オッペンハイマー


本作を見たのは、3月29日に公開されてから5日後だった。私にしてはとても早い。

本作はそれほどまでに観たかった。クリストファー・ノーラン監督が原爆をテーマにした映画を手がけると言うニュースを聞いた時から、必ず見に行こうと決めていた。

ところが本作は、原爆を投下されたわが国の国民感情に配慮したからだろうか、日本公開が遅れに遅れた。

まず、その点から取り上げてみる。
結論を言うと、本作から日本人を貶めるような描写はほとんど感じられなかった。

敢えて私の心をざわつかせたシーンを挙げるとすれば、それは巨大な核爆発の様子が描かれるトリニティ実験のシーンではない。
広島と長崎に原爆が投下された後、ロスアラモスの職員たちに対してオッペンハイマーが壇上から挨拶するシーンと、トルーマン大統領に謁見するシーンは、人によっては心穏やかでいられないだろうと感じた。

後者のシーンでは、落とした本人が広島に言及するが、長崎を忘れ、オッペンハイマーから補足される。
トルーマン大統領は自分の手は血塗られていると言ったオッペンハイマーのセリフに不快感を示し、泣き虫を二度と呼ぶなと言う捨て台詞を吐く。
このように、オッペンハイマーは、彼なりに被害者の痛みを想像し、その痛みに精一杯共感しようとしている。

その感受性は、壇上から挨拶するシーンでも遺憾なく発揮される。
足元に炭化した遺体の幻影を見いだし、自分に歓声を送る人々が最大輝度まで白くなり、顔の皮膚がめくれるイメージが眼前にちらつく。観客の発する地響きはオッペンハイマーの視野を揺らし、精神も合わせて揺れ動く。
オッペンハイマーが感じた強烈な罪の意識が描写される。

広島に投下されて33日後の記録映像をみんなで見るシーンでは、オッペンハイマーはそこから画面から目を背ける。

無邪気に喜ぶ人々の心情は、戦勝国の国民の態度としては、至極真っ当だろう。だが日本人としては心穏やかに見られない人がいるのは分かる。
日本で公開が遅れた理由は、これらのシーンが日本人の国民感情を逆なでするとの懸念があったのだろう。

ただ、喜ぶアメリカの人々の描写に比べ、オッペンハイマーの態度は日本人にとっては被害者感情に共感してもらえたように感じた。
本作を見ていると、アメリカ人向けの映画と言うよりも、日本人向けに描かれたのではないかとすら思える。
なぜ日本向けに公開が遅れたのか、判断に苦しむところである。

私が自分のこととして本作から興味深く受け取ったメッセージとは、冷静であることと人々を導くリーダーシップの両立についてだ。
オッペンハイマーがマンハッタン計画の実現にあたり、類まれなる能力を発揮した事は誰もが認めることだろう。
そのリーダーシップの源がどこから来ているのかに深く興味を持った。オッペンハイマーが頭脳明晰である事は確かだが、頭脳が明晰であることとリーダーシップの間には直接の関係は無いはずだ。

むしろ本作では、その冷静な仮面の裏にあるオッペンハイマーの人間としての部分をあえてさらけだそうとしたかに思える。

例えば、本作はR15に指定されている。
最初の恋人であるジーン・タトロックとセックスに及ぶシーンが何度か描かれる。上半身裸で抱き合う2人。ジーンの胸もさらされる。ベッドの上で、そして聴聞会の面々の中で二人が裸で抱き合うイメージも挿入される。
理論で武装する科学者としての性分。明晰であることが求められるとともに、多くの技術者を束ねて目標にまい進させるリーダーシップを兼ね備えたオッペンハイマー。それだけを打ち出せば、オッペンハイマーを描いたことにはならない。人間としてのオッペンハイマーをさらけだすには、スーツ姿のオッペンハイマーから服を脱がせるしかない。さらには性交にふけるオッペンハイマーを描くべき。そう判断したのだろう。
聴聞会に呼ばれた妻のキティが、人間として汚されていくと吐き捨てるようにオッペンハイマーに言ったのは、まさにこの点だろう。

そうした人間的な面を引きずりながら、それでも類まれなリーダーシップを発揮したことは、私個人が精進すべき課題として、とても強く印象に残った。

本作を見るにあたり、私は予備知識なしで劇場に臨んだ。
もちろん、水爆の父として知られるエドワード・テラーとマンハッタン計画の中から既に対立が生じ、オッペンハイマーが実際の水爆開発に反対することで、さらにテラーとの対立を深めたことも知っていた。共産主義との関係を疑われ、晩年は死の直前に名誉回復されるまで、不遇の生涯を送ったことも知っていた。もちろん、「我は死なり、世界の破壊者なり」というバガヴァッド・ギータ―の一説を唱えたことも。

しかし、私は本作で見るまで知らなかったことがいくつもあった。ジーン・タトロックの事も知らなかったし、妻のキティについてもあまり知らなかった。さらに本作で重要な人物として描かれるルイス・ストローズとの対立についてはほとんど知らなかった。もちろん。ストローズについても初めて知った。

本作は、オッペンハイマーの視点で書かれたシーンはすべてカラー。そして、ストローズの視点から描かれたシーンは全てモノクロで描かれている。
分かりやすい例でいうと、陽の当たるところにいたのがオッペンハイマーで、日陰にいたのがストローズという構図である。
核を知らない人類の歴史を鮮やかに描き、禁断の兵器を知ってしまった人類の罪をモノクロで描いたという解釈もできる。また、オッペンハイマー自身の個人史で栄光に満ちた時代をカラーで、汚辱にまみれた時代をモノクロにしたという解釈も可能だ。
だが、私としては以下の解釈を採りたい。
それは、ストローズが何度かセリフで言っているように、真理を理解した明晰な技術者の見える世界と、庶民が見る世界の解像度の差、という解釈だ。

本作で描かれるストローズとは、庶民としての劣等感に苛まれる存在だ。
ストローズの被害妄想が対立のきっかけであるような描写が冒頭に提示される。プリンストン高等研究所におけるオッペンハイマーとアインシュタインとの会話にストローズが全く排除されたように思えたこと。そこで二人の間に交わされた会話については最後の方で明かされる。
そのような些細な出来事が対立の種となったこと。さらにオッペンハイマーが名声を得ていながら、ストローズが推し進める水爆開発に反対するオッペンハイマーに対する劣等感が亢進する。
そこから私たちが受け止めるべきメッセージは、技術者としての職務や理論を突き詰めていけばいくほど、孤高になり、孤独になっていき、そして誤解される宿命だ。

それは技術者として、経営者として私自身が自らの振る舞いを顧みるきっかけにもなった。
もちろん、私はお客様に対しては可能な限り、技術の内容をわかりやすく伝えるようにしている。
だが提案側の仲間に対して、どこまで私の考えや理論を分かりやすく伝えているのだろうか。私の考えや技術面のノウハウがどこかで浮いていないだろうか。きちんと説明を尽くしているのだろうか。
そこが手抜かりがあると、オッペンハイマーのように孤独な晩年になってしまいかねない。
私もその辺は気をつけなければと肝に銘じた。

本作は、音響や視覚効果に関してはとても良い。映画館で見るべき映画として製作されている。
私が見たのは通常のスクリーンだが、本作はIMAXで見た方が良いはずだ。家のテレビやスマホでは本作の良さは十分に伝わらないと断言できる。
特に音響だ。爆発シーンの音響もそうだが、全体的に本作は音響が観客に映像を抜きにした原爆の恐怖感を与える効果を生んでいる。
本作は三つまたは四つの異なる時代のシーンが並行で切り替わる。素早く切り替わるシーンの背後に、観客を追い立てるような音響が流れることにより、原爆の恐ろしさを観客に想像させる効果を狙っているのだろう。
上にも書いた通り、本作には原爆による被災映像は断片的なイメージしか投影されない。だが、被災状況の映像など、いくらでもウェブで見られるし、その映像を超えた何かを出すことに意味はない。
むしろ監督が企図したのは、この音響とシーンの断片的な繰り返しが観客を追い立て、観客自らがそれぞれの恐怖を創造するようにしているのだろう。

もう一つ、監督が企図した観客に伝えたかった恐怖がある。
それは人工知能、AIだ。
そもそも、なぜ今、オッペンハイマーを描いたのだろうか。それは、神に近づいた人物を描く必要に迫られたからだ。
今、世界中で神に近づこうとする人物が無数にいる。AIという神を。

この当時、原爆開発は国にしかできなかった巨大プロジェクトだ。
組織が構築され、予算が承認され、責任者も設けられていた。責任の所在がはっきりしたプロジェクトだった。そのシンボルこそがオッペンハイマーだった。
だが、今のAI開発競争においてオッペンハイマーはいない。国ですらない。複数の企業がそれぞれ独自にAIを開発し、日々目覚ましい成果を挙げているはずだ。もはやその流れを押しとどめる事は不可能だろう。
押しとどめることが不可能である以前に、そもそもAIが何ができるかの臨界点すら誰にも制御できない状況になっている。
神に近づく人々が無数に現れ、さらには全く技術に詳しくない一般人ですら、AIを使って神の域に近づくことができる。
そんな時代になっている。

オッペンハイマーのように神に近づいた人物は、人間に貶められ、苦汁をなめさせられた。羽ばたこうとして墜落死したイカロスのように。
しかし、AIを使って神に近づきつつある多くの人物は、スケープゴートにもされることもなく、晒し者にされることもない。

本作が私たちにとって重要なのは、技術の限界を抑える者がもはやいないと言う恐怖を示しているからではないだろうか。
本作の映像の切り替わるスピードと追い立てられるかのような音響は、今の人類を取り巻く変化の速さであり、人類がトリニティ実験の成功によって得た進歩という名の地獄とは違った、さらにおそるべき未来を暗示しているように思えた。

今、どこかの国を壊滅させるには、原爆など不要である。テクノロジーとデータの力で十分なのだから。

‘2024/4/2 TOHOシネマズ日本橋


ウォンカとチョコレート工場のはじまり


年末の30日に家族で四人揃って本作を見た。

うちの家族は、昔から『チャーリーとチョコレート工場』が好きだ。
私も何度も観た。おそらく、4、5回は。

私の経験を踏まえて本作についてのレビューを本稿にまとめた。
絶賛上映中なので、本稿ではまだ観ていない方の興を削がないように配慮する。
配慮するつもりだが、本作の内容について語るので、本稿のつづきは劇場で観てから読んだ方が良いと思う。
本作は『チャーリーとチョコレート工場』の世界観を踏襲し、ウィリー・ウォンカがチョコレート工場を作るまでを描いている。

なお、本作を観た後、家族で1971年に公開された映画『夢のチョコレート工場』も観た。
『夢のチョコレート工場』は原作者のロアルド・ダールが存命中に公開されたため、原作の世界観を踏襲しているのは明らかだ。
『チャーリーとチョコレート工場』は『夢のチョコレート工場』とシナリオや登場人物がほぼ同じ。正統なリメイク版として『チャーリーとチョコレート工場』がある。ただし、リメイクにあたってはいくつかの設定が変更されている。
それを踏まえ、本稿ではジョニー・デップがウィリー・ウォンカを演じた『チャーリーとチョコレート工場』とジーン・ワイルダーがウィリー・ウォンカを演じた『夢のチョコレート工場』の違いにも言及する。

大きく設定が変更されているのはウンパルンパの扱いだ。
『夢のチョコレート工場』では、鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪がウンパルンパの外見的な特徴として描かれていた。ウンパルンパのテーマを歌いながら踊る姿はとてもコミカル。
「ウンパルンパ ドゥンパティ ドゥ♪」とうたいながら踊るさまはまさに愛すべきキャラクターだ。

ところが、『チャーリーとチョコレート工場』でディープ・ロイが演じたウンパルンパのイメージは一新されている。最新技術を使って約160名の全員が同じ顔で踊るインパクトもさることながら、その踊りと歌に込められたブラックなシニカルさが洗練され、映画のインパクトに華を添えていた。
『夢のチョコレート工場』の素朴なウンパルンパが『チャーリーとチョコレート工場』の洗練されたウンパルンパに変わることで、ブラックな面白さがより強調されていたように思う。

本作のいくつかの設定、特にウンパルンパの外観は『チャーリーとチョコレート工場』より『夢のチョコレート工場』に近い。
つまり、原作者が想定していた世界観により忠実だと思う。

本作でヒュー・グラントが演じるウンパルンパも、登場シーンでウンパルンパのテーマを歌い踊る。鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪を持つより原作のイメージに近い外見で。

本作に登場するウンパルンパは、ほぼヒュー・グラントによる一人のみだ。
160名のウンパルンパのインパクトには劣るが、ヒュー・グラントがもともと持っているシニカルでブラックなユーモアがうまく活かされていて、それが面白さになっていたと思う。
とても素晴らしいウンパルンパの再解釈だと思う。

ただし、本作にはブラックでシニカルな原作の良さがあまり感じられなかった。ヒュー・グラントが扮するウンパルンパだけがそれを体現していたように思う。
むしろ、ブラックでシニカルなユーモアを体現していたのが、『チャーリーとチョコレート工場』ではウィリー・ウォンカで、ウンパルンパは無表情で歌い踊ってウィリー・ウォンカのブラックな側面を強調していた。本作ではウィリー・ウォンカからブラックでシニカルな部分が姿を消し、その点を受けついだのがウンパルンパだったともいえる。

『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』には、善と悪といったわかりやすい構図がない。むしろ、主人公のウィリー・ウォンカのつかみどころのなさこそが、作品全体の特色だ。
ウィリー・ウォンカは何を考え、登場人物はどこに連れて行かれるのか。そこにドラマの興味は絞られていた。

ところが、ティモシー・シャラメが演じる本作のウィリー・ウォンカは夢をもち、希望を語り、マジカルな能力とそこから作り出す魔法のチョコを使って人々を魅了する善人として描かれている。
カルテルを組んで街のチョコレート流通を支配し、ウィリー・ウォンカを抹殺しようとする三人組やチョコレートで三人組に籠絡される悪辣警察署長が悪で、それに対するウィリー・ウォンカという構図。そのため、ブラックでシニカルな面白さが善と悪の二元構造によって薄められてしまっており、原作の持つ面白さを体現していたのがウンパルンパのみだったのが残念な点だ。

