の筆」が随所に見えてしまっている。むろん、登場人物の動きは可能な限り自然に描かれていた。だが、出獄したベラミーが、自らが過去に埋めたトランクの中身がからになっていることに気づくタイミングと、ピートがその中身を稀覯書店主のアンディに持ち込み、逆に脅されるタイミングの一致。それは、ミステリーとしての整合性を優先させるため、著者が仕組んだ都合の良さに思えた。今までの著者の作品には、人物が著者の都合に合わせることが感じられなかった。多分、多数の登場人物が入り乱れる中、そこまで気にしなかったのだろう。だが、本作は、ピートとベラミーとアンディの動きが胆となる。だから、この三人の動きがクローズアップされ、その行動があまりにも筋書きにはまっていると不自然に感じてしまうのだ。

ただし、かつて殺した大作家の遺稿を隠した後、長年にわたって別件で投獄されていたベラミーが原稿を読みたいという動機については納得できる。著者は作品の中で、小説作品や作家を題材にすることがある。本書でもそれが存分に発揮されていたと思う。なぜベラミーはそれほどまでにロススティーンの遺稿に執着するのか。なぜベラミーはロススティーンを撃たねばならなかったのか。本書は事件の発端を描くことに紙数を費やし、ベラミーの動機を詳細に描いている。そうしないと本書の構成そのものが乱れてしまうからだ。著者はその動機を丁寧に描いている。おそらくは著者にとって最も苦労したのではないだろうか。

ところが、動機に多くの労力を割いて丁寧に描いた割に、ベラミーの出獄とピートの行動、そしてピートがアンディと交渉するタイミングがあまりにも近すぎる。保護観察中のベラミーの狂気がアンディーに向かい、その場にピートを引き寄せてしまう。もちろん、ストーリーの展開上、行動人物の動きを同じ時期に合わせなければならないのは分かる。だが、登場人物の動かし方に、あと少しの工夫があっても良かったと思う。著者の今までの作品には、その工夫が絶妙に施されていたような気がする。

本作は、動機をきちんと説明していたのに、イベントのリンクの繋げかたを少々焦りすぎたような気がする。

‘2018/06/30-2018/06/30


ジョイランド


著者の作品は短編も長編も含めて好きだ。とくに著者の長編はそのボリュームでも目を惹く。あれだけのボリュームでありながら一気に読ませるところに著者のすごさがある。著者の長編が果てしなく長くなる理由。それは伏線を張り巡らせ、起承転結を固め、登場人物を浮き彫りにするため周囲を細かく描くからだ。登場人物が多くなればなるほど、著者は周到に伏線を張り巡らせる。その分、全体が長くなるのは仕方ないのだ。

ところが本書のサイズは著者の長編の中ではめずらしく薄い。文庫本で1.5センチほどの厚み。薄いとはいえ、本書のサイズは世の小説でいえば長編に位置付けられる。だが、著者にしては短めだ。その理由は、舞台がジョイランドにほぼ限定されていて、登場人物もそう多くないためだと思う。

本書はいわゆるホラーではない。確かに本書には若干の怪異現象も登場する。それもまた、本書を構成する重要な要素だ。だが、どちらかと言えば本書は主人公デヴィンの青春を描くことに重きが置かれている。つまり、じわじわと読者の恐怖感を高めなくてもよい。そのため伏線も読者の恐怖をかき立てる必要もない。それも本書が短めになっている理由の一つだと思う。

主人公のデヴィンは大学生。時代は1973年。舞台はノースカロライナ州の海沿いの遊戯施設ジョイランドとその周辺だ。

大学生の夏を3カ月のバイトで埋めようと思ったデヴィンは、ジョイランドに来て早々、付き合っていた彼女ウェンディと別れてしまう。失恋の痛みを仕事で発散しようとしたデヴィンは、ジョイランドでのあらゆる仕事に熱意を持って取り組む。コーヒーカップや観覧車の操作。もぎりや屋台販売。着ぐるみに入って子供達との触れ合い。危うく窒息しかけた子供を救った事で新聞にも載る。デヴィンがジョイランドに雇われた時、ディーン氏にこう言われる。
「客には笑顔で帰ってもらわなくちゃならない」
ジョイランドは客だけでなく、従業員をも笑顔にする。そこに本書の特色がある。

