アクアビット航海記 vol.48〜航海記 その31


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。ここから先はかつての連載が打ち切られた後に執筆しています。
家の処分をめぐる熾烈な攻防を描いています。本当にタフな毎日でした。

家を手放す決断


前回の第四十六回で書いた2003年のあわただしい日々。2003年は年末に地主の家に伺って地代を払うことで幕を閉じました。

その際、今後の家の処分について話し合いを持ちました。そこで決まった方針は、私たち一家が別の場所に引っ越す前提に準備を進めることでした。
その際、長井家と地主の間に残る肝心かつ山積みの懸案事項を一旦は棚上げしました。まずは家の処分について膠着している状況を前に進める。その思惑は双方で一致しました。

懸案事項とは以下の通りです。
・都市計画に含まれている道路拡張分の40坪部分について、長井家と地主の借地権割合
・都市計画に含まれていない建屋二棟を含んだ残りの140坪について、長井家と地主の借地権割合
・140坪の借地権の権利を持つのはどちらか。その借地権移転の補償額
・建物や庭木の処分はどちらが行うのか。その費用負担の決定

このように、私たちは新たな家を探す方向で決断しました。
今の家にずっと住み続ける事はできない。それは私にはわかっていました。
どう考えても地主が土地の借地権を売ってくれるはずはありません。また、私たちに140坪の所有権を買うだけの資産はありません。祖母から妻あてに遺産として残された一千万円は結婚してからの四年間で尽きかけようとしています。同じ場所に住み続ける手段は閉ざされていました。
奇跡は起こらない。当時の楽天的な私ですら、その事は理解していました。

私たちも無策だったわけではありません。さまざまな選択肢を模索していました。
本連載の第四十六回で第七案に挙げていた「土地と上物を第三者に売却する」ことも検討しました。
その時、私たちが売却相手として考えていた相手は、住んでいる家の前にある「あけぼの病院」です。あけぼの病院の理事長は妻とは面識があり、面会を申し込みました。そして、建物と土地を含めて買ってくれないかという話をしたのです。
病院としては敷地を拡張するチャンスです。あわよくば土地と建物を含めて買ってくれるのではないか。と言う期待を抱いていました。もし買ってもらえたら、私たちは土地や建物の売却について地主と交渉する重荷から逃れられます。
ところが、病院からはお断りの返事が返ってきました。
他にもさまざまな方にこの家の売却については相談にも乗ってもらいました。そうした相談の一部は本連載の第三十九回にも書いた通りです。

私たちはいくつかの不動産業者を訪れました。例えば住宅情報館など。他にもその当時、私が勤めていた会社の方からの紹介で相模原の総合建設業を営む谷津建設の方とも面談しました。

そうした方々から聞こえる地主の評判。それはやり手、かつ、剛腕の持ち主であることです。
この地主を知らない町田近辺の不動産屋はもぐりだとも言われました。そして皆さん、地主の存在を聞いた途端、一様に手を引いていくのです。
私が対決しなければならない地主とはそのような方でした。

家探しを始める

今まで本連載で書いてきた通り、私が幾たびの交渉を含めて感じた地主の老獪さと手ごわさは、私にとっての大きな壁でした。
穏便にこちらの願いを聞いてくれるタマではない。交渉にかけては老練の方ですので、生半可なことでは負けてしまう。私にとってこの交渉は毎回果し合いをしているようでした。

少なくとも私たち夫婦の認識は、膠着した状況を打破するため、新しい場所に移り、借地権を返すしかないとの方向で一致していました。
それもあって、年末には先方の提案を呑み、前に進めることにしたのです。

家探しに当たっては、地主からも候補となる物件を提示してくれるとのことでした。
実際、2004年の正月の松の内を過ぎると地主からFAXが届くようになったのです。

言うまでもなく、妻の思いは複雑だったと思います。住めるものなら引き続き同じ場所に住みたい。そう願うのは当然です。思い出の場所ですし。
工事の途中で放置されたままの診療室の惨状を見るにつけ、この家の命脈が尽きていたことは妻も分かっていたようです。

私たち夫婦は、FAXに記された地主さんが薦める家のいくつかを見に行きました。

私たちの家探しの条件は、町田市内であることでした。
妻が働く実家の歯医者は、町田市にあります。町田市から別の市へ転居すると保健所への登録の手続きが必要です。また、町田から引っ越すと神奈川県民になることも考えられました。
また、妻自身が町田に住みたいと思っていました。さらに私も職場が相模原市にあるため、町田に住めれば通勤が楽であることも考慮しました。
もっとも、この時点の私は、相模原の会社に骨を埋めることはないだろう、ゆくゆくは都内や横浜へ通勤することになるかもしれないとの想定もしていた記憶があります。

どういう順番で物件を巡ったか、そもそもどこを訪れたのか。あまり記憶は残っていません。いくつかの物件の場所は覚えていますが、私たちが地主から勧められた物件のうち実際に訪れたのは、せいぜい5カ所くらいだったように思います。

正直に言うと、地主の薦めてくる物件は心に響きませんでした。
それは仕方のないことです。私たちが住んでいるのは駅近に建つ180坪の敷地と二軒の家です。その条件と比べてしまうと、どの物件も見劣りします。
地主の薦める以外の物件も夫婦であたってみましたが、なかなか意中のものは見つかりません。

私たちの手元には少なくとも3千万円は入ってくるはず。さらにローンを組んだとして5千万円くらいの物件は買えるはず。それが私たちの皮算用でした。
ところが、この価格帯で探しても、私たちが望む物件はなかなか見つかりませんでした。
もちろん、私たちの当時の収入や実力から考えると、分不相応な望みであることは当時もわかっていました。が、ここで下手に妥協すると、180坪の家にある大量のモノを収める場所にも難儀するし、モノが収まらない。何よりも家庭が崩壊する可能性があります。

地主から市から通行人からの圧力


なかなか意中の家は決まらない一方で、借地権割合の交渉も並行して進めなければなりません。

上に書いた通り、私たちの住んでいた敷地の一部は町田市の計画した道路の拡張部分にかぶっていました。
町田市にとっては、何十年も滞りづけている道路拡張を進めなければなりません。長井家と地主の交渉の進展を今かと待ちかねています。既に道路拡張の他の部分は、工事を進めています。

長井家と地主の交渉の肝とは、上にも書いたように借地権の割合です。町田市からは、地主と私たちで取り決めた借地権の割合に按分して支払われます。この割合が7対3なのか、半々なのか、4対6なのかによって私たちの収入額は変わってきます。
2004年の3月には町田市よりあらためて40坪についての測定・資産評価の連絡がきました。約4000万円です。つまり、借地権割合が半々の場合は私たちには町田市から2000万が振り込まれますが、3対7になった場合、1200万円しかもらえません。

また、40坪についての借地権割合が決まっても、残りの140坪についてはどうするのか。普通に考えればこちらは50年以上住んでいるので占有権が主張できます。その部分の売却額をどのように交渉するのか。

この頃の交渉の推移はあまり覚えていません。後に弁護士の先生に提示するため、いきさつを時系列でまとめた資料があり、それを基に本稿を書いています。

2004年の4月になり、意中の家が見つかりました。成瀬の高台にある土地です。そこを妻が気に入り、そこに家を建築することで話を進めることにしました。
私たちはこの家のローンを含めた全額を地主に負担してほしいと提案しました。その代わり、180坪についての借地権割合は私たちがゼロでよいと。
それにあたって、地主からはまずその代金が高すぎる。値引き交渉をしてほしい、と。

もちろん地主としては、取り分を上げるために老獪な策を巡らしてきます。それはわかります。ところがそこで、地主は私にとって許しがたい手段に訴えてきました。

ある日、私が地主の家に交渉で訪れたところ、その場には見知らぬ人物の姿がありました。
歳の頃は私よりもずいぶん上、おそらく五十歳くらいでしょうか。ひと目でその筋の方であることを匂わせるわかりやすい外見ではありません。ですが、堅気ではない雰囲気を旺盛に発散しています。裏に剣呑な何かを仕込んでそうな、ただならぬ凄み。
私はこの予期せぬ人物の登場に体がカッと燃え上がりました。激高しかけたのを覚えています。その思いは必死にこらえましたが、抑えきれなかったはずです。上ずった声で啖呵を切ってその場から退出したのを覚えています。

この方の名前も忘れましたし、今、この方と街ですれ違っても気がつかないでしょう。
ですが、地主はこの私を甘く見ていました。
この結果、私は高ぶりました。絶対脅しに屈するものかとけて決意を固めると同時に、交渉に本気になりました。私がこの交渉に弱みを見せると、家族にとってはよくない結果が待っています。負けられない。私が腹を固めたのもこの時だったように思います。
もちろん、地主が私よりも交渉術にたけ、何よりも土地を持っている強みがあり、百戦錬磨の経験を備えた人物であることは承知の上です。

2004年の4月には道路拡張の歩道部分がわが家の敷地を除いて完成しました。それをきっかけに通行人からの嫌がらせが顕著に増えました。ごみを投げられたり罵声を浴びせられたり。
そして、私たちが地主と交渉している間に、上の成瀬の物件は売れてしまいました。前払い金を払うタイミングを逃したためです。町田市からもすぐには金額を支出できないとの話があり、みすみす意中の物件を逃してしまったのです。

身を削るような交渉が連日のように続く中、2004年はやがて下半期に移ろうとしていました。

次回も家探しの日々、そして地主や町田市との交渉を書きたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記-エンジニアによる発信


「アクアビット航海記」では、個人事業主から法人を設立するまでの歩みを振り返っています。
その中で、私のキャリア上の転機となってきたのは発信ではないかと思います。

技術者の方はアドボケイターやエバンジェリストという言葉を聞いたことがあるでしょうか。かくいう私もkintoneエバンジェリストという肩書をサイボウズさんからいただいています。

なお、余談ですが私はその時までエバンジェリストの言葉すらよく知りませんでした。引き受けたのはよいのですが、何をすればよいのか全く分かりませんでしたので。

しかも当時私がいた常駐先(某大手信販会社基幹刷新プロジェクトのPMO)は猛烈に忙しく、エバンジェリストの事を何もできずにいました。よく私がクビにならなかったと思います。正直、レアキャラと呼ばれていました。クビ候補筆頭だったはずです。お声がけくださった後、辛抱強く育ててくださったサイボウズ社のうっし~さんには感謝しかありません。

さて、そうしたエバンジェリストやアドボケイターという方が行う発信は確かに発信の見本だと思います。スティーブ・ジョブズが鮮やかに行っていたようなプレゼンテーションなんてできるはずがない。発信なんてしょせん雲の上の人たちがやるもの。そう思っていませんか。全くその必要はありません。

それを以下に書いていこうと思います。

意思を伝えることが発信

まず、発信とは技術者であるあなた自身の意思表明です。例えば、到底一人ではやれるはずのない実装を任されたとします。そこで何も意思を示さず、言われるがままにやらされてしまっていては、自分の心身はむしばまれるばかりです。

きっとあなたはこういうはずです。それは無理です。間に合いません、と。多分大丈夫だと思います。これらも立派な発信です。

もしくはエージェントやチームリーダーからこの案件ができるか、という問い合わせがきた際、あなたは自分のスキルを顧みて、こう答えるはずです。「できます」「楽勝です」「無理です」「鬼畜ですか?」「寝ながらできます」。これも立派な発信です。

まずは自分自身のスキルや状況をはっきりと相手に伝える。発信とはまずここから始まるはずです。

仕事している間はしょせん金を稼ぐ手段と割り切り、ポーカーフェイスで羊の皮をかぶって仕事をする人もいるでしょう。そうした方も、プライベートでは自分を友人や親や配偶者にさらけ出しているはずです。発信とはまず意思の伝達から始まります。

私のキャリアでいうと、まずは学生や若い頃の芦屋市でのアルバイト、派遣社員の日々が相当します。

状況をよくしたいと働きかける発信

自分自身の意思を表示するための発信はほとんどの人にとって当たり前の行為です。ですが、次のステップになると少しだけハードルが上がります。

例えば同じチームで気の合うAさんがやっている作業、見ていてとても非効率的。なんとかしたい。

そのような作業を見かねてアドバイスをしたとします。そしてAさんの業務効率は改善されました。これは立派な発信です。

では、特定のAさんにだけアドバイスをするのではなく、チームのミーティングの場で皆に対して発信することはどうでしょう。チームのメンバーは全員がAさんのように気の合うひとだけではありません。同じようにアドバイスしたつもりが、自分の仕事をけなされたと不快に思う人がでてくるかもしれません。ここから難易度が少しずつ上がっていきます。

この時、気を付けるべきは、相手を否定しないことです。否定せず、相手を認めた上で提案します。自分を振り返ってみてください。自分も完璧ではないですよね。未来も予測できないし、Wikipediaをそらんじて相手を驚かすこともできないはずです。人は完璧ではないのに、相手より絶対に正しいことはないはずです。それを踏まえ、相手を立てながら、改善点を伝えます。これも発信です。

むしろ、上に書いたエバンジェリストやアドボケイターとは、こうした発信をより多くの人にしているだけだともいえます。こうしたほうがよいですよ、楽になりますよ、という。

私のキャリアでいうと、スカパーのカスタマーセンターで働いていた頃、Excelの登録件数を集計する仕組みを改善しようと、マクロを使って効率を上げたことが挙げられます。この時、私はチーム内に自ら提案したように記憶しています。

自分の範囲外に働きかける発信

自分の周りの環境を変えられたら、今度はその範囲を少しずつ広げていきましょう。今の世の中にはありがたいことに発信する手段が無数にあります。ブログやSNSといった。こうした手段を使わないのはもったいない話です。

よく炎上を恐れて発信しないという人がいます。ですが、炎上するには理由があります。火のない所に煙は立たぬ、といいますが、やましくなければ炎上しないのです。

もちろん、著名人や芸能人となると別です。その立場を享受しているだけでうらやましがられ、やっかみの対象に選ばれます。そしていわれのない非難と炎上を招きます。ですが、あなたはまだ著名人でもなければ、有名税を払う必要もありません。

世の中には無数のツイートがあり、無数の動画が流れています。その中であなたが炎上するとしたら、よほど運が悪いか、誰かにちょっかいをかけてしまったかのどちらかだと思います。または明らかに世の中の大多数の動きに逆らった発信をするか。

あなたがどれだけ陰謀論を信じているところで、それは大多数ではありません。コロナワクチンや国葬に反対していても同じ。それはあなたの信条や意見として尊重されるべきですが、それを他人に強制すべきではありません。

もし、大多数の意見ではなくても、状況をよくしたいと働きかける発信をしたい場合は、やり方を考えましょう。その場合も上に書いた通り他人を否定しないことです。まず相手の立場と信条を受け入れ、理解した上で具体的な代案を出すとよいでしょう。

コロナワクチンや国葬に反対していても、それを認めさせたいがために相手を否定すると、炎上の当事者に祭り上げられます。ようはそうした悪目立ちをせずに発信すればよいのです。

私のキャリアにとっては、インターネット黎明期にBBSやメールマガジン、またはICQなどで見知らぬ人と会話していた時期にあたります。私も相手をけなしてしまう失敗をしましたし、自分のされて嫌な思いを味わいました。

人々を巻き込む発信

プレゼンの達人と呼ばれる人々は、プレゼンの結果に拍手をもらえたり、学びになりましたと言ってもらえたりすることをゴールとしていません。

エバンジェリストやアドボケイターも含め、そうした方々は相手が実際に行動に移った時をもってゴールとします。つまり、相手を巻き込んだ時です。

これはなかなか難しい問題です。そもそもプレゼンの成果を知る由はありません。無表情で反応の薄い人があとで行動を起こすこともあれば、コクコクとうなづいていた方が夜の懇親会で昼間の記憶を飛ばすこともあるからです。

どうすれば人を巻き込めるか。それは私にも答えがありません。熱意をこめ、抑揚をつけ、相手の目を見る。そうした技術はいくらでもネットや本にのっています。私も自分のプレゼンがどこまで人を巻き込めているか、まったく手探りのまま登壇しています。

ただ、言えるのは、自分がこうなりたい、こういうあり方が望ましいという信念を誰も傷つけず、それでいて確信を込めて語ることです。

当然、語るにあたっては裏付けとなる実績が要ります。その実績は結果を積み重ねていくしかありません。私も商談で依頼されたことをやった経験がなくてもやれますとハッタリを利かせることもあります。ですが、それらはネットを調べればわかることです。苦しんでも、寝ずに不休でも、やり遂げねば実績はたまりません。

私のキャリアにとっては、kintoneでいくつかの案件をこなし、エバンジェリストに任命され、法人成りを果たしたあたりまで私が人を巻き込むことはできていなかったはずです。

発信すると自分が楽になれます

自分がそうだからわかるのですが、このように順をおって発信することは、かならずあなたのキャリアを助けます。

別にエバンジェリストになる必要はありません。例えば会社勤めであっても、自分の意思を伝え、チーム・会社をよくしたいと発信することは重要です。そしてそれが社外にまで広まった時、転職やヘッドハンティングの対象に選ばれることもあるでしょう。または副業で人を巻き込む仕事をする際に、もしくは近所付き合いの際にイベントを誘う際にも役に立つことでしょう。

結局、発信とは自分を楽にするためにあるのです。発信をためらい、発信を億劫がると、受け身の人生になってしまいます。発信とは自分の人生を能動的に生きるための営みなのですから。

発信すれば、結果はあとからついてきます。結果とは例えば会社内の地位であったり、良き配偶者との出会いだったり。または私のように運よくエバンジェリストとしてお声がかかるかもしれません。もちろん収入にも跳ね返ってきます。

発信とは、誰のためでもありません。自分のためにやるのです。

最初のうちは、発信しても何の反応もないでしょう。でも、反応など気にしてはいけません。いいねがつかなくても、誰かの目に触れる。恥ずかしがらずに発信することは、あなた自身の知見を高め、より熱の入った洗練された内容に磨き上げられていくはずです。3年ぐらい、地道に発信しましょう。やがて、少しずつ反応が増えてゆくはずです。

そうなればこっちのものです。

発信しても否定されないコミュニティがあります

いかがでしょうか。もし、発信という営みに興味が出てきたら、全国津々浦々、どこかでやっている勉強会に出てみることをお勧めします。手練れのエバンジェリストもいれば、まだ発信をし始めた方もいます。

私たちもそうした方を決してけなしません。否定しません。それはもっともやってはいけないことです。私たちはまず誰の発言でも受け入れます。そしてもし改善が必要なら穏やかにそれを伝えます。

実際、私も何度もダメ出しを穏やかに頂いてきましたし、それを受けて自分なりに改善を重ねてきました。もちろん、私などまだまだです。すごい発信者は何人もいますから。私はただ、それを目指して努力するだけです。自分の望む人生に。自分にとって心地よい生き方のために。

まとめ

ここで書いたことがどなたかのご参考になれば幸いです。


アクアビット航海記 vol.46〜航海記 その30


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。ここから先はかつての連載が打ち切られた後に執筆しています。
家の処分をめぐる熾烈な攻防に巻き込まれてゆく自分。鍛えられました。

誕生と死と転職の2003年


さて、久々に家の話題に戻りたいと思います。
本連載の第三十七回第三十八回第三十九回で書いた、私たち家族が住んでいた広すぎる家と重すぎる圧。その家をどうやって処分したか。
その経緯を今回と次回とその次までかけて書こうと思います。

2003年の7月に職を変えた事は本連載の前回前々回で書きました。
それによってわが家から相模原市の職場までは、自転車でも通えるほどの近さになりました。

職住近接が実現できたことは、私に家を処分するための時間を与えてくれました。そろそろ四年にわたって重荷となっていた家の処分に向け、動き出す時です。

ただし、2003年はまだ家の問題に取り組むには時期が熟していませんでした。私にとっての2003年は、転職の他にもさまざまな出来事がありました。
2002年の年末(12/29)より、山下さんに裏の家に防犯もかねて住み始めてもらったことは本連載の三十九回でも触れました。

明けて2003年。次女が生まれたのはこの年の10月4日、天使の日でした。その一方、次女が生まれる二カ月ほど前には、父方の祖父が亡くなりました。兵庫の明石で営まれた通夜と告別式にも出席しました。また、次女が生まれた日は、母方の祖母の告別式に重なりました。もちろん、私が福井まで参列することは叶いませんでした。

転職と誕生と逝去。慌ただしい2003年でした
当時、私は30歳になったばかりでした。それまでの人生で人の死に直面した経験は持っていました。
大学二回生、20歳の頃に友人がアルバイトの帰りに過労で亡くなりました。その友人とは一緒に自動車教習所に入学しに行った仲です。お骨拾いにも参加させてもらい、つまんだ箸の先の軽さに友人の死を痛感しました。また、同じ年の秋には、友人の女の子が脳腫瘍でなくなりました。彼女が亡くなる前日、明石の兵庫県立がんセンターの緊急治療室でみた、管につながれたその子の姿は私に失神するほどの衝撃を与えました。

その時に味わった死の実感から10年。その節目に経験した娘の誕生と祖父母の死。それは、私に人生の両極端を教えてくれました。そして私にあらためて人生のはかなさと有限を突きつけました。

ただ、この時の私はそのような感慨をただ持て余すだけでした。
ゆとりはありません。もちろん、発想も勇気も実力も機会もありません。次女が生まれ、転職することだけで手一杯でした。そもそも家が片付いていない以上、身動きは取れません。

熾烈な交渉の始まり


そんな年に家の処分について動きがありました。
前年末に妻が次女を妊娠したこともあって、地主の家に地代の払い込みに訪れたのは五月の連休明けのある日でした。
支払が遅れたことをもって、地主はわが家から経済的なゆとりが失われつつあることを察したのでしょう。そして、頃やよしと思ったのでしょう。地主から今後の借地権の行方について考えたいとの提案が切り出されたのはこの時でした。

それまでは毎年末に私が一人で支払いに行っていました。そして、その度に世間話をのんびりして、帰っていました。
私も交渉を本格的に進めるタイミングを見計らっていました。そろそろ舵を切らねばと思っていました。そのため、地主から話を切り出してくれたのは好都合でした。それまでの四年間、話を切り出させるまで我慢したかいがありました。
2003年の年末。地代275万円を収めに行きました。その時は五月に地主から家の話を切り出されていたこともあり、私も地主も借地権を含めた家の処分について、遠慮なく意見交換を進めました。

強大な地主の壁

もちろん、お互いが相手の出方を見ながらの駆け引きです。
妻が祖母からもらった遺産が地代の支払いに費やされていることや、その遺産も含め、家からお金が尽きかけていることは、私もおくびにも出しません。
ひょっとすれば、こちらの事情など地主が興信所などを使って調べていたのかもしれません。私がシラを切ろうとも。

私がたった一人で対峙する地主。その方は、町田近辺の不動産業界で知らぬ人はモグリといわれるほどの方。やり手の凄腕地主として、町田駅近辺にいくつも土地を所有していました。
一見、穏やかな印象を与える顔貌。しかしその裏には老獪さが潜んでいます。私の父親と同じぐらいの年齢です。そしてその目からときおり放たれる眼光の鋭さ。まさに海千山千。百戦錬磨とはこういう人を指すのでしょう。
世間話をしていたかと思えば、いつの間にか家の話題に踏み込んできます。油断させておいて、いきなり直球を投げ込んでくる交渉術は変幻、そして自在。
人生の修羅場を切り抜けてきたであろう人物と一対一。その眼光に負けぬよう、目をそらさず話を聞き、応じ、話をし続ける。それは一瞬も気の抜けないギリギリの果たし合いのようなものでした

当時の私が交渉術など知るはずもありません。
話の主導権を握るスキル。話のつなぎ方。話の切り出し方。話の緩急。経験の全てが不足していました。それまでの人生で交渉など未経験なのだから当たり前です。
ブラック企業にいる頃、毎晩何十件もの見知らぬお宅に突撃訪問を繰り返していました。それは、今から思えば交渉とは呼べません。交渉とはそもそも双方が対等であるべきもの。訪問した私は、訪問されたお宅にとっては警戒の対象でしかありません。対等とは程遠い立場でした。
パソナソフトバンクにいる頃は、双方が対等の立場で参加する商談に何度か参加させてもらいました。それとて、数回を除けば私は商談の場の主役ではなく単なる添え物。ただついて行った人に過ぎません。

この地主こそが、私のそれまでの三十年の人生に立ちふさがった初めての、そして強大な壁でした。
ブラック企業にいた頃、私を丸刈りにし、皆の前でクビ宣告をした営業所長も私にとっては壁でした。
ですが、今になって思えばこの時に私の前に立ちふさがっていた壁は営業所長ではなく私自身でした。しかも、三カ月でクビになり、壁を乗り越える前に私が砕け散りました。
しかし、地主との交渉に当たっては砕け散る選択肢はありません。背を向けることも許されません
私が砕け散る時。それは家族が分解するときです。離婚は当然。関東にはいられなくなった私は、関西の実家に逃げ戻るしか道がなかったはずです。
そして、借地権が妻と義父に設定されている限り、私が逃げようとその借地権は引き続き妻と義父と娘を苦しめ続けるはずです。当時の私は何が何でもこの壁を乗り越える必要がありました。

ここで私が地主から逃げていたら、私の人生に計り知れないダメージを与えていたことでしょう。逃げや玉砕までは行かなかったとしても、壁を乗り越えられなかった自分を負け犬と感じ、今の私はなかったことでしょう。
ブラック起業の朝会で衆人の中でクビを宣告されました。皆の前で丸刈りにもされました。その屈辱や雪辱を果たせぬまま、今まで馬齢を重ねていたと思います。
多分、今の家にも住んでいないでしょう。多分、起業もできていないはず。家族も持たぬまま、孤独でい続けたかもしれません。なにより、私自身が自分を失っていたはずです。

当時の私にとって強大すぎる壁であったこの地主。
今となって思うのですが、この地主は私の成長に欠かせぬ人物でした。そのように感謝の念すら抱いています。
この後の本連載でも書きますが、地主とのタフな交渉をへて、私は相当に鍛えられました。

住んでいる家を処分するには、新たな家を確保する必要があります。
どこに住むのか。予算は。職場は。どれもが揺るがせにできない大きな問題でした。

2004年の松の内が明けて早々、地主から候補となる家が記されたFAXを受け取ります。
いよいよ、一年五カ月にわたる家探しの日々の始まりです。

次回は家探しの日々、そして地主や町田市との熾烈な交渉を書きたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.45〜航海記 その29


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/5/13にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回は新たな会社でシステムを独学で習得しまくる話です。この時の経験が私を起業に導いてくれました。

オフィス移転で恥をかく


新しい会社の日々は、とても刺激的でした。

まず、私が入社してすぐに社屋の引っ越しがありました。新しい五階建てのビル。すべてが空っぽです。なにもありません。ネットワークどころか電源の場所も考慮されていません。全ては私に任されており、完全に白紙でした。そこでまずレイアウトを検討し、電源やネットワークの位置を設計しました。入社して早々、各部署の方と話を進めながら。

ファシリティ設計もネットワーク設計や電源設計も、当時の私にとって全てが初めての体験てした。やったことがなくてもやらねばなりません。やるのです。結果が良ければ全てがよし。ぶっつけ本番。あたって砕けろ。すると、なんとかなってしまうのではないか。

もちろん、何もなく終わるはずはありません。いくらVisioで図面を書いてみたところで、いざ本番となれば想定外の出来事が起こります。そもそも設計はあくまで机上の計画に過ぎません。物が実際に設置された時、計画とずれるのは当然のことなのです。そもそも私自身がオフィスのレイアウトやネットワーク設定など全くやったことがなく、計画はずさんだったはず。案の定、引っ越し当日は右往左往しました。

例えばモールです。モールってご存じですか?LANケーブルを保護し、しまい込むための塩ビ製の細長いカバーです。
モールは上と下に分離し、カチッとはめ込む構造になっています。ベロンと上下を分け、そこにLanケーブルをしまい込み、最後にパチリと上下をはめ込みます。ところが私はそんなこともすら知りません。
上下に閉じたままのモールのすき間に無理やりLanケーブルを押し込もうとしました。不可能を可能にする男、長井の面目躍如といいたいのですが、そもそも入るわけがありません。この時、来てもらっていた工事業者さんのあ然とした顔は今も思い出せます。
本連載の第十六回で、IMEを切り替える方法を知らなかった私が、半角カタカナでデータを打ち込み「ニイタカヤマノボレじゃないんだから!」と怒られた芦屋市役所でのエピソードは書きました。この時のモールの一件は、その時に負けず劣らず恥ずかしいエピソードです。土壇場で電源の場所が変更になり、それをお願いしたい時の電気業者さんが見せた絶望と諦めの顔も思い出せます。

自分に恥をかきまくって成長する


結局、私の二十代とはそういう恥ずかしい記憶の集まりです。でも今から思うと、恥をかいては捨ててきた積み重ねが私の成長につながっています。全ては血となり肉となりました。
もちろん、成長のやりかたは人によってそれぞれです。一つ一つの作業を丁寧にOJTで教わりながら恥をかかずに成長していく人もいるでしょう。ただし、それはあらかじめ決められたカリキュラムに沿っています。カリキュラムとは、習得の到達度を考慮して設計します。ということはカリキュラムに乗っかっているだけでは、成長の上限もあらかじめ決められています。

私の場合、乗っかっているカリキュラムからはみ出し、一人で突っ走ってばかりでした。そして失敗を繰り返していました。でも、それもよいのではないでしょうか。カリキュラムからはみ出た時、人は急激に成長できるような気がします。少なくとも、この頃の私はそうでした。
私の人生で何が誇れるかって、ほとんどの技術を独学で学び、恥をかきまくってきたことだと思っています。

私にとってこちらの会社で学んだ事はとても大きな財産となりました。情報技術のかなりを独学で習得しました。そして自分に対して恥をかき続けました。
私がかいた恥のほとんどは自分に対しての恥でした。というのも、この会社に私より情報技術スキルを持つ方はいなかったからです。つまり、自分自身がかいた恥は誰にも気づかれず、誰からも指摘されず、ほとんどが私の中で修正され、処理されていきました。その都度、自分の乏しい知識をなげきながら。

でも、そうやって自分の未熟さに毎日赤面しながら、私は会社の情報処理、ファシリティや機器管理やパソコン管理、ネットワーク管理の知識を着々と蓄えていきました。
自らが知らないことを学び、自分の無知に恥をかき続ける。今でもそうです。自分が知っていて安心できる知識の中でのみ仕事をすれば失敗はないでしょう。そのかわり成長は鈍いはずです。失敗の数もまた人生の妙味だと思います。