ただ、本作の悪役陣はどこか憎めない存在として描かれていた。例えば本作では、悪役たちも歌い踊る。
『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』の違いは、ウンパルンパ以外の登場人物も歌って踊る点だ。
本作は登場人物たちも歌って踊る。その点でも『夢のチョコレート工場』に回帰していたように思う。

悪役たちにもスポットライトを当てていて、特に登場する度に太っていく悪辣警察署長はコミカルの極み。
また、ウィリー・ウォンカを始めとする6人を契約の罠で閉じ込め、洗濯部屋でこき使うミセス・スクラビットとプリーチャーも憎めない悪役として描かれている。

登場人物の肌の色も含め、本作の善と悪も二元的に描かれてはいるものの、総じてなるべく多様性を配慮した作りになっている。

ただし、原作の世界観に忠実なのが本作であるものの、原作に合った肝であるブラックでシニカルな面白さが欠けている以上、その点で私は辛い点をつける。

ついでに言うと、ウィリー・ウォンカが持つマジカルなチョコレート作りの秘密こそが本作でも大きな興味を抱く点だったにもかかわらず、その能力をどこで手に入れたのかが描かれておらず、これも物足りなさを感じた点だ。
ひょっとしたら、ウィリー・ウォンカがそうした能力を身に付けていくいきさつだけでも一本物の映画が作れるのかもしれない。が、できれば本作でもそのあたりがもっと描かれていたらよかったのに、と思った。

ただ、それだと本作について辛く言うだけで終わってしまう。ここで、本作の良さを取り上げたい。
本作はチョコレートと言う誰もが憧れる夢の食材をマジカルに描き、それをミュージカルが持つ音楽の楽しさに乗せたことが魅力になっている。ブラックかつシニカルなユーモアは本作では強調されていないと割り切ったほうがよい。
つまり、原作がどうとか『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』との違いや受け継ぎ方をあげつらうことは本作を鑑賞する上ではむしろ邪魔だ。
本作は独立した作品として観ることで、楽しい余韻だけを感じた方がよいと思う。
なお、チョコレートがきっと食べたくなるはず。

‘2023/12/30 109シネマズグランベリーパーク


翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて


何も考えずに笑える映画が見たい。
そんな妻の希望に応えて観てきた。

本作は『翔んで埼玉』の続編だ。私は『翔んで埼玉』を家族と一緒にテレビで見たことがある。
虐げられる埼玉と支配する東京、そして周囲に蟠踞する県の関係はとても斬新だった。いわば、県民ショーのようなアプローチだ。
旅を愛する私としては楽しめた。

本作は何も考えずに楽しむべき映画なので、レビューなど無粋な営みは本作にはむしろ邪魔だと思う。本来ならばこの記事を書く必要もない。
だが、私にとって本稿は観劇記録を残すための場である。そのため、あまり堅苦しい内容にならないように書き残しておく。

本作は近畿を舞台にしている。
前作で舞台となった埼玉や東京や千葉や神奈川は本作にはほとんど登場しない。

では「翔んで埼玉」なのにどう翔べば舞台が近畿になるのだろうか。

前作も含めて「翔んで埼玉」で描かれる世界は、私たちの住む日本とは別の世界、別の時間線からなっている。
それでいながら、この後で例を挙げる通り、私たちがよく知る地形や建物、ランドマークや文化風土が登場するのが本作の面白さだ。むしろ、ずれていることに面白さがある。

近畿に無理やりつなげる話の流れは、埼玉から東京に伸びる六路線の争いを発端とする。
東武、JR、西武は東京に進出することだけに血道をあげ、埼玉を横につなげようとする構想には目もくれない。バラバラの埼玉を一つにまとめるため、主人公の麻実麗は越谷に海を作ろうとする。そこで和歌山の白浜まで行くことから本作の物語は動き出す。

そもそも、埼玉に武蔵野線を作りたいとの切実な願いがすでに現実世界を無視している。現実に存在する武蔵野線の存在は本作では当然のように無視されている。そこにツッコミを入れてはいけないのだ。

そして、一行が訪れた近畿のあちこちは、かなり異様な場所に変えられている。
アホらしくてなんぼの本作ではあるが、元関西民の私から見ても、そのくだらなさとぶっとび具合は何度も声を出して笑わされた。

たとえば、片岡愛之助さんが演ずる大阪府知事は冷酷かつド派手。隈取りのようなメイクがまた憎々しさを醸し出している。通天閣のふもとの新世界あたりに登場する知事の背後には通天閣がそびえ、周りを親衛隊のような連中が囲む。当然その親衛隊が身を包むユニフォームは黄色の縦縞。まさにタイガースのイメージそのものである。
このような吹っ切れた戯画感は本作の面白さに確かに貢献している。忖度無用でガンガン突っ込んだ笑いがいい。滑ろうが受けようがお構いなし。関西を知らない方にとっては本作は面白みを感じにくいかもしれないけど、それも気にしない製作陣のすがすがしさが素敵だ。だからこそ、私たちも面白さを感じて大笑いする。

極め付けは、大阪府知事に逆らったものはすべて甲子園の地下に放り込まれる設定だ。
甲子園出身の私としては、地元をおちょくりおってという苛立ちより前に、甲子園の地下を巨大な労働収奪の地獄に変えてしまう発想に笑うしかなかった。
「甲子園へ放り込んだれ〜!」と吠える大阪府知事の台詞回しは流石の一言。

海外のヒーロー物の映画にもこのような地下牢獄(『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』のような)が出てくるが、監督の年齢はひょっとして私と同年代ではなかろうか、と思わせられた。
そこで働く労働者の姿は、完全にチャーリーとチョコレート工場に登場する映像そのものであり、ウンパルンパそのものを堂々とパクり、完全に確信犯として笑いをとりに来ている。

私の故郷兵庫ですらも、芦屋とそれ以外の街の間といった具合に分けられている。
それでいながら藤原紀香さん演じる市長は神戸なんやからようわからん。
そうした思い切った区分けの仕方が本作の良さだ。

裏で何を考えているかわからない京都人のことも揶揄されている。そこに登場する山村紅葉さんの強烈な存在感は、神戸市長と不倫している設定の川崎真世さん扮する京都市長すら凌駕してしまっていた。
その一方で、大阪や兵庫に比べると印象の薄い和歌山と奈良の気の毒なこと。例えば一行が最初に訪れた和歌山など、白浜を除けばパンダしか出てこない。奈良も鹿とわずかな出番のせんとくん以外はスルーされている。うーん。

和歌山や奈良をさしおいて、本書のサブタイトルに祭り上げられている琵琶湖。
だが、かつて甲子園に住んでいた私にとって、琵琶湖や滋賀のイメージは実はそれほど強くなかった。たとえ琵琶湖が近畿の水がめであり、淀川を通じて琵琶湖から水の恩恵を受けていたにもかかわらず。

そのような各県のあいだの歪んだ距離感も本作に描かれる面白さだ。
本作の中では、琵琶湖のすぐそばに甲子園があるような感じで描かれている。だが、電車でもこの距離は近くはない。むしろ小旅行ですらある。
そもそも、甲子園が大阪の牢獄と言う時点でもう時空が歪みまくっている。

本作には最新の近畿の名所が登場しない。肩で風を切って歩いているはずの「あべのハルカス」や「空中庭園」も出てこない。「USJ」も全くと言ってもいいほど登場しない。
そのかわりに本作に登場している近畿って、一昔前の近畿ちゃうの?
監督の世代ってひょっとして私と同じ位で、しかも若い時期に上京したんと違う?と思いたくなった。知らんけど。

東京の誰かが関西に抱いているなんとなくの知識の断片をさらに拡大すると、本作で描かれたような感じに戯画化されるんやろか。

これは元関西人としてはとても気になる視点だ。
なるほど、私が上京した当時もそういうふうに思われていたんやろか、と。
この視点は、もう少し視野を広げれば外国の方が日本に対して思うステレオタイプなイメージにも通ずるのかもしれない。例えば、ハラキリ、カロウシ、ゲイシャ、スシ、ポケモンのような。

本作を見ていると、自分の中の故郷への視点と、世間の人、特に関東の人が近畿に対して抱くイメージのどちらが正しいのか、自信を無くす。

実は旅をしない一般の方にとって、近畿のイメージとは、古い情報からアップデートされていないのだろうか。インターネットが情報を簡単に提供する今の時代にもかかわらず。

そうした困惑を私に引き起こす本作。そうした認識のずれも含めて記憶に残る映画だった。

‘2023/12/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE


ここ数作のミッション:インポッシブルは、次女と映画館へいって鑑賞することが恒例になっている。

今回も同じ。私と次女の予定を合わせる必要があったので、私たちが劇場に行ったのは公開されてからほぼ1ヵ月後。劇場は閑散としていて、私たち2人を含めても10人ぐらいしか劇場にはいなかったように思う。
さすがのトム・クルーズの話題作であっても、1ヵ月もたつとこれほどまでに人が減ってしまうのかと思った。

減った理由として一瞬脳裏をよぎったのは、主演のトム・クルーズの加齢だ。

本作は、前作の『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』よりもトム・クルーズが容貌がさらに老けたような気がした。そう感じたのは私だけだろうか。

先日公開された『トップガン:マーヴェリック』も次女と劇場でみたが、トム・クルーズが演ずるマーヴェリックは自らの加齢を前提にしていた。そして、並み居るパイロットたちを導く立場で出演していた。
ところが本作のトム・クルーズは第一線に立って体を張っている。スパイとして走り、飛び、闘う。現役のアクションスパイである。

私は『トップガン:マーヴェリック』のレビューの中でこのように書いた。
「本作のマーヴェリックの姿にうそっぽさがないとすれば、トム・クルーズの演技に年齢の壁を越え、さらなる高みへと努力する姿が感じられるからだろう。」

まさに本作もそう。加齢によってトム・クルーズの口の脇に刻まれたほうれい線が特に目についた。
もっとも、ほうれい線など、今の技術であれば簡単に消せるはずだ。だが、トム・クルーズはそれをよしとしない。

人は加齢する。これは当たり前のことだ。
その当たり前をごまかそうとしない潔さ。それでいて60歳を超えたとはとても信じられないアクションをスタントマンに頼らずに自らでこなす。
この真っ当さがいいのだ。この正直なところに私たちは惹かれるのだ。

本作もパンフレットが買えなかったので、どのシーンがスタントマンを使わずにトム・クルーズがこなしたのか、私はあまり知らない。
ただし、メイキング映像がYouTube(https://youtu.be/SE-SNu1l6k0)で上がっている。その動画を紹介する記事だけは事前に読んだ。
それによると、500回のスカイダイブ、そして1万3000回ものモトクロスジャンプの練習をこなしたらしい。その練習の成果があのシーンに現れているそうだ。

まさに、努力の塊である。

一万時間の法則という理論がある。人が何かの分野で一流になるためには、一万時間を費やしている、というものだ。
この法則はマルコム・グラッドウェルというジャーナリストが発表した本の中に書かれているらしい。

もしそれがまことなら、トム・クルーズは本作の一シーンだけのために一万三千時間以上を練習に費やし、一流になっているはず。それも一生ではなく、一本の映画を作るたびに何かで一流になっている。
その姿勢は素晴らしいというしかない。

本作には、かつて登場した人物も登場する。30年の、というセリフ幾たびか出てくる。若きイーサン・ハントこと、トム・クルーズのかつての写真も登場する。
あえて、今のトム・クルーズと対比させるように、過去の自らを登場させる。そうすることで、加齢した自らを受け入れ、加齢した自らを顕示し、退路を断った上で走り回る。アクションする。闘う。スタントを自らが行う。
その姿勢こそが最近の『ミッション:インポッシブル』シリーズに新たに備わった魅力ではないかと思う。

技術には頼らない。その上で痛々しさは見せない。やり切る。
世界的に寿命が延び、高齢者の割合が増加する今。本作は60歳などまだまだ若造じゃわい、という風潮を象徴する一本になると思われる。

さて、風潮という意味では、本作の中でAIの脅威が大きく取り上げられていることも見逃せない。

暴走するAIの脅威と、それをコントロールした国家こそが次世代の世界の覇者となる。そんな構図だ。

果たして、そのような未来は到来するのだろうか。
かつてアメリカのハンチントン教授が唱えた、国際関係のあり方が西洋東洋や南北対立軸から、各地の文明の衝突に変わったという論がある。

本作にはそうした構図を奉じるCIA長官や諜報部員が執拗にイーサン・ハントを追う場面が描かれる。AIを利用して次世代の国際社会の覇権を握ろうとする立場だ。だが、その立ち位置はどちらかというとイーサン・ハントの宿敵というよりは、コミカルかつ茶化された扱いに甘んじている。トリックスターのような扱いといえばよいだろうか。

かつてのスパイものの定番だった東西の対立軸。そんなものはとうに古び、茶化される存在になってしまった。
上に書いたようなAIをコントロールした国家こそが次世代の世界の覇者となる構図を奉じて走り回る。そんなCIAの立場はもはやない。

となると、本作において、AIはどういう立ち位置になるのだろうか。

暴走するAIとそれに対するイーサン・ハントという対立軸は、それはそれで手垢のついた構図のように思える。
その一方で、もはや人は争う対象ではない。それどころか、ありとあらゆる思惑が入り乱れ、単純な二極対立が成り立たない時代になっている。

スパイ映画を作る立場としては、題材を選ぶのがとても難しい時代になったのではないか。

だが、AIとイーサン・ハントを対立軸に据えると、敵、つまりAIに観客が一切共感できないとのリスクが生じる。
いわゆる、それまでのスパイ映画の悪役は人間の思考論理の延長にある悪の正義にのっとって行動しており、まだ観客には悪役を理解できる余地があった。
ところが、AIを悪役に仕立ててしまうと、そのよって立つ論理が観客に伝わらない。共感も理解もされない。
それは作品としての奥行きを著しく狭めてしまうはずだ。

本作は二部制になっている。
次の作品は本作の続きとなり、来年夏ごろの公開らしい。
本作に登場したAIが次作ではどのよう立ち位置で描かれるのか。どのようなシナリオになるのか、今から楽しみでならない。

‘2023/8/16 109シネマズ ムービル


ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー


次女のリクエストで見に行ってきた!
とても面白かった!