著者はこういうカウンティー・フェア(郡の祭り)や遊戯施設をよく小説に登場させる。このような施設は読者に恐怖を与える絶好の舞台だ。小説の効果のためもあるが、それだけではない。多分、著者もこういった施設が好きなのではないか。そして好きだからこそ、ホラー効果をところ演出するのに絶好の舞台と登場させるのだろう。ところが本書に登場するジョイランドからはホラー要素がほぼ取り除かれている。その代わりに著者は古き良き遊戯施設としてジョイランドを描く。客だけでなく従業員をも笑顔にする場所として。今までに発表された著者の作品で、遊戯施設は何度も登場している。だが、本書ほどに喜ばしい場所として遊戯施設を描いたことはなかったはずだ。

ただし、一カ所だけジョイランドはホラーを引きずっている。それはかつて屋内施設で起きた殺人事件だ。そしてその施設では殺人事件の被害者が幽霊となって登場するうわさがある。今までの著者の作品であれば、ここからホラーの世界に読者をぐいぐいと引っ張ってゆくはず。ところが本書はホラーではない。その設定は本書を違う方向へと導いてゆく。

本書がホラーではない証拠が一つある。それは、幽霊とそれに伴う怪異が主人公デヴィンの前に現れないことだ。しかしジョイランドでデヴィンの終生の友となるトムは幽霊を目撃する。それなのに主人公デヴィンの前に幽霊が現れない。それは主人公の目を通して直接読者に怪異を見せないことを意味する。ホラーを直接に見せず間接に表現することで、著者は本書がホラーではないことをほのめかしている。その代わりに読者には謎だけが提示されるのだ。つまりミステリー。近年の著者はホラーからミステリーへと軸足を移しつつあるが、本書はその転換期の一冊として挙げられると思う。

デヴィンは結局、3カ月の勤務期間を大幅に延長してジョイランドにとどまり続ける。それは失恋の痛みを忘れるためだけではなく、デヴィン自身がジョイランドの中で何かをつかみ取るためだ。デヴィンが何かをつかみ取るのはジョイランドの中だけではない。ジョイランドの外でもそう。その何かとはアニーとマイクのロス親子だ。

車椅子生活を余儀なくされ、余命もあまりないマイクと心を通わせたデヴィンは、彼のため、ジョイランドを貸し切りにするプレゼントを企画する。

ロス親子との交流はデヴィンをさまざまなものから解き放つ。失恋、青春時代、ジョイランド。そしてホラーハウスにまつわるミステリー。さらにはアニーやマイクとの交流。最後の40ページで、デヴィンは一気に解き放たれる。その急転直下の展開は著者ならではの開放感を読者に与える。

青年が大人になってゆく瞬間。その瞬間は誰もが持っているはず。だが、それを描くことは簡単ではない。そしてそこを本書のように鮮やかに描くところに、著者の巨匠たるゆえんがあるのだ。

マイクとデヴィンが揚げた凧が空の彼方へ消えてゆくラストシーン。それは、本書の余韻としていつまでも残る名シーンだ。地上に青年期を残し、新たな人生へのステージへと昇ってゆく凧。それは著者が示した極上の青春小説である本書を象徴するシーンだ。そして、著者が示した新たな作風の象徴でもある。本書は著者の小説を読んだことのない方にもお勧めできる一作だ。

‘2017/04/08-2017/04/09


11/22/63 下


ジェイクがダラスにいる理由、そして過去にやって来た理由。それは、リー・ハーヴェイ・オズワルドによるジョン・F・ケネディ大統領の暗殺を阻止することだ。通説ではケネディ大統領の暗殺犯はリー・ハーヴェイ・オズワルド一人とされている。公式な調査委員会であるウォーレン委員会による調査結果でも単独犯という結論だ。しかし一方で、われわれはジョン・F・ケネディ大統領暗殺を巡ってたくさんの説が流布していることも知っている。マフィアによる、キューバによる、ジョンソン副大統領による、フーバーFBI長官による、、、きりがない。