恥をかきすぎたら成長できた


入社した当初は、私を試そうと圧力をかける方がいました。が、徐々に難癖を付ける方は何も言わなくなりました。やがて私は自分の思うがままに環境を作れる立場になっていました。
もちろん職権の乱用はしません。自分の判断でこの機能が必要と判断し、稟議書を書き、上長に上げます。そのうちの九割方は決裁してもらえたように思います。会社には何社もシステムベンダーの方に来ていただきました。臆せずに自分で展示会にも出かけていき、知見を広げました。

時期は忘れてしまいましたが、自分でサーバーを構築したのもこの時期です。DELLのサーバーを購入してもらい、そこにRed Hat Linuxをインストールしました。さらに自分でSamba(オープンソースのファイルサーバー)を入れました。全ては白紙からの挑戦でした。

そのサーバーには後日、Apache(ウェブサーバー)やMySql(データベース)やPHP(プログラム言語)も自力でインストールしました。そうして自分なりの社内イントラネットを構築していきました。

私が入社した当初、その会社の販売管理はオービック社の商蔵奉行が担っていました。受発注や伝票発行の全てをそれでまかなっていました。そもそも私がこの会社に呼ばれたのも、システムのオペレーションミスによる誤請求があったためです。そこでFAXをOCR変換して取り込む仕組みも作りました。EDIも何パターンか導入しました。夜間バッチでデータを自動で取得し、受注データへ変換する仕組みも構築しました。
その過程で私は社内の受発注の仕組みから勉強し、システムが備えている販売管理に関する機能の理解も深めました。販売管理を行う際は、在庫管理も欠かせません。その二つは表裏一体です。この会社は自社の倉庫も持っていました。となると在庫管理から物流の知識に至るまでの知識も修めなければ。

それらの新たな知識の習得と並行して、社内の全パソコンは私が管理していました。入社までの半年、土曜日に訪問して全パソコンのメンテナンスを行っていたことは書きました。新社屋に移る際、ネットワークや電源の構成やレイアウトも把握しました。そうした日々の中、パソコンのメンテナンス・スキルも身に付き、ネットワーク構築やサーバー設計にも経験を重ねていきます。遅いノートパソコンのメモリ増設ぐらいなら行えるぐらいまでに。

この時期の私がどれだけ充実していたか。今の私からはまぶしく思えるほどです。好きなだけ学び、存分に成長していました。しかもそれが会社の効率の改善につながっていました。とてもやりがいに溢れた時期でした。そして幸せでした。
学べること。成長できること。その成長を自分で実感でき、さらに人に対して目に見える形で貢献できること。

少し前の私は、こうした一連の仕組みを全くしりませんでした。結婚した翌年あたりに友人たちが私の家に来て、自作パソコンを組み立ててくれたことがあります。この時に来てくれたのは、大学の政治学研究部の後輩とスカパー・カスタマーセンターのオペレーターさんと義弟でした。珍しい組み合わせ。そして皆が私より年下。
それなのに、私は彼らがやってくれている作業のほとんどが理解できませんでした。
そんな私が今や、新たな会社で情報統括を行う立場となりました。少し前まではニイタカヤマノボレと怒られていた私が。モールの構造を知らずに無理やり押し込もうとした私が。

これが人生の面白さだと思います。

ただし、私の人生には大きな試練がまだ続きます。
その試練とは家の処分。本連載の第三十七回第三十八回三十九回にも書いた家の処分です。
私が転職した大きな理由の一つは、そもそもこの家を処分するためでした。
次回は家の処分を二回にわたって書いてみます。ゆるく長くお願いします。


アクアビット航海記 vol.44〜航海記 その28


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/4/27にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回は4年半にわたってお世話になった会社やカスタマーセンターに別れを告げ、新たな道へ進む話です。

会社とカスタマーセンターを去るにあたって


会社から去る。それは私にとって慣れ親しんだ営み、だったはずでした。

それまでの私は、流転につぐ流転の日々を送っていました。
芦屋市役所ではねぎらいの場を会議室に設けていただき、さらには花束というプレゼントまで用意していただきました。
その後、数カ所の現場を派遣社員やアルバイトの立場で訪れましたが、いずれも最後の日にはあいさつを忘れず、気持ちよく去ることができました。
逆に、朝礼の場において皆の前で面罵され、クビを宣告され、石持って追われた屈辱も味わいました。去り時には、さまざまな出来事があります。

株式会社フジプロフェシオから去るにあたり、ドラマチックなことはありませんでした。ですが、去る私にはお礼を伝えるべき方が何人もいました。会社でも、スカパーのカスタマーセンターでも。四年半の月日は軽くありません。
多くの方が私とのご縁を結んでくださいました。辞める日は、カスタマーセンターをずいぶんと回った記憶があります。

スカパーのカスタマーセンターは、東京に出てきた私が生活の基盤を作り上げた場所です。スーパーバイザーの期間はオペレーターさん達と楽しく過ごしましたし、集計チームでの日々はとても私を成長させてくれました。

私がスカパーのカスタマーセンターに在職した期間。それは、傷ついて東京に流れてきた私が結婚し、家を持ち、わが子と出会った日々に重なっています。
わたしが社会人としてなんとかやってこれたのも、カスタマーセンターでの日々があったからてす。
パソナソフトバンク、あらため、プロフェシオ、あらため、フジプロフェシオで学んだことは大きかった。と、今では思うのです。とても感謝しています。もちろん、スカパーカスタマーセンターにも。

いざ辞める私は、それまで抱えていた閉塞からの解放感を感じていました。ですが、いざやめるとなると寂しさも募ります。
私はフジプロフェシオをそんな感慨の中、退職しました。

私が去った翌月、フジプロフェシオは株式会社フジスタッフとさらに社名を変えたと聞きます。さらに今は外資系会社と合併し、株式会社ランスタッドと名乗っているそうです。また、スカパー・カスタマーセンターも今は横浜にはなく、数年後に沖縄へ移ったと聞いています。そのころは工事も始まっていなかった相鉄は、今や高架になっています。横浜ビジネスパークの脇を通っても、私の知る人は誰もいません。

今でもこの時に培ったご縁は生きています。オペレーターのソウルメイトとも今も付き合いがあります。本稿を最初にアップした前日にはLINEてやり取りしました。本稿をアップする二カ月前にも家まで送ってもらいました。
また、数年前にはカスタマーセンターの物流チームでマネージャーをされていた方が亡くなりました。私もFacebook経由でご連絡をいただき、告別式で当時の懐かしい皆さんに再会できました。

起業のことなど全く頭になかった自分


ところが、今の私はこの四年半の間に培ったご縁を一度も仕事につなげられていません。それはなぜか。
私も今まで意識していませんでしたが、本稿をアップした機会に考えてみました。

端的に言うと、この時の私には起業するマインドを全く持っていませんでした。もし持っていれば、ご縁をこれからに生かそうと連絡先をマメに交換していたはずです。当時、SNSはまだ生まれたばかり。でも、それは言い訳になりません。
辞める時、新しい会社の名刺を持っていたかどうかは忘れましたが、新たな連絡先も伝えられずじまい。結局、当時の私に人脈という観念は薄かったのでしょう。
上に書いた通り、数年前に当時の方々と再会しました。が、さすがに弔事の場で名刺を配るほど非常識ではなかった私は、この時のご縁も仕事にはつなげていません。

なぜ当時の会社への思いをツラツラと書いたか。それは当時の私に起業の気持ちが全くなかった事を言いたいためです。
転職という一つの決断を果たした私の選択肢に、起業や独立は全くありませんでした。

転職早々、名古屋まで拉致される


転職に際し、私は新たにお世話になる会社の社員旅行に連れていってもらいました。赤城山のふもとに泊まり、翌日は日光見物などを楽しみました。
新たな会社に少しでもなじみたい。私が思っていたのはそれだけでした。
未来の起業や独立は全く考えておらず、勤め人の心をみなぎらせていた私。

私が勤め人であった証拠。その証しは、私が2003年7月に新しい会社に入社してすぐ、トラブル対応の指令に唯々諾々と従ったことでも明らかです。
なんと、入社してわずか数日目にして、いきなり名古屋の小牧まで拉致されました。着替えも持たずに。
私は数人の先輩方とともに、名古屋の小牧に連れたいかれ、郊外の倉庫で延々と商品の交換作業に従事していました。あまりにも突然で、家にも帰る間も与えられず。
宿は名古屋駅前だったので、下着を名古屋駅前のコンビニエンスストアで買った事は覚えています。

訳も分からずに、私の責任でも何でもない不良品の後始末に駆り出す。それは私を試す意味もあったのでしょう。いきなり現実に直面させ、それでも残るだけの根性がこの男にあるのか。この理不尽な仕打ちに耐えられるのか。
もちろん私が負けるわけはありません。
わずかな期間とはいえ、大成社で飛び込み営業を続けた日々は無駄ではありませんでした。訪問販売でヤクザの家に飛び込んでもなお、見知らぬ家々のチャイムを押し続けたのですから。

入社早々、そんな風にして私の新たな会社での挑戦が始まりました。
そして、私が入社して二カ月後には会社が新社屋へ移転する日が決まっており、私にはその通信環境を整える役目が課せられていました。

果たしてどうなるのか。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.43〜航海記 その27


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/4/19にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回は新たな環境へ誘われたことを語ります。

新たな会社へのお誘いを受ける


本連載の第三十四回に書いた通り、妊娠する前の妻は婦人科系の疾患を複数抱えていました。それらの疾患は妊娠中と出産時に多くの試練を妻に課しました。それらの困難をのりこえ、長女が産まれたのは2000年がまもなく暮れようとする頃でした。

長女は産まれると同時に、妻の疾患の多くをきれいに拭い去ってくれました。妻にとって長女の出産は一つのクライマックスだったと思います。
それだけでなく、長女の出産は私にも大きな影響をもたらしてくれました。
それはご縁、仕事、そして転機です。

妻が入院していた産婦人科には、数人の妊婦さんが入院していました。そして出産前後の時間をともに過ごしていました。
特にそのうちの一人のママさんと妻が親しくなりました。そして家族ぐるみでお付き合いするようになりました。
私も夫として交流しました。さまざまな場所へも遊びについて行き、そのママさんのお宅にもお邪魔しました。
お互いの家族は、そうやって慣れない育児を一緒に乗り越えようとしていました。

親しく付き合う中で、お互いの家族の構成や仕事関係の情報も話に出てきます。そのママさんのお父さんが相模原で会社を経営している事も会話の中で知りました。その会社でママさんの旦那さんや、ママさんの妹さんの旦那さんが働いていることも。

その会社に来ないか、というお誘いを最初にいただいたのがいつだったか。あまりよく覚えていません。2002年の秋は、家族と一緒に一週間ほど北海道を旅しました。お話を頂いたのは旅から帰ってきた後だったような気がします。
その頃の私は、本連載の第四二回で触れたとおりワールドカップ後の燃え尽き状態に加え、いくつかの屈託を抱えていました。

そんな時期にいただいた会社に来ないかというお誘い。
今までの本連載を読んでくださった方であれば、私が即転職を決断したと思うかもしれません。
ですが、さすがの私もそれなりに考えました。

当時、私が所属していたパソナソフトバンクあらためプロフェシオあらためフジプロフェシオは、全国に支店網を持っていました。合併・吸収の荒波に揺さぶられていたとはいえ、株式を店頭公開していました。ゆくゆくは東証二部や東証一部上場もあり得たかもしれません。母体となった二つの企業の影響力は巨大でした。

それよりも考えるべきは、私自身の覚悟です。私はなぜ正社員になったのか。それを自分に問わねばなりません。その辺りのことは、本連載の第三二回第三三回第三四回で書いた通りです。
私は上京し、結婚しました。妻と生活する上で、まずは正社員で身を固めようとしました。この時、せっかく正社員になったのに、違う会社からのお誘いをやすやすと受ければ、私自身の決意を裏切ることにもなりかねません。

情報機器管理の大切さを学ぶ


当時の私が抱えていた屈託は、転職の話をいただいた当初から、私の気持ちを新たな挑戦へと導いていたように思います。
でも、軽挙妄動は慎まねばなりません。
そこで、様子を見るため、その会社のパソコン回りの整備を請け負うことにしました。毎週土曜日。その日であれば私も仕事が休みです。また、その会社の皆さんもいないため、皆さんのパソコンを触るのに都合が良かったのが土曜日でした。

手元に当時の報告書が残っています。それによると2003年の年明けから調査・設定の作業に携わっていたようです。

調査・設定の作業を行う中で徐々に把握したその会社のIT環境。それはもう目を覆うばかりの惨状でした。社内LANこそ引かれていましたが、ファイルサーバーもなく、ルーターの設定値も初期値のまま。その結果、十数台の端末の多くがウィルスに感染していました。そもそも、Windows Updateが実行されている端末すらほんの一部で、アンチウィルスやファイアウォール・ソフトすら入っていない端末がほとんど。全く管理されていない状態の情報端末は、企業の環境とは思えないほどの状態でした。
オンプレミスのサーバーで動くパッケージの販売管理システムが入っていましたが、その保守もあってなきが如き。

私が呼ばれた理由も、この販売管理システムで重大なオペレーションミスによる損害があったためでした。さすがにこの状況を放置しておくと経営の根幹に関わると判断したのでしょう。情報処理周りを統括する担当が必要だという。
ですが、私が遭遇した環境は販売管理システム以前の問題でした。

正直に言うと、私がスカパーのカスタマーセンターで身につけた情報処理のスキルなど、今の私からみれば初歩的なレベルでした。担当の方が整備してくださったお膳立て=基盤の上でExcelやAccessをガチャガチャと操作するだけの。
作業する端末やシンクライアント端末がどういう整備の元に運営されているのか、一切知りませんでした。また、知らなくても集計業務は遂行できました。
私はスカパーのカスタマーセンターがプライバシーポリシーを取得する際、現場の担当になり、統制や管理の大切さを知りました。その時に求められた管理水準と比べると、この会社の統制や管理の落差に愕然としました。

今の私なら分かります。日々の業務がつつがなく遂行できるためには、綿密な計画に基づいたネットワーク設計が有り、端末にIPアドレスが振られ、基幹システムやファイルサーバーが運用され、利用者のドメイン管理や備品管理が粛々と行われていた事を。
ところが当時の私はそうした知識をほとんど持っていませんでした。なぜなら覚える必要がなかったから。
どこかの親切な小人さんたちが何事もきちんとしてくれている。それが、当時の私の認識でした。

ところが、こちらの会社に来てみて、自分が何も知らなかったことを知りました。まさに無知の知、です。
情報技術の管理者がいないと情報機器はここまで侵されてしまうのか。経営者や担当者が情報機器の統制を行わないと、ここまで無秩序な状態が生み出されてしまうのか。
この作業を通して、私は情報処理の大切さと奥深さを学んだように思います。

情報部門の統括者としてやっていけるかもしれない


こちらの会社には毎週の土曜日ごとに伺いました。そして、調査・設定の作業をもくもくと行っていました。一人では大変な時は、本連載の第三九回に登場してもらった山下さんにも協力をお願いしました。

やった作業とは以下のような感じです。
・無料のアンチウィルスやファイアウォールのソフトをインストールする。
・端末や機器の台帳を作る。
・全ての端末にWindows Updateを実行し、端末毎のアカウント管理もきちんと行う。
私が毎週伺う度に、自分が整備した内容が形になり、少しずつ会社の情報環境が整っていきます。それはとてもやり甲斐のある作業でした。そして自信にもなりました。なにより、自分が情報部門の統括者としてやっていけるのではないかという感触を得ることができました。
それまで情報機器の整備経験がなかった私でも調査と設定は出来る。この会社に入れば自分はさらにステップアップできるはず。そんな思いが強まります。

私の中で転職の意思は一層固まり、ついにはお誘いを受けることに決めました。それがいつだったかは思い出せませんが、2003年の春ごろには転職の意思を固めたはずです。
結局、私は2003年の6月にフジプロフェシオを退職しました。そして、7月より新たな会社に転職を果たしました。

次回は、この会社での日々を語りたいと思います。
この会社での日々。それは私のIT技術者としてもっとも伸び盛りの、すべてが勉強になった時期でした。
引き続きゆるく長くお願いします。


アクアビット航海記 vol.42〜航海記 その26


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/4/12にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回は日韓共催ワールドカップの忙しさとそこからの反動を語ってみます。

日韓共催ワールドカップの多忙


さて、日韓共催FIFAワールドカップの話をしましょう。
サッカーのワールドカップといえば世界屈指のイベント。開催のたびに世界を熱狂の渦に巻き込みます。われらが日本代表チームも日韓大会の前のフランス大会で初出場を果たしました。それに続いて行われたのが自国開催のこの大会。盛り上がるはずです。スカパーもこの機を逃さず加入者数を一気に増やそうとしました。
当時のプレスリリースはもうウェブ上には残っていません。当時の記事を見た記憶によると、当時250万だった加入者数を一気に増やそうとしたと書かれていました。最終的に2002年の2月には加入者数は300万人を突破したそうです。ワールドカップ直前に殺到した申込の効果でしょう。全64試合を無料で観られるなら、誰もが入りたいのは当然です。

私が所属していたパソナソフトバンク(その当時、社名をプロフェシオに変えていました)は、スカパーのカスタマーセンターで受付、登録、不備、変更チームを担っていたことは連載二十三回で書きました。それらのチームが担っていたのは、殺到する新規受付や契約変更の仕事。つまり、加入者増の大波をモロに被る立場にありました。
そして、それらの大波がどれぐらいの数だったか、つまり何件の受付、登録、変更があったかをお客様向けの資料に起こすのは「集計チーム」の役目でした。私の業務はてんてこまいだったのです。

あまり当時の数字は覚えていません。ですが、新規登録者数だけで毎月の数倍は来ていたように覚えています。カスタマーセンター全体が熱を帯びて忙しく、巨大なイベントの一翼を担う熱気に満ちていました。
開幕を迎えた時、世間の盛り上がりとは逆に、カスタマーセンターの業務はピークを越えていました。

私が覚えているのは、スカパーさんがカスタマーセンターの休憩スペース(十分に広かった)をパブリックビューイングの会場として解放してくださったことです。カスタマーセンターで働く皆さんに向け、慰労も含めて観戦できるようにという粋な計らいです。私も日本代表の初戦のベルギー戦と次のロシア戦をみんなで観戦して盛り上がったことを覚えています。

私は日本で開催されたこの大会の64試合のどの試合もスタジアムで生で観戦はできませんでした。でも、パブリックビューイングで観戦できたことと、大会の盛り上がりのためにわずかながらでも関われたことは今でもよい思い出に残っています。

反動で仕事に情熱を失う


しかし、ワールドカップという一つのピークを経験したことで、私は仕事に燃え尽きた感を覚えました。ワールドカップの直後にはスカパー!2というサービスも始まり、この集計作業にも修正が発生し、バタバタしたように覚えています。が、今となっては自分がどういう仕事をしていたのかあまり覚えていません。

前回の連載にも書いたとおり、私はスカパー以外の現場にちょくちょく派遣されていました。ソフトバンク本社にも行きましたし、TSUTAYA本社にも行きました。麹町のNTTのマイラインや渋谷の某社にも多摩センターの某社にも商談に行きました。
ところが私自身、それらの作業に対して熱を込めて取り組んでいたとは言えません。どこかしら、淡々とこなしていたような気がします。言い方は適当ではないかもしれませんが人ごとのように。なんのために仕事をしているのか、目的のないままに仕事をしていたようです。
別に仕事が嫌になったわけでもないし、飽きていたこともありません。ただ、情熱が失われ始めていたことは確かです。

仕事に情熱を失った理由


私が仕事に情熱を失いかけた理由を考えてみます。以下の四つほどの理由が挙げられます。

一つ目は、ワールドカップ後の熱気の反動。
二つ目は、スカパーの現場での集計業務や請求書作成、出退勤システム保守にマンネリを感じ始めた。
三つ目は、パソナソフトバンクの足元が定まらなかった。
四つ目は、家の問題に焦りを感じていたこと。

一つ目は上に書いたからよいでしょう。

二つ目ですが、これは私が未熟だったからです。
今、振り返って考えると、この時に正社員の立場で取り組めることはもっとあったはずてす。集計だけでなく、それ以外にも。
もっといろいろな改良ができたでしょうし。
私がやろうと思っていた包括的な集計システムは「集計チーム」にいる間に作れずじまいでした。全チームが一つのシステム上で集計を入力すると、それが日次、週次、月次のスカパーさんへの資料にワンストップで活用できるような構想。そのような大志を抱いていましたが、未完のままでした。
ただし、今の私が取り組んでも、かなりの困難にぶつかったでしょうが。

三つ目ですが、上で「(その当時、社名をプロフェシオに変えていました)」と書きました。そう、ワールドカップの時点でパソナソフトバンクという会社はありませんでした。
当時の人材派遣業界とはまさに群雄割拠。さまざまな合併吸収劇があちこちで演じられていました。パソナソフトバンクも名前の通り、その代表的な会社でしょう。パソナソフトバンクがどういう経緯で立ち上り、どういう経緯で吸収合併の経緯を繰り返したかは、以下のリンク先の沿革に載っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%95

2001年5月にソフトバンクがパソナソフトバンクの株式を売却し、2001年8月に社名が株式会社プロフェシオに変わりました。さらに2002年10月にはフジスタッフと合併し、株式会社フジプロフェシオに社名を変えました。会社が目まぐるしく変わる過程で、私が社員へ登用された際に面接してくださった役員や部長は社を離れていきました。出先で仕事していた上、社会経験のない私ですら、会社に一体感があるようには思えませんでした。

私自身、当時新宿のマインズタワーにあった本社で作業する機会が何度もありました。さらには、本社へ異動する話も内々でもらったこともあります。
その時、私は小田急のラッシュを嫌って断りました。つまり、わざわざ毎日のラッシュを乗り越えてまで本社に通うだけの熱意が持てなかったのです。会社に対する愛着心はどんどん薄れる一方でした。今もこのころの名刺はひととおり持っていますが、部署名の変更や社名変更だけで七、八種類はあります。

四つ目は、本連載の第三七回第三八回第三九回に書いた通りです。当時の私が抱えていた家の問題です。そのプレッシャーが私をじわじわと圧迫していました。第三九回に書いた通り、本腰を入れて家の問題に取り組みを始めたのがワールドカップの終わった夏ごろです。
家の問題に本腰を入れるには、家の処分を見据えた生活を考えねばなりませんでした。たとえば私が毎日、横浜の天王町まで通う時間の間にやるべきことは多くありました。地主との交渉。市当局との交渉。次の家の探索。二軒の家の片付け。それらをこなせるだけの時間が必要でした。

今、四つの理由を思い出してみました。これは私の言い訳なのでしょう。
後付けで仕事に対する情熱を失った理由を正当化しようとしているだけだと思います。実際そうでしょう。
でも、まだ未熟だった私の精神が千々に乱れていたことは確かです。上に挙げた四つの理由は私の中で大きく私をむしばみ始めていました。

そんなある日、私のもとにとある会社からのお誘いが来ました。
その会社は相模原にありました。相模原といえば町田のお隣。わが家からは程よい近さです。近ければ家の問題をこなしつつ、稼ぎも得られそうです。この会社からのお誘い。それが私を次への道へといざなうのです。

次回は、この会社にお誘いいただき、関わっていく経緯を描いてみたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記-私の技術とのかかわり方


「アクアビット航海記」では、個人事業主から法人を設立するまでの歩みを振り返っています。
その中では、代表である私がどうやって経営や技術についての知識を身につけてきたかについても語っています。

経営や技術。それらを私は全て独学で身につけました。自己流なので、今までに数えきれないほどの失敗と紆余曲折と挫折を経験して来ました。だからこそ、すべてが血肉となって自分に刻まれています。得難い財産です。

本稿では、その中で学んだ技術の学び方を語りたいと思います。
私自身が試行錯誤の中で培ってきたノウハウなので、これを読んでくだった方の参考になれば幸いです。

ただし先に断っておきますと、私の技術力などそれほど大したものではありません。しょせんは独学ですし。
今までに参画してきた常駐現場では多くの凄腕技術者を見てきました。私が最近棲息しているkintone界隈でも私より技術力の優れた人は無数にいます。
そのため、技術力だけで考えれば、私など手本にする価値はありません。

私が皆さんにお伝えできるのは、最小限の努力で必要な技術を身に付ける嗅覚です。それは備えてきたと思います。本稿ではそれを参考にしてもらえればと思います。

モチベーション

ずばりいうと、私の技術へのモチベーションは、面倒くさがりから来ています。さらに飽きっぽさと。

例えば仕事で何か面倒な作業が必要になったとします。
そう、Excelのブックからブックへの転記のような。

これ、一回や二回ならまだいいのです。でもそれが十回繰り返されてくると、とたんに繰り返しに飽きてしまうのです。そして作業が面倒に思えてしまうのです。これは毎日、同じ場所に通勤する営みについても同じ。

そうなると、この面倒くさい作業をやめるためにどうすればよいか、私の脳内がざわめきだすのです。

多分、新たな仕組みやアルゴリズムを考える労力の方が、繰り返す作業よりも大変なのでしょう。でもそんなことは関係がありません。それ以上同じ作業をしたくない。その思いの方が圧倒的に強いため、私を衝き動かします。アルゴリズムや仕組みを考えることは、繰り返しの作業とは無縁です。飽きないし面倒くささも感じません。本連載第二十五回で書いたように集計作業が面倒でExcelのマクロを作ったのはまさにこの実例です。

選ぶ

今までのキャリアで、私はさまざまな技術や言語に触れてきました。この言語や技術の選び方は、案外大切ではないかと思います。

私はどちらかというと新しいもの好きです。ところが、私のキャリアを振り返ってみると、言語や技術の選択に当たってそこまで冒険をしていません。

例えば、PCはWindowsとMs-Officeを主に使ってきました。サーバーを自分で構築する際も、ファイルサーバーはSamba、LAMP(Linux+Apache+MySQL+PHP)でウェブ環境を構築してきました。CMSはWordPressを主に扱いました。クラウドにしても、βテスターとして関わり始めたころのkintoneは無名でしたが、運営元のサイボウズ社はそのころからすでにグループウエアの雄として業界に地位を確立していました。今やkintoneはわが国でも著名なPaaSに成長しています。

今までに私が携わった技術や言語の中で衰退してしまったものを挙げてみます。ファイルサーバーのSambaやその際にMacをつないだAppleTalk。サービス連携の言語はJSONではなくXMLを学びました。常駐先で触る必要があったLotus NotesやLotus Scriptは衰退の最たるものです。あとはLinuxでサーバーを構築した際、採用したDistributionのRedHat LinuxやMiracle Linuxも今はあまり聞きません。

若い頃に得たVisual Basicの知識やLampの知識が今も生かせることは、私のキャリアにとってとても幸運だったと思います。衰退した言語や技術の習得に使った時間が無駄にならずに済んだので。このことは私のキャリアを考える上でとても重要だと思います。

その際、私がどういう基準で言語や技術を選んだのかは、あまり覚えていません。ただ、その当時からシェアが高いものを選んだように思います。また、安価な環境で使える言語であることも重要でした。例えばスクリプト言語はphpであれば安価なレンタルサーバーでも使えましたが、pythonやgoはサーバーにインストールする必要があったため、学びの対象から外しました。

シェアが高いということは、サポートサイトも多いということ。サポートサイトを必死に読み込めば、たいていのヒントはおのずから公開されていることに気づきます。おそらく私はそれらを踏まえながら、自分の学ぶべき言語を選んでいったように思います。

この時に単に新しいからといって新奇な言語や技術にあまり手を出さなかったことが、私のキャリアをあまり回り道に進ませずに済んだと思います。

調べる

自分が知りたいこと、実装したいことをどう調べると効率的か。

これはとても重要なところです。私が自分でプログラムに関心を持ち始めたのは1999年。まだインターネットが世間に広く使われ始めたばかりのころです。今のように少し検索するだけで技術資料が閲覧できる時代ではありません。つまり、書籍が頼りでした。

書籍は、その分野の全てを語ろうとします。まず、総論から始まり、その後で個別の説明を展開していきます。私はそうした総論の類を読みません。まっすぐ自分が求める機能を探します。書籍の場合は目次や索引が付されていますので、そこから探すと目指す機能を学べます。

その機能の説明を読むと、自分の知らない事が次々に出てきます。メソッドや関数の記述。名前空間や言語体系。細かい文法など。それらを総当たりで調べていきます。その際も、名前空間についての総論は読み飛ばします。直接、該当する名前空間の書き方を探します。そうやって個別の自分の知りたいことだけを拾いながら、その積み重ねで全体を把握していく。それが私のやり方です。
ちなみに私は読書が大好きです。が、本を読む際は全く逆のアプローチをとります。途中の部分を読むなどもってのほか。必ず最初から最後まで通して読みます。ところが不思議なことに技術書を読む際だけはそのやり方だとうまく覚えられないのです。

私が技術の世界に触れ始めたころと違い、今はネット上から情報を得ることができます。ですが、その情報には書籍のような目次・索引がありません。つまり検索エンジンを使うしかないのです。この検索の際にキーワードを入力しますが、そのキーワードにもコツがあります。

技術の言語は国際的に英語が使われています。そのため、日本語だけで検索しても求める検索結果にヒットしないことがほとんどです。まず具体的な文言を英語も含めて検索します。また、エラーメッセージにあたった際はそのメッセージを検索文言に含めます。すると、求める結果が得られると思います。その際、英文が出てきたら大意ぐらいはつかめるぐらいの英文読解力があると楽です。その上でGoogle 翻訳やDeepLのような翻訳サイトを使って日本語で意味をつかみます。

なお、当たり前ですが得た結果をきちんと読解する力は必要です。私は文系学部で学んだ技術者ですが、読解力が私のキャリアを助けてくれたと確信しています。パッと読んで分かったつもりになってしまうと、結局遠回りになります。じっくりと文章を読むように心がけましょう。

実装する

この後の連載で、私がどのように実装の経験を積んでいったかは書いていく予定です。独立するまでにはかなりの回り道と試行錯誤と無数の失敗を繰り返しました。

日中は現場に常駐していた私が、個人の業務で無理せずに実装するにはどうすればよいか。全ては五里霧中の中でした。少しずつ実績を積み上げられ、しかも安価な投資額で実装環境が整えられるような案件を痛い失敗の中で少しずつこなしていったのが私のキャリアです。kintoneに出会うまでは。

私のように個人事業主から法人を設立するまでの歩みは、自分でいうのもなんですが、相当難しいと思います。

私のようにホームページの制作から始め、まずHTMLやCSS、JavaScriptを操るスキルを身に付け、そこからサーバーの選定や調達に進み、さらにphpなどの言語がデフォルトであるWordPressのようなCMSに手を染めていくと、キャリアとしてよいのではないかという気がします。この路線は、今のところまだ衰退の兆しがそれほどなさそうですし。

