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アクアビット航海記 vol.26〜航海記 その13


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/11にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

結婚に向けて


東京に居を構え、職も確保した私。
次にやるべきは、結婚へ向けての諸作業です。
町田に住む妻とは家が近くなり、会う機会も増えました。
そこからは10月の婚姻届け提出、11月の披露宴までに向けての半年強を、式場や招待客、新婚旅行の行き先選びに追われていました。そこでもさまざまなエピソードや事件は起こったのですが、本連載はそれらの苦労を語ることが目的ではありません。いつかのゼクシィへ連載する機会に取っておきたいと思います。

それよりも語っておきたいことがあるのです。
語っておきたいこととは、私自身に備わった覚悟と、新居を決めるまでのいきさつについてです。
なぜかといえば、この二つは私のその後の人生航路、とくに起業へ至るまでの複数回の転職に大きく関わってくるからです。

まず、この時期の私に生じた心境の変化から語ってみたいと思います。

親への感謝


連載の第二十一回(https://www.akvabit.jp/voyager-vol-21/)で触れたとおり、私が東京行きを決めてから住民になるまでの期間は二週間ほどしかありませんでした。
その時の私は、何かに突き動かされていたに間違いありません。あまりにも唐突な思いつきと実行、親へ話を切り出した経緯と、親への感謝の思いについては書いた通りです。
ところが、その稿で書いた親への感謝とは、今の私が当時を思い出して書き加えた思いです。
実際のところ、上京へと突っ走る当時の私には、親への感謝を心の中で醸成するだけの余裕も時間もありませんでした。思いつめ、前しか見えておらず、未来へ進むことだけで頭が沸騰していた私の視覚はせいぜい20度くらい。後ろどころか横すら見えていなかったことでしょう。

私が親への恩を感謝するのは、上京してすぐの頃でした。
前触れもなく飛び出すように東京に行ってしまった不肖の長男のために、両親が甲子園から車で来てくれたのです。洗濯機や身の回りの所持品などと一緒に。
私がスカパーのカスタマーセンターに入る前だから1999年4月の中頃だったと思います。
私の父親は当時60歳だったのですが、名神と東名を走破しての運転は骨が折れたことでしょう。
当時の私は新生活に胸を躍らせていました。そして、あれよあれよの間に息子を失った親の気持ちに目を遣る余裕はありませんでした。
私の両親はあの時、東京に飛び去ってしまった長男に会い何を思ったのでしょうか。私の両親の心中はいかばかりだったか。寂しくおもったのか、それとも、頼もしさを感じたのか。私にはわかりません。

それでも今、こうやって当時の自分を思い出してみて、親のありがたみをつくづく思います。

当時、東京にも世間にも不慣れな私は、親の宿泊場所すら手配してあげられませんでした。そのため、私の両親は町田ではなくわざわざ横浜の本牧のホテルに泊まっていました。
数日の滞在をへて最終日、婚約者も含めて四人で横浜中華街を散策します。そして、いよいよ甲子園へと帰ってゆく両親とお別れの時が来ました。
その場所とは忘れもしない、JR石川町駅の近くにある吉浜橋駐車場でした。20年以上が過ぎた今でも、横浜中華街の延平門から石川町駅に向かう途中にその細長い駐車場はあります。
駐車場の端に停めた車へと歩いていく両親の後ろ姿をみながら立ちつくす私。この時の気持ちは今でも思い出せます。せつなく胸がいっぱいになる思い。
泣きこそしなかったものの、この時に感じた哀切な気持ちは、今までの人生でも数えるほどしかありません。横にいる妻(まだ婚約中でしたが)と一緒に東京で頑張っていこうとする決意。そして去ってゆく両親の後ろ姿に叫びたいほどの衝動。
この時に揺れた心の激しさは今も鮮明に思い出せます。また、忘れてはならないと思っています。
私の生涯で親離れした瞬間を挙げろと言われれば、このシーンをおいてありえません。この時、私はようやく東京生活への第一歩を踏み出したのだと思っています。