本書を通して著者が一貫して採っているのは、リー・ハーヴェイ・オズワルドによる単独犯行説。オズワルドが逮捕直後の移送中にジャック・ルビーによって暗殺されたことや、魔法の弾丸の存在など、ケネディ大統領暗殺に関する謎の数々は依然として闇の中だ。著者はそれら全ての陰謀説を脇に置き、オズワルド単独犯を前提として話を進める。その真偽や著者の判断の是非はともかく、本書の筋の進め方としてはそれでいいのかもしれない。ジェイクはひたすらリー・ハーヴェイ・オズワルドの身辺調査に時間を割く。暗殺決行の前年、ソ連から新妻を連れて戻ってきたオズワルドの動向を、さまざまな手段を使ってウォッチする。1962年の時点で可能な最先端の機器を揃え、盗聴器をオズワルドの家に設置する。それによってオズワルドの動向の大半が本書でさらけだされる。その粗暴な性格もあわせて。著者が描くオズワルドは、とてもリアルで巧みに描かれている。ケネディ暗殺という大それた所業に手を染めてもおかしくないと感じさせるだけの狂気と正気を備えた人物として。本書下巻では、事細かにオズワルドの動向が記されている。それは同時にオズワルドについて著者が調べ上げた努力の跡を示している。私もケネディ大統領暗殺に関する本は何冊か読んできたが、事件の数年前からのオズワルドの足跡がここまで調べ上げられているとは思わなかった。本書で描かれているオズワルドの足跡がほぼ事実に基づいた著者による創作でないことは間違いないだろう。

本書を読んでいると、オズワルドの下劣さが際立って強調されている。オズワルドが正真正銘の暗殺犯かどうかはともかく、本書を読むとオズワルドに対して偏見を持つようになるのは間違いない。そもそもアメリカにあってオズワルドがどういう位置づけの人物となっているのか、私はしらない。ただ、少なくとも分かることが一つある。それは、スティーブン・キングという現代アメリカでも最高の人士がオズワルドについてどういう感情を持っているか、ということだ。

上にも書いたとおり、オズワルド単独犯には少々無理があると思う。1978年になって下院暗殺調査委員会が出した結論は、オズワルドには少なくとも協力者が一人いたとされている。私は陰謀説をことさら強調するつもりはない。とはいえ、本書の採る単独犯説には賛成できない。だが、本書の記述を読んでいると、単独犯説に傾きそうになってしまう。著者が何らかの組織や利益を代弁して単独犯説を世に広めるために本書を書いた。そんな妄想めいた陰謀論はやめにしたいところだ。だが、本書の結論が、アメリカ国内の定説をどの程度反映しているのかは気になる。ま、私がそれを知ってもどうなるものではないのだが。

ジェイクが遂行しようとする任務に対し、過去は一層抵抗の色を強める。歴史を変えられることを拒む過去自身の力は、ますますジェイクの周りに影響を及ぼそうとする。まずはセイディー。かつての夫がやってきてセイディーの顔に取り返しのつかない傷を負わせる。それはセイディーを二度と人前に立ちたくないと拒ませるほどの傷だ。その事件によってセイディーは愛するジェイクの正体を疑うどころではなくなる。しかしジェイクは、セイディーの頬についた二度と治らぬ傷を治すため未来で治療することを提案し、自分が未来から来たことをセイディーに告白する。そして、ダラスでの高校教師だけではオズワルドの行動ウォッチの費用がまかなえなくなっている今、滞在費を稼ぐためボクシングのチャンピオン決定戦に賭けるという行動に出る。

