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立花三将伝


2020年の夏に福岡へ出張した先のお客様が歴史に深い関心を持ち、立花宗茂を敬愛しておられる方だった。その方のお住まいも立花山城の近くだとか。伺った際に、歴史談義で大いに盛り上がってしまった。
私もせっかくのご縁なので、図書館で見かけた本書を手に取った。また福岡に来ることもあるだろうし。

だが、実は本書には立花宗茂はほぼ出てこない。プロローグとエピローグで立花家の主として間接的に触れられるぐらい。
立花宗茂の父である立花道雪は、本書の後半に重要なキャラクターとして登場する。だが、立花道雪も本書の中では本名である戸次鑑連の名前で描かれる。

立花家と言えば立花道雪と宗茂の親子が有名だ。たが、その二人は実の親子ではない。しかも、二人とも立花家の血筋を引いていない。
立花宗茂の実の親は岩屋城の戦いで知られた高橋紹運。立花道雪に請われて高橋家からの養子として迎えられたのが宗茂。そして、立花道雪のもともとの苗字は戸次。
立花家は、立花宗茂や立花道雪がその名を全国に知らしめる前に筑前で勢力を保っていた。だが、主家である大友家に二度にわたって反旗を翻したことで、結果として廃絶させられている。家名だけ存続させ、主人は戸次鑑連が大友家の命で就いた。立花家の人から見ると乗っ取られたのに等しい。

立花家とはそもそも大友家の家臣として長年奉公してきた。たが、その本拠地は筑前、つまり今の福岡にある。立花家の拠点である立花山城は博多と宗像の中間あたりに位置している。主家である大友家は豊後、つまり大分に本拠を構えており、筑前に盤石の基盤を築いていた訳ではない。
立花山城は、天然の良港である博多を見下ろす要衝にあり、良港を擁するこの辺りは、戦国時代の初期から、立花家、原田家、宗像家、秋月家などで小競り合いが続いていた。
さらにその周囲には龍造寺家や大内家が虎視眈々と狙っており、のちには毛利家や島津家にも狙われる。

立花家が道雪と宗茂によって全国的に名が知られる前の立花家は、不安定な領地を確保する小勢力に過ぎなかった。
そのような脆弱な立花家で奮闘する三人の将の物語。それこそが本書だ。
タイトルにも登場する三将とは、薦野弥十郎こと薦野増時と、米多比三左衛門こと米多比鎮久、そして藤木和泉の三名を指す。私は本書を読むまで、この三将のことは全く知らなかった。三将のうち先に挙げた二人はWikipediaにも項目として設けられている。が、もう一人の藤木和泉はWikipediaでは項目としてすら設けられていない。

Wikipediaで藤木和泉を検索しても、ヒットするのは上のWikipediaに登場する二人の記事のみ。
記事の中では、藤木和泉の名は、薦野増時と米多比鎮久を討伐するため、立花鑑載によって差し向けられた将として言及されている。
しかし、これ以外にあったはずの藤木和泉の事績や生涯の起伏にはWikipediaでは全く触れられていない。

頭ではわかっているつもりでもついつい忘れてしまうこと。それは戦国時代とは、有名な大名や軍師や武将だけの時代ではなかったことだ。庶民には庶民の暮らしがあり、悲喜こもごもの生活を繰り返していた。武将も同じ。巷間に伝えられるエピソードを持つ武将などほんの一部でしかない。ほとんどの武将は伝えるにふさわしいエピソードを持っていても、それが後世に伝わらぬままに戦場で死んでいく。私が知らないあまたの武将たちは、それぞれがそれぞれの縄張りを守るため、必死に戦っていた。彼らの逸話は語り継がれていないだけで、有名な武将たちに遜色のない、むしろそれ以上に勇壮で悲惨な武勇伝や挫折が無数にあったはずだ。

だが、後世の人たちがそれを知る術はない。私たちは藤木和泉が何をした人物かを知らない。ましてや、日々の暮らしでどのような悲しみや喜びを感じ、戦場ではどれほどの苦しみと昂りに炙られていたのかも知らない。

若いころから、米多比三左衛門と薦野弥十郎とともに立花家に忠節を貫いていた藤木和泉。だが、主君が大友家に反旗を翻したことによって家が二つに割れた。それによって固い友情を抱きながらも、三人は敵と味方に分かれ、その結果、生と死も分かれてしまった。米多比三左衛門と薦野弥十郎にとってかけがえのない友であり、名将の資質を存分に発揮していた藤木和泉。たが、若くして亡くなったため、名も残さぬままに戦国の渦の中に消えてしまった。後世の私たちに伝えられることもなく。

ここで登場する立花鑑載が、藤木和泉にとっての宿命だった。立花鑑載は大友家を二度にわたって裏切り、薦野増時と米多比鎮久の二名はその乱の中で親を殺されている。だが、下克上の世にあって藤木和泉は立花鑑載を主君として立てつづけ、忠誠を貫き通した。そして結局は立花家を後世に残すため、従容として死についた。
その覚悟を決めた姿はまさに本作のクライマックスといえる。

本書のプロローグは老年に差し掛かった米多比三左衛門が、関ヶ原の戦いで西軍に身を投じようとする直前にかつての友たちを懐かしむ。また、エピローグも隠居した米多比三左衛門が登場する。
そこに共通するのは時の流れだ。時の流れは斟酌せず、誰の上にも等しく影響を及ぼす。

著者は本書において、歴史に名を残さなかった者に光を当てようとする。歴史に名が残せるかどうかは、本人の能力や運もあるし、周りの協力があってこそだ。その人の実績を悪様に書かれても、本人には修正のしようがない。
それは今の私たちにも通じる。
今の私たちから数百年後の人類に私たちの日々の暮らしや実績を伝えられるだろうか。それはほぼ期待しない方がよい。だが、私たちは日々の生活を真剣に懸命に生きる。それが人生というものだから。

藤木和泉のように歴史に名を残さぬまま、優れた人物だった人は他にも無数にいるだろう。私たちは歴史小説を読むとき、そうした人のあり方にも心を向けたいものだ。

2020/10/12-2020/10/14


日本史の内幕


著者のお顔はここ数年、テレビでよくお見かけする。
テレビを見ない私でも見かけるくらいだから、結構よく出ているのだろう。
そこで著者は歴史の専門家として登場している。

著者の役割は、テレビの視聴者に対して歴史を解説することだろう。だが、ディスプレイの向こうの著者は、役割をこなすだけの存在にとどまらず、歴史が大好きな自分自身を存分に楽しんでいるように見える。著者自身が少年のように目を輝かせ、歴史の面白さを夢中で話す姿には親しみすら覚える。

本書は、筋金入りの歴史愛好家であり、歴史をなりわいにしている著者による歴史の面白さをエッセイのように語る一冊だ。

歴史のうんちく本と言えば、歴史上の謎や、思わぬ歴史のつながりを解きほぐす本が多い。それらの本に比べると、本書は該博な著者の知識を反映してか、独特の視点が目立つ。

著者はフィールドプレーヤーなのだろう。書斎の中から歴史を語るのではなく、街に出て歴史を語る。古本屋からの出物の連絡に嬉々として買いに出たり、街角の古本屋で見かけた古文書に胸をときめかせたり、旧家からの鑑定依頼に歴史のロマンを感じたり。
古文書が読める著者に対する依頼は多く、それが時間の積み重ねによって埋もれた史実に新たな光を当てる。

著者は、あまり専門色を打ち出していないように思える。例えば古代史、平安時代、戦国時代、江戸時代など、多くの歴史学者は専門とする時代を持っている。だが、著者からはあまりそのような印象を受けない。
きっと著者はあらゆる時代に対して関心を持っているのだろう。持ちすぎるあり、専門分野を絞れないのか、あえて絞らない姿勢を貫いているように思える。

私も実はその点にとても共感を覚える。私も何かに嗜好を絞るのは好きではない。
歴史だけでなく、あらゆることに興味を持ってしまう私。であるが故に、私は研究者に適していない。二人の祖父がともに学者であるにもかかわらず。
本書から感じる著者の姿勢は、分野を絞ることの苦手な私と同じような匂いを感じる。

そのため、一般の読者は本書から散漫な印象を受けるかもしれない。
もちろん、それだと書物として商売になりにくい。そのため、本書もある程度は章立てにしてある。第二章は「家康の出世街道」として徳川家康の事績に関することが書かれている。第三章では「戦国女性の素顔」と題し、井伊直虎やその他の著名な戦国時代に生きた女性たちを取り上げている。第四章では「この国を支える文化の話」であり、第五章は「幕末維新の裏側」と題されている。

このように、各章にはある程度まとまったテーマが集められている。
だが、本書の全体を見ると、取り上げられている時代こそ戦国時代以降が中心とはいえ、テーマはばらけており、それが散漫な印象となっている。おそらく著者や編集者はこれでもなんとかギリギリに収めたのだろう。本来の著者の興味範囲はもっと広いはずだ。

そうなると本書の意図はどこにあるのだろうか。
まず言えるのは、なるべく広い範囲、そして多様なテーマに即した歴史の話題を取り上げることで、歴史の裏側の面白さや奥深さを紹介することにあるはずだ。つまり、著者がテレビ番組に出ている目的と本書の編集方針はほぼ一致している。

本書を読んでもう一点気づいたのは、著者のアンテナの感度だ。
街の古書店で見かけた資料から即座にその価値を見いだし、自らの興味と研究テーマにつなげる。それには、古文書を読む能力が欠かせない。
一般の人々は古文書を眺めてもそこに何が書かれているか分からず、その価値を見逃してしまう。だが、著者はそこに書かれた内容と該博な歴史上の知識を結び付け、その文書に記された内容の真贋を見通す。
著者は若い頃から古文書に興味を持ち、努力の末に古文書を読む能力を身に付けたそうだ。そのことがまえがきに書かれている。

私も歴史は好きだ。だが、私は古文書を読めない。著者のような知識もない。そのため、著者と同じものを見たとしても、見逃していることは多いはずだ。
この古文書を読み解く能力。これは歴史家としてはおそらく必須の能力であろう。また、そこが学者と市井の歴史好きの違いなのだろう。

これは私がいる情報処理業界に例えると、ソースコードが読めれば大体その内容がわかることにも等しい。また、データベースの定義ファイルを読めば、データベースが何の情報やプロセスに役立つのか、大体の推測がつくことにも通じる。それが私の仕事上で身に付けた能力である。
著者の場合は古文書がそれにあたる。古文書を読めるかどうかが、趣味と仕事を大きく分ける分岐点になっている気がする。

上に挙げた本書に書かれているメッセージとは、
・歴史の奥深さや面白さを紹介すること。
・古文書を読むことで歴史が一層面白くなること。
その他にもう一つ大きな意図がある。
それは、単なる趣味と仕事として歴史を取り扱う境目だ。その境目こそ、古文書を読めるかどうか、ではないだろうか。

趣味で歴史を取り扱うのはもちろん結構なことだ。とてもロマンがあるし面白い。

一方、仕事として歴史を取り扱う場合は、必ず原典に当たらなければならない。原典とはすなわち古文書を読む事である。古文書を読まずに二次資料から歴史を解釈し、歴史を語ることの危うさ。まえがきでも著者はそのことをほのめかしている。

そう考えると、一見親しみやすく、興味をそそるように描かれている本書には、著者の警句がちりばめられていることに気づく。
私もここ数年、できることなら古文書を読めるようになりたいと思っている。だが、なかなか仕事が忙しく踏み切れない。
引退する日が来たら、古文書の読み方を学び、単なる趣味の段階から、もう一段階上に進んでみたいと思う。

2020/10/10-2020/10/10


真田三代 下


下巻では第一次上田合戦から始まる。
上田の城下町の全てを戦場と化し、徳川軍を誘い込んで一網打尽にする。それが昌幸の立てた戦略だ。
それには領民の協力が欠かせない。なぜ領民が表裏比興の者と呼ばれた昌幸の命に諾々と従ったのか。

「昌幸にはひとつの信条があった。
「戦いにおいては詐略を用い、非情の決断もする。だが、おのが領民と交わした約束は、信義をもってこれを守り、情けをかけて味方につけねばならぬ」」(86-87ページ)

周到に準備しておいた昌幸の策が功を奏し、徳川軍を撃退した真田軍。諸国の武将に真田家の武名がとどろく。

だが、昌幸の智謀がすごみを増す一方で、次男の幸村には父とは違う人格が生まれ始めていた。それは義の道。
幸村は、人質として過ごす上杉家の家風である義の心に感化される。
軍神と称えられた先代の不識庵謙信はすでに世にない。だが、主の景勝とその股肱の臣である直江兼続が差配する上杉家は、先代の義に篤い気風を受け継いでいた。
そこで幸村は策に走る父への疑問を抱く。生き残ることを優先すべきなのか、はたまた義を貫くべきか。

「おのれの利を追うことのみに汲々とするのではなく、さらに大局に立ち、おおやけのため、民のため、弱き者のために行動するのが、
「わしの考える義だ」
と、兼続は言った。」(128ページ)

これは私も常々感じている。利を追ってゆくだけでよいのなら、どれだけ楽か。金を稼ぐ苦労はあっても、それだけにまい進すればよいのだから。
従業員の人件費を削り、精一杯働かせる。顧客には高めの金額を提示し、その差額を利潤として懐に貯めこむ。
それができない私だから、飛躍も出来ないでいる。自分に恥じないような経営をしようと思うと、従業員を使い捨てにするマネはできない。見合った金額を支払い、顧客には高い金額を提示できない。これだと飛躍ができない。
私の根本の経営能力に問題があることもそうだが、こうした理念は卓越した努力と才能を伸ばした結果が伴わなければ倒れてしまう。悩んだことも数知れずだ。

ビジネスマンの愛読書は歴史小説だという俗説がある。歴史小説から教訓を読み取り、それをビジネスに生かそうとする人が多いからだろう。
それが本当かどうかはわからない。だが、私にとっては歴史を取り扱った小説から得られる教訓は多い。
本書を読んでいると、未熟な自分の目指すべき道の遠さとやるべきことの多さにめまいがする。

義を貫きたい幸村の志。それに頓着せず、昌幸は上杉家に人質としている幸村に信幸を接触させる。そして信幸を通し、上杉家を出て豊臣家への人質として大坂へ赴くように命ずる。
義のなんたるかを教えてくれた人物を不本意ながら裏切る羽目に陥った幸村の苦悩。

昌幸の視点には、天下の趨勢が豊臣に傾いていることが見えたのだろう。幸村を豊臣家の人質として送り込むこともまた、真田家を生き延びさせるための一手だった。昌幸の読みは当たり、秀吉は着々と天下を統一していく。
その過程に真田の名胡桃城をめぐる攻防があったことは言うまでもない。

ところが豊太閤の天下も秀吉の死によって瓦解を始める。それから関ヶ原の戦いに至るまで、石田三成と徳川家康、さらには上杉や諸武将の思惑が入り乱れる。
真田の場合、兄信幸が徳川四天王の本田忠勝の娘小松姫を娶っていた。幸村は石田三成についた大谷吉継を義父としている。
二人の境遇が真田家を大きく二つに割った犬伏の別れの伏線となる。

「澄んだ秋の夜空に、星が散っている。そのなかで、ひときわあざやかに輝く六つの星のつらなりがあった。
真田家の六連銭の旗の由来ともなった、
━━すばる
である。
「わしは若いころより、つねに心に誓ってきた。あのすばるのごとく、あまたの星のなかでも群れのなかに埋没せぬ、凛然たる光を放つ存在でありたいとな」
星を見つめながら昌幸は言った。
「徳川内府につけば、わしは有象無象の星の群れのひとつに過ぎなくなる。だが、男としてこの世に生を受けた以上、一度は天上のすばるを目指さねばならぬ。いまこそがその時だ」」(344-345ページ)

まさに私もこの志を持って独立した。しびれる場面である。

昌幸は長男の信幸とたもとを分かち、上田城の戦いでは策略を駆使して徳川秀忠の軍を足止めさせる。その結果、関ヶ原の本戦で秀忠軍は遅参した。

だが、西軍は関ヶ原の本戦で敗れた。局所の戦いでは勝ちをおさめたが、昌幸と幸村の二人は高野山へ流罪の身となった。
以来十数年。昌幸はついに九度山で想いを遺しながら亡くなった。そして、徳川家康は、天下取りの最後の仕上げにとりかかる。残すのは豊臣家の滅亡。
豊臣方も対抗するため、大坂に浪人を集める。幸村も大坂からの誘いを受け、最後の死に花を咲かせるために九度山から脱出する。

「「人の世は、思うようにならぬことのほうが多い。まして、わが真田家は周囲を大勢力に囲まれ、つねにその狭間で翻弄されてきた。だが、宿命を嘆き、呪っているだけでは、何も生まれませぬ。苦しい状況のなかから、泥水を嘗めてでもあらんかぎりの知恵を使い、一筋の道を切り拓いてゆく。それがしのなかにも、そうやって生きてきた祖父幸隆や父昌幸と同じ血が流れているのでござろう」」(465-466ページ)

ここからはまさに幸村の一世一代の花道だ。戦国時代、いや、日本史上でも稀に見る華々しい死にざま。真田日本一の兵と徳川方から称賛された戦い。

「叔父上は、数ある信濃の小土豪のなかから、真田家がここまで生き残ってこれたのはなにゆえと思われます。それは、知恵を働かせて巧みに立ちまわったからだけではない。小なりとはいえ、独立した一族の誇りを失わず、ときに身の丈よりはるかに大きな敵にも、背筋を伸ばして堂々と渡り合う気概を持つ。それでこそ、わが一族は、亡き太閤殿下、大御所にも一目置かれる存在になったのではございますまいか」
「目先の餌に釣られ、世の理不尽にものを言う気概を捨て去っては、一族を興した祖父様や、表裏比興と言われながらも、おのが筋をつらぬいた父上に申しわけが立ちませぬ」(497-498ページ)

幸隆から昌幸、そして幸村と、戦国の過酷な現実を生き抜き、しかも自らを貫き通した。さらには、大名家の家名まで後世に伝えることに成功した。
男としてこれ以上の事があろうか。
真田家の三代の生きざまを読んでいると、何やら胸の内にたぎるものが湧いてくる。私もちょうど幸村が討死した年齢に差し掛かった。
あとどれぐらいの花が咲かせられるだろうか。

本書はビジネスマンに限らず、まだまだ枯れるにははやい中年に読んでほしい。

2020/10/2-2020/10/2


真田三代 上


大河ドラマ『真田丸』は私にとってワクワクする作品だった。結局、第十数話目以降は挫折し、最後まで通して見ることができなかった。だが、機会があれば、もう一度見直してみたいと思っている。

真田の物語の何に惹かれるのか。それは小さな勢力が大きな勢力の間で伍して生き抜く姿にある。その必死さは、私自身の境遇に似ている。
大企業に属さず、個人の力でどこまで経営が続けられるのか。それは私が日々実践している経営のスリルでもある。醍醐味とでもいおうか。
どうすれば大企業に呑み込まれず、自分の力で生きていけるのか。私はそのヒントが戦国時代の真田家にあると思っている。戦国時代を駆け抜けるにあたっての真田家の労苦。私はそこに共感している。

武田家や村上家。上杉家と北条家。織田家に徳川家。真田の郷は、そうそうたる戦国の群雄たちがしのぎを削る狭間の地にあった。ささやかな勢力。周りの国々の間で少しでも均衡が崩れれば、即座に自国に影響が生じる。その時、時代に飲み込まれてしまうのか、生き延びられるのか。それは当主の判断にかかっている。生き馬の目を抜くと称された戦国の日々の過酷さは現代とは比べ物にならない。

真田幸隆、昌幸、そして幸村こと信繁。本書はこの真田家の三代を担った男たちの姿を描く。その男たちに共通するのは、大きな組織に属さず、小さくても独立を貫こうとする誇りだ。

「幸隆は生きるためには詐術も使うが、その身のうちには熱い血潮が滔々と流れている。冷徹なようでいながら、どこまでも人間臭く、人間臭いようでいながら、いざとなれば情を切り捨てる冷たさを持っている。その落差の大きい二面性こそが幸隆の魅力であり、最大の武器でもあった。」(121ページ)

急激に力を伸ばしてきた武田晴信は、信濃を手中におさめんとしていた。それに対し、信濃を勢力下に収める村上義清は武田家の侵攻に備える。武田家と村上家の勢力図が刻々と変化する中、真田の郷と一族を守るためにあらん限りの知恵を振り絞る幸隆。真田が後世に伝わったのもこの人物のおかげだろう。
その時々の時流を読みながら、武田家と村上家の間を往復し、勢力図に応じて臣従する相手を変える。だが、心底から服従したわけではない。あくまでも幸隆の行動原理は真田一門のため。そのためなら上辺で協力することも厭わない。冷徹な計算を働かせながら、より大きな勢力に恩を売る。

