あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させていただくことになりました。前々回からタイトルにそって弊社の航海記を書いていきます。以下の文は2017/11/23にアップした当時の文章が喪われたので、一部修正しています。

芦屋市役所でデータ入力の仕事に

阪神・淡路大震災から1年9カ月後、地震で全壊した家を親が建て直し、一家で西宮に戻ることになりました。
時に1996年の10月。そんなタイミングで、先輩が声をかけてくださいました。データ入力の仕事をしないか、と。
その先輩は本連載の第十三回でも少し登場いただいた政治学研究部の方で、私が卒業する一年前に卒業して社会に出ていました。
その先輩が勤めていたのは、日本で知らない人はいない大手情報企業です。その企業が当時手掛けていたのが、兵庫県の芦屋市役所の人事システムの刷新案件でした(システム名は今まで完全に忘れていましたが、今調べて思い出しました。が、20年前のこととはいえ、念のため企業名とともにも伏せておきます)。
その案件の営業担当だった先輩が、ブラインドタッチができた私にオペレーターとして白羽の矢を立てたのです。今の私には先輩のお気持ちがよくわかります。ブラブラしている知り合いの若者がいれば、私もきっと声をかけるはずですから。
でも、当時の私にはそういう事情はさっぱりわかりません。その話を受けた時の情景や私の気持ちは忘れてしまいました。でも、私はお話をためらわずにお受けしたはずです。そして、これが私の転機となりました

上では刷新案件などとわかったようなことを書いていますが、当時の私は何も知りませんでした。
そもそもまともにパソコンを使うのは初めて。連載第十四回で取り上げたダブルスクールで触ったことと、大学の課外講習で一太郎の文書を作って5インチディスク(!)に保存したくらい。
あとは、シャープX68000でゲームやパソコン通信を少しかじっていたことでしょうか。このシャープX68000を譲ってくださったのが当時在学中の先輩でした。当時は先輩もまさか数年後にパソコンの仕事を世話するなんて思っていなかったはずです。人生どういうご縁があるかわかりませんよね。
ちなみにこの先輩は地震で全壊した我が家にまっ先に駆けつけ、差し入れを持ってきてくださった方でもあります。

このように、先輩から話を受けた当時の私は、全くのずぶの素人です。果たして私にパソコンを使った仕事ができるのか、というレベル。
なので、引っ越しのタイミングでうちの親がパソコンを買ってくれました。家用の。確かWindows 95だったはず。
とにかくよくわからぬまま、プレインストールされていたLotus1-2-3をおっかなびっくり触っていただけの。
今やSEでござい、と名乗っている私ですが、本当に何も知らない状態でした

SEの仕事に触れる

私が社会に出て最初の仕事。それが芦屋市役所でのデータ入力の仕事です。1996年の11月。
当初は二人の女の子と一緒に過去の職員の人事経歴を一生懸命パソコンに打ち込んでいました。
当初、私はIMEの変換方法を全く知りませんでした。変換方法もわからないまま、半角カタカナで一生懸命打ちこんだ結果を「ニイタカヤマノボレじゃないから!」とSEの方に怒られたのもこの時です。
後年、ITで身を立てていけるめどがついたあとも、このエピソードは何度も使わせてもらいました。要するに、当時の私はそのくらいパソコン音痴だったのです。そんなヤツがよく金融機関の常駐SEになりおおせ、”起業”にまで踏み切ったなぁ、というネタを語る時のエピソードとして。
私は今もなお、ユーザー側の立場でシステムを考えてしまいがちですが、それは初っ端のこの経験が尾を引いていると思います。

そんなオペレータの仕事ですが、ほどなく女の子たちは退場することになり、私一人でデータ入力の仕事を任されるようになりました。多分ブラインドタッチの腕が認められたのでしょう。
とはいえ、責任や束縛が増したわけではなく、自由でした。広い部屋で好きな時間に昼食を食べ、好きな時間に持参のマグカップに紅茶を淹れて。当時は紅茶に凝っていたのも懐かしい。海外から茶葉を取り寄せたりして。優雅ですよね。
今思えば、この頃は仕事にプレッシャーも何も一切感じていませんでした。

でも、SEの方は大変だったと思います。大阪だけでなく東京からもいろんなSEの方が入れ替わり立ち代わり来られていたくらいですし。素人の私にもシステム導入がうまくいっていない雰囲気が察せられました。
私が人生で初めてSEという人種に会ったのはこの時です。特にその中のトップSEの方にはお世話になりました。
私はこの方からエクセル・マクロの初歩の初歩を盗み、また教わりました。ニイタカヤマノボレで叱ってくださったのもこの方です。また、この方からは人生を楽しむ秘訣も教わったように思います。
この方とお昼を食べに行くたびに、街中のあらゆるものに興味を示す姿はいまでも記憶に鮮やかです。
あらゆるものに興味を示す、という姿勢は、今考えると、人生を生きていく上で最大の味方だと思っています。私はこの方から好奇心というものの大切さを深く教わりました。
20代の私がお世話になり、もう一度お会いしたいと思う方は何人もいるのですが、この方もその一人です。S藤さん、私のことをおぼえていたら連絡ください。心からお礼が言いたいです。