その際も、自分でサーバーを立ち上げ、LAMPをインストールし、AWSやGCP、Azureといったより高度な環境を選ぶより、まずは小規模な環境から始められる規模の案件をこなすとよいでしょう。要するに安価なレンタルサーバーでも十分要件が満たせるようなものです。

ブレイクスルー

とはいえ、ロジックの構築や予期せぬバグの出現など、実装にあたっては問題が生じます。

それをどのように克服していくかは切実な問題です。それで挫折し、折れた心を抱えながら情報処理業界からも去っていく人もいるでしょう。

そもそも、どれだけ本やウェブサイトを読んでも概念がちっともつかめない場合、どうすればよいのでしょう。正直、私にも概念がつかめずに苦戦したことが何度もありました。本連載第三十二回で書いた、行列のExcelからAccessの三次元を理解したのはまさにその一つ。

そこでも書きましたが、当時チームの部下だった年下のOさんに教えを請いました。そこで教えてもらったことで私は一つ目のブレークスルーを果たしました。この時、妙なプライドや自負があって独学にこだわっていたら、今の私はなかったと思います。

私はキャリアのほとんどを独学で積み上げてきたことに誇りも自負も持っています。ですが、今でもまだまだ分からないことが無数にあります。今の私がそうした事態にぶつかった時、二回り以上も年が離れた部下に教えを請い、頭を下げられると確信できます。しょせんは私のキャリアなど独学であり、正当に大学で情報科学を学んだ方には絶対に勝てないことが分かっていますので。

ブレークスルーを果たすには、自分の中で突き詰めて考えることは必要です。でも、概念を理解するためのちょっとした気づきを自分の中だけで得るのは難しいでしょう。その時、相手が誰であろうとヒントを与えてくれる方には頭を下げ、謙虚でいられるかどうか。それが出来る技術者こそが、年配になっても現役でやれる人だと思います。

加齢による好奇心の枯渇

かつてはプログラマー35才限界説、というものがまことしやかに言われていました。35才を超えるとプログラマーとしては使い物にならない、というやつです。

この説はある部分ではあたっています。ただし、それはアルゴリズムの構築が35才を迎えた途端にできなくなる、という意味ではありません。当たっているのは年齢による体力の問題です。それはどうしようもありません。徹夜でコーディングする作業は40歳を過ぎると難しくなるのではないでしょうか。

むしろ、ロジックの組み立てをきちんと自分の頭で考えた経験を35歳までに積んでいることのほうが大切かと。そうした経験があれば、60歳の半ばであっても第一線で問題なくやれると思います。身近にその生きた例を知っています。私自身、50歳の声が聞こえ始めていますが、まだやれると思っています。

また、今の言語はフレームワークなども充実しています。また、基本的なアルゴリズムについてはライブラリが豊富に用意されています。そのため、それを呼び出すだけでよいのです。加えてkintoneのようなPaaSを使えばデータベースの構築や通知・権限設定も手間をかけずに実装できます。

そうした意味ではプログラマー35才限界説とは、かつて情報処理業界の言語や環境が発展途上だったころの名残だと思っています。ちなみに私は文系学部の出身なので、文系プログラマー限界説にも反対の立場です。女性エンジニアの方も優秀な方が多いので、男性だけが優位というのも間違っています。

ただし、それ以外に限界説が当てはまる人はいます。それは体力の問題ではなく、心の柔軟さの問題です。肉体とともに心は徐々に柔軟さを失っていきます。実年齢が30歳であっても、自分が持っている技術や環境から学ぼうとしないと、35才よりも前に限界を迎えます。上に書いたように、自分より詳しい若手に頭を下げられるかも限界の年齢を決めるでしょうね。

例えば新卒で情報処理業界に入り、会社が用意してくれた既存の業界や言語や環境の中で安定した仕事をこなしていたとします。その状態に甘んじて新たな言語や環境を学ぼうとしなかったとすれば、老いはより早くあなたをむしばむはずです。そして気が付いたときには技術者としての活躍の場がない、という悲劇に遭遇します。

私自身、今からDeep LearningやMachine Learning、ブロックチェーンや3Dプリンターを学ぶには億劫な思いを感じます。概念は大体理解しているつもりですが、それを新たな実装として試してみようとする気概が出てきません。私にも間違いなく老いは忍び寄っています。

それを防ぐには好奇心を持ち続けるしかないと思います。これは私の価値観ですが、仕事だけが毎日ではないと思います。さまざまなプライベートの趣味や出会いや楽しみを持ち、仕事以外に多様な刺激を受けるような環境に身を置く。それが40代50代になって少しずつ効いてきて、あなたの身を助けてくれるはずです。

まとめ

私なりに技術との関り方をまとめてみました。もちろんこれは私の例にすぎません。人によってそれぞれのやり方があるはず。ここに書いた内容を基に、皆さんがそれぞれの立場で取り入れられる点があれば、取り入れていただければと思います。


アクアビット航海記 vol.40〜航海記 その25


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/4/5にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回は正社員として担うことになったさまざまな業務について語ってみます。これらの経験はどれも私の起業に役に立ちました。

正社員としての任務


さて、当時の私がぶち当たっていた壁。それは家の処分だけではありません。
仕事の上でも私にとって乗り越えるべき試練が次々に押しよせていました。
今回はそのことを書いていこうと思います。どれもが”起業”には欠かせない経験でした。

本連載の三十三回でも書いた通り、スカパーカスタマーセンターの運用サポートチームに引き上げられ、パソナソフトバンク社の正社員にも登用してもらった私。
正社員になってしばらくして後、私の現場での肩書は”集計チーム マネージャー”へと変わりました。

正社員になったことによって、私に求められる役割はさらに増えました。集計チームのマネージャーとして現場の集計業務を管理しながら、派遣元であるパソナソフトバンク社の業務にも貢献することが求められていきます。
立場が変わるとやるべきことも増える。そのあたりのいきさつは本連載の三十一回でも少しだけ触れています。

今回はその部分をもう少し突っ込んで書いてみたいと思います。

正社員になったことで私に課せられた新たな任務。それは大きく四つが挙げられます。
そのどれもが私にとって初めての経験でした。
今から思うと、これらの任務を経験したことは、後年の私が”起業”するにあたっての糧となりました
自分の仕事だけしていればよかった立場から、より広い視野へ現場の仕事だけが仕事ではないという気づき。この気づきを初めて得たのはこの時期だったように思います。

一つ目は、日々のオペレーター・スーパーバイザーさんの出退勤管理システムの保守。
二つ目は、お客様(スカパー社)への月次の請求書発行。
三つ目は、カスタマーセンターの外に出て、作業や商談で別のお客様を訪問。
四つ目は、現場のプライバシーマーク取得や、センター移動の担当としての作業。

システム保守の経験


まず一つ目のシステム保守です。
私が「登録チーム」や「集計チーム」で作業するために集計ツールをマクロで作ったことは本連載でも書きました。
とはいえ、それらはあくまでも自分のためだけに使うものでした。バグを検知するのも自分ならば、それを修正するのも自分。「登録チーム」で作った集計ツールは、同僚のスーパーバイザーからの要望やバグの指摘に対応すればよいだけでした。集計チームでも集計結果のずれなどを指摘されれば直しますし、自分で速度を上げるために改善を行っていました。ですが、使うのはあくまでも集計チームの中だけ。

ところが、私が保守の担当に任じられた出退勤管理システムの使用者の数はそれまでと二桁は違います。全てのオペレーターさんとスーパーバイザーさんを合わせると何百人が使うシステム。
皆さんは朝夕に打刻し、その打刻データは集計してスカパー社への月次の請求に使います。パソナソフトバンク社の事務スタッフだったMさんやSさんも使います。もはや、今までのように私だけが使うシステムではなくなりました。バグなどで動かなくなると端末の前にみなさんが並ぶのです。その列は、自分の管理するシステムが業務に影響を与える現実を私に教えてくれました。

その出退勤管理システムはこのような仕組みでした。
まず、それぞれのスタッフが持つ入館証代わりのカードに印刷されたバーコードを、館内の入り口に設置した端末のバーコードリーダーで読み取ります。Microsoft Accessで作られたそのシステムは、読み取られたバーコードを元に対象者と打刻時刻を内部テーブルに保存します。そのデータをパソナソフトバンク社のMさんやSさんがやってきてフロッピーディスクに保存し、別フロアのパソコンにインストールしてある分析用のアクセスに取り込みます。そのデータが月次の請求や支払のデータに加工されます。

私はこの出退勤管理システムの開発には一切携わっていません。私がカスタマーセンターに入る前からこのシステムは動いていました。このシステムの開発者にも会ったことがなく、仕様書もマニュアルもありません。すべては手探りの中、出退勤管理システムの保守を行っていました。

例えば、当時のMicrosoft Access(確か97でした)は、定期的に最適化をしないとデータ容量が肥大する仕組みでした。この出退勤管理システムは自動的に最適化を行うように作られておらず、たまに止まりました。止まると打刻ができないので長蛇の列ができ、私の元にアラートを告げる使者がやってきました。
それだと困るので、後日、最適化作業は自動で行えるように実装しました。

私が出退勤管理システムに対してやるべき保守作業は他にもありました。たとえばアクセス自体のバージョンアップや、リースパソコンの切り替えなどです。
そのたびに、私はMicrosoft Accessの仕様や機能を調べた上で作業していました。

保守担当が担う責任。それは私にとってステップアップでした。人に使ってもらうシステムに携わることは、自分の仕事の結果が人に影響を与える。それを私に教えてくれました。
今でこそ、私はさまざまなシステムの保守を行っています。が、この時が私にとって初めてのシステム保守の経験でした。まさに技術者の原点となる経験だったと思います。
この出退勤管理システムはMicrosoft Accessの仕組みを学ぶ良い教材でした。また、保守業務のコツのようなものを学べたのもこのシステムからでした。
今さら、支障もないと思うので、システムの名前を書いてしまいます。この出退勤管理システムはMareと名付けられていました。ありがとうMare。なんの略かは忘れましたが。

請求業務で金銭の厳しさを


二つ目は、お客様への請求書を作る任務です。
パソナソフトバンク社からは、何百人ものオペレーターさん、数十人のスーパーバイザーさん、十数人のマネージャーさんがスカパーカスタマーセンターに派遣されていました。当然、毎月の労働に対する請求をスカパー社へ提出しなければなりません。私はこの請求書の作成担当に任命されました。
上に書いたMareで集計したオペレーターさん、スーパーバイザーさんの勤務時間を取りまとめ、さらに別報告で集計されたマネージャーさんの勤務時間を加えます。
これらを月末で締めた後、翌月の第何営業日までかは忘れましたが、スカパー社のご担当者に請求書として提出する。それが私に課せられたタスクでした。

この作業が大変でした。多くのスタッフさんの請求額ですから、金額も膨大な額に上りました。作りあげた請求書に記載される額面は、20代の私には遥かな高みでした。
さらに請求書は業務ごとの案分が組み込まれ、特殊な計算式がてんこ盛りでした。毎月のように請求書のレイアウトは変わり、Excelのマクロ(VBA)による省力への試みを拒みます。
関数の位置がずれ、結果に矛盾を生じさせるたびにご担当者さまのお叱りを受ける。そんな毎月でした。私は月末と月初はこの作業に懸かりきりになっていました。

当時の私にとって、この作業はことのほか難しい作業でした。でも私は、この任務によってExcel関数をより効率的につかうすべを身につけたように思います。
そして、請求とはシビアな営みであり、間違うととんでもないことになる緊張感を学びました。請求とは厳密さが求められ、たとえ一円でもゆるがせにできません。商売の基本となる素養をこの時期に培ったことは、私の”起業”にとって大きな糧となり、“起業”した今もなお私の中に生きつづけています。とても得がたい経験をさせてもらいました(もっとも私の値段設定や財務管理にはいまだに反省すべきことが多いのですが。)
あまりにもやりとりが密に行っていたせいか、スカパー社のご担当者の方と年賀状をやりとりするまでになったのは懐かしい思い出です。

商談に臨み、視野を広げる


三つ目は、外部への訪問です。
当時のパソナソフトバンク社にとって、スカパー社は大口のお客様だったはずです。ですが、スカパー社だけがお客様ではありません。
正社員に雇用された私には、他のお客様でも売上を立てることが求められました。その要請に従い、私はスカパー社以外のお客様を訪問するようになりました。例えば集計の仕組みを作るためお客先のもとに赴いたり、商談に同席するために外出したり。

パソナソフトバンク社では社員向け研修の一環として、名刺の交換などのビジネスマナー研修を行っていました。私もその研修でビジネスの初歩のノウハウを吸収しました。
ただ、研修では実際の商談までシミュレーションしてくれません。そして、商談はいつも本番です。商談への同席など、それまでの私の三十年足らずの人生で未経験でした。

パソナソフトバンクにいる間、私が単身で商談に臨むことはありませんでした。そもそも商談の進め方もわからず、何をどう準備すればよいのかも知らない当時の私が商談などできるわけがありません。まず私は、商談への同行から経験を積みました。商談の場に同席し、営業担当者の横でコクコクとうなづくだけのさえない若輩者。それが私でした。何もかもが不慣れで、全てが見習い。どの時間も勉強でした。

でも何度か商談に臨むうちに、言葉も挟むタイミングがおぼろげに理解できるようになりました。横に座っているだけなのも芸がないので、何かしようと口をはさむようになりました。
最初はうなづくだけだった私も、何度か商談に臨むうちに徐々に商談の空気感を体得していったように思います。
この時、商談の経験を踏めたことが”起業”した今では役に立っています。私を商談に臨む機会を与えてくれたパソナソフトバンク社には感謝です。正社員のお誘いを受諾してよかったことの一つだと思っています。

コンプライアンス意識の醸成


四つ目の任務では、コンプライアンスの意識を学びました。
今の私はコンプライアンスなどの横文字言葉を平気で口にします。でも当時の私はそんな言葉など知りませんでした。ましてや当時はY2K問題の記憶もまだ新しい頃。プライバシーを守る風潮もセキュリティを順守する意識もまだ世の中には根付いていませんでした。
そもそも当時はSNSなどごく一部の方のものでした。アンチウイルスやファイアウォールのソフトウエアをインストールし、怪しげなメールの添付ファイルは開かず、Windows Updateをきちんと実施していれば無問題だった古き良き時代です。

ところが、カスタマーセンターとは個人情報の宝庫です。ですから個人情報保護が至上の指針となるのは当然です。
上に書いたような普通の対策で済みません。きちんとした個人情報保護の対策をとっていますよ、と世の中に知らしめる必要がありました。
そこで、スカパーカスタマーセンターはお客様に安心していただくためにセキュリティ認証を取得することにしました。その認証とはプライバシーマーク。
ところがプライバシーマークを取得するのはそう簡単にはいきません。そのため、スカパーカスタマーセンターに参画していた各社ベンダーにも協力を仰ぎ、センターを挙げて取得へまい進する指令がくだりました。パソナソフトバンク社もベンダーの一社です。そしてパソナソフトバンク社の担当者として任命されたのが私でした。

言うまでもなく、当時の私にセキュリティに対する深い知見も現場をリードできる力量もありません。会議では席に座っているだけでした。やることといえばスカパー社の求める調査項目を入力し、各チームに調査を依頼するぐらい。
ただ、この時にプライバシーマーク取得のための実務を経験できたことは、私にとってまたとない財産となりました。なぜなら個人情報を保護する作業がどれほど大変で労力を要することか、身をもって知ることができたからです。
プライバシーマーク取得に向けてやらねばならないタスクはクリアデスクや施錠の励行だけではありません。書類の管理者やごみの捨て方、ごみを廃棄する方法やごみ廃棄業者の管理監督まで事細かく決めねばなりません。それほどまでに大変な作業をへて、ようやくセキュリティやプライバシーが保てるのです。

私はプライバシーマーク取得の担当になったことで、セキュリティ遵守の意識が身につきました。これは大きかった。なぜなら後年、私が独立し、何カ所もの開発センターを渡り歩く上で求められるコンプライアンス意識が事前に身につけられたから。”起業”した今もそうです。
むしろ、通常の業務が多すぎるのに、いちいちセキュリティに意識を払っていては業務に支障を来たします。無意識のうちにコンプライアンスを実践できるぐらいでなければ。機密保持のための行動など呼吸をするかのように無意識にこなせなければとても”起業”など務まりません。そのための「無意識の意識」を私はプライバシーマークの担当者の任務から会得しました。

もう一つ、私がベンダーの担当者として参加したことがあります。それはカスタマーセンターの移転・増床の作業です。この時もわたしはお座り担当で、あまり大したことはできなかったように思います。ただ、この時に大規模なセンターの移転の現場を体感できたことも、後年の私にとっては武器となりました。

今、株式会社スカパー・カスタマーリレーションズ様の会社沿革のページを見ると、この移転のことが年表に記されています。それによるとYBP内のセンターの移転は2001年の5月と書かれています。そして、プライバシーマークの認定取得は2003年6月と書かれています。
その間に行われたのが、日韓共催ワールドカップです。

日韓共催ワールドカップの前、カスタマーセンターは嵐のような日々でした。それはまた次回に。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.39〜航海記 その24


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/29にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回も家の処分について語ってみます。この経験を通して私をとても強くしてくれた家のことを。

家の防犯に取り掛かる


家の処分に着手した私。まず取り掛かったのは、家の防犯でした

当時、私たち夫婦と幼い長女が住んでいたのは、鉄筋三階建ての家屋でした。
その裏には木造二階建ての家が建っていました。本連載の第十九回にも書きましたが、私が初めて妻と出会った旅で泊めてもらった家です。

この家は空き家だったので、種々のリスクの温床となっていました。
たとえば、本連載の三十四回で登場した泥棒を稼業とする方にとって、裏の家は格好の獲物でした。
さらに本連載の第三十八回に書いたとおり、道路拡張を邪魔していると誤認した誰かの嫌がらせの標的になる恐れがありました。
裏の家が空き家で有り続ける限り、わが家は必ずならず者のターゲットになったことでしょう

もう一つの理由として、裏の家を片付ける必要を感じていました。いずれ訪れるはずの引っ越しの際、四代にわたって二軒の家にためこまれたモノの処分に難儀することは確実。今のうちに取り掛かっておかなければ。

初めて自分で契約書を作成する


私の手元に、弁護士のIさん向けに家の流れを説明した年表があります。弁護士のIさんは後の連載に登場していただきます。
その中の2002/12/29の出来事としてこう書かれています。
「友人「山下さん」に現住所木造2階建て家屋を貸す」
これは文字通り、私たち夫婦が住んでいた二軒のうちの木造2階建て(つまり裏の家)を山下さんに貸したことを示しています。

山下さんは私の大学の先輩にあたります。私が山下さんと知り合ったのは大学時代ではなく、私が東京に住んでからでした。
それ以来20年ほどは親しくさせてもらっています。私たち夫婦の結婚式では二次会の受付も引き受けていただきました。
当時、山下さんが住んでいたのは、私たち夫婦の家から車で20分ほど離れた賃貸マンションに住んでおられました。近くだったこともあって山下さんに裏の家に住んでもらえないか、と頼んでみたのです。

空き家であるから問題が生じる。それならば、人に住んでもらえばよい。人の気配がすればその家には活気が生じます。そして悪い輩を引き寄せなくなります。その結果、家の敷地全体が私たち家族にとって安全な場所になる。
さらに、山下さんに住んでもらっている間に荷物の片付けを少しずつ進められれば一石二鳥です。
もちろん山下さんのお手間を考慮し、家賃は破格の値段に設定しました。月二万円で町田の駅近一軒家なら、山下さんにとっても悪くない話のはず。つまりこの賃貸契約はどちらにもメリットのあるWin-Winになるに違いない。そう考えて山下さんに話を持っていきました。

この契約は不動産業者を介さずに締結しました。それどころか、契約内容の文言も一から私が練り上げました。おそらくその条文は法的には穴だらけだったはず。そりゃそうです。私は法律の専門家じゃありませんから。
この契約は、契約書の体裁はとったとはいえ、友人の間で交わされる信義に基づいた紳士協定に近かったかもしれません。破ろうと思えば、ほごにさえできたはず。それにもかかわらず最後まで契約に従ってくださった山下さんには感謝です。おかげで泥棒に襲われたのは本連載の三十四回に書いた時の一度だけで済みました。また、引っ越しまでの間に致命的な嫌がらせを受けることもありませんでした。

この時、契約の文章を自分で作ったことは後々の財産になりました。なぜなら、いずれ来る地主との交渉で、契約をめぐって一悶着が起こることは確実だったからです。
そればかりか、“起業”してからもこの時の経験は糧になりました
弊社では基本契約や機密保持契約をひと月に一度は交わしています。その際、契約内容は必ず熟読します。法的文書を読むセンスは、自分で契約書を一から作ったことによって身に付きました

プロの師匠にご助言をいただけた幸運


同じころ、私はもう一人の方とコンタクトを取り始めました。その方の名はHさんといいます。
本連載の第十九回で社会と接点を持とうとした私がいくつかのオフライン会に出ていたことは書きました。Hさんとはその中で知り合いました。
Hさんは私の結婚式の二次会にも来てくださり、乾杯の発声も引き受けてくださいました。
私が勝手にわが酒飲みの、そして人生の師匠としているHさんは、補償コンサルタントとして早いうちから独立しておられました。補償コンサルタントとはHさん曰く「国が定めた基準に基づいて、建物などの立ち退きに必要な移転の費用を算定する仕事」です。
つまり、わが家のような土地の一部が都市計画の一部に引っかかるようなケースの専門家です。もちろん、わが家のような借地権が絡んだケースも豊富に手がけていらっしゃったことでしょう。これぞまさにご縁のありがたみです

私はこのHさんからたくさんの貴重なご助言をいただきました。
私が関西の実家に帰った折、うちの母を連れてHさんの構える大阪市内の事務所にお邪魔したこともあります。Hさんは私が住んでいた町田の家にまでわざわざ足を運び、家の状況を確認することまでしてくださいました。

前回の連載で私が採るべき七つの案について列挙しました。私は、地主との交渉にあたって、それらの案の中から徐々に方向性を定めていきました。その際にHさんからいただいたご助言がどれだけ役に立ったか。
なお、Hさんは私たち夫婦と町田市や地主との契約には絡んでいません。そもそも大阪にお住まいですし。
その立場でありながら、いろいろとご尽力くださったことに感謝の念は尽きません
人生や酒の師匠であり、私が苦しめられていた家の処分にあたっての恩人だと今も今後も思っています。
Hさんは私が関西に帰省する度、時間を見つけてお会いする方の一人です。コロナがまん延し始めてからはお会いできていませんが、また関西に返ったらお会いしたいと思っています。

私はこうした行動をおそらく2002年の夏過ぎに始めていた記憶があります。2002年の夏。その時、わが国ではとあるイベントが開かれていました。日本のみならず世界を沸かせたイベント。
なんだかわかりますか? そう、日韓共催サッカーワールドカップです。
当時、私はスカパーのカスタマーセンターに勤めていました。そしてスカパーのカスタマセンターはワールドカップ景気に沸いていました。全試合をスカパー加入者であれば無料放映したためです。加入申し込みの殺到で猛烈に忙しい状態が続いたのを覚えています。
そのワールドカップが終わり、一息つけたことでようやく家の処分に着手できたのでしょう。

スカパーカスタマーセンターの仕事に一つの区切りがつき、ようやく家の処分に向けて本腰を入れ始める。それは私にとって一つの転換点でした。
その話はまた次回で。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.38〜航海記 その23


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/22にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回から、家の処分について語ってみます。この経験を通して私をとても強くしてくれた家のことを。作:長井、監修:妻でお送りします。

高額な地代以外にも問題が


家をどうするのか。それが私と妻に突き付けられた現実でした。
その現実は、他人に肩代わりしてもらうものでもなければ、晴れ間を待ってしのぐものでもありません。それなのに、私も妻も何をどう進めればよいのかわかっていませんでした。

前回の連載でこのように書きました。「家を処分した大きな理由は、四年後に地代が支払えなくなるため」と。ところが、私たちが家を処分した理由は地代だけではありませんでした。
地代さえ支払っていれば、家に住み続けられるかもしれない。そんな甘い期待を打ち砕くには、私たち夫婦に突き付けられた現実はあまりにも苦しかった

前回の連載で、私たちが住んでいた家の問題点を列挙しました。しかし、その中で書かなかったことはまだあります。
一つは、わが家に対する風当たりの強さです。
わが家の敷地が市の都市計画で拡張される道路予定地に含まれていたことは書きました。その道路の沿道には拡張予定であることを示すための柵がずらりと並んでいました。そしてその柵は、わが家の庭の手前で止まっていました。
つまり、何も知らない人が見ると、まるでわが家が道路拡張を邪魔する元凶に見えるのです。そのためわが家は、世間からの風当たりに耐えねばなりませんでした。庭に嫌がらせのゴミを放り込まれ、罵声を浴びることさえありました。

もう一つは、平成七年に妻の祖父母が亡くなった後、妻の母が診療室部分を改築しようとしたことです。
診療室を一新するにあたり、妻の母は業者に依頼して既存の診療室の内装をいったん取り払ってもらっていました。ところが、妻の母は内装を取り払ってもらった時点で病に倒れ、そのまま亡くなってしまいました。そのため、診療室は見るも無残な状態で遺されたのです。打ちっぱなしのコンクリート、地がむき出しになった床。ほこりっぽい室内には、歯科器具が乱雑に置かれ、数台の歯科ユニットが無言でたたずんでいました。私が初めてこの家の中に入った時、かつて米田歯科として栄えていた診療室はただの廃虚になっていました。
本来ならば、妻の母がこの部屋を一新し、診療室として新たな命を与えるはずだったのです。ところが、妻の母が平成九年に亡くなったことで、この場所がかつての栄華を取り戻す可能性は断たれました。よどんでほこりが積もったこの場所は、かつての栄華を知らない私にとって死んだも同然でした。
二度と生き返ることのない部屋。その部屋を生き返らせることができるのは、かつての生き生きとした姿を知っている妻や妻の父でした。が、妻の父が徒歩数分の場所で歯科診療室を開き、そこで妻と妻の父が診療を行っている以上、死んだ診療室を新たに生まれ変わらせる理由はありません。

地代を払う、払わないを議論する以前に、この家はすでに息の根を止められていたのです。
そして、たとえ地代を払い続けたとしても、家が拡張予定の道路の一部である事実は動きません。

対応案を基に弁護士の先生に相談


その現実が変わらない以上、私と妻はそれを踏まえた対応を考えなければなりませんでした。
この時、私と妻が取りうる選択肢は何だったのでしょう。今の私の立場から挙げてみました。

1案:毎年275万の地代を妻に遺された遺産から四年間地主に払い続け、尽きたらその時に考える。
2案:毎年275万の地代を賄えるだけの額を稼ぎ続け、ずっと地主に払い続ける。
3案:地代契約を見直すための交渉に持ち込み、現実的な地代に変えてもらった上で地代を支払い続ける。
4案:土地を地主から買い取り、土地も含めて所有する。その後で町田市との交渉に入る。
5案:地主と協力して町田市との交渉に臨み、先に拡張道路分を町田市に売却する。残りの140坪はそこから地主との再交渉に臨む。
6案:道路拡張分の売却と同時に、140坪分の借地権を地主に売却する。
7案:借地権を第三者に売却し、その売却益で新たに家を得る。

私がまずやろうとしたこと。それは、弁護士の先生に相談することでした。
妻と一緒に麹町に行き、弁護士の先生に相談しました。その先生を紹介してくださったのが誰だったのか、どういうつてだったのか、今となっては先生のお名前も含めて全く覚えていません。ですが、家を処分して十年ほど経過した後、私が常駐した現場のすぐ近くの景色と、このとき先生の事務所の光景がフラッシュバックしたことは覚えています。
その時に相談したのは、今の地主との借地権契約は法的に有効なのか、そして有効だとすればこの借地権契約を元にどう話を進ればよいか、だったと思います。
ところが、先生に相談したところで、私と妻の目論見通りに行くはずはありません。
借地権契約は毎年の支払い実績がある以上は有効。そして借地権契約の原本がなく、現状の契約に至ったいきさつが分からない。そうである以上、弁護士としても再交渉の手がかりをつかむのは難しいという回答でした。

この先生さんにお会いしたのは、結婚して一、二年目の頃だったように思います。
私たち夫婦はこの後も数年にわたり、多くの士業の方にお会いしました。ところが、その皆さんの見解は一様に同じでした。

私も妻も、それまでの人生で士業の方とのご縁はなく過ごしてきました。そのため、私も妻も士業の先生とどう付き合えばよいかについての知識がありません。どの弁護士に相談すればよいのかも分からない。上に挙げた七つの案が正しいのかも分からない。そもそも、上に挙げた七つの案を相談する先として弁護士がふさわしいのかすらも分かりません。まさに五里霧中。

“起業”した今はこう言えます。やるべき作業、向かうべきゴールが見えている作業はまだ楽だと。
何を行えばよいか、どこに進めばよいかが分からない仕事ほど苦しいものはないと。

対応案のどれもが暗雲含み


ここで上に挙げた七つの案について、今の私からツッコミを入れてみましょう。
1案:毎年275万の地代を妻に遺された遺産から四年間地主に払い続け、尽きたらその時に考える。
↑ありえない。と、切り捨てたいところです。が、私と結婚した時点で妻と妻の父はずるずるとなし崩しで地代を払っていました。
2案:毎年275万の地代を賄えるだけの額を稼ぎ続け、ずっと地主に払い続ける。
↑結婚当初の思惑どおり夫婦で働けていたらあるいは可能だったかもしれない案。でも妻が子育てに入ってしまい、当時の私にはそれだけの実力がありませんでした。
3案:地代契約を見直すための交渉に持ち込み、現実的な地代に変えてもらった上で地代を支払い続ける。
↑契約の根拠が見当たらず、それでいて支払い実績がある以上、難しいという弁護士の先生の見解からもムリ目な案です。
4案:土地を地主から買い取り、土地も含めて所有する。その後で町田市との交渉に入る。
↑180坪の土地代を支払うだけの資金がない以上、当時は机上の空論でした。ですが本来は一番理想の案でしょう。なお、今の私の目標は、この案を実現させることにあります。この土地を買い戻せるだけの資力を得ること
5案:地主と協力して町田市との交渉に臨み、先に拡張道路分を町田市に売却する。残りの140坪はそこから地主との再交渉に臨む。
↑一番堅実に見えますが、その分、難儀な案です。こちらに一切の思惑を読ませまいとする地主と私の間には、毎回の交渉の度に無言の火花が散っていました。
6案:道路拡張分の売却と同時に、140坪分の借地権を地主に売却する。
↑表面だけをいえば、最終的にこの案に落ち着きました。ですが、当時はこの案が一番難儀に思えました。この案で落とし込むのは難しいだろうというのが、当時の私の肚づもりだったように記憶しています。
7案:借地権を第三者に売却し、その売却益で新たに家を得る。
↑この案は魅力的でした。実際、私たち夫婦には第三者の心当たりがありました。ところが、この案はこの後の連載で書きますが、頓挫しました。