本書が面白いのは、祢津のノノウの歩き巫女だ。巫女として諸国を巡るノノウは、真田が持つ情報源だ。この時代、各大名は乱破、素破、草の者と呼ばれた忍びの者を活用して情報を収集していた。真田の場合、諸国を行脚して回るノノウを自国に抱えていたことが有利だった。ノノウたちの持ち帰る情報は、忍びから得られる情報とは質が違う。
昔も今も情報を制するものが時代を制する。むしろ、情報伝達の量が貧弱だった戦国期だからこそ、情報の重みが今とは比べ物にならないほど大きかったはずだ。
数年前に友人たちと祢津のノノウの郷を訪れた事がある。ひなびた集落に無縁仏が立ち並び、質素な雰囲気を今に残していた。だが、かつてこの地は情報の集積地だったのだろう。どことなく巨大な渦を残滓を辺りに感じた。

幸隆は、真田家の将来を思い、信綱、昌輝、昌幸を武田家の中枢に送り込む。武田晴信の薫陶を受けさせる事が、真田家のこれからにつながると信じて。
幸隆はさらに昌幸の子どもにも目を配ることを忘れない。

「われらのごとき弱小の一族は、人の欲望のありかを冷静に見定め、それを利用して人を動かし、戦いに勝つしか、生き残る術はない。」(353ページ)
これは幸隆から源三郎と源次郎に伝えた言葉だ。

だが、戦国の世を生き抜くには智謀を尽くすだけではどうにもならない。戦国最強と言われた武田家も、晴信をあらため信玄がいよいよ京に攻め上ろうとする時に信玄の病によって野望がくじかれてしまう。
後を継いだ勝頼は、偉大な父を超えようと焦るあまり、かえって武田家を滅亡へと追いやってしまう。

長篠合戦では三兄弟が事前に得ていた情報によって不利な状況が分かっていながら、面目にこだわって戦いを強行した勝頼。その戦いの中、信綱と昌輝は銃弾に命を散らす。
昌幸は父によって兄二人とは違う役割を与えられていた。それによって反発した昌幸は、腐らずに智謀と知見を磨く。
二人の兄がいなくなったことで真田家を継いだ昌幸は、より一層、冷徹な智謀を突き詰めようとする。父をもしのぐほどに。

だが、昌幸は苦労を重ねただけあり、単なる冷酷な知恵だけの人間ではない。
「たしかに信義の二文字は、上辺だけのきれいごとに過ぎぬ。人は信義ではなく、利欲によって動くというのがこの世の真実だ。しかし、目先の小さな利に踊らされ、右往左往していては、われらは心根の卑しい弱小勢力とあなどられるだけだ。ときに小利を捨て、真田ここにありと気骨をしめさねばならぬときもある」(500ページ)

これは、本能寺の変によって織田信長が死んだ後、上州で戦っていた滝川一益が孤立した際の昌幸の言葉だ。この言葉に沿って正幸は滝川一益を助ける。

単に冷徹なだけでは人は動かない。ここぞと言う時に情を発揮してこそ人は動く。そして世に何がしかの爪痕を残すことができる。

人の心をつかみ、利用するだけでなく後々のために生かす。その抑揚と硬軟を取り混ぜた考えこそ、まさに真田昌幸の真骨頂だ。
表裏比興の者と呼ばれた人物だが、私は、その言葉こそが戦国を必死に生き抜こうとした昌幸への誉め言葉だと思う。やるべきことをやり尽くした昌幸だからこそその称号を得たのだと評価したい。
情に流されない強さと冷静さ。周りの評価に動かされない確とした自ら。どれもあやかりたいものだ。

2020/10/1-2020/10/2


信虎


友人に誘われて観劇した本作。
正直に言うと武田信虎の生涯のどこを描くのか、上映が始まる前は全く見当が付かなかった。そのため、私の中で期待度は薄かった。
ところが本作はなかなか見どころがあり面白かった。

本作が描いた信虎の生涯。私はてっきり、嫡子の晴信(信玄)によって甲斐から追放される場面を中心に描くのかと思っていた。
ところが、本作の中に追放シーンは皆無。一切描かれないし、回想で取り上げられる機会すら数度しかない。

そもそも、本作の舞台となるのは1573年(元亀3年)から1574年(天正2年)の二年間を中心にしている。信虎がなくなったのは1574年(天正2年)。つまり、本書が主に描くのは信虎の晩年の二年間のみだ。信虎が甲斐を追放されてから約三十年後の話だ。
1573年といえば武田軍が三方ヶ原の戦いで徳川軍を蹴散らし年だ。その直後、武田軍は京への進軍を止め、甲斐に引き返す途中で信玄は死去した。
その時、足利十五代将軍の義昭の元にいた信虎。将軍家の権威を軽視する織田信長の専横に業を煮やした義昭の元で、信長包囲網の構築に動いていた。

武田軍が引き返した理由が信玄の危篤にあると知った信虎は、娘のお直を伴って甲斐に向かう。
信玄が兵を引いたことで信長包囲網の一角が破れるだけではなく、武田家の衰亡にも関わると案じた信虎。だが、信玄は死去し、その後の情勢は次々と武田家にとって不利になってゆく。
しかも、当主を継いだ勝頼は好戦的であり、信玄の遺言が忠実に守られている気配もない。
信虎の危機感は増す一方。30年以上も甲斐を離れていた信虎は、勝頼の周りを固める重臣たちの顔も知らず、進言が聞き入れられる余地はない。
失望のあまり、勝頼や重臣の前で自らが再び甲斐の当主になると宣言したものの、誰の賛成も得られない。
そこで信虎は次の手を打つ。

本作が面白いのは、信虎が武田家滅亡を念頭に置いて動いていることだ。
京や堺を抑えた信長の勢力はますます強大になり、武田家では防ぎきれない。血気にはやる勝頼とは違い、諸国をめぐり、経験を積んできた信虎には世の中の流れが見える。
武田家は遠からず織田や徳川に蹂躙されるだろう。ただ、武田家の名跡だけはなんとしても残さねば。その思いが信虎を動かす。

本作の後半は、武田家を存続させるための信虎の手管が描かれる。武田家が織田・徳川軍に負けた後、武田家を残すにはどうすればよいのか。

本作は時代考証も優れていたと思う。
本作において武田家考証を担当した平山優氏の著作は何冊か読んでいる。本作は、私があまり知らなかった信虎の人物や空白の年月を描きながら、平山氏の史観に沿っていた。そのため、みていて私は違和感を覚えなかった。
服装や道具なども、作り物であることを感じさせなかった。本物を使っている質感。それが本作にある種の品格をもたらしていたように思う。時代考証全体を担当した宮下玄覇氏と平山氏の力は大きいと思う。
本作は冒頭にもクレジットが表示される通り、「武田信玄公生誕500年記念映画」であり、信玄公ゆかりの地からさまざまな資料や道具が借りられたようだ。それもあって、本作の時代考証はなるべく事実に沿っていたようだ。

いくら時代考証がよくても、俳優たちの演技が時代を演じていなければ、作品にならない。本作は俳優陣の演技も素晴らしかった。
本作に登場する人物の数は多い。だが、たとえわずかな場面でしか登場しない端役であっても、俳優さんはその瞬間に存在感を発していた。
例えば武田信玄/武田信簾の二役をこなした永島敏行さん、織田信長役の渡辺裕之さん、上杉謙信にふんした榎木孝明さん。それぞれが主役を張れる俳優であり、わずかなシーンで存在感を出せるところはさすがだった。

また本作のテーマは、信虎の経験の深みと対比して武にはやる勝頼の若さを打ち出している。その勝頼を演じていたのが荒井敦史さん。初めてお見かけした俳優さんだが、私が抱いていた勝頼公のイメージに合っていたと思う。
その勝頼の側近であり、武田家滅亡の戦犯として悪評の高い二人、跡部勝資と長坂釣閑斎の描かれ方も絶妙だったと思う。安藤一夫さんと堀内正美さんの演技は、老獪で陰険な感じが真に迫っていた。

あと忘れてはならないのが、美濃の岩村城で信虎一行を逃すために一人で槍を受けて絶命した土屋伝助すなわち隆大介さんだ。見終わって知ったが本作が遺作だったそうだ。見事な死にざまだった。
また、本作は切腹の所作も見事だった。見事な殉死を見せてくれたのは清水式部丞役の伊藤洋三郎さん。
最後に、本作にコミカルな味を加えていた、愛猿の勿来も忘れてはならない。

もっとも忘れてはならないのは、やはり主役を張った寺田農さんの熱演だ。熱演だが暑苦しくはなかった。むしろ老境にはいった信虎の経験や円熟を醸しだしながらも、甲斐の国主として君臨したかつてのすごみを発していた。さすがだ。
俳優の皆さんはとても素晴らしかったが、本作は寺田農さんの信虎が中心にあっての作品だ。見事というほかはない。

本作は、私個人にとっても目ヂカラの効用を思い出させてくれた。武田家を後世に残そうとする信虎は、信仰している妙見菩薩の真言を唱えながら、自分の術を掛けたい相手の顔をじっと見る。
その設定は、本作に伝奇的な色合いを混じらせてしまったかもしれない。だが、相手の目を見つめることは、何かを頼む際に効果を発揮する。相手の目を見ることは当然のことだが、その際に目に力を籠める。すると不思議なことに相手に思いが伝わる。
私は、経営者としてその効用を行使することを怠っていたように思う。これは早速実践したいと思った。

‘2021/11/23 TOHOシネマズ日本橋


女信長


実は著者の作品を読むのは本書が初めてだ。今までも直木賞作家としての著者の高名は知っていたけれど。
著者の作品は西洋史をベースにした作品が多い印象を持っていて、なんとなく食指が動かなかったのかもしれない。

だが、本書はタイトルが興味深い。手に取ってみたところ、とても面白かった。

織田信長といえば、日本史を彩ったあまたの英雄の中でもだれもが知る人物だ。戦国大名は数多くいる。その中で五人挙げよといわれた際に、織田信長を外す人はあまり多くいないはずだ。
戦国時代を終わらせるのに、織田信長が果たした役割とはそれほど偉大なのである。

以下に織田信長の略歴を私なりにつづってみた。
尾張のおおうつけと呼ばれた若年の頃、傅役である平手正秀の諌死によって行いを改めた挿話。
弟を殺すなどの苦戦を重ね、織田家と尾張を統一したと思ったのもつかの間、今川義元の侵攻が迫る。勢力の差から織田家など鎧袖一触で滅ぼされるはずだった。
ところが桶狭間の戦いで見事に今川義元を討ち取る功を挙げ、さらに美濃を攻め取り、岐阜城に本拠を移す。そこで天下布武を印判に採用し、楽市楽座の策によって岐阜を戦国時代でも屈指の城下町に育てる。
そこから足利義昭を奉じて京に足掛かりを築くと、三好家や松永家を京から駆逐する。さらには姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を敗走させ、基盤を盤石にする。
比叡山を攻めて灰塵と化し、石山本願寺も退去させ、長篠の戦で武田軍を打ち破り、安土城を本拠に成し遂げた織田政権の樹立を目前としたまさにその時、明智光秀の謀反によって業火の中に消えた、とされている。いわゆる本能寺の変だ。

その衣鉢を継いだ羽柴秀吉が天下統一を成し遂げ、さらにその事業は徳川家康によって整備された。江戸幕府による260年の平安な時代は、織田信長の偉業を無視しては語れないだろう。
織田が搗き、羽柴がこねし天下餅 座りしままに喰らう徳川
この狂歌は徳川幕府による天下取りが実現した際に作られたという。
当時の人にも徳川政権の実現は、織田信長による貢献が多大だったことを知っていたのだろう。

そうした織田信長の覇業の過程には、独創的な発想や、疑問とされる出来事が多いことも知られている。

独創的な発想として挙げられるのは、たとえば楽市楽座だ。他にも西洋の軍政を取り入れたことや、種子島と呼ばれた鉄砲の大規模な導入もそう。
疑問とされる出来事として挙げられるのは、たとえば正妻である濃姫が急に史実から消え去り、没年すら不明であること。また、本能寺の変によって燃え盛った本能寺の焼け跡から、織田信長らしき死骸が見つからなかったことも挙げられる。
そもそも、なぜ明智光秀が本能寺の織田信長を襲ったのか。その根本的な理由についても諸説が乱立しており、いまだに定説がないままなのだ。

そうした一連の謎をきれいに解釈して見せ、まったく新しい歴史を読者に提示して見せる。それが本書だ。ただ、織田信長が女だったという一点で整合性が取れてしまう。これぞ小説の面白さ。

もちろん、織田信長が女だったことを史実として認めることは難しいだろう。だが、歴史小説とは史実を基にした壮大なロマンだ。著者によってどのような解釈があったっていい。
源義経は衣川から北上し、大陸にわたって成吉思汗にもなりうる。徳川家康は関ケ原で戦死し、それ以後は影武者が務めることもありうる。豊臣秀頼は大坂夏の陣で死なず、ひそかに薩摩で余生を送ったってよい。西郷隆盛は城山で切腹せず、大陸にわたって浪人として活躍するのも面白い。
その中にはひょっとしたら真実では、と思わせる楽しさがある。それこそが歴史のロマンである。小説の創作をそのまま史実として吹聴するのはいかがなものかと思うが、ロマンまでを否定するのは興が覚める。

本書は、織田信長が女性だったという大胆極まりない設定だけで、面白い歴史小説として成り立たせている。
冒頭で、娘を嫁がせた尾張の大うつけを見極めてやろうとした斉藤道三に女であることを見破られる。そして処女を散らされる織田信長こと御長。この冒頭からして既にぶっ飛んでいる。

だが、そこで斉藤道三の心中を丁寧に描写するのがいい。その描かれた心中がとても奮っている。
群雄たちがせいぜい、ただ領地を切り取るだけの割拠の世。これを打破するには、まったく違う発想が必要。そうと見切った織田信秀が、男の発想では生まれない可能性を女である御長に託したこと。その意思を斉藤道三もまた認め、御長には自らが亡きあと美濃を攻め取るよう言い残したこと。
まさにここが本書の最大の肝だと思う。
冒頭で信長の発想が女の思考から湧き出たことを読者に示せれば、あとは歴史の節目節目で信長が成した事績を女の発想として結び付ければよい。

そして、信長について伝えられた史実や伝聞を信長が女性だったと仮定して解釈すると、不思議と納得できてしまうのだ。
たとえば信長の妹のお市の方は戦国一の美女として名高く、兄である信長は美形だったとされている。
また、信長は声がかん高かったという説がある。その勘気に触れると大変であり、部下はつねに戦々恐々としていたという。そして先にも書いたような当時の常識を超えた政策や行いの数々。
それらのどれもが、信長が女という解釈を可能にしている。

本稿ではこれから読まれる方の興を殺がないように、粗筋については書かない。

本書は、信長が女だったらという解釈だけで楽しめる。それはまさに独特であり、説得力もある。本当に織田信長は女性だったのではないか、と思いたくなってしまう。本書はおすすめだ。

‘2020/02/27-2020/02/29


鞆ノ津茶会記


本書は著者の最晩年の作品だ。

著者は序でこのように述べている。
「私は茶の湯の会のことは、現在の茶会のことも昔の茶会のことも全然智識が無い。茶会の作法や規則なども全く知らないが、自分の独り合点で鞆ノ津の城内や安国寺の茶席で茶の湯の会が催される話を仮想した。」(六ページ)

著者は福山の出身らしい。私はそのことを知らなかった。
福山から鞆ノ津まではそれほど遠くない。本書を読む一年前、kintone Caféで福山に行った際、鞆の街並みを初めて訪れてみた。安国寺には行けなかったが、本書にも登場する鞆城跡には訪れた。城跡からみた鞆ノ浦の眺望や、瀬戸内の凪いだ海の景色を堪能した。

そこで何度も行われた茶会の様子と、交わされた会話を連ねてゆくことで、著者は戦国時代の激動の世相を客観的に描いている。
本書はまず、天正16年3月25日のお茶会の様子から始まる。場所は足利義昭の茶屋だ。一度は将軍の座に就いた足利義昭は、その後ろ盾であるはずの織田信長によって追放され、当時は鞆ノ津にいたことが知られている。

そのお茶会では戦国の世に生きる人々がさまざまな噂話を語る。語られるのは、まず九州征伐。
当時、鞆ノ津は毛利家の支配下にあった。毛利家の重鎮である小早川隆景は島津軍を攻めるため九州へと従軍し、留守にしている。

そうした戦国の世の現実をよそに茶会に集う人々。ある人は引退し、ある人は悠々自適の暮らしを営んでいる。そして、茶会の中で騒然とした世間の噂話を交わし合う。

当時にあっては、こうした情報交換こそが激動の世の中を生き抜くために欠かせなかったのだろう。
本書は、11年近くの時間を描く。鞆を舞台にしたこの物語の中で登場人物の増減や異動はあるが、おおかたの顔ぶれは似通っている。

おそらく毛利家にとって最大の試練は、羽柴秀吉軍が備中高松城を包囲した時だろう。
だが、それは本能寺の変によって変わる。城主の清水宗春の切腹を条件として、羽柴軍は明智軍と雌雄を決するために東へと引き返していった。
その試練を超えたからこそ、このようにお茶会も楽しめる。

本書はまずそうした当時の毛利家の置かれた状況を思い起こしながら読むとよい。

毛利家にとって最大の試練を乗り切った後、つかの間の平安が続く。
島津攻めが終わった後は、小田原攻め。日本を西に東にと軍勢は動く。だが、荒波の立つ世相とは逆に鞆ノ津は凪いだように穏やか。人々は茶会を楽しみ、そこで世間の噂話に花を咲かせる。
その客観的な視点こそが本書の特徴だ。

小田原攻めの結果、太閤秀吉によって諸国は平定され、日本は統一された。
ところが、鞆ノ津は運よく戦火から逃れられていた。そのため、茶会で交わされる噂話には緊迫感が欠けている。あくまでも茶の湯の場の弛緩した話として、平穏に噂話は消費されてゆく。
世の中の激動と反するような鞆ノ津の状況がうまく表現されている。

だが、秀吉の野心は日本を飛び出す。朝鮮半島の向こう、明国へと。それによって、鞆ノ津を治める小早川隆景は渡海することになった。
鞆ノ津も世間の影響からは全く無関係ではない。茶会をする人々は、そうした世の中の動きを噂話とし、茶会の興に添える。

この時期、千利休が秀吉によって切腹させられたことはよく知られている。
茶会に集う人々にもそのような噂が上方より流れてきた。皆で切腹に至る原因を推測し合う。

本書で語られる原因は、千利休の切腹は朝鮮攻めを太閤秀吉に諫めたことで怒りを買った、というものだ。この説は私もあまり聞いた記憶が無く新鮮だった。
だが、確かにそういう解釈もあるだろう。当時の人々がそうした推測をさえずっていた様子が想像できる。
茶の湯を広めた千利休の話題を茶の湯の場で語らせるあたり、著者の想像力が感じられる。

人々は太閤秀吉も耄碌した、などとくさしつつ、一方で朝鮮の地で繰り広げられているはずの戦の戦局を占う。
一進一退の攻防がさまざまな手段で伝えられ、日本でも朝鮮での戦いに無関心でなかったことが窺える。

やがて文禄・慶長の役は太閤秀吉の死によって撤収される。その際の騒然とした状況なども本書は語る。人々は続いての権力者が誰か、ということに話題の関心を移してゆく。
庶民というか中央政局から一歩退いた人のたくましさが感じられる。

そこでちょうど、度重なる戦役から戻ってきたのが安国寺恵瓊だ。外交僧であり、大名と同等の地位を得ていたとされる安国寺恵瓊。この人物が茶会に参加することになり、本書の中でも茶会の中に度々噂に上がっていた長老が、日本の歴史の節目節目に登場していたことを読者は知る。

太閤秀吉が亡き後の実権は徳川家康に移りゆく。家康に対抗する石田三成との反目と、それぞれの思惑を抱えた諸大名の動きが茶の湯の場での自由な噂話となって語られてゆく。

本書は鞆ノ津を舞台としている。おそらく鞆ノ津以外にも全国のあちこちで茶会が開かれ、それぞれで談論がなされ、謀議がたくらまれていったことだろう。
茶の湯の意味が本書を通して浮かび上がってくるようだ。

本書は関ヶ原の戦いの直前までを茶の湯の参加者に語らせ、そして唐突に終わりを告げる。
その終わり方は唐突だが、実は関ケ原の戦いの後に斬首された安国寺恵瓊の最期を暗示しているともとれる。
知っての通り、関ヶ原の戦いでの毛利軍は、ひそかに家康に内通していた吉川広家によって南宮山の陣にくぎ付けにされていたからだ。しかも戦後処理の際、毛利家は安国寺恵瓊を生贄に仕立てるかのように引き渡した。そのおかげか、西軍の総大将という役割でありながら毛利家の取りつぶしを逃れた。

そうした長老の哀切な運命を暗示しつつ、本書は終わる。それが読者に余韻を残す。

本書の解説で加藤典洋氏が詳細に語っている通り、本書は著者の最晩年の作である。だが、戦国の世を茶の湯の会という客観的な手法で描いた傑作といえる。
また鞆ノ津に行きたいと思う。