著者が上巻から打ってきた布石はここでも聞いており、ジェイクの勝ちは剣呑な胴元に疑いを抱かせる。そしてジェイクは胴元によって半死半生の目に遭わされることになる。ジェイクが遭遇した災難は、自らを変えられたくない歴史がした全力で抵抗した結果であることは言うまでもない。それによってジェイクの記憶は喪われ、体すらまともに動かせない状態になる。

刻一刻とケネディのダラス遊説の日は近づく。果たしてジェイクはオズワルドの凶行を止められるのか。ラスト数日のジェットコースターのような話の進み様は、著者お手の物とはいえ、息を止める思いで読み進んだ。さすがというしかない。

さて、ここから先の粗筋については、何も書くまい。これを読んだ方に本書を読んで頂きたいから。ただ、一つだけ。上巻で著者は、二度にわたってジェイクを1958年に行かせた。それはタイムトラベルのルールを読者とジェイクに分かってもらうためだ。そのルールとはこうだ。1958年で行った行為は、2011年に戻った時点では有効。しかし再度1958年に行った時点で、前回1958年で行った影響は全てリセットされる。これが本書の結末にとても大きな影響を与える。

全ての布石と伏線がかっちりとはまる様を堪能してほしい。そして物語の面白さを心行くまで味わってほしい。そして、目前に与えられたあらゆる選択肢を慈しみながら、極上の物語を書き上げた著者の才能をうらやんで欲しい。物語作家としてのスティーブン・キングの世界にようこそ、だ。

最後に一つだけ。本書の主人公はケネディ大統領でもなければ、リー・ハーヴェイ・オズワルドでもない。それどころか、本書は歴史に題を採ったサスペンスですらない。本書は愛の物語だ。このような形で結末を迎える愛の物語など、私は読んだこともないし聞いたこともない。モダン・ホラーの帝王としての名声をほしいままにしているスティーブン・キングが、紛うことなき愛の物語を紡ぎあげたのが本書だ。著者のストーリーテラーとしての本分を堪能できたことは幸せとしかいいようがない。著者の文才と、その世界を損なうことなく私に届けてくれた訳者には感謝するしかない。

本書をもって、2015年は幕を閉じた。2015年の読書は、実はスティーブン・キングの「第四解剖室」から始まった。そして本書という至高の読書体験で2015年は幕を閉じた。素晴らしい94冊たちに感謝だ。

‘2015/12/29-2015/12/31


11/22/63 上


現役作家の中でも世界最高峰のストーリーテラー。著者のことをそう呼んでも言い過ぎではないだろう。大勢の登場人物を自在に操り、複雑な言動の糸を編み上げて一つのストーリーを練り上げる力量。下卑た言葉も残虐な描写も含め、著者の作品から放たれる迫力には毎度圧倒される。

そんな著者の作品を注意深く分解してみると、実は単純な構造になっていること多い。大枠をシンプルにし、そこに補強材をあれこれ張り巡らせる。著者は補強材の張りかたが実に巧みなのだ。しかも、補強材には著者一流の俗っぽいガジェットを練りこみ、ディテールを豊かに貼り付けて現実にありそうな世界観に仕立て上げる。その巧みさゆえ、著者の世界観は輝きを放ち、活き活きとした世界観に魅了された熱狂的な愛読者が今日も世界のどこかで産まれている。私も熱狂度では劣るかもしれないが愛読者の一人である。

最近の著者の長編は、補強材の組み合わせ方にさらに磨きが掛かっているように思える。そのレベルはもはや常人離れしているといってもよいほどだ。そればかりか本書では、大枠の構造からすでに隙のない緻密さと大胆さを備えている。

本書は早い話がタイムスリップものだ。しかし、著者は本書を書く上で絶妙な設定を仕掛けている。その設定が本書を複雑でしなやかな構成に組み上げている。

本書の題名は米国で一般的な日付書式である。これを日本風の日付に直すと1963年11月22日となる。この日、ケネディ米大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。50年以上経った今も、アメリカの暗部を象徴した事件として人々の心に陰を落とし続けている。その陰の広大さは2001年3月11日の同時多発テロに勝るとも劣らない。

