私は、戦国武将の中でも石田三成に自分と近いものを感じている。

今までに関ヶ原は三回訪れた。三回とも笹尾山の石田三成本陣には訪れたが、桃配山には一度も行っていない。桃配山とは徳川家康が最初に本陣とした山だ。また、最後に関ケ原を訪れた際は、妻と二人で石田三成の生誕地を巡ってから戦場に向かった。私は明らかに石田三成に愛着を感じているようだ。

本作は、石田三成を主人公とした関ケ原合戦の物語だ。原作となった司馬遼太郎作の「関ヶ原」でも主人公は石田三成として書かれていたらしい。らしいと書いたのは、原作を読んだかどうか覚えていないからだ。石田三成がどう書かれていたかも記憶が曖昧。だからこそ本作は観たいと思った。

本作は、合戦シーンの派手さだけを魅せて終わる映画ではない。戦国時代を継ぐ時代をどう作ろうとしたのかを描く映画だ。なので、関ヶ原の合戦に至るまでの経緯を丁寧に描いているのが特徴だ。

関ヶ原の合戦とは戦国時代の幾たびも行われた合戦の中でも最大にして、日本の覇権の行く末を決めた最重要の合戦。これに異をとなえる史家はまずいないと思う。大坂の陣も、山崎の合戦も、関ヶ原の合戦に比べれば少し粒が小さい。前者は政権磐石となった徳川家による戦国時代の後始末的な戦いだし、後者は織田家の後継者争いの意味合いが強いからだ。関ヶ原の合戦とは、豊臣家が政権を担うのか、それとも徳川家がとって替わるのか、その後の260年間の帰趨が定まった戦いでもある。260年の未来の重みがあったからこそ、関ヶ原の合戦は重要だったのだ。それが解っていたからこそ、戦う前から武将たちは駆け引きに骨身を削ったのだと思う。

すでに衆目の見るところ、太閤秀吉亡き後、天下を担うのは内府(徳川家康)であるのは明らか。では何をもって石田三成は豊臣家の天下を守ろうとしたのか。それは「義」だ。本作で鍵となるのは、石田三成が島左近を召しかかえるシーンだ。ここで、石田三成は「義」が太閤晩年の豊臣政権から失われてしまっていることを率直に吐露する。武将たちが太閤秀吉に臣従しているのは利益のためのみ。利益だけで維持される政権に義はないといい切る三成。三成は義をもって天下は運営されるべきという。三成の旗印、大一大万大吉に込められた意味だ。「一人が万民のために尽くし、天下が泰平になればみんなが心豊かに暮らせる」

怜悧冷徹な官僚的人物。それが今までの石田三成評だった。本作はそのイメージを覆しにかかる。ただ権威に盲従するのではなく、権威に威を借るのでもない。今の太閤殿下に義はないといい切る三成に旧来のイメージはない。むしろ、豊臣政権の末期は三成にとって忌避すべき政権であり、徳川家康こそが豊臣の利得政権の後継者なのだ。それがゆえに、政権をとらせてはならない。秀吉が天下を取った当時の理念に立ち返らせることに自らの信念を掛ける三成。そこには従来の豊臣政権の後継者としての石田三成の悪評はない。三成と家康が考える豊臣政権は、正義と不義が鮮やかに反転しているのだ。三成にあるのは自分が豊臣政権を担い正道に戻すのだ、という強烈な自負だ。

だからこそ、たかだか19万石の石高しか持たない石田三成に、日和見軍がいたとはいえ、あれだけの人数が馳せ参じたのだろう。

三成が義を語るシーンは他にもいくつか出てくる。例えば初芽に対し、天下が自分の理念に沿って運営されるのを確かめたら諸国を巡りたい、一緒に来てくれないか、というシーン。ここで描かれる三成は覇権や自己保身に汲々としない人物だ。初芽にも観客にも岡田三成が最も魅力的に映るシーンとして、ここを上げてもいいほどに。

また開戦前夜、松尾山の小早川秀秋の元に行き、明日の参戦をかき口説くシーンもそう。ここでも義は持ち出される。小早川秀秋が当初から徳川家康に内通を約していたのであれば、あそこまで迷わなかったはず。本作でも秀秋が三成に悪感情を持ってしかるべき伏線はたくさん引かれている。秀次の側室駒姫の処刑を監督する三成と彼らを不承不承連行する役目を仰せつかった秀秋は、いかな感情を三成に抱いたか。また、朝鮮の役での秀秋の戦いぶりを三成が罵倒するシーンも同じく重要だ。それだけの伏線があってもなお、秀秋に東軍への寝返りを迷わせたものは何か。

周到に関ヶ原の合戦前夜までを描くことで、本作は6時間で大勢が決したとされる関ヶ原の合戦に重層的な重みを与えている。南宮山にこもったきり出てこなかった毛利軍や、大勢が決した後に敵中突破して薩摩に逃げ帰るまで動こうとしなかった島津軍もきっちり書いている。また、前哨戦となった大垣城や杭瀬川の一戦と前夜の駆け引きまでもが、 カット割りと編集によって 疑心暗鬼と駆け引きが深められているところも本作の見どころだ。また、小早川秀秋の寝返りの瞬間に新たな解釈を与えているのも興味深い。