ここ数回の連載で書いた通り、私と妻の結婚生活には最初からさまざまなトラブルがついて回りました。
妻が子を産めないかもと告げられ、妊娠してからも強盗に襲われて切迫流産の危機に見舞われました。妻は大学病院を静養のため休み、私は正社員に登用されました。そして、長女が生まれてからは子育てに忙しい日々が始まりました。
結局、娘が生まれてから二年ほどは、家の現状を把握することで精一杯でした。
私は毎年末に地主のところに訪れて、地代を手渡し、領収書を受け取り、雑談に過ごしていました。決して内心の苦境を表さず、ポーカーフェースを保ちながら。

ところが、私もただ無策で過ごしていたのではありません。
この頃から次の一手を探り始めます。この時、うちら夫婦を助けてくれたお二人の方がいます。
次回の連載でご紹介したいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.37〜航海記 その22


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/15にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回から、家の処分について語ってみます。この経験を通して私をとても強くしてくれた家のことを。作:長井、監修:妻でお送りします。

巨大な家の重み


本連載の中で何度か、思わせぶりに触れてきた家のこと。ようやく家のことを語り始めたいと思います。

この家については連載第27回でも触れました。
町田の中心部に位置する180坪の敷地と、そこに建つ二棟の家屋です。結婚前、私がこの家に住むことをとても嫌がったことは書いた通りです。
新婚生活を送るにあたり、二人でまっさらな状態から生活を築きたいと願った私の思いをくじいた家。結果、そこで私と妻は新婚生活をはじめました。妻の妊娠が発覚したばかりのころ、強盗に襲われたのもこの家です。

この家は今、影も形もありません。本稿を書いている今、180坪の土地はコンビニエンスストアと公道の一部に姿を変えています。

なぜ住み続けられなかったのか。
180坪の土地ゆえ、固定資産税がかかりすぎた?いえいえ。
相続税が払えなかった?いえいえ。
家が老朽化して住めなくなった?いえいえ。

答えは地代。地代が払えなかったのです。つまりこの家は借地でした。
妻の曽祖父母から祖父母、両親に至るまで四代が住み、歯医者を営んでいた家。それなのに所有していたのはウワモノだけ。家屋は所有していたものの、土地は地主のもの。そして毎年、地主に地代を払っていました。
その額、年額で275万円。普通のサラリーマンの給料では到底払えない額です。

契約を見直すことはできなかったのか?
その地代の根拠はどこにあるのか?
私が住むまで誰も何も手を打たなかったのか?
本稿を読まれた方の脳裏に疑問が湧く様子が思い浮かびます。

危機的な家の状況


まず、契約。
借地権契約は昭和42年に締結されたわら半紙にガリ版刷りの条文のみ。私の手元に今もありますが、信じられないことに他の文書は何も残されていませんでした。
その契約書とすら呼ぶのも躊躇われる文書には、「土地賃貸借基本取極め事項」とタイトルが記されているのみ。覚え書きにすらなりません。なぜならそこには印鑑すらも押されていないのですから。
書面の冒頭にはその場にいた当事者の名前は書かれています。ですが、契約の当事者としてはどこにも定義がありません。たとえば甲乙のような。そのため、法的な書類としてはあまりにも不備が多く、この文書を基に権利を主張するのが相当に困難であることは、法律に疎い私でも分かりました。
登記を調べたところ、昭和23年に借地権が登記された旨は記されていました。ですが、その時に取り交わされたはずの借地権契約の書類はどこにも残っていません。

次に、275万の納付。これは銀行振込ではなく、手で持参する決まりでした。しかも、その場で切られる領収書の額面は250万。残りの25万はどこに消えたのでしょう。わざわざ銀行振込ではなく現金をじかに持参させる意図はどこにあるのでしょう。
不審に思った私が過去の情報を追うと、昭和50年の時点で支払っていた地代は年額28万。28万がいつの間にか275万に変わっており、そしてその根拠は妻も妻の親も誰も知らない。

そんな契約をまかり通させている地主のI氏。これがまた、手ごわい。
後年、家探しの途中でたくさんの不動産業者の方とお会いました。彼らは皆、I氏のことを知っていました。やり手の手ごわい地主として。町田だけでなく、横浜方面にもその名は鳴り響いていたようです。この方を知らない町田近辺の不動産屋はもぐり、とすらいわれたことがあります。

連載第27回で義父がこの180坪の家から歩いて数分の場所に家と歯科診療所を建てたと書きました。なぜ同居せず、わざわざ徒歩数分のところに家を建てたのか。それは明らかに家の処分から逃れるためだったはずです。
ここで義父を非難するつもりは毛頭ありません。むしろ私はこの問題では義父に同情すらしていました。
妻から聞いたところでは、義父もこの家と土地の不透明すぎる契約を何とか見直そうと義父母に働きかけていたのだとか。ところが結局、ムコにしか過ぎない義父にはどうしようもなく、ついにはサジを投げたのでしょう。そしてその近くに家を建て、診療所も設けた。こういうことだったのだと思います。
そもそも私の義父、つまり妻の父からして、この土地の契約にはあまり携わっていなかったようです。

ここで少しだけ、この家の歴史をお話しします。
まず、妻の曽祖父母のY夫妻が借地権をI氏と結びます(昭和23年。借地権契約書は行方不明)。
その娘、つまり妻の祖母はひとり娘。そこに婿養子に入った妻の祖父との間に生まれたのが妻の母。
妻の曽祖父母のY夫妻と、妻の祖父母のY夫妻。妻の母と義父S氏が結婚するにあたっては、婿養子に入ってY夫妻にはなりませんでした。ですが義父は目白の実家を出て、町田に来ました。ということは、ほとんど入り婿に近い状態でしょう。
名字は義父のS氏を名乗っていたのですが、そうするとY家が絶えてしまいます。そのため、子供の一人を養子に出し、Y家を継がせる約束があったようです。その子供こそが私の妻。
実際、妻は昭和62年に養子縁組でSからYへと改姓しました。

この家はそのような複雑な歴史を抱えていました。
あるいは、私と妻がもっと以前に出会っていれば、私も長井を名のることは許されなかったかもしれません。そしてYの名字を名乗っていたかもしれません。入り婿として妻の名を名乗る。つまりマス夫さんのようなものです(苗字はフグ田なので違うのですが)。

しかし、私と妻が知り合う数年前に、妻の祖父母(平成7年)と母(平成9年)が相次いで世を去りました。
そして慌ただしい日々の中で、家と土地の契約のいきさつも伝承されずにどこかに消えたのでしょう。そして義父も、誰もいない空き家となった二軒の家の処分どころではなくなったと思われます。
誰も住んでいないのに、年間275万も払い続けなければならない家。妻の家にとっては巨大な債務でしかない180坪の土地と家。その地代は義父が支払っていたのではなく、私の妻に祖母が残してくれた遺産を取り崩して支払っていました。
私が妻と結婚した時点で、妻が祖母から受け継いでいた遺産は一千万円超が残っていました。その残額から逆算して、地代を支払えるのは残り四年。わりと危うい状態。
そんなところに、妻の結婚相手として名乗りを挙げたのが何も知らない私でした。
ものすごく意地悪に考えれば、私は家の処分担当として見込まれたわけです。私が結婚を許されたのも、家の処分をコミとしてだったのかもしれません。
義父がサジを投げ、どうしようもなくなった二軒の家と土地をなんとかしてくれるムコとして。良い方に考えれば、義父の目には私が家の処分を成し遂げられる男と映ったのかもしれませんが

実際、その後の3年半、家を売却して立ち退くまでの一連の交渉にあたっては、私がほぼ一人で担当しました。義父からも義弟からも何の助けも得られませんでした。
妻も、私が初めて訪れた地代の納付の時だけ、私を紹介するために同行してくれました。ですが、妻は最後の契約締結の場に同席してくれた以外は、地主I氏との交渉は私に任せきりでした。
毎年、私が地代を納付し、交渉にも携わっていました。借地権にも所有権にも私の名は登記されておらず、契約の当事者でもないのに。
その交渉の席では、さまざまなことがありました。そのいきさつはこの後の連載でおいおい触れていこうと思います。

交渉に乗り出す私


私が相手にしなければならなかったのは、地主だけではありません。町田市当局との交渉も必要でした。
先に、180坪の土地は今、公道の一部になっていると書きました。どういうことかというと、土地の一部が町田市の都市計画に組み込まれ、拡張される道路の一部に引っかかっていたのです。
そして、その都市計画は、戦後からかれこれ、数十年にわたって施行されずに滞っていました。
町田市役所の立場からは、何十年も進まない都市計画は怠慢でしかありません。速やかに執行せねば、税金泥棒と市民から非難を受けます。だから担当者も必死です。

私たち夫婦にとっては、都市計画の実施にあたっては公道に土地を供出するわけです。だから、市の公金から補償額が支出されます。つまり市からお金をもらえるのです。
公道として供出する土地の広さは40坪。地価評価額にして約四千万円。その四千万円は土地の所有権者と借地権者で任意の割合で案分します。この任意の割合とは、市が定めるのではなく借地権者と所有権者の話し合いによって決まります。
つまり、私たち夫婦と地主I氏の間で、四千万円の金を巡って駆け引きが発生するのです。
さらにその上に、契約の状態があいまいな残り140坪の土地の借地権とウワモノの家屋所有権がからむからややこしい。
市役所も必死です。そして、地主I氏も必死です。それ以上に何も知らないのに巻き込まれた私は無我夢中です。

私は当事者でもなければ、契約の上でなんの義務もありません。にもかかわらず、妻と結婚してその家に住んだがために、その駆け引きの中心に巻き込まれました。
仮に結婚の当初から夫婦で心機一転し、違う家に住んでいたとしたら、私には家の処分の義務は発生しなかったのではないかと思います。たとえ、妻の持ち物を処分するため、私もそれなりの苦労はしただろうとはいえ。

結局、私は若干20代の半ばにして重い責任を背負う羽目に陥りました。

連載第34回で妻が妊娠するまでのいきさつと、妊娠中のトラブル、そして娘の誕生を書きました。その日々の中、私は正社員として身を固められました。
ところが娘が生まれた私の両肩には家をどう処分するのか、という問題が重く重くのしかかっていたのです。

次回も引き続き、家のことを書いてみます。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.36〜航海記 その21


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/8にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

衝動的にホームページの作成に取り掛かる


今の私には、いくつもホームページを立ち上げた経験があります。
単にウェブサーバーにファイルをアップロードするだけではありません。サーバー用マシンを購入するところからはじめ、Linuxのディストリビューションのインストールから、Apache、MySQL、PHPをインストールするところまで。
社内ネットワークを敷設しましたし、サーバーの中を開けてメモリーの増設も経験しています。その他にもいろいろと経験を積んできています。

当たり前ですが、そんな私にも初めてホームページを作った時がありました。
真っさらな状態からHTMLの〈head〉タグや〈body〉タグの勉強を始めた瞬間が。今回はその時のことを思い出してみたいと思います。
本連載の主旨である起業への道筋を語るには不可欠のはずなので。

前回の連載で娘の誕生に立ち合った経緯を書きました。その時の感動は、私の内部に記録したい、表現したいという欲を呼び起こしました。娘の誕生の感動をホームページで表現しなければ。そんな衝動に駆られ、私は矢も盾もたまらずホームページ作成に取りかかります。
娘の誕生が12/28だったので、仕事も正月休みに重なっていたことが幸いしました。

私の知る限り、その当時はブラウザーを使ったウェブアプリは一般的ではありませんでした。もちろん、スカパーのカスタマーセンターの中でも私の知る範囲では使われていなかったはずです。というのも、ブラウザーといえばInternet ExplorerかNetscape Navigatorの二択だった時代。ブラウザーとはシステムのためのものではなく、あくまでもビジネスの広告媒体、つまりホームページの表示用のソフトでした。つまり、私も含めた大多数の人にとってブラウザーとは誰かがアップしたページを見るだけの場所でした。

もちろん、私の知識もその程度。ですから、技術的にも大したページは作れません。ページも静的なHTMLだけで作りました。CGIどころかJavaScriptも皆無。CSSすら適用しなかったように記憶しています。フォントサイズはCSSで指定せず、フォントタグの中の要素値として指定するのが一般的でした。
ホームページの設置場所もどこに置けば適切なのか分からず、ドメインについての知識もありません。そこで、当時加入していたインターネット接続プロバイダー(DTI)の加入者用スペースを利用しました。そこにFTP接続用のソフト(FFFTP)で接続し、HTMLで組み上げたファイルと画像をアップロードします。そうすると、プロバイダーから割り当てられたURLでページが閲覧できました。

独学でホームページ作成を学ぶ


私は一からホームページの作り方やアップロードのやり方を調べました。どのようにすればホームページがアップロードできるのか。ページが表示できるのか。確か「とほほのWWW入門」には多大なお世話になったはずです。
その結果、娘が生まれた次の日あたりにはホームページをアップすることができました。確か、取りかかってから半日程度だったはずです。ちょうどその時、娘の誕生を応援するため、私の母も東京に来ていました。出来上がったばかりのホームページをうちの母に見てもらいました。

今の私の感覚からすると単に〈html〉や〈img〉タグを組み合わせただけのページに半日はかかりすぎです。でも、それも無理はありません。
私にホームページのいろはを教えてくれる先生はおらず、サーバーやネットワークの概念から独りで学ぶ必要がありました。学びつつ作業する。ですから半日でアップできたのはむしろ早かったともいえます。
この時、独学でホームページの仕組みを学んだことは、私のその後に有益でした。もちろん起業の上でも。

冒頭にも書いたように、今の私はホームページの仕組みについてさまざまな経験を積んできています。それらの知識はほぼ独学で学びました。
芦屋市役所で学んだマクロの初歩も、スカパーで集計の仕組みを改良したのも独学。そしてホームページ作成も。
もちろん、芦屋市役所でお世話になったSさんや「集計チーム」で私にアクセスを教えてくれたOさんのように、その時々で私の手本となる方はいました。それでも私は独学で学んだのだとと思っています。
言うまでもなく、独学は学習効率から考えるととても非生産的です。本来は褒められることでも自慢することでもありません。ですが私にとっては独学とは自分の力で得た知識なのです。それは私に自信を与えてくれています。
その経験は尊く、自分の力で手に職を身につけた実感。これは自信となりました。私の起業の本質は独学にあると思っています。

連載の第十九回で妻と出会ったきっかけが電子掲示板であることは書きました。そしてその当時の私が電子掲示板やICQを使って英語で海外の方とコミュニケーションをとっていたことも書きました。しかし、当時の私はただブラウザーを利用するだけでした。裏にどれだけ複雑なロジックが使われているかも意識することもなく。
そんな私がホームページをアップする作業を経験したことで、私にとってブラウザーの位置づけが変わりました。単にホームページを見てコミュニケーションするためのソフトから、コンテンツをアップし自分を表現する場所へ。ホームページを独力でアップしたことにより、私は自分を表現するための手段を手に入れました。

ホームページ作成で起業の発想はなかった


ブラウザーで何かを表現する。この時、私が表現したのは娘の誕生の感動です。
その時ホームページに掲載した十数枚の画像の中には、娘が生まれた瞬間をとらえた際どい画も含まれていました。それも含めてホームページとは表現なのだと思います。
そして、ホームページをアップすることによって、私は表現とはこれほどまでにやりがいのある営みなのかという感触を得ました。
この時、私がもう少しホームページの可能性を真面目にとらえていたら、関西にいる時に抱いていたクリエイティブな職に就きたいとの望みはもっと早くに叶っていたのでしょう。それどころか、ホームページを使った起業さえ成し遂げていたかもしれません。
ただし、それは今だからいえる話。当時の私はそのような発想を全く持っていませんでした。

その頃の私はあいかわらず旺盛に本を読みまくっていました。そして、何かで私自らの生の証しを立てたいと夢想していました。でも、残念ながら、それは夢想でしかなかった。当時の私はあまりにも未熟でした。
しかし未熟であるが故に伸び盛りでもありました。私が自分の伸びしろを持て余し、自分の能力の可能性に戸惑っていました。自分の可能性を感じながら、何に向かって具体的な努力をすれば良いのか、全く理解していませんでした。
今から考えれば、その時の私には強大なチャンスが目の前に転がっていたにもかかわらず。
私の心の中にビジネスで身を立てる発想は皆無でした。

私がビジネスに興味を持てなかった理由。
それは妻の妊娠と娘の出産を控えた親の心情にかかわりがありました。娘には自分が親として教えられることの全てを伝えたい。良き父、良き夫でありたい。そんな理想の家庭像、理想の自分像に私が縛られていたのです。
その幻想は私の眼にはとても魅力的に映りました。クリエイティブな職を目指す余地を奪うほどに。

何にもまして日々の生活が十分なほどクリエイティブだったのですから。娘の誕生、結婚の日常、そして広大な家での生活。仕事も含めて全てが新鮮でした。
そのクリエイティブな状態は、娘が生まれる二年前の自分を比較すると隔世の感すらあります。二年前の私はブラック企業で追い詰められ、何も考えられなくなるまで消耗していました。それから二年。正社員となり、妻をいつくしみ、娘の誕生にまで立ち会えました。しかも持ち家まで構えていられる。
そんな風に恵まれた自分が、その当時の境遇に満足し、上を目指そうと思えなかったのも仕方ないと思えます。その時の私は、クリエイティブな職を目指すだけのモチベーションを持ちようがなかったのです。自分の境遇の変化に追随するだけで精いっぱいだったのでしょう。

ところが、世間的にはステータスであるはずの持ち家が、私を苦しめはじめるのです。
次回からは持ち家の処分について語っていこうと思います。ゆるく永くお願いいたします。


アクアビット航海記-打たれてもへこたれない


今までの連載を通じ、私の人生を振り返ってきました。
私の人生は決して平坦なものではありません。
何度も凹まされ、傷ついてきました。鼻をへし折られるぐらいならまだしも、やくざさんの家に飛び込み営業で殴られたり、営業成績の不調でその場で丸刈りにされたり。本連載のvol.20〜航海記 その8で書いた通りです。

この後の連載でも触れますが、この後の私はもっと強烈なトラブルにも巻きこまれます。

今、自分で思い出してみてもよくやって来れたと思います。正直、その時々の自分がぶち当たった過酷なストレスをどうやってやり過ごしてこられたのか。自分でもよくわかっていません。

おそらく、持って生まれた性格もあったはずです。のんきでマイペースで、のんびりしていた性格が私を救ってくれたのでしょう。
私は中学生の頃にはいじめにも遭いました。そのたびに、心の中で何回も人を殴りました。数えきれないほどです。実際、中学の時に一度だけ切れて目の前が真っ赤になり、気が付いたらグーで相手を殴っていたこともありました。

切れる自分も知っています。今でも自分を聖人君子だとは思っていません。悪業にも手を染めたこともあります。欲望にも負けやすい性格です。自分は今でも人様に誇れるほどの人間ではないと考えています。

本稿は8月10日に書いていますが、8月6日に小田急線で傷害事件がありました。車内で切れて何人もの人を刃物で刺した事件です。私も影響を受け、二駅を歩いて帰りました。
報道によると、犯人は思い通りにならないことが重なった揚げ句に切れて凶行に及んだようです。

もし私が今までの人生で今回の犯人のように切れていたら、私の今はありません。もしくは、人に切れる前に自分の中が切れて精神に失調をきたしていたかもしれません。

そこで今回は、メンタルについて書いてみたいと思います。

なぜメンタルか。それは、独立や起業を行う上で、メンタルのセルフケアは必須だからです。場合によっては会社勤めの方がよかった、と思うような目にも何度も遭うはずです。そのあたりについては、本連載の最初の頃にメリットとデメリットとして書かせていただきました。

ですが、そのたびにお客様やパートナーとケンカを繰り返していたのでは成長はありません。
もちろん、私もそうしたケンカをしてきました。多くの失敗の果てに今の私があります。そうした失敗の中には、この方には足を向けて寝られないといまだに後悔する失敗も含まれています(この後の連載で書くつもりです)。

どうやれば、メンタルを平常に保てるのか。

まず、過去を忘れないことです。むしろ、過去は何度も思い返すべきです。失敗を何度も何回でも。その時も反省する必要はありません。反省を義務にするぐらいならむしろ居直って開き直った方がよいぐらいです。自分は決して間違っていないという思いを強くしたってよいのです。
悔しい思いや屈辱を何度も自分の中で思い起こすことは耐性となって自らを鍛えます。どれほどの苦しい思いも、当事者だったその瞬間に比べると痛みは比較にならないほど楽に感じるからです。
私はそのことをvol.20〜航海記 その8に書いた当時に学びました。
当事者であるその瞬間が一番しんどい。その時に味わった屈辱は、その瞬間をやり過ごせば過去の記憶に変わります。やくざに監禁されそうになる恐怖や、衆人環視の中で頭を刈られる屈辱ですら。

私はこうした記憶や他にも無数にある記憶を何度も何度も脳内にフラッシュバックさせました。大成社にいた当時の辛さは上京して結婚し、子供が大きくなった6,7年の後も夢で私を苦しめました。ですが、ときぐすりとはよく言ったものです。今では完全に克服しました。
むしろ、そうした振り返りを幾度となく行うことで、自分が客観的に見えてきます。すると今の立場からの批評も行えるのです。批評は、あの時はああすればよかったという改善へとつながります。

私の場合、何度も何度も脳内で耐え抜いたためか、同様の出来事にあっても前の経験と比較できる余裕まで生まれるようになりました。
私はそのため、当時を忘れるよりも、むしろ薄れる記憶を呼び起こそうとします。数年前に大阪を訪れた際、わざわざ大成社のあった大国町のビルにも訪れました。この後の連載で触れる昭島市の某倉庫には近くを通るたびに訪れるようにしています。

ストレスをやり過ごすもう一つのコツは、過去の嫌な出来事を思い起こすのと同じぐらい、自分の人生でよかった瞬間を思い起こすことです。
例えば小学校の球技大会で決めたシュートや、先生や親に褒められた体験。旅行でやり遂げた達成感や何かのイベントを無事に過ごせた陶酔感など。

私の人生に劇的な瞬間はそう多くありません。ですが、思い出してみるとそうした成功体験のようなものが見つかりました。たとえささいな経験であっても、誰にもこうした幸せな経験の一つや二つはあるのではないでしょうか。

苦しかったことや楽しかったことを思い出す習慣。それは、両方をひっくるめての人生という考えに導いてくれます。
私が持っている人生観は、人生の谷と山を均すと平らになるというものです。禍福は糾える縄の如しにも似ているかもしれません。
結局、苦楽が繰り返されての人生です。今のストレスは未来のハピネスの前触れでしょうし、今回の幸いは、次回の辛いによってあがなわれます。そう考えておけば、何が来ても恐れることはありません。

もう一つのストレスから逃れるコツは、さまざまな人生を知っておくことです。さまざまな人の話を聞くのもよいでしょう。小説を読んで登場人物の運命に心を痛めるのもよいでしょう。自伝や伝記から偉人の蹉跌やそこからの這い上がりを参考にするのもよいでしょう。映画や漫画やアニメから心を揺さぶられるのもよいでしょう。
自分に人生があるのなら、今まで生きてきたあらゆる人にもそれぞれの人生があったはずです。あらゆる人生の姿やあり方をストックとして持っておけば、自分だけが特別と感じる罠から逃れられます。
小説や映画の効用は、あらゆる人々の感情の動きに自分を委ねられることです。しかもそれを自分自身の痛みとして感じるのではなく、あくまでも作中の人の被った痛みとして苦しまずに追体験できます。小説や映画に若いうちから多く触れておくことは人生のさまざまな形を教えてくれるのでお勧めです。
結局、人は等しく最後には死ぬのです。それまでの道のりがどうであろうとも、最後には前へ前へと押し出され、死が安らかな眠りをもたらしてくれます。そう思えば、人生の出来事に一喜一憂せず、日々を少しでも楽しく生きようと思えませんか。

繰り返しますが、私は大した人ではありません。今でも何かのイベントに登壇する際は緊張します。
ですが、それは必ず乗り切れると思えるようになりました。
私はイベントに臨む前、こう考えるようにしています。
「当事者である瞬間はやがて必ず終わる。」
「時間は止まらず、必ず前に進む」
自分が失敗して恥をかこうと、人に迷惑をかけてしまおうと、自分も含めて前へ前へと押し流してゆく。それが時間です。全ての人や物事に止まることを許さない。それが時間のありがたみです。

明日プレゼンが控えていようが、大きな商談が控えていようが、その瞬間はやってきて、そして去っていきます。人生とはその繰り返しにすぎません。失敗してもそれを取り返す努力さえすれば、次のチャンスはいつの日か巡ってきます。
そのためにも、辛かった経験や楽しい経験を何度でも思い返してみましょう。その繰り返しが自分の中に改善案やひらめきを必ず与えてくれます。すると苦しかったことも楽しかったことに変わるのです。

いかがでしょう。打たれてもへこたれない私のコツを感じていただけたでしょうか。もちろん、本稿が全ての人に当てはまるとは思いません。ですが、皆さんにとって少しでも参考になれば幸いです。


アクアビット航海記 vol.34〜航海記 その20


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/1にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

子どもが持てない可能性


今回は、作:長井、監修:妻でお送りします。

前回、過去の私を呼びだしてインタビューに応じてもらいました。
過去の私は薄れつつある記憶をたぐり寄せ、なぜ正社員になったのかを語ってくれました。怪しい関西弁で。
そのインタビューの中で彼はこう証言していました。正社員になったのは子どもができたから、と。

今回は、そのあたりの事情をもう少しつまびらかに語ってみようかと。

子どもを作る。結婚したら意識しますよね。
ところが当時の私は、子どもを持つことに積極的ではありませんでした。結婚前も、結婚した後でさえも。

結婚してから三、四年は夫婦で海外などを旅し、思うがままに見聞を広める。子どもはそれからでいいや。のんきに考えていた私の心の中です。
一方。妻の当時の目標は、所属していた大学病院から矯正歯科医の認定医資格をもらうことでした。
子どもを産めば産後は休まねばなりません。それは、認定医の資格取得の時期を大幅に遅らせます。ましてや休職など論外。
つまり、結婚してすぐに子どもを作る選択肢は夫婦ともに眼中になかったのです。

ところが、妻の下腹部より生理でもないのに出血があったことで、夫婦の人生設計に狂いが生じました。
妻が産婦人科で聞いた診断結果。それはもう衝撃。左右の卵巣が嚢腫だったのです。右がチョコレート嚢腫、左が卵巣嚢腫。さらに、子宮内膜症と子宮筋腫まで発症してました。
つまり、子どもが授かりにくい。それが無情な診断結果でした。

私がその診断結果を聞いたのは、妻からの電話でした。
大泣きする妻を慰める私も動揺を押さえ切れませんでした。
私がその電話を受けたのは、辻堂にある密教寺院での護摩焚きに招かれ、歩いて向かっているところでした。
人生で初めて経験する護摩焚き。目の前の護摩壇に護摩木が投じられ燃え盛る炎。
貫主が唱える真言を聞きながら、私の心は炎と同じく揺らいでいました。
妻の体のことや、これからの結婚生活のことを考えながら。

妻に四重の婦人科疾患の診断が告げられてからというもの、私たち夫婦にとっての結婚は、悠々自適プランどころではなくなりました。
ただでさえ乏しい妊娠の可能性は、時間がたつとともにさらに減っていくからです。

強盗に襲われ切迫流産


数カ月後、ありがたいことに妻のおなかに新たな命が宿りました。
おそらくですが、受胎したのは淡路島の南端、鳴門海峡近くのホテルです。当時開催されていた淡路島の花博で訪れました。

新たな命の兆しは、2000年5月の連休前からすでにありました。
横浜天王町のバーを二人で訪れた際、妻が好きだったはずのジントニックで体調を崩したのです。さらに、連休に夫婦で訪れたハウステンボスで、妻のつわりの症状がはっきりとし始めました。ハウステンボス内にあるバーで飲んだジントニックも、妻が好きな杏仁豆腐味のカクテルも味が違うと訴える妻。
一方、ホテルの朝食のオレンジジュースがおいしいからと何杯もおかわりし、レストランのチーズリゾットの味にはまってモリモリと。明らかに味覚が変わったのです。
ハウステンボスの翌日は、大浦天主堂や野母崎を訪れました。家々にひるがえっていた鯉のぼりは、振り返って考えるにまさに子どもの兆しでした。

ハウステンボスの旅から戻ってすぐ、妊娠検査薬に陽性反応があらわれます。つまりオメデタ。翌日には義父や義弟と一緒に横浜でお祝いしてもらいました。
ところが陽性と出た翌々日、オメデタの喜びに浸るうちら夫婦に新たな苦難が襲いかかりました。強盗です。

連載の第二十七回でも触れたとおり、私たち夫婦が住んでいたのは町田の中心地にある180坪の土地です。しかも裏の家には、普段は誰も住んでいませんでした。二つの家を隔てる中庭にはうっそうと木々が茂り、怪しからぬ輩が忍び込むにはうってつけです。

妻が強盗に遭遇したのは、わが家の敷地内でした。この時、私はその場にいませんでした。詳しく事情を説明しておきます。

当時、私たち夫婦は車を持っていませんでした。そのため、車は毎回義父に借りていました。そして、義父の家は私たちの家から徒歩数分のところにありました。
この日、二人で映画(ファンタジア2000とポケモン)を観に行った私たち夫婦。妻を家の前でおろし、私はいつものように義父の家に車を返しに向かいました。

事件はその直後に起こりました。
当時、鉄筋三階建てのわが家は玄関が二階にありました。車を降りた妻が玄関口へと登ってゆく時、中庭が見下ろせます。その時、妻が見つけたのは、裏の家に潜む怪しげな賊です。妻がダレ?と問い詰めると同時に、妻は実家にSOSの電話をかけます。さらに、逃げようとする賊を確保しようと動きました。
そんな妻の動きを見た賊は、そうはさせじと向かってきます。

ちょうどその頃、何も知らない私は義父の家に着きました。すると、血相を変えて飛び出してきたのは義父と義弟。妻が襲われたとの話しを聞いた私は、車を止めて二人を追います。
家の前の道路では刃物を振り回す強盗に義弟が対峙していました。空手を習っていた義弟はすぐに強盗を取り押さえました。
そして、おっとり刀で駆け付けた刑事に強盗を引き渡し、まずは一件落着。とは行きません。

私たち夫婦はパトカーで町田署まで連れていかれました。そして、取り調べ室で事情聴取へと。
パトカーに乗るのも取り調べ室に入るのも初めて。そもそも、夫婦にとって妊娠自体が初めて。全てに慣れない私たち。妻にとっては朝まで続いた取り調べは相当応えたのか、この時の疲労とショックから切迫流産を起こしてしまいました。

切迫流産とは、流産には至らないけど流産寸前の状態です。大学病院への出勤などもってのほか。即刻でドクターストップです。
結果、妻は一カ月以上にわたって実家での安静を余儀なくされたのです。

連載の前回、前々回で書いた正社員の話は、ちょうどこの事件が起こり、妻の静養期間が終わるか終わったかの頃でした。

強盗に襲われた際、私自身の対応が間違っていたとは思いません。ですが、結果として私は義弟に手柄を譲ることになりました。本来であれば夫である私が強盗を撃退しなければならないはず。ここで妻を守れなかったことで、私は自分自身に対しての面目を大きく損ねました。
これではあかん!自分も成長しなければ!妻と子どもを守らなければ!