主人公ジェイクは、作家志望の高校教諭。ある日、行きつけのアルズ・ダイナーの店主アルに呼ばれる。前日に会ったばかりなのに、前日の姿とはかけ離れやつれ切った様子のアルは、ジェイクを店の裏の食糧庫へと誘う。そこは、1958年へと通ずる通路。つまりタイムトンネルになっている。

タイトルが示す通り、本書はケネディ大統領暗殺事件がテーマだ。そしてそのテーマに読者とジェイクを導くため、著者は本書に時間移動の仕掛けをもちこんでいる。本書を面白く読み応えのある内容にしたのは、時間移動の設定の妙にある。2011年側と1958年側を行き来するには、メイン州リスボン・フォールズのみ。2011年側はアルズ・ダイナーの食糧庫だが、1958年側は紡績工場裏手の倉庫。そこはいつでも行き来可能。そして、1958年側でどれだけ過ごそうとも、2011年側に戻った時点では2分しか経過しない。ただ、1958年側で過ごした時間、ジェイク当人の生物学的時間、つまり老化は進む。1958年側で過ごした時間が長かったアルは、ジェイクから見ると一夜しか経っていないが、肺がんの病状を瀕死の状態まで悪化させるほどに命を削る。また、1958年で行った行為は未来へと影響を及ぼすが、その改変は、もう一度2011年から1958年に戻った時点でリセットされる。この設定が絶妙で、本書全体の骨組みに大きな影響を与えるファクターとなる。

では、アルは肺がんを押してまで何を1958年側でやろうとしていたのか。アルはジェイクに何を託そうとしたのか。著者は読者をグイグイと小説世界に引き摺り込む。アルが過去の世界でジェイクに成し遂げて欲しいと願うことはただ一つ。1963年11月22日のケネディ大統領暗殺を阻み、未来を変革して欲しいこと。

過去を描く場合、普通は視覚的な情報の違いに頼ってしまいがちだ。例えば新聞の記事、変貌した景色、陳列された商品など。しかし著者は、2011年と1958年の違いを表現するにあたって聴覚と嗅覚も駆使する。著者はまず、1958年を描くにあたってジェイクの目に映る情報ではなく、耳と鼻に届く音と匂いを描く。目から映る過去の景色は、CGに慣れ過ぎた我々にはインパクトを与えない。CGが自在に過去の映像を再現しまうからだ。しかし耳と鼻が受け取る情報は別だ。今いたはずの場所から聞きなれない音が鼓膜を震わせ、鼻を衝く臭いが漂って来たら? アルズ・ダイナーの1958年は、紡績工場だった。蒸気が紡績機械を絶え間なく動かす轟音と紡績工場につきものの硫黄の匂い。これにより、ジェイクは単なるCGや仮想現実の世界ではない1958年に来たことを実感する。そしてそれは我々読者も同じだ。

以降、著者の手練れの筆は、あますところなく1958年の世界を描き出す。視覚・聴覚・嗅覚だけでは表現できない世界に。それは人々の話す言葉や辺りを取り巻く空気感でしか表現しようのない世界だ。いうなれば五感を統合する脳による感覚とでもいえようか。一言でいうとセンスと言い換えてもよい。1958年のエッセンスをジェイクと読者に届けるため、1947年生まれの著者は自らの幼少期の記憶を掘り起こし、持てる才能をフルに駆使する。

そのセンスは、ジェイクが最初に1958年に踏み出し訪れたケネベク・フルーツ商会での会話に凝縮されている。2011年にはもはや営業しているのかどうか定かではないほど老いぼれた店舗と店主。しかし、1958年のお店は繁盛し、商売も順調だ。著者の凄さは、ジェイクが店の中で交わす会話にも表れている。このシーンだけで、著者は1958年の時代のリズムやテンポまでも表現してしまう。著者の練達の文章を心行くまで味わえる名シーンといえよう。