‘2020/02/09-2020/02/12


伊達政宗 謎解き散歩


続けて、伊達政宗を扱った書籍を読む。

本書は、磐越西線の車中で読んだ。ちょうど摺上原の戦いの舞台を車窓から見つつ、雄大な磐梯山の麓を駆ける武者たちを想像しながら。

伊達政宗の生涯を眺めると、大きく二つの時期に分かれていることに気づく。
前半は南東北の覇者となるまでの時期。そして、後半は天下取りを虎視眈々と画策しながら、仙台藩主として内政に専念した時期。
本書はそれに合わせ、前者を第1章「戦国武将政宗編」とし、後者を第2章「近世大名政宗編」としている。

本書が、伊達政宗の生涯を彩ったさまざまの出来事をQandAの形で紹介している。QandAで問いと答えを用意しながら、同時に伊達政宗の魅力を描いている。
本書はまた、カラー写真がふんだんに用いられている。それが功を奏しており、とても読みやすい。また、QandAの形式になっていることで、読者はテーマと内容と結論が明確に理解できる。

読みやすい構成になっている本書だが、本書は「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」に比べると学術的に詳しく踏み込んでいる印象を受けた。本書の中には書状が引用され、古図面が載っている。それらは本書に学術の香りを漂わせる。だが、難しいと思われかねない内容もあえて載せていることが本書の特徴だ。そうした配慮には、著者が元仙台市博物館館長という背景もあるはずだ。
また、本書には著者の個人的な意見や思いや推論はあまり登場しない。「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」には、伊達政宗は天下への野心をどれだけ持っていたかという著者の推論が載っていた。それに比べると、本書の編集方針はより明確だ。

第3章「趣味・教養・その他編」は、戦国時代でも有数の傾奇者だったとされる伊達政宗の文化的な側面に焦点を当てている。
その教養は、幼い時期に師として薫陶を受けた虎哉宗乙からの教えの影響が大きい。だが、戦国の殺伐とした日々の合間を縫って伊達政宗自身が精進した結果でもあると思う。
伊達政宗がそのように自己研鑽を欠かさなかったのも、みちのおく(陸奥)と呼ばれた地に脈々と受け継がれた伊達家の歴史が積み上げた文化や環境の影響があったに違いない。

文武に励んだからこそ、後世まで語り継がれる武将となったこと。
培った素養が伊達政宗の生涯にぶち当たったさまざまな苦難を乗り越える助けになったことも。

武だけで戦国の世は生き抜けない。機転も利かせなければ。それでこそ人間の真価が問われる。機転を利かせるには豊富な前例を知っていたほうがよいことは言うまでもない。
戦国はまた、外交の腕も試される時代だ。外交には交渉や駆け引きの能力が必要。時には故事を引用した文も取り交わされる。
文を受けたとき、とっさに適切な故事を交えた文を返せなければ恥をかく。極端な例では、それがもとで国を喪うことだってある。武将といえども教養が求められるのだ。
この章はそうした教養を備えた武将であった伊達政宗の姿を描いている。

特に筆まめな武将であったとされる伊達政宗の一面を紹介する際は、コミュニケーションに長けていた姿が強調されている。
おそらくコミュニケーションに長けた能力は、伊達家の内政と外交を巧みにさばいていくにあたって大いに助けになったはずだ。

本書を読んで感じた気づき。それは、戦国武将が戦国の世を生き抜くのに最も必要な能力とは対人折衝能力ではないかということだ。
知力や武力といった分かりやすい能力よりも、部下を慰撫して忠誠心を集め、他国の武将と交流してその表裏を見極める能力。それこそが戦国の世にあって最も大切だったのではないか。これは大名や武将だけでなく、農民や商人や僧も含めての話だ。

ただ、歴史上の人物を評する上で対人折衝能力はあまり取り上げられないようだ。
信長の野望などのシミュレーションゲームにおいては、戦国武将を能力値で評価する。
例えば「信長の野望 創造」の場合、武将のパラメーターは「統率」「武勇」「知略」「政治」「主義」「士道」「必要忠誠」が用意されている。
もちろん統率や政治に対人折衝能力が必要なことは言うまでもない。対人折衝能力の総体が統率や政治としてあらわれるのだから。
だが、対人折衝能力だけを抽出しても、戦国武将のパラメーターとしては成り立つように思うがいかがか。

伊達政宗の場合、もちろん知力や武力が人より抜きんでていたことは間違いない。
だが、本書を読んで伊達政宗の生涯を振り返ってみると、戦場で圧倒的な武力を見せつけたような印象は受けない。また味方をも欺く剃刀のような智謀を発揮した形跡も見えない。
そのかわり、人と交渉することで死地を切り抜け、部下から信望を受け、領国を統治してきた繰り返しが伊達政宗の生涯には感じられる。

なぜそう思えたのか。それは今、私自身が会社を経営しているからだ。
社長とは一国一城の主。弊社のような零細企業であっても主には違いない。
経営してみると分かるが、社長には知力や武力は必要ない。むしろ人とのコミュニケーション能力こそが重要。他社や自社、協力社との対人折衝能力。それこそが社長のスキルであることが分かってきた。

その視点から本書を読むと、実は伊達政宗とはコミュニケーションに長けた武将であることに気づく。また、その能力に秀でていたからこそ苛烈な戦国の世を生き抜き、最後は御三家をも上回る待遇を得たのだ。
言うまでもないが、コミュニケーション能力とは阿諛追従のことではない。実力がないのに人との交流を対等にこなせるわけがない。人と対するには、裏側に確かな武術の素養と文化への教養を備えていなければ。
私も伊達政宗の達した高みを目指そう。そう思った。

‘2020/01/16-2020/01/18


秀吉、家康を手玉に取った男 「東北の独眼竜」伊達政宗


福島県お試しテレワークツアーに参加し、猪苗代と会津を訪れた。
猪苗代は磐梯山の麓に広がる。そこは、摺上原の戦いの行われた地。
その戦いで伊達政宗は蘆名氏を破り、会津の地を得た。

本書を読んだのは、摺上原の近くを訪れるにあたり、その背景を知っておこうと思ったからだ。
戦いのことを知っておくには、戦いの当事者も理解しておきたい。とくに、その戦いで勝者となった伊達政宗についてはもっとよく知る必要がある。そもそも伊達政宗の生涯については戦国ファンとしてより詳しくなっておきたい。
そんな動機で本書を手に取った。

政宗は、本書の帯にも書かれている通り、戦国武将の中でも屈指の人気を誇っている。

その生涯は劇的なエピソードに満ちている。単に自己顕示に長けているだけの武将かといえば、そうではない。中身も備わった武将との印象が強い。
晩年まで天下を狙える実力も野心も備えながら、とうとう時の運に恵まれずに仙台の一大名として終わった人物。後世の私たちは伊達政宗に対してそのような印象を持っているのではないか。

悲運に振り回されながら、実力もピカイチ。そんな二面性が人々を魅了するのだろう。
そんな伊達政宗が若き日に雄飛するきっかけとなったのが人取橋の戦いと摺上原の戦いである。

本書では、それらの戦いにも触れている。だが、それは本書全体の中ではごく一部にすぎない。
むしろ本書は、伊達政宗の生涯と人物を多面から光を当て、その人物像を多様な角度から立体的に浮き上がらせることに専心している。

1章「政宗の魅力〜数々の名シーン〜」では生涯を彩ったさまざまな劇的な出来事だけを取り上げている。それは以下のような内容だ。
疱瘡を煩った政宗の右目をくりぬいた片倉小十郎とのエピソード。
父輝宗が拉致され、それを助けようとしたがはたせず、敵もろとも父を撃ち倒した件。
そして圧倒的に不利な条件から、南奥州の覇を打ち立てた戦いの数々。
実の母から毒殺されかかったことで弟に死を命じ、母を二十年以上も実家に追放した一件。
小田原戦に遅参し、死を覚悟した死に装束を身にまとって豊臣秀吉の前に参じた件。
大崎一揆の黒幕と疑われ、花押の違いを言い訳にして逃れた件。
支倉常長をヨーロッパに派遣し、徳川家の覇権が定まりつつある中でも野心を隠さずにいた後半生。

どの挿話も伊達政宗が一生を濃密に生きた証しであるはずだ。これらの挿話から、現代人にとって伊達政宗が憧れの対象となるのもよくわかる。

続いて本書は派手な面だけでない伊達政宗の一生を追ってゆく。伊達政宗は堅実な一面も兼ね備えていた。伊達という言葉から連想される外見だけの一生ではなかったことがわかる。
2章「政宗の野望」ではそうした部分が活写される。

また、伊達政宗は短歌や連歌をたしなみ、風流人としての一面も持っていた。
晩年、最後に江戸へ参勤交代で参る際には鳥の初音を聞きに仙台の山を訪ね歩いたという。また、伊達政宗は筆まめで手紙をよくしたともいう。そうした武張っただけではない文化人としての一面も紹介する。
3章「政宗のすごさに迫る!」では、そうした伊達政宗の別の面も紹介する。

伊達政宗は家臣にも恵まれていた。文武両面で伊達政宗を支えた人々の列伝が4章「政宗を支えた家臣たち」だ。

続いては5章「伊達氏の歴史と名当主たち」で伊達家に連綿と伝えられた伝統を語る。
そもそも伊達政宗という人物は一人ではない。私たちがよく知る伊達政宗は二代目。一代目の伊達政宗は九代目当主にあたる。室町時代に活躍し、伊達家を雄飛させた明主であり、十七代伊達政宗はその先祖にあやかって名付けられたという。
塵芥集を編んだ伊達稙宗や父の伊達輝宗の事績もきちんと紹介されている。そうした伝統の積み重ねがあってこそ伊達政宗が形作られたことを書いている。

本書が良いのは、見開き二ページを一つの項目としている本書において、項目ごとに内容を図示して読者の理解を深めようとしてくれている点だ。
それによって単なる文の羅列だけでは理解しにくい伊達政宗の人物の魅力がさまざまな角度から伝わってくる。

著者は歴史ライターだそうだ。そして、おそらくそれ以上に伊達政宗ファンに違いない。
ファンである以上、歴史のロマンも持っているはずだ。例えば、伊達政宗が持っていた野心とはどの程度のものだったのか、という問いとして。
歴史/政宗ファンがみた伊達政宗の魅力の一つは、十分な実力と人望を持ちながら生まれる時代が遅かったため、ついに天下を取れなかったという悲劇性にある。
そのため、ファンは勝手にこう望んでしまう。伊達政宗には死ぬまで天下への野心を持っていてほしい、と。

伊達政宗の生涯は華やかだったが、一方では実力を持っている故の葛藤と妥協の連続だったはずだ。
仮に天下への野望を抱いたとして、それはいつ頃からだったのか。そして、その野望はいつまで現実的な目標として抱き続けていたのだろうか。

著者はその仮説を6章「『独眼竜』政宗の野心を検証する」と題した章で開陳する。
さまざまな想像と史実を比べつつ、読者の前に仮説として提示してくれている。だが、著者はファンでありながらも野心については案外冷静に観察しているようだ。
畿内だろうが地方だろうが関係はなく、戦国大名は領国の統治と周囲の大名との関係に気を回すだけで精一杯なのが普通。織田信長こそがむしろ当時にあって異常だったと指摘する。
そこから著者が導いた伊達政宗の具体的な天下への野心を持ち始めた時期は、天下の帰趨が定まった奥州仕置きのあとの時代だと著者は考える。

その野心とは、以下の事績にも表れている。支倉常長をローマに派遣し、改易された松平忠輝に娘の五郎八姫を嫁がせ、大久保長安事件に関連した謀反の黒幕と目されたこと。
どれもが伊達政宗の天下への野心に関連していると著者はみる。だが、本格的な行動を起こすほど伊達政宗に分別はなかったと書いていない。
ここは歴史の愛好家が好きずきに想像すればよいのだろう。

私も猪苗代や会津を訪れた際、伊達政宗が駆けた戦国の残り香は感じられなかった。だが、摺上原の戦いの詳細が本書から詳しく学べなかったとしても、伊達政宗の魅力には触れられた。それが本書を読んだ成果だ。

‘2020/01/14-2020/01/15


島津は屈せず


本書を読んだときと本稿を書く今では、一年と二カ月の期間を挟んでいる。
その間に、私にとって島津氏に対する興味の度合いが大きく違った。
はじめに本書を読んだとき、私にとっての島津家とは、関ヶ原の戦いで見事な退却戦を遂行したことへの興味が多くを占めていた。
当ブログを始めた当初にもこの本のブログをアップしている。
それ以外には幕末の史跡を除くと、島津家の戦跡には行く機会がないままだった。

だが、それから一年以上の時をへて、私が島津家に興味を抱くきっかけが多々あった。九州に仕事で行く機会が二度あったからだ。
訪問したお客様が歴史がお好きで、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂のファンであり、歴史談義に興じる機会があった。
また、出張の合間に大分の島津軍と豊臣・大友軍が激闘を繰り広げた戸次河原の合戦場にも訪れることもできた。

本書は、その戸次河原合戦からさらに数年下った、島津軍が大友・豊臣軍に敗れた根城坂の合戦の後から始まる。

根城坂の敗戦は局地の敗戦に過ぎず、豊臣家に膝を屈することはない、と徹底抗戦をとなえる義珍あらため、義弘。その反対に、藩主の立場から他の家臣の意見を聞き、現実的な判断を下そうとする義久。
当時の島津家を率いる二人の武将の考えには、現実と理想に対する点で違いがある。

ただ義弘は、自らの考えを兄の地位を奪ってまで成し遂げようとはしない。あくまでも兄を立てる。そして、統治は兄に任せ、自らは武において与えられた役割を全うしようとする。
本書は、義久ではなく、義弘を主人公とし、安土桃山から江戸に至るまでの激動の時代を乗り切った島津家の物語である。

豊臣家の傘下に組み込まれ、太閤検地を乗り切った後は、朝鮮への出陣でが始まる。
秀吉の野望に付き合わされた島津家も半島へと渡り、そこで鬼石蔓子と敵兵から呼ばれるほどの戦闘力を発揮し、大戦果を上げる。
大義が見えない戦いであっても、一度膝を屈した主君の命とあらば抗えないのが戦国の世の習い。その辺りの葛藤を抱えながらも、武の本分を発揮する義弘。

日本に戻ってからも領内で内乱が起き、島津家になかなか落ち着きが見えない。
そうしているうちに、秀吉の死後の権力争いは、島津家に次の試練を与える。
日本が東軍と西軍に割れた関ヶ原の戦いだ。
各大名家がさまざまな思惑に沿って行動する中、遠方の島津家は行動する意味もなく、藩主の義久は静観の構えを崩さない。内乱で疲弊した領内をまとめることを優先し。
だが、義弘はわずかな手勢を連れて東上しし、東軍へ馳せ参じようとする。
ところが、時勢は島津家をさらに複雑な立場に追いやる。
東軍に参加しようと訪れた伏見城で、連絡の不行き届きと誤解から、東軍の鳥居本忠から追い出されてしまう。

それによって西軍へと旗色を変えた義弘主従。
ところが、西軍の軍勢は兵の数こそ多いが、その内情はまとまっているとは言いがたく、義弘も本戦では静観に徹する。

関ヶ原の戦いは、布陣だけを見れば西軍が有利であり、西軍が負ける事はあり得ないはずだった。
ところが、西軍の名だたる将のうち、実際に戦った隊はわずか。
島津軍もそう。

私も三回、関ヶ原の古戦場を巡った。そして、武将たちの遺風が残っているようなさまざまな陣を見て回った。
島津軍の陣地は、林の中に隠れたような場所だった。だが、激戦地からはそう離れていない場所であり、当日は騒がしかったことと思う。
そんな中、微妙な立場に置かれた義弘は何を感じていたのか。
島津家が一枚岩で五千の軍勢を引き連れていれば、島津家だけでも西軍を勝利に導けたものを。

本書では、義弘の心中や家臣たちの様子を描く。
夜襲を提案しても、戦に慣れていない大将の石田治部は体面を前に立てられはねつけられる始末。
義弘の心中は本書にも描かれている。

そして、小笠原秀秋の寝返りから一気に変わった戦局と、その中で刻々と変わるあたりの様子の中、徳川家に島津の武威を見せつけようとする。
そして、美濃から薩摩へと戦史に残る遠距離の退却戦に突入する。

義弘主従は、大阪で人質の太守の家族を救い、薩摩に帰り着くことに成功する。
しかも、強硬な意思を貫き、本領の安堵を勝ち取ることに成功する。

関ヶ原の戦いで西軍に与し、本領の安堵を勝ち取った大名は、全国を見渡してもほぼいない。ましてや、関ヶ原の本戦に西軍として参加した大名に限れば、島津氏が唯一と言っても良い。

本書では家康が悔いる様子が描かれる。毛利と島津をそのままにしておくことが将来の徳川家の災いになるのではないかと。

著者は、本書の姉妹編として「毛利は残った」と言う小説を出している。

毛利家と島津家。ともに、関ヶ原の合戦によって敗戦側となった。
そして関ヶ原の合戦から260年の後に、ついに政権から徳川家を追いやった時もこの二家が中心となった。

戦国の過酷な世を勝ち続け、徳川家にも勝てる自信を持ちながら、戦国の世の義理の中でと主家を立て通した義弘。

その無念は、島津家に安穏とは無縁の家風を養わせた。260年の間、平和に慣れて保身に汲々とするのではなく、国を富ませ、鍛錬を怠らない。
そのたゆまぬ努力がついに徳川家に一矢を報いさせた。

本書は、その原動力となった挫折と雌伏を描いている。
本書を読むと、人の人生など短く思える。
私は島津家の尚武の気風を学ぶためにも、また機会を見て薩摩軍の戦跡を訪れたいと思っている。今、九州にご縁ができ、私の中で島津家への興味が増した今だからこそ。

‘2019/7/26-2019/7/29


戦国大名北条氏 -合戦・外交・領国支配の実像


本書は手に入れた経緯がはっきりと思い出せる一冊だ。買った場所も思い出せるし、2015/1/31の昼はどこに行き、どういう行動をとったかも思い出せる。

その日、友人に誘われて小田原で開かれた嚶鳴フォーラムに参加した。
小田原といえば二宮尊徳翁がよく知られている。だが、二宮尊徳翁と同じ江戸期に活躍し、今に名を残す賢人たちは各地にいる。例えば上杉鷹山や細井平洲など。
そうした地域が産んだ賢人を顕彰しあい、勉強しあうのが嚶鳴フォーラムだ。

嚶鳴フォーラムが始まる前、私と友人は小田原城を訪れた。
というのも、フォーラムでは城下町としての小田原が整備されるにあたり、北条氏が果たした役割を振り返る講演があったためだ。講師である作家の伊東潤氏は、北条氏の五代の当主がなした治世を振り返り、その治が善政であったことを強調しておられた。

フォーラムで刺激を受けた帰り、小田原の観光案内所に立ち寄った。
そこで出会ったのが武将の出で立ちに身を包んだ男性。その方は学生で、その合間を縫って観光ガイドを勤めてらした。そしてとても歴史に造詣が深い方だった。
小田原に住み、北条氏を熱く語るその方からは、小田原における北条氏がどのようにとらえられているかを学ぶことができた。彼の熱い思いはわたしにもたくさん伝わったし、私の思う以上に小田原には北条氏の存在が強く刻まれていることも感じられた。
その彼の熱意に打たれ、案内所で購入したのが本書だ。

兵庫の西宮で育った私にとって、地元が誇る大名への思いをストレートに語れる彼はある意味でうらやましい。というのも、西宮に武将の影は薄いからだ。
西宮戎神社を擁する門前町であったためか、江戸時代の大部分を通して西宮は幕府の天領だった。
戸田氏や青山氏が一時期、西宮を領有したこともあったらしいし、さらにその前には池田氏や瓦林氏が統治していた時期もあったようだ。
だが、西宮で育った私には故郷の武将で思い浮かぶ人物はいない。

今、私は町田に20年近く住んでいる。そして、故郷にはいなかった武将の面影を求め、ここ数年、北条氏や小山田氏にゆかりのある地を訪れている。小机城や玉縄城、滝山城、関宿城など。もちろん小田原城や山中城も。
そうした城は今もよく遺構を伝えている。それはおそらく、北条氏が滅亡した後、関東を治めた徳川家が領民を慰撫するために北条氏の遺徳を否定しなかったためだろう。

嚶鳴フォーラムをきっかけとした今回の小田原訪問により、私は北条家の統治についてより強い関心を抱いた。

ところが、本書はなかなか読む機会がなかった。
購入した二年半後には次女と二人で小田原城を登り、博物館で北条家の治世に再び触れたというのに。
本書を手に取ったのは、それからさらに一年四カ月もたってから。
結局、買ってから三年半も積んだままに放置してしまった。

さて、本書は北条氏五代の治世を概観している。
初代早雲から、氏綱、氏康、氏政、氏直と続き、秀吉の小田原攻めで滅亡するまでの百年が描かれている。百年の歴史は、過酷な戦国時代を大名が生き延び、勢力を伸ばそうとする努力そのものだ。