自立を自覚すること

誰にでも親離れの瞬間はあります。私が経験したよりもドラマチックな経験をした人も当然いるでしょう。親との望まぬ別離に身を切り裂かれる思いをした方だっているはず。
親との別れは全ての人に等しく訪れます。私の体験を他の人の体験と比べても無意味です。
ただ、私にとってはこの時こそが親から自立した自分を自覚した体験でした。親から離れ、一人で歩もうとする自らを自覚し、それをはっきり心に刻みつけた瞬間。
この経験は後年の私が“起業”するにあたり、よりどころとした経験の一つでした。なぜなら、自分が独り立ちし、一皮向けた瞬間に感じた思いとは、起業を成し遂げた瞬間の気持ちに通じているからです。少なくとも私にとっては。

私が関西の親元に住み続けていたら、間違いなく起業には踏み切れなかったと断言できます。
そして、親からの自立をはっきりと意識する経験がなければ、関東に住んだとしても果たして起業にまで踏み切れたかどうか。

ちなみに念のために言うと、自立と疎遠は違います。
私は上京してまもなく21年になろうとしています。その間、毎年の盆暮れにはほぼ両親のもとへと帰省しています。今でもたまにモノを送ってもらっていますし、仕事もたまに手伝ってもらっていました。

上に書いたような出来事があったからといって、両親を遠ざけたわけではないのです。自立は疎遠とは違います。
この時の自分は、親から自立し、別の家族として別の人生を歩み始めたと思っています。それが大人になった証しなのだと思います。

自分がある日を境に大人になったこと。それは誕生日ではなく、成人式でもありません。何かのタイミングでそのことを自覚した瞬間が、大人になったタイミングだと思います。
その刹那の感覚を記憶し、独り立ちした自分への確かな手応えをつかめているか。これこそが大人になってからの荒海を乗り切るにあたってどれほど大きな助けとなったか。
古くはこれを社会がイニシエーション儀式や元服式として与えてくれていたのでしょう。ですが、成人式が形骸化した今では、一人一人がこの成功体験を何とかして得、それを大切に温めてゆくしかないと思っています。

親から離れて自立したことの感動をもち続けていることは、私が起業に際しての助けとなりました。
自立の瞬間の自覚を胸に大人になった私は、大失敗こそしなかったものの、その後に数えきれないほどの失敗をしでかしています。
でも、今に至るまでやって来れたのも、自立の感動が今もなお私にとって大いなる成功体験だからです。
そして、この成功体験があったからこそ、起業にあたっても尻込みせずに進めたのだと思っています。

次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.24〜航海記 その11


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/4にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

上京したてのなにもない私


1999年4月。かばん一つだけで東京に出てきた私。
最低限の服と洗面道具、そして数冊の本。これから住むとはとても思えない格好で、それこそ数日間の小旅行のような軽装備。

当時の私はあらゆるものから身軽でした。持ち物もなく、頼りがいもなく、肩書もしがらみもありません。
移動手段すら、自分の足と公共の機関だけ。それどころか、ノートパソコンや携帯電話はおろか、固定電話を持っていなかったため、インターネットにつなぐすべさえありませんでした。
私と世の中をつなぐのは郵便と公衆電話のみ
妻がいなければ私は完全に東京でひとりぼっちでした。

今思い出しても、私が当時住んだ相武台前のマンションの部屋には何もありませんでした。東京生活の足掛かりとするにはあまりにも頼りなく、大宇宙の中の砂粒のようにはかない住みか。
それでも、当時の私にとっては初めて構えた自分だけの城です。

当時の私がどういう風にして生活基盤を整えていったのか。
当時、私はメモを残しています。以下の記述はそこに書かれていた内容に沿って思いだしてみたいと思います。
まず、住民票の手続きを済ませ、家の周りを探険しました。
次いで、自転車を買いに、行幸道路を町田まで歩きました。さらに、国道16号沿いに沿って相模原南署で免許の住所移転をし、淵野辺まで歩き、中古の自転車を購入しました。これで移動手段を確保しました。
それから、通信手段については、住んで二、三カ月ほどたってポケベルを契約したような記憶があります。
近くに図書館を見つけたことによって、読書の飢えは早いうちから癒やすことができました。