私はマリオブラザーズの世代だ。
初代のファミコンが出た時は、小学三年生だった。マリオブラザーズでボコンボコンとブロックを突き上げて遊んでいた。
スーパーマリオブラザーズが出たのは小学五年生の時だったように思う。もう、何回カセットを差し込み、何回電源を入れたか、思い出せないくらい遊んだ。
スーパーマリオブラザーズは何回もクリアした。階段でノコノコを蹴飛ばし続ける無限1upは私たちの世代体験の上位に入る技だった。旗の向こうに飛び越えられる裏技は、とうとう実現できなかったとはいえ、何度もチャレンジした記憶がある。
1-1から8-4までの速解きに血道を上げ、ノートにビット絵を描いては、想像をたくましくしていた。

そんな世代の私が、本作に興味を惹かれるのはもはや宿命。
作中でマリオや他の登場人物がプレイするビデオゲームには、当時のゲームに夢中になった気持ちを思い出させられた。
樽をハンマーで壊しながら鉄骨を駆け上がるドンキーコングはゲーム&ウォッチの頃からの付き合いだ。本作の中でふてくされたマリオが自室でプレイしていた、天使が矢を放つゲームは確かパルテナの鏡だったはず。

マリオが生まれた頃のゲームにも敬意を払っているのは、とてもうれしい。本作の製作陣の配慮に心が動かされた。
時はファミコン創世記。ゲームの世界は子どもだった私に無限の可能性を見せてくれた。

と、ここまで書いたが、私とマリオのお付き合いはそこで途切れる。
スーパーファミコンで出たスーパーマリオワールドあたりまではプレイしたことを覚えているが、それ以降のマリオはあまり記憶がない。マリオカートもどこかで一、二回ほどプレイしたきりだ。次々と登場するマリオシリーズとは疎遠の日々が続いていた。
大人になり、個人事業主としての道を歩んで以降は、ゲームからは足を洗ってしまった。
今もたまにゲームはするが、すぐに終わる簡単なパズルゲームくらいだ。

本作は、そんな私を瞬時に小学生の頃に引き戻してくれた。
かつて私が遊んだ平板な二次元の世界でなく、奥行きのある世界で。

今回、家族で見たのは吹き替えの2D版だった。そのため、より深い没入体験が期待できる3Dではなかった。
が、それでも小学生の頃の貧弱なグラフィックから比べると、圧倒的なほどの映像体験だ。

もちろん、メタバースをはじめ、実写と区別できないレベルに到達した昨今のコンピューターグラフィックの威力は知っている。
そもそも、プロンプトを打つだけで人工知能が勝手に実写と思わせるほどのイラストを描いてくれる時代だ。
本作で描かれた世界がいくら美しかろうと、それだけで心は動かされない。

本作は、私たちが育ったマリオのゲーム世界が、血肉すら感じさせるメタバースのような世界として体験できたことに意義がある。
私たちがかつて経験したゲームの世界は、あくまでも私たちの操作一つだけにかかっていた。カセットを差し込み、電源を入れ、リセットボタンで最初からやり直せる世界。手元の両親指の操作で完全に操れた世界。
それが、本作ではルイージやマリオやピーチ姫やクリボーやキノピオなど、キャラクターが自立し、意志を持っている。
そうしたキャラクターに個性が感じられたことこそが、40年近い年月に人類が成し遂げた高みを感じさせてくれた。

マリオとルイージが配管工だった設定も、本作をみて思い出した。同じように、実はマリオブラザーズの二人はブルックリンで育っていたのだ。子供のころは見過ごしていたディテールを、大人になってようやく理解したような気持ちだ。

はじめは敵キャラだったドンキーコングがドンキーコングの算数遊びの主役になっていたように、私がゲームから離れた後に登場したマリオカートではクッパ大王は仲間扱いされていた。
そういうキャラクターたちの変化と成長を見届けられず、私がゲームから遠ざかった年月の長かったこと。
その間に、私は自分が少年であったことをあれほど思い続けていたのに、ここ数年でかつての少年の心も失ってしまった。

小学校三年生に初代のマリオをプレイした私たちの世代は、大学を出て社会に入るころ、インターネットの洗礼を浴びた。そして、情報の在り方や交流の意味が変わっていく様子を自分たちの世代体験として経験してきた。
そして今や、人工知能がもたらす脅威と驚異だ。
メタバースで体験するアバターを通したコミュニケーション体験。それは、私たちに違うコミュニケーションの可能性を見せてくれた。本作では私たちが知っているキャラクターたちが個性のあるキャラクターとなって具現化したことで、私たちが経験した価値の転換が、ゲームでも実現されたような感慨を抱かせる。

もう、今後にどのような体験ができても驚くことは減るはず。
自分が操作するブラウン管の向こうの平板な世界が、五感で感じられる日がやって来ようとも。

本作のストーリー自体は、よく考えられているとはいえ、とりたてて目を引くほどではない。
あえていうなら、わき役だったはずのピーチ姫が、勇敢で自立心の強い一人の女性として書かれていたこと。それが時代の流れを感じさせてくれる。
そして、かつてはエコノミック・アニマルと揶揄されていた日本が、今やこのような世界的なコンテンツを生み出し、それが映画の本場アメリカによって見事な形で逆輸入したこと。そのことにも世界の中の日本の立場の変化を感じた。

そうした時代の変化をすべて経験してきたのが私たちの世代。私たちの50年を追体験させてくれたかのような現実と仮想空間がまじりあった経験への驚き。
それこそが私を本作にのめりこませた理由だろうと思う。
おそらく、本作をみた多くの大人も、私と同じ感慨を抱いたのではないだろうか。

‘2023/5/14 イオンシネマ新百合ヶ丘


Winny


本作を観て、映画館のエンドロールで涙が出そうになった。とても素晴らしい映画だった。
すべての技術者に見てほしいと思えた。

今までに私はいろいろな映画を観てきた。
それらの映画のいくつかは私をとても感動させてくれた。
だが、本作から受けた印象はまた違うものだった。それは今まで観た映画の中で最も私自身の人生に近かったからではないかと感じている。

本作は、金子勇氏の戦いを描いている。
金子勇氏とは、ファイル共有ソフトWinnyを開発したことで逮捕され、のちに無罪を勝ち取ったことで知られる技術者だ。

私は技術者として20代半ばから今に至るまで活動を続けている。
今の私は会社を経営し、メンバーを雇用し、売り上げも伸ばすまでに至った。傍目から見ると順調なのだろう。
だが、私が最もプログラミングをしていて楽しいと思えたのは、20代後半から30代に差し掛かる頃だ。
当時はまだインターネットに信頼できる情報が乏しく、書籍が主な情報源だった。お金もなく、本屋で立ち読みした内容を頭に叩き込み、パソコンの前に向かってはそれを実践していた。

本作にも金子少年が本屋と電気屋を往復するシーンが描かれている。
私もあの少年のようにコーディングを学んでいた。金子少年の気持ちの高まりがよくわかる。深く感情を移入させられたシーンだった。

自分の描いたことがその場で実現できる。なんと素晴らしいことだろう。
当時の私はくめど尽きぬプログラミングやデータベースやサーバーの知識を浴び、毎日がやりがいに満ちていた。

金子氏がWinnyを発表したのは2002年のことだが、私がコンピューターの知識をむさぼるように得ていたのも、ちょうどその頃だ。

もちろん当時の私には金子氏のようなビジョンもスキルもなかった。
私が金子氏のように逮捕されるようなソフトウエアを作ることはできなかっただろう。
だが、当時の私に金子氏のようなスキルがあれば、おそらく自分の知識欲の赴くまま、突き動かされるままに、Winnyのようなものを作ったはずだ。おそらく、悪意を持った使用者によって著作権か侵害される可能性もあまり深く考えずに。もし問題が生じたら、プログラムを改修して対応すれば良い、と考えたはずだ。
つまり、金子氏の逮捕は、私にとってひとごとではない。

当時の私にとって、プログラミングとは紛れもなく自己表現であった。本作にも登場する金子氏の言葉「Winnyは私の表現なのです」のように。

幸いなことに、私はファイル共有ソフトでファイルをアップロードしたことはない。そもそもインストールすらした事はない。Winnyだけじゃなくて類似のソフトウエアも含めて。
また、今の私は会社を経営する身であり、順法の必要性もコンプライアンスの重要性も理解しているつもりだ。

それを前提とした上でも、私は金子氏が逮捕された理由については、司法側に批判的な立場だ。
金子氏が逮捕された理由は、著作権法の侵害のほう助容疑。つまり、著作権の権利を侵害する手助けをしたのではないか、ということだ。技術自体が罪に問われたわけではない。
つまり、具体的な作品を違法アップロードした行為が罪に問われ、そのツールを開発した目的が著作権を侵害することにあったのではないか、ということだ。

もちろん、それは違う。だが、司法側の論理によれば、不特定多数のユーザーに対しソフトウエアを公開するにあたり、ユーザーの誰かがそのソフトウエアを使って著作権の侵害が予想されるなら、開発者はそのソフトウエアを公開してはならない。
その論理が認められるなら、逮捕されるべきは金子氏だけではない。
極論であることを承知でいうと、金子氏が逮捕されるなら、wwwを開発したティム・バーナーズ=リー氏も、GPT-4の開発者やMidJourneyやStable Diffusionの開発者も同じく逮捕されるべきだと考える。どれも著作権の侵害をもたらすソフトウエアだから。
同じ論理を延長させるなら、ブロックチェーンの考えを公表したサトシ・ナカモト氏すら、通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律を侵害した罪で逮捕されるべきだろう。

だが、そうした方々は逮捕されていない。もはや逮捕するには不可能なほど、それらの技術が広く使われているからだ。
だが、それらの技術は著作権の侵害に深く関わってしまっている。直接的に何かのメディア作品を侵害したというより、社会の根深いところに既存の法権利や考え方に決定的な影響を与えてしまった。
私の個人的な意見としては、Winnyは法権利や社会を混乱させる技術をこれ以上生み出させないための見せしめにされた気がする。

逮捕は技術の否定につながる。
そして、技術は進化しなければならない。
もちろん、無秩序な進化は歯止めがかけられるべきだろう。地球にとって技術が望ましくない負荷をかけてきたことも事実だ。

だが、仮にすべての技術の進化を止めたとする。
今を生きる多くの人々は喜ぶだろう。これで何も学ばずに済む。既得権益は守られ、立場は保守できる、と。地球環境はこれ以上の悪化を免れられる、とも。
だが、長い目で見れば、技術の停滞は人類の死を招く。なぜなら、遠い未来に地球環境は激変するからだ。
太陽は膨張し、地球は燃える。それを待つまでに隕石が落ちれば、人類の滅亡は早まる。
技術を進化させ、人類を滅亡させる厄災から手立てを講じなければ。技術を凍結させる選択肢には人類にはないのだ。

司法側の立場もわかる。
今を生きる人の権利を守るのが役目。人々の権利を侵害する技術を摘発する任務は理解できる。
だが、今を守る司法の視点の先にあるのは長くても数年単位だろう。その一方、技術はこの先百年、千年先を視野に入れている。
司法とは、そもそもの性質から、現実や過去の判例に縛られるしかない。未来を視野に入れた組織ではないのだ。
そういう認識のもと、未来を見据えた技術を裁くことは不可能なのではないだろうか。

今回のWinny事件の教訓とは、技術と司法側のそれぞれで視野に入れる時間軸が大きく隔たっていることが明らかになったことではないだろうか。
だからこそ、上に挙げたような新技術への逮捕者は金子氏を最後に出ていないのだと思う。

本作には宇宙や星がモチーフとして登場する。
それはまさに未来の象徴でもあり、人類の目指すべき道筋を指し示している。
そして、同時に司法と技術の埋めようもない距離の隔たりを示唆している。

司法と技術の隔たりの犠牲となった金子氏。私はもちろん金子氏とは面識はない。
本作で東出さんによって描かれた金子氏や伝え聞く話、さらに本作のエンドクレジットで流される動画からは、金子氏の邪気のない姿がうかがえる。
おそらく、金子氏は純粋に技術を極めたかったのだろう。今までに人類を進歩させてきた好奇心に突き動かされるままに。

「宇宙の広さは、人間が存在している間には解明されないでしょう。けれど、パソコンの中の宇宙であれば全て理解できるのではないか」

本作の中で登場する上のセリフは金子氏が生前に語られていたのだろう。
それを語る金子氏は東出さんが演じておられる。パンフレットにも書かれていたが、本作にも登場する金子氏のお姉さまが、本作を見て号泣されたそうだ。それほどまでにそっくりだったのだろう。

私は東出さんの出たテレビドラマや映画を見たことがない。が、役者としての本分に関係のないゴシップ記事だけが目に付く。
だが、本作を演じた東出さんの姿からは、プロの役者としての思いのようなものが感じられた。

私もそのプロ根性から学ばねばならない。金子氏の残した技術への純粋な探求心も。

弊社の主な活動範囲は技術をお客様に提供することにある。
そして本作で技術が象徴していた未来を見据え、追い求めてゆく必要がある。そうでなければ弊社の存在意義はない。
それとともに、その技術で先走って世の中を置き去りにするものではなく、お客様のために寄り添っていかなければ。
本作で司法が象徴していたように。

あと、もう一つ本作から受け取るべきメッセージは、他人のために無償で働く行為についてだ。
技術業界ではそれまでにもシェアという慣習があった。本作にも2chの画面でWinnyを投稿する様子が描かれる。
無償で公開したWinnyが世の中に波紋を巻き起こす。
技術はこうした無償の技術情報の交換を通して発展してきた。
本作には金子氏の逮捕をきっかけに各地の支援者からの入金があった描写もある。クラウド・ファウンディングのはしりだ。
本作にはそうしたシェアの考えはそれほど全面には打ち出されていない。だが、そうした行為が今の社会に大きく影響を与えていることは見逃してはならない。今の私の活動領域にも若干かぶっている。

本作はとても貴重な示唆を私に与えてくれた。
冒頭に「今まで観た映画の中で最も私自身の人生に近かったから」と書いた。それは過去だけではない。これからも近づけていかなければならない。金子氏が願った未来へと。
私も、弊社も。

‘2023/4/8 イオンシネマ板橋


ヒトラーのための虐殺会議


恐ろしいホラー映画を観終わった後の気分だ。

本作からは悲鳴や金切り声が一切聞こえない。もちろん、流血や死体すらまったく登場しない。
それなのに、なぜこれほどまでに恐ろしさを感じるのだろうか。

その理由は、この映画で描かれる情景があまりにも普通だからだ。日常で経験する仕事の光景で見慣れた営み。
それは、自分がこの映画の登場人物であるかもしれない可能性を思わせる。またはこの映画が私の日常をモデルにしているのかもしれない可能性に。