では、1958年とは2011年からみて何がどう違うのか。これは案外難しい問いだ。洗練されてないデザインやITの手が入っていない日用品など、時代を感じさせる品物は多々あるだろう。それは、現代の日本人からみてもたやすく気づく違いだ。しかし、我々日本人が当時のアメリカにピンと来ないことが一つある。それは、1958年のアメリカとは人種差別が大手を振ってまかり通っていた時代ということだ。その描写は避けては通れない。そして本書はその点に抜かりなく触れ、有色人種専用トイレや専用エリアなどを登場させている。

1958年の時代感覚を表現するため、著者は徹底的に細かい描写を重ねて行く。ページを進めるごとに、読者とジェイクは徐々に1958年の世界観に慣れてゆく。その中で私はほんの少し違和感を感じた。違和感とは、普段の著者の作風と本書が違うことだ。たとえば、本書では著者が得意とする下卑た表現が控えられている。それは1958年という時代の保守的な空気を再現するためなのだろうか。それだけではない気がする。また、著者の作品ではおなじみのじわじわと読者の恐怖心をあおるような描写も鳴りを潜めている。さらに本書を読んでいて感じたのは、ジョン・アーヴィングの作品との共通点だ。あくまで私見であるが、本書で著者はジョン・アーヴィングの作風を参考にしたような気がする。本書からはジョン・アーヴィングの著作と同じ筋の組み立て方が感じられる。ジョン・アーヴィングの物語を読んでいると、過去と現在が頻繁に入れ替わる。トリッキーな飛び方ではないにせよ、登場人物の追憶の形で物語の時制は次々と切り替わる。その構成のテクニックや語り口を、著者は本書で参考としたのではないだろうか。本書上巻の14Pにはジョン・アーヴィングの名前が登場する。それは著者がひそかにジョン・アーヴィングへ向けた謝辞だったのではないだろうか。

ジェイクが受け持つ年配の生徒で、脳や足に障害を持っている校務員のハリー・ダニングがいる。ひょんなことからジェイクはハリーが幼少期、実父に殺されかけたことを知り衝撃を受ける。ジェイクにとって最初の過去行きは、こわごわとケネベク・フルーツ商会にいって自らがまぎれもない1958年にいることを確かめるだけだった。様子見もかねての。二度目の過去行きは、ハリーとハリーの家族を実父から救い出すための旅となる。

ジェイクの二度目の過去行は、メイン州デリーが主な舞台となる。デリーといえば、著者の幾多の作品で舞台となった架空の街として有名だ。そのうち、1958年のデリーが舞台となる作品がある。それは、著者の作品中でも傑作として多くの人が挙げるであろう『IT』。『IT』の作中で少年たちが不気味なピエロに襲われるのがちょうどこの頃なのだ。本書のこの部分では、その少年たちのことが噂として度々出てくる。おそらくは著者から愛読者へのファンサービスの一つだろう。

メイン州デリーでの下りは、種明かしすると本書そのものには大きく影響を与える部分ではない。だが、この二度の過去行きは、ジェイクにも読者にも必要な旅だったのだ。1958年の空気感と、本書そのものの構造を読者に知らせるための。その結果、ジェイクと読者は本書の時間旅行のルールを学ぶことになる。一度過去を変えると2011年に戻った時点では過去は改変されたまま。だが再び1958年に戻ることで、前回1958年で行った行為はなかったことになるルールを。著者はそのルールを読者に徹底させるため、二度に渡ってジェイクを1958年から2011年に帰らせたのだ。

ところが2011年。戻ってきたジェイクに後を託し、アルは帰らぬ人となってしまう。1958年への移動手段を知る人物はもはやいない。ジェイクに助言を行う人物も、過去を変えたことで恩恵を受ける人物も。二度の1958年への旅を通じ、あちらでの生活方法は大分呑みこめた。過去を変えることが未来をどう変えるかについても学習した。そしてもう一つ学んだこと。それは、過去は過去を変えられることを嫌がり、あらゆる方法で過去を変えようとする圧力に対し、抵抗するということ。それはアルが幾度も体験したことであり、ジェイクも二度目の1958年への旅で過去からの抵抗に妨害されて身につまされたことでもある。

