あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/25にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

重荷を背負う


1999年。ノストラダムスの大予言で恐怖の大王が落ちてくるはずの年は、ユーロ導入で幕を開け、2000年問題の不安で幕を閉じました。
台湾とコロンビアで大地震が起き、天変地異の不安に世間が苛まれた一年でもあります。
NATO軍がユーゴスラビアを空爆し、東海村JCO臨界事故やコロンバイン高校の銃乱射事件に世間は震えました。世紀末じゃないのに聖飢魔IIが解散した年でもあります。

この頃の世間を騒がせるニュースは不景気を反映したものばかり。バブルが弾けてから続く不況は、一向に解決の兆しを見せないままでした。
そんな一年でしたが、私の1999年はバラエティに溢れていました。
丸刈りにされ、クビにされ、飛び出すように上京し、家を借り、職に就き、親から自立し。その経緯は今までの連載で触れたとおりです。
1999年の私を語るにはそれだけでは足りません。結納し、婚姻届けを提出し、結婚式と披露宴と二~四次会を挙げ、新婚旅行に旅立ち、職場では統括部門に引き上げられました。
目まぐるしいあまり、かえって1999年の私の記憶はあいまいです。
今回は親から自立してからの私の1999年を語りたいと思います。

9月29日。4月1日からの半年間の独り暮らしが終わった日です。
その日、私は独り暮らしのマンションを引き払い、町田へ引っ越しました。
引っ越し先は前回の連載で触れた、町田駅近くに建つ敷地180坪の鉄筋3階建ての家です。私は結局、妻側の意向に負けてしまいました。
心機一転、しがらみも遺産もなしに新婚生活を迎えたいと願った私の努力は水の泡となったのです。
努力といっても結婚をご破算にするほどかたくなに反対しなかったのですから、それは私自身の選択の結果です。

そもそも、私の努力は報われない運命にあったのかもしれません。
妻と新居を探しに行った回数は数えるほど。横浜線の中山駅近くの物件とか。
でも、どの物件も妻の祖父母が住んでいた邸宅に比べると狭く、妻を満足させるには物足りません。
それも当然です。しょせん、180坪の家と比較できる物件などあるわけがないのです。いかんせん敷地の広さが違いすぎました。

その結果、私は26歳の若造でありながら、町田の中心部にある180坪の土地とそこに建つ二軒の家を自由に使える身分になりました。
それは他人からすると恵まれた立場なのでしょう。ギャクタマ人生ここにめでたく大団円。

とはならないのが私の人生です。
ここで私が自らの意思を貫かなかったことは、私のその後に大きな影響を与えました。
ひょっとすると、この家に住まなければ私が”起業“することはなかったかもしれません。
そして、この広大な土地と家屋に住んで得た恩恵は、私にそれ以上の重荷となってはね返ってきます。
そして、その重荷は私を大きく成長させてくれました。そのてん末については、本連載でいずれ触れるつもりです。

リクルートされる


その前に私がスカパーカスタマーセンターの「登録チーム」から「運用サポートチーム」に移った時のことも書いておかねばなりません。
「登録チーム」の集計作業の手間を軽減するため、私が作った集計用Excelのマクロ。
それについては連載の第二十五回で触れました。そのマクロが私に次なる道を開いてくれたことも。

私が「運用サポートチーム」に呼ばれた理由は、ちょうどその頃「運用サポートチーム」で集計を担当されていたNさんが産休で離れることになったからです。
その替わりの要員として白羽の矢が立ったのが私。
「登録チーム」に何やら集計ツールを作ってるスーパーバイザーがいる、という情報が届いたのでしょう。
それをきっかけに私は半年ほど在籍した「登録チーム」を離れ、「運用サポートチーム」に引き抜かれました。

連載の第二十五回で「登録チーム」での日々は楽しかったと書きました。
オペレーターを勤める派遣社員の皆さんがたくさんいる職場。上京したばかりで心細い私にとって、学生のような若々しい気持ちでオペレーターさんたちと触れ合えたことがどれだけよかったか。
その前職が、社訓の絶叫と怒鳴り声にまみれ、終わりなきノルマと日報に毒されていた現場だっただけに、「登録チーム」での日々は私を救ってくれました。

ところが、「運用サポートチーム」にはオペレーターがいません。オペレーターどころかスーパーバイザーすらいません。
「運用サポートチーム」のメンバーは、マネジャー、シニアマネジャー、そしてジェネラルマネジャーのみ。つまり、精鋭です。
パソナソフトバンクが請け負う各チームを統括し、お客様(スカパー)と橋渡しを行う部門ですから、スーパーバイザーの職責では釣り合わないのです。
そんな部署ですから、「登録チーム」で楽しめたようなオペレーターさんたちの馴れ合いは、「運用サポートチーム」には無縁です。
運用サポート島はオペレーターやスーパーバイザーからは近寄りがたい雰囲気を漂わせていました。

