あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/2/15にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。今回は27歳の私がようやく正社員になる話です。

Y2K問題


2000年。Y2K問題の不安とともに幕が開いた年です。
Y2K、すなわち2000年問題とは、年月計算に関するコンピューターの不具合に起因する問題です。その不具合は1999年から2000年に年度が切り変わる際にあらわれるとされていました。
具体的には、コンピューターが年を2桁で管理していた場合に起こるとされていました。1999年は99、2000年は00と扱うように。このように年を扱っていた場合、2000年になった途端、年の値が00に切り替わります。すると00を2000年ではなく、1900年と誤認識してしまう。
これが2000年問題です。この問題によって年月計算にバグが生じ、誤請求やシステム停止などが発生するなど、社会が混乱すると警鐘が鳴らされていました。

結論としてスカパーでは2000年問題は起きませんでした。私も年末年始は休めたはずです。
ただ、年末にはトラブル時の対応について、注意を喚起するための文書が回ってきたように覚えています。

2000年問題とは、プログラマーやエンジニアでなければ興味の持ちようのない問題でした。それまでの私なら世にあふれるニュースの一つとして適当に片付けていたはずです。
ところが私にも2000年問題が自分のこととして感じられました。その当事者意識は、集計担当である自覚と、少しのExcelのマクロをかじったことによって生まれました。

そもそも私は大学時代、政治学研究部にいた頃から、さまざまなオピニオン誌を読んでいました。ところが、世界で頻発する問題の多くは、雑誌などの文章に埋もれていた私には、誌面の中に閉じ込められていた問題にすぎませんでした。つまり問題を生活の肌感覚で扱えていなかったのです。
実感するより前に、それらの問題は机の上や論壇で議論されるべきと、どこか引いて眺めていたように思います。
ところが、2000年問題は、私にとって社会の問題であると同時に、自分に直結する問題として受け止めていました。当時の私は、この程度の2000年問題の理屈であれば理解できるほどにはパソコンにふれていましたし。
これは私の成長でしょうし、独り身で東京に飛びこんだ成果だと見なしてよいでしょう。
とはいえ、2000年初頭の時点で、私のコンピューターに関する知識はまだExcelのマクロの延長でしかありません。
しかし、その一年で、私はシステムの楽しさに目覚めるのです。

二次元から三次元へ


この連載の第二十八回で私は「運用サポートチーム」にはオペレーターがいない、と書きました。ですが、それは少しだけ訂正させてください。
私が集計担当に着任した時、私の前任者Nさんの補佐としてオペレーターのKさんがいました。ただし、正確には週の限られた曜日だけの出勤でしたが。
私が集計担当に着任して数カ月たち、Kさんは私に新潮社のスポーツ年鑑ウィナーズというプレゼントを残して離任しました。
かわりに着任したのがOさん。私よりも数歳年下の女性です。そのOさんは前職でシステム開発をされていました。私はこのOさんからシステム開発の初歩を学びました。私を一つ上の次元に上げてくださったのがOさんです。

私がそれまで触っていたExcel。それは縦横二次元の表からなります。複数の表がシートの中に配置され、シートは何枚も集まり、一つのワークブックへ集積されていきます。つまり二次元の集まり。
ところが、集計の実作業に携わっていると二次元では限界が生じます。つまり三次元へと意識を飛躍させなければなりません。私は集計担当としてExcelを扱う中で、少しずつExcelの限界を感じ始めていました。どうやればより効率的で立体的な集計作業ができるのか。
ただ、Excelは工夫次第では、多次元の作業が可能です。
例えば私が「集計チーム」で作っていた集計表は、シートに書かれた行と列からなるデータを、別の入力シートからExcelのマクロで書き込むものでした。つまり行列の二次元の中だけではなく、別次元から二次元にデータを書き込む。それは二次元から高次元への進歩です。
そして、その考えをよりシステマティックに突き詰められるのがAccessだと思います。そのためにはAccessを覚えなければ。
ところが私はどうしてもAccessのフォーム・レポートとテーブルの関係が理解できませんでした。Accessはデータがデータとしてのみ存在します。データベース・ソフトなのですから当然です。
フォームを通してデータの入力と編集を行い、結果を見るにはレポートを使います。そうしたAccessの機能が私にはExcelに比べていくぶん柔軟性に劣ると感じました。