それだけです。
あとは妻と会うだけの日々。本当に、どうやって毎日を過ごしていたのかほぼ覚えていません。

完全なる孤独と自由の日々


この頃の私はどうやって世間と渡りをつけようとしていたのでしょう。恵まれたコミュニケーション手段に慣れきった今の環境から思い返すと、信じられない思いです。
でも、何もないスタートだったからこそ、かえって新生活の出だしには良かったのかもしれません。
妻以外の知り合いはほぼ居らず、徹底した孤独。それでいて完全なる自由
この頃の私が享受していた自由は、今や20年近くの年月が過ぎた今、かけらもありません。

この連載を始めた当時(2017年)の数カ月、私はFacebookをあえてシャットアウトしていました。毎日、投稿こそしていましたが、他の方の投稿はほとんど目を通さず。
仕事が忙しくFacebookを見ている時間が惜しかったことも理由ですが、それだけではありません。私は、上京したばかりの当時の私に可能な限り近づこうと試みていたのです。自由な孤独の中に自分を置こうとして。
もちろん、今は家族も養っているし、仕事も抱えているし、パートナー企業や技術者にも指示を出しています。孤独になることなどハナから無理なのです。それは分かっています。
ですが、上京当初の私が置かれていた、しがらみの全くない孤独な環境。それを忘れてはならないと思っています。
多分、この頃の私が味わっていた寄る辺のない浮遊感を再び味わうには、老境の果てまで待たねばならないはず。

職探し


足の確保に続いて、私が取りかかったのは職探しです。
そもそも、私が上京に踏み切ったのは、住所を東京に移さないと東京の出版社に就職もままならなかったからでした。
住民票を東京に移したことで、退路は断ちました。もはや私を阻むものはないはずと、勇躍してほうぼうの出版社に履歴書を送ります。
ところが、出版経験のない私の弱点は、東京に居を移したからといって補えるはずがなかったのです。
そして、東京に出たからといって、出版社の求人に巡り合えるほど、現実は甘くはなかったのです。出版社への門は狭かった。
焦り始めた私は、出版社以外にも履歴書を送り始めます。そうすることで、いくつかの企業からは内定ももらいました。
覚えているのは品川にあった健康ドリンクの会社の営業職と、研修を企画する会社でした。が、あれこれ惑った末、私から断りました。

私は、生活の基盤を整える合間にも、あり余る時間を利用してあちこちを動き回っていました。
例えば土地勘を養うため、自転車であれこれと街を見て回っていました。
町田から江の島まで自転車で往復したことはよく覚えています。
江の島からの帰り、通りすがりの公衆電話から内定を辞退したことは覚えています。上にも書いた研修を企画する会社でした。

私が内定を迷った末に辞退したのも、大成社に入ってしまった時と同じ轍を踏むことは避けたいと思ったからでしょう。
そして、思い切って上京したことで就職活動には手応えを感じられるようになりました。少なくとも内定をいただけるようになったのですから。
かといって、いつまでも会社をえり好みしていると生活費が尽きます。もはや出版社の編集職にこだわっている場合ではないのです。
ここで、私は思い込みを一度捨てました。出版社で仕事をしなければならない、という思い込みを。

この時の私は職探しにあたって、妻や妻の家族には一切頼りませんでした。
将来、結婚しようとプロポーズを了承してもらっていたにも関わらず、職がなかった私。
そんな状況にも関わらず、私は妻に職のあっせんは頼みませんでしたし、妻もお節介を焼こうとしませんでした。
そもそも、当時の妻が勤めていたのが大学病院の矯正科で、私に職をあっせんしようにも、不可能だったことでしょう。