私も普段、お客様と会議を行う。弊社内でも会議を行う。
ある議題に対して、参加者から次々と意見が出され、それに対する対案や意見が取り交わされる。
決めるべきことを決める。そのために資料が提示される。会議の内容は議事録にまとめられ、会議で決まった内容が記録される。

私が出席するお客様との会議も本作で描かれた会議の進行とそう違わない。
かつて、とある案件で私はPMOを務めていた。約四年半、休まずに毎週の定例会議で議事録を記していた。私がこうした会議に出席した経験は数百回に達するはずだ。
だから、本作で描かれる会議の雰囲気は私にとってまったく違和感を覚えなかった。

もちろん、本作で描かれる会議と私が日常でこなしている会議との違いは何点も挙げられる。
湖畔の瀟洒な建物。洗練された内装に、ゆったりとした調度品が室内に整然と並ぶ様子。
休憩の時間にはコニャックが振る舞われ、コーヒーなども自由に飲める。ビュッフェ形式の料理が用意され、給仕が配膳を取り仕切ってくれる。

最近の私が出席する会議はオンラインが主になっている。が、オフラインが主だったときも本作で描かれる上の情景とは違う。殺風景な会議室が主な舞台だ。ビュッフェもコーヒーもコニャックもない。
が、そういう違いはどうでもいい。
根本から異質なのは、本作で再現される会議の題材そのものだ。一見すると、ビジネスの議題と変わらないようなその議題。それこそが、私たちの感覚と根本的に違う。

ヴァンゼー会議。悪名高いホロコースト政策において、ユダヤ人問題の最終解決を推進した会議としてあまりにも有名だ。

その会議の議事録が今に残されており、その議事録をもとに再構成したものが本作である。

私たちが行う会議は、会議ごとに議題は違う。だが、ある共通の認識に基づいて開かれている。
「文明社会において合法的なビジネスの営みにのっとった手続きを遂行する」
これは、あまりにも当たり前の前提だ。そのため、会議の始まりにあたり、いちいち確認することはない。

本作で行われる会議も同じだ。参加者の全員が同じ認識を持っている。
が、共有する認識が私たちの持つ常識とはあまりにかけ離れている。
「文明社会において優れた民族が劣った民族を効率的に抹殺する必要に迫られている」
これが、参加者全員が持つ共通認識である。出席者によって違うのは、ユダヤ民族を労働力として使うのか。その最終解決の方法を人員と予算を確保し、いかに効率的に行うのか。または抹殺する方法が良心の呵責を感じないかどうか。

私たちの感覚からすれば、そもそもその前提が狂っている。
だが、そもそもユダヤ民族を排除することが前提である出席者にとっては、その前提は揺るがない。
議論されるのは遂行するための手段や予算配分であり、お互いの組織の権限をどのように侵さないかについてだ。

淡々と議事は進行していく。誰も声を荒らげず、怒号も飛び交わない。やり取りによっては不穏な空気が場を覆うが、皆があくまでも理性的に振る舞っている。
その理性的な振る舞いと良識が抜け落ちた扱っている共通認識の落差に声を喪う。

前提がおかしいと、ここまで恐ろしいことが事務的に処理されてしまう。

では、本作で描かれたような世界を私たちは違う時代の違う国で起きた事ととして片付けられるのだろうか。
否、だ。
今もロシアはウクライナに侵攻し続けている。謎の飛行物体は北米大陸に流れ、情報収集に努めている。
今も国際社会ではうそとプロパガンダがまん延している。

わが国の内側に限定してもそう。
組織のトップが決めた方針を、簡単に覆せる中間管理職がどれだけいるのだろうか。ましてや実務担当者が。
企業犯罪が報道される度、その実態が捜査される。そして何人かが逮捕される。
だが、悪に手を染めるその過程において、実務者がどれだけ組織の悪に抗えたというのだろう。集団が同じ認識に染まった中、一人だけ違う意見を出すことがどれだけ勇気がいるか。その困難に思いをいたすことは難しい。会議の場の雰囲気は、その場限りのもの。どれだけ捜査や裁判で再現されたかは疑問だ。

組織の中において、敢然と声を上げ、誤った前提に異を唱えることができる勇気。
仮に私がヴァンゼー会議の場にいたとして、前提から狂っていると反旗を翻す勇気があるとは自分は思わない。

私も小さいながら会社を経営する身として、本作で描かれる共通認識の束縛力の強さに恐ろしさを感じた。
ほんの少し、立場が違えば、弊社も非人道的なたくらみに加担してしまうのではないか。
経営者として最も戒めるべきは、示唆だけ部下にして、手を汚さない態度だ。
経営者であれば、そうした力の行使ができてしまう。
その結果、部下は上司の思いを忖度し、または曲解する。そして事態は独り歩きしていく。さらに、それに対して、経営者は責任をかぶる必要がない。部下が勝手にやった事なので、と。

本作で描かれた会議には、ヒトラーもヒムラーもゲーリングも登場しない。すべては実務に有能な部下たちが「よきにはからって」しまった結果なのかもしれない。
会議の冒頭にゲーリング国家元帥の言葉として述べられた
「組織面、実務面、物資面で必要な準備をすべて行い、欧州のユダヤ人問題を総合的に解決せよ。関係中央機関を参加させ、協力して立案し検討するように」「ユダヤ人問題の最終解決を実施せよ」のもとに。

私が最も恐ろしさを感じたのは、私がそのような巨大な過ちを起こす可能性の渦中にあることだ。

‘2023/2/12 新宿武蔵野館


AVATAR ウェイ・オブ・ウォーター


13年ぶりに公開された「AVATAR」の続編である「AVATAR:ウェイ・オブ・ウォーター」。それをIMAXの巨大スクリーンで見た人のうち、前作を見たこともなく、内容すら知らなかった人はどのぐらいいたのだろう。
実は私がその一人である。ついでに長女も。

私も長女も前作を見たことはない。そればかりかウィキペディアから得た情報も全く持っていない。そんな状態のまま、IMAXの巨大スクリーンの前に臨んだのだから無謀と言えよう。
なぜ見ようと思ったのか。それは、次女が見たいと言ったからだ。そこで家族で池袋まで遠征して観劇した。
妻も前作は見ていないらしい。だが、かろうじて当時のさまざまな報道による知識を覚えていたようだ。つまり、家族四人の中で前作の内容を知っていたのは次女のみ。

心もとない状態で見た本作。結論を言えば、私は楽しめた。だが、肝心の登場人物の関係性は最後までわからないままだった。
例えばナヴィ族に混じってHumanの容姿を持ったスパイダーと名付けられた少年。彼の素性は本作の最後の方になって、おぼろげながらようやく理解できた。
また、主要な登場人物の一人であるジェイク・サリーは一家の家長である。
彼は前作では人間だったそうだ。私がそれを知ったのは劇場を出た後。家族と感想を述べ合っていた時に教わった。
また、本作で重要な役どころを担うキリ。彼女がジェイクにとっては養子であることも見終ってから知った。
他にも、本作の敵役であるマイルズ・クオリッチがなぜ執拗にジェイクを狙うのかも理解せぬままだった。前作ではどういった因縁が二人の間にあったのか。全く知らないまま最後のエンドロールまで一気に見通した。

それほどまでに無知な私。だが、本作で監督が伝えたいと思ったメッセージは受け取れたと思う。
前作の知識がないため、的外れな感想かもしれない。が、それを許してもらえると期待して本稿を書いてみたいと思う。

本作から伝わってくる明確なメッセージはいくつもある。
一つ目は、ナヴィ族と人類の関係だ。衛星パンドラで平和な生活を営むナヴィ族に一方的に侵略する人類。
その描写は、白人がアメリカ開拓の名の下にインディアンを迫害した歴史を連想させる。
文明の力をわがもの顔で振り回し、共存など一切考えずに自分たちの都合だけで振る舞う人類。その姿を白人におくとすれば、自然と共存するナヴィ族はインディアンの各部族だと見なせる。

自然を愛し、自然と共存する穏やかな種族が、自然を全く顧みない侵略者によって駆逐されていく様子。それは北米のインディアンだけでなく、コルテスが率いるスペイン軍に滅亡させられたアステカ帝国の姿であり、わが国の和人に迫害されたアイヌ民族の関係にも当てはまる。

文化や容姿がほんの少しだけ違うだけで、なぜ人はここまで相手を蔑ろにして振る舞えるのか。
そこに監督の抱える文明への根深い不信を見てとることは容易だ。

もう一つのメッセージ。それは捕鯨への批判だ。

本作にもクジラに相当する生物が描かれる。トゥルクン。
狩りに精を出す人類の一部は、トゥルクンを仕留めると、その頭蓋に穴を開け、アムリタと呼ばれる脳下垂体からとれるホルモンを採取する。アムリタだけが目当てなので、トゥルクン中の部分には興味がない。廃棄する。これなどまさに捕鯨への批判そのものだ。

なお、これはわが国の捕鯨文化への直接の批判ではないと思う。わが国の捕鯨の文化は鯨油だけでなく、クジラの他の部位まで余さず使い切ることにある。むしろ、かつての欧米でも行われてきた捕鯨こそが鯨油のみのためのものだったとされる。つまり本作の批評は、かつての欧米の捕鯨に対する批判の意味が強いと思われる。
本作に描かれる狩りの様子は、捕鯨のそれだ。
トゥルクンと共存しているナヴィ族に比べ、老化防止のアムリタだけを目的にトゥルクン狩りに狂奔する人類の姿の醜悪さ。監督による風刺精神が本作の中で最も発揮されている場面ではないだろうか。

もう一つ、本書で描かれるメッセージで見逃せないのは多様性の尊重だ。
ナヴィ族自身が主人公である本作。ナヴィ族の容貌は、人類の多くがかわいいと感じる動物のそれとは違う。その容貌はトカゲなどの爬虫類を思わせる。指は四本。肌は青い。

人類と違う姿の生物。しかも人類にとってなじみのない容貌。そのようなナヴィ族を主人公に据えることで、人類とは違う別の生物にも文化や文明、そして交流や感情を認めるのが監督の意思だ。そして、本作を通してその価値基準を人々に知らしめたいと願う思いも感じる。
ナヴィ族の中にもさまざまな容姿がある。人類とナヴィ族の間に生まれた子供達は周囲との違いに悩む。悩みながらもその違いを活かして窮地を乗り切る。その姿は、多様性を尊重する監督の意思の表れだろう。

本作は人類と違うナヴィ族を主人公に置くことによって、安易な偏見の愚かさを訴えている。違う容姿を持っていたからといってそれが何だというのか。
人によって違う多様性。それは尊重されてしかるべき価値だ。
限られた惑星の中で相互を認めつつ、共存していかなければならないの人類や生物のあり方ではないのか。

また、監督は経済のあり方にも疑問を投げかけている。
経済活動の大義を掲げればなんでも許される。そういう考えのもとに持続可能性が打ち捨てられているのが今の地球だ。
誰もがこのままでは地球がもたないと思っている。それでいながら、成長を止められぬまま、手をこまねいている。

本作に登場する人類がまさにそう。地球に住めなくなったため、新天地を探してパンドラにやってきた。それが本作の設定だ。
自分たちを生み育てた地球すら、エゴのために使い果たしてしまうのが人類なのだから。
あらゆる経済活動が今の資本主義の荒廃として結実し、加えて民族間の無意味な対立が地球をさらに痛めつける。
作者の掲げるありとあらゆる批評精神が、本作のあらゆる場面にふんだんに盛り込まれている。

それらのメッセージは、自然の前に謙虚であれ、の一言に集約される。
自然とは、元来は徹底的に美しく、多様性に満ちた存在。それが美しすぎる映像として本作で再現される。
わたしたちが忘れ果てている自然の美しさ。技術とは本来、自然に奉仕するために使われるべき。そう主張するかのように。

‘2022/12/25 グランドシネマサンシャイン池袋


トップガン マーヴェリック


本作は見に行こうと決めていたので、一カ月ほど前にAmazon Primeで前作を見直した。中学生の頃はレンタルやテレビ放映で何度も見た前作だが、前に見てからおそらく三十年はたっているはずだ。
前作のサントラはカセットテープでも持っているし(私が初めて買った音楽メディアがバック・トゥ・ザ・フューチャーのサントラのカセットで、その次に購入したのがトップガンのサントラ)、後にCDでも購入した。
TOPGUN ANTHEMは今でも頻繁に聴くし、私にとって前作は重要な作品だ。

だからこそ、本作は見に行こうと決めていたものの、少しだけ不安だった。期待はずれだったらどうしよう。
結論から言うとそれは杞憂だった。
36年のブランクを感じさせず、それでいて、前作を十分に尊重している内容が素晴らしかった。思わず最後は泣いてしまった。

まだ見ていない人が本稿を読むかもしれないので、あまり内容については触れないようにしたい。特に前作と本作で引き継がれた部分や、前作に比べて変わった部分については本稿では注意深く取り扱うつもりだ。

とはいえ、作中に流れる音楽については書いても良い気がする。
例えば冒頭。TOPGUN ANTHEMのイントロが流れ、そこからDANGER ZONEへと転調する部分。このシーンなど、完全に前作を見た人へのサービスだろう。この部分だけで前作の思い出が蘇ることは間違いない。
あとはエンドクレジットだ。本作の最後にはTOPGUN ANTHEMが流れる。だが、スティーブ・スティーブンスの奏でるギターのアレンジに痺れた私としては、本作で流れたTOPGUN ANTHEMのアレンジには新鮮さを感じなかった。残念ながら。

The WhoやDavid Bowieなどの懐かしい曲や前作でも印象に残るシーンで使われていたGreat Balls of Fireの使い方も良かった。流れる音楽に前作の雰囲気が踏襲されていたのは嬉しい。
ただし、前作はバラエティも豊かな80’sの黄金期にふさわしいミュージシャンがそろっていた。だが、本作のサウンドトラックに収められている曲にはまだピンときていない。別にレディ・ガガのアンチではないが、前作に続いて本作のサウンドトラックを買おうと言う気にはまだなっていない。

本作は、何が良かったかというと、加齢をきちんと踏まえてくれていたことだ。
ミッション・インポッシブルのようなアクション満載の映画も楽しいのだが、さすがにトム・クルーズの年齢を考えると無理がある。
本作で描かれたマーヴェリックが縦横無尽に機を操る姿にも年齢的にも無理はあるはず。だが、脚本の上では36年の月日を踏まえた脚本になっていて、前作を飾った面々が年月を重ねる描写が不自然さを感じさせなかった理由だったと思う。