私が正社員の話を受けた背景には、このような出来事がありました。

ちなみにこの騒動には後日談があります。この強盗、なんと無罪放免になったのです。
なぜなら障がい者手帳を持っており、生活保護を受けていたからです。はるばる愛川町のあたりから夜の荒稼ぎに出かけるだけの元気があったにもかかわらず、です。検事の判断か何かは知りませんが、送検されなかったこの方は世に放たれました。
私はそれを後日、町田署のK刑事から教えてもらいました。この時のやるせなさといったら!
結果として、娘が無事に産まれたからよかったものの、もし何かあったら私はこの犯人を決して許さなかったでしょうし、社会福祉のあり方にも疑念を持ち続けたでしょう。
私は弱者には手を差し伸べるべきと思いますが、弱者がすなわち無条件に善だとは思いません。今もなおそう思います。
それはこの時の経験が大きく尾を引いています。この事件は、私に残っていた青い理想主義を大きく傷つけました。
この出来事をへて、私は正社員になる決意を固めたのです。妻は切迫流産の危険が去り、再び大学病院へと。

娘が生まれた感動


無事に妻の胎内にしがみついた娘(野母崎の鯉のぼりは息子の予兆ではなかったようです)は、順調に成長していきます。
私も妊娠中のママさん達の集まりに単身で参加し、男一匹、ヒーヒーフーとラマーズ法のハ行三段活用を一緒に唱え。つわりに苦しむ妻に寄り添ったり、夜中に妻に頼まれたものを買い出しに行ったりしたのもこの頃の思い出です。

2000年12/28。長女が誕生。二日にわたる難産でした。私も立ち会いました。

産まれた瞬間。それはもう、感動としか言い表せません。ただでさえ荘厳な出産。それに加えて、四重の婦人科系の疾患に加えて強盗による切迫流産の危機を乗り越え、私たちの前に姿を見せてくれたのですから。
出産直後の異様に長い頭に毛が生えておらず、歯がないことに動揺した私が口走ったあらゆる言葉はもう時効を迎えているはず。20年がたった今となっては笑い話です。

子どもを授かってから産まれるまでの一連の出来事。これは、私に大人の自覚を備えさせました。
それまでに持っていた自覚とは、私が心の中で作り上げただけのもの。思いが揺らげば、覚悟も揺れるいわば根無し草のような頼りないものです。
ところが子が産まれる奇跡は、私の思いをはるかに上回っていました。
私にはまだ身につけるべきものがある。知らなければならないことがある。
子どもに恵まれなかった可能性が高いのに、娘の顔を拝めたこと。そのありがたみ。もうちっと真剣に生きようと思わされました。

この頃の私に、起業という選択肢はみじんもありませんでした。それどころか、状況さえ許せば、私はこのまま勤め人であり続けたかもしれません。全てが無問題ならば。
ところがそうはうまく進まないのが人生。
私が結婚によって抱え込んでしまった責任。それが私にさらなる困難を背負わせるのです。
その困難とは家。私たち夫婦が住んでいた家が、私と妻の人生を大きく揺さぶりにかかってきます。

次回は家の問題を語る前に、初めてホームページを作った話を書いておきます。ゆるく長くお願いします。
ゆるく長くお願いいたします。


アクアビット航海記 vol.33〜航海記 その19


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/2/22にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

社員になること


正社員になった私。
今までずっと派遣される側だった立場から派遣する立場へ。

正社員の話をいただき、それを受け入れる決断。そこにどのような葛藤があったのか。正直なところ、自分自身のことなのにあまり覚えていません。
正社員のお話が来たことで、これ幸いと満面の喜びを必死に隠し、内心で快哉を叫びながら受け入れたのか。はたまた、かつて尼崎市役所の外郭団体のお話を蹴った時のような気概を持ちながら、妥協の結果として正社員の話を受け入れたのか。
うーん、どちらでもないような。そんな記憶は残っていません。
ただ、本連載の第三十一回(https://www.akvabit.jp/voyager-vol-31/)で、オペレーターさんとの絆がなくなったことにショックを受けたと書きました。
私が正社員に取り立てられたことは、オペレーターさんとの断絶をさらに広げたはずです。

当時の私の心境を慮るに、ただお話をいただくままに受け入れた、という程度だと思います。
差し出された水を、さほど疑わずに飲むように。もちろん、水の匂いぐらいは嗅いだはず。つまり、正社員の話が自分にとって損か得か、は考えたはずです。

過去の私に質問


では、得とはなんでしょう。身分の安定。対外的な信用。収入の安定。挙げてみればそんな感じでしょうか。
逆に、損とはなんでしょう。収入の減少。束縛の発生。将来の固定。そんな要因が思い浮かびます。
当時の私が何をどう考えていたのか、今の私からQ&A形式で問うてみたところ、関西弁で返事が返ってきました。

まず損の観点から。
Q. 収入の減少についてどう思っていましたか?
A. スーパーバイザーの収入はなんやかんやと手取りで30万はもろてました。残業したらその分も精算してもらえたっちゅうのも大きいです。いやぁ、ぎょうさんもらえましたわ。今まで勤めていたアルバイト、派遣社員、ブラック企業のどこよりもお金もらえてありがたかったです。当時、ぼんやりと思とったのは、実年齢よりも手取りが上回っとったらええんちゃう?ということ。20代なかばで30万以上はもらえとったから、ええんと違うかなあと。
正社員になったら、給与は固定性になるし、残業代も減らされるし。うーん。どないしょ、と思ったのは事実。そやけど、ま、正社員の提示額を計算したらせいぜい数万円ぐらいの減で済みそうやし、まあ損にはならんかぁ、と思ってました。
Q. 束縛が発生することは考えませんでしたか? 正社員になれば社員としての身分に縛られるし、対外活動にも制約が課せられます。
A. うん、考えたよ。束縛についてはぼんやりとね。そらぁ確かに正社員の立場は損になるかもしらん。でも、社員になったからといって公私までは束縛されへんやろ?少なくとも大成社よりブラックちゃうやろ?って思ってたぐらい。そもそも対外活動っちゅうても、当時はSNSとかないし、書いたり喋ったりしようにもどこにも場所がなかったし。そやからそもそも損とか全く思わへんかったわ。
Q. 将来が固定されてしまう、とかは思いましたか?
A. 正社員になったら、将来の自分の道が狭なってしまうってか?たしかに関西におった頃は、クリエイティブな職を考えとったけどね。そやから正社員になってもうたら、将来勤め人で固まってまうがな、っていう心配もちぃとだけありました。でも、今までも何回も転職繰り返しとったからね。まぁ次の道が決まれば辞めてもええかなぁ、くらいに思ってました。そやから将来が固まってまうこともあんまり損とか考えてへんかった。

続いて、得とは何かについて考えてみます。
Q. 身分の安定は得ではありませんか?
A. たしかにアルバイトとか派遣社員を転々としてばっかりやったからねぇ。でもあんまり正社員には憧れてへんかったなぁ。自分が人からどう見られるかも興味ないし。無頓着ってやつ?身分がどうとかも興味なかったし、だから正社員になりたいとかもなかった。なので、得とはあまり思わんかったなぁ。
Q. 対外的な信用は得られたのではありませんか?
A. 確かにね。相方が歯医者やし、結婚する時も相方の親族からは結構冷たい視線を浴びたからなぁ。たしかに正社員になって見返したろ、っちゅう気持ちはちょっとあったかも。歯医者の夫やし、せめて正社員の肩書ぐらいは持っとかんとなぁ。という気持ちもちょっとはね。
でもな、もうすでに乗り越えて結婚した後に来たんや、正社員の話って。これが結婚前やったら釣り合いとるために正社員にもう少し前向きやったかもしらんけど、すでに結婚してたから、今さら対外的な信用、っていわれてもピンと来ぉへんやん?そやから、対外的な信用のことはあまり重要とは考えへんかったなぁ。
Q. 収入の安定はどうなんでしょう?
A. これは……一番大きな理由やったかもしれへん。所帯も持ったし、奥さんも派遣社員の不安定よりは正社員を、っていうことは思ってたはずやしね。でもね、一年ちょっとスーパーバイザーやってたけど、毎月結構なお金もろててんよ。定期的に30万と少しは。そやし、その頃はうちの相方も大学病院に勤めてたし、お金に不足は感じひんかったんとちゃうかなぁ。
ただね、ちょうど正社員の話が来た頃って、相方がお仕事休まんならん事情ができたんよね。え?なんでかって? 子ども。子どもがでけてん。まぁ子どもができるまでもいろいろあってなぁ。話せば長くなるから、今日は堪忍して。ただ、それでいろいろあったから、正社員の話にふらっと流れてしもたのかもしらんなぁ。
Q. 忘れかけの怪しげな関西弁でお答えしてくださり、ありがとうございます。

正社員になったことで得たもの


結局、私が正社員の話を受け入れたのは、将来的な視点からというより、その時の事情、とくに子どもを授かったことが理由でした。
その時の私が変なプライドを発揮して正社員の話を断らなかったことに感謝です。当時の私といえば、さりとて正社員に過大な幻想を抱くこともせず、自然に正社員の話を受けたのでした。

正社員になったことで、私はより多くの仕事を任されるようになりました。
今までは派遣社員だったので、現場で滞りなく集計業務を進めていくだけでよかったのです。でも正社員である以上、違う仕事も担っていかねばなりません。

正社員になったことで、私はより上のスキルや広い視野を得られました。
たとえば、当時手掛けていたオペレーターさんやスーパーバイザーさんの出退勤管理システムのメンテナンスもその一つ。
パソナソフトバンクに所属する皆さんは、出退勤の際に社員証に印字されたバーコードを読み取ります。Microsoft Accessによって作られたそのシステムは、現場と事務所の二カ所に設置されていました。現場の打刻用と、横浜ビジネスパーク(YBP)の別フロアにあるパソナソフトバンクが分析システムための二つです。
ところがこのAccessはカスタムメイドで、しかも作った方がすでに離任していました。そのため、私はこの勤怠管理システムのメンテナンスを任されました。
また、これは少し後の話ですが、パソナソフトバンクからスカパーさんへ毎月提出する請負業務の請求書の作成も私に任されました。そしてこれも少し後ですが、外のお客様の案件も手掛ける機会をいただきました。スカパーの現場だけでなく、違う現場も経験させないと、という上司の判断だったのでしょう。
そんな私の下には、常勤のオペレーターさんが配属され、私は上司になりました。人に指示する立場。それは社会人になって初の経験でした。

次回は、当時の私が抱えていた仕事からいったん離れ、子どものことについて書こうと思います。
初めて子を持つにあたり、いろんなことがありました。
それらの出来事も、私の起業を語る上では外せません。
ゆるく長くお願いいたします。


アクアビット航海記 vol.32〜航海記 その18


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/2/15にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。今回は27歳の私がようやく正社員になる話です。

Y2K問題


2000年。Y2K問題の不安とともに幕が開いた年です。
Y2K、すなわち2000年問題とは、年月計算に関するコンピューターの不具合に起因する問題です。その不具合は1999年から2000年に年度が切り変わる際にあらわれるとされていました。
具体的には、コンピューターが年を2桁で管理していた場合に起こるとされていました。1999年は99、2000年は00と扱うように。このように年を扱っていた場合、2000年になった途端、年の値が00に切り替わります。すると00を2000年ではなく、1900年と誤認識してしまう。
これが2000年問題です。この問題によって年月計算にバグが生じ、誤請求やシステム停止などが発生するなど、社会が混乱すると警鐘が鳴らされていました。

結論としてスカパーでは2000年問題は起きませんでした。私も年末年始は休めたはずです。
ただ、年末にはトラブル時の対応について、注意を喚起するための文書が回ってきたように覚えています。

2000年問題とは、プログラマーやエンジニアでなければ興味の持ちようのない問題でした。それまでの私なら世にあふれるニュースの一つとして適当に片付けていたはずです。
ところが私にも2000年問題が自分のこととして感じられました。その当事者意識は、集計担当である自覚と、少しのExcelのマクロをかじったことによって生まれました。

そもそも私は大学時代、政治学研究部にいた頃から、さまざまなオピニオン誌を読んでいました。ところが、世界で頻発する問題の多くは、雑誌などの文章に埋もれていた私には、誌面の中に閉じ込められていた問題にすぎませんでした。つまり問題を生活の肌感覚で扱えていなかったのです。
実感するより前に、それらの問題は机の上や論壇で議論されるべきと、どこか引いて眺めていたように思います。
ところが、2000年問題は、私にとって社会の問題であると同時に、自分に直結する問題として受け止めていました。当時の私は、この程度の2000年問題の理屈であれば理解できるほどにはパソコンにふれていましたし。
これは私の成長でしょうし、独り身で東京に飛びこんだ成果だと見なしてよいでしょう。
とはいえ、2000年初頭の時点で、私のコンピューターに関する知識はまだExcelのマクロの延長でしかありません。
しかし、その一年で、私はシステムの楽しさに目覚めるのです。

二次元から三次元へ


この連載の第二十八回で私は「運用サポートチーム」にはオペレーターがいない、と書きました。ですが、それは少しだけ訂正させてください。
私が集計担当に着任した時、私の前任者Nさんの補佐としてオペレーターのKさんがいました。ただし、正確には週の限られた曜日だけの出勤でしたが。
私が集計担当に着任して数カ月たち、Kさんは私に新潮社のスポーツ年鑑ウィナーズというプレゼントを残して離任しました。
かわりに着任したのがOさん。私よりも数歳年下の女性です。そのOさんは前職でシステム開発をされていました。私はこのOさんからシステム開発の初歩を学びました。私を一つ上の次元に上げてくださったのがOさんです。

私がそれまで触っていたExcel。それは縦横二次元の表からなります。複数の表がシートの中に配置され、シートは何枚も集まり、一つのワークブックへ集積されていきます。つまり二次元の集まり。
ところが、集計の実作業に携わっていると二次元では限界が生じます。つまり三次元へと意識を飛躍させなければなりません。私は集計担当としてExcelを扱う中で、少しずつExcelの限界を感じ始めていました。どうやればより効率的で立体的な集計作業ができるのか。
ただ、Excelは工夫次第では、多次元の作業が可能です。
例えば私が「集計チーム」で作っていた集計表は、シートに書かれた行と列からなるデータを、別の入力シートからExcelのマクロで書き込むものでした。つまり行列の二次元の中だけではなく、別次元から二次元にデータを書き込む。それは二次元から高次元への進歩です。
そして、その考えをよりシステマティックに突き詰められるのがAccessだと思います。そのためにはAccessを覚えなければ。
ところが私はどうしてもAccessのフォーム・レポートとテーブルの関係が理解できませんでした。Accessはデータがデータとしてのみ存在します。データベース・ソフトなのですから当然です。
フォームを通してデータの入力と編集を行い、結果を見るにはレポートを使います。そうしたAccessの機能が私にはExcelに比べていくぶん柔軟性に劣ると感じました。

私はAccessのツボが理解できず、戸惑っていました。ツボを教えてくれる人も回りにいません。どういうふうに学べばよいか、突破口も見つかりません。すっかり困っていました。
そんな私にAccessのデータとフォーム・レポートの関係を教えてくれたのがOさんでした。Oさんによって二次元のテーブル、つまりデータが三次元のフォームやレポートへと結びつくことを教えてもらいました。
また、データがデータとして格納されていることで、データの整合性が保証されることも教わりました。
私はOさんのおかげで、プログラマーとして一つステップアップできたように思います。
今に至るまで、私は情報処理エンジニアとしていくつかの段階を乗り越えてきました。
それらの段階の中でも、この時に高次元の発想ができるようになるまでが最初の難関でした。そして、私が情報処理の世界で生きていくための重要なマイルストーンだったと思います。
20年以上たった今、Oさんとはまったく疎遠になっていますが、今でも感謝しています。

Oさんはシステム開発の会社を辞め、つぎに語学の分野に進みたいとの希望を持っておられました。
その合間に稼ぐため、オペレーターとしてスカパーの現場に派遣されていたそうです。実はスカパーのカスタマーセンターにはそういう方が何人もいました。学生や主婦以外だけでなく、たくさんの夢を追う人がいたのです。その中には私のようにとりあえず就職、という人ももちろん。

正社員へのお誘い


この連載の第二十五回https://www.akvabit.jp/voyager-vol-25/でも書いた通り、スカパーのカスタマーセンターには業務ごとに別々の会社が請負業者として参加していました。パソナソフトバンクもその一社です。
これだけ大勢の人が携わる現場であれば、パソナソフトバンクが請け負う業務の中で働いている人々も、パソナソフトバンクとの直契約ではありません。多くの派遣社員が集まる職場とは、とかく契約関係や商流関係が入り乱れ、複雑になるものです。私も後年、個人事業主として各現場を渡り歩く中で、そのことを理解しました。
ですが、この頃の私はそういう仕組みを一切知りませんでした。
スカパーのカスタマーセンターとは、私にとって就業の形にもいろいろなものがあることを教えてくれた現場でした。
それまで、私の経験の中で似たような現場といえば神戸のDUNLOPくらいでしょうか。
でもDUNLOPではこの連載の第十八回https://www.akvabit.jp/voyager-vol-18/に書いた通り、私自身が何のために現場にいるのか皆目わかっていなかったので、この時が初ての体験でした。

そんな無防備な私に対して、パソナソフトバンクの下で業務を請け負う会社が接触を図ってきます。
その会社の名前は忘れてしまいましたが、いくつかのチームのマネージャはその会社の社員さんだったように記憶しています。つまりマネージャを派遣する会社です。
その会社の方がそれとなく私の今後についての意図を聞いてきたのです。といっても当時の鈍かった私は、それが引き抜きの前触れであることに気づくどころか、その会社に誘われていたことにすら気づいていませんでした。
そんな私を見て、引き抜かれる前に引き抜いてしまえ、と思ったのかどうかはわかりません。ですが、パソナソフトバンクから正社員の誘いが来ました。それがいつだったのかは覚えていません。
今、私の手元には2000年6月27日付けの業務経歴書が残っています。ということはおそらく、2000年6月には面接に臨んだのでしょう。

私は新宿の本社での面接をへて、パソナソフトバンクの社員に採用されました。入社日は覚えていません。たぶん、2000年7月ではないかと思います。
この時、私は27歳にしてようやく正社員になれました。大学を出てから、アルバイトや派遣社員を渡り歩いていた私が、はじめて名刺を持ったのもこの時です。

それは間違いなく私にとってのステップアップでした。

引き続きゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.31〜航海記 その17


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/2/1にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

距離


連載の前回で、運用サポートチームへと登用され、正社員への道も開かれた私。
はたから見ると、私の姿は順風満帆のように見えたことでしょう。
ですが、そうした日々の中、私は葛藤を抱えていました。それは私自身の立場が変わったことから生じました。

前々回も書きましたが「運用サポートチーム」への異動は、所属していた「登録チーム」のオペレーターさんと私の間に距離を作りました。
実際に、とあるオペレーターさんからも直接言われた記憶があります。
「長井さんは運用サポートに行ってから声をかけづらくなった」と。

私にとっては、登録チームから運用サポートへの異動など、ただ別のチームへ移っただけのつもりでした。業務の変化や責任の重みが増えただけで。
私は立場や役職などにあまり興味がありません。そのため、仕事で声をかけあう関係ではなくなったとはいえ、立場など無意味だと思っていました。立場に関係なく、所属していたチームのオペレーターさんたちとは楽しく過ごしていきたかったのです。
結婚し、「運用サポートチーム」に移ったことで、自分の何が変わったというのか。私は何も変わっていないつもりでいました。でも、周りはそう見てくれません。
私自身は変わっていなかったつもりでも、立場が変わってしまったことで、私の立ち居振る舞いにも何らかの変化が生じてしまったのです。

本連載の第九回で”起業”することは人との付き合いの質を変えてしまう、と書きました。
そこで書いた内容は、この時に感じた経験をもとにしています。

学生の心


アルバイトや派遣社員で働いた経験と「登録チーム」での日々。私にとってはどれもが学生時代の友達付き合いの延長でした。だからこそ私は「登録チーム」での仕事が性に合っていたのでしょう。
ですが「運用サポートチーム」に移ったことで、その日々は終わりを告げました。
学生さんのバイトが多かったオペレーターさんたちとの触れ合いから、仕事のプロの集まる「運用サポートチーム」へ。
それを機会に私は周りから社会人として見られるようになったのかもしれません。そして、私は一段ステップを上がれたのでしょう。学生から社会人へ。
そのタイミングが私の結婚と重なったのは決して偶然ではないはずです。

ですが、社会人としてステップアップすること。それが果たして良かったのか。今も私にはわかりません。
いつまでも学生気分でいられないこともわかります。社会人としての大人の分別が必要なことも。
「いつまでも学生気分やってんじゃねぇよ!」という言葉は、社会人と学生の違いを如実に言い表していることは確かです。

ですが、今もなお、社会人になれば学生気分を捨てろという常識に素直に従えない私がいます。

それは、私の性格の問題です。
いったん仕事モードに入ってしまうと気持ちを切り替えられない性分。私は自分の心の不器用さに今もまだもがいています。
学生の心でオペレーターさんたちに触れあい続け、その一方で大人にふさわしい仕事をきっちりとこなす。その両立が当時の私には難しかった。多分、今の私は当時よりも仕事のスキルも上がっています。仕事のことを考える時間が多いです。ですが、それと引き換えに学生の頃の心を忘れつつあります。
そこに私の性格の限界があります。
この時の私は今よりもさらに余裕もなく、器も小さかった。
この時にもっとスマートに立ち回れたのではないか。それを考えるとき、私の心には後悔が沸き上がってきます。それ以来、二十年以上、心の奥に重く沈み続けています。

そもそも、私は仕事中の自分の性格があまり好きではありません。それは、この時に「登録チーム」のオペレーターさんと隙間ができたことの痛みを今も引きずっているからだと思います。

尾崎豊


当時の私は、「運用サポートチーム」に移ったことで、無意識に構えを作ってしまったのでしょうね。そして気負っていた。
「運用サポートチーム」に移っても同じ自分であり続けたい。自分と周りに壁を作りたくない。当時の私はおぼろげながらそう思っていたはずです。
ですが、それは自分には無理でした。
この頃、私の結婚式の二次会でオペレーターのU君と一緒に歌ったのが尾崎豊の「僕が僕であるために」。
この曲のメッセージを暗示するかのように、私はオペレーターさんたちと離れてしまいました。当時お互いをソウルメイトと呼び合ったU君とは今も付き合いが続いていますが、他のオペレーターさんたちとは今は疎遠になってしまいました。

学生の頃の甘えた考え。それを捨て、大人の社会のしきたりに自分をなじませること。
それは社会の一員として活動するには避けて通れない通過儀礼です。でも、本当に学生の心を保ったままで仕事することは無理なのでしょうか。
この問いは、今も私の心に棘として刺さり続けています。
決して「運用サポートチーム」の皆さんが悪いのではありません。仕事が悪いのでもない。それは私の心の問題です。仕事とプライベートをうまくさばけなかった痛み。

この痛みこそ、30歳を半ばを過ぎてからの私を駆り立てた原動力です。
たとえば、本連載を始めたタイミングで私が常駐先を抜け、完全なる独立に踏み切ったのもそう。Facebookで日々、違うイベントを書きまくる理由もそう。
すべては、この痛みに対する私の防御反応だと思っています。
“起業”すれば、再び学生の頃の自由さを取り戻せるのではないか。仕事の真剣さと個人の自由を両立させられるのではないか。学生時代の心を抱いたまま、社会人として一人前になれるのではないか。
そんな無意識の衝動が三十代の私の心には潜んでいたように思えます。

ところが、私の願いを裏切るかのように、三十代前半の私は仕事と育児と家の処分で忙殺されます。
それらについては、この先の連載で触れていきます。

今回はいつもより重たく書いてみました。これに懲りず引き続きゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.30〜航海記 その16


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/2/1にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

集計担当として


「運用サポートチーム」で独り立ちし、集計担当となった私。
当時、私が携わっていた業務の詳しい内容は忘れてしまいました。今回、本連載を書く機会を生かし、思い出して書いてみましょう。

各チームから上がってくるさまざまな業務データ。それらを集計するサイクルは、大きく日次、週次、月次の三つでした。
特に重要だったのが日次です。毎朝、スカパーさん主催の朝会が開催されていたからです。

「受付チーム」「登録チーム」「不備チーム」「変更チーム」「料金チーム」の前日分の結果を集計し、A4用紙1~2枚にまとめる。それが日報でした。そして、日報の提出は必須でした。
日報を提出するため、集計担当は朝一番で各チームが提出する集計レポートをチェックします。前後の日の数値に矛盾はないか。足し算がきちんと足されているか。累計、前週比などの計算に狂いはないかなど。
内容に不備があればチームに再提出を依頼します。そして全チームの集計に問題がなく、日報としてまとまった時点で、印刷して朝会に提出します。朝会が始まるのはたしか午前10時か11時だったはずです。つまり、集計担当はそれまでに各チームからの集計レポートをチェックし、それを日報として取りまとめなければなりません。毎朝、時間に追われながら作業していました。

業務の見直しにかかる


朝会が終われば、日報のデータをスカパーさんの社員の皆さんにメールで送っていました。
ここで、朝の作業はひと段落。

午後は、日によって違う作業をしていました。
たとえば集計フロー変更の見直し。これは、報告・集計項目に変更が生じるので、報告方法やレイアウトのすり合わせを各チームと行っていました。
現場ではスカパーの新規キャンペーンやイベントなど、特殊な集計が結構な頻度で発生します。その度に報告内容の変更が生じていました。また、各チームの業務フローの変更も頻繁にありました。そうした集計のフローが変わる前に、各チームと打ち合わせを行っていました。
また、集計チームでは日次だけでなく、週次や月次のレポートも提示していました。そうした複数の集計タスクを業務の合間を縫ってこなしていました。
それと並行し、集計業務自体を省力化するための試行錯誤も毎日のように行っていました。

とはいえ、午後はそれほど差し迫った業務もなく、時間には余裕がありました。
慣れてくると、引き継いだ集計結果を提出するだけでは飽きたらなくなってきます。今の作業プロセスを省力化したくなる。それが私のさが。徐々に集計フローに工夫を加え始めました。

おそらく私がはじめて仕事を能動的に取り組んだのが、この時だったように思います。
登録チームで簡単なマクロを組んだ時もそうでしたが、さらに業務を改善しようと本気で取り組んだ日々。

私を成長させてくれた日々


集計を担当する日々。それは、私に社会人としての基礎を身に着けさせてくれました。同時に、社会でなんとかやっていけるのではないか、という自信も持たせてくれました。
何しろ、それまでの私はまともに就職した経験がありません。また、研修も受けたことがありません。そんな私が毎日「運用サポートチーム」の精鋭たちと一緒に仕事させてもらっていたのです。皆さんからは多くのことを学ばせてもらいました。

私が集計に慣れてゆくにつれ、「運用サポートチーム」の方々が安心の色をみせたことはおぼろげながら記憶しています。
そして、私が集計担当として現場になじんでゆくにつれ、各チームのスーパーバイザーからも集計について相談をいただき始めました。

集計チームの中で閉じていた作業から、少しずつ外のチームへと。徐々に私の中で活動範囲を広げ始めたのもこの時期でした。
その時、他チームとどういう打ち合わせをしていたのか。正直、余りよく覚えていません。ただ、集計チームでの経験は私を確実に成長させてくれたと思います。

何かを任される日々。
独りで何かを任されたことはそれまでにも経験していました。日々のタスクがきっちりと決められた作業も「登録チーム」で。ですが、朝のうちに締め切りが求められるのは、集計チームでの作業が初めてでした。
当初は自分でも自信がなく、挑戦の日々でしたし、余裕などありませんでした。ですが、私には思った以上に合っていたのでしょう。悩みも行き詰まりも起こらず、その時から私の社会人としての生活は始まったように思います。

結局私は、2003年7月に離れるまで集計担当として三年半を集計担当として過ごしました。そして、この間にパソナソフトバンクの正社員に登用されました。


アクアビット航海記-好奇心の大切さ


今までの連載を通じ、私の人生を振り返ってきました。
私が曲がりなりにも今までやってこれた理由。それはいくつか、考えられます。

・やってきたチャンスに尻込みせず、その時々で飛び込んで行けたこと。
・特定の事物に対するこだわりがなかったこと。
・しがらみを作らずに生きてこれたこと。
・物事に対する好奇心があふれていたこと。

ここでは、最後に挙げた好奇心について語ってみようと思います。

今、激動の時代であることは誰もが知っています。
情報技術が進歩し、暮らしの中にデジタルやAIがいつの間にか入り込んでいます。
電子機器やガジェットに囲まれる日常。当然、それらを扱うにはスキルが求められます。

暮らし方がここまで変化したのですから、働き方やビジネスのあり方も相当に変わりました。十年前のやり方はすぐに古びていき、常にアップデートが求められます。
新たな考えや概念について行けないことは、キャリアの停止に直結します。
今の世の流れは速く、そして変化に富んでいます。そのような昨今の流れについていくためには学びを忘れてはなりません。

私の場合、二人の祖父がともに学者だったことも幸いしたのか、学ぶことに関して抵抗がありません。
とはいえ、学生時代は本分たる学びよりも遊びを優先するダメ学生でした。
それが、社会に出てから、学びへの意欲が増したのですから面白い。学ぶことのありがたみを知る毎日です。

私の場合、特定のメンターはいません。
もちろん、生き方の師匠と呼ぶ方はいます。今までの人生の時々で感化された方もいます。
ですが、私の人生はほとんどが独学でした。本やウェブを頼りにした。

その独学の原動力こそ、本稿の主題である好奇心です。本稿では好奇心の持ち方、養い方を考えてみたいと思います。

好奇心と言いましても、人の性格はそれぞれです。好奇心があまりない方の場合、無理やり好奇心を持てと言われても逆に重荷ですよね。
若い頃の私も同じでした。その頃は今のように好奇心でぎらぎらする人間ではなかったように思います。