関東に住んでいると、関東平野の広大さが体感できる。
広大な土地に点在する城を一つ一つ切り崩してゆきながら、領内の民衆を統治するために内政にも力を注ぐ北条家。その一方で武田家、上杉家、真田家、結城家、佐竹家、里見家と小競り合いを続け、少しずつ領土を広げていった。
その百年の統治は困難で安易には捨てられない努力がなくては語れないはず。だからこそ、北条氏は容易に秀吉の足下に屈しようとしなかったのだろう。その気持ちも理解できる。

歴史が好きな向きには、北条家が関東で成した合戦がいくつか思い浮かぶだろう。
小田原城奪取、八王子城攻防戦、河越夜戦、二回にわたって繰り広げられた国分台合戦など。
「のぼうの城」で知られる忍城の水攻めも忘れてはならないし、滝山城から多摩川を見下ろしながら、攻め寄せる上杉謙信の残像に思いをはせるのも良い。信玄の旗が掛けられた松の跡から見る三増峠の戦場も趣がある。落城間近の小田原城に思いを漂わせながら、秀吉の一夜城を想像すると時間はすぐに過ぎてゆく。
だが、本書は物語ではない。なのでそうした合戦をドラマティックに書くことはない。むしろ学術的な立ち位置を失わぬようにコンパクトな著述を心がけている。

ただ、史実を時系列に描くだけでは読者が退屈してしまう。そこで本書は、全五章の中で北条氏と周辺の大名との関係を軸に進める。

第一章は「北条早雲・氏綱の相模国平定」として基礎作りの時期を描いている。
今川氏の家臣の立場から伊豆を攻めとり、そこから相模へと侵攻して行く流れ。大森氏から小田原城を奪取し、小田原を拠点に三浦氏との抗争の果て、相模を統一するまでの日々や、武蔵への勢力拡張に進むまでを。

第二章では「北条氏康と上杉謙信」として両上杉氏の抗争の中、関東管領に就いた上杉謙信が数たび関東へ来襲し、それに対抗した北条氏康の統治が描かれる。
北条氏の関東支配はいく度も危機にさらされている。が、滝山城の攻防や小田原城包囲など上杉謙信が関東を蹂躙したこの時期がもっとも危機に瀕していたといえる。

第三章では「北条氏政と武田信玄」として武田信玄が小田原城を攻めた時期を取り上げている。
上杉謙信もいくどか関東への出兵を企てていたこの時期。北条家がもっとも戦に明け暮れた時期だといえる。農民からも徴兵しなければならないほどに。その分、内政にも力を入れた時期だと思われる。そして今川家、上杉家、武田家とは何度も同盟を結んでは破棄する外交の繰り返し。

第四章では「北条氏直と徳川家康・豊臣秀吉」として天下の大勢が定まりつつあった中、関東の雄として存在感を見せていた北条家に圧迫が加えられていく様子が描かれる。
名胡桃城をめぐる真田昌幸との抗争や、佐竹・結城氏との闘い。天下をほぼ手中におさめた豊臣秀吉にとって、落ち着く様子がない関東平野は目立っていたに違いない。何らかの手段で統治せねばならないことや、そのためにはその地を治める北条家と一戦を交えなければならないことも。

終章は「小田原合戦への道」と籠城を選択した北条氏が圧倒的な豊臣連合軍の前に降伏していくさまが描かれる。
敗戦の結果、氏政は切腹、氏直は高野山へ追放されるなど、各地に散り散りとなった北条家。
北条家を滅亡に追いやった小田原合戦こそ、戦国の最後を締めくくる戦いと呼んでもいいのではないか。
もちろん、戦国時代は大坂の役をもって終焉したことに異論はない。ただ、全国統一という道にあっては、小田原の戦いが一つの大きな道程になったことは間違いないと考えている。

小田原の戦いで敗れたことで関東の盟主が徳川家に移った。それなのに小田原においては徳川の名を聞くことはない。
400年たった今も、小田原の人々は北条家の統治に懐かしさを覚えているかのようだ。よほど優れた内政が行われていたのだろう。
この度、小田原の人々から北条家についての思いを伺ったことで、私は北条家の各城を巡ってみようとの思いを強くした。
もちろん本書を携えて。

‘2018/11/10-2018/11/12


我、六道を懼れず[立国篇] 真田昌幸 連戦記


本作は「華、散りゆけど 真田幸村 連戦記」から始まった三部作の掉尾を飾る一作だ。「華、散りゆけど 真田幸村 連戦記」で華々しい活躍を見せる真田幸村。著者はその次に幸村の父である昌幸にスポットを当てた。「我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記」は、幼少時から信玄の薫陶を受け、成長していく昌幸の姿を描く。ところが父を失った後、長篠の合戦で二人の兄者を失う悲劇に遭う。昌幸の悲嘆と絶望で幕を閉じる幕切れが印象に残る。

本書はぜひ前作と続けて読んでいただきたい。なぜなら、戦国時代きっての智謀の将と知られ、表裏比興の者と呼ばれた昌幸が培われた基は、幼少期の昌幸にあるからだ。七歳で真田の里から甲斐の武田家に半ば人質としてやってきた昌幸。泣きべそを兄たちからからかわれるほどの少年だった。それが典厩信繁や信玄から目を掛けられ、百足衆の一員として鍛えられ、さらに川中島のすさまじい戦いを目の当たりにして成長する。成長した昌幸は長篠の合戦に敗れ、二人の兄を一挙に喪ったことで世の現実に覚醒する。

本書は真田昌幸という一人の男が、家名と家族、そして領民や部下たちのために奮闘する様子が描かれる。それは子どもから大人へと苦しみを潜り抜け、たくましくなった男の姿だ。苦難とは、かくも人を強くするものか、というテーマ。それはあらゆる人生に欠かせない物語だ。本書はそのテーマを基に、戦国の仮借なき世を生き延びようとあがく男の気迫が全編に満ちている。

本書には前の二冊のように華々しい戦場のシーンはあまり出てこない。だが、川中島の合戦や大坂の陣ほどではないにせよ、上田城を巡って徳川軍と戦った第一次、第二次上田合戦が克明に描かれる。それぞれの戦いで昌幸の息子、信幸、信繁に戦いを教えながら、領民をうまく指導し、徳川軍を鮮やかに撃退する。そうした戦を描かせれば著者の筆は魔法を帯びる。実に素晴らしい。それ以外にも、調略で名胡桃城や沼田城を奪取した知略にも光るものがある。本書は昌幸の智謀を前面に出して描いている。

それほどまでに昌幸が守りたかったものは何か。それが本書の随所に登場する。それは長篠の合戦で兄二人を相次いで失い、兄を差し置いて真田家の棟梁となった昌幸の気負いであり、心の空洞を埋めるための奮起だ。もちろん、真田家を安泰に導かねば父や兄にあの世で顔向けできないと覚悟を持っていたこともあるだろう。

その覚悟のままに、昌幸は沼田領を巡っての北条氏との争いに忙殺される。その一方では、武田氏の遺領を巡って徳川軍、上杉軍、北条軍が争いが勃発する。昌幸は真田氏を守るため、上杉家に次男信繁を人質として送り、徳川家と和睦すると見せかけ、その条件として上田城をせしめる。それでも真田家の維持は厳しくなってきたため、豊臣家に臣従することで、家名と領地を守り抜く。

そうした目まぐるしい移り変わりを、著者は丁寧に描いてゆく。戦闘シーンはあまり登場しない本書だが、智謀だけで戦国時代という戦場を戦い抜く昌幸の気迫が生き生きと描かれている。

昌幸にとっては、上杉家に預けた次男信繁を無断で豊臣家に送り出すという義理を欠く振る舞いも辞さない。一方で、信義を一方的に破り、沼田城を断りもなしに北条家との条件のかたにした徳川家康には怒りを示す。

そのあたりの昌幸の心の動きは読み手の解釈に委ねられる。どっちもどっちじゃね?と思う人もいれば、沼田城の場合と、切羽詰まった状況を打破するために上杉家への義理を欠いた行いは同義ではないと擁護する人もいるだろう。ただ、昌幸は上杉家へ後ろめたさを感じなかったわけではない。本書でも、後ろめたさを感じる昌幸の心の動きが何度か書かれる。表裏比興の者とそしられた昌幸であっても、道を外れた恥知らずとは書きたくない作者の思いが透けて見える。

実際、本書で描かれる昌幸のふるまいのうち、失敗だと思うのは上杉家から信繁を引き抜き、豊臣家に送り出した一件だけに思える。それだけ、その時の真田家が危機に瀕していた証だったのだろう。

では犬伏の別れで、真田を二つに分け、あえて息子とともに西軍に付いた判断はどうだろう? もちろん、それは結果論に過ぎない。本書では、犬伏の別れを描くにあたり、二人の息子に自分の思う判断を述べさせている。長男は家康の四天王本田忠勝の娘小松姫をめとっているので、徳川方にくみすると述べた。次男は西軍についた大谷吉継の娘を妻にしている以上、石田方に参戦するという。二人の思いを確かめた上で、昌幸は真田を二つに割った責任を取り、隠居すると述べる。もし、昌幸がそれを実行していたら、昌幸の生涯は筋を通したままで終わったはず。

ところが、徳川方が上田城を見逃してくれず、攻め寄せる意図を見せる。それによって昌幸の堪忍袋が破れる。沼田城に続いてまた、真田を愚弄するか、という怒り。犬伏の別れで決めたのは徳川に恭順の意志を示すこと。ところが昌幸はそこで徳川に弓を引いてしまう。そうした解釈を著者は取っているようだ。それはそれで納得ができる。昌幸は見事に秀忠軍を撃退したばかりか、結果的に秀忠軍を関ケ原に参陣できなくした。

最終章で、昌幸が信繁あらため幸村に詫びを入れるシーンが描かれる。上田城の戦いは自らのわがままで起こした戦だったと。めっきり弱った昌幸は、幸村への形見として信玄から譲り受けた碁盤と碁石を渡す。これは前作でも印象深い場面で登場した小道具だ。そしてこのシーンは幸村が大坂で名をあげるシリーズの第一作につながっている。

「家康を敵にしたことが、間違いであったのか?」このセリフを独白するのが昌幸ではなく幸村であること。それは三部作の冒頭を飾る「華、散りゆけど 真田幸村 連戦記」につながっており、三部作が全体で円環の構造になっている。つまり、見事な大団円を成しているのだ。

なお、本書では信繁が幸村に名乗りを変えたことを次のように解釈している。兄信幸が徳川家に帰順した証として通字である「幸」を「之」に変えたこと。兄者にそのような処置をとらせてしまったことで、自分が、せめて信繁から「幸」の字を受け継ごうとした、という筋立てだ。それで好白斎幸村と道号を名乗ったと解釈している。それが書簡の形では後世に伝わっておらず、それが史実なのか著者の解釈なのかはわからない。だが、その解釈も受け入れられる。なぜなら本書は小説だから。

戦国の世を精一杯生きたある親子の生きざま。それが劇的であればあるほど、そうした情のこもった解釈が読者の心にすっと染み込む。

‘2018/10/23-2018/10/23


真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実


先年の大河ドラマ「真田丸」は高視聴率を維持し、大河ドラマの存在感を見せつけてくれた。大河ドラマが放映される前々年あたりから、私は「真田丸」の主役である真田信繁(幸村)に興味を抱いていた。というのも、わが家は十数年前から何度も山梨を訪れており、甲州の地で武田信玄がどれほど尊崇を受けているかも知っていたからだ。武田二十四将に名を連ねる真田信綱、昌幸兄弟のことや、昌幸が大坂の陣で活躍した真田信繁の父であることも知っていた。

ところが私が真田の里に訪れられる機会はそうそうなかった。本書を読む数カ月前、ようやく砥石城跡に登ることができた。そこから見下ろす真田の里は、戦国の風などまったく感じさせないのどかな山里の姿を私に見せてくれた。だが、私が真田の里を目にしたのはその時だけ。この時は結局、真田の里に足を踏み入れられなかった。また、大学時代には真田山や大阪城にも訪れた。ところが私はまだ、真田丸が築かれていたとされる場所には訪れていない。一方で、私が戦国時代の合戦場でもっともよく訪れたのは関ヶ原だ。ここは三回訪れ、かなりの陣地跡を巡った。だが、周知のとおり、関ヶ原の戦いに信繁は参陣していない。このように、私はなにかと信繁と縁がないまま生きてきた。

なので「真田丸」はきちんと見るつもりだった。ところが、第一次上田合戦あたりまでみたところで断念。その後は見逃してしまった。

本書は私にとって数冊目となる真田信繁関連の書だ。その中で確実な資料を典拠に書かれた学術的な書に絞れば二冊目。まだまだ私が読むべき本は多数あるだろう。だが、本書こそは現時点において真田信繁関連の書として決定版となるに違いない。著者は「真田丸」の時代考証を担当したそうだが、その肩書はダテではない。現時点で発見された古文書を渉猟し、その中で真田信繁に関係のあるものはことごとく網羅していると思われる。古文書を読み解き、その中に書かれた一つ一つの言葉から、信繁にまつわる伝承と事実、幸村として広まった伝承と脚色を慎重に見極め、その生涯から事実を選り分けている。

私はある程度、信繁の事績は知ってはいた。とはいうものの、本書で著者が披露した厳密な考証と知識には到底及ばない。本書は無知なる私に新たな信繁像を授けてくれた。例えば信繁と幸村の使い分け。幸村はもっぱら江戸時代に講談の主人公として世に広まった。では当時信繁が幸村の名を実際に名乗っていたかどうか。この課題を著者は、十数種類の信繁が発給したとされる文書を考証し、幸村の名で発給された事実がなかったことや、そもそも幸村と名乗った事実もないことを立証する。つまり、幸村とは最後まで徳川家を苦しめた信繁を賞賛することを憚った当時の講談師たちによって変えられた名前なのだ。ちょうど、大石内蔵助が忠臣蔵では大星由良之助と名を変えられたように。

あと、犬伏の別れについても著者は私の認識を覆してくれる。犬伏の別れとは、関ヶ原の合戦を前にして、真田信幸と信繁が西軍の石田三成方に、信之が東軍の徳川家康方につき、どちらが負けても真田家を残そうとした密談を指す。私は今まで、真田昌幸の決断は三人で集まったその場で行われたとばかり思っていた。だが、実際にはその数カ月前からその準備をしていた節があることが本書には紹介されている。一族の運命を定めるには、一夜だけでは発想と決断がなされるほど戦国の世は生易しくはない、ということか。私は犬伏の別れの回は「真田丸」では見ていない。その描写には、考証担当の著者の意見が生かされていたのだろうか。気になるところだ。

その直後に行われた第二次上田合戦にも著者の検証はさえ渡る。徳川秀忠が上田城で真田昌幸・信繁親子に足止めされたため、秀忠軍は関ヶ原の戦場に間に合わなかった。私は今までこの戦いを単純にそうとらえて来た。ところが本書は少し違う解釈をとる。著者によると当初から秀忠軍の目標は上田城と真田信幸・信繁親子にあったという。ところが上方における西軍の攻勢が家康の予想を超えていたため、急ぎ秀忠軍に関ヶ原への参陣を命じた。ところが上田城で足止めされたため、秀忠軍は関ヶ原間に合わなかった。そういう解釈だ。著者はおびただしい書簡を丹念に調べることにより、これを説得力のある説として読者に提示する。この説も「真田丸」では取り入れられていたのだろうか。気になる。

さて、関ヶ原の結果、父昌幸と九度山に蟄居を余儀なくされた信繁。大坂の陣での活躍を除けば、信繁の生涯に費やすページはなさそうだ。と思うのは間違い。ここまでで本書は140ページ弱を費やしているが、本書はここからそれ以上続く。つまり、九度山での日々と大坂の陣の描写が本書の半分以上を占めているのだ。それは後半生の劇的な活躍がどれだけ真田信繁の名を本邦の歴史に刻んだかの証でもあるし、前半生の信繁の事績が後の世に伝わっていないかを示している。

九度山の日々で気になるのは、信繁がどうやって後年の大坂の陣で活躍したような兵法を身につけたのか、ということだ。”真田日本一の兵”と敵軍から賞賛されたほどの活躍は、戦況の移り変わりが生んだまぐれなのか。いや、そんなはずはない。そもそも真田丸を普請するにあたっては、並ならぬ知識がなくては不可能だ。信繁がそれなりに覚悟と知識をわきまえて大坂に赴いたことは間違いない。では、信繁はどこで兵法を学んだのか。それについては著者もかなり疑問を抱いたようだ。しかし、九度山から信繁が発した書状にはその辺りのことは書かれていない。本書には、蟄居した父から受け継いであろうとの推測のほかは、信繁が地元の寺によく通っていたことが紹介されている。おそらくその寺でも兵法については学んだのだろうか。

あとは、兄信幸改め信之の存在も忘れてはならない。蟄居する父と弟を助けるため、かなりの頻度で援助した記録が残されている。そうした書状が確認できていることからも、信繁と昌幸が九度山で過ごした日々はかなり窮まっていたようだ。その鬱屈があったからこそ、信繁は大坂の陣であれだけの活躍を成し遂げたのだろう。

続いて本書は大坂に入って以降の信繁の行動に移る。まず真田丸。ここで著者が解明した真田丸の実像こそ、今までの先行研究に一石を投じたどころか、今までの先行する研究を総括する画期的な業績と言える。そもそも一般の歴史ファンは真田幸村を祭り上げるあまり、真田丸を全て幸村の独創であるかのように考えてしまう。だが、生前の関白秀吉も大阪城の死角がここにあることを任じていた、という逸話が伝わっている。真田丸は決して信繁の独創ではなく、大坂方は元からこの位置に出城を設ける意向があったという。もちろん、その意向を受けた信繁が細かい整備を加えた事は事実だろう。著者はさまざまの資料を駆使して、真田丸の大きさや形、そして現在のどこに位置するかについて綿密な検証を加えてゆく。三日月状の馬出の形は、父昌幸が学んだ薫陶を受けた武田信玄から伝わる甲州流に影響を受けていることも確実だろうという。

あと、真田日本一の兵と徳川軍の将から絶賛された猛攻が、どのように行われたかについても著者の分析は及んでいる。これについては、大阪に土地勘を持つ私は前々から疑問に思っていた。大坂夏の陣では真田軍は茶臼山に本陣を構え、家康本陣に総攻撃を掛けたという。そこから家康本陣があったとされる平野まではかなりの距離がある。騎馬が駆ければ遠くない距離とはいえ、茶臼山から家康本陣までの間には名だたる大名の軍が控えていたはず。果たして家康の馬印が倒され、家康が何里も逃げ惑ったほどの壊滅的な打撃を真田軍は与えられたのだろうか、と。

著者はここで、幕府方の軍勢に意思の統一が取れていなかったこと、「味方崩れ」という士気の低下による自滅で隊形が崩れたことが多々あったことを示し、一気に徳川本隊まで味方崩れが波及したのではないか、という。

本書は小説ではないので、伝説の類には口を挟まない。なので、徳川家康がここで討ち死にしたという俗説には全く触れていない。ただ、秀頼を守って信繁が薩摩に落ち延びたという伝説については、著者は一行だけ触れている。もちろん俗説として。

伝説は伝説として、真田信繁がここで家康の心胆を寒からしめた事実は著者も裏付けている。本書は豊臣方の動きも詳細に描いている。その中で、再三の信繁から秀頼の出馬要求があったことや、その要求が結局実現できなかったこと。肝心な戦局で大野治房が秀頼を呼び戻そうとして大坂城に戻ったのを退却と勘違いされ、豊臣方の陣が崩れたことなど、豊臣秀頼の動き次第では、戦局が一変した可能性を含ませている。そうした事情なども含めて、著者は大坂夏の陣の実態を古文書から読み解き、かなりの確度で再現している。

本書は真田信繁を取り上げている。だが、それ以上に大坂の陣を詳細に紹介している一冊と言えそうだ。それだけでも本書は読むに値することは間違いない。本書は真田信繁の研究と、大坂の陣を真田信繁の側から分析したことで後の世に残ると確信する。

「真田丸」は歴代の大河ドラマの中では視聴率ランキングの上位には食い込めなかったようだ。だが、一定に評価は得られたのではないだろうか。私も機会があれば見てみたいと思っている。本書という頼りになる援軍を得たことだし。

‘2018/10/05-2018/10/16


吹けよ風呼べよ嵐


川中島にいまだ訪れたことがない私。それなのに、川中島の戦いを描いた小説を読む経験だけは徐々に積んでいる。そして合戦シーンに血をたぎらせては、早く訪問したいと気をはやらせている。そんな最近だ。友人が貸してくれた本書もまた、私の心を川中島に向かわせようとする。

だが本書の中において、川中島の戦いが描かれるシーンはほんのわずかしかない。386ページある本書の終盤、多めに数えてもせいぜい60ぺージほど。では、あとのページは何の描写に費やしているのか。それは、村上義清軍の戦いを追うことで費やしている。本書は上田原の戦いから始まる。上田原の戦いといえば、村上義清と武田晴信によってなされた信濃の覇権をめぐる一連の戦いでも初期に行われた合戦だ。上田原の戦いで武田軍の侵攻を退けた村上軍は、続けて武田軍に後世、砥石崩れと称される程の痛手を負わせる。北信濃に村上義清あり、と高らかに謳うかのような戦い。本書の主人公である須田満親は、従兄でかつ刎頸の友である信正とそれらの戦いを間近にみていた。