今から思うと、結果的にそういう安易な道に頼らなかったことは、今の私につながっています。多分、ここで私が妻に頼っていたとすれば、今の私はないはずです。
ただ、一つだけ妻が紹介してくれた用事があります。
それは、大田区の雑色にある某歯医者さんを舞台に、経営コンサルタントの先生が歯科のビデオ教材を録画するというので、私が患者役として出演したことです。
たしか、私が上京して数日もしない頃だったように思います。

当時の私に才がほとばしっていれば、この時のご縁を活かし、次の明るい未来を手繰り寄せられたはずです。ひょっとしたら俳優になっていたかも。
少なくとも、今の私であればこうした経験があれば、次のご縁なり仕事なりにつなげる自信があります。
ですが、当時の私にはそういう発想がありません。能力や度胸さえも。
愚直に面接を受け、どこかの組織に属して社会に溶け込むこと。当時の私にはそれしか頭にありませんでした。つまり正攻法です。

このころの私の脳裏には、まだ自営や起業の心はありませんでした。
自分が社会に出て独自の道を開く欲よりも、大都会東京に溶け込もうとすることに必死だったのでしょう。そうしなければ結婚など不可能ですから。

この時、私がいきなり起業などに手を出していたら、すぐさま東京からはじき出され、関西にしっぽを巻いて帰っていたことは間違いありません。
もちろん、妻との結婚もご破算となっていたことでしょう。
無鉄砲な独り身の上京ではありましたが、そういう肝心なところでは道を外さなかったことは、今の私からも誉めてあげてもよいと思います。

妻の住む町田に足しげく通い、結婚式の計画を立てていた私。浮付いていたであろう私にも、わずかながらにも現実的な考えを持っていたことが、今につながっているはずです。

結局、私が選んだのは派遣社員への道でした。職種は出版社やマスコミではありません。スカイパーフェクTV、つまり、スカパーのカスタマーセンターです。
そのスーパーバイザーの仕事が就職情報誌に載っており、私はそれに応募し、採用されました。
考えようによっては、せっかく東京くんだりまで出てきたのに、当時の私は派遣社員の座しかつかめなかった訳です。

しかし、この決断が私に情報処理業界への道を開きました。
次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


弁論の力


先日、一人で相模原の旧津久井町にある尾崎咢堂記念館に行ってきました。

尾崎咢堂翁は、またの名を尾崎行雄ともいい、明治から昭和にかけ政界で重きをなした方です。「憲政の神様」の異名も持ち、憲政記念館の中庭には銅像も立っています。憲政記念館自体、もともと尾崎咢堂を記念して建てられた建物。国家議事堂のそばに建つ憲政記念館を訪れるとすぐに翁の銅像に出会えます。私は昨年、二度ほどセミナーで憲政記念館を訪れました。そして中庭に立つ咢堂翁の銅像と対峙し、手前にある碑に刻まれた翁の言葉を心に刻みました。その言葉とは、
「人生の本舞台は常に将来にあり」
これは、私が常々思っていることです。



尾崎咢堂記念館は、私が結婚して町田に住みはじめてすぐの頃に一度行ったことがあります。自転車で寄り道しながら十数キロ走って記念館にたどり着いたのは夕方。すでに記念館は閉まっていました。以来、18年の月日が流れました。記念館の付近は橋本から相模湖や道志へ向かう交通の要です。18年の間には何度も通りかかる機会もありました。それなのに行く機会を逸し続けていました。しかし、憲政記念館で尾崎翁のまなざしに接したことがきっかけで、私の中で記念館を一度訪れなければとの思いが再燃。この度、良い機会があったので訪れました。

翁の生涯については近代史が好きな私はある程度知っていました。憲政記念館の展示でも振り返りましたし。少しの知識を持っていても、翁の生誕地でもある記念館に訪れて良かったです。なぜなら、生涯をたどったビデオと、展示室で館長さんから説明いただきながら振り返った翁の生涯は、私い新しい知識を教えてくれたからです。翁の生涯には幾度もの起伏があり、その度に翁はそれらを乗り越えました。その中で学んだことは、翁が憲政の神様と呼ばれるようになった理由です。その理由とは、弁論の力。

