本作品は、当日の朝になってみることに決めた。

朝、起きてすぐにコロナで逼塞を余儀なくされている現状に心が沈んでいることを自覚した。去年にはなかったことなのに初めてだ。
これはまずいと心の落ち込みを妻に話したところ、前から本作品を観たいと思っていた妻が、本作品を提案してきた。
そこで妻と長女と観に来た。
何も考えずに笑いたくて。

三国志は高校一年生の時に吉川英治版の小説を読み通したし、それ以降にもコーエーのシミュレーションゲームや三國無双はだいぶやり込んだ。
物語も知っている。登場人物もお馴染みだ。
それが本作品で新たな解釈がどれほど施されているのか。私には興味があった。

しかも、聞くところによると本作品の監督は、あの「勇者ヨシヒコ」の監督ではないか。
であるなら、通りいっぺんの三国志とは違う世界に浸れるはず。もちろん笑いも込みで。

結果は、笑った笑った。いやあ楽しめた。
もう何も考えず、何も批評せず。ただ座席と物語に身を委ねて。
何しろ、三国志の物語の大筋は分かっているので、物語の筋を追って理解しなくてはというプレッシャーもない。伏線が隠れているのでは、と画面の隅々に目を光らせる必要もない。リラックスして全編が楽しめた。これは楽だ。

新解釈とあったけれども、本作品は三国志の物語の骨格そのものは壊していなかった。そのため、リラックスしていても楽に流れを理解できた。
むしろ、吉川英治の三国志との違いにニヤニヤしながら観ることができた。
ここをがっつり壊されてしまうと、かえって興ざめしてしまう。
三国志の世界に沿っていることこそ、本作品が挑戦的な内容でありながら、作品として成り立った理由だと思う。

本作品の新解釈とは何か。それは、キャラ設定に尽きる。
小説やゲームの中に登場する三国志の登場人物たち。彼らや彼女たちを本作品の俳優陣がどのように解釈し演じてくれるか。
1800年以上にわたって人々に知られた三国志の登場人物たち。そうした個性の豊かな登場人物を、私たちが持っている俳優の芸風やイメージのままに自然に演じているのがかえって新鮮だ。
むしろ、演じているという言い方は違うかもしれない。
それよりも新解釈で演じるのではなく、俳優のキャラクターで上書きしたらどうなるか、ととると面白い。

例えば劉備玄徳。小説やゲームでは武力や知力の設定値があまり高くないが、人徳の値が異常に高い。つまり、真面目で愚直な人物として知られている。
それを本作品では愚痴とぼやきだらけで、責任感のない人物として解釈している。しかも、酒を飲むと高揚して英雄的な言動を発するあたり、張飛や関羽のキャラを食っている。
そんな風に新しく解釈された劉備が、大泉洋さんのあの飄々とした感じで演じられている。
仮病で虎牢関の戦いをサボるシーンなどそのクライマックスだろう。真に迫る仮病の演技ではなく、芝居感を時々のぞかせながらの演技がまたいい。メタ笑いスレスレだ。

また、神智の持ち主として高名な諸葛亮孔明。それをチャラく、そして安請け合いしてしまう軽薄な人物として描いていることも本作品の新解釈の一つだ。
大言壮語するビッグマウスの持ち主でも、不思議な運によって乗り切ってしまう人は現実にもいる。そんな強運の人物として諸葛亮孔明を描いているのも面白い。
そんな風に斬新に解釈された諸葛亮孔明が、ムロツヨシさんのあの掴みどころのない感じで演じられているのも面白い。
小説で書かれたような神のごとき知力を縦横に操る軍師の面影は本作品にはない。まさに大胆不敵な解釈とは本作品を指すのだろう。

さらに言うと、諸葛亮孔明の知恵の出どころは、実は奥方こと黄夫人からだったという設定も面白い。これは実際にそうした伝承もあるらしい。
だから本作品の設定をあながち荒唐無稽と言い切れないのだ。
とはいえ、神格化されていた孔明像を信奉している方からしてみると、本作品の大胆な解釈からは不快さを感じるかもしれない。

また、董卓を演じる佐藤二朗さんは、まさにテレビで見かけるあの台詞回しそのもの。それが三国志の中でも指折りの悪役を演じているのだから笑えてしまう。
まさに上に書いた通り、小説の董卓を新解釈で演じるのではなく、董卓を佐藤二朗さんのキャラで上書きしている。

本作品でデフォルメが加えられているのは、劉備玄徳や諸葛亮孔明や董卓だけではない。趙雲や貂蝉や周瑜、曹操にも監督と俳優さんの自由な解釈が加わっている。
つまり、本作品では三国志の登場人物を演じたり再現させたりする意図はほぼないと考えられる。
むしろ、時代設定とあらすじだけを借り、キャラクターも上書きし、その上で笑いを生み出しているのが本作品だ。
だから、キャラが小説版と違っていて当然だし、観る側もそれを承知で笑い飛ばすのが正しい。

ただ、笑い飛ばすとはいえ、本作品を軽んじてはならないと思う。
というのも、本作品にはいい加減さが感じられないからだ。真剣に笑いを追求している。
例えば上記の登場人物のキャスティング。これが案外とはまっている。
私には以下の方々のビジュアルが私の中のイメージとしっくり合った。呂布の城田優さん。趙雲の岩田剛典さん。張飛の高橋努さん。周瑜の賀来賢人さん。魯粛の半海一晃さん。

また、いい加減でない部分は他にもある。
例えばアクションシーン。おちゃらけた感じは受けない。ワイヤーアクションを使っているのは分かるが、学芸会と同じレベルのアクションとは違い、映画として成立している。
また、舞台セットについても、手を抜いている感じは受けなかった。
いい加減でないのは当然だ。なぜならキャラ設定を新解釈で笑うには、そのほかの部分がしっかりしていることが条件だからだ。
そうした部分がきちんと描かれていたからこそ、観客は本作品の新解釈に笑えるのだと思う。

あと、エンドロールに流れる福山雅治さんの「革命」もよかった。
歌詞の内容自体は英雄の群雄する当時を取り上げている。だが、革命というタイトル自体は、今までの三国志に縛られた私にとって本作の自由な解釈も許されてよい、という常識の革命と受け取った。

と、書いてきたが、そもそも本作品はこんな風にくだくだしく書く必要すらない。
笑いながら観て、観終わればきれいさっぱりして忘れたっていいのだ。誰も傷つけない作品であり、観終わっていやな気持にもならない。

コロナで暗鬱とした中だからこそ、こうした作品はうれしい。観られたことがありがたかった。
実際、鬱々とした起き抜けの気分はさっぱりと晴れ渡った。

‘2021/1/17 イオンシネマ多摩センター


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