また、ダイバーシティの風潮を踏まえ、トップガンの面々も一新した。人種もさまざまで、女性のパイロットも登場する。そこは前作との違いとしてあげてもよいだろう。
本作に登場するトップガン達の溌剌とした若さに比べると、トム・クルーズの加齢は否めない。だが、それが良かった。加齢しない人間などいるわけがない。歳を取っているのだ。トム・クルーズと言えども。
そこをきちんと描いてくれたため、トム・クルーズがマッハ10の壁を越えても、トップガンたちを訓練で次々とロックオンしても、本作のマーヴェリックから作り物めいた感じは受けなかった。

もう一つ、加齢を描いていて良いと思ったのはラブシーンだ。前作ではベルリンの歌う愛のテーマに合わせ、濃密な情欲が描かれていた。が、本作ではそこはあっさりと描かれていた。この点にも好感を持った。36年たっても相変わらず異性にギラギラするマーヴェリックなど、どう考えても不自然なので。

また、これは加齢には関係ないが、パイロットが人工知能に置き換えられる設定も、時流を映していて良かったと思う。
おそらく、本作にテーマがあるとすれば、生身の人間がハイテクの権化である戦闘機を乗りこなすことの激しさや苦しさ、厳しさを描くことにあるはずだ。なぜAIでなく生身の人間が乗ることに浪漫を感じるのか。それは、人間が感情にも肉体上にも限界があるからだろう。
その上でパイロットたちは限界に挑む。加齢や肉体の限界からは人間は逃れられないが、それを乗り換えて限界に挑まなければならない。そして、次の世代にバトンタッチしていかなければならない。
仲間同士の友情や協力によって不可能を可能にする姿が、本作の支持につながっているはず。

もう一つ、本作から感動を受けるのほ、主演のトム・クルーズ自身の姿勢だ。彼は50歳も半ばを過ぎたのに本作に挑戦している。
本作のパンフレットが売り切れだったので、私も製作情報はあまり知らない。だが、聞くところによると本作には合成の画像は使われていないそうだ。
規定により、俳優は実機を操縦できない。そのため、操縦自体は空軍の本物のパイロットが行っているそうだ。だが、俳優は実機に乗り込み、実際に乗った状態で演技しているそうだ。もちろんトム・クルーズも。
実際に高いGを感じながらの演技は大変だと思う。だが、それがかえって本作に真に迫った描写を与えているのではないだろうか。
IMAXの巨大な画面を前にみる本作は、実に爽快。見て良かったと思う。
本作は新型コロナウイルスによって再三公開延期を余儀なくされたと言う。だが、トム・クルーズは頑としてスクリーン公開を譲らなかったそうだ。それだけ本作に力を注ぎ込み、自信もあったのだろう。

本作のマーヴェリックの姿にうそっぽさがないとすれば、トム・クルーズの演技に年齢の壁を越え、さらなる高みへと努力する姿が感じられるからだろう。

本作は次女と見に行った。当日の朝の五時まで20時間連続で仕事をしていた娘は、社会人になって早々、過酷な現場で頑張っている。
トム・クルーズのファンである次女は、トム・クルーズの超人的な努力を見て、元気をもらったと言っていた。私もその意見に同じだ。
年齢だからと諦めるのではなく、努力してみなければ。49歳の誕生日を迎えた日に見たからこそ、なおさらそれを感じた。

‘2022/6/6 グランドシネマサンシャイン池袋


信虎


友人に誘われて観劇した本作。
正直に言うと武田信虎の生涯のどこを描くのか、上映が始まる前は全く見当が付かなかった。そのため、私の中で期待度は薄かった。
ところが本作はなかなか見どころがあり面白かった。

本作が描いた信虎の生涯。私はてっきり、嫡子の晴信(信玄)によって甲斐から追放される場面を中心に描くのかと思っていた。
ところが、本作の中に追放シーンは皆無。一切描かれないし、回想で取り上げられる機会すら数度しかない。

そもそも、本作の舞台となるのは1573年(元亀3年)から1574年(天正2年)の二年間を中心にしている。信虎がなくなったのは1574年(天正2年)。つまり、本書が主に描くのは信虎の晩年の二年間のみだ。信虎が甲斐を追放されてから約三十年後の話だ。
1573年といえば武田軍が三方ヶ原の戦いで徳川軍を蹴散らし年だ。その直後、武田軍は京への進軍を止め、甲斐に引き返す途中で信玄は死去した。
その時、足利十五代将軍の義昭の元にいた信虎。将軍家の権威を軽視する織田信長の専横に業を煮やした義昭の元で、信長包囲網の構築に動いていた。

武田軍が引き返した理由が信玄の危篤にあると知った信虎は、娘のお直を伴って甲斐に向かう。
信玄が兵を引いたことで信長包囲網の一角が破れるだけではなく、武田家の衰亡にも関わると案じた信虎。だが、信玄は死去し、その後の情勢は次々と武田家にとって不利になってゆく。
しかも、当主を継いだ勝頼は好戦的であり、信玄の遺言が忠実に守られている気配もない。
信虎の危機感は増す一方。30年以上も甲斐を離れていた信虎は、勝頼の周りを固める重臣たちの顔も知らず、進言が聞き入れられる余地はない。
失望のあまり、勝頼や重臣の前で自らが再び甲斐の当主になると宣言したものの、誰の賛成も得られない。
そこで信虎は次の手を打つ。

本作が面白いのは、信虎が武田家滅亡を念頭に置いて動いていることだ。
京や堺を抑えた信長の勢力はますます強大になり、武田家では防ぎきれない。血気にはやる勝頼とは違い、諸国をめぐり、経験を積んできた信虎には世の中の流れが見える。
武田家は遠からず織田や徳川に蹂躙されるだろう。ただ、武田家の名跡だけはなんとしても残さねば。その思いが信虎を動かす。

本作の後半は、武田家を存続させるための信虎の手管が描かれる。武田家が織田・徳川軍に負けた後、武田家を残すにはどうすればよいのか。

本作は時代考証も優れていたと思う。
本作において武田家考証を担当した平山優氏の著作は何冊か読んでいる。本作は、私があまり知らなかった信虎の人物や空白の年月を描きながら、平山氏の史観に沿っていた。そのため、みていて私は違和感を覚えなかった。
服装や道具なども、作り物であることを感じさせなかった。本物を使っている質感。それが本作にある種の品格をもたらしていたように思う。時代考証全体を担当した宮下玄覇氏と平山氏の力は大きいと思う。
本作は冒頭にもクレジットが表示される通り、「武田信玄公生誕500年記念映画」であり、信玄公ゆかりの地からさまざまな資料や道具が借りられたようだ。それもあって、本作の時代考証はなるべく事実に沿っていたようだ。

いくら時代考証がよくても、俳優たちの演技が時代を演じていなければ、作品にならない。本作は俳優陣の演技も素晴らしかった。
本作に登場する人物の数は多い。だが、たとえわずかな場面でしか登場しない端役であっても、俳優さんはその瞬間に存在感を発していた。
例えば武田信玄/武田信簾の二役をこなした永島敏行さん、織田信長役の渡辺裕之さん、上杉謙信にふんした榎木孝明さん。それぞれが主役を張れる俳優であり、わずかなシーンで存在感を出せるところはさすがだった。

また本作のテーマは、信虎の経験の深みと対比して武にはやる勝頼の若さを打ち出している。その勝頼を演じていたのが荒井敦史さん。初めてお見かけした俳優さんだが、私が抱いていた勝頼公のイメージに合っていたと思う。
その勝頼の側近であり、武田家滅亡の戦犯として悪評の高い二人、跡部勝資と長坂釣閑斎の描かれ方も絶妙だったと思う。安藤一夫さんと堀内正美さんの演技は、老獪で陰険な感じが真に迫っていた。

あと忘れてはならないのが、美濃の岩村城で信虎一行を逃すために一人で槍を受けて絶命した土屋伝助すなわち隆大介さんだ。見終わって知ったが本作が遺作だったそうだ。見事な死にざまだった。
また、本作は切腹の所作も見事だった。見事な殉死を見せてくれたのは清水式部丞役の伊藤洋三郎さん。
最後に、本作にコミカルな味を加えていた、愛猿の勿来も忘れてはならない。

もっとも忘れてはならないのは、やはり主役を張った寺田農さんの熱演だ。熱演だが暑苦しくはなかった。むしろ老境にはいった信虎の経験や円熟を醸しだしながらも、甲斐の国主として君臨したかつてのすごみを発していた。さすがだ。
俳優の皆さんはとても素晴らしかったが、本作は寺田農さんの信虎が中心にあっての作品だ。見事というほかはない。

本作は、私個人にとっても目ヂカラの効用を思い出させてくれた。武田家を後世に残そうとする信虎は、信仰している妙見菩薩の真言を唱えながら、自分の術を掛けたい相手の顔をじっと見る。
その設定は、本作に伝奇的な色合いを混じらせてしまったかもしれない。だが、相手の目を見つめることは、何かを頼む際に効果を発揮する。相手の目を見ることは当然のことだが、その際に目に力を籠める。すると不思議なことに相手に思いが伝わる。
私は、経営者としてその効用を行使することを怠っていたように思う。これは早速実践したいと思った。

‘2021/11/23 TOHOシネマズ日本橋


サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~


本作を映画館で見られてよかった。心底そう思った。
もともと聴覚に関心があった私は、本作に対してもほのかにアンテナを張っていた。昨日になって上映がまもなく終わると知り、慌てて劇場に行くことに決めた。もし間に合わずにテレビやパソコンで見たら、本作の真価は味わえなかったに違いない。

聴覚に失調をきたした時、どのように聞こえるのか。本作はそれをリアルなサウンドで体感させてくれる。

主人公のルーベンはドラマーだ。恋人のルーがボーカルで金切声を上げる後ろで、ハードなメタル・サウンドをドラムで刻んでいる。ボーカルとドラマーという変則コンビの二人は、トレーラーで暮らしながら街から街をライブで巡っている。

だが、ある日突然ルーベンの聴覚がおかしくなる。くぐもった音しか聞こえなくなり、急速に会話にも支障をきたすようになる。ルーとの演奏も合わなくなり、ライブ活動どころではなくなる。
聴覚失調者のコミュニティに入ることになったルーベンは、ルーと別々に暮らす。そしてコミュニティの中で手話を覚え、やがてコミュニティに溶け込む。リーダーのジョーにも信頼されたルーベン。
しかし、ジョーから今後ずっとコミュニティに関わってもらえないかと言われた後、トレーラーを売って脳内にインプラントを埋める手術に踏み切る。
ジョーからはコミュニティの信念に反するため荷物をまとめて出てゆくように言われる。
「失聴はハンデではなく、直すべきものではない」との言葉とともに。
ルーベンは、インプラントを埋め込んでも聴覚が完全に回復しなかったことを知り、ある行動に出る。
これが本作のあらすじだ。

ルーベンの視点に立った時、音が歪み、不協和音を立てる。そのリアルな音響は、聴覚が壊れたら私たちの生活が壊れるとの気づきを観客に与えてくれる。
ただ、聴覚が狂っても振動は感じられる。それも本作が教えてくれたことだ。
私が本作を見たのは新宿のシネマートだが、BOOST SOUNDというシステムを導入している。このBOOST SOUNDは普通よりスピーカーを多く備え、サウンドのリアルな変化や、重低音による振動を腹で感じさせてくれた。
ルーベンの冒頭のメタル・ドラマーとしての迫力の音や、施設の子どもと振動でコミュニケーションする様子など。
本作こそ、映画館で見なければいけない一本だと思う。

私が聴覚に関心があると書いたのは、私自身、あまり聴覚がよくないからだ。
十数年前に96歳で亡くなった祖父は、晩年、ほとんど耳が聞こえていなかった。うちの親や兄妹が補聴器を買ってあげたが、ノイズを嫌がったのかあまりつけておらず、晩年は孤独の中にいたようだ。私はそんな祖父の姿を見ていた。

そして、私も上京した20代の中頃から音の聞こえにくくなってきたことに気づいた。
大学時代に友人とノイズのライブ(非常階段)に行ったことがあるが、ライブの後、数日間は耳がキーンとしていた記憶がある。その後遺症が出たのか、と恐れた。または祖父の遺伝が発言したのか、と。
ただ、私の場合、耳の不調は鼻の不調(副鼻腔炎)に関係しているらしい。そのため、耳の手術や補聴器には踏み切っていない。だが、七、八年前に聴覚の検査をしてもらった際は、ぎりぎり正常値の下限だと診断された。

最近はリモートワークでヘッドホンを使うようになり、ようやく仕事にも影響を及ぼさなくなった。だが、電話で連絡を取り合っていた時期は、相手の滑舌が悪かったり、電波がつながりにくかったりすると全く聞こえず、私を苛立たせた。また、居酒屋での会話は今もあまりよく聞こえない。
本作でルーベンが最初に自覚したくぐもった音は、私にとっては自分の実感として体験していることだ。

だからこそ、本作は私にとって重要な作品だった。また、私自身の今後を考える上でも自分事として身につまされながら見た。

本作は、聴覚障碍者向けにバリアフリーで作られている。つまり、作中の音についても全て字幕が表示されるのだ。ルーベンのドラムやため息。ルーの鳴き声、風のざわめきや歪んだ鐘の音など、全ての音。
また、コミュニティでは人々が手話で話し合う様子がリアルに描かれている。十人ほどの人が輪になってめいめいが手話を操ってコミュニケーションを取る様子。それは、テレビでよく見かける、話者の横にいる手話通訳者のように一方通行ではない手話であり、とても新鮮だった。
そうした意味でも聴覚障碍者が見ても自分のこととして楽しめるに違いない。
だが、やはり正常な聴覚を持っている人にこそ、本作は見てほしい。

もう一つ、本作を見ていて気になったことがある。それは「Deaf」という言葉が頻繁に登場することだ。
「Deaf」とは、いわゆる英語の聴覚障碍者を表す言葉だ。日本では放送禁止用語になっている「つんぼ」にあたるのだろうか。
最近は聴覚障碍者という呼び名が定着しているが、英語ではそうした読み替えはないのだろうか。とても気になった。
最近はSDG’sやMeTooやダイバーシティーやLGBTという言葉が浸透している。だが、昔はそうではなかった。だから差別を助長するのではとの懸念から「つんぼ」が忌避されたのは分かる。
だが、今の時代、そうした差別の意図はあからさまに出せないはずだ。「つんぼ」「めくら」などの言葉には否定的なニュアンスがあるから復活できないのだろうか。「Deaf」が英語圏ではどのようなニュアンスなのか調べてみようと思う。