尾崎咢堂翁の生涯を追うと、幾度かのターニングポイントと呼べる時期があります。そこで翁の人生を変えたのは、文章の力です。若き日に慶應義塾で学んだ翁が福沢諭吉に認められたのも論文なら、福沢諭吉の紹介で入社した新潟新報でも論説の力で台頭します。

ただ、そこからが違う。翁が神様と呼ばれるまでになったゆえん。そこには弁論の力がありました。まず、翁が認められ、新潟から東京に官僚に取り立てられたきっかけは講演です。政治の世界に入ってからも、桂首相弾劾演説や、普通選挙法の決議を訴える翁の遊説は全国に尾崎行雄の名を轟かせました。国が右傾化する中、翁は議会の壇上で弁論によって軍に反抗し、議会制民主主義の良心を訴え続けます。


世界に類をみない63年もの議員生活。それを支えたのは文章力に加え、弁論の力だった。特に後者の力が翁を世界的な影響力を持たせた。その影響力は、戦争中に米軍が巻いたビラの中で翁は日本における自由人の代表として挙げられています。私は、記念館でそのことを教えられました。そしてその気づきを心にしっかりと刻みました。

ひるがえって今、です。

いまは誰もがライター、誰もがジャーナリスト、誰もがインフルエンサーの時代です。しかもほとんどが志望者。バズれば当たるが、ライバルは無数。いつでもどこでも誰もが世界に向けて文章を発信でき、匿名と実名を問わず意見を問えます。ですが、誰もが意見を発信するため、情報の奔流の中に埋もれてしまうのがオチ。あまりの情報量の多さに、私はSNSからの情報収集をやめてしまいました。最近は論壇メディア(左右を問わず)や書籍から情報を絞って取り込むようにしています。

そんな今、無数の発信者の中で一頭地を抜く方々がいます。それらの方々に共通するのは、弁論の力、です。

例えば、経営者がプレゼンの達人である会社。いわゆるトップ営業を得意とする企業には活気が漲っている印象を受けます。代表的な人物は米アップル社の故スティーヴ・ジョブズ氏でしょう。また、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる方々は、ブログやツイートだけでなく、イベントでのトークがもてはやされます。また、文章での表現に秀でた方は、講演にも秀でている方が多い。そんな印象を受けます。

実際、彼らのトークを聞くと、何かしら心が高揚します。そして、高揚した気持ちとトーク内容が積極的に記憶されます。正直なところ、トーク自体に含まれる情報量は、文章よりも少ないことがほとんどです。しかし、記憶に残っているのは文章よりもトークの内容。そんな経験をされた方もいるのではないでしょうか。

なぜか。考えてみました。

多分、感情と理性がうまく脳内で混ざり合った時にこそ、情報は記憶されるから、というのが私の素人なりの考えです。文章を読む時、人の脳は理性が勝る。そこには感情の関わりが薄い。その一方、手練れの講演者は間に笑いを挟み、聴衆の注意を引きつける。笑うことは感情を刺激し、聞いた内容を脳内に刻む。そのため、講演内容が記憶され、肚に落ちる。私はそんな風に考えています。また、講演をじかに聞く時、私たちは視覚と聴覚を使います。文章を読むときは視覚だけ。その差もあると思います。

つまり、今や文章をアップするだけではだめなのです。もちろん発信することは大切です。ただそれだけでは無数のネット上の文章に埋もれます。文章に加え、人前で弁論をふるい、視覚と聴覚で訴えるスキルが求められると思うのです。それは私のように普段から商談に臨む者にとってみればスキルの延長です。もちろん、提案書だけで一度も会わずに受注いただくこともあります。でもそれはレアケース。一対一の商談に加え、一対多でも表現して、発信するスキル。人前でしゃべる機会を持ち、スキルを磨くことで受注ばかりか、引き合いの機会も増えてゆく。その取り組みが大切なのだと思います。それは私のように経営者だけに限りません。勤め人の方だって同じです。日々の業務とは自己発信のよい機会なのですから。