そんな私が初めて出会った好奇心が旺盛な人。芦屋市役所でアルバイトのオペレーターをしていた時にお会いしたSさんです。
大手情報企業のSEとして来られていたこの方から受けた影響については、本編の中で書きました。

そしてその方の姿勢こそが、今に至るまで私を支えてくれています。そして人生で苦しい時期も前を向かせてくれています。
それ以来、私の中には知りたいという欲求が渦巻いています。
その根源にあるのは、自分が何者であるか、どこからきてどこまで向かうのか、と言った高尚な動機ではありません。
ただ単に新しいことを知りたい、という切実な思いだけが私を動かしています。
新しいことを知る。
知る前の自分と知った後の自分には明らかな違いがある。進歩が感じられる。
その進歩がたとえわずかな歩みでしかなくても、一歩ずつでも前に進んでいる実感。それが苦しい仕事の時にも私を現世につなぎとめてくれたように思います。

無から生まれ、無へと消えてゆく儚い生。私たちはその無と無の間の限られた時間を生きています。
虚無によって前後をはさまれた生の中で何を原動力にして生きていけばよいのか。
私はその原動力を、一瞬一瞬の達成感で満たすことにしています。

とはいえ、人によってその達成感はそれぞれでしょう。仕事の課題をこなす。ゲームのラスボスを倒す。山に登る。スポーツで敵に勝つ。本を読み倒す。
この中で、私にとって最も手軽に達成感を覚えられるのが、最後に挙げた本を読み倒す営みです。

他に挙げた営みでも、もちろん達成感は挙げられるでしょう。ですが、準備や手間が必要だったり、自分以外の他者が関わったりします。
ゲームは、確かに達成感を得られますが、eスポーツで稼げるほどのスキルを獲得しない限り、自らの成長には貢献しないと判断しました。
となると、既存のメディアに頼る他はありません。それも新聞やテレビや雑誌ではなく、特定の分野が描かれた本を。

本は完全に閉じた世界です。自分と本だけの関係。他の何者も邪魔しないし、影響もされない。つまり、達成感の及ぶ範囲がわかりやすいのです。

その好奇心の及ぶ範囲は、自らの専門分野に限らなくてもよいのです。
私の場合はむしろ、お門違いの分野にも積極的に関わるようにしています。
それが思わぬ形で未知の分野への関心につながりますし、その都度、自分の無知を思い知らせてくれます。

そうやって自分の無知を常に自覚することは、自らを謙虚にしてくれます。
世の中には私の知らないことがある。それに対して興味を持つ人もいて、人生を賭けている人もいる。そうした気づきは、私の周りを明るく朗らかに照らしてくれます。

また、好奇心は仕事にも直接役立ってくれます。例えば新たに商談で出会った方が、私のまだ知らない業種やお仕事についていた場合、その効果は出てきます。
私はその仕事や業種に対して興味を示します。自らの仕事に興味を持ってくれる人に悪感情を持つ人はいません。それが相手からの好感につながりますし、仕事にも結びつきます。

では、そうした好奇心を持つにはどうすればよいでしょう。

私の場合、意識して好奇心を持とうと思ったことはありません。
ただ、現実のつらさを忘れるためにすがったのが好奇心だっただけです。目の前の現実から逃避するため、好奇心を肥大させただけなのかもしれません。
例えば過酷な飛び込み営業をしていた時期。何日も泊まり込みのプロジェクトトラブルに巻き込まれた時。
そのようなつらすぎる現実に巻き込まれた時、逃避するためのスキルとして好奇心はお勧めできます。

そして、つらい時期を乗り越えた後にも、好奇心は人生の助けとなってくれます。
例えば仕事でもそう。好奇心によって興味の範囲を持っておくことは、上にも書いた通り、商談の場において、新たな関係性の構築を助けてくれることでしょう。
商談の中における雑談の重要性は、よく言われるところですよね。雑談が苦手で、うまく場をつなげられない、という方。ぜひ、質問力を高めてみてください。
話すことがなければ、相手のことを尋ねればよいのです。
どういう仕事をしているのか、何を扱っているのか、どういう苦労があるのか、など。好奇心を普段から養っておくと、相手に対する疑問は次々湧いてくるはずです。何しろ、相手のことを何も知らないのですから。
そうやって質問するだけで場は十分につながります。

また、好奇心を養うことは、身の回りのことが何も知らないことへの気づきにつながります。それは自然と周囲に対する関心となり、周囲に対する能動的な態度となってあらわれるはずです。
その前向きな態度は、必ず良い方向へと人生を導いてくれるはずです。

いかがでしょう。好奇心の重要性を感じていただけたでしょうか。本稿が皆さんの参考になれば幸いです。


アクアビット航海記 vol.28〜航海記 その15


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/25にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

重荷を背負う


1999年。ノストラダムスの大予言で恐怖の大王が落ちてくるはずの年は、ユーロ導入で幕を開け、2000年問題の不安で幕を閉じました。
台湾とコロンビアで大地震が起き、天変地異の不安に世間が苛まれた一年でもあります。
NATO軍がユーゴスラビアを空爆し、東海村JCO臨界事故やコロンバイン高校の銃乱射事件に世間は震えました。世紀末じゃないのに聖飢魔IIが解散した年でもあります。

この頃の世間を騒がせるニュースは不景気を反映したものばかり。バブルが弾けてから続く不況は、一向に解決の兆しを見せないままでした。
そんな一年でしたが、私の1999年はバラエティに溢れていました。
丸刈りにされ、クビにされ、飛び出すように上京し、家を借り、職に就き、親から自立し。その経緯は今までの連載で触れたとおりです。
1999年の私を語るにはそれだけでは足りません。結納し、婚姻届けを提出し、結婚式と披露宴と二~四次会を挙げ、新婚旅行に旅立ち、職場では統括部門に引き上げられました。
目まぐるしいあまり、かえって1999年の私の記憶はあいまいです。
今回は親から自立してからの私の1999年を語りたいと思います。

9月29日。4月1日からの半年間の独り暮らしが終わった日です。
その日、私は独り暮らしのマンションを引き払い、町田へ引っ越しました。
引っ越し先は前回の連載で触れた、町田駅近くに建つ敷地180坪の鉄筋3階建ての家です。私は結局、妻側の意向に負けてしまいました。
心機一転、しがらみも遺産もなしに新婚生活を迎えたいと願った私の努力は水の泡となったのです。
努力といっても結婚をご破算にするほどかたくなに反対しなかったのですから、それは私自身の選択の結果です。

そもそも、私の努力は報われない運命にあったのかもしれません。
妻と新居を探しに行った回数は数えるほど。横浜線の中山駅近くの物件とか。
でも、どの物件も妻の祖父母が住んでいた邸宅に比べると狭く、妻を満足させるには物足りません。
それも当然です。しょせん、180坪の家と比較できる物件などあるわけがないのです。いかんせん敷地の広さが違いすぎました。

その結果、私は26歳の若造でありながら、町田の中心部にある180坪の土地とそこに建つ二軒の家を自由に使える身分になりました。
それは他人からすると恵まれた立場なのでしょう。ギャクタマ人生ここにめでたく大団円。

とはならないのが私の人生です。
ここで私が自らの意思を貫かなかったことは、私のその後に大きな影響を与えました。
ひょっとすると、この家に住まなければ私が”起業“することはなかったかもしれません。
そして、この広大な土地と家屋に住んで得た恩恵は、私にそれ以上の重荷となってはね返ってきます。
そして、その重荷は私を大きく成長させてくれました。そのてん末については、本連載でいずれ触れるつもりです。

リクルートされる


その前に私がスカパーカスタマーセンターの「登録チーム」から「運用サポートチーム」に移った時のことも書いておかねばなりません。
「登録チーム」の集計作業の手間を軽減するため、私が作った集計用Excelのマクロ。
それについては連載の第二十五回で触れました。そのマクロが私に次なる道を開いてくれたことも。

私が「運用サポートチーム」に呼ばれた理由は、ちょうどその頃「運用サポートチーム」で集計を担当されていたNさんが産休で離れることになったからです。
その替わりの要員として白羽の矢が立ったのが私。
「登録チーム」に何やら集計ツールを作ってるスーパーバイザーがいる、という情報が届いたのでしょう。
それをきっかけに私は半年ほど在籍した「登録チーム」を離れ、「運用サポートチーム」に引き抜かれました。

連載の第二十五回で「登録チーム」での日々は楽しかったと書きました。
オペレーターを勤める派遣社員の皆さんがたくさんいる職場。上京したばかりで心細い私にとって、学生のような若々しい気持ちでオペレーターさんたちと触れ合えたことがどれだけよかったか。
その前職が、社訓の絶叫と怒鳴り声にまみれ、終わりなきノルマと日報に毒されていた現場だっただけに、「登録チーム」での日々は私を救ってくれました。

ところが、「運用サポートチーム」にはオペレーターがいません。オペレーターどころかスーパーバイザーすらいません。
「運用サポートチーム」のメンバーは、マネジャー、シニアマネジャー、そしてジェネラルマネジャーのみ。つまり、精鋭です。
パソナソフトバンクが請け負う各チームを統括し、お客様(スカパー)と橋渡しを行う部門ですから、スーパーバイザーの職責では釣り合わないのです。
そんな部署ですから、「登録チーム」で楽しめたようなオペレーターさんたちの馴れ合いは、「運用サポートチーム」には無縁です。
運用サポート島はオペレーターやスーパーバイザーからは近寄りがたい雰囲気を漂わせていました。

ただ、私には「運用サポートチーム」に移るにあたり、深刻に葛藤した記憶がありません。
今から振り返ると、そんな伏魔殿のような「運用サポートチーム」への異動は断るべきだったのかもしれません。
慣れ親しんだオペレーターさんやスーパーバイザーさんたちから離れる。そのことに私がためらいを感じなかったとも思えません。
それでも私は、あまり深く考えずに移籍を了承したように思います。
多分、当時の私は目前に迫った結婚のことで精いっぱいだったのでしょう。同じ大変なら異動もあわせて受けてしまえ、という心境だったのかもしれません。 そのあたりの詳細な心境は今となっては思い出せません。

今思えば、この時に異動を了承したことで、私は起業へと続く道の一歩を踏み出したのだと思います。
なぜなら、このときから起業に至るまで、私の人生にはステップアップの機会が次々とやってくるからです。

次のステップへ飛び込む


本連載の第一回で私はこう書きました。
「いままで、私の人生には岐路がいくつも訪れました。その度に、私は個人と家族と仕事を平等に扱い、判断してきました。」と。

この時の移籍が私には一歩を踏み出した、と書きました。
今、起業までの私の人生を振り返って思うのは、私が自分から積極的にチャンスをつかみに行ったことがあまりないことです。
私から岐路へ向かうのではなく、岐路が向こうから私のもとを訪れてきた。そう思う経験のほうが圧倒的に多いです。
私は、岐路が訪れる度ごとに、自分なりに判断を下してきただけにすぎません。

私の何が起業に至らせたのか。
その問いに答えを出すとすれば、それは向こうからやって来るチャンスをことごとく受け入れたことだと思っています。

自分から積極的にチャンスをつかみに行ったことはない、と書きました。
それはつまりアピールです。
例えば、「登録チーム」でマクロツールを作ったのは私が技術をアピールするためではありません。私のスキルをアピールするためにマクロを作ったのではなく、単に集計作業を楽にするためにマクロを作っただけでした。これは断言できます。
それを同僚のスーパーバイザーのためにチーム内で公開したものが、たまたま「運用サポートチーム」の眼に止まっただけなのです。
このころ、私はWindowsやExcelのショートカットも覚えつつありましたが、それらもすべてはマウス操作が面倒だったからの話。
ただ目の前の課題を改善するために取り組み、それを無償で周りに提供していた
今思えば、私は無意識のうちに利他を実践していたのでしょう。

自分からアピールに行かないので、そもそも断られることはありません。向こうから申し出が来るのですから、私がそれを受け入れるだけの話。
「運用サポートチーム」への移籍の時もそうでしたが、私はこういう機会を前にして、自信がないとか不安だからという理由で断ったことがほとんどありません。
できるかどうかは、その場になってから初めてわかることなのですから。
それは、ひょっとすると私が楽観的で何も考えていない証拠にすぎないのかもしれません。
ですが、こういう向こうからやってくる機会を前にして及び腰にならず、あるがままに受け入れたことが、間違いなく今の私を作っています。

芦屋市役所や神戸市役所やダンロップの話を紹介していただいた時もそう。社会保険事務所のバイトを紹介してもらったときもそう。
派遣社員の時には、自らアピールせずに収入が途絶えましたが、それは私自身の実力がなかっただけ。
たくさんのありがたい申し出を拒まず、新しい世界に飛び込み続けたから今の私があります。 今、振り返ってつくづくそう思います。

ですから、考えようによっては最初に書いた新居の話も、私が意地を張らず、妥協したことが功を奏したのかもしれません。
ここで妥協したことで、家をめぐる試練から逃げずに立ち向かう環境に飛び込めたのですから。
この時の選択によって、26歳には重すぎる荷を背負った私。それが私を成長させ、今もなお結婚生活が続いて理由でもあると思っています。

1999年のその後について簡単に触れておきます。
9/29に町田に引っ越した私は、10/11に妻と婚姻届けを提出します。10月某日に引継ぎのため「運用サポートチーム」に着任。11/21には披露宴、二次会、三次会を滞りなく行いました。そのまま新婚旅行に一週間出かけ、帰ってきてからは前任者Nさんが離任した後の集計作業を担い始めました。

最後に1999年の私になり替わり、お世話になった皆様にあらためてお礼を申し上げたいと思います。
スカパー、引っ越し、披露宴、二次会、三次会、ハワイ。とてもたくさんの人にお世話になりました。
関西を飛び出し、東京に出てきた1999年を境に私の後半生は始まります。
そんな私のために関西からたくさんの友人に披露宴や二次会に来てもらえたこと。
披露宴と二次会は私の前半生と後半生をつなぐ懸け橋です。

次回は「運用サポートチーム」での日々を語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.27〜航海記 その14


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/18にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

暗雲が立ち込める


前回の連載で、私が親から自立した瞬間を書きました。
ところが、人生とはうまくゆかないもの。私の自立への願いは、思わぬ方向からストップを掛けられました。
それは妻からです。

前回の連載では、妻と結婚に向けて準備にまい進していた、と書きました。
その日々は希望と楽しみもありましたが、その中では私の意思だけではどうにもならないこともありました。
結婚とは私一人でするものでなく、妻と一緒にするもの。つまり、妻の意思にも影響されます。
ここで妻の意思が入ることによって、私の自立への願いは危うくなりました。

新婚生活をどの家で迎えるか。
それは私にとって、結婚式の段取りや新婚旅行先などよりもはるかに大切なことでした。
もちろん、妻には妻の価値観があったのでしょう。それはわかります。そして、自立したい私には私なりの切実な理由がありました。
少なくとも私は、妻の実家や実家の財産に寄り掛かった新婚生活を送るつもりは全くありませんでした。ミジンコのヒゲほどにも。

せっかく東京に出てきたからには全てを独力で作り上げたい。家を買えないのは当たり前なので、賃貸で二人だけの部屋を借りて。
それが私にとってあるべき新婚生活だったのです。

ところが、新居という肝心なことで、私と妻の間で意見の相違が発生しました。早くも結婚前から暗雲が。
ちなみにここで出てくる妻とは、本稿を書いている今も、私の妻で居続けてくれていますので念のため。

結婚への障害


さて、その暗雲は、私と妻が結婚への準備を進めるにつれ、晴れ渡っていたはずの私の頭上を覆っていきます。
連載の第二十回でも書いたとおり、妻は歯医者です。妻の祖父母も歯医者なら、妻の父母も歯医者。妻の弟君までも歯医者。どこに出しても恥ずかしくない歯医者一家です。
世間からは資産家と思われても不思議ではない家族。それが妻の実家です。無職の私が情熱のままにアタックした妻の実家はそんな家でした。
ところが、私が妻と出会う数年前に妻の祖父母、そして妻の母は相次いで世を去ってしまいました。
残されたのは祖父母が住んでいた広大な家です。

町田の官公庁が立ち並ぶ一等地。そこにある180坪の敷地。そこは二軒の家が建っていました。
一軒は木造の二階建て民家です。本連載の第十九回で私がH君と町田に旅し、そこで妻と初めて出会ったいきさつは書きました。そのときに泊めてもらった家です。
もう一軒は見るからに堅牢な鉄筋三階建て屋上付の家。歯科診療所も併設されており、歯科医を営んでいた当時の看板もまだ残っていました。
当時、この二軒ともに妻の祖父母がなくなった後、空き家になっていました。
妻の父は、そこから徒歩数分の場所に歯医者兼住居を営んでいました。

妻と妻の父の意見は、新婚生活は広大な空き家で過ごせばいいじゃないか、というものでした。
ところが私にはそれが嫌でした。めちゃくちゃ嫌でした。

多分、何も事情を知らない人にとってみれば、私なんぞ幸運な若造に過ぎないのでしょう。ギャクタマを地で行くような。
実情など、しょせんは当事者にしかわからないものです。
結婚までの半年の間、私はストレスにさらされていました。
いまさら言っても仕方ないことですが。

重荷への予感


たとえば、妻の親族とは法事などで集まる機会がありました。そして、まだ婚約者である私もそこに出席します。すると、私への視線をいやおうなしに感じるわけです。
いろいろと陰で言われていました。籍も入れていないのにどういうつもりかなど。
そうした空気はいかに鈍感な私でも気付くほどでした。
はっきり言ってしまえば、私など、ギャクタマどころか、金目当てで妻をモノにしたどこの馬の骨とも知らぬ関西からの流れ者。そんな程度の人間としてしか思われていなかったと思います。
私が拒否されていたのは、私の人間性に関係なく、私が関西人ということが大きかったようです。それには、私と直接関係のないある理由が関わっています。が、それは私もよく知らないことだし、本連載の本筋からは外れるので割愛します。

ただ、そうした理由に関係なく、私は周りの方からそう思われても無理がなかったのもわかります。
当時の私は歯医者でもなければ、どこかの正社員ですらなかったのですから。東京に出てくるまでは無職の、ようやく派遣社員で働き始めて数カ月の人間。生活基盤などもちろんありません。実力もなければ名声もない。コネも何もない状態。多分、私が妻の父であっても反対するでしょう。妻の親族の皆さんが反対して当然。
逆に考えると、よく妻の父が結婚を許してくれたと思います。

私にはその状況がとてもつらかったです。そして、反発もしました。
私の当時のプライドなどないも同然。実力も伴っていなかったです。でも、妻の実家の財産にはお世話になりたくないという、ちょっぴりの矜持ぐらいは持っていました。

もう一つ、その二軒に住むことが、私にとってゆくゆくの重荷になるのではないかという予感を持っていました。
その二軒の家が建つ180坪の土地に住むこと。その土地の管理人となり責任を背負うこと。それらは私にとって、とてもやばい重荷になるという予感。
その予感こそ、私がこの場所に新居を構えたくないとの拒否感の原因でした。
その予感はやがて的中し、私を数年間、いや十年以上にわたって苦しめます。
ただ、その経験は私を苦しめると同時に私を段違いに鍛えてもくれました。そのあたりはいずれ連載でも触れたいと思います。

次回は結婚のことと、スカパーカスタマーセンターの運用サポートへの異動を描きます。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.26〜航海記 その13


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/11にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

結婚に向けて


東京に居を構え、職も確保した私。
次にやるべきは、結婚へ向けての諸作業です。
町田に住む妻とは家が近くなり、会う機会も増えました。
そこからは10月の婚姻届け提出、11月の披露宴までに向けての半年強を、式場や招待客、新婚旅行の行き先選びに追われていました。そこでもさまざまなエピソードや事件は起こったのですが、本連載はそれらの苦労を語ることが目的ではありません。いつかのゼクシィへ連載する機会に取っておきたいと思います。

それよりも語っておきたいことがあるのです。
語っておきたいこととは、私自身に備わった覚悟と、新居を決めるまでのいきさつについてです。
なぜかといえば、この二つは私のその後の人生航路、とくに起業へ至るまでの複数回の転職に大きく関わってくるからです。

まず、この時期の私に生じた心境の変化から語ってみたいと思います。

親への感謝


連載の第二十一回(https://www.akvabit.jp/voyager-vol-21/)で触れたとおり、私が東京行きを決めてから住民になるまでの期間は二週間ほどしかありませんでした。
その時の私は、何かに突き動かされていたに間違いありません。あまりにも唐突な思いつきと実行、親へ話を切り出した経緯と、親への感謝の思いについては書いた通りです。
ところが、その稿で書いた親への感謝とは、今の私が当時を思い出して書き加えた思いです。
実際のところ、上京へと突っ走る当時の私には、親への感謝を心の中で醸成するだけの余裕も時間もありませんでした。思いつめ、前しか見えておらず、未来へ進むことだけで頭が沸騰していた私の視覚はせいぜい20度くらい。後ろどころか横すら見えていなかったことでしょう。

私が親への恩を感謝するのは、上京してすぐの頃でした。
前触れもなく飛び出すように東京に行ってしまった不肖の長男のために、両親が甲子園から車で来てくれたのです。洗濯機や身の回りの所持品などと一緒に。
私がスカパーのカスタマーセンターに入る前だから1999年4月の中頃だったと思います。
私の父親は当時60歳だったのですが、名神と東名を走破しての運転は骨が折れたことでしょう。
当時の私は新生活に胸を躍らせていました。そして、あれよあれよの間に息子を失った親の気持ちに目を遣る余裕はありませんでした。
私の両親はあの時、東京に飛び去ってしまった長男に会い何を思ったのでしょうか。私の両親の心中はいかばかりだったか。寂しくおもったのか、それとも、頼もしさを感じたのか。私にはわかりません。

それでも今、こうやって当時の自分を思い出してみて、親のありがたみをつくづく思います。

当時、東京にも世間にも不慣れな私は、親の宿泊場所すら手配してあげられませんでした。そのため、私の両親は町田ではなくわざわざ横浜の本牧のホテルに泊まっていました。
数日の滞在をへて最終日、婚約者も含めて四人で横浜中華街を散策します。そして、いよいよ甲子園へと帰ってゆく両親とお別れの時が来ました。
その場所とは忘れもしない、JR石川町駅の近くにある吉浜橋駐車場でした。20年以上が過ぎた今でも、横浜中華街の延平門から石川町駅に向かう途中にその細長い駐車場はあります。
駐車場の端に停めた車へと歩いていく両親の後ろ姿をみながら立ちつくす私。この時の気持ちは今でも思い出せます。せつなく胸がいっぱいになる思い。
泣きこそしなかったものの、この時に感じた哀切な気持ちは、今までの人生でも数えるほどしかありません。横にいる妻(まだ婚約中でしたが)と一緒に東京で頑張っていこうとする決意。そして去ってゆく両親の後ろ姿に叫びたいほどの衝動。
この時に揺れた心の激しさは今も鮮明に思い出せます。また、忘れてはならないと思っています。
私の生涯で親離れした瞬間を挙げろと言われれば、このシーンをおいてありえません。この時、私はようやく東京生活への第一歩を踏み出したのだと思っています。

自立を自覚すること

誰にでも親離れの瞬間はあります。私が経験したよりもドラマチックな経験をした人も当然いるでしょう。親との望まぬ別離に身を切り裂かれる思いをした方だっているはず。
親との別れは全ての人に等しく訪れます。私の体験を他の人の体験と比べても無意味です。
ただ、私にとってはこの時こそが親から自立した自分を自覚した体験でした。親から離れ、一人で歩もうとする自らを自覚し、それをはっきり心に刻みつけた瞬間。
この経験は後年の私が“起業”するにあたり、よりどころとした経験の一つでした。なぜなら、自分が独り立ちし、一皮向けた瞬間に感じた思いとは、起業を成し遂げた瞬間の気持ちに通じているからです。少なくとも私にとっては。

私が関西の親元に住み続けていたら、間違いなく起業には踏み切れなかったと断言できます。
そして、親からの自立をはっきりと意識する経験がなければ、関東に住んだとしても果たして起業にまで踏み切れたかどうか。

ちなみに念のために言うと、自立と疎遠は違います。
私は上京してまもなく21年になろうとしています。その間、毎年の盆暮れにはほぼ両親のもとへと帰省しています。今でもたまにモノを送ってもらっていますし、仕事もたまに手伝ってもらっていました。

上に書いたような出来事があったからといって、両親を遠ざけたわけではないのです。自立は疎遠とは違います。
この時の自分は、親から自立し、別の家族として別の人生を歩み始めたと思っています。それが大人になった証しなのだと思います。

自分がある日を境に大人になったこと。それは誕生日ではなく、成人式でもありません。何かのタイミングでそのことを自覚した瞬間が、大人になったタイミングだと思います。
その刹那の感覚を記憶し、独り立ちした自分への確かな手応えをつかめているか。これこそが大人になってからの荒海を乗り切るにあたってどれほど大きな助けとなったか。
古くはこれを社会がイニシエーション儀式や元服式として与えてくれていたのでしょう。ですが、成人式が形骸化した今では、一人一人がこの成功体験を何とかして得、それを大切に温めてゆくしかないと思っています。

親から離れて自立したことの感動をもち続けていることは、私が起業に際しての助けとなりました。
自立の瞬間の自覚を胸に大人になった私は、大失敗こそしなかったものの、その後に数えきれないほどの失敗をしでかしています。
でも、今に至るまでやって来れたのも、自立の感動が今もなお私にとって大いなる成功体験だからです。
そして、この成功体験があったからこそ、起業にあたっても尻込みせずに進めたのだと思っています。

次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.25〜航海記 その12


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/11にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

横浜ビジネスパークでの日々が始まる


私の記憶では、スカパーのカスタマーセンターに初めて出勤したのは1999年の5月連休明けからだったと思います。
当時、スカパーのカスタマーセンターは横浜の天王町にありました。横浜ビジネスパーク(YBP)という場所です。マリオ・ベリーニという建築家が手掛けたおしゃれで憩える池があり、よくプロモーションビデオにも登場しています。私も一度ロケの現場に遭遇したことがありますし、今思い出してもとても素晴らしい職場の環境だったと思います。

ところが私の記憶には、YBPの洗練された環境があまり焼き付いていません。
それは、仕事が激務だったからではありません。それよりも、東京に出て仕事をすることへの高揚感と緊張感に胸をふさがれていたからだと思っています。
当初は一人暮らしの気楽さと孤独を満喫していた私にも、いざ就職となるとやるべき雑務は重なっていきます。
さらに仕事上で覚えるべきことがあまりにも多かった。つまり余裕がなかったのです。

スカパーのカスタマーセンター。そこはスカパーの加入者様との窓口全般を行う場でした。
私が配属されたのは種々の申込書の新規登録を行う「登録チーム」でした。当時はまだ郵送経由による申込書がほとんどで、その申込書を何人ものオペレーターさんが一斉に端末に入力していました。
私はそのオペレーターさんを統括するスーパーバイザー(SV)として採用されたのです。SVという仕事が具体的に何をするかといえば、オペレーターさんが入力するにあたり、申込書に記載してある内容が不明瞭で判断に迷った場合に適切に指示することです。あと、作業の割り振りやペース配分、作業の指示なども臨機応変に行います。
カスタマーセンターにあるのは、登録チームだけではありません。
例えば届いた郵送物を仕分ける「受付チーム」もあれば、実際に申込書の内容が正しくない場合にお客様に不備として指摘する「不備チーム」もあります。他にも契約内容の変更を受け付ける「変更チーム」もありました。お客様の利用料金を管理する「料金チーム」も。それと実際の外部配送業者とやりとりする「物流チーム」も忘れてはいけません。そして、最後にそれらのチームをまとめる「運用サポートチーム」がありました。
スーパーバイザーの仕事には、そうしたチームとの連携も求められたのです。

もちろんカスタマーセンターの機能はそれだけではありません。
たとえば加入者様からの電話を受けつけるコールセンターの機能が要りますよね。他にも機器の設置に関するトラブルを管轄する部署や、電気屋さんなどスカパー契約を取り次いでくださる加盟店との連携を行う部署だって必要です。
要するにカスタマーセンターに求められるあらゆる機能が集まっていたのが私の職場でした。
あまりにも業務が多岐にわたるため、それを請け負う派遣会社も3,4社に分かれるほど。私が派遣登録したパソナソフトバンクという会社はその中の一社でした。
名前の通り、その会社は人材派遣大手のパソナと孫さんのソフトバンクが資本を大きく分け合っていました。
そして、パソナソフトバンクがスカパーのカスタマーセンターで請け負っていたのが「受付」「登録」「不備」「変更」「物流」「運用サポート」の各業務だったのです。

そんな大規模な現場で、SVとして覚えるべきことは多く、新たな環境をゆっくり楽しむ暇もありません。
そして、私がようやく仕事に慣れた頃にはYBPの景色自体を見飽きていました。そんな理由でせっかくの素晴らしい環境も、今に至るまで私の記憶に残っていません。今でも数年に一度はYBPの近くに行きますが、今度、近くを通った際はじっくりと訪れてみようとおもいます。

楽しかった日々


さて、事務仕事の要所を知り尽くしていた訳でもなければ、衛星放送の仕組みや業界も知らない私。当然ながら新規登録にあたっての入力ルールも現場に入ってから覚えていきました。だから、当初はとても危なっかしいSVだったことでしょう。入って2カ月は同僚の女性SVのSさんによく怒鳴られましたし。

その他にも、私が職場に溶け込むにあたっての苦労はいろいろとあったはず。それでも私はこの仕事をやめずに続けました。辞めるどころか、登録チームでの日々にはとても楽しかった思い出だけが残っているのです。

当時この文章を書いた私は既に四十を過ぎていました。今も四十台半ばを過ぎ、イタく絶賛老化中です。
なので、自分でこんな事を書くのは面映ゆいし、若い頃の武勇伝を語るイタいオヤジのようで避けたい。避けたいのですが書きます。なぜスーパーバイザーの仕事が楽しかったのかを。
それは、登録チームでの私はこれまでの生涯でもモテ期のピークだった、ということです。

登録チームのオペレーターさんはシフト制でした。毎日40人くらいのオペレーターさんが作業に従事していて、そのうち7割は女性だったように思います。オペレーターさんの中には主婦もいましたし、大学生や短大生の女の子もたくさん在籍していました。
見知らぬ土地に飛び込み、見知らぬ方ばかりの中で仕事をこなし、関西弁で指示を飛ばす。そんな私の姿は、オペレーターさんたちにも新鮮だったようです。
当時の私は25、6才の若手SV。しかも既に婚約していたため薬指には指輪をはめています。そのため、女性からも気軽に声を掛けやすかったのでしょう。
オペレーターさんとはよく飲みに行きました。ほとんどは男性オペレーターさんとばかりでしたが、中には女性オペレーターの飲み会に私だけ一人男、ということもありました。
でも、過ちは起こしませんでした。ここで調子に乗っていたら、今の私はないはずです。
私の人生は失敗の方が多いのですが、それらの失敗が人生を台無しにしなかったのは、この時のような肝心な時に分相応をわきまえてきたためだと思っています。
どれだけ羽目を外しても、期待を裏切っても、信頼を裏切らない時点で踏みとどまること。これはとても大切なことだと思います。
“起業”しても人は傷つけませんが、浮気は人を傷つけます