合戦シーンもリアルに感じた。泥臭く、派手さのない戦さ。突いて、組み付いて、叩く。剣が首を跳ね飛ばすシーンなど一、二回しかでてこない。実際の戦闘はそんなものだったのだろう。後の剣豪宮本武蔵が関ケ原の戦いに参戦していたとも伝わっているが、鮮やかな剣術で斬りまくったという話は聞かない。それも本作を観れば納得できる。また、戦陣の描写もリアル。東西がきれいに二分され対峙した分かりやすさはない。整然とした戦場で、戦況の全てを見極めた軍師の采配が鮮やかに全軍を動かすといったこともない。あちこちで旗印を掲げた集団が槍の穂を組み押し合っている。前後に集団が向かい合い、上下に騎馬武者が行き来し、そこここで鬨の声がこだまする。広大な戦場でそれぞれの軍団同士が組み合って、それぞれの持ち場でしのぎを削る。それが戦場の実情なのかもしれない。本書の三次元、いや、時間も含めると四次元に描かれた戦場は混沌としており、それがとてもよい。実際に関ヶ原を訪れつ私にも、在りし日の戦場が思い起こせるようだ。そしてそのすべてを見ているのは村の地蔵。三成によって転がっていた地蔵が元の祠に安置され、それが戦場に迷い込んだ初芽たちと雑兵によって荒らされ、さらにそれを戦後の実検で訪れた家康によって安置しなおされる演出も良かった。

本作を観ると、石田三成には武運拙くという言葉が似合う。実際、あと一息だったのだと思う。秀忠軍三万五千の軍勢が上田城で足止めされたという幸運もあって、戦況は東西どちらに転んでもおかしくなかった。家康の老獪な根回しが毛利軍を南宮山から動かさず、ギリギリで小早川秀秋の寝返りを生んだからこその敗戦。

戦いの前段から処刑場へ運ばれるまでの日々を石田三成は生きる。自らが信ずる大義を見据えて。その眼差しは、本作で石田三成を演じた岡田准一さんがしっかりと再現してくれている。なんといえば良いか、岡田さんは目で三成を演じている。まるで目前に本物の秀吉が床几に肘をついているかのように。家康と丁々発止の、そして無言の対面を果たすかのように。島左近が戦場で疾駆する様子を見るかのように。岡田さんの三成は、本物の石田三成がこうだったと思わせる迫真性がある。今までも色んなドラマでさまざまな役者さんによって三成は演じられて来た。その中でも岡田三成がもっとも血が通っていたように思う。それはもちろん、役者さんだけの力ではない。監督による三成解釈が官吏三成を前面に押し出さず、血の通った理想主義者として描いていたからだろう。でも、その期待に応えて演じきった岡田さんの演技がすごい。毎回唸らされる。

さらに、家康を演じた役所さんも見事というほかはない。家康もあまたの役者によって演じられてきたが、役所家康も屈指の家康像だったと思う。さりげなく爪を噛む癖や老獪さを醸し出すあたり、家康が現世に現れたらあのような、と思わせた。まるで現し身のよう。

また、他の役者さんもお見事。出番は少なかったが、滝藤さん扮する秀吉の老残の感じや哀れさが流ちょうな名古屋弁によってとても現れていたし、キムラ緑子さんによって演じられた北政所は、一説に関ケ原の戦いの黒幕ともいわれる北政所のしたたかさがよく出ていたと思う。また平さん演ずる島左近が、また歴戦の勇者のつわものぶりを全身にまとっていてとても印象に残った。また、石田三成といえば大谷刑部吉継との友情は外せないが、大場さんによって演じられた大谷吉継の達観した感じが、本作に一層の深みを与えていたように思う。他の役者さんも含めて、役者さんたちの演技に不満はない。スタッフと役者のすべてががっちり組み合い、これほどまでの大作を作り上げたことに感謝したい。

パンフレットによれば、監督の構想は二転三転したという。主役は島左近から小早川秀秋、さらに島津義弘と替わり、最後に石田三成に落ち着いたようだ。その年月たるや構想25年。原作をおそらくは何度も読み込み、あらゆる視点で物語を読み直したのだろう。それが本作の重層的で多面的な描写につながっているはず。まさに監督の想いが詰まった渾身の作品を観たという喜びが全身にわいてくる。すばらしい一作だったと思う。

あえていえば、史実に忠実であろうとするあまり、ケレン味に欠けるところが欠点だろうか。人によってはもっと娯楽に徹して欲しかったという意見もあるかもしれない。もっとも私には欠点ではなく、そのケレン味のなさが良かったのだが。おかげで四回目の関ケ原巡りがしたくなった。次は南宮山や桃配山も登り、三成の逃亡ルートや島津の逃亡ルートも歩いてみたい。

2017/9/1 イオンシネマ新百合ヶ丘


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