私は三年前に法人化しました。それからというもの、文章でアピールするだけでは今の時代、生き延びられないと考えていました。それでおととしはしゃべる機会を増やしました。人前でしゃべる技術。それは一朝一夕には得られません。とくに私のようにプログラミングをしていたらプログラマーに、システムの構成を考えていたらシステムエンジニアに、文章を書いていたらライターになってしまう要領の悪い脳を持っている人にとっては切実に欲しいスキルです。

ところが昨年の私は年末に総括した通り、開発やブログを書くことに集中してしまいました。人前で発信する機会は一、二度とほど。サッパリでした。失敗しました。売り上げこそかろうじて前年比増を達成したとはいえ、それでは今後、生き残れません。去年の失敗を挽回するため、今年は人前で話す機会を増やしています。ここ数日も人前で二、三度しゃべりました。その一度目の成果として、明日5/16にサイボウズ社本社で行われるセミナーに登壇します。リンク

明日に向けてリハーサルも何回か行い、内容は練りつつあります。が、まだまだ私のトークスキルには向上の余地があるはず。少なくとも尾崎咢堂翁のように人に影響を与えるには、さらなる研鑽が必要です。そのためにも今回に限らず、今年は積極的にお話しする機会に手を挙げるつもりです。私の知己にも、紙芝居形式のプレゼンを行う方や人前で話すことに長けた方がいます。そういった方の教えを請いつつ、少しでも尾崎翁に追いつきたいと決意を新たにしました。

弁論の力こそ、ポストA.I.時代を生きるすべではないか。そんな風に思った尾崎咢堂記念館でのひと時でした。


冷血(上)


著者の執拗かつ克明な描写には読むたびに感心させられる。行間から生活感が臭い立つとでも云えばよいか。実在の建物や店舗が登場し、ちょっとした細かい風景は現実をそのまま映したかのよう。街の描写がリアルなあまり、道行く人の動きが見え、車の通過音が聞こえ、路面店の食材の匂いが漂うのが著者の文章だ。

ましてや、その場所が読者にとって良く知る場所だったら猶更である。著者の出世作「黄金を抱いて翔べ」では、吹田や大阪のあちこちが登場した。「黄金を抱いて翔べ」を読んでから数年後、私は吹田に引っ越すことになる。「黄金を抱いて翔べ」の舞台を巡るような気持ちで自転車を漕いだのを覚えている。

本書では、町田や相模原が多数登場する。登場する交差点、パチンコ、通りなど、全てリアルに映像が思い浮かぶ場所ばかり。本書に登場する二人の男が衝動のままにATM破壊やコンビニ強盗や空き巣物色を行う場所が、私や家族の行動する範囲と重なる。それは、読んでいて背筋に戦慄を感じる経験だった。本書で犯人達が移動した軌跡は、おそらく我が家から20メートルも離れていない場所を通っている。つまりは私の妻子が短絡的で刹那的な男たちに遭遇する可能性があるということ。それが本書では現実のものとして感じられた。今まで様々な本を読んできた私だが、虚構の小説からリアルな慄きを感じたのは本書が初めてだ。

ただし、本書でメインの犯行現場となるのは東京都北区の西が丘だ。町田と相模原をさまよった男たちは、空き巣物色で意に沿う家が見つからず、その挙句、ふとした思いつきから赤羽へと向かう。犯行現場となった歯科医家族の住む家は、本書で番地はおろか号まで出される。伏字ではなく。実際にWebマップで調べたところ、番地こそ実在しないものだったが、そのひとつ前の番地までは実在している。つまり限りなくリアルに近い犯行現場。しかも、その近隣にはいくつか歯科医院が建っている。その歯科医は、ひょっとすると著者の中で犯行現場のモデルとして対象になったのかもしれない。現実にある当の歯科医さんにとっては心穏やかではない話だ。もし本書の犯行現場が町田の歯科医であれば、私は果たして本書を最後まで読み通せたか心許ない。きっと動揺なしには読めなかったことだろう。