念のためにいうと、こんなことを書いている私は聖人君子からは程遠い人物です。
この頃の私は若さゆえ、しょっちゅう羽目を外していました。
たとえばオペレーターの皆さんとはよく横浜西口で飲んでましたが、その界隈では何度も人事不省に陥りました。
オペレーターさんたちの前でSVらしからぬ醜態をさらすことなどしょっちゅう。植え込みへとダイブしたり、あれやこれや。

なにせ失うものは何もない独り暮らし。しがらみもなければ体裁を取り繕う必要もない日々だったので。それもこれも含めて登録チームでの半年はとても幸せな日々でした。今も懐かしく思い出します。

Excelで名乗りを上げる


そんな登録チームでの日々の仕事で、私は技術者となるための最初の足がかりをつかみます。それは集計の作業がきっかけでした。
SVの仕事の一つにチームの状況を把握し報告する作業がありました。件数の集計は状況の把握に欠かせません。例えばその日登録された申込書は何枚あり、それがどの種類の申し込みかを数えて集計する作業です。
具体的には、各SVが手分けしてその日に作業した申込書の枚数を数え、それをエクセルのシートに入力する。そして入力した内容を印刷し、翌朝までに運用サポートチームの集計担当に提出する。
これらの作業は絶対に必要で、しかも面倒でした。

エクセルに誤った数字を入れては運用サポートチームの集計担当に怒られる。そんな事が続いたある日、私は登録チームのSVのミーティングの場か何かで提案しました。もしくは直接シニアSVのMさんに提案したか。
きっかけはどちらだったかは忘れましたが、私がした提案とはエクセルへの入力の仕組みを省力化してはどうかというものでした。その仕組みは私が作るから、と。

その仕組みとは、今から思うとたわいのないものでした。月の各日ごとに行が連なる横罫の表。例えば1月の集計表ならば、見だしに1行、各日ごとに31行、そして合計行に1行といった感じです。どこにでもある月単位の集計表です。
その表へ直接入力していた作業が間違いのもとだったので、私が施したのは表に直接入力するのではなく入力用のシートを別に作ることでした。
SVは業務後に入力シートにそれぞれごとの件数を入れ、ボタンを押します。そのボタンにはマクロを仕込まれていて、マクロが横罫の表に正確な値を放り込んでくれます。

この仕組みこそ、私が芦屋市役所の人事課で覚えたマクロを思い出しながら作ったものです。
芦屋市役所を1997年に離れてから約1年半以上。その間、私はマクロを全く触っていませんでした。以前にも書いた通り、その頃の私はプログラミングに全く興味がなかったからです。
ところがかつてSEの方から盗んだ技術を思い出しながら造った集計表が、登録チームの業後の作業時間と手間を短縮し、ミスも劇的に減ったのです。
そして、この実績が私に道を開きます。その道は統括部門である運用サポートチームに続いていました

次回は、運用サポートチームに行ってからの私と、結婚について少しだけ触れたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.24〜航海記 その11


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/4にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

上京したてのなにもない私


1999年4月。かばん一つだけで東京に出てきた私。
最低限の服と洗面道具、そして数冊の本。これから住むとはとても思えない格好で、それこそ数日間の小旅行のような軽装備。

当時の私はあらゆるものから身軽でした。持ち物もなく、頼りがいもなく、肩書もしがらみもありません。
移動手段すら、自分の足と公共の機関だけ。それどころか、ノートパソコンや携帯電話はおろか、固定電話を持っていなかったため、インターネットにつなぐすべさえありませんでした。
私と世の中をつなぐのは郵便と公衆電話のみ
妻がいなければ私は完全に東京でひとりぼっちでした。

今思い出しても、私が当時住んだ相武台前のマンションの部屋には何もありませんでした。東京生活の足掛かりとするにはあまりにも頼りなく、大宇宙の中の砂粒のようにはかない住みか。
それでも、当時の私にとっては初めて構えた自分だけの城です。

当時の私がどういう風にして生活基盤を整えていったのか。
当時、私はメモを残しています。以下の記述はそこに書かれていた内容に沿って思いだしてみたいと思います。
まず、住民票の手続きを済ませ、家の周りを探険しました。
次いで、自転車を買いに、行幸道路を町田まで歩きました。さらに、国道16号沿いに沿って相模原南署で免許の住所移転をし、淵野辺まで歩き、中古の自転車を購入しました。これで移動手段を確保しました。
それから、通信手段については、住んで二、三カ月ほどたってポケベルを契約したような記憶があります。
近くに図書館を見つけたことによって、読書の飢えは早いうちから癒やすことができました。

それだけです。
あとは妻と会うだけの日々。本当に、どうやって毎日を過ごしていたのかほぼ覚えていません。

完全なる孤独と自由の日々


この頃の私はどうやって世間と渡りをつけようとしていたのでしょう。恵まれたコミュニケーション手段に慣れきった今の環境から思い返すと、信じられない思いです。
でも、何もないスタートだったからこそ、かえって新生活の出だしには良かったのかもしれません。
妻以外の知り合いはほぼ居らず、徹底した孤独。それでいて完全なる自由
この頃の私が享受していた自由は、今や20年近くの年月が過ぎた今、かけらもありません。

この連載を始めた当時(2017年)の数カ月、私はFacebookをあえてシャットアウトしていました。毎日、投稿こそしていましたが、他の方の投稿はほとんど目を通さず。
仕事が忙しくFacebookを見ている時間が惜しかったことも理由ですが、それだけではありません。私は、上京したばかりの当時の私に可能な限り近づこうと試みていたのです。自由な孤独の中に自分を置こうとして。
もちろん、今は家族も養っているし、仕事も抱えているし、パートナー企業や技術者にも指示を出しています。孤独になることなどハナから無理なのです。それは分かっています。
ですが、上京当初の私が置かれていた、しがらみの全くない孤独な環境。それを忘れてはならないと思っています。
多分、この頃の私が味わっていた寄る辺のない浮遊感を再び味わうには、老境の果てまで待たねばならないはず。

職探し


足の確保に続いて、私が取りかかったのは職探しです。
そもそも、私が上京に踏み切ったのは、住所を東京に移さないと東京の出版社に就職もままならなかったからでした。
住民票を東京に移したことで、退路は断ちました。もはや私を阻むものはないはずと、勇躍してほうぼうの出版社に履歴書を送ります。
ところが、出版経験のない私の弱点は、東京に居を移したからといって補えるはずがなかったのです。
そして、東京に出たからといって、出版社の求人に巡り合えるほど、現実は甘くはなかったのです。出版社への門は狭かった。
焦り始めた私は、出版社以外にも履歴書を送り始めます。そうすることで、いくつかの企業からは内定ももらいました。
覚えているのは品川にあった健康ドリンクの会社の営業職と、研修を企画する会社でした。が、あれこれ惑った末、私から断りました。

私は、生活の基盤を整える合間にも、あり余る時間を利用してあちこちを動き回っていました。
例えば土地勘を養うため、自転車であれこれと街を見て回っていました。
町田から江の島まで自転車で往復したことはよく覚えています。
江の島からの帰り、通りすがりの公衆電話から内定を辞退したことは覚えています。上にも書いた研修を企画する会社でした。

私が内定を迷った末に辞退したのも、大成社に入ってしまった時と同じ轍を踏むことは避けたいと思ったからでしょう。
そして、思い切って上京したことで就職活動には手応えを感じられるようになりました。少なくとも内定をいただけるようになったのですから。
かといって、いつまでも会社をえり好みしていると生活費が尽きます。もはや出版社の編集職にこだわっている場合ではないのです。
ここで、私は思い込みを一度捨てました。出版社で仕事をしなければならない、という思い込みを。

この時の私は職探しにあたって、妻や妻の家族には一切頼りませんでした。
将来、結婚しようとプロポーズを了承してもらっていたにも関わらず、職がなかった私。
そんな状況にも関わらず、私は妻に職のあっせんは頼みませんでしたし、妻もお節介を焼こうとしませんでした。
そもそも、当時の妻が勤めていたのが大学病院の矯正科で、私に職をあっせんしようにも、不可能だったことでしょう。

今から思うと、結果的にそういう安易な道に頼らなかったことは、今の私につながっています。多分、ここで私が妻に頼っていたとすれば、今の私はないはずです。
ただ、一つだけ妻が紹介してくれた用事があります。
それは、大田区の雑色にある某歯医者さんを舞台に、経営コンサルタントの先生が歯科のビデオ教材を録画するというので、私が患者役として出演したことです。
たしか、私が上京して数日もしない頃だったように思います。

当時の私に才がほとばしっていれば、この時のご縁を活かし、次の明るい未来を手繰り寄せられたはずです。ひょっとしたら俳優になっていたかも。
少なくとも、今の私であればこうした経験があれば、次のご縁なり仕事なりにつなげる自信があります。
ですが、当時の私にはそういう発想がありません。能力や度胸さえも。
愚直に面接を受け、どこかの組織に属して社会に溶け込むこと。当時の私にはそれしか頭にありませんでした。つまり正攻法です。

このころの私の脳裏には、まだ自営や起業の心はありませんでした。
自分が社会に出て独自の道を開く欲よりも、大都会東京に溶け込もうとすることに必死だったのでしょう。そうしなければ結婚など不可能ですから。

この時、私がいきなり起業などに手を出していたら、すぐさま東京からはじき出され、関西にしっぽを巻いて帰っていたことは間違いありません。
もちろん、妻との結婚もご破算となっていたことでしょう。
無鉄砲な独り身の上京ではありましたが、そういう肝心なところでは道を外さなかったことは、今の私からも誉めてあげてもよいと思います。

妻の住む町田に足しげく通い、結婚式の計画を立てていた私。浮付いていたであろう私にも、わずかながらにも現実的な考えを持っていたことが、今につながっているはずです。

結局、私が選んだのは派遣社員への道でした。職種は出版社やマスコミではありません。スカイパーフェクTV、つまり、スカパーのカスタマーセンターです。
そのスーパーバイザーの仕事が就職情報誌に載っており、私はそれに応募し、採用されました。
考えようによっては、せっかく東京くんだりまで出てきたのに、当時の私は派遣社員の座しかつかめなかった訳です。

しかし、この決断が私に情報処理業界への道を開きました。
次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記-営業チャネルの構築について


「アクアビット航海記」では、個人事業主から法人を設立するまでの歩みを振り返っています。
その中では、代表である私がどうやって経営や技術についての知識を身につけてきたかについても語っています。

経営や技術。それらを私は全て独学で身につけました。自己流なので、今までに数えきれないほどの失敗と紆余曲折と挫折を経験して来ました。だからこそ、すべてが血肉となって自分に刻まれています。得難い財産です。

本稿では、その中で学んだ営業チャネルの築き方を語りたいと思います。
私自身が試行錯誤の中で培ってきたノウハウなので、これを読んでくだった方の参考になれば幸いです。

起業する上で切実な問題。それは、お客様の確保だと思います。
お客様が確保出来なければ売り上げが立たず、経営も破綻します。
破綻すると分かっているのに起業に踏み切る人はいないでしょう。

私もエイヤっと起業したとはいえ、顧客の確保は心のどこかに不安の種として持っていました。
しかも私の場合、貯金がほぼない状態での独立でした(その理由は本編でいずれ描くと思います。)
ですから、最初は安全な方法を採りました。

それは、常駐の技術者としての道です。
まず、技術者の独立について検索しました。そして、いくつかのエージェントサイトに登録し、エージェントに連絡を取りました。
その動きがすぐに功を奏し、常駐の開発現場に職を得られました。そこから、十年以上にわたる、常駐開発現場を渡り歩く日々が始まりました。
毎日、決まった場所へ出勤し、与えられた業務をこなし、毎月、決まった額を営業収入として得る。
実際、個人事業を営む技術者のほとんどはこのようにして生計を立てているはずです。

ところが、この方法は自分自身で営業チャネルを構築したとはいえません。なぜなら、エージェントに営業を依存しているからです。あくまでもお仕事を取ってくるのはエージェントです。
複数のエージェントに自らを売り込めば、頼りになる技術者として営業にはなります。エージェントも実際の顧客に対して有能な技術者だと熱意をもって推薦してもらえるはずです。
ですが、あくまでも直接の顧客と相対するのはエージェントであり、あなた自身の営業チャネルが確立できたわけではありません。
あなた自身の技術力が仕事につながったことは確かですが、その結果を営業力や営業チャネルによるものだと勘違いしないほうが良いです。
そこを間違え、技術力だけで案件がずっと潤沢にもらい続けると考えてしまうと、後々にリスクとなって返ってきます。

そのリスクは、社会が不安になったり、年齢を重ねることによってあらわになります。
実際、私はエージェントに頼った年配の技術者さんが、リーマン・ショックによって仕事を失い、苦しむ様子をそばで見ています。
見るだけでなく、私自身がかわりに営業を代行していたので、なおさらそのリスクを私自身のこととして痛感しています。
なので、私はエージェントさんには頼らないと決めています。
そう、営業チャネルは自分自身で構築しなければならないのです。

では、自社で営業チャネルを確保するにはどうすれば良いでしょうか。
本稿ではそれを語ってみようと思います。
ただし、本稿で語れるのはあくまで私の実践例だけです。
これが普遍的に使えるノウハウで、あらゆる会社や個人に当てはまるとは全く考えていません。
一人一人、一社一社の業態やワークスタイルによって答えはまちまちのはずです。そもそも業種によって営業チャネルの構築方法はさまざまのはずです。だから、本稿が参考にならないこともあるでしょう。そのことはご了承くださいませ。
本稿では私の携わっている情報業界を例にあげたいと思います。
情報業界と言っても幅広く、コンサルタントやウェブデザイナも含めて良いと思います。

まず、身内、肉親、親族は除外します。
もし、そうした身近な存在を営業チャネルとしてお考えなら、やめた方が良いです。むしろ親族は、初めから営業チャネルと見なさないことをお勧めします。

営業チャネルとなってくださるよう働きかける対象は、まだお会いしたことがない方です。
まだ見ぬ方にどうすれば自社のサービスを採用してもらえるか。そして、その中であなた自身の魅力に気づいてもらえるか。

一つの方法はメディアの活用です。
ここでいうメディアは、TVCMももちろんですし、新聞や雑誌などもそうです。ウェブ広告やSNSも含みます。

ただし、私は実はこうしたメディアを使うことには消極的です。
これらのメディアを使って効果を出すには、ある程度の規模がないと難しいと思っています。

なぜかというと、こうした媒体ではこちらのメッセージを受け取ってほしい相手に届く確率が少ないからです。
弊社の場合だと、システムを必要とする方でしょうか。今、切実にシステムを導入したい、または、ホームページを今すぐ作りたいという会社様。または下請けとなってシステムを構築している技術者を求める会社様や、協業する技術者を欲する会社様が対象です。
そうした相手に弊社のメッセージが届かないと、いくら広告費を掛けても無駄になります。
ただし、自社の名前がある程度知られている場合は、見知らぬ相手にもあなたのメッセージは届くことでしょう。

もし、知名度がない場合、広告の予算を潤沢に投入しないと、受け取ってほしい相手にこちらのメッセージが届かない可能性が高いのです。
今はまだ、アカウントに紐づいた検索履歴などの情報や端末に保存されたCookieでピンポイントに広告を届けられるほど、ウェブマーケティングの精度は上がっていません。
そもそも、そうした情報の二次利用を嫌がる方も多く、それがウェブマーケティングの精度の妨げとなっています。

そうした現状を省みるに、Google AdWordsに費用をかけても、コンテンツによっては無駄に終わる可能性が高いです。
ウェブ広告に携わっている方には申し訳ないですが。
(弊社も上限額の設定を間違え、20万円以上もGoogleに支払ってしまった苦い経験があります。もちろん反応はゼロで、ムダ金に終わりました。もちろん何も対策をせずにいた私が悪いのですが。)
メールマガジンやTVCMや雑誌、タウン誌なども同じです。これらの媒体では営業チャネルの構築は難しいと思っています。

仮にユニークな広告によってこうしたメディアでバズらせることが出来たとしても、そこで得た効果を生かせるかどうかはまた別の話。バズッたことはフロックだと考えておいた方がよさそうです。
起業直後で人的リソースに限りがある場合に、まぐれ当たりで大量に問合せが来ても、対応ができず、品質や納期に問題を生じさせたのでは意味がありません。

だからこそ、まずは身の丈にあったリアルな場での営業チャネルの構築が必要と思うのです。

ただし、ウェブでも使える味方があります。それは、マッチングサイトです。CloudworksやLancersなどが有名ですね。

これらのサービスを利用することによって案件につながることは間違いありません。私も他のマッチングサイトなども含め、さまざまに利用していました。また、そこから多くの案件をいただくことができました。

ですが、マッチングサイトには一つ問題ががあります。
それは商談を含めた未来のやりとりをマッチングサイトに通すことを求められることです。つまり、マッチングサイトを通さない直取引に制約がかかるのです。
利用者にとっては不便ですが、マッチングサイトの運営者の立場を考えれば当然です。せっかくプラットホームを作ってビジネスの縁組をしたのにお金が入って来ないからです。
それもあって私は、マッチングサイトを使ったご縁は営業チャネルになりにくいとの印象を持っています。これは私の未熟さも影響していることでしょう。
もちろん、この課題はマッチングサイト側でも当然認識しているはずで、私が盛んに利用していたころに比べると徐々に改善されているようです。今後の取り組みに期待したいところです。

もう一つ、ウェブで使える営業チャネルを挙げるとすれば、YouTubeなどの動画配信サービスが真っ先に思い浮かびます。
これらのサービスを私は営業チャネルとして使っていません。なので語る資格はありませんが、動画配信サイトは良い営業チャネルの手段となると見ています。

もう一つ、ウェブで使える手段として、SNSやオウンドメディアを忘れるわけにはいきません。これらは、動画配信サービスの利用と同じく利点があると思っています。そのことは後で触れます。

私にとって、営業チャネルの構築でもっとも経営に役立った手段。それはリアルの場です。

私は起業の前後、どこかの交流会から声がかかるたび、とにかく可能な限り顔を出すようにしました。

そうした交流会によっては運営のためのルールを設けています。例えば、皆の前で一分間のスピーチをしたり、四、五人でグループセッションを行ったり。かといえば、完全に自由にしゃべるだけの会もありました。
そうした集まりに参加する中で経験を積み、どうすれば自分を売り込み、営業チャネルが構築できるかを私なりに体得してきました。

本稿では、私なりに得たいくつかのノウハウを挙げてみます。
・話上手より聞き上手。
・知り合いは一人だけでも飛び込む。
・名刺コレクターにはならない。
・全員と語るより、少数の方とじっくり語る。
・お会いした方には数日以内に御礼のメールを送る。
・あれこれ欲張らず、一つに絞ってアピールする。

交流会に出たことのある方はご存じでしょうが、交流会には多くの方が来られます。
例えば、三十人の方が集まる交流会に初めて出た場合を考えてみましょう。
三十人の全ての方の顔と名前、趣味や得意とする仕事。これを一週間後に思い出せ、と言われてどこまで覚えていられるでしょうか。まず無理だと思います。
だからこそ、あなたを相手に印象付けなければなりません。印象付けられなければ、渡した名刺はただの紙切れです。

交流会に出ると、人々の中を回遊しながら、話すことより名刺を集めることを目的とするかのような方をよく見かけます。ですが、そうした方と商談に結びついたことはほとんどありません。それどころか、一週間もたてば名前すら忘れてしまいます。
それよりも、じっくりと会話が成立した方とのご縁は商談につながります。
私の場合、三十人が出席する交流会で10枚ほど名刺を配らないこともあります。残りの二十人とは話しすらしません。
ですが、浅いご縁を二十人と作るよりも、十人の方とじっくりと語り、深いご縁を作ったほうが商談につながります。

さらに、じっくり語る際は、唾を飛ばして自らを語るよりも、相手の語る事をじっくりと聞きます。そして相槌を打ちながら、自分がビジネスとして貢献できる事を返します。相手の目を見つめながら。
話をよく聞いてくれる人は、語る側にとって心地よい相手として記憶に残ります。それが、ビジネスの相談もきっちりと聞いてくれるに違いないとの安心感にもつながり、商談へと結びつくと私は思っています。

ことさら自らの仕事をアピールしなくてもよいのです。相手の話を伺いながら、相手の中で自分が貢献できる事を返答するだけで、十分なほどの営業効果が見込めます。
こちらから一生懸命アピールするよりも、相手が抱えている課題に対してこちらのビジネスで貢献できることを真摯に返しましょう。それだけでよいのです。
それが相手にとって課題の解決に役に立つと思ってもらえればしめたものです。
相手に対して真剣に関心を持ち、自分が貢献できることを考える。それは相手を尊重しているからこそです。単にビジネスの相手だと思ってくる相手は話していてすぐにわかります。相手にも見透かされます。
まずは相手を尊重し、受け入れ、関心を持ち、貢献しようと思えばよいのです。

もし自分の得意分野では貢献できないと思っても、周りの友人関係の中で、相手のビジネスにとって有益なご縁を探すのもよいです。
それを聞き出すため、相手により深く質問することも効果的です。
人は、質問してくれる相手に対して、自分に興味と好意を持ってくれていると考えます。するとますます会話が進み、相手はあなたにますます好印象を抱いてくれるはずです。

また、交流会には単身で飛び込むぐらいの気持ちが必要です。
たとえ交流会の中で知っている方が、紹介してくださった方のみだとしても、一人で飛び込むべきです。
よく、顔見知りとつるんで交流会に参加する方がいらっしゃいます。ですが、つるんでしまうと人との交流ができません。その中に逃げてしまうからです。
私もはじめの頃は臆病で、誰かを誘っていました。ですが、途中から単身で飛び込むことも平気になりました。
ただし、逆もいえます。誰も知らない交流会に単身で飛び込むのはやめた方が良いです。誰との縁もないのに飛び込むと、手練れの勧誘者と思われ、逆に警戒させてしまうからです。
そして、お会いした方にはできれば翌日に、最低でも先方があなたのことを覚えている数日以内にメールを送ることをお勧めします。

一旦、交流会で絆が出来たら後日、相手からきっと何かのお誘いが来ることでしょう。
そうしたら、万難を排して参加しましょう。それによってますます絆は強くなります。そうなればもう営業チャネルは築けたも同然です。

ここで挙げたノウハウは、私が自分で築き上げました。ですが、最初は逆でした。
名刺を配ることに腐心し、自分の持っている得意分野や趣味のアピールに必死で、御礼メールの送信を怠り、仲良しを誘って参加しては、身内だけで話していました。
だから、交流会に参加し始めたころは、全く商談につながりませんでした。それどころかお金と時間だけを支払い続けていました。
私はそれを改善しなければ人生が無駄になると考えました。
そして、今までの自分を全て反面教師としました。そうすることで、商談につながる割合が劇的に増えました。
今では何かの懇親会に出ると、必ず一件は商談につながります。

さて、絆が作れました。
そこからはあなたの人間を知ってもらえるとよりよい絆が結べます。
そこで初めてSNSの登場です。
よく、交流会の当日や翌日に交流会で知り合ったからからFacebookのお友達申請をいただきます。
ただ、私はあえて最初からフランクなSNSは使わず、最初はフォーマルなメールを使うようにしています。
そこでフォーマルなあいさつを行ったのちに、SNSを使ったやりとりに進みます。その方が後々の商談につながるように思います。
最初からフランクな感じで始まった方が、ビジネスにつながらない。不思議なものです。

SNSの活用については本稿では深く踏み込みません。
ですが、一つだけ言えるのは、いいねやコメントをいただく数と、営業チャネルの成果は比例しないということです。

私の場合、SNSの投稿がバズったり、大量のいいねをもらうことに重きは置いていません。
むしろ、私のSNSの使い方はいいねをもらうためのノウハウとは逆行しています。だから、SNSでいいねをもらいたい方にとっては私のやり方は逆効果です。
私は他人の投稿に反応するのはやめました。それどころか、一日の中でSNSに滞在する時間は20分もないでしょう。
ただ、他人の投稿に反応しないよりした方が良いのは確かです。そして、なるべくSNSの滞在時間を増やした方が、いいねにつながることは間違いありません。それは、SNSのアルゴリズム上、優先的に投稿が表示されなくなるからです。また、いいねは相手への承認ですから、いいねが返ってくる割合も増えることは間違いありません。
私の場合、限られた時間を活用するにはSNSの巡回時間を減らさねばならないと考え、ある時期からSNSでいいねを押すことをやめてしまいました。
ですが、もし時間があるのであれば、なるべくSNSの滞在時間や反応はしたほうがいいです。

ただ、いいねが少なく、コメントがもらえていないからといって、投稿が見られていないと考えない方が良いです。いいねやコメントがなくても、継続することであなたの投稿は必ず誰かの目に触れています。その繰り返しがあなたの印象となるはずです。

要はSNSを通して、あなたという人間を知ってもらうことです。
何かを勧誘してきそうな人ではないか。書き込みにうそや誇張や見えが感じられないか。日々の投稿でそれを知ってもらえれば良いのです。
それが達成できれば、いいねやコメントの数などささいな問題に過ぎません。気にしなくて良いです。

それよりも、日々の投稿は必ずや日常を豊かにし、しかも仕事にも結び付きます。
まずは投稿を継続することが肝心だと思います。ぜひやってみてください。

結局、営業チャネルの構築とは、サービスの営業窓口があなた個人である限り、あなた自身の人間で勝負するしかないのです。
私はそう思っています。
動画配信であなたの人間が伝えられればなお良いですし、そこまでは難しくても、リアルな場でも仕事をお願いするに足る信頼をもっていただくことは可能なはずです。それは、業績となって必ず戻ってくるはずです。

本稿が皆さんのご参考になればと思います。


アクアビット航海記 vol.22〜航海記 その10


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2017/12/28にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

前半生のまとめ


前回に書いた通り、上京した私。
悩める前半生から心機一転、新たな人生へ足を踏み入れます。

ここで後半生に入る前に、今までの連載を振り返ってみたいと思います。
ただ、振り返るにあたり言っておかねばならないことがあります。
それは、何が良くて何が悪かったかの判断を拙速に決めてはならないことです。その判断基準は人によって、時期によってまちまちだからです。
ましてや私の場合、成功者ではありません。まだ発展途上の不安定な状態です。
不安定な今を基準にそれまでの人生を判断することだけは戒めないと。

なので、ここでは振り返る基準を”起業”したという事実において判断してみようと思います。
起業にあたって、前半生の私の何が良かったのか、何がまずかったのか。
”起業”したという事実をもとに、前半生のまとめを記したいと思います。

七つの賜物


まず一つ目に挙げられるのは、私が大学卒業後、新卒として社会に出なかったことです。
新卒で採用されなかったことによって、私は社会人としての基礎訓練を受けずに社会に出ました。これは私の足かせになりましたが、型にはまらずに済んだメリットもありました。そのどちらが良かったかは、今となっては結果論にすぎません。
ただ、人と違うレールを歩んでいるという引け目を無理やり味わったことは、私の起業へのハードルを確実に下げました
また、若い時分から、一つの現場に縛られることがなく、さまざまな職場を経験できたことも、私にとってはプラスだったと思います。

二つ目に挙げられるのは、私がなにがしかの技術を手にした状態で大学を卒業したことです。
大学の学問を修めただけでなく、ブラインドタッチという技をもって社会に出ました。
これは、当時の私にとって武器となりました。
もちろん、ブラインドタッチだけで起業できるはずはありません。しかし、入力オペレータとして派遣登録できるぐらいには、私の役に立ってくれました。なぜなぜなら、社会に出てすぐ、自分の技術でお金をもらう経験を積めたからです。
私が上京して仕事したとき、大学のブランドには頼れませんでした。当時、東京では私の出た大学は無名だったからです。つまり、出身大学がどこだろうと関係がないのです。
その時、人に貢献できるスキルが己にあるかないかだけが問われます。
技術の大切さを若いうちに痛感できたのはよかったと思います。

三つ目は、自分の内面を底の底まで見つめた経験です。
人生に悩み、自分の限界を痛感し、底で這いずり回る苦しさを実感したこと。これは自分の弱さや未熟さを教えてくれました
よく「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言います。その通りだと思います。
私の場合はまず鬱の症状が自分自身の壁として立ちはだかりました。この壁は厚く険しかった分、壁を打ち破った先にある世界の広がりを自分に示してくれました。
また、大学時代に経験したホテルの配膳のアルバイトと、ブラック企業でしごかれた経験は、私の天狗の鼻を容赦もなくへし折りました。
それらの経験は、自分にとって向いている仕事はなにかを考える上で頼りになるガイドになりました。
後半生、起業で苦しくなった時も何度もありました。ですが、それ以上に苦しい経験を積んでいると、心は折れないものです。

四つ目は、人の上に立つ経験を積んでいたことです。
私にとっては大学時代の部活がそうです。
規模の大小や、種類は問いません。形はなんだってよいのです。どういう形であれ、人の上に立つ経験。それは、起業に踏み切る上で私を後押ししてくれました。
私の場合は末端の派遣職員の立場も味わったため、両側の立場から物事を見る視点も養えました
あと、若い時期に孤独を噛みしめ、孤独に慣れる術を持っていたことも起業には助けとなりました。経営者は孤独なのです。

五つ目は、読書の習慣を得たことです。
苦しい時期に本を救いを求めたことは、一過性の快楽ではなく、書物の中から心を養ってくれました。
本の中には著者や登場人物による多様な視点と、そこから導き出された考えが詰まっています。そして、人生を多様な価値、あらゆる角度から教えてくれます。
未熟で若いうちは、実生活で熟練のための経験を得ることなど、そうそうありません。しかし読書はそれを可能にしてくれます。
”起業”して一旗をあげることも、組織の中で仕事を全うすることも、書物の中では等しく経験できるのです。
その効果を若いうちから感得できたことは私の人生の糧となりました。