だが、村上義清がいくら北信濃で武名を高めようとも、勢力としては信濃の一地域を治めるだけの存在にすぎない。そもそも、信濃とは諸豪族が割拠する地。戦後史においては、信濃における二大勢力として小笠原長時と村上義清の両雄が並び称されていた。だがそれぞれは勢力として小粒。それゆえ、甲斐から侵略を進める武田軍に徐々に突き崩されてゆく。しかも武田軍は武で成果がなければ調略を試すなど、柔軟かつ老練な攻め手を繰り出してくる。硬軟取り混ぜた武田軍の攻撃に徐々に勢力を削られてゆく村上軍。その調略の先は、信正の親である須田信頼にも伸びる。その結果、須田信頼と信正親子は武田軍にくみする。つまり、須田満親と信正は敵味方となってしまうのだ。満親を襲った凶報は、満親と信正を互いにとっての仇敵に仕立て上げることになる。上田原の合戦見物の際は、弥一郎、甚八郎と呼び合っていた二人。それが憎み合い戦場で剣を交えるまでに堕ちてしまう。戦国の世の習いの無残さを思わせる展開だ。

仲の良かった従兄が敵味方に分かれる。そんなことは下克上のまかり通る戦国時代にあって特に珍しくもなかったはず。そして豪族が相打ち乱れ、合従連衡を繰り返す信濃にあってはより顕著だったに違いない。つまり戦国期最大の合戦として後の世に伝わる川中島の戦いとは、ついにまとまる事を知らぬまま、乱れに乱れた信濃が堕ちるべき必然だったのだ。信濃の地で戦われた合戦でありながら、甲斐の武田と越後の上杉の戦場となった川中島とは、つまるところ信濃の豪族たちのふがいなさが凝縮した地だったともいえる。

だが、その事実をもとに須田満親を責めるのは酷な話。彼は村上家にあって生き延びるため、そして須田家を存続させるため、懸命に働く。満親の働きは、村上家がいよいよ武田軍の攻勢を防ぎきれず上杉家を頼る際に彼自身の運命を切り開く。村上義清によって上杉家への使者に命じられることで。それまでに使者として上杉景虎の知己を得ていたことが上杉家への使者として適任だったのだ。それは、須田満親を次なる運命へと導く。つまり、川中島の戦いへと。満親の嫁初乃はもともと信正の妹として満親に嫁いできた。だが、武田軍の調略が須田家を引き裂いたため、兄信正と初乃は敵対することになる。そんな運命に翻弄されながら、彼女は世をはかなむことなく満親へ付き従い越後へと落ち延びる。本書で描かれる彼女の運命は戦国の時代の過酷さ、そして確固たる権力に恵まれなかった信濃に生まれた女子の運命を如実に書き出している。

親しさの余りに、憎さが百倍したような満親と信正の関係。それは、幾度もの運命の交錯をへてより複雑さを増してゆく。そしてついには川中島の戦いでは上杉軍と武田軍として相まみえ、剣を交えさせることになるのだ。

残された記録による史実によれば須田満親は1598年まで存命だったようだ。つまり満親は川中島を生き残ったのだ。では信正はどうだったか。史実によれば武田家滅亡後に上杉家に属したと伝わっている。だが、本書では川中島以降の両者には触れていない。あるいは、上杉家で旧交を温め直したのか、それともかつての反目を引きずりながら余生を過ごしたのか。本書には、上杉家での二人の邂逅がどうだったかについては触れておらず、読者の想像に委ねている。

そのかわりに著者は、川中島の戦いで満親と信正に剣を打ち合わせることで、二人のその後に著者なりの解釈を示している。満親に勝たせることで。そして満親にとどめを刺させないことで。その瞬間、二人の間には弥一郎と甚八郎の昔が戻ったのだ。「禍根を断っては、武士は鈍ります。禍根あってこそ、武士はよき働きができます」とは川中島の戦いの後、謙信と語らった際の満親のセリフだ。それを受けて謙信もこう返す。「もう一太刀か二太刀見舞えば、わしは信玄を殺せた」「だがな、馬を返して四太刀目を浴びせようとしたところで気づいたのだ。欲が勝つか義が勝つかは、力で決めるものではなく、天が決めるものだとな」「そうだ。欲に囚われた者は欲に滅ぼされる。最後に勝つのは義を貫く者だ。つまり禍根を断たずとも悪しき者は自ずと立ち枯れる」

ここでいう欲とは武田信玄の領土拡張欲であり、義とは毘沙門天を戴く上杉謙信の信念を表わしている。この二つの概念は、両者を比較する際によく見かける。だが、有名な一騎打ちをこういう解釈で描いた事に、本書の真骨頂がある。川中島の合戦で敵味方に相まみえる事になった須田満親と信正の従兄同士。二人の運命に小豪族の置かれた運命の悲哀を表しただけでなく、義と欲の争いを禍根を断つ形で決着させず、人の生き方として歴史の判断にゆだねた著者の解釈。これもまた、一つの見識といえる。

おそらく、川中島の戦場には、幾多の入り組んだ、長年に渡って織りなされた運命の交錯があったはずだ。満親と信正。信玄と謙信。信繁と景家。川中島には彼らの生きた証が息づいている。人の一生とは何を成し遂げ、何に争わねばならないのか。そんな宿命の数々がしみ込んでいるのだ。そのことを新たに感じ、人の一生について感慨を抱くためにも、私は川中島には行かねばならないのだ。

‘2016/12/24-2016/12/28


関ケ原


私は、戦国武将の中でも石田三成に自分と近いものを感じている。

今までに関ヶ原は三回訪れた。三回とも笹尾山の石田三成本陣には訪れたが、桃配山には一度も行っていない。桃配山とは徳川家康が最初に本陣とした山だ。また、最後に関ケ原を訪れた際は、妻と二人で石田三成の生誕地を巡ってから戦場に向かった。私は明らかに石田三成に愛着を感じているようだ。

本作は、石田三成を主人公とした関ケ原合戦の物語だ。原作となった司馬遼太郎作の「関ヶ原」でも主人公は石田三成として書かれていたらしい。らしいと書いたのは、原作を読んだかどうか覚えていないからだ。石田三成がどう書かれていたかも記憶が曖昧。だからこそ本作は観たいと思った。

本作は、合戦シーンの派手さだけを魅せて終わる映画ではない。戦国時代を継ぐ時代をどう作ろうとしたのかを描く映画だ。なので、関ヶ原の合戦に至るまでの経緯を丁寧に描いているのが特徴だ。

関ヶ原の合戦とは戦国時代の幾たびも行われた合戦の中でも最大にして、日本の覇権の行く末を決めた最重要の合戦。これに異をとなえる史家はまずいないと思う。大坂の陣も、山崎の合戦も、関ヶ原の合戦に比べれば少し粒が小さい。前者は政権磐石となった徳川家による戦国時代の後始末的な戦いだし、後者は織田家の後継者争いの意味合いが強いからだ。関ヶ原の合戦とは、豊臣家が政権を担うのか、それとも徳川家がとって替わるのか、その後の260年間の帰趨が定まった戦いでもある。260年の未来の重みがあったからこそ、関ヶ原の合戦は重要だったのだ。それが解っていたからこそ、戦う前から武将たちは駆け引きに骨身を削ったのだと思う。

すでに衆目の見るところ、太閤秀吉亡き後、天下を担うのは内府(徳川家康)であるのは明らか。では何をもって石田三成は豊臣家の天下を守ろうとしたのか。それは「義」だ。本作で鍵となるのは、石田三成が島左近を召しかかえるシーンだ。ここで、石田三成は「義」が太閤晩年の豊臣政権から失われてしまっていることを率直に吐露する。武将たちが太閤秀吉に臣従しているのは利益のためのみ。利益だけで維持される政権に義はないといい切る三成。三成は義をもって天下は運営されるべきという。三成の旗印、大一大万大吉に込められた意味だ。「一人が万民のために尽くし、天下が泰平になればみんなが心豊かに暮らせる」

怜悧冷徹な官僚的人物。それが今までの石田三成評だった。本作はそのイメージを覆しにかかる。ただ権威に盲従するのではなく、権威に威を借るのでもない。今の太閤殿下に義はないといい切る三成に旧来のイメージはない。むしろ、豊臣政権の末期は三成にとって忌避すべき政権であり、徳川家康こそが豊臣の利得政権の後継者なのだ。それがゆえに、政権をとらせてはならない。秀吉が天下を取った当時の理念に立ち返らせることに自らの信念を掛ける三成。そこには従来の豊臣政権の後継者としての石田三成の悪評はない。三成と家康が考える豊臣政権は、正義と不義が鮮やかに反転しているのだ。三成にあるのは自分が豊臣政権を担い正道に戻すのだ、という強烈な自負だ。

だからこそ、たかだか19万石の石高しか持たない石田三成に、日和見軍がいたとはいえ、あれだけの人数が馳せ参じたのだろう。

三成が義を語るシーンは他にもいくつか出てくる。例えば初芽に対し、天下が自分の理念に沿って運営されるのを確かめたら諸国を巡りたい、一緒に来てくれないか、というシーン。ここで描かれる三成は覇権や自己保身に汲々としない人物だ。初芽にも観客にも岡田三成が最も魅力的に映るシーンとして、ここを上げてもいいほどに。

また開戦前夜、松尾山の小早川秀秋の元に行き、明日の参戦をかき口説くシーンもそう。ここでも義は持ち出される。小早川秀秋が当初から徳川家康に内通を約していたのであれば、あそこまで迷わなかったはず。本作でも秀秋が三成に悪感情を持ってしかるべき伏線はたくさん引かれている。秀次の側室駒姫の処刑を監督する三成と彼らを不承不承連行する役目を仰せつかった秀秋は、いかな感情を三成に抱いたか。また、朝鮮の役での秀秋の戦いぶりを三成が罵倒するシーンも同じく重要だ。それだけの伏線があってもなお、秀秋に東軍への寝返りを迷わせたものは何か。

周到に関ヶ原の合戦前夜までを描くことで、本作は6時間で大勢が決したとされる関ヶ原の合戦に重層的な重みを与えている。南宮山にこもったきり出てこなかった毛利軍や、大勢が決した後に敵中突破して薩摩に逃げ帰るまで動こうとしなかった島津軍もきっちり書いている。また、前哨戦となった大垣城や杭瀬川の一戦と前夜の駆け引きまでもが、 カット割りと編集によって 疑心暗鬼と駆け引きが深められているところも本作の見どころだ。また、小早川秀秋の寝返りの瞬間に新たな解釈を与えているのも興味深い。

合戦シーンもリアルに感じた。泥臭く、派手さのない戦さ。突いて、組み付いて、叩く。剣が首を跳ね飛ばすシーンなど一、二回しかでてこない。実際の戦闘はそんなものだったのだろう。後の剣豪宮本武蔵が関ケ原の戦いに参戦していたとも伝わっているが、鮮やかな剣術で斬りまくったという話は聞かない。それも本作を観れば納得できる。また、戦陣の描写もリアル。東西がきれいに二分され対峙した分かりやすさはない。整然とした戦場で、戦況の全てを見極めた軍師の采配が鮮やかに全軍を動かすといったこともない。あちこちで旗印を掲げた集団が槍の穂を組み押し合っている。前後に集団が向かい合い、上下に騎馬武者が行き来し、そこここで鬨の声がこだまする。広大な戦場でそれぞれの軍団同士が組み合って、それぞれの持ち場でしのぎを削る。それが戦場の実情なのかもしれない。本書の三次元、いや、時間も含めると四次元に描かれた戦場は混沌としており、それがとてもよい。実際に関ヶ原を訪れつ私にも、在りし日の戦場が思い起こせるようだ。そしてそのすべてを見ているのは村の地蔵。三成によって転がっていた地蔵が元の祠に安置され、それが戦場に迷い込んだ初芽たちと雑兵によって荒らされ、さらにそれを戦後の実検で訪れた家康によって安置しなおされる演出も良かった。

本作を観ると、石田三成には武運拙くという言葉が似合う。実際、あと一息だったのだと思う。秀忠軍三万五千の軍勢が上田城で足止めされたという幸運もあって、戦況は東西どちらに転んでもおかしくなかった。家康の老獪な根回しが毛利軍を南宮山から動かさず、ギリギリで小早川秀秋の寝返りを生んだからこその敗戦。

戦いの前段から処刑場へ運ばれるまでの日々を石田三成は生きる。自らが信ずる大義を見据えて。その眼差しは、本作で石田三成を演じた岡田准一さんがしっかりと再現してくれている。なんといえば良いか、岡田さんは目で三成を演じている。まるで目前に本物の秀吉が床几に肘をついているかのように。家康と丁々発止の、そして無言の対面を果たすかのように。島左近が戦場で疾駆する様子を見るかのように。岡田さんの三成は、本物の石田三成がこうだったと思わせる迫真性がある。今までも色んなドラマでさまざまな役者さんによって三成は演じられて来た。その中でも岡田三成がもっとも血が通っていたように思う。それはもちろん、役者さんだけの力ではない。監督による三成解釈が官吏三成を前面に押し出さず、血の通った理想主義者として描いていたからだろう。でも、その期待に応えて演じきった岡田さんの演技がすごい。毎回唸らされる。

さらに、家康を演じた役所さんも見事というほかはない。家康もあまたの役者によって演じられてきたが、役所家康も屈指の家康像だったと思う。さりげなく爪を噛む癖や老獪さを醸し出すあたり、家康が現世に現れたらあのような、と思わせた。まるで現し身のよう。

また、他の役者さんもお見事。出番は少なかったが、滝藤さん扮する秀吉の老残の感じや哀れさが流ちょうな名古屋弁によってとても現れていたし、キムラ緑子さんによって演じられた北政所は、一説に関ケ原の戦いの黒幕ともいわれる北政所のしたたかさがよく出ていたと思う。また平さん演ずる島左近が、また歴戦の勇者のつわものぶりを全身にまとっていてとても印象に残った。また、石田三成といえば大谷刑部吉継との友情は外せないが、大場さんによって演じられた大谷吉継の達観した感じが、本作に一層の深みを与えていたように思う。他の役者さんも含めて、役者さんたちの演技に不満はない。スタッフと役者のすべてががっちり組み合い、これほどまでの大作を作り上げたことに感謝したい。

パンフレットによれば、監督の構想は二転三転したという。主役は島左近から小早川秀秋、さらに島津義弘と替わり、最後に石田三成に落ち着いたようだ。その年月たるや構想25年。原作をおそらくは何度も読み込み、あらゆる視点で物語を読み直したのだろう。それが本作の重層的で多面的な描写につながっているはず。まさに監督の想いが詰まった渾身の作品を観たという喜びが全身にわいてくる。すばらしい一作だったと思う。

あえていえば、史実に忠実であろうとするあまり、ケレン味に欠けるところが欠点だろうか。人によってはもっと娯楽に徹して欲しかったという意見もあるかもしれない。もっとも私には欠点ではなく、そのケレン味のなさが良かったのだが。おかげで四回目の関ケ原巡りがしたくなった。次は南宮山や桃配山も登り、三成の逃亡ルートや島津の逃亡ルートも歩いてみたい。

2017/9/1 イオンシネマ新百合ヶ丘


忍びの国


本書を読み終えて一年たったが、全くレビューが書けていなかった。そうこうしているうちに、本書が映画化され封切りされた。本書のレビューもアップしなければならない。そんなわけであわててレビューに取り掛かった。

私が本書のレビューを書かなかったのは、面白くなかったからではない。むしろ逆だ。面白いからこそ、いつでもレビューが書けるとの油断があった。

なんといっても忍者だ。そして本書で扱われているのは天正伊賀の乱だ。つまり織田信長と伊賀者の国をかけた戦いが描かれるのだ。面白くないわけがない。痛快無比な忍術小説というのは、本書のような小説を指すのだろう。実際、さまざまな時代小説を読んできた中で、本書ほど忍術が魅力的に書かれた本は読んだことがない。

火遁や土遁、水遁の術は有名だ。ほかにも本書には多彩な忍びの術が描かれる。たとえば水面に土器を浮かせ、それを足場に水をわたる術。密かな会話を行うための葉擦れの術。人の通らぬ道を選んで這い進むため土の塩味を察する鶉隠れの術。縄抜けのため、全身の骨を変形させる術。ほかにも身代わりの術や手裏剣など、忍術の魅力的な部分がこれでもかと登場する。とても面白い。本書の忍術に関する記載の前後には「正忍記」「万川集海」から参照された旨が載っている。これらは江戸時代に書かれた忍術をまとめた本だ。本書はこれらの忍術本を縦横に活用して描かれている。忍術だけではない。本書が引用する書籍はそれ以外にも多数ある。天正伊賀の乱を描いた「伊乱記」「信長公記」「甲子夜話」など多数の書籍が引用されている。本書巻末には参考文献のリストが載っているのだが、感心するのはそれらがすべて一次資料であることだ。孫引きではなく、一次資料をあたって書かれた本書は、当時の伊賀者が生き抜いた非情な世界と、そこで生き抜くために鍛錬を重ねた伊賀者を生き生きと描く。

伊賀とは古来から土壌が農業に向かず、山あいという地勢もあって複数の小領主に治められていた地。それでいて周辺諸国からは自衛する必要に迫られていた。そんな土地柄は、伊賀者の独特の文化や死生観を育んできた。伊賀者が宿命として背負った戦の世に生きる背景を、本書はきっちりと書いている。それでいて、本書はステレオタイプな伊賀忍者を描くのではなく、魅力的に忍びの者を描いているのがいい。

主人公の無門は伊賀一を自負する忍びの達人だ。だが、安芸からさらってきたお国には全く頭が上がらない。稼ぎが少ないと詰られては、家を乗っ取られる始末。夫婦の契りすら結ばせてもらえない状態だ。めっぽう強い忍びの達人が、家では妻に尻に敷かれているという設定がとてもいい。組織に頼らない一匹狼で、自分の技には自信を持っていて、金稼ぎには興味がない、それでいて妻を思う気持ちが強いところ。人物が深く彫りこまれ、魅力的に描かれているのだ。

門の尻をひっぱたくお国もまたいい。武家の娘でありながら金にがめつい性格として描かれている。が、本書の肝心なところでは、肝の据わったところを見せ、金よりも男の誇りを選ぶよう無門を導く。金と美貌だけで結びついていたように見えるこの夫婦が、戦乱の中で互いの魅力に気づきあうのも本書の魅力といえよう。

本書には猿飛佐助のモデルともいわれる下柘植の木猿、後年石川五右衛門として名を世に知らしめる文吾、武の大義を信じそれに従う日置大膳、伊賀に生まれながら、人を人と思わぬ伊賀の酷薄さに嫌気が差す下山平兵衛、伊賀棟梁として信雄軍に対峙する百地三太夫、本書の敵役であり、伊賀者の反撃に敗戦の責を受ける織田信雄などが登場する。それぞれの人物がとても魅力的に描かれている。

史実では天正伊賀の乱は一次と二次があったという。一次では伊賀が勝ち、二次は織田信長自らの軍勢に伊賀は殲滅される。一次の戦いはなぜ起こり、いかにして伊賀軍は信雄軍を退けたのか。二次ではなぜあっさりと負けてしまったのか。一次の戦いで無双の戦いぶりを魅せた無門は、二次の戦いでは何をしていたのか。

そういった込み入った事情が、著者の鮮やかな筆さばきによって明らかにされる。もちろんそれは史実そのものではなく、著者の脚色や解釈が加えられたものだ。だが、歴史とは、史実に表れていない人々が織りあげる微妙な綾が作り上げていくものではないか。多分、無門は史実には残っていない著者の創造した人物だろう。だからこそ、説得力があるのだ。なぜなら忍びとは世を忍んでこそなんぼ。棟梁でもない限り、後世に名を遺す忍びとは、真の忍びではないからだ。

今のところ、映画版を見に行く予定はない。嵐の大野君が主演するというから、多分無門役を演ずるのは大野君なのだろう。このような無門が映画版ではどう演じられるのか。それはそれで興味はある。

‘2016/07/04-2016/07/06


真田幸村のすべて


本書を読んだ時、NHK大河ドラマ真田丸によって真田幸村の関心は世間に満ちていた。もちろんわたしの関心も。そんな折、本書を目にし手に取った。

編者は長野県史編纂委員などを務めた歴史学の専門家。真田氏関連の著書も出しており、真田家の研究家としては著名な方のようだ。本書は編者自身も含め、9名の著者によって書かれた真田幸村研究の稿を編者がまとめたものだ。

