年末に訪れた白河のアウシュヴィッツ平和博物館。本作品を知ったのはその時だ。
本作品のチラシが受付に置かれていて、持ち帰らせてもらった。
チラシが置かれているからには、本作品がホロコーストを題材にしていることは明らかだ。

では、その悲劇が本作品では一体どのように描かれているのだろう。
ホロコーストの悲惨さとかけ離れたような、チラシの少女の美しさ。そのコントラストにも惹かれた。
ホロコーストの悲惨な写真の並ぶ中、美しい少女の姿と悲劇が結びつかず、それもあって本作品に興味を持った。

ところが、本作品の上映館がどこなのかを調べておらず、半ば忘れかけていた。
そんなある日、ひょんなことで本作品がわが家に近い新百合ヶ丘のアルテリオで上映されていることを知った。
しかし、まもなく上映が終了してしまう。そして他の日は上映時間に打ち合わせが入っている。
となれば、日中に自由な時間がとれる今日しかない。
そんないきさつで観た本作品だが、余韻が残る良い映画だった。

本作品は、ホロコーストの悲劇をテーマとしている。
だが、本書はホロコーストの悲惨さを直接に描写しない。それどころか、登場人物の口からホロコーストのことはほぼ語られない。
収容所という言葉すら、本作品を通しても一、二度しか出てこない。
本作品に出てくるもっとも残酷な描写といえば、主人公の妹を木に縛り付ける兵士たちと、それを助けられなかった主人公の慟哭だ。

それほどまでにホロコーストのことを直接に描かない。それにもかかわらず、本作品からはホロコーストの悲惨さを存分に感じる。
ホロコーストで家族を殺されることが、どれほど人を深く傷つけるのか。
一人きりでこの世界に残されることがどれほどつらいのか。
二人の主人公の演技は、そのつらさを観客に深く刻み付ける。

クララは両親と妹を喪い、この世界に残されてしまった十六歳の少女だ。
年の離れた大叔母のオルギと暮らすが、オルギとの暮らしに息苦しさを感じている。
そして、生理が来ないことでオルギに付き添ってもらい、婦人科を受診する。

そこで診察してくれたのが、医師のアルドだ。
アルドとの診察の中で何かを感じたクララは、わざわざ生理が来た報告のためだけにアルドのもとを訪問する。

そして、抱きしめてほしいとアルドにせがむ。
そっと抱き寄せるアルド。
そして、以後は週の大半をアルドの家で泊まる。

42歳のアルドと16歳のクララ。
親子ほどに年の離れた男女だが、血のつながりはない二人。
こうした設定からは、性的な関係を頭に浮かべないほうがおかしい。

だが、そこで二人は決して一線を越えない。
越えないが、二人は実の父娘よりも近しいように思える。
一緒の布団で寝て、ハグもする。

だが、二人の間はあくまでも一人きりでいられない寂しい者同士の関係に終始する。
医者に背中を診察してもらう間に、クララはアルドに後ろを向いていてほしいという。

つまり本作品で描かれる二人の関係は、性的な関係とは程遠い。でありながら、父娘の関係よりも近しい。
一見すると不健全な二人の関係を補うように、アルドには後半になってエルジというパートナーが登場し、胸を見せて二人の性的な関係を暗示させる。一方、クララにはペペという彼氏も登場する。

だが、二人の間に共通する傷の深さは、関係が変わろうと二人の間に絆を保ち続ける。
そのことがかえって、二人が負った傷の深さと、一人きりで生きていくことのつらさを感じさせてくれる。

二人は決してつらかった時期のことを口に出そうとしない。
クララがアルドの過去を知るのも、アルドが自分のいない間に眺めてほしい、と引き出しのカギに添えておいていった手紙だけだ。
引き出しの中にはアルドがかつて一緒に過ごしていた妻や息子の写真が貼られており、クララは号泣する。
クララの回想には両親と妹が登場するにもかかわらず、アルドの妻や息子たちは一切、本作品に出てこない。そのことも、かえってアルドが受けた傷の深さを思わせる。

クララもすでにいないはずの両親に手紙を書き、埋められぬ不在を埋めようとけなげに過ごすが、その姿には痛々しさがあふれでている。
二人を取り巻く描写の全てが、ホロコーストの時代の悲劇を際立たせている。

本作は全体の色調も静かだ。
冒頭から登場するアルドの診察室はモノトーンに近く、華美な印象はない。
会話も控えめな本作品で、アルドは寡黙な医師であり続ける。
端正なマスクを持ちながら、前頭部は後退している姿が哀しみをさらに醸し出している。そして過去のつらい経験からか、喜怒哀楽を表に出さない。

そのアルドを演じるカーロイ・ハイデュクは、そのわずかな口と眉と目のうごきだけで心の動きを表しているのが素晴らしい。

そして、クララだ。本作品の暗めのトーンは、彼女の美貌と華やかさによって釣り合いがとれている。
可憐な少女の姿で登場し、徐々に成長し大人になってゆくクララの姿。その姿はチラシに登場する姿よりも、劇中のさまざまなシーンでこそ輝いている。
アビゲール・セーケの美しさは、本作の華であることは確かだ。

私がハンガリーの映画を観るのは初めてだが、この主人公の二人の演技と姿には目を奪われた。
その一方で、ハンガリーの映画ゆえに、ハンガリーの歴史を知っていなければ、わからないことも多い。
例えばソ連の影響が増す中、党員や党といった言葉が出てくる。これは明らかに共産党を指しているのだろう。

そして、ラスト近くではスターリン死去のニュースが人々に喜びをもたらす様子も描かれる。
だが、映画には書かれていないハンガリーの歴史では、この後、ハンガリー動乱の悲劇が控えているはずだ。
それを知っているか知っていないのでは、登場人物たちの姿も違ったように映る。

本作が未来に希望を感じるかのような大人びたクララの姿で幕を閉じるとなおさら。

‘2021/1/28 川崎市アートセンター アルテリオ映像館


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