実務で使うプログラムなどそれまでの人生でまったく経験のなかった私ですが、この時にはじめて実務で使うプログラムに手を染めました。
そして、この経験が私にITへの道を踏み出させる一歩となりました。
今も私は、プログラミングを学ぶには実務が一番と思っています。それは、この時の自分の経験によるものです。

鬱に陥る

翌1997年の4月。私は正式に芦屋市役所の人事課のアルバイトとして、それまでいた広い部屋から人事課の部屋に移って仕事をすることになりました。
ここでは人事システムのオペレーションだけではなく、人事課の諸作業もお手伝いすることになりました。
諸作業とは、例えば人事考課の資料のチェックをしたり、稟議書のひな形などを作成したり。基幹システムのGUIの画面でカチカチとデータを打ちこんでひな形となる書類を印刷したり。
どれも懐かしい思い出です。他にもおおげさな帳合機で大量の書類を印刷して資料にまとめたり。

そんな風に社会への一歩を踏み出し始めた私ですが、実は芦屋市役所に入った少し後から1997年の夏ごろまでの約9カ月が、今までの40年少しの人生で一番の暗黒期でした。
暗黒というのは、精神が、です。多分、前年の地震遭遇から就職活動、旅三昧と続いた日々の反動でしょう。当時お付き合いしていた方から愛想をつかされたことも理由の一つです。
当時、読み漁っていた純文学の毒にあてられたことも鬱を亢進させたはずです。
躁に踊らされた時期から、一転、鬱に沈まされる。
つらかったです。生きていく自信を失い、死を思い、状況から抜け出そうとする気力すら湧かない日々。
尾崎豊の「シェリー」を一日中聞いていたのもこの時期。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」で自殺する主人公に衝撃を受けたのもこの時期。
毎日、かろうじて芦屋市役所には通っていたものの、自分がいつになるか這い上がれるのか、どこに行けばたどり着けるのか、完全に見失っていました

そんなつらい日々でしたが、徐々に最悪の時期を抜け出すことができました。
正直、この時期の思い出は断片的にしか残っていません。でも、いくつかの楽しいことだってありました。それは人事課の方々との交流の中で得られました。
レクリエーションとして部課対抗のPK合戦に駆り出されたこともあるのですが、この時に私が決めたシュートの鮮やかさは、いまだに私の成功体験の一つに刻まれています。
また、飲みにもよく連れて行っていただきました。そしてその度につぶれていたのもこの頃。神戸の山手の坂や芦屋駅前の路上で朝まで転がっていたことなど、きりがありません。
有馬温泉の保養所に泊りがけで連れていってもらったこともあります。
そんな日々が私を暗闇から徐々に浮き上がらせてくれました。

1997年の秋だったか、芦屋市役所の方からの勧めもあり、市役所の試験に受験しました。
もしこの時に受かっていたら私は1998年の4月から芦屋市役所職員になっていたはずです。ひょっとすると今もまだ市役所職員で頑張っていたかもしれません。
ですが、落ちました。多分、成績うんぬんより、私の状況や資質を見たうえの判断だったのかもしれません。酒にも弱いし。
でも、この時の人事課の皆さまには今も感謝しています
私が辞める際、一介のアルバイトの私のために会議室を確保し、人事部の皆さまから送迎会を開いていただきました。ねぎらいの言葉をかけていただき、花束の贈呈までも。
この時のことは忘れないでしょう。今も、この当時にお世話になった職員の方とは年賀状のやりとりが続いています。

芦屋市役所での約1年の日々。ここで私はコンピューターの初歩と社会で仕事をすることを学びました
一見、公務員と起業は正反対のベクトルを向いています。でも、目の前にあるタスクを解決しようとする時、そこには組織も個人もありません。起業の冒険も公務員の安定も関係ないのです。
休日にも出勤されている人事課の方の姿(私が何のために休日出勤していたのか覚えていませんが、皆さん私服で執務されていました)。日々の会話から感じる私の今後を案ずる思いやり。
今までの連載で何度も書きながら、当時のことを思い出していますが、”起業”した今でも、組織に勤める方を貶めたり、下に見たりする気はありません。
それはこの時に人事課で働いた経験が大きいと思います。
上に書いた私に好奇心を教えてくださったSEの方も、見るからにひどいインフルエンザで息も絶え絶えになりながら、東京から出て来て作業されていました。
当時の私は、皆さんが何を作業しているのか、何が彼らをそうさせるのか、全く理解できませんでした。が、人々が懸命にタスクをこなし、責任を全うしようとする姿勢は目にやきつきました
それは23才の若造にとても強い印象を残しました。その印象は私の人生の、とくに”起業”したあとのつらい時期に何度もフラッシュバックして私を鼓舞し続けています。
それ以来、24年がたとうとしていますが、実家に帰省したタイミングで機会があれば芦屋市役所を訪れ、外からみつめています。ここが私にとって「仕事」の原点だからです。

“起業”する前に、まず社会を知る。仕事を知る。これはとても重要なことだと思います。
もし本連載を読んでいる学生の方が起業を志していたとしても、起業の心は大切に温めつつ、一度はどこかの組織で揉まれてから”起業”した方がええよ、と言いたいです。
ま、私が言っても説得力はないかもしれませんが。

次回も、引き続き私の日々を書きます。


2 thoughts on “アクアビット航海記 vol.16〜航海記 その5

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