ただ、私には「運用サポートチーム」に移るにあたり、深刻に葛藤した記憶がありません。
今から振り返ると、そんな伏魔殿のような「運用サポートチーム」への異動は断るべきだったのかもしれません。
慣れ親しんだオペレーターさんやスーパーバイザーさんたちから離れる。そのことに私がためらいを感じなかったとも思えません。
それでも私は、あまり深く考えずに移籍を了承したように思います。
多分、当時の私は目前に迫った結婚のことで精いっぱいだったのでしょう。同じ大変なら異動もあわせて受けてしまえ、という心境だったのかもしれません。 そのあたりの詳細な心境は今となっては思い出せません。

今思えば、この時に異動を了承したことで、私は起業へと続く道の一歩を踏み出したのだと思います。
なぜなら、このときから起業に至るまで、私の人生にはステップアップの機会が次々とやってくるからです。

次のステップへ飛び込む


本連載の第一回で私はこう書きました。
「いままで、私の人生には岐路がいくつも訪れました。その度に、私は個人と家族と仕事を平等に扱い、判断してきました。」と。

この時の移籍が私には一歩を踏み出した、と書きました。
今、起業までの私の人生を振り返って思うのは、私が自分から積極的にチャンスをつかみに行ったことがあまりないことです。
私から岐路へ向かうのではなく、岐路が向こうから私のもとを訪れてきた。そう思う経験のほうが圧倒的に多いです。
私は、岐路が訪れる度ごとに、自分なりに判断を下してきただけにすぎません。

私の何が起業に至らせたのか。
その問いに答えを出すとすれば、それは向こうからやって来るチャンスをことごとく受け入れたことだと思っています。

自分から積極的にチャンスをつかみに行ったことはない、と書きました。
それはつまりアピールです。
例えば、「登録チーム」でマクロツールを作ったのは私が技術をアピールするためではありません。私のスキルをアピールするためにマクロを作ったのではなく、単に集計作業を楽にするためにマクロを作っただけでした。これは断言できます。
それを同僚のスーパーバイザーのためにチーム内で公開したものが、たまたま「運用サポートチーム」の眼に止まっただけなのです。
このころ、私はWindowsやExcelのショートカットも覚えつつありましたが、それらもすべてはマウス操作が面倒だったからの話。
ただ目の前の課題を改善するために取り組み、それを無償で周りに提供していた
今思えば、私は無意識のうちに利他を実践していたのでしょう。

自分からアピールに行かないので、そもそも断られることはありません。向こうから申し出が来るのですから、私がそれを受け入れるだけの話。
「運用サポートチーム」への移籍の時もそうでしたが、私はこういう機会を前にして、自信がないとか不安だからという理由で断ったことがほとんどありません。
できるかどうかは、その場になってから初めてわかることなのですから。
それは、ひょっとすると私が楽観的で何も考えていない証拠にすぎないのかもしれません。
ですが、こういう向こうからやってくる機会を前にして及び腰にならず、あるがままに受け入れたことが、間違いなく今の私を作っています。

芦屋市役所や神戸市役所やダンロップの話を紹介していただいた時もそう。社会保険事務所のバイトを紹介してもらったときもそう。
派遣社員の時には、自らアピールせずに収入が途絶えましたが、それは私自身の実力がなかっただけ。
たくさんのありがたい申し出を拒まず、新しい世界に飛び込み続けたから今の私があります。 今、振り返ってつくづくそう思います。

ですから、考えようによっては最初に書いた新居の話も、私が意地を張らず、妥協したことが功を奏したのかもしれません。
ここで妥協したことで、家をめぐる試練から逃げずに立ち向かう環境に飛び込めたのですから。
この時の選択によって、26歳には重すぎる荷を背負った私。それが私を成長させ、今もなお結婚生活が続いて理由でもあると思っています。

1999年のその後について簡単に触れておきます。
9/29に町田に引っ越した私は、10/11に妻と婚姻届けを提出します。10月某日に引継ぎのため「運用サポートチーム」に着任。11/21には披露宴、二次会、三次会を滞りなく行いました。そのまま新婚旅行に一週間出かけ、帰ってきてからは前任者Nさんが離任した後の集計作業を担い始めました。

最後に1999年の私になり替わり、お世話になった皆様にあらためてお礼を申し上げたいと思います。
スカパー、引っ越し、披露宴、二次会、三次会、ハワイ。とてもたくさんの人にお世話になりました。
関西を飛び出し、東京に出てきた1999年を境に私の後半生は始まります。
そんな私のために関西からたくさんの友人に披露宴や二次会に来てもらえたこと。
披露宴と二次会は私の前半生と後半生をつなぐ懸け橋です。

次回は「運用サポートチーム」での日々を語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


One thought on “アクアビット航海記 vol.28〜航海記 その15

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