本作は終幕になるにつれ、ルーベンを演じたリズ・アーメッドの演技に引き込まれていく。パワフルなドラミングと自らを襲った悲劇に悪態をつく様子と、失調の苦しみを懸命に押し込もうとする演技は、アカデミー主演男優賞にノミネートされただけはある。
彼の感じる聴覚の不自由さが観客に伝わるからこそ、彼の表情が生きる。

また、ジョーに扮するポール・レイシーの演技も見事だ。何とかルーベンを立ち直らせよう、コミュニティに溶け込ませようとする演技も素晴らしかったと思う。
「静寂の世界は私を平穏な気持ちにさせてくれる」という言葉は、本作を見る上でキーになるセリフだ。

‘2021/10/24 シネマート新宿


007 NO TIME TO DIE


本作は見る前からさまざまな情報が飛び交っていた。
ここ十数年のジェームズ・ボンド役としておなじみだったダニエル・クレイグが、本作でジェームズ・ボンド役から勇退すること。悪役にBohemian Rhapsodyでフレディー・マーキュリーを演じたラミ・マレックがキャスティングされたこと。

それらの情報を得た上で観劇に臨んだので、何かしらの劇的な終わり方はあるのだろうと思っていた。
なるほど、そう来たか、と。
本稿ではそれが何かは書かないが、私にとっては納得の行く終わり方だった。

007ほど老舗のアクション映画となると、観客を喜ばせることはそう簡単ではない。人々の目は肥えてしまっているのだ。本作は「007 ドクター・ノオ」から数えて25作目なのだから。
もうボンドカーにしてもQのガジェットにしてもすでに行き着くところまで行ってしまった。これ以上新たな新味を加えるのは難しい。
ビリー・アイリッシュによるテーマ曲も良かった。ただ、今を時めくアーチストなので、それほど新鮮味を感じなかったのも確か。
もちろん本作でも、ボンドカーの凄まじい新機能が披露されるし、Qもすごい能力を持ったガジェットをボンドに提供する。それらはとても面白く、以前からのファンは思わずニヤリとすること請け合いだ。

それよりも本作は007の中でも大きく進歩した作品と記憶される点がある。その進歩は、007を時代遅れのアクション映画との誹りから遠ざけるはずだ。
本作において最も進歩が感じられたこと。それは今の世の中の動きに沿ってキャラクター造形に修正をほどこしたことだ。具体的に言うと、ボンド・ガールや007の称号そのものについてだ。本作は大きな変化があった。
実はこれ、今までの007の概念をかなり覆す大きな変更だと思う。

そのことに触れても、本作をまだ見ていない方へネタをばらすことにはならないはず。以下でそのことを書いてみたい。

本作には数名の女性が登場する。私にとって一番魅力的に映ったのは、キューバでボンドと行動をともにする現地エージェントのパロマだ。美しい容姿を持ち、胸元もあらわなドレスを着て、ボンドとともにパーティー会場に潜入する。

今までの007の定番だったボンド・ガールのセクシーなイメージを本作で最も体現していたのはパロマだ。今までのボンドであれば、パロマと何かしらのラブシーンがあってもおかしくない。だが、本作にはそれがない。
それどころか、パロマの見事なエージェントとしての働きに感銘を受けたポンドは、別れにあたって彼女をほめたたえる。
その時のボンドの態度には見下した印象も感じられない。あくまでも対等なパートナーとして彼女を認める。その姿こそ、新時代にふさわしいボンドの態度であり、ダニエル・クレイグの注意深い演技の成果だと思う。

そもそも本作では、もうボンド・ガールとは呼ばない。ボンド・ウーマンだ。ガールと言う時点で対等なエージェントではなく、下に見る印象を与える。
今、世界ではMeTooやダイバーシティなど、男女同権の考えが浸透しつつあり、その中では今まで当たり前に呼ばれていたさまざまな人やものへの呼び方が変わりつつある。ボンド・ウーマンにもそれが反映されている。
本作には重要な女性のキャラクターがあと二人登場するが、二人とも性的なイメージを与えない服装の配慮がなされていることも付け加えておきたい。

もう一つは007の称号だ。
今さら言うまでもなく、007は殺しのライセンスを持つMI6のエージェントに与えられたコードネームだ。007はその中でもエースナンバーとしての地位をほしいままにしてきた。
今までに007は25作品が作られできた。その中で007のジェームズ・ボンドは、ショーン・コネリーからジョージ・レイゼンビー、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンを経てダニエル・クレイグに至るまで6人の俳優が演じてきた。
だが、俳優が変わっても、007はジェームズ・ボンドを名のることがお決まりになっていた。

だが本作でついに007は別の人物が務める。ジェームズ・ボンドすなわち007の組み合わせが崩れたのは本作が初めてではないだろうか。これはとても重要な変更ではないかと思う。
さらに、007を務める人物の造形は、今までとはガラリと変えられている。

原作のイアン・フレミングの呪縛が解けたのだろうか。
この変更こそ、ダニエル・クレイグが勇退した後、本シリーズの主役が誰になるのかを占う鍵かもしれない。

かつて、口の悪いファンからは007シリーズはマンネリと批判する言葉もあったと聞く。また、東西冷戦が終わった後、007をやる意味があるのかと言う意見もあったらしい。
だが、本作で加えられた変更は、その懸念を払拭するものだと思う。

人類が存続する限り、さまざまな考えを持つ人はいるだろう。そして、その時代において、人々が最も恐怖を感じる対象も変わるだろう。
本作の悪役や全体のテーマは、今の時代に人々が感じる恐怖を表したものだと思う。

本作のテーマは、人々にとって恐怖であるとともに、人が人であり続けてきた重みと喜びも同時に表しており、秀逸なテーマだったと思う。

エンド・ロールの最後には、今後の本シリーズの続編を約束する言葉もあり、とても興味深い。私は多分死ぬまで本シリーズを見続けることだろう。

‘2021/10/17 109シネマズグランベリーパーク


神在月のこども


実は本作の存在を知ったのは、劇場に入る数時間前のことだ。
それまで、本作を見に行く予定どころか、映画館に行くつもりすらなかった。

ぶっつけ本番で見た本作だが、とても面白かった。
それは、旅が好きで神社によく参拝する私の嗜好に合っていたからだと思う。

本作はロードムービーとしても楽しめる。
東京の日常を脱し、各地の神社を巡って出雲へと至る旅。それを思うだけでも気分は高揚する。さらに、神具の勾玉の力によって、普通の人間に比べて何十倍も早く動けるなんて羨ましすぎる。その設定だけで悶えてしまう。
コロナで移動が制限されている今、本作は私の心を旅へと、出雲へと駆り立ててくれた。

以下はネタバレが含まれています。

そもそもなぜ本作を見ようと思ったか。それは昨晩、私のTwitterに届いた画家さんについて詳しく知りたいというメンションに始まる。
そのメンションをきっかけに、私は25年前と2年前に訪れた出雲にまた行きたくなった。
メンションをくださった方は、私が25年前に日御碕灯台の前で出会った占いをする画家さんについて触れた2年前の出雲旅のブログを読まれたのだろう。ところが、私もその画家さんの詳細は詳しく知らない。
今回のメンションをきっかけに、まだお元気だというこの画家さんのことを知りたいと思った。
出雲にまた行きたい、と妻に言ったところ、妻も出雲に行きたい、と。その流れで、妻が興味を持っていた本作を見に行こうと決まった。
一緒に観に行った長女が、本作に出てくる某声優さんのファン(恵比寿様)だったことも本作の観劇を後押ししてくれた。

母を病でなくしてしまった主人公の葉山カンナ。幼い頃からカンナと一緒に走り、走ることの喜びを教えてくれた母の死を悲しむあまり、小学校で走る行事にも消極的でやる気が出ない。そればかりか、作り笑いでその場をやり過ごそうとする卑屈な女の子になってしまった。
一年が過ぎ、母が倒れたマラソン大会がやってきた。だが、カンナは走ることに真剣になれないまま、声をかけてくれた父のもとを走り去ってしまう。
たどり着いたのが家と学校の間にある牛島神社。ここで母の形見の勾玉を身に着けたところ、時間が止まる。さらに巨大な牛と人の言葉を操る白兎が目の前に現れる。

白兎のシロから聞いたのが、母弥生が韋駄天の末裔だったこと。
母が毎年十月に出雲大社で催される神在祭に、各地の馳走を運んでいたこと。
今年は今日の夜の7時から始まるため、それまでに各地を巡って馳走を集め、それを出雲に持っていかなければならないこと。間に合わない場合、来年度の神議りに差しさわりがあること。

縁結びの神である大国主命の力があれば、あの世にいる母と再び合わせてくれるかも!そう思ったカンナは勇躍して出雲へと走る。
だが、かつて韋駄天に敗れ、鬼になった一族の末裔である夜叉がカンナとシロから勾玉と馳走を奪う。かつて一族が被った恥辱をすすぎ、韋駄天の座に返り咲こうとする夜叉。
だが、やがて走ることに共通の喜びを感じているカンナと夜叉の間には絆が生まれ、夜叉も一緒に出雲まで同行する約束を交わす。

夜の7時までとはいえ、それは人間の尺度での時間。実際はその何十倍のスピードで動ける。各地の神社を巡り、その神社の祭神から賜った馳走を集めながら、出雲へと向かう。
その道のりがとても面白い。作中で確認しただけでも牛島神社から愛宕神社、さらに蛇窪神社が登場する。さらに鴻神社に移動する。そして神流川に向かう。
諏訪大社から奈良井宿、須賀神社から元伊勢神社、白兎神社、美保神社とたどっていく。
馳走を集めるにはこのルートが最短なのだろうけど、今までに聞いたことのないルートだ。

妻は本作に出てきた神社の多くを訪れたことがあるそうだ。だが、私は基点の牛島神社すら参拝したことがない。私が参拝したことがあるのは愛宕神社、諏訪大社、元伊勢神社、出雲大社くらい。
私にまだ参拝していない神社を教えてくれたのも本作の効能だ。神社の魅力とは、由緒書や境内の佇まいや本殿などの意匠だけでなく他にもあるはず。本作を見ていると神社についての知識をより深く知りたくなる。

本作の効能は他にもある。本作は子どもにも向けてメッセージを発している。それはあきらめない心だ。そして、自分の好きなことを信じる力。その気持ちを失わないことも本作のキーメッセージだ。
さらに、今の世の中は神社や神々のような人と人とを結びつける存在が忘れ去られようとしている。その結果、人の心から思いやりが失われ、イライラやと人をひがんだりねたんだりする感情が人の心を病ませている。本作にも黒く湧き上がる禍々しい気が描かれる。カンナの心やせわしない街の人々からも。

私も旅をして各地の神社を巡り、その清新で厳粛な境内から気を受け取りたい。ともすれば消耗する日常からわが身を守るためにも。
コロナで苦しんだからこそ、本作が伝えるメッセージは皆さんに届くはずだ。
それとともに、早くコロナが完全に収まり、人々が再び気を遣わずに旅ができる時代になることも願う。

なお、最後に少しだけ疑問が生じたことも書いておく。
それは、夜の7時までに出雲大社に馳走を届けなければならないのに、なぜ日の落ちた海岸でのんびり横になって休んでいるのだろう。そんなささいな疑問が頭から離れなかった。
もう一つ、これは制作の皆さんやスタッフの皆さんのせいではないはずだが、本作で描かれた大国主命から、なぜか某宗教法人の啓発アニメーションの世界を感じてしまった。見たこともないのに。なぜだろう。神谷明さんが話しているにもかかわらず。
それと、古代の出雲大社本殿って、神々が食事をする場所なんだろうか。これもふと疑問に思った。神議りならまだ分かるのだが。
でも、それも私の知識が不足しているだけかもしれない。まずは日本書記や古事記に触れ、知識を蓄えたいと思う。

‘2021/10/10 イオンシネマ多摩センター


アウシュヴィッツ・レポート


衝撃の一作だ。
私がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の恐るべき実態を描いた映画を観るのは『シンドラーのリスト』以来だ。
人を能率的に殺すためだけに作られた収容所。労働に耐えうるものと殺されるものがいとも簡単に選別され、殺されるものは即座に処分される。
にわかには信じられないその所業をなしたのはナチス・ドイツ。

私は23歳の頃に『心に刻むアウシュヴィッツ展』の京都会場のボランティアに参加したことがある。昨年の年末には『心に刻むアウシュヴィッツ展』の展示物が常設の博物館となっている白河市のアウシュヴィッツ平和博物館にも訪れた。あと、福山市のホロコースト記念館にも23歳の頃に訪れた。

私はそうした展示物を目撃してきたし、書籍もいろいろと読んできた。無残な写真が多数載せられた写真集も持っている。
だが、そうした記録だけではわからなかったことがある。
それは、残酷な写真がナチスの親衛隊(SS)の目をかすめてどのように撮られたのかということだ。私が持っている写真集の中にはドイツの敗色が濃厚になる前のものもある。また、収容者によっては連合軍に解放されるまでの長期間を生き延びた人物もいたという。
私にはそうした収容所の様子が文章や写真だけではどうしてもリアルに想像しにくかった。
念のために断っておくと、私は決して懐疑論者でも歴史修正主義者でもない。アウシュヴィッツは確実にあった人類の闇歴史だと思っている。

本作は私の想像力の不足を補ってくれた。本作で再現された収容所内の様子や、囚人やSSの感情。それらは、この不条理な現実がかつて確実にあったことだという確信をもたらしてくれた。

不条理な現実を表現するため、本作のカメラは上下が逆になり、左に右とカメラが傾く。不条理な現実を表すかのように。
だが、その不条理はSSの将校たちにとっては任務の一つにすぎなかった。SSの将校が家族を思い、嘆く様子も描かれる。
戦死した息子の写真を囚人たち見せ、八つ当たりする将校。地面に埋められ、頭だけを地面に出した囚人たちに息子の死を嘆いた後、馬に乗って囚人たちの頭を踏み潰す。
一方で家族を思う将校が、その直後に頭を潰して回ることに矛盾を感じない。その姿はまさに不条理そのもの。だが、SSの将校たちにとっては日常は完璧に制御された任務の一つにすぎず、何ら矛盾を感じなかったのだろうか。
本作はそうした矛盾を観客に突き付ける。