六つ目は、新たな人々との触れ合いです。
違うフィールドにいる人と接点を持ち、お付き合いする。それは人生の可能性を広げてくれるのです。
この人とのご縁の大切さが自らの助けになることを知り、その出会いに感謝できたことも重要だったと思います。
読書で得た多彩な人生への見方を、人々との付き合いで実際に確かめる。その経験は、人にはそれぞれの人生の可能性があることも教えてくれました。もちろん自分の可能性も。
さらに、それぞれの人が自分の考えや価値を抱いて生きていることも身をもって知りました。それが多様性につながります。比較する基準の多さは、人と自分を比較する呪縛から私自身を解き放ってくれました。
それらの経験は、私の仕事の幅を広げてくれたばかりか、生涯の伴侶を得る時にも役立ちました。
変に人嫌いにならず、人とのご縁が自分を成長させてくれる実感を若い頃に得られたのはありがたかったです。

七つ目は、瞬発力の大切さを知ったことです。
私が上京する直前、2週間ほどの間に一気呵成に物事を決断し、実行に移しました。
その行いは、私の人生を新たなステージへと進めてくれました。
瞬発力の大切さは、後半生で起業に踏み切る際にも実感しました。
”起業”した後は、悩んでいる時間などなかなか取れません。時には後先を考えずに飛び込むこともあります。当然、失敗もあります。私がブラック企業に飛び込んだように。
でも、過ぎてしまえばそれは結果です。過去の失敗として懐かしく思える日が来るのです。
そのためにも直感に従って決断することはなおざりにしてはなりません。石橋をたたいて渡らない、などもってのほか。
瞬発力の大切さを肝に銘じたことも、私の人生の財産です。

感謝します

本稿を書いた2017年の年末は、私が常駐先から抜け、真の意味で独立を果たす時期でした。
正直にいうと、当時、安定収入が入らなくなることにためらいました。家計も苦しかったですし。
本稿を書いてから今、3年近くがたちました。コロナで経済が失速していますが、なんとかやってこられています。安定収入がない怖さも最近はそれほど感じません。
今の状況など、私にとっては這い上がるべき場所さえも見えなかった時期に比べれば大したことはありません。その時期を乗り越えた経験は、今の自分を勇気づけてくれます。
たぶん、これからも苦しい時期はあるでしょう。が、この頃に味わった苦しみを思い出せば、乗り越えられると信じています。

後半生も、さまざまな試練が私を待っています。何度も打ちのめされました。死を思う事もありました。
でも、なんとか今、本稿を書けていることに感謝したいです。

最後に、当時、私にこういう連載の場を提供してくださったCarry Meさんにあらためて感謝を申し上げます。当時の「本音採用」編集長の野田さんにも。
また、つたない私の文章と私の取るに足りない一生に付き合ってくださっている読者の方にも感謝の言葉を。そして、両親や肉親、私とご縁のあったすべての人にも感謝の言葉を。

本連載第一回で書いたように、私は個人と家庭と仕事の両立を目指しています。
そして、人には人の考えがあり、それを押し付けるつもりもありません
あくまで私は淡々と自らの起業までの歩みを記すのみ。
引き続き、後半生をつづっていきます。ゆるく永くお願いいたします。
皆様のアフターコロナが良くなることを願って。


アクアビット航海記 vol.21〜航海記 その9


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2017/12/21にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

クビから上京への決意へ

朝礼の場でクビを言い渡されてからの私。大国町の駅近くにあった大成社のビルを出て、トボトボと北へ歩いたことは覚えています。
が、その後の時間をどのように過ごし、どうやって帰宅したのかを全く覚えていません。
屈辱に塗れた経験は、その日の私の記憶を抹消したようです。
その日どころか、二月中の記憶がまったくありません。

今、この頃の私が何を思い、どう過ごしていたのかを思い出すよすがはありません。何も記録を残していませんでしたから。
ただ言えるのは、打ちひしがれている暇などなかったことです。鬱に陥っている余裕さえも。

三カ月の間、駆けずり回り、痛められ続けても、前へと進む私の決意はいささかも揺らぎませんでした
手負いの私は、大成社をクビになってもなお、出版社に向けて履歴書を書いていたように思います。そして断られ続けていたようです。2月、3月を通してずっと。
そして私はついに気づきました。いつまでも兵庫の住所から東京の出版社に履歴書を出し続けてもらちが明かないことに。
東京の会社に就職したいのなら、住所を東京に移さねば

両親への想い

東京への移住を決意した私。
当時、親に対してどのように話を切り出したのかは、全く覚えていません。
でも私の両親は、くすぶり続けている私が飛び立てるのなら、と最後は了承してくれたように思います。

私の両親についても、ここでお礼を伝えておかないと。
1996年春。大学を出たのに職に就かない長男。同じ年の秋、震災で全壊した家を新築し、落成した新居へ引っ越した日々。
私の両親にとっては心労が絶えなかったことでしょう。
そんな中、確か引っ越しの登記も自力でやっていたはずです。

そんな忙しい中、私の父は不肖の長男のため、就職先探しに動いてくれました。
当時、私の父は尼崎市役所の職員でした。確か部長級でした。
その縁を生かし、私に就職口をあっせんしてくれました。尼崎市の外郭団体の職員の口を。
私はそこで面接を受け、合格しました。ところが、私は悩んだ末、この話を蹴ってしまいます。

自ら安定への道を閉ざしただけでなく、父の面目を失わせた決断。
就職を断っていなければ、私のその後の人生航路は今とは大幅に異なっていた事でしょう。それがどういう色合いになっていたかはもはや想像もできません。
ところが、当時も今も、私の中の尼崎市役所の外郭団体の就職を断ったことに後悔はありません。
とは言え、私の決断が父の思いや配慮を踏みにじった事には変わりません。
それは自覚しているし、こうして本稿を書いていて、申し訳ないとの思いが募ります。あらためて謝ります。ごめんなさい。

父からの紹介を断った私は、ほどなくして、大学の先輩に紹介していただいた芦屋市役所にアルバイトとして入ります。そこから後の経緯は、本連載の第十六~十九回で触れた通りです。
それからの三年、フラフラと人生を惑い、模索し続ける不肖の長男を、よくぞ辛抱して飼ってくれていたと思います。両親には感謝です。ありがとう。

私の父は五人の兄弟姉妹の長男です。私はその父の長男。
つまり私は世が世なら長井家の跡継ぎです。当然、地盤である関西に腰を据えなければなりません。お気楽な私にもその意識はわずかですが持っていました。
その私を東京に出すことに、うちの親が葛藤を感じなかったはずはないでしょう。
ましてや当時、東京には近しい親戚は一人も住んでいませんでした。
親戚どころか、当時の私自身には東京に住む友人は数人しかいませんでした。高校の同級生や大学のゼミ仲間、政治学研究部の後輩など、就職で東京勤務になった数人の友人ぐらい。

でも、今回ばかりは友人たちに甘えるわけにいきません。
しかも、クビになる二カ月前、1998/12/23には大成社での猛烈な日々の合間を縫って上京し、新横浜のプリンスホテルで妻にプロポーズしてOKをもらっています。今さら、後には引けないのです

その頃の私の行動を後付けで人生の転換期と呼ぶことはたやすいです。
東京に出て自分の道を独力で切り開いたことは確かですから。
ですが、当時の私がどこまでそれを転換点ととらえていたか。はなはだ怪しいです。
ただ、動かねば、という決意に満ちていただけの私。
体裁など度外視。経験などクソ食らえ。私の思いは猛々しく前のめりになっていました。

身一つで上京

あと数日で1999年の3月が終わろうとする頃、私は上京します。
確か、町田と蒲田のカプセルホテルを根城にしました。
妻には、これからの希望を語りつつ、私は、ハローワーク訪問や家探しに奔走しました。
家探しにあたっては、新宿大ガードの近くにある不動産屋を訪問しました。
なぜ新宿の不動産屋さんなのか。
それは、小田急の駅で見つけた住宅情報紙にたまたまその会社が載っていたからです。私が目を付けた物件の仲介業者として。

それまで私が家探しをした経験といえば、地震で全壊した家から避難し、次の家を探した時ぐらい。
東京に住んだことがない私が、土地勘もない新宿の不動産屋に頼ったのも無理はありません。
今から考えると、新宿の不動産屋とは非効率の極みですが。

それまでも私は、大学時代に七、八回は東京に遊びに来ていました。
そしてその都度、友人たちの家に泊めてもらっていました。ムーンライトながらや、東京⇄大垣間を駆ける深夜快速を利用して。

でも、遊びで旅するのと住むのでは大違いです。
どこに住むのがよいかは、私にとって全く未知数です。ただ、妻が住んでいたのが町田だったので、町田の近くが良いだろう、とだけの。
町田の近くであれば小田急線か横浜線沿線に住むのが良い、という根拠のない思い込み。そもそも職すら決まっていないというのに気楽ですよね。

ところが、結果的にはこちらの不動産屋を選んだことで、私の家探しは円滑に進みました。
この不動産屋さんがピックアップしてくれたのが、小田急線の東林間と相武台前の2軒です。
時間が惜しかった私は、相武台前のマンションだけを訪れ、即決しました。

この時、住むにあたって必要な保証人の事など全く知りませんでした。
本来、賃貸契約を結ぶにあたっては、そういう身分証明の手段を持っていることが条件なのです。
ですが、後先を考えない私は、何も調べずに不動産屋に飛び込んだのです。

そこで、不動産屋さんが提案してくれたのが、この不動産屋さんの知り合いの運送会社に名前だけ社員として雇用される案です。いわば名前貸し。
当然、迷う間もなくその案に乗らせてもらいました。私のような無鉄砲な若者のために、そうした手段を用意してくれていたのでしょう。
今では不動産屋さんの名前も、その時に名前だけ借りた会社さんの名も完全に忘れてしまいましたが、いまだに感謝しています。

私が住むことになった相武台前。
本稿を書く二月ほど前に、世間を騒がせた座間九人殺人事件の舞台として有名になりました。
私の住んでいたマンションは、事件現場となったマンションから相武台前駅を挟んでちょうど反対側に当たります。
住所は相模原市。家賃は31000円。敷金や礼金はいくらだったか忘れました。

曲がりなりにも家を確保し、東京に橋頭堡を確保した私。
いったん、甲子園の実家に帰ります。

そこから再び上京するまでの数日間に、親以外に私がじかに別れを告げられた方は数人ほどでしょうか。
SNSどころがメールすら一般的でない当時、一斉に連絡するすべはありません。
実家のパソコンから転居を知らせるメールを送り、別れのあいさつにかえさせてもらいました。
多分、受け取った友人たちにとっては、寝耳に水のお知らせだったことでしょう。長井乱心、正気か、と。

1999/4/1。私はカバン一つだけを持って再び上京します。
世間ではウソが許されるこの日ですが、私の住民票には相模原市民になった証が確かに刻まれました。

慌ただしい出立。そして、上京。
私の後半生の始まりです。
25才。春の気配が色濃く漂っていました。


アクアビット航海記 vol.20〜航海記 その8


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2017/12/14にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

お付き合いのために就職活動

妻とは、1998年の初夏ごろからお付き合いすることになりました。
妻はすでに歯科医免許を持っている歯医者さん。大学病院に勤めつつ実家の歯医者でも手伝っていました。
かたや私は、持っている免許といえば自動車運転免許だけ。要するに一介のアルバイトです。あまりにも差がありすぎる境遇。
たぶん、普通の人ならここで高嶺を仰ぎ見るだけで終わるのでしょう。
ですが、鬱から抜け出し、昇り竜のような私にとってそんな立場の差など無関係。仰ぎ見る高嶺が富士山だろうがチョモランマだろうが意に介しません。ましてや、世間体など当時も今も眼中の外です。
どれもこれも、私の恋情を止めるには取るに足りないことばかり。
そんな訳で私のアタックは寄り切り寄り切り、そして金星につながりました。

お付き合いしてもらえることになったとはいえ、収入の差は歴然です。
私も相手にふさわしくならねば。
いつまでもアルバイトに甘んじとったらあかんわな。いかに能天気な私でもそう考えます。このままでええわけあらへんわな、と。
そこで私は、それまで一切興味の湧かなかった就職へと舵を切ります。

私が目指そうとしたのは編集者です。
なぜ編集者なのか。
その理由はこの二年間の私の日々にあります。悩める日々、私は本を読みまくっていました。読書に耽溺していたと言ってよいほどに。
私を鬱に陥れ、そして回復させてくれた本たち。本はまた、私に人生の意味を教えてくれました。
そのような経験を積ませてくれた本を生み出す仕事に携わりたい。そう思うのは自然な流れではないでしょうか。
編集者として生きる中で、私自身がクリエイティブな職種に就ければ望むところです。例えば作家や物書きのような。

ただ、私の中では、文学の熱に浮かされているだけでは生計が成り立たず、結婚もおぼつかないとの冷静な理性も残っていました。
生計を立てるなら、まずは編集の仕事をしてみよう。

そんな訳で、1995年の夏、就職活動を放り出してから3年にして、ようやく私は就職活動に復帰します。
私のターゲット業種は出版社。職種は編集。

当時の私に向かって「自分、将来、情報処理業界で会社を作るんやで」と伝えたら、どういう反応を返したでしょう。
多分、「は?なにゆうてんの自分?」という反応が返ってきたはずです。
なぜなら、当時の私の人生設計に情報処理業界は全く入っていなかったからです。

芦屋市役所で身につけたExcelのマクロは、本稿を書いている今の私がみても初歩の初歩です。ましてやデータ登録のスキルだけで生きていけないことは、派遣社員での経験でも明らか。
そもそもデータ登録と情報処理業界は私の中では別物でした。
もっとも始末が悪いのは、情報技術やプログラミングに当時の私が全く興味を持っていなかったことです。
私がプログラミングの面白さに気づくのはまだ先の話

後先を考えずに、出版社に履歴書を送り始めた私。
ところが編集経験が全くない人間を雇ってくれる奇特な出版社などあるわけがないのです。
そもそも、出版社はほとんど東京に集中しています。兵庫に住む私が、東京に何通履歴書を送ったところで、返ってくるのは丁重なお断りの文章だけ。
ところが、一社だけ私を面談してくれる出版社がありました。
そんな奇特な出版社こそが中央出版さんです。

ブラック企業でしごかれ消耗する

無知でウブな当時の私は、中央出版さんに面接に出向き、編集の仕事を希望しました。
正確に言えば私が面談を受けた会社とは、中央出版さんのグループ子会社にあたる大成社さんです。
面接の会場には、Blurの「Tracy Jacks」が流れていました。
この曲のサビの部分「Tracy~Jacks♪」は「たい~せい~しゃ~♪」と聞こえるのですよ。
おお、何と遊びごごろのある会社、と間抜けな私は喜びました。
数日もたたずに採用のご連絡をもらった際も、私はまだ、夢見る気分で漂っていました。

それまでお世話になった社会保険労務士さんには、出版社に勤めることになったので、とお暇を告げました。

そんなウブで無知な私は、初出社の日から猛烈な嵐に巻き込まれます
大成社での日々については以下のレビューの後半で書いています。

なお、上のレビュー内では名を伏せましたが、本連載では大成社と実名を出します。
中央出版さんはグループ会社をオトナノジジョウでスクラップ&ビルドすることで知られています。
もちろん、大成社はすでに廃業済み。影も形もありません。
もっともウェブで検索すると、大成社の伝説の数々はそこかしこに登場するのですが。

大成社での日々を上のリンク先から引用してみたいと思います。

その会社は出版社の看板を掲げていた。しかしその実態は教材販売。しかも個人宅への飛び込みである。出社するなり壁に貼り付けられている電通鬼十則をコピッた十則を大声でがなり立てる。挨拶もそこそこにして。

朝礼は体育会系も真っ青の内容で、絶え間ない大声と気合の応酬が続く。しかし、そこに単調さはない。きちんと抑揚が付けられている。おそらくは営業所のリーダーの裁量にもよるのだろう。前日に成果を上げた者には惜しみない賞賛の声が掛けられるが、一本も成果を上げられなかった(ボウズと呼ぶ)者には、罵声が浴びせられる。私は数日ボウズが続いた際、外のベランダに連れ出され、髪型のせいにされてその場で丸刈りにされた。これホント。私がクビを告げられたのも朝礼の場。

朝礼が終わった後は、ロールプレイングと称する果てしないやりとりの復習。詳細な住宅地図から描き出す訪問ルートの策定を中心とした行動計画。担当毎にエリアが割り振られ、その地域を一定の期間訪問し尽すまで、そのエリアへの訪問は続く。

朝こそ12時出社だが、成績が悪いと10時出社の扱いになる。無論朝からロールプレイングの時間が待っている。派遣地域から営業所に帰ってくるのが22時前後。それから明日の営業資料の整理やら反省会やらがあり、終電は当たり前。そんな中、朝10時出社は厳しい。

・・・このレビューに書いたことは事実です。例えば、知らずにヤクザさんのところを訪問し、しつこくねばった結果、掌底で殴られ監禁されそうになったくだり。本当です。ベランダで丸刈りにされたのも同じく。

離職することを前提とした採用。
ふるい落とし、選ばれなかった者に待っているのは退職のみ。
厳しい職場で勝ち残り、成果を挙げた者だけが希望の業務に就ける。そんな容赦ない弱肉強食の社風。
成績優秀者は皆の前で100万円以上の厚みのある札束が渡されます。現ナマです。
振り込みなどという生ぬるい給与の渡し方はしません。徹底的なアメとムチの世界。
ボウズが続けば、固定給しかもらえません。かわりにもらえるのは数限りない罵声と叱咤の嵐。
その圧倒的な格差を前に、奮い立つ人もいます。這い上がる人もいます

それまでの人生、私の人生は浮き沈みこそあれ、平穏でした。
もちろん中学の頃はイジメにも遭ったことはあります。理不尽な目にも遭いました。
でも、それは同じ級友の間のいわゆるなれ合いの中のイジメです。
ところが私が入ってしまった大成社とは、なれ合いすらも許さぬ会社でした。平穏こそは悪と言わんばかりの。
ネットで検索すれば、今もブラック企業のレジェンドとして名を残す大成社。
私が社会の厳しい現実を嫌というほど教えられたのが大成社での日々です。
1998年の11月からの約3カ月間。

1999年の2月始め、私は皆がそろう朝礼の場でクビを宣告されました。
この時に受けた強烈な屈辱は、丸刈りにされた時の記憶と相まって私を打ちのめしました。
私が東京に出て結婚した6、7年後になっても、この時の経験は夢に出てきたほどです。
私と同時に大成社に入社した10人ほどの同期は、私がクビにされた時点ですでに3,4人しか残っていませんでした。もちろん、皆さんクビです。

ただし、大成社で過ごした3カ月の全てが無駄であり、苦痛でしかなかったと書くのはフェアではありません。良いことだってわずかですがありました。
例えば契約を獲得すると、ホワイトボードの名前の下にピンクのバラが飾られます。よく選挙当選者の名前の下に貼られるような感じの。
私は3カ月の間に1,2度しか達成できませんでしたが、1日に2件の契約を獲得したこともあります。それは「ダブル」と呼ばれ、帰社すると拍手で迎えられます。翌日の朝礼でも称賛は惜しみなく与えられます。

私は、自分が売り込む商材である3000円のテストにも、テストを受けた家庭に売り込まれるゴールウィンという教材にも愛着が持てませんでした。
そんな心持でありながら、当時の私はノルマや売上に追われていました。そして、訪問の間に一軒でも多くのお宅にテストを受けてもらおうと脳内をたぎらせ、目を血走らせていたのです。
ところが、そんな充血の毎日にも救いはありました。
数多くのご家庭を訪問していると、中には心温まる家庭にも出会えたからです。
もちろん、ほとんどのお宅ではケンもホロロに門前払いを食らいます。
でも、中には、頑張ってるわね~と私をねぎらってくださるご家庭だってあったのです。
心身ともに追い詰められた気持ちで、訪問したお宅のお子さんとその保護者様を相手にトークを展開しながら、親身にお子さんの将来を案じる保護者様の気持に胸が熱くなったことも1,2度ではありません。
私に門だけでなく、心も開いてくださったご家庭に対しては、たとえ契約に結び付かなかったとしても温かい気持ちを抱いて辞去することができました。

また、大成社の大阪支店には諸先輩方がいました。
私についてくださった先輩はHさんといい、一生懸命に指導してくださいました。
理不尽で不条理な日々であっても、全ての経験が暗黒ではなかったことは書き添えておきたいのです。

ブラック企業で培ったもの

”起業”した今、私はいろんな会社を訪問する機会があります。
一度も伺ったことのない会社へ単身で訪問することも多いです。
ですが、気後れすることはありません。
これは大成社での過ごした3カ月、毎日、果てしない数のお宅へ飛び込み訪問した経験のなせる業です。
今でも、飛び込み営業をやれ、と言われれば契約がとれるかどうかは別にして、やれる自信はあります。
当時、何百軒も飛び込み訪問した経験はダテではありません。

また、”起業”すれば深夜や土日に働くことなど普通です。
お客様に怒られることだってあります。
でも、大成社での日々に比べれば、どれも大したことではありません。それ以上に苦しかったからです。
負けて打ちのめされればそれまで。
ところが、結果として生きながら得たことで(私の場合は乗り越えたわけではありませんが)、その後の試練に耐性がつきました。
私が打たれ強くなったのは、この時の経験からです。

また、つらい時期も過ぎてみればそれまで、という人生訓を得たのもこの時期です。
大成社での日々は、私が”起業”する上で欠かせないイニシエーション(通過儀礼)だったと思います。

ただし、”起業”するためには、あえてこうしたブラック企業に飛び込むのがよいか、と問われれば迷います。
今の私は、大成社の夢にうなされることはありません。
ですが、もし私の娘や友人や知り合いがブラック企業に就職すると聞けば、間違いなく反対するでしょう。
それはそうです。私自身が二度とやりたくないのに、人に勧めるわけがありません
休みには、どこにも出歩く気力がないほど疲れ果て、当時、付き合っていた妻と電話で話すことが精一杯。周囲から追い詰められ、夜も昼も追い込められる日々。
人にはおのおの、耐えられる閾値があります。
私はたまたま、精神を病む前にクビになって解放されました。
それ以上いたら、再び鬱に陥り、本稿を書く機会もなかったかもしれません。

大成社よりも過酷な、そして人権をないがしろにするような職場は他にも多く存在することでしょう。
そのような職場に耐えられるかどうかはその人次第です。
クビになったからといって気に病むことはありません。逃げられる気力が残っているうちにさっさと逃げたほうがよいです。
”起業”した今、私はパートナー技術者や部下に対し、絶対にブラック企業が行うような使い捨てをしないと決めています。
それも、大成社での経験を反面教師としているからです。
本稿に書いたのは、あくまでも私の個人的な経験、そして結果論でしかありません。

ただ、それを踏まえても、ブラック企業での経験は得難いものでした。今となって振り返れば。
そこでの日々は、私を強く鍛えてくれました。
私の人生を振り返っていえるのは、この試練をくぐったことで、人生の次のステージに進めた
、ということです。
大学四回生の夏から始まった3年半のぬるま湯につかった日常。それらは一掃されました。

朝礼の場で皆の前でクビを言い渡された屈辱。
それは、私をさらなる行動へと駆り立てます。
次回はそのあたりをお話ししたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.19〜航海記 その7


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2017/12/8にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

データ入力の仕事に挫折する

データ登録の仕事で思った以上にお金がもらえた。そのことに味をしめた私。
今までは先輩に頼りきりだったので、自分でも動かねば、と一念発起したのでしょうか。私は派遣社員として他の会社に登録する道を選びました。
たかが登録。
今のわたしから見ればなんのことはありません。
ですが、時代は1998年。
多分、登録を行う上で、ウェブ経由で行う方法などなかったはず。電話か何かでアポイントを取り、派遣会社へ訪問したのでしょう。それは、今と比べて労力のかかる仕事です。
でも、一時は鬱に沈んでいた私も、そこまで踏み切れるようになったということでしょうか。
その派遣会社の名前はエキスパート・スタッフさんです。今も大手としてよく知られていますよね。

ほどなく、エキスパート・スタッフさんからオファーが来ました。
その仕事は、FileMakerへの入力です。自宅のパソコンにFileMakerをインストールし、東急ハンズの商品のポップを決まった通りに入力し、納品する。デザインスキルは不要で、価格や商品名を入力するだけでよかったように覚えています。
それは、私にとって初めての在宅ワークでした。

話はそれますが、本稿を書く10日ほど前に(2017/11月末)に、FileMakerの案件を受注しました。
実は私がFileMakerに携わるのは東急ハンズのポップ作成以来なのでした。
当時はオペレーターとして、今回は移行エンジニアとして。
この記事を書くタイミングでFileMakerの案件が受注できたことに何かの縁を感じます。一抹の感慨とともに。

さて、FileMakerの仕事を行っていた私。ですが、この案件も程なく終わってしまいました。そして、この仕事から後、パタリと新規案件が来なくなったのです。
当時の私は思っていました。データ入力の派遣作業とは、依頼が来たら、それを受けるだけ、と。つまり、受け身です。
ですが、それではダメなのです。たちまち収入が途絶えてしまいました。
今だから思える反省点があります。
それは、自分の仕事ぶりを評価してもらうための働きかけを全くしていなかったことです。
これは日本ワークシステムさんで派遣登録している時もそうでした。
この時、当時の私がそれまでの自らの仕事ぶりがどうだったかを聞き、案件が終わる度に、私の仕事ぶりを評価してもらうように聞いていれば、仕事ぶりを改善する余地はあったはずです。
ところが当時の私はそうした作業をまったくしていませんでした。
まだまだ、私は受け身で仕事をやり、受け身の状況に流されていただけなのでした。

社会保険労務士事務所で自転車をこぐ日々

収入が途絶え、困った私は、またしても政治学研究部に頼ります。
この時、私を助けてくれたのは、政治学研究部の先輩ではなく後輩でした。
その彼が入っていたバイト先を抜けるにあたり、後任として私を紹介してくれたのです。
そのバイト先とは、社会保険労務士事務所でした。阪急の西中島南方駅の近くにありました。
この時、私を助けてくれた後輩M君にもいまだに感謝しています。

この社会保険労務士さんは確か、菊池さんといったように覚えています。
ですが、事務所はもう閉じてしまわれたようです。当時もすでに菊池さんは年配でした。今、ネットで検索してもそうした名前の事務所は見当たりません。
私はこの社会保険労務士事務所では、オフコンに社会労務のデータを登録する仕事を行っていました。社会保険労務士さんですから給与データなどを入力していたのかもしれません。
そして印刷した伝票を週二回ほどのペースで福島区の取引先に届けていました。
今、思えば、その仕事も気楽なものでした。
西中島の事務所へは、西宮の自宅から毎日自転車で通勤していました。
その足で福島区のお届け先まで自転車で向かう。そんな日々だったように覚えています。

そんな私の自転車通勤の日々は、数カ月で終わりを告げます。確か1998年の10月いっぱいまで続けていたように思います。この社会保険事務所のアルバイトを辞めるいきさつは、次回の連載で触れたいと思います。

芦屋市役所から始まり、社会保険事務所まで続いたデータ入力オペレーターの日々。それは、私の打鍵能力を鍛えてくれました。
後年、システム・エンジニアとしてさまざまな現場を渡り歩いた私ですが、自らの打鍵スキルに助けられたことは数えきれません。
ですが、いくらキーボードの入力に長けていようと、それだけでは身を立てられないのです。ましてや、結婚して家族を持つとなると。
そう、当時の私は結婚を考えるようになっていました。
結婚のことを触れるには、1998年の秋から少し時間を遡らねばなりません。

結婚を意識する

それは忘れもしない、1998年の2月末のことです。
その日、私は結婚の相手と考える方と初めて会いました。その相手こそ、今の妻です。
妻とのなれそめを紹介すると長くなるのでここでは書きません。
ただ、なれそめの一つがネットのBBS(電子掲示板)であったことは言っておくべきでしょう。

SNSがまだ市民権を得るどころか、存在もしていなかった当時。オンラインでコミュニケーションをとる手段は、メールくらいしかありませんでした。
先に書いたBBSとは、ウェブ上の掲示板のことです。
その掲示板で私と妻は初めて会話を交わしました。
私がその掲示板を訪れるきっかけは、長くなるので書きません。私の小学校の頃からの友人H君が関わっています。
そして、掲示板で妻とも会話をするようになってからしばらくたった2月末、私はそれまでエンもユカリもなかった町田を訪れます。そして、今の妻と出会うのです。
なぜ町田に来ることになったのか。それは、H君が町田まで妻に会いに行くと同行者に私を誘い、私が付いていったからです。
この時の旅も道中もエピソードに溢れており、書くネタには事欠きません。ですが、本連載の主旨とは外れるので割愛させていただきます。

当時、時間だけは自由に使えた私。相変わらず本は読みまくっていました。
ですが、一方で黎明期のインターネットにも大いにはまりました。当時の言葉でいえばネットサーフィンです。いろんなページを巡っていました。
メールでのやりとりや面白そうなメールマガジンにやたらと登録し、上にも書いたBBSや、ICQなどを駆使して盛んにコミュニケーションもしていました。
タイや香港、スコットランド、ロンドンの人とオンラインでのやりとりしていたのもこの頃です。

1998年といえば、フランス・ワールドワールドカップが行われた年です。私はこの時、フランスワールドカップに観戦に行こうとしていました。
その旅費を稼ぐため、スコットランドのマッカラン蒸溜所に英文の手紙を送り、雇ってほしいと頼んだのもこの時です。
まだ付き合う前の妻を半蔵門のイギリス大使館や赤坂のイングリッシュ・カウンシルに連れ回したのもこの頃です。

皮肉なことに、私を沈んでいた日々から救ってくれたのは、内向的なオンラインの世界でした。
当時、メーリングリストがあちこちで立ち上がっていました。私はあちこちのメーリングリストに参加し、そのうち二つのメーリングリストにはオフ会にまで参加しました。その二つのメーリングリストとは阪神間MLとBacchus MLです。
この時に二つのメーリングリストのオフ会で知り合った方々には、その後の人生でとてもお世話になりました。本稿を書いている今もお世話になっています。
オンラインで知り合った方とオフ会で会い、見聞や知り合いを広げる。そして、BBSで知り合った女性とリアルに結婚する。
この頃の私が、黎明期のネットから受けた恩恵は、とても重要なものでした。
この時に培った多様な知見が、後の起業にも役立っていることは言うまでもありません。

鬱に陥った過去を吹き飛ばすかのような活発な日々。
この頃の私は、自分が何になれるのか、何で糧を得るのか、自分の将来を必死に模索していました。
物書きとして身を立てる道を探りました。本をひたすら読み漁って世に出るヒントを得ようとしました。オフ会に出て人との繋がりを求めました。
この時期の私に、まだ起業という考えはありません。
ですが、今から考えると、当時の私の心の在り方は起業を目指す人のそれだったのかもしれません。
勤め人におさまろうという気持ちは、相変わらず希薄なままでした。

ところが、そんな私が勤め人になろうと試みます。
私が入り込んだその企業は、ブラック企業でした。