私はAccessのツボが理解できず、戸惑っていました。ツボを教えてくれる人も回りにいません。どういうふうに学べばよいか、突破口も見つかりません。すっかり困っていました。
そんな私にAccessのデータとフォーム・レポートの関係を教えてくれたのがOさんでした。Oさんによって二次元のテーブル、つまりデータが三次元のフォームやレポートへと結びつくことを教えてもらいました。
また、データがデータとして格納されていることで、データの整合性が保証されることも教わりました。
私はOさんのおかげで、プログラマーとして一つステップアップできたように思います。
今に至るまで、私は情報処理エンジニアとしていくつかの段階を乗り越えてきました。
それらの段階の中でも、この時に高次元の発想ができるようになるまでが最初の難関でした。そして、私が情報処理の世界で生きていくための重要なマイルストーンだったと思います。
20年以上たった今、Oさんとはまったく疎遠になっていますが、今でも感謝しています。

Oさんはシステム開発の会社を辞め、つぎに語学の分野に進みたいとの希望を持っておられました。
その合間に稼ぐため、オペレーターとしてスカパーの現場に派遣されていたそうです。実はスカパーのカスタマーセンターにはそういう方が何人もいました。学生や主婦以外だけでなく、たくさんの夢を追う人がいたのです。その中には私のようにとりあえず就職、という人ももちろん。

正社員へのお誘い


この連載の第二十五回https://www.akvabit.jp/voyager-vol-25/でも書いた通り、スカパーのカスタマーセンターには業務ごとに別々の会社が請負業者として参加していました。パソナソフトバンクもその一社です。
これだけ大勢の人が携わる現場であれば、パソナソフトバンクが請け負う業務の中で働いている人々も、パソナソフトバンクとの直契約ではありません。多くの派遣社員が集まる職場とは、とかく契約関係や商流関係が入り乱れ、複雑になるものです。私も後年、個人事業主として各現場を渡り歩く中で、そのことを理解しました。
ですが、この頃の私はそういう仕組みを一切知りませんでした。
スカパーのカスタマーセンターとは、私にとって就業の形にもいろいろなものがあることを教えてくれた現場でした。
それまで、私の経験の中で似たような現場といえば神戸のDUNLOPくらいでしょうか。
でもDUNLOPではこの連載の第十八回https://www.akvabit.jp/voyager-vol-18/に書いた通り、私自身が何のために現場にいるのか皆目わかっていなかったので、この時が初ての体験でした。

そんな無防備な私に対して、パソナソフトバンクの下で業務を請け負う会社が接触を図ってきます。
その会社の名前は忘れてしまいましたが、いくつかのチームのマネージャはその会社の社員さんだったように記憶しています。つまりマネージャを派遣する会社です。
その会社の方がそれとなく私の今後についての意図を聞いてきたのです。といっても当時の鈍かった私は、それが引き抜きの前触れであることに気づくどころか、その会社に誘われていたことにすら気づいていませんでした。
そんな私を見て、引き抜かれる前に引き抜いてしまえ、と思ったのかどうかはわかりません。ですが、パソナソフトバンクから正社員の誘いが来ました。それがいつだったのかは覚えていません。
今、私の手元には2000年6月27日付けの業務経歴書が残っています。ということはおそらく、2000年6月には面接に臨んだのでしょう。

私は新宿の本社での面接をへて、パソナソフトバンクの社員に採用されました。入社日は覚えていません。たぶん、2000年7月ではないかと思います。
この時、私は27歳にしてようやく正社員になれました。大学を出てから、アルバイトや派遣社員を渡り歩いていた私が、はじめて名刺を持ったのもこの時です。

それは間違いなく私にとってのステップアップでした。

引き続きゆるく永くお願いします。


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