戦後の裁判で命令に従っただけと宣言し、世界に組織や官僚主義の行き着く先を衝撃とともに教えたアドルフ・アイヒマン。
無表情に仮面をかぶり、任務のためという口実に自らを機械として振る舞う将校。本作ではそのような逃げすら許さない。将校もいらだちを表す人間。組織の歯車にならざるを得ない将校はあれど、彼らも血の通った人であることを伝えようとする。

本作は、想像を絶する収容所の実態を外部に伝えようと二人の囚人(ヴァルター・ローゼンベルクとアルフレート・ヴェツラー)がアウシュヴィッツから脱出する物語だ。
二人がまとめたレポートはヴルバ=ヴェツラー・レポートとして実在しているらしい。私は今まで、無学にしてこのレポートの存在を知らずにいた。

脱出から十日以上の逃走をへて保護された二人は、そこで赤十字のウォレンに引き合わされる。だが、ウォレンはナチスの宣伝相ゲッベルスの宣伝戦略に完全に惑わされており、当初は二人の言い分を信じない。それどころか、赤十字がアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所のために差し入れている食料や石鹸といった日用品を見せる。さらには収容所から届いた収容所の平穏な日常を伝えた収容された人物からの手紙も。
もちろん二人にとっては、そうしたものは世界からナチスの邪悪な所業を覆い隠すための装った姿にすぎない。

二人が必死で持ち出したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の実情を記したレポートはあまりにも信じがたい内容のため、当初は誰にも信じられず、レポートの出版まで七カ月もかかったという。それほどまでに実態が覆い隠されていたからこそ、解放時に発信されたアウシュヴィッツの凄惨な実態が世界中に衝撃を与えたのだ。

人類が同胞に対して与えた最大級の悪業であるホロコースト。
ところが、この出来事も私が思うほどには常識ではないらしい。古くからホロコースト陰謀論がある。かつて読んだことがあるホロコースト陰謀論の最後には、ヒロシマ・ナガサキすら陰謀論として片付けられているらしい。
人類に民族抹殺など大それたことが出来るわけがない。そんな反論の陰で、私たちを脅かす巨大な悪意が世界を覆う日に備えて牙を研いでいるのかもしれない。

本作の冒頭には、このような箴言が掲げられる。
「過去を忘れる者は必ず同じ過ちを繰り返す」
ジョージ・サンタヤナによるこの言葉を、私たちのすべては肝に銘じておくべきだろう。

本作のエンドクレジットでは今のポピュリストの指導者が発するメッセージの数々が音声で流れる。
それらは多様性を真っ向から否定している。
LGBTQの運動を指して、かつて共産主義がまとった赤色の代わりに虹色の脅威がきていると扇動する。
自国の民族のみを認め、移民を排斥する、など。おなじみのドナルド・トランプ前アメリカ大統領とおぼしき声も聞こえる。

本作のエンドクレジットこそは、まさにアウシュヴィッツ=ビルケナウが再び起こりかねないことを警告している。
このラストの恐ろしさもあわせ、本作から受けた衝撃の余韻は、今もなお消えていない。

なお、唯一私が本作で違和感を感じた箇所がある。それは、赤十字からやってきた人物が英語で話し、アルフレートがそれに英語で返すシーンだ。
当時の赤十字の本部はスイスのジュネーヴにあったはず。二人が脱出してレポートを書いたのはスロバキアなので、スイスから来た人物が英語を話すという設定が腑に落ちなかった。スロバキアの映画のはずなのに。

‘2021/8/7 kino cinema 横浜みなとみらい


この世界に残されて


年末に訪れた白河のアウシュヴィッツ平和博物館。本作品を知ったのはその時だ。
本作品のチラシが受付に置かれていて、持ち帰らせてもらった。
チラシが置かれているからには、本作品がホロコーストを題材にしていることは明らかだ。

では、その悲劇が本作品では一体どのように描かれているのだろう。
ホロコーストの悲惨さとかけ離れたような、チラシの少女の美しさ。そのコントラストにも惹かれた。
ホロコーストの悲惨な写真の並ぶ中、美しい少女の姿と悲劇が結びつかず、それもあって本作品に興味を持った。

ところが、本作品の上映館がどこなのかを調べておらず、半ば忘れかけていた。
そんなある日、ひょんなことで本作品がわが家に近い新百合ヶ丘のアルテリオで上映されていることを知った。
しかし、まもなく上映が終了してしまう。そして他の日は上映時間に打ち合わせが入っている。
となれば、日中に自由な時間がとれる今日しかない。
そんないきさつで観た本作品だが、余韻が残る良い映画だった。

本作品は、ホロコーストの悲劇をテーマとしている。
だが、本書はホロコーストの悲惨さを直接に描写しない。それどころか、登場人物の口からホロコーストのことはほぼ語られない。
収容所という言葉すら、本作品を通しても一、二度しか出てこない。
本作品に出てくるもっとも残酷な描写といえば、主人公の妹を木に縛り付ける兵士たちと、それを助けられなかった主人公の慟哭だ。

それほどまでにホロコーストのことを直接に描かない。それにもかかわらず、本作品からはホロコーストの悲惨さを存分に感じる。
ホロコーストで家族を殺されることが、どれほど人を深く傷つけるのか。
一人きりでこの世界に残されることがどれほどつらいのか。
二人の主人公の演技は、そのつらさを観客に深く刻み付ける。

クララは両親と妹を喪い、この世界に残されてしまった十六歳の少女だ。
年の離れた大叔母のオルギと暮らすが、オルギとの暮らしに息苦しさを感じている。
そして、生理が来ないことでオルギに付き添ってもらい、婦人科を受診する。

そこで診察してくれたのが、医師のアルドだ。
アルドとの診察の中で何かを感じたクララは、わざわざ生理が来た報告のためだけにアルドのもとを訪問する。

そして、抱きしめてほしいとアルドにせがむ。
そっと抱き寄せるアルド。
そして、以後は週の大半をアルドの家で泊まる。

42歳のアルドと16歳のクララ。
親子ほどに年の離れた男女だが、血のつながりはない二人。
こうした設定からは、性的な関係を頭に浮かべないほうがおかしい。

だが、そこで二人は決して一線を越えない。
越えないが、二人は実の父娘よりも近しいように思える。
一緒の布団で寝て、ハグもする。

だが、二人の間はあくまでも一人きりでいられない寂しい者同士の関係に終始する。
医者に背中を診察してもらう間に、クララはアルドに後ろを向いていてほしいという。

つまり本作品で描かれる二人の関係は、性的な関係とは程遠い。でありながら、父娘の関係よりも近しい。
一見すると不健全な二人の関係を補うように、アルドには後半になってエルジというパートナーが登場し、胸を見せて二人の性的な関係を暗示させる。一方、クララにはペペという彼氏も登場する。

だが、二人の間に共通する傷の深さは、関係が変わろうと二人の間に絆を保ち続ける。
そのことがかえって、二人が負った傷の深さと、一人きりで生きていくことのつらさを感じさせてくれる。

二人は決してつらかった時期のことを口に出そうとしない。
クララがアルドの過去を知るのも、アルドが自分のいない間に眺めてほしい、と引き出しのカギに添えておいていった手紙だけだ。
引き出しの中にはアルドがかつて一緒に過ごしていた妻や息子の写真が貼られており、クララは号泣する。
クララの回想には両親と妹が登場するにもかかわらず、アルドの妻や息子たちは一切、本作品に出てこない。そのことも、かえってアルドが受けた傷の深さを思わせる。

クララもすでにいないはずの両親に手紙を書き、埋められぬ不在を埋めようとけなげに過ごすが、その姿には痛々しさがあふれでている。
二人を取り巻く描写の全てが、ホロコーストの時代の悲劇を際立たせている。

本作は全体の色調も静かだ。
冒頭から登場するアルドの診察室はモノトーンに近く、華美な印象はない。
会話も控えめな本作品で、アルドは寡黙な医師であり続ける。
端正なマスクを持ちながら、前頭部は後退している姿が哀しみをさらに醸し出している。そして過去のつらい経験からか、喜怒哀楽を表に出さない。

そのアルドを演じるカーロイ・ハイデュクは、そのわずかな口と眉と目のうごきだけで心の動きを表しているのが素晴らしい。

そして、クララだ。本作品の暗めのトーンは、彼女の美貌と華やかさによって釣り合いがとれている。
可憐な少女の姿で登場し、徐々に成長し大人になってゆくクララの姿。その姿はチラシに登場する姿よりも、劇中のさまざまなシーンでこそ輝いている。
アビゲール・セーケの美しさは、本作の華であることは確かだ。

私がハンガリーの映画を観るのは初めてだが、この主人公の二人の演技と姿には目を奪われた。
その一方で、ハンガリーの映画ゆえに、ハンガリーの歴史を知っていなければ、わからないことも多い。
例えばソ連の影響が増す中、党員や党といった言葉が出てくる。これは明らかに共産党を指しているのだろう。

そして、ラスト近くではスターリン死去のニュースが人々に喜びをもたらす様子も描かれる。
だが、映画には書かれていないハンガリーの歴史では、この後、ハンガリー動乱の悲劇が控えているはずだ。
それを知っているか知っていないのでは、登場人物たちの姿も違ったように映る。

本作が未来に希望を感じるかのような大人びたクララの姿で幕を閉じるとなおさら。

‘2021/1/28 川崎市アートセンター アルテリオ映像館


新解釈 三国志


本作品は、当日の朝になってみることに決めた。

朝、起きてすぐにコロナで逼塞を余儀なくされている現状に心が沈んでいることを自覚した。去年にはなかったことなのに初めてだ。
これはまずいと心の落ち込みを妻に話したところ、前から本作品を観たいと思っていた妻が、本作品を提案してきた。
そこで妻と長女と観に来た。
何も考えずに笑いたくて。

三国志は高校一年生の時に吉川英治版の小説を読み通したし、それ以降にもコーエーのシミュレーションゲームや三國無双はだいぶやり込んだ。
物語も知っている。登場人物もお馴染みだ。
それが本作品で新たな解釈がどれほど施されているのか。私には興味があった。

しかも、聞くところによると本作品の監督は、あの「勇者ヨシヒコ」の監督ではないか。
であるなら、通りいっぺんの三国志とは違う世界に浸れるはず。もちろん笑いも込みで。

結果は、笑った笑った。いやあ楽しめた。
もう何も考えず、何も批評せず。ただ座席と物語に身を委ねて。
何しろ、三国志の物語の大筋は分かっているので、物語の筋を追って理解しなくてはというプレッシャーもない。伏線が隠れているのでは、と画面の隅々に目を光らせる必要もない。リラックスして全編が楽しめた。これは楽だ。

新解釈とあったけれども、本作品は三国志の物語の骨格そのものは壊していなかった。そのため、リラックスしていても楽に流れを理解できた。
むしろ、吉川英治の三国志との違いにニヤニヤしながら観ることができた。
ここをがっつり壊されてしまうと、かえって興ざめしてしまう。
三国志の世界に沿っていることこそ、本作品が挑戦的な内容でありながら、作品として成り立った理由だと思う。

本作品の新解釈とは何か。それは、キャラ設定に尽きる。
小説やゲームの中に登場する三国志の登場人物たち。彼らや彼女たちを本作品の俳優陣がどのように解釈し演じてくれるか。
1800年以上にわたって人々に知られた三国志の登場人物たち。そうした個性の豊かな登場人物を、私たちが持っている俳優の芸風やイメージのままに自然に演じているのがかえって新鮮だ。
むしろ、演じているという言い方は違うかもしれない。
それよりも新解釈で演じるのではなく、俳優のキャラクターで上書きしたらどうなるか、ととると面白い。

例えば劉備玄徳。小説やゲームでは武力や知力の設定値があまり高くないが、人徳の値が異常に高い。つまり、真面目で愚直な人物として知られている。
それを本作品では愚痴とぼやきだらけで、責任感のない人物として解釈している。しかも、酒を飲むと高揚して英雄的な言動を発するあたり、張飛や関羽のキャラを食っている。
そんな風に新しく解釈された劉備が、大泉洋さんのあの飄々とした感じで演じられている。
仮病で虎牢関の戦いをサボるシーンなどそのクライマックスだろう。真に迫る仮病の演技ではなく、芝居感を時々のぞかせながらの演技がまたいい。メタ笑いスレスレだ。

また、神智の持ち主として高名な諸葛亮孔明。それをチャラく、そして安請け合いしてしまう軽薄な人物として描いていることも本作品の新解釈の一つだ。
大言壮語するビッグマウスの持ち主でも、不思議な運によって乗り切ってしまう人は現実にもいる。そんな強運の人物として諸葛亮孔明を描いているのも面白い。
そんな風に斬新に解釈された諸葛亮孔明が、ムロツヨシさんのあの掴みどころのない感じで演じられているのも面白い。
小説で書かれたような神のごとき知力を縦横に操る軍師の面影は本作品にはない。まさに大胆不敵な解釈とは本作品を指すのだろう。

さらに言うと、諸葛亮孔明の知恵の出どころは、実は奥方こと黄夫人からだったという設定も面白い。これは実際にそうした伝承もあるらしい。
だから本作品の設定をあながち荒唐無稽と言い切れないのだ。
とはいえ、神格化されていた孔明像を信奉している方からしてみると、本作品の大胆な解釈からは不快さを感じるかもしれない。

また、董卓を演じる佐藤二朗さんは、まさにテレビで見かけるあの台詞回しそのもの。それが三国志の中でも指折りの悪役を演じているのだから笑えてしまう。
まさに上に書いた通り、小説の董卓を新解釈で演じるのではなく、董卓を佐藤二朗さんのキャラで上書きしている。

本作品でデフォルメが加えられているのは、劉備玄徳や諸葛亮孔明や董卓だけではない。趙雲や貂蝉や周瑜、曹操にも監督と俳優さんの自由な解釈が加わっている。
つまり、本作品では三国志の登場人物を演じたり再現させたりする意図はほぼないと考えられる。
むしろ、時代設定とあらすじだけを借り、キャラクターも上書きし、その上で笑いを生み出しているのが本作品だ。
だから、キャラが小説版と違っていて当然だし、観る側もそれを承知で笑い飛ばすのが正しい。

