今から三年ほど前、妻が奈良の仏像巡りにはまっていた。私は言うまでもなくもともと寺院巡りが好きな人。そんなわけで妻とは各地の寺院によく参拝していた。

薬師寺に2年連続で訪れたのもこの頃。2014年正月に家族で薬師寺を訪れた。薬師寺といえば本尊薬師三尊像は外せない。金堂に安置されているそれらを見に訪れた時、一人の精力的なお坊さんが私たちに法話を聞かせてくださった。その方こそ、本書の著者である大谷徹奘師だった。

その明快な語り口、内容はとても魅力に満ちていた。われわれはどうしても宗教家というと、卓越した意志で世俗から超越し、人生の高みへ向け切磋琢磨する修行者の印象を抱きやすい。だが、著者は違った。法話では自分自身が欲望や欲求に負けやすいことを正直に吐露していた。その率直さには胸を打たれた。

そもそもあらゆる仏僧が超越の高みにあると誰が決めたのか。今なお九百年前に生きた親鸞が取り上げられるのも、不犯も叶えられず煩悩に苦しんだ自身を率直に語ったからではないか。もちろんテレビに出まくり、高級車を乗り回し、酒池肉林を地で行くような破戒僧を肯定するわけにはいかない。でも、自らのうちにある欲望を正面から見つめ、そこに向けて努力する姿こそが宗教家というものではないか。すでに完成された聖人はもはや人間として別次元のお方。そうではなく同じ地平に立つ弱い人間の視点で、なおかつ努力する向上心こそがわれわれ凡人の胸に響くのだと思う。

著者は明朗快活にそのような視点で生きることの要諦を法話で語ってくださった。もちろん、立て板に水というべき流暢な語りには法話に慣れた方の達者さが見え隠れしていて、われわれ一般人の視点から一段上にいる。だが、それを差し引いても著者の法話にはとても印象を受けた。薬師寺の売店で著者の著作を見てからというもの、いずれは本でもお目にかかりたいと願っていた。

本書は私にとってそんな思い出で結びついた一冊だ。内容もタイトル通り静思を勧める内容となっている。静思(じょうし)と読む。仏教用語らしいが本書で初めて知った。

正直に言うと、静思という概念には目から鱗が落ちるほど目新しさは感じられない。簡単にいうと、何か事を成すにあたっては、じっくり自問自答し、その後に行動しましょうという意味だ。そんなこと誰でもやっとるわ、と言いたいところだが、ここで静かに思い、問うてみたい。自分は全ての行動に対して、深く自問自答してから行動しているか、と。するとどうだろう。ほとんどの行動は慣れとルーチンに支配されていないだろうか。当たり前だ。こんなに忙しい昨今、いちいち行動のたびに黙考してから動いていられない。それでは世の流れに遅れるばかりだ。ところがそうやって反射的に行動することで、実は多くのことを見失ってはいないか。それが著者の言いたいことだと思う。

そんな反射的、刹那的な行動を繰り返していると、大切なものをこぼし続けたまま老境に至ってしまう。そこに静思を挟むことで、人生を丁寧に過ごしていけるのだと著者はいう。

小さなうちは時間が遅く感じるのに、長じるにつれて時間の進みが早くなる。誰もが感じることだ。なぜそうなるのか。それは多分、考えず反射で動いているからではないか。反射とは無意識の行動だ。反射を繰り返すと脳内では無意識の流れが支配的になってゆく。それが大勢を占めると、時間が意識を飛び越え、時間だけが過ぎてゆく。意識が時間を意識しなくなるといえばよいか。これが大人になれば時間が早く過ぎる理由ではないか。

静思を生活に持ち込むことで、行動の前に考える間合いが身につく。それはすなわち生活にリズムとメリハリを生み、過ぎ去る時間の速さを弱める。そして日々の生活にハリをもたらし、人生に潤いをあたえる。私が思う静思とはそんな感じだ。

ところが、それが難しい。生きる糧を稼ぐとは、限られた時間でどうやって効率的に稼ぐかだ。仕事のすべてにいちいち静思していたら、能率の悪いことこの上ない。だから人々は静思を忘れ、日々の忙しさに気を紛らわしてしまうのだ。立ち止まって考えることが大切ということは、本書のような本を読むたびに思い出すのに。

本書で静思を理解したと早合点してはならない。本書はそれ以外にも読みどころが多いのだ。著者は薬師寺の僧侶としての勤めの合間を縫い、法話を携え全国をめぐる。そしてそこでさまざまな方に出会う。著者が各地で出会った方とのエピソードが本書にはたくさん紹介されている。それは著者の静思の心を深めてゆく。

例えばとある経営者のエピソード。その方は経営者として成功を収めたが、自分のやってきたことは「信念」なのか「我」なのかを迷う。著者はそれに対してこう伝える。「後ろを振り向いたときに人がついて来てくれていたならば、それは『信念』。後ろを振り向いたときに誰もいなければ、それは『我』です」(160P)

また、今のお坊さんと普通の人がどう違うのか、という問いに対し、著者は「生きている自分だけを意識するのではなく、先祖となる自分をも意識して生きていること」という答えを導き出す。このように本書には深い話がたくさん出てくる。法句経にある静思を噛み締めるには定義だけを分かった気になるのではなく、それを実践する必要がある。それでこその静思なのだろう。

また、機会があれば薬師寺で著者の法話を聞いてみたいものだ。

‘2016/10/06-2016/10/08


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