次の過去行きは、ケネディ大統領暗殺を食い止めるための長い旅になる。そう覚悟したジェイクは三度目の旅に出る。1958年に踏み入れたジェイクはハリーや他の2011年で困ったことになっている人物の過去を変化させる。さらに、東海岸経由でダラスへと向かう。ここでも下巻に向けた伏線がいっぱい張られるので注意して読むと良いだろう。

ダラスでは身分を隠して教師の職に就くジェイク。2011年のジェイクは教師をしているから生活の糧には困らない。教職はお手の物というわけだ。1958年のジェイクは高校教師として2011年よりも成功を収める。未来を知っているから当然のことだろう。ジェイクは学校に取ってなくてはならない人物となり、同じ教師であるセイディーと恋仲となる。

順風満帆なダラスでの生活は、ジェイクをして2011年への郷愁を薄れさせるものだ。しかし、注意深く振る舞っていたはずのジェイクも、間違えてローリングストーンズの未発表曲を口ずさんでしまうという失敗を犯し、セイディーに拒絶されてしまう。果たしてジェイクは過去での生活を営みながら、ケネディ大統領を救えるのか。上巻だけでも充分な読み応えだが、本題はこれからなのだ。

‘2015/12/21-2015/12/29


1922


著者の真骨頂は長編にあり。そう思う向きも多いだろう。しかし、実は中短編にも優れた作品が多数ある。むしろ饒舌なまでに読者の恐怖を煽りたてる長編よりも、シンプルで勘所を得た中編こそ、著者のストーリーテリングの素晴らしさが味わえるといってよい。本書は著者が世に問うた中編の中でも出色の出来と言える。本書は、4つの中編を編んだ「Full Dark, No Stars」のうち、「1922」と「公正な取引」の2編を文庫化したものである。

原題からも分かるとおり、本書の元となった中編集はダークな内容に満ちている。巨匠がダークサイドに徹した時、どこまで暗くなれるか、本書を読めばその結果は自ずと導かれる。

前者、「1922」は、アメリカ中西部のネブラスカを舞台にした一品である。都会はローリング・トウェンティーズの好景気に沸く一方、まだその波が及ばぬ地方都市は、都会の価値観とフロンティアのそれがせめぎ合っていた時代である。本編では、ここで繰り広げられるある一家の転落を通じ、その時代のアメリカが孕んでいた矛盾を炙り出している。とはいえ、ホラーの妙手である著者がより暗きを目指して描いたのが本編である。そのような純文学的なトーンとは無縁といってもよい。本編では実に徹底的に一家の転落と破滅が紡がれる。超常現象は最小限に抑え、時代に即した小道具と舞台設定が散りばめられた本編は、読者を1920年代のアメリカの片田舎の情景を思い出させる。それでいて饒舌に陥らず、簡潔に中編に収めた上、ダークな色合いで塗りつぶした著者の技には文句のつけようがない。

後者、「公正な取引」は、悪魔との取引譚である。その悪魔が、著者の作品によく出てくるステレオタイプな描写になっているのは残念だが、悪魔はその取引のシーンにしか登場しない。本編の登場人物は主人公一家と、その親友一家。癌に犯され、人生も落ち目な主人公は、偶然出会った悪魔と取引を行う。その取引によって、境遇が暗転したのが、順風満帆な人生を歩んでいた主人公の親友とその一家である。その落魄振りと主人公の上向き度合いの落差は、もはやギャグといっても過言ではなく、著者もブラックユーモリストとしての本領を存分に楽しみながら書いたのではなかろうか、と思えるほどである。つまり、本編は暗いといってもブラックユーモアの暗さである。これまた楽しみながら読める一編である。

冒頭に「Full Dark, No Stars」のうち、2編を本書に収めたと書いた。「1922」の絶望的な闇と、「公正な取引」の戯画的なダークネスの双方を収めた本書は、つり合いもとれており、編者の選出の妙が光っているといえる。

’14/08/11-‘14/08/12