場所描写の緻密さもさることながら、本書は犯人二人の心中の描写にもかなりの語彙を費やす。冷血というタイトルに相応しく、著者は犯罪者の内面を念入りに追い詰める。風景描写以上に執拗に。何故犯罪に手を染めるのか。何故衝動に駆られるのか。動機が復讐や金、名誉といった分かりやすいものならまだいい。しかし本書の二人の犯罪者は、金がない訳でもない。復讐する相手がいる訳でもない。ただ偶然にネットで連絡を取り、そのまま犯罪へと突き進む。その行動は支離滅裂で破天荒。目的もないままの行きあたりばったりの犯罪。だが、著者の筆さばきは冷静極まりない。パチスロの音や虫歯の痛みなど、犯罪者たちの脳内にうごめく意味不明な音また音が紙面に垂れ流される。著者はそういった意味不明な部分まで計算しきったかのように描く。その冷徹さには凄味を感じるほかない。冷血とは著者の紡ぎだす筆致を指すのではないかと思いたくなるほどだ。

そのような異常な世界とは対比させるように、著者は本書の冒頭から被害者となる歯医者一家の日常を淡々と詳細に描写する。犯罪者二人の狂気一歩手前の描写に比べ、よくある小金持ち一家の、幸せそうな日常。幸せそうでいて、内面は家族それぞれが別々の方向を向いているよくある一家の日常。その日常が、中学生の長女の視点から描かれる。おとなの判断力を身に付けつつある中学生女子の突き放しながらも家族あっての視点。それと脳内に意味不明な音を反響させる狂気一歩手前の男二人の視点。その正反対の描写が交互に描かれるのが本書前半である。読者は中学生女子を被害者として連想することは出来るものの、二人の男の行動があまりにも無軌道なため、筋書き次第では町田・相模原での惨劇も畏れつつ、ページをめくる。歯科医一家の住む地区が北区西が丘であることが分かっていながらも、交互に描かれる加害者と被害者の心理描写がじわじわと読者を不安に陥れる。私のような町田市民にとってはその効果は猶更である。北区の読者にとってもおそらく同じような緊張感をもたらすに違いない。

惨劇が起こった後は、被害者の視点はもちろんのこと、二人の犯罪者による視点も本書からは退く。替わって登場するのは合田雄一郎の視点だ。合田雄一郎といえば、著者の長編小説にとって欠かせない探偵役として知られる。探偵役といっても、合田雄一郎が快刀乱麻を断つがごとく解決する訳ではない。むしろ合田雄一郎は組織には逆らわない。人情味や酷薄さ、アウトローといった性格付けもされていない。癖がないキャラクターとして設定されているのが合田なのである。組織に忠実なのが却って個性と言えるぐらいに。

本作では、合田雄一郎が係長として捜査本部の仕切りを担当する。仕切りとは、どの刑事を何の操作に割り当て、といった仕事だ。通常の警察モノのドラマや小説では取り上げられることも少なく、脚光を浴びにくい仕事だが、実は捜査には欠かせないキーマンだったりする。捜査一課長が訓示を垂れる裏側では、合田係長のような体制づくりのプロが必ず捜査本部の仕切りを行っているのだ。

そして合田係長の仕切りは無難にこなされ、優秀な日本警察の捜査網によって犯人像は絞り込まれ、あえなく二人の男は逮捕となる。それが本書上巻の幕切れである。通常の警察小説だと、犯罪が起き、捜査の過程を描き、追う警察と追われる犯人の息詰まる攻防を描くのが定石だ。しかし本書ではどのように犯罪者たちを追うのかに焦点を当てると思いきや、呆気なく犯人逮捕に至らせてしまう。いったい著者の意図はどこにあるのか、と思われるかもしれない。私もそうだった。

しかしこの後、本書には下巻がある。物語はまだ半分しか進んでいないのだ。下巻に至り、著者の凄味はますます冴えわたることになる。冷血という題を付けた著者の意図も明らかになる。

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