9人の著者が多彩な角度から真田幸村を取り上げた本書は、あらゆる角度で真田幸村を網羅しており、入門編といってもよいのではないか。以下に本書の目次を抜粋してみる。

真田幸村とその時代・・・編者
真田幸村の出自・・・・・寺島隆史氏
真田幸村の戦略・・・・・編者
真田幸村と真田昌幸・・・田中誠三郎氏
真田幸村の最期・・・・・籔景三氏
真田家の治政・・・・・・横山十四男氏
「真田十勇士」考・・・・近藤精一郎氏
九度山の濡れ草鞋・・・・神坂次郎氏
真田幸村さまざま・・・・編者
真田幸村関係人名事典・・田中誠三郎氏
真田幸村関係史跡事典・・石田多加幸氏
真田幸村関係年譜・・・・編者
真田家系図・・・・・・・編者
真田幸村関係参考文献・・編者/寺島隆史氏

ここに掲げた目次をみても考えられる限りの真田幸村に関する情報が網羅されているのではないだろうか。もちろん、他にも書くべきところはあるだろう。例えば真田丸のことや、第一次第二次上田合戦のことをもっと精緻に調べてもよかったかもしれない。また、豊臣家や上杉家で過ごした幸村の人質時代にいたっては本書ではほとんど触れておらず、そういう観点が足りないかもしれない。

あと、本書は小説的な脚色がとても少ない。わずかに九度山での蟄居暮らしを書いた「九度山の濡れ草鞋」が小説家の神坂氏によって脚色されているくらいだ。そのため本書には大河ドラマ真田丸や真田十勇士などの小説にみられる演出色が薄い。劇的な高揚感が欠けていると言ってもよい。だが、そのため本書には史実としての真田幸村が私情を交えずに紹介されている。史実を大切にするとはいえ、伝承の一切を排除するわけではない。人々に伝えられてきた伝承は、伝わってきた歴史それ自体が史実だ。伝承そのものが人々の伝わってきた文化という意味で。また、十勇士を含めた真田幸村の逸話が講談や立川文庫を通して世に広まっていった経緯が史実であることを忘れるわけにはいかない。だからこそ本書は、史実の名である真田信繁ではなく講談で広まった真田幸村という名前をタイトルにしているのだと思う。

それが顕著に出ているのが、講談に登場する十勇士が史実ではどうだったかを分析した箇所だ。実は本書で一番興味深いのはこの分析かもしれない。どこまでが史実でどこまでが虚構の部分なのか。幸村と信繁を分かつ分水嶺はどこにあるのか。それが分析されている。真田幸村ほど虚実取り混ぜて描かれてきた人物もいないだろう。だから、本書のような虚実の境目を明らかにしてくれる書物はとてもありがたい。さらに僅か数ページではあるが、先日読んだ「秀頼脱出」の伝説を検証するかのように、大坂落城後の真田幸村生存説にまつわる挿話がいくつか紹介される。

本書はどちらかというと網羅的に真田幸村を紹介する本だ。一方で編者はなるべく史実に忠実に沿うことを旨としている。虚像の真田幸村を史実として扱うことはできないが、虚像の真田幸村が講談その他で広まったことは紛れも無い史実だ。その釣り合いをどう取るか。それが編者に求められる部分だ。そして本書はその点を満たしているのではないだろうか。

かつて大阪の真田山公園を訪れたことがある。本書にも多数の幸村関係の史跡が紹介されているが、私が未訪の場所も多数ある。上田、九度山、犬伏、大阪近辺の史跡も。そろそろ真田丸ブームもひと段落してきたと思う。時機を見てこれらの場所を訪れ、より深く幸村の生涯を追想してみるつもりだ。

‘2016/03/31-2016/04/01


秀頼脱出


唐突ながら、出版社には格があると思う。格が何かを表現するに、新聞を例にあげると良いだろう。例えばガセネタといえば東スポ、大スポであり、信頼できる新聞といえば日本経済新聞というように。もっともこの例も最近は怪しくなりつつあるけれど。要するに情報の発信元への信頼度を格といい替えてみた。

出版社によってはトンデモない珍説を堂々と出版してしまうこともある。記載された情報を著者の主観だけでろくに裏取りせず、堂々と帯に新説として打ち出してしまうなど。そのようなトンデモ本の類いは「ト学会」に面白おかしく取り上げられ出版社としての格を落とす。そうしたトンデモ本を出す出版社の本は、どれほど真面目な内容であってもエンターテインメントの一種として見られ、読者は読んでいる間、眉に唾を付けっぱなしとなる。出版社や著者にとっては甚だ不本意な話であると思う。

では、本書の発行元である国書刊行会はどうか。国書刊行会は、私にとっては格の高い出版社である。世界のマイナーだが面白い本、日欧米以外の国で出版された名作や前衛作、そして問題作を我が国に積極的に紹介するその志には常々敬服している。格の高さだけでなく志を持っている出版社だと思っている。その二つを兼ね備えた出版社となるとなかなか見当たらない。

正直言って私が本書を手に取ったのは、題名と出版社の落差に興味を持ったからだ。もし本書が私にとって格の落ちる出版社から発行されていれば本書は手に取らなかっただろう。なにせ題名が「秀頼脱出」である。豊臣秀頼は大坂城で死んだのではない、という陰謀説の臭いが題名からもうもうと立ち込めている。そして本書は小説ではなく歴史書の類だ。しかも著者の名は本書で初めてお見かけした。となればなおさら本書は敬遠の対象となる。しかし、そのような偏見を抱きかねない本書は国書刊行会から出版されているのだ。私ががぜん興味を持ち、本書を手に取ったのはそういう経緯からだ。

なお、私は歴史にまつわる伝説の類いは好きだ。高木彬光氏の名著「成吉思汗の秘密」はそれこそ10回は読んでいる。こういう悠久の歴史の中で遊ぶロマンは好きだ。史実を金科玉条のように崇め奉るだけではロマンは生まれない。しかし、ロマンはロマン。それを史実として吹聴することについてはちょっと待て、と思う。

秀頼が死なずに薩摩辺りに逃れたという説があるのは以前からおぼろ気には知っていた。だが、今までの私は太閤の栄華を惜しむ民衆の心情が作り上げたよくある陰謀説の一つとしてあまり本気にしていなかった。

わたしがここに来て秀頼の脱出に興味を持った理由は二つ。一つは先日読み終えた「とっぴんぱらりの風太郎」だ。(レビュー)。秀頼はこの本において主要な脇役として登場する。その哀愁と愛嬌の両方を備えたキャラ設定には親しみを覚えた。そして「とっぴんぱらりの風太郎」は大坂城の大爆破でクライマックスを迎えるのだが、秀頼の最期は曖昧に描かれていた。果たして「とっぴんぱらりの風太郎」の中で秀頼はどうなったのかという疑問が喉に引っ掛かっていた。

もう一つは大河ドラマ真田丸の存在だ。本書を読んだ時点ではまだまだ先だが、いずれは秀頼の最期もドラマ内で映し出される日も来るのだろう。その時に秀頼の最後がどう描かれるのか、という興味だ。結局、私は真田丸の視聴を途中で断念してしまったのだが。

本書では秀頼脱出に真田大助が先導役を果たしたという説まで紹介されている。著者の探求は幸村一行の消息までは及んでいない。著者が追及し検証するのはあくまでも秀頼が大坂城を脱出し、薩摩へ逃れたという仮説の構築だ。そこに著者は重きを置いている。

その検証を進めるにあたり、著者の姿勢は慎重この上ない。そもそも著者が秀頼脱出説に興味を持ったのは、木下家の現当主、木下俊凞氏から木下家に一子相伝で伝わる伝承を教えてもらったからだという。その伝承とは、秀頼の遺児国松は京で斬首に処せられたのではないというものだ。豊臣秀吉の若き日の姓名が木下藤吉郎であることはよく知られている。諸説はあるが木下とは父の名乗っていた姓だという。そして秀吉の死後は秀吉の妻北政所の一族が木下家を継いだという。いずれにせよ木下家は秀吉に縁ある家柄だ。江戸幕府からは一定の配慮を受け江戸時代を生き延び、今に至っている。そんな一族に伝わる伝承だからこそ、著者は俗説として退けず、真剣に向き合ったのではないか。

さらに著者は、ある縁で多田金山に眠る伝説に真田幸村の家臣として知られる穴山小助が絡んでいたことを知る。太閤埋蔵金伝説で知られる多田金山には、今も眠ったままの財宝があるという。金山の資金の一部は、大阪冬夏の陣や秀頼の薩摩行きにあたり豊臣家のためとして使われたという。こういった周辺の伝承も、著者の心を調査へと駆り立てる。

著者は秀頼脱出説の真偽を調べるため九州へ飛ぶ。木下家に伝わる伝承によると、木下家が藩主となった立石藩5000石から初代藩主木下延俊の意思によって日出藩が分家された。日出藩の藩主となった人物こそ、大阪城から逃れた国松ではないかと著者は推測する。そこには立石藩主木下延俊が設けた子の名前が六人とも同じ縫殿助という名となっていて、いかにもな証拠となっている。

一方、国松の父秀頼は薩摩の谷山でかくまわれ、そこで子を成したのち45歳で自死した伝承が残っているらしい。それを裏付けるかのように地元には秀頼が薩摩に来た伝承が野史に残っていたり、秀頼の墓と伝わる石塔が今も立っている。著者はそれらの伝承は確認したものの、それ以外に碑や墓、書状という明確な形では確証が得られなかったようだ。本書にはそのことが正直に記してある。

著者の探求はかつて日出藩があった今の日出町へと向かう。日出藩菩提寺だった松屋寺には豊臣と銘された石柱や石灯籠が多数並んでいる。それらは写真として本書に紹介されている。また、日出藩領にある長流寺は、他の寺にはあまり見られぬ場所に石柱が立っている。その石柱にはただ一言『興亡三百年』と彫られている。これも写真で掲載されている。

著者が住職に伺った話でも、国松が立石藩初代藩主延由であることは公然の事実として伝えられているらしい。位牌にも豊臣の名が刻まれており、その位牌の写真も本書に紹介されている。

こういった著者の探求は、読者をして国松生存説に傾かせるには魅力的だ。冒頭に書いた通り、国書刊行会という名のある出版社が本書を出すからには相当の裏付けがないと難しい。著者が調べて本書に掲載した裏付けは、国松生存説を補強し、出版に踏み切らせるだけの強力な調査結果だったと思われる。

あとは秀頼である。秀頼は著者の調べるによると宗連と名を変えて薩摩に住んでいたという。だが、薩摩には確とした痕跡が残されていない。薩摩藩としては幕府の目を憚って証拠を残さぬように処置したのだろうと著者はいう。そして、著者の主張する通り国松生存が濃厚であれば、秀頼もまた生存していたと考えるのが自然である。薩摩には秀頼生存の確とした証拠がない代わりに、あちらこちらに伝説は残されている。著者はそれらの説も紹介するのだが、秀頼生存説の決定打となる証拠がない。

膠着状態の著者を救うかのように、埼玉の木場氏という方からの連絡がある。木場氏は、自家に伝わる一子相伝を語る。それによれば豊臣家に仕えた馬場文次郎という武士がいて、この人物が秀頼の大坂城脱出にあたって多大な貢献を果たしたとか。そのため、島津藩では木下の”木”と恩人である馬場の”場を組み合わせて木場という家を創設し、秀頼の子孫に名乗らせたというのだ。木場家では一子相伝の口伝として代々伝承されているというのだ。

木場家の伝承は歴史ロマンとしては魅力的だが、正直いって口伝なのが弱い。口伝だけでなく手紙や書状が残っているのであれば、本書でその手紙を紹介して欲しかったのだが。

また、木場家の伝承の中では真田大助が落ち延びる秀頼と鶴松に同道して薩摩へと向かったとあるようだ。木下家に伝わる一子相伝にも木場家に伝わる一子相伝にも、真田幸村ではなく大助が薩摩落ちに関係したという。双方の一子相伝を信ずるならば、真田幸村は薩摩に落ち延びず大助だけが落ち延びたことになる。つまり真田信繁の名を日ノ本一の兵として高めた大坂の陣での活躍は、死なずに落ち延びたという行いに汚されなかったことになる。これには正直ほっとした。兵をおいて将が薩摩に落ち延びたとすれば幻滅だからだ。

本書では巻末で私も初耳の説が紹介されている。それによると秀頼が設けた息子の一人に羽柴天四郎秀綱がいたという。そして島原の乱の首領であったと記された文書があるという。いうまでもなく天草四郎である。また、そこには秀頼自身も参戦していたともいう。その書状も本書には紹介されていないし他の証拠もない。これが本当なら歴史ロマンの花開く話なのだが。

著者が本書を世に問うた後、どのような調査を行ったのか。そして日本の史学会が秀頼脱出説をどう扱ったのか。そのことをとても知りたく思う。史実として秀頼脱出を認めるわけではないが、火のないところに煙は立たないともいう。何がしかの新事実があるのならなおさらだ。脱出説には関係なく、秀頼を再評価する動きも歴史家の間にあるとも聞く。戦国の世を締めくくる合戦の大将の末路が、城と共に飛散したのか、それとも今の世まで脈々と伝わっているのか。それはとても興味があるのだが。

‘2016/03/22-2016/03/24


とっぴんぱらりの風太郎


関西人である私にとって、万城目ワールドはとてもなじみがある。デビュー作から本書までの7作は全て読んでいる。特に長編だ。京都、奈良、大阪、長浜。それら関西の町を舞台として繰り広げられる物語はとても面白い。古い伝承が現代に甦り、波乱を巻き起こす。関西の言葉や文化で育った私にはたまらない。物語の構成は、古き伝承をモチーフとし、現代を舞台に進行する。伝承を題材にしつつ、現代を舞台に奇想天外な物語を産み出す著者の作品は、読者をわくわくさせてくれる。

そして本書だ。

本書は著者の新境地ともいえる一冊に仕上がっている。本書の舞台は過去。現代は全く出てこない。つまり、著者にとっては初の時代小説となる。

本書の主役は抜け忍の風太郎。伊賀の衆だ。伊賀は言うまでもなく忍びの里だ。山間の小国は忍びの技を研ぎ澄まし、動乱の戦国の世を生き延びてきた。天正伊賀の乱など周辺国からの弾圧を跳ね除け、忍びの国として生き残る。それを可能としたのは苛烈な忍びの掟。弱者は容赦なく切り捨てられ、一人前の忍びとして生き残るのは一握り。幼い頃から風太郎を縛り付けてきたのは、ただ冷徹な忍びの掟だった。そんな過酷な環境で生き残びた風太郎の周りには一癖ある連中ばかりが残っている。子供時代からともに切磋琢磨し、生き延びた仲間達をも瞬時に裏切り、相闘うことも辞さない。そこにあるのは非情な関係。

そんな日々の中、伊賀上野城を舞台とした密命を帯びた風太郎は、侵入にあたって石垣を傷つけてしまう。伊賀の殿様は、築城の名手として知られる藤堂高虎。本書では異常なほど城に偏愛をもつ人物として語られる。

城を傷つけた下手人には死あるのみ。風太郎は死をもって失敗を償わされそうになる。それを救い、死んだことにしてくれたのは、忍びを統べる采女様。

忍び失格として伊賀を放逐された風太郎は、当てもなく京にでる。太閤秀吉亡き後、風太郎が棲みつく京は徳川家の威風に服している。天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し、徳川家にとって残る仮想敵は大坂城だけ。大坂城の秀頼・淀殿と徳川家の間に張り詰めた緊張は、京の街にも及んでいる。そんな大坂冬の陣を間近にして、風太郎は京でその日暮らしを送る。

風太郎は、劣等感に塗れている。忍びを逐われ、根なし草となった自らの境遇に。だが、江戸と大坂の間に張り巡らされた陰謀の糸は、風太郎の人生を変えて行く。

今までの著者の作風とは違い、本書は時代小説の骨格をがっちり備えている。では、時代小説に手を染めるにあたって著者は作風を変えたのか。今までの著者の作品の底に流れていた大真面目に奇想天外を語る魅力。その魅力はうれしいことに本書でも健在だ。

本書では、瓢箪に宿る因心居士が物語のトリックスターのような役割を果たす。ところどころでひょいと風太郎の前に現れては、風太郎の生きざまを導いていく。

また、風太郎の周囲には個性的な人物達が登場し、風雲があわただしさを増す京の町に暗躍する。風太郎とともに伊賀で忍びの掟を生き抜いた忍び、黒弓、蝉、百市。さらには故太閤秀吉の奥方である北政所。京都所司代の隠密として風太郎を付け狙う残菊。産寧坂で瓢箪を商う飄六で働く芥下。さらには、大坂城にいるはずのあのお方。風太郎を取り巻く登場人物は一癖も二癖もある連中だ。

本書は全編が極上の伝奇時代小説の趣に満ちている。本書は娯楽として読んでも無論面白い。特にラストなど、大団円に相応しい派手な幕切れである。しかし、本書には娯楽小説としてで片付けるにはもったいない深みがある。

大坂の陣といえば、応仁の乱に端を発した戦国時代を締めくくる出来事として知られる。戦国の世の終わり。それは忍び達が要らなくなる時代の到来でもある。徳川の世になって、もはや忍びの技能は滅び行くしかなく、種族としても時代の流れに取り残されてゆく宿命を背負う。そんな時代の変わり目にあって、忍び一族の哀しみが書かれているのが本書だ。そもそも風太郎からして、伊賀に戻りたくても戻れない忍びの成れの果て。戦国の殺伐とした世にあっては忍びの世界では抜忍成敗。使えない忍びは死ぬ他ない。風太郎のような立場で生きていけることがすでに時代の移り変わりを表している。黒弓、蝉、百市といった忍びもまた同じ。忍び以外の職に身をやつしながら密命を帯びて行動している。

つまり、時代の変わり目にあって人はいかに生きるのか。そこに本書のテーマが見え隠れする。

そして、大坂の陣を目前にして、感慨にふけるのは忍びだけではない。

豊臣家の人々の上にも滅びの予感が濃い影を落としている。豊臣家もまた、戦乱から平和への時代の変わり目に取り残されようとする一族だ。そして本書に登場する主な豊臣方の人物は、そのことを自覚し覚悟を決めている。それは北政所のねねと秀頼公だ。それとは逆に、滅び行く豊臣家に与して戦国の仇花を散らそうとする武将たちはほぼ登場しない。大坂の陣に登場する著名な大坂方の人々は本書にはほぼ出てこない。例えば、真田幸村や毛利勝永、後藤又兵衛といった人々。大野治房は一瞬だけ登場するが、淀殿はほぼ
登場しない。

豊臣家の滅亡を予感した人々、忍びが要らざる世を感じ取った人々。本書は時代の変わり目にあって、去り行く人々の潔さ、または美学を書いた小説なのかもしれない。

その象徴こそが、本書の幕切れを飾る大坂城が倒壊する様子だ。むしろ小気味良いといっても良いほどに、戦国の世の終焉を知らしめる爆発や火災は、本書のテーマに相応しい。

‘2016/02/10-2016/02/15


火天の城


世に歴史小説の類いは多々あれど、城郭建築をここまで書いた小説ははじめて読んだ。

もちろん、私はあらゆる歴史小説を読んでいる訳ではない。むしろごく一部しか読んでいないほうだろう。なので、私が知らないだけということもありうるだろう。それを踏まえていうと、ほとんどの歴史小説の主人公は武将や戦士や政治家ではないだろうか。僧や剣豪などもそれらの人々に含まれる。彼らは一国の内政や外交や軍事に専従し、采配を振るっては国を動かす。いってみれば彼らは歴史の表舞台で演ずることのできる人々。

しかし、本書の主人公は大工の棟梁だ。それも、戦国時代には欠かせない城郭建築を指揮する棟梁。つまり戦国史においては裏方となり、表に出ることの少なかった人々だ。そんな棟梁が主人公の歴史小説はあまりなかったように思う。少なくとも私は今まで読んだことがなかった。

戦国武将の中には、城郭建築の名手と言われる人物がいる。加藤清正公や藤堂高虎公などはその中でもよく知られた存在だ。が、彼らとて図面を引いたり工作したりといった建築の実作業を本職としていたわけではない。あえていえば、彼らは城下町も含めた城郭全体を脳裏に描き、それを大工に伝えることに長けていただけ。いわば、構想と施工の主に過ぎない。

つまり、彼らの構想は、それを形に写し出す技術者がいて初めて世に出るのだ。技術者つまり棟梁が居ないことには、城郭が形になることはない。それなのに、城を実際に建てた棟梁の名前となると、すぐには浮かんでこない。戦国時代には多くの城が建てられ、その多くは現代にも残っている。しかし棟梁の名が後の世に伝わっていることはほとんどないのだ。本書の主人公である尾張熱田の棟梁岡部又右衛門も同じ。おおかたの棟梁の事跡など歴史の地層に埋もれてしまっている。

だが本書は大工の棟梁つまり技術者が主人公だ。彼らの技術に焦点を当て、技術者としての矜持を描き出す。技術者の苦労に光を当てた本書は、私にとっては新しく興味深かった。

では、今まで城郭建築の面白さを書こうとした作家はいなかったのだろうか。私はいたと思っている。城は戦国の世に咲いた華。これほど目立つ存在なのに、その裏側を書こうとした作家がいなかったはずはない。ではなぜ、棟梁を主人公とした作品はあまりないのか。