ただ、笑い飛ばすとはいえ、本作品を軽んじてはならないと思う。
というのも、本作品にはいい加減さが感じられないからだ。真剣に笑いを追求している。
例えば上記の登場人物のキャスティング。これが案外とはまっている。
私には以下の方々のビジュアルが私の中のイメージとしっくり合った。呂布の城田優さん。趙雲の岩田剛典さん。張飛の高橋努さん。周瑜の賀来賢人さん。魯粛の半海一晃さん。

また、いい加減でない部分は他にもある。
例えばアクションシーン。おちゃらけた感じは受けない。ワイヤーアクションを使っているのは分かるが、学芸会と同じレベルのアクションとは違い、映画として成立している。
また、舞台セットについても、手を抜いている感じは受けなかった。
いい加減でないのは当然だ。なぜならキャラ設定を新解釈で笑うには、そのほかの部分がしっかりしていることが条件だからだ。
そうした部分がきちんと描かれていたからこそ、観客は本作品の新解釈に笑えるのだと思う。

あと、エンドロールに流れる福山雅治さんの「革命」もよかった。
歌詞の内容自体は英雄の群雄する当時を取り上げている。だが、革命というタイトル自体は、今までの三国志に縛られた私にとって本作の自由な解釈も許されてよい、という常識の革命と受け取った。

と、書いてきたが、そもそも本作品はこんな風にくだくだしく書く必要すらない。
笑いながら観て、観終わればきれいさっぱりして忘れたっていいのだ。誰も傷つけない作品であり、観終わっていやな気持にもならない。

コロナで暗鬱とした中だからこそ、こうした作品はうれしい。観られたことがありがたかった。
実際、鬱々とした起き抜けの気分はさっぱりと晴れ渡った。

‘2021/1/17 イオンシネマ多摩センター


劇場版「鬼滅の刃」無限列車編


今年、一本も映画館で映画を観ることができなかったが、大晦日になってようやく観られたのが本作だ。

今、鬼滅の刃が社会的なブームになっているのは誰もが知る通り。普段、私はこうしたブームからは距離を置きたいタイプだ。だが、今年の3月ごろにお客様から熱烈にお勧めされ、しかも10月に入院した妻が入院中にはまった。そのため、家族で一緒に行こうというプレッシャーが強烈だった。年内までにはみたいな、と。
そんなわけで、12/29になってアニメの26話まで見終え、30日にコミックスの6巻まで読み終え、何とか大晦日に間に合わせることができた。

正直にいうと、アニメを見始める前までは、鬼滅の刃の面白さは薦められたことで分かっていた。だが、少し疑問を持っていた。なぜ鬼滅の刃が私たちの世代でいう北斗の拳やドラゴンボールよりも熱烈なブームになっているのだろうか、と。

北斗の拳やドラゴンボールやるろうに剣心やキン肉マンと鬼滅の刃のどれも、勧善懲悪のバトル漫画という骨法は同じ。それなのに、なぜここまでの社会的なブームになっているのだろうか。
それは、コロナで外出できない人々の欲求が鬼滅の刃に集中したからなのだろうか。

私が思うに、鬼滅の刃が支持されているのは、人物の造形がきちんと掘り下げられているからだろう。悪役や主人公、脇役の造形の仕方がとてもうまい。モブキャラ以外はキャラ立ちするように誇張して性格付けされている。それなのに、その設定が冗長な描写ではなく、簡潔な描写だけで人物の性格が際立っている。それがとてもうまいと思う。小説でもアニメでも漫画でも、キャラが立っている作品には指示が集まるのだろう。
また、私が読んだ範囲のコミックスに登場する鬼は、鬼になった理由がきちんと描かれている。悪役にも一つの理を与えているのだ。
北斗の拳やキン肉マンやドラゴンボールの敵役にもある程度の背景は描かれていた。が、鬼滅の刃ほど掘り下げられていない気がする。

あと、思うのは、大正時代という時代設定の良さだ。日本人にとって江戸時代とは時代劇で描かれる絵空事の世界となってしまっている。だが、大正時代は活動写真もあれば蒸気機関車も走る近代文明が通用する世界だ。
そうした世界は、私たちにとっても世界観が共有できる。それでありながら、大正という過去の歴史の時代であるがゆえに、鬼という存在がさほど違和感なく受け入れられるのかもしれない。
白虎隊や新選組などの遺風がかろうじて生きていたのも大正時代の良さであり、その時代設定も本作の良さにつながっている気がする。

あと、最近のアニメ作品の絵の精巧な様は、もはや芸術といえるほどだ。
実写映像で描いているのでは、と思えるほどのリアルさは、アニメシーンでありながら、違和感なく世界観を作り上げることに寄与している。
本作の場合、コミックスよりも格段にアニメのほうが美しい。また、コミックスでは描かれていない背景やエピソードをアニメ版で補足することで、物語にも深みが与えられている。
私はもともと原典主義であり、まず原作を読んでから二次創作物に触れたいと思っている。が、本作に限ってはコミックスの世界観をアニメが凌駕しており、しかも原作の良さも殺していないところが素晴らしいと思う。
映画ももちろん、アニメのクォリティを完全に踏襲しており、それが長編として成立している本作は歴代興行収入ナンバー1になっても納得できる出来栄えだ。

本作の内容については、まだ漫画やアニメを見ていない人のために書かないようにする。私自身、上に書いた通り、この先の展開を知らない。そのため、下手なことを書かないように自重したい。

ただ、少しだけ語っておくと、うちの家族は映像を見終わってウルウルしていたし、私もホロリとした。
ここで死にゆく彼の死に様としては男でも惚れるもの。
本作で登場する一番の悪役の語るセリフにも、何かしら納得させられてしまった。80年の人生では足りない、と常々考えている私にとって、滅びゆく肉体だからこそ美しいのが人なのかもしれないが、より長い人生が欲しい。
鬼である以上、昼に活動できないのは難点だが、己の欲望を満たすために鬼になるという理由付けは理解できる気がした。人は喰いたくないけれど。

‘2020/12/31 イオンシネマ新百合ヶ丘


スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け


1977年に第一作が封切られてから42年。
その期間は、私の年齢にほぼ等しい。

私の場合、旧三部作についてはリアルタイムで体験していない。全てテレビ放送で観た世代だ。
それでも、一つの物語が終わろうとする場面に立ち会う経験は、人を感慨にふけらせる。

一方で42年にわたったシリーズが完結と銘打たれると違和感を感じるのは否めない。
故栗本薫氏の言葉を借りるなら、物語とは本来は永遠に続くものである。であるなら、スター・ウォーズとは本来、永遠に続く物語の一部分に過ぎないはずだ。
だが、本作は幕を閉じた。語られるべき無数のエピソードを残して。
その点については正直にいうと違和感しかない。

それにもかかわらず、9作目である本作をもって、シリーズをいったん完結させると言う決断は評価できると思う。

というのも、スター・ウォーズとは1つの文化でありサーガであり、人類に共通の遺産ともいえるからだ。
エピソードⅦのレビューにも書いたが、スター・ウォーズ・サーガは人々にとってあまりにも普遍的な物語となってしまった。そのため、スター・ウォーズにはいままでの物語を越えた新たな展開や、意表をついた設定の変更が許されない。いわば聖域でもあるし、不可侵の存在に祭り上げられてしまっている。

それは、スター・ウォーズのテンプレートと言っても良いほどだ。
テンプレートとは、言い方は悪いがマンネリズムであり、言い方を変えれば、安定の…である。このテンプレートに乗っかっている限り、これ以上エピソードを連ねても意味はないと思う。
そうした意味で、ここら辺でスカイウォーカーの物語に区切りを打つことには賛成だ。

だが、テンプレートにはテンプレートの良さがあり、それこそがスターウォーズの中毒性の源でもある。
むしろ、これからのスター・ウォーズとは、共通の世界観を下敷きにしたまま、他のメディアで展開した方が良いと思う。その方が深みが増すと思うのだ。

スター・ウォーズに特有の展開は、エピソードⅣ、エピソードⅥの二作ですでに提示されてしまっている。
大勢で敵陣に侵入し、なんらかの手段で敵の致命的な隙をつく。その一方で超人的な能力を持つジェダイが単身、敵陣に乗り込み宿命に立ち向かう。物語の終盤はその両面からストーリーが展開される。

エピソードⅦはその設定を踏襲し、しかもそれを逆手にとってどんでん返しを何度も組み込むことで、新旧の両世代にスター・ウォーズの魅力を知らしめた。

本作もその設定を踏襲している。
スカイウォーカーの物語を完結するためには、意表を衝いたストーリーである必要はないのだろう。
9作の間に敷かれた伏線を回収し、すべての矛盾や疑問を何億人もいる世界中のファンに対して示す。そのプレッシャーたるや大変なものだったはずだ。
だから、本作がどういう風に幕を閉じるのか。気になっていた。

そもそも旧三部作であるエピソードⅣ〜Ⅵが先に製作された理由の一つは、当時の撮影技術が未熟だったためだという説がある。
その説によれば、ジョージ・ルーカスはエピソードⅠ〜Ⅲに取り掛かるまで10数年の時間を待つことに費やし、技術の進化が構想に追いつくのを待ったという。
だが新三部作が公開されるまでには、そこからさらに20年の月日が必要だった。今や特殊効果の描写はほぼ現実と変わらないレベルにまで到達しようとしている。

その証として挙げられるのが、前作の公開後すぐに亡くなったレイア姫ことキャリー・フィッシャーが、エピソードⅦに登場したときの姿とほぼ変わらない容姿で本作でもスクリーンに登場していることだ。
それはつまり、特殊効果やCGが現行の映像形式の中では究極にたどり着いたことを示している。技術の力は俳優の存在意義すら揺るがすようになっている。
かつてジョージ・ルーカスが映像技術の進化を待った段階はとうにすぎているのだ。

であるならば、新三部作では何を語るべきなのか。
旧三部作では、親子の関係を描き、次の三部作では師弟の関係を描いた。
エピソードⅦからの三部作は、血統に頼らない関係を描いていたように思う。

偶然巡りあった個人がチームとして、友達として大義のために団結し、冒険に向かう。そこには何かのメッセージを感じざるを得ない。
情愛よりも肉親愛よりも、友情や絆が優先される。新三部作では、この点に重点が置かれていたように思う。

それは作中の登場人物だけではない。映画に関わったすべてのスタッフにも言えることだと思う。映画を作り上げることは、壮大な数の人々が共同で行う作業だ。
その中のどれが欠けても映画は完成しない。誰が怠けても作品に隙がうまれる。その事は、私のような映画製作の門外漢にとっても容易に理解できる。

上質な映画でありながら、世界中のファンの期待に応える作品を生み出す苦労。それを成し遂げたものこそ、仲間の団結ではないだろうか。

それを示すのが、本作のクライマックスのシーンにこめられている。
レイが宇宙にあまねく存在するフォースを知覚するシーンだ。
今までに登場したジェダイの声がレイにフォースを通してメッセージを送る。
フォースとは宇宙に普遍の力であり、共通意志の集合体であることが理解できる瞬間だ。

フォースに込められた集合意志とは、40数年の間、スターウォーズに関わったあらゆるスタッフの集合意志でもある。
何万人、いや何億人の意志がスター・ウォーズを育て上げ、世界で最も愛されるサーガへと成長させた。
そのスタッフやファンの意思こそが、親子や師弟の絆を凌駕する仲間の意志とは呼べないだろうか。

そうしたものに支えられた本作は、良い意味で9作の末尾を飾るエピローグなのだ。
だからこそ、本作のクレジットの筆頭に登場するのはレイア姫ことキャリー・フィッシャーであり、続いて登場するのがルーク・スカイウォーカーことマーク・ハミルなのだと思う。

なお、クレジットで一瞬見かけたが、ダークサイドに堕ちたアナキン・スカイウォーカーを演じたヘイデン・クリステンセンの名前もあった。
どのシーンで登場したのだろう。役名を見逃してしまった。
それを確認するためにも、全エピソードは観直したい。

そして無限に広がるスター・ウォーズサーガのエピソードの可能性についても思いを馳せたい。製作したスタッフのエピソードについても。

‘2019/12/26 イオンシネマ新百合ヶ丘


少女は夜明けに夢をみる


本作を見てとても心が痛くなった。試写が終わった後、パネリストの方が仰った「この現実は日本でもおきている」事実が、同じ年ごろの娘を持つ身として私の心を刺した。この鋭さこそがドキュメンタリー。映像の持つメッセージの力をあらためて認識させられた。それが本作だ。

私にとってサイボウズさんとのご縁はもう6,7年になる。今までにもさまざまなイベントにお招きいただき、参加する度に多くの勉強をさせていただいた。もともと、働き方改革や柔軟な人事制度など、サイボウズさんの社風には賛同するところが多い。だから展開するサービスにも惹かれる点があり、私もkintoneやチーム応援ライセンスなどでお世話になっている。私のキャリアにとってもサイボウズさんは飛躍へのステップを作ってくださった会社。本当に感謝しているし、これからも続くべき会社だと思っている。

ところが、私が今までに参加したサイボウズさんのイベントは、そのほとんどがITに関係している。それはサイボウズさんがIT企業である以上、当然のことだ。

そんな私が今回、参加させていただいたのは、本作の特別試写会。まったくITには関係がない。なぜ、このような社会的なメッセージの強い作品の試写会を開催したのか。それは、サイボウズさんが児童虐待防止特別プランを展開されていることと密に関係しているはずだ。
子どもの虐待プロジェクト2018
南丹市、児童虐待防止の地域連携にkintoneを導入

この試写会のご担当者様は、サイボウズさんがチーム応援ライセンスを開始するにあたっての記念セミナーでもお世話になった方。私はそのセミナーで登壇させていただき、その時も今も、私が自分にできる社会貢献とは何か、について考え続けていた。そのため、お誘いを受けてすぐに参加を決めた。

本作は、2019/11/2から岩波ホールで公開予定だとか。
岩波ホールの告知サイト
公式サイト
それにしても、私が今回のような純然たる社会派の映画を見るのは久しぶりのことだ。

冒頭にも書いた通り、本作はとても心を痛める映画だ。描かれた現実そのものが発する痛みもそうだが、その痛みの一部は、私自身の無知ゆえの恥からも来ている。

そもそも私はイランのことをほとんど知らない。世界史の教科書から得た知識ぐらいのもの。「風土は?