その理由はいくつか挙げられそうだ。華や見せ場に欠けるという理由もあるだろう。だが一番の理由は、資料の難読性にあったのではないか。ただでさえ読みにくい古文書が、技術的な記載に埋められているとしたらどうだろう。それを小説として成り立たせようという作家は準備の時点で膨大な労力を強いられることになる。その労力を前にして、城郭建築を小説化しようとする幾多の試みが挫かれてきたのではないだろうか。

そう考えると、本書の重みも一層増すというものだ。著者が本書を書くにあたっての準備は並大抵のものではなかったはずだ。当時の古文書を読み込み、築城にあたっての苦労や挫折を調べ尽くす。その準備の上で本書を小説として面白く仕立て上げるための構成を練る。

結論からいうと、著者はそのすべてを成し遂げている。

特に、著者が苦労したのは棟梁が直面する技術的な苦労をいかに読者に伝えるか、ではないか。斬新な建築様式や城主の大仰な理想を形にするにあたって、棟梁の工夫や努力によって乗り越え実現する過程は、小説的な面白さに満ちている。むしろ、著者にとっては本書に小説的な面白さを加えることは楽だったのかもしれない。なにしろ、本書で取り上げるのは安土城なのだから。

安土城といえば、天下布武の拠点としての絢爛な姿が語り草になっている。そして、本能寺の変から間もなく徹底的に破壊されたことでも知られている。小説のネタとなるエピソードには事欠かないのだ。また、安土城には詳細な図面が現代に伝わっているともいう。なので、著者にとっての難業とは、築城術の奥義を小説に分かりやすく組み込む作業だけだったのかもしれない。

本書は、主君信長がまだ尾張の小領主時代、つまり大うつけと呼ばれている頃から始まる。棟梁岡部は、熱田神宮の練塀修理を信長から命ぜられ、見事に完成させたばかりか、門に個性を施した見事な普請を披露する。それが熱田神宮の祭神の御魂に届いたのか、主君は桶狭間の戦いで今川義元公を討ち取り戦国覇者へ名乗りを挙げる。大勝の陰に主人公の奉納練塀の功もありとして、主君に取り立てられることになる。主君が覇業への一歩を踏み出すごとに、岡部棟梁も付き従って拠点を移すことになる。やがて、安土こそが天下布武への拠点に相応しいとの主君の命によって、棟梁岡部は安土への築城を行うことになる。

安土への築城は、一筋縄ではいかない。なかでも棟梁を悩ましたのは、天守を七重の南蛮天主堂のようにせよとの主君の仰せ。つまりはキリスト教の教会によく見られるドーム状の巨大空間付きの天守だ。バテレンから最新の南蛮渡来の文物を見せられた主君は、すっかり南蛮びいきになってしまったというわけだ。

さらに主君の要望はドーム状の空間の上に、君主の居住空間を載せることにまで及ぶ。その無謀さと難解さはわれわれのような建築の素人にも想像できる。さらには天下布武の意向を世に知らしめるため、天守を金箔で覆う指示も加わる。重量は余分に嵩み、棟梁岡部の悩みも増す。

はたして命ぜられた工期内に天守と臣下の者たちが住まう町作りは成し遂げられるのか。そんな興味がページを捲る手を止めさせない。

著者はさらにさまざまな妨害を棟梁岡部の前におき、彼の悩みを一層深める。例えば六角氏の残党。めっきり勢力は衰えたとはいえ、本拠地観音寺城の目前に安土城を堂々と縄張りされて気分のよいはずはない。忍びを使って妨害工作を仕掛ける。柱に用いる巨木の調達も難儀である。畿内にはよい樹がない。それで敵地である武田領木曽産のもの、それも伊勢神宮遷宮の御柱用に用意されていたものをはるばる運ぶ安土まで運ぶことになる。また、堂々たる巨石が見つかったことで城の礎石とせよとの命が下り、途方もない重さのそれを山上へと運ばねばならなくなる。

混乱や大事故を乗り越え、棟梁岡部や総奉行丹羽長秀の苦心の甲斐あって、安土城はいったんは竣工なる。棟梁の面目は立ったものの、竣工後もあまりの重さに天守全体が沈下するなど、苦労は絶えない。

日本の歴史には、幾度となく文明流入の潮流があった。その中でも初めて西洋の技術を用い、西洋の意匠に合わせた安土城築城は屈指の出来事だったのではないか。築城に当たっての棟梁岡部の苦労の数々は、あたかも技術立国日本の原点を目の当たりにするようだ。本書では又右衛門とその息子以俊の職人としての魂と技の引き継ぎが描かれていることは見逃すわけにはいかない。親と子、棟梁と弟子の間に生じる葛藤や軋轢があり、はじめて匠の技は受け継がれていくのかもしれない。そうやって大工の誇りと技術が今日に至るまで日本の底で受け継がれてきたことは特筆しておかねばなるまい。

だからこそ、当時の技術の粋を極めた安土城が破砕されたことは惜しまれる。通史では本能寺の変の後の出来事は、中国大返しから山崎の戦いが描かれることが多い。だが本書は通史の本流にはあまり紙数を割かない。替わりに書かれるのは、安土城がこの世から抹消されるまでの経緯だ。そしてその経緯の一部始終は棟梁岡部によって目撃されることになる。己が築き上げた畢生の作品が亡きものになってゆくのを見守る棟梁の心中が察せられる切ない場面だ。

技術力がどれだけ進もうとも、覆らない真理もある。一度は完成したものが衰え風化してゆくのは必然といってもよいだろう。下剋上の風が幅を利かせ、既存の観念が無用となった戦国の世。そんな時代にあって、権力のはかなさや象徴の頼りなさを誰よりも心に刻んだのが棟梁岡部だったような気がする。

‘2015/11/25-2015/11/26


武田家滅亡


武田家滅亡。そのものズバリの題名だ。だが、私にとってこの題名はそれだけではなく、何か響くものを感じる。

それは、私にとって武田家とは滅亡した一族ではないからだ。

確かに戦国大名としての武田家は、最後の当主勝頼公が勝沼近くの天目山で自害して滅んだ。と、されている。が、滅亡の際、武田家に縁のある人々が八王子辺りに逃れたことは戦国史に詳しい方なら既知の話だと思う。私の妻が昔から親戚同然でお付き合いしている方は、まさしく八王子の武田さんという。私も以前、自宅にご招待頂いたことがある。詳しい系図を伺ったことはないが、おそらくは直系でないにせよ、武田家初代義光公のご縁に連なる一族なのではないか。

我が家は「週末は山梨にいます」と銘打たれた観光ポスターのコピーがはまるほど、頻繁に山梨を訪れている。また、ここ数年は友人と連れ立って武田家関連の史跡の訪問も重ねている。ただ、私にとって心残りなのは、未だに天目山の景徳院に訪問できていないことだ。それもあって武田家滅亡については一度きっちり勉強したいと思っていた。そんなところに本書を見かけ、手に取った。

だが、本書を手に取ったのは題名もあるが、著者の存在も大きい。というのも本書を読む8ヶ月ほど前、先に書いた友人と共に著者の講演を拝聴させてもらっているからだ。それは小田原市で行われた嚶鳴フォーラムでのこと。著者は北条氏五代を題材にとり、小田原の城郭都市としての成り立ちについて話されていた。その講演の際、私の印象に残っているのは、自己紹介でIT系の会社から作家への転身を成し遂げたとのくだりだ。IT系の会社から歴史作家への転進というのは、なかなか興味深い。私が飯を食っているITの世界の激務の合間を縫い、歴史を紐解きそれを物語りとして世に問うことは早々出来ることではない。それで著者にはなおさら興味を持った。それ以来8か月、本書が私にとってようやくの著者デビューとなる。

本書の舞台は戦国時代の甲斐国。長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてすぐの武田家の本拠が舞台だ。武田家は信玄公亡き後、勝頼公が後を継ぐ。が、武運拙く長篠の戦いで一敗地に塗れることになる。本書では長篠合戦大敗の後、再起を果たさんとする勝頼公を中心に、それぞれの思惑を抱えた武田家の人々が描かれる。

複数の人々の思惑を描くにあたり、本書は複数の視点を語り手として物語を進める。その視点とは勝頼公、勝頼公の継室で北条夫人として知られる桂、そして長坂釣閑斎、などの人々のそれだ。

戦国時代といえば下克上の世として知られている。しかし、主従の縛り以上に軽視されたのは契約と女性だ。とくに武田家が治める甲斐は、相模の北条、駿河の今川、のちに徳川、そして越後の上杉などの強国に囲まれる地勢にあった。外交が固まらないことには国の経営も難しい複雑な国情。そんな山国が戦国の世を乗り切るには、犠牲にしなければならないものも多々あったはず。それは契約に左右される人々の運命であり、政略結婚という名の輿入れを強いられた女性たちだったろう。そして、信玄公の治下、一枚岩だった人々の思いは、その重石が取れたことによって千々に乱れ、それが武田家を滅亡へと導いて行く。

著者の筆さばきは、このあたりの人々の思惑を丹念に描いていく。それぞれの時局でなぜそのような判断、決定が成されたかをおざなりにせず、きっちり書き込む。そのあたりの論理の構築と、プロセスの進展は見事というほかない。著者がIT業界で培ったスキルの賜物だろう。

山に囲まれた武田家がなぜあれほどの軍勢を養えたか。その財源が黒川金山と湯之奥金山から算出される金にあったことは、武田家に関心がある方にとってはよく知られる事実のようだ。私も以前、湯之奥金山に訪れたことがあるが、往時はかなりの金産出量を誇っていたと聞く。それが信玄公存命中から枯渇の兆しを見せたことが、武田家の政策を誤らせたと著者は見る。

教科書的知識では、武田家の衰滅の因は長篠の戦いで騎馬軍団が信長軍の鉄砲隊に全滅させられたことにある。しかし、著者はそこに決定的な原因を置いていない。武田家の軍勢は長篠の大敗後もまだ戦国大名としての体裁を保っていた。しかし、著者の解釈では、長篠の戦いで信玄公の薫陶を受けた宿老たちが戦死し、そこに乗じて権勢を手にしたのが長坂釣閑斎で、彼が国策を誤らせた元凶としている。

釣閑斎は、信玄公直々の薫淘を受けた宿将ではない。どちらかといえば信玄公の父信虎公に属していた。そのため、信玄公の治下にあっては不遇を囲っていた。また、信玄公の嫡男義信公が、父への謀反を疑われて自害を命じられた事件に連座して我が子源五郎を殺されている。本書は、釣閑斎がその処遇に関する私怨を宿老たちに抱いているとの設定だ。そのような暗さを視線に含む釣閑斎が、枯渇した金山の替わりとなる財源を求めているところに、上杉景勝公の名代として訪れた直江兼続の見せ金に目がくらみ、伊豆の土肥金山を狙って北条との絆を断ったのが武田家衰亡のはじまり。そう著者は分析する。このあたりは甲陽軍鑑にも書かれている話らしく、真偽は不明ながらも一定の評価を得た史観を題材に筋が組み立てられていることがわかる。ただ、それだけでは足りないので、釣閑斎に宿老への暗い私怨を抱かせ、それが信玄公の遺した国策と違った方向へ武田家を導いたというのが著者の描いた構図である。

本書の幕開けは、北条家から勝頼公の正夫人として政略結婚で輿入れしてきた桂の描写で始まる。だが、桂と勝頼公の蜜月は、北条家と武田家を土肥金山欲しさに離間させようとする釣閑斎の謀りの前に、あっけなく崩される。しかし、勝頼公に遠ざけられてもなお勝頼公を信じ、武田家のために生きようとする桂のけなげさが、政略ロジックが縦横する本書にあって、彩を放っている。

一方、甲斐武田家最後の当主である勝頼公。ともすれば暗君として見られがちな勝頼公は、最近の研究ではむしろ武に優れ、英明な君主だったとの見方をされている。だが、自身が諏訪氏を継ぎ、信玄公の治下にあっては世継ぎではなく義信公の下に置かれていた立場から一点、義信公の謀反死によって後継ぎの座を得られた。そんな経緯が勝頼公に遠慮を抱かせ、それが君主としての隙を産み、ひいては釣閑斎に乗じられる悲劇を生んだというのが著者が勝頼公に投げるまなざしだ。なので、本書が勝頼公を書く筆致には愚かさというよりは哀しみを感じさせる。釣閑斎の奸計で遠ざけられた後、桂が勝頼公の誤解を解き、再び夫婦として愛を育む。その時すでに二人には残された時間は限られており、事態は急流のように二人を死へと追いやる。そのあたりの悲哀が武田家滅亡を弔う調子となって効果的に響く。

本書で二人の夫婦の周辺を固める人物達の造型も実に豊かだ。

釣閑斎が権勢を築くなか、釣閑斎の政策への反対派として追放した武士が何人か登場する。そのうち小宮山内膳は修験者や旅の僧に身をやつし、武田家に恩返しする日を待っている。また、同じく追放された辻弥兵衛は徳川に仕官するために間者に身を落とし、武田方の高天神城の落城に暗躍し徳川方に恩を売ろうとする。

その高天神城では伊那の地侍の片切監物と宮下帯刀と四郎佐の親子三代が徴兵され、守りについている。高天神城の落城後、城内にいた武田家の姫君を甲斐へ落ち延びさせる役割を担い、勝頼公の敗走ルートを辿ることになる。

こういった人々が、武田家の最期に向かって天目山に集ってゆく。そして武田家の最期を飾るに相応しい舞台の登場人物としてそれぞれの役割を果たす。最期の最期まで辻弥兵衛の策に踊らされ、勝頼公と桂が一縷の望みを掛けた亡命策まで奪われてしまう筋の組み立てには隙がない。小山田信茂公も土壇場で主君を見限った不忠者として後世に汚名を残しているが、案外真相は本書で書かれたような徳川方の離間策に嵌ったためではないだろうか。そして小宮山内膳は最後に盟友辻弥兵衛を武田家の家臣として名誉のうちに葬り去り、片切四郎佐は四郎佐は勝頼公の最期まで共に戦い、命を落とす。共に武士道を体現したかのような鑑のような最期を遂げる。そしてその父帯刀は姫君を八王子まで落とすという役割を全うする。

あの武田軍団が最期は十数騎を数えるほどまで残骸をさらし、勝頼公と桂は、そして嫡男である信勝は武田家の最後に恥じぬ自死を遂げる。そして全てが終わった後に姫君を送り届けた帯刀が彼らの遺骸を懇ろに葬り、故郷の伊那に帰ったところで物語は終わる。

武田家の家臣達の多くは徳川家に丁重に迎えられ、江戸時代を全うした家も多いと聞く。あまりにあっけなく滅亡した武田家だが、早晩山国の甲斐では衰退は避けられなかったのかもしれない。しかし「人は城 人は石垣 人は堀」という言葉を残した信玄公は未だに甲州各地で偲ばれている。それは伊那に帰った帯刀のような人物がその威徳を伝え残したためだろう。国破山河在で知られる杜甫の春望を例に引くとすれば、国破人声在と400年以上も人々の声を残し続けたのが武田家だったのではないか。

見事な滅亡の謎解きと、ロジックを越えた所にある人の心情や友情を書き尽くした著者はただただ見事。IT系の企業出身であることは嚶鳴フォーラムの自己紹介で知っていた。が、本書の奥付の記載で著者が日本IBM出身であることを知った。猛烈に働く人々の多いかの会社から著者のような作家が登場したことに例えようもないほどの励みをもらった。行きたいところがありすぎる私だが、なるべく早く天目山には訪れたいと思っている。おそらくは著者も立って、武田家に思いを馳せた場所で。

‘2015/9/24-2015/9/28


翔る合戦屋


第一作の「哄う合戦屋」で鮮烈なデビューを果たした石堂一徹。巻末で、落ち延びる遠藤軍を追う仁科盛明の軍勢を山間の狭間で止めようとする一徹と六蔵。若菜の為なら命をも顧みない男気溢れる結末は、強烈な印象を残した。

第二作と第三作の「奔る合戦屋」上下巻では、時代を遡る。そこでは遠藤家に仕官する前の一徹が描かれる。村上義清の配下にあって、若き一徹は村上軍の中でも戦上手の伝説を作り上げていく。しかし、理に勝ち過ぎ周りが見え過ぎる一徹の戦略は、主村上義清の戦術を凌駕するに至り、主従間の溝は大きくなる一方。ついに、一徹の戦略を苦々しく思っていた村上義清は独断で武田軍に小競り合いを仕掛ける。そこには折悪しく一徹の愛する朝日と子供たちと一徹子飼いの郎党として手塩にかけて育て上げてきた三郎太がいた。

主村上義清の器を見限り、放浪した挙句、一徹が辿りついたのは遠藤家の領地。そこから、第一作の「哄う合戦屋」に繋がる。

そして、本書は第四作「翔る合戦屋」である。第一作の終わりで一徹と六蔵は仁科勢を食い止めようと死地に身を投げる。しかし仁科盛明は遠藤家を追ったのではなかった。それよりも、遠藤家の武名を一手に負っていた一徹を武田家に招きたいという。しかし、一徹は「故あって武田家に帰参することはできない」と云う。著者が第一作「哄う合戦屋」の後に第二作、第三作で一徹の過去を語った理由はここにある。妻子を武田家配下の者どもに殺された一徹が武田家の旗下に参ずることはありえない。そのことは「奔る合戦屋」上下巻の読者にはたやすくわかることだ。つまり第一作の後に一徹の過去を語った後でなければ、続きは書いてはならないとしたのだろう。なお、本書では他にも「奔る合戦屋」上下巻を踏まえた記述が出てくる。なので、本シリーズは書かれた時代順ではなく、刊行順に読むのが正しい。

第一作では、遠藤家の主君吉弘は戦で一徹と張り合おうとする。挙句、豪族連合軍があっけなく仁科軍の裏切りにあって瓦解すると、己の愚を悟る。そして一徹に許しを請うとともに、若菜を一徹にやると云い捨てて逃げ去る。

晴れて夫婦となることを許された一徹と若菜は、仮祝言を挙げて閨を共にする。若菜は朝日がかつてそうだったように、一徹の賢夫人として輝きを増す。一徹が調略で得た仁科盛明の家族の懐にも入り込み、そのカリスマ的な魅力の本領を発揮する。一方、中信濃(安曇郡全域と筑摩郡北部)に領地を得た遠藤家は、来たる武田家の侵入に備えて領地経営に精を出す。一徹もまた、門田治三郎に銘じて攻城車を作らせるなど、戦の準備に余念がない。

内政と軍事の準備を進める中、一徹は外交にも気を配る。そして、かつての主君村上義清の許へ向かう。武田軍との戦いに備え、遠藤家と同盟するよう意を尽くして語る為だ。9年ぶりに訪れた石堂村、父や兄との邂逅の様子などが描かれる。このシーンもまた「奔る合戦屋」上下巻を読んでいないと分かりにくい。

物語はやがて風雲慌ただしくなる。武田家の侵攻が迫るのだ。そこでは一徹の戦略が功を奏し、武田晴信は砥石城攻略に拘った挙句に、多大な時間と将兵を喪うことになる。世に言う「砥石崩れ」である。しかし、その機に乗じて村上義清は晴信本人の首を獲ることに失敗し、晴信は何とか本拠に逃げ帰る。

晴信が叩かれたその隙に深志城を奪取することを画策する一徹。深志城とは今の松本城のこと。大きな濠が特徴的な名城である。おそらくは当時も濠があったのあろう。その濠を攻略するための攻城車が図に当たる。武田軍の拠点としての深志城をあと一歩のところまで追いつめる遠藤軍。しかし、晴信が放った苦し紛れの流言策があたり、晴信が攻めてくるとの恐怖心に慄いた村上義清の離陣によって、深志城奪取はならなかった。

それによって、信濃制覇目前にして大魚を逃した一徹は、深く自信を喪失する。そして煩悶し、己の生き方について深く考える。

一徹が至った結論は、軍師廃業である。では何を生業とするのか。それが、第一作から一徹の特技として再三出てきた木彫の技である。おそらく著者は第一作で一徹を登場させた時から、この結末を見据えて書き継いできたのではなかろうか。

一徹は己の後半生を軍師ではなく木彫師として生きようと決意する。その落ち着き先は越後。この当時の越後と云えば上杉謙信がすぐに想い出される。この時はまだ長尾景虎と名乗っており、越後国内の統一もままならない状態。だが、一徹は景虎の中に己に似た軍才を見出し、景虎もまた一徹を伽衆として己の領内に取り込もうとする。なお、本書の舞台は天文十九年。天文十九年は川中島の第一次合戦が戦われる3年前である。つまり本シリーズは川中島合戦のプロローグでもあるのだ。本書を読んだ方には、川中島合戦で軍神と呼ばれた上杉謙信の背後に一徹の影を見るはずだ。

以降、一徹は己の果たしえなかった夢を越後の虎に託し、若菜と共に物語から去る。そして遠藤家の面々や仁科家にもきちんと落とし前をつけて本シリーズの幕を引く。実にあざやかとしか言いようがない。かつて一徹は朝日や若葉、桔梗丸や三郎太を亡くした。同じ轍を踏まない結末は、なるべく簡潔に戦を収める一徹の面目躍如と云えよう。

後書きで著者自身が明かしているが、史実に残る武田晴信、村上吉清、仁科盛明の動きと、本書で書かれた彼らの動きには些かの矛盾もないという。史実を歪めず、その上で史実の間隙を縫うかのようにして、一徹や遠藤吉弘、若菜といった架空の人物を自在に動かす。このことがどれほど賛嘆されるべき仕事かは、一言で語りつくせない。とにかく賞賛の念しか浮かばない。実に素晴らしい。

また、第三作「奔る合戦屋」下巻のレビューで、本シリーズの魅力について書いた。それは、組織の中で才を持ち、かつ、上を持ち上げる生き方のできない男の悩みを掘り下げていることだ。つまり、組織でうまく立ち回ってゆけない男の不器用さへの共感が本シリーズには満ちているのである。その男とはもちろん一徹を置いて他にない。

本書の結末の一徹の軍師引退、木彫師としての転身からは、脱サラという言葉が連想される。組織を抜けて自分の得意な仕事をして生きていくことは、サラリーマン諸氏にとって憧れだろう。脱サラを単なる現状からの逃避として考えるのであれば、決して良い結果は産まない。しかし、一徹のように真摯に悩み、その結果自らを縛り付けていた価値観の殻を破った結果であれば、きっと成功するはずだ。深志城攻略に失敗した後の一徹は、まさに軍師という固定観念の殻を破り、木彫師という立場へと翔けようとする。まさに翔る合戦屋である。

精々が出家といった選択肢しか持たなかった当時の戦国武将の転身として、本書で書かれた結末は或いは突飛なものかもしれない。しかし、そのような余生を選ぶ主人公が描けたのは、最初から一徹を創造した著者に与えられた特権ではないだろうか。ただし、その特権を活かして続編といったことは控えて頂きたいものだ。本書のラストは物語の続きを仄めかしているが、素直に戦塵から身を洗い、木彫師として一徹に生きて欲しい。私はそう思う。

‘2015/01/25-2015/01/28


奔る合戦屋 下


幸せに満ちた上巻から、波乱と悲劇の下巻へ。武田家が佐久郡を窺う中、一徹は村上義清に呼び出される。そこで一徹は義清に次ぐ戦の副将に任じられようとする。一徹の危惧はあたり、義清のその案は他の譜代家臣から猛反発を受け、一徹は石堂家、そして自らがまだ村上家中にあって不動の地位を築いていないことを改めて認識する。

それを機に、石堂家は軍制を整える。郎党のうち、成長著しい三郎太を馬乗りに昇格させる。三郎太も機は熟したと見て、花に夫婦になってほしいと頼み込む。花の負担を軽くするために、一徹と朝日の養女になってはどうかと提案する朝日。

足元が固まったところで、いよいよ武田家の侵攻が迫る。村上義清に信濃統一への筋道を語る一徹。自らの理想を張良、諸葛孔明であるとする一徹の、武よりも智を迸らせたいという思いが表に出てくる。

歴史に「もし」は禁物。しかも一徹は架空の人物。それを差し置いても、ここで一徹が語った内容が実現していたら、川中島の戦いはあるいは起こらなかったかもしれない。そういう空想が読者にも許されてもよい場面である。

しかし、村上義清はここにきて限界を露呈する。そして、村上義清と一徹の主従関係にも暗雲が垂れ込める。戦の場で戦術を駆使するだけでよしとする村上義清と、さらにその上をゆく戦略を語る一徹の器の差。そして一徹には老獪さがなく、うまく義清を己が思うままに操る術を知らない。ここを著者は下巻の転換点とする。

続く章で、一徹から相談を受けた龍紀は独りごつ。「家臣の才能が主君のそれと比べて釣り合いを逸すると、互いに不幸になるのではないか」。龍紀の予感はあたり、下巻は以降、一徹にとって心地よい世界ではなくなってゆく。

武田家が佐久郡に軍を進める中、一徹の策が当たり、武田信虎を大井城に閉じ込めることに成功する。そこで敵軍の若き将、武田晴信の判断に将来の好敵手の予感を抱く一徹。さらに、なぜ村上領で武田家に通ずる者が後を絶たぬか。これを武田晴信の深謀遠慮であると指摘する一徹と、それを苦々しく聞く村上義清。もはや両者の溝は埋めようがなく深い。

我々読者は、主従二人の心が開いていく様に気をもみ、一徹の憂いを我が事のように抱くことになる。読者にとっても、一徹の悩みは心当る節があるかもしれない。なまじ知恵が回ると、組織のトップ判断や改善点が目につく。自らの信ずる道を進みたいが、組織内の力学はそれを許さず、結果、組織内での出世に破れていく。そのような人は少なくないだろう。そして、一徹もまた苦悩する。凡庸な上司ならまだよい。しかし、村上義清は戦場においては天賦の才を持っている。そのことが一徹をなお苦しめる。両雄並び立たず。あるいはポストに空きがない、とも言おうか。

よく、時代小説が支持される理由として、組織にあって活躍する登場人物に自らを重ね合わせることが言われる。であれば、一徹の苦悩は、読者に共感を呼びおこすことだろう。本シリーズが読者に支持される理由もここにあるのではないか。

本書はやがて、東信濃に位置する海野氏が越後の上杉氏と結んだ事に端を発する、海野平の戦いにいたる。仇敵であるはずの武田家と連携した村上家は、一徹の活躍もあって、海野氏を追い落とす。そして、戦後の武田家、村上家、諏訪家の協議により、武田家の軍勢は撤収することが決まる。

最終章、朝日の父が余命幾ばくもないことがわかり、三郎太などの郎党の護衛とともに、身重の朝日と若葉は帰省する。しかし、そこには撤兵したはずの武田軍の残党がおり、焼き働きとして近隣を略奪・放火していた。なぜ、撤兵したはずの武田軍がいたのか。そこには、一徹に黙って、武田軍への小競り合いを指示した村上義清の独断があった。先の海野平の戦いで武田信虎にいいように戦後の領土を画された村上義清の恨み。その器の小ささがこのような武田軍の跳梁の引き金となった。

何が起こったかはここでは書かない。結果、一徹は己を活かしきれなかった村上義清を見限る。そして村上家から暇をもらい、流離いの日々に出る。

放浪し始めた一徹は、風の噂で武田信虎が子の晴信によって駿河に追放されたことを知る。父が子の器量を恐れるあまりに子を疎んじ、その結果自らの首を絞める。立場を領主と部下に置き換えると、このことは村上義清と一徹の関係にも当てはまる。さらにいうと、このことはまた、世の経営者諸氏に向けた警句ともとれる。無論、私にもとっても。

‘2015/1/24-2015/1/24


奔る合戦屋 上


哄う合戦屋で、鮮烈にデビューを果たした著者と主人公の石堂一徹。中信濃の豪族遠藤家に召し抱えられるや知略と武勇を発揮し、わずか三千八百石の遠藤家の当主吉弘をして、国持ち大名の夢を見させ得るまでにした漢。そのストイックで筋の通った欲のない様は、新たな戦国武将像を我々に提示した。

哄う合戦屋では遠藤吉弘の娘若菜と、相愛の仲となる。が、作中では度々、一徹が心を閉ざす原因になった出来事が仄めかされる。果たして一徹に何が起こったのか。何が一徹の心を閉ざしたのか。本書は石堂一徹が遠藤家に召し抱えられるまでの歩みを描いている。

時は天文二年(1533年)、信濃の北半分を手中に納める村上義清の陣。村上義清は、後年、川中島の戦いでも活躍した史実上の人物。その陣中に、19才の一徹はいた。序章の有坂城の城攻めで存在感を出す一徹。のっけから、前作の余韻にひたる一徹ファンの心を掴む出だしだ。

その功もあって、主君の村上義清からは、一徹を石堂の当主に、という命が下る。石堂家は、代々村上家にあって次席家老として勘定奉行を努めている。長男輝久はその任に耐得る実直な性格なのに、一徹を当主にという下知に戸惑う当主龍紀と息子兄弟。一徹の案を元に、本家は一徹が継ぎ、輝久は分家を起こし当主となり、本家と分家は同じ知行とすることで決着を見る。最初に武辺と計略の才を見せておき、返す刀で欲の無さや知略を見せるあたりは、実に鮮やか。ここでもまた、読者は一徹に魅了される。

ここで、一徹に嫁取りの話が持ち込まれる。朝日である。武士の娘で大柄、かつ、明るく素直な朝日は、一徹と仲睦まじい夫婦となる。それからは、朝日が石堂家の嫁として、一目置かれるまでが描かれる。と同時に、我々読者は石堂家の家風、一徹の心根の優しさ、一徹配下の郎党達の異能を知ることとなる。ここらの著者の筆運びは、実に滑らか。突飛な挿話を交えることなく読者に物語の背景を覚えさせる手腕は実に見事。

石堂家の風習を語る中では、郎党達と女中達の夜這いの風習と、共同体の慣習をもさらりと創造してみせる。村上家の中で譜代ではない石堂家が村上家でいかに重用されるようになったか。石堂家の財源が豊かな理由としての石堂膏という膏薬をも創造する。著者の想像力はとにかく冴えている。その一方で、一徹は朝日に中国の古典を紐解く。その中で、張良と諸葛孔明を一徹が自分に通ずる人物として挙げる。

続いて郎党である。一徹配下の郎党達の異能を引き立てる場として、著者は戦を用意する。郎党の活躍あって、城は落ちる。その中で、一徹の語るいくさ観は、本シリーズの全てに通ずる魅力でもある。

また、郎党達のそれぞれの個性を描き分け、一徹の単なる駒としてではなく、血を通わせた人物に彫りあげる著者の語りの巧みさも見逃せない。

最終章で、朝日が懐妊するとともに、花が石堂家の一員として加わる。花は貧しい農家の娘として女衒に売られ、そこから逃げるところを一徹一行に助けられた少女。着の身着のままで、飢えが当たり前だった花を相応しく躾ける下りは、朝日の持つ徳が存分に描かれる場面である。

全てが満たされ、一片の曇りもない上巻。これら全てが下巻への伏線となる。一徹を放浪に到らせた悲劇は、悲劇を知らぬ日々が幸せに満ちているほど、一層悲劇となる。

上巻の締めは、一徹の才能の一つである彫り物。産まれたばかりの青葉の玩具用にと作った蛙に朝日が吹き出す一文で終わる。

‘2015/01/22-2015/01/24


華、散りゆけど 真田幸村 連戦記


来年のNHK大河ドラマは、真田幸村公を主人公とした真田丸なのだとか。大河ドラマをほとんど見ず、そもそもテレビをはじめ、マスメディアに触れることが少ない私。それでもやはり、真田日本一の兵が大河ドラマの題材になれば気になる。そんなところに、妻がしなの鉄道の「ろくもん」乗車を申込み、家族四人で贅沢な旅を楽しむ機会を与えられれば猶更である。本書を読んだのはまさにろくもん乗車の直前であり、読後の余韻も新しい間に「ろくもん」に乗車した。そのことで、本書の読後感が一層鮮やかとなった。

外装に真田の赤備えのえんじ色をまとい、真田家の家紋である真田六文銭を随所に配した「ろくもん」の車両は真田の格調を意識させるに充分。「ろくもん」に乗って長野から軽井沢へと遊んだ旅は、否応なしに私を真田家の駆けた戦国時代へと誘い込んだ。

本書の装丁は、えんじ色に六文銭を大きくあしらった「ろくもん」と同じ意匠である。いや、画一的な臙脂色に塗られた車両に比べ、本書の装丁の方が複雑な地模様が描かれている分、趣があると言える。

趣があるのは、装丁だけではない。その中身もまた、重厚で荒々しく、真田日本一の兵と称えられた公の生きざまがよく描かれていたといえよう。

本書は、真田幸村公が父昌幸公と共に蟄居させられていた高野山を出奔してから、大阪夏の陣で自刃するまでに焦点を当てている。本書で書かれているのは、云うならば公の生涯でもっとも輝いていた時期に等しい。内容もさぞや爽快な戦国活劇ものであるかのように思われる。しかしそうとばかりは云えない。無論、本書では真田丸での謀略や敵本陣への突撃をはじめ、血が滾るような痛快な戦闘シーンが豊富に活き活きと描かれている。しかし、陽の当たるシーンのみを描くだけでは、物語に陰影はだせない。それだと単なる戦国アクション巨編と堕してしまい、却って幸村公の魅力もぼやけてしまう。

敵陣深く攻めこみ、あわや徳川三百年の歴史をIFの世界に押し込めかねないところまで追い詰めたその武勇。真田丸を築き、夏の陣で徳川方を大いに撹乱した知略。幸村公がなぜ大阪冬夏の陣で真田日本一の兵(つわもの)と呼ばれたかは、蟄居中に父の昌幸公から学んだ教えを抜きに語れない。何のために兵法を学ぶのか、という虚しさの中、折れそうになる心でひたすら昌幸公から兵法の教えを聴く日々。本書はその辺りの描写をないがしろにせず、むしろじっくりと語る。雌伏の時の描写が深ければ深いほど、大阪方の誘いに迷う幸村公の苦悩に真実味が出る。誘いを受け入れ、あばら家に埋もれ掛けていた己を奮い立たせ、戦国男児の気概を滾らせる場面は、本書のクライマックスとも言える。腐らずに切磋琢磨を怠らぬ者に、天はかならず働き場所を用意する。その様な感動が読者の胸に流れ込む名場面である。

そのような雌伏の時を描くにあたり、真田六連銭(六文銭)の由来や、武田家にあって赤備えを許された真田家の誇りもきっちりと説明される。本書の中では昌幸公から幸村公へ説明する由来は、同時に読者の心にもしっかりと届く仕掛けとなっている。

さて、高野山を出てから大阪入城を果たす一行。幸村公の視点から物語は進むため、他の浪人衆、特に大野治房公の描写に偏りを持たせている。治房公は、本書では大阪にあって優柔不断な将として書かれている。真田丸の築城を願い出る幸村公と、それを拒もうとする治房公の攻防が描かれ、ますます愚将としての治房公が印象付けられていく。一方では後藤基次、毛利勝永、明石全登、木村重成、長宗我部盛親といった武で鳴らした諸侯との心の繋がりも書かれている。

そして冬の陣勃発である。真田丸に陣取って神出鬼没な活躍で徳川方を悩ませる幸村公。父から蟄居中に教わった知略を駆使するシーンは本書でも一番の盛り上がりを見せる。実は、本書においては夏の陣で徳川方に突撃して家康公に肉薄するシーンよりも、真田丸での活躍のシーンのほうが印象に残る。来年の大河ドラマ真田丸ではどのような演出を採るのであろうか。気になるところである。

そして大阪城を攻めあぐねた家康により、大砲で天守を狙うという策が当たり、戦に恐れをなした淀殿の鶴の一声で一時休戦となる。このあたり、幸村公の独白が様々に描かれるが、己の知略を乗り越えて大砲で戦を終わらせた家康公の知略に歯噛みする様子。ここらの悔しがり方が少々淡泊に描かれているのが気になった。真田丸に手ごたえを感じていただけに、逆に幸村公の失望をよく表す演出なのかもしれない。しかも、講和条件として外堀のみの埋め立てのはずが、内堀まで一気に埋め立てられる。この謀略の主は、本多正純公。家康公の懐刀として父に続いて取り立てられたこの男は、本書内では陰険な官僚としての書かれ方をしている。そして交渉の最中に幸村公にこっぴどくやり込められる役割を演じている。実際にそのような史実があったかどうかは分からないが、その書かれ方からして、本書内の一番の悪役は、大野治房公ではなく本多正純公といえよう。しかし正純はそれにめげず、とうとう内堀埋め立てを成し遂げてしまう。これが、大坂方の致命傷となる。続く夏の陣では防戦一方となった大阪方。真田丸も講和で破却された幸村公は、乾坤一擲の策として家康公の陣へと突撃する。真田日本一の兵(つわもの)と後世に語り継がれるこの時の武勇だが、もはや本書前半に描かれた高揚感はどこへやら。滅びゆく者の最期の輝きが絶妙に描写されており、読者には哀しみしか感じさせない。

講和から夏の陣に至るまで、本書の流れは実に速い。それは、前半部の蟄居を描写するにじっくりと語っていたのとは明らかに違う流れである。明らかに戦になってからの本書は、怒涛のように筋書きにそって進み過ぎたきらいがある。せめて冬の陣から夏の陣の間、もう少し知略で活動する幸村公の姿を見たかった。しかし、それも詮方ないのかもしれない。関ヶ原の戦いと同じころ戦われた上田城の戦いでは、父昌幸公の指揮下にあるだけであり、実際の本格的な指揮初陣といえば、大坂冬の陣が初めてだったのだから。

そう読むと、一気に家康の術中に嵌った大阪の冬から夏にかけて、戦術では局所で勝利しても、戦略で負けてしまった幸村公の、十分に活躍できなかった生涯の無念が本書の構成から却ってにじみ出ているようにも思える。しかし、幸村公は夏の陣での突撃によって、真田日本一の兵(つわもの)として武名を永らく残すことができた。まさに「華、散りゆけど」である。

侘び寂びの蟄居から状態から華々しい戦場へ、最後には諦念の域に達する公の後半生を描いた著者の意図がそこにあったとしたら、まさに的を射た内容になっていると思われる。大河ドラマの開始前に一読をお勧めしたい。

2014/11/5-2014/11/7


黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原


昨年の大河ドラマは軍師官兵衛であった。私も放映開始直前の秋、姫路城を訪問し、大修理中の天守閣を見学できる「天空の白鷺」から間近で天守を眺めることができた。街中に官兵衛の幟がはためき、姫路の街は官兵衛景気に沸いていた。

しかし、昨年一年間、とうとう一度も放映を見ることがなかった。興味がなかったわけではない。今でも総集編でもよいから機会があれば観てみたいと思う。あれだけの姫路の街の盛り上がりを目にしながら、放映を見逃したことに忸怩たる思いである。なにせ、私はテレビをほとんど観ない。日曜の放映時間に家にいることがなく、再放映のタイミングにもテレビの前に居合わせることがほとんどない。番組を録画するための機器も持ち合わせておらず、これでは放映を観ようがない。

放映開始から半年以上優にすぎてしまった時期になり、大河ドラマに追い付くのは諦めた。せめて書物からおさらいしようと思い、手に取ったのが本書である。

黒田官兵衛と云えば秀吉旗下の軍師として余りにも高名である。頭脳の切れもさることながら、野心家としてのエピソードが多数、巷間に伝わっている。

果たしてそれは講談や歴史小説の中で膨らまされた虚像なのか、それとも実像の黒田官兵衛、またの名を如水、または孝高は、天下を狙って爪を研ぐもののふだったのか。

本書は、本能寺の変後から関ヶ原合戦までの期間を通し、黒田官兵衛と子の長政の行動を史実から概観し、父子の実像を浮き彫りにせんとした作品である。

実像を描き出すため、本書は書状や由来の確かな史書を引用する。黒田父子の発給した書状はかなりの数が今に伝わっている。本書でもかなりの数が紹介されている。それらを丹念に追っていくことで、戦国の世を知略武略で生き延びた黒田父子の生きざまが浮かび上がる。

三木城攻めや、有岡城幽閉、備中高松城の水攻め、朝鮮出兵など、黒田官兵衛に纏わるエピソードは幾つもある。が、本書で一番印象に残ったのは、関ヶ原合戦直前まで繰り広げられた情報戦である。

関ヶ原の合戦で、吉川広家が陣から動かず、そのため後続に着陣していた毛利秀元や安国寺恵瓊軍が戦端に加われなかったのは有名な話だが、その陰には、徳川家康とよしみを通じ、その意を体して、吉川広家抱き込み工作を遂行した黒田親子の貢献があった。このことは本書を読むことではっきりと意識した事実である。本書でも多数の書状が黒田父子から吉川広家に届けられたことが示されている。その書状の筆跡からは、当時の情報戦の鍔競り合う様子が伝わってくるかのようである。そのことから、野心家としてのイメージはともかく、策略家としては間違いなく当代一級の人物であったことが理解できる。

後世、野心家のイメージを持たれる端緒となった、九州での関ヶ原合戦の数々。その際の書状も紹介されていたが、そこからは、千載一遇の機会があれば、天下取りへ名乗りを挙げていたかも知れぬ、黒田父子の意志が感じられるようである。とはいえ、明らかな野心を示す書状は示されていなかった。

むしろ黒田官兵衛の生涯を読み込むと、行間から立ち上ってくるのは信心が豊かで、折り目正しい人格者としての姿である。本書はそこまでのエピソードは紹介せず、あくまで書状からわかる実像の推測でしかない。少々煽るようなタイトルがついているが、それは発行者の営業戦略であり、著者の想いはそこには無かったのだろう。しかし、それでよい。挿話や伝説・伝承だけが独り歩きする歴史上の人物に対し、本書のようなアプローチをとる書籍が、いかに貴重か。歴史ロマンはロマンとして面白いものだ。だが、それは確かな史実の裏打ちがあってのロマンであってほしい。

大河ドラマで見直されたことをきっかけに、本書もまた読まれ続けていくことを望みたい。

‘2014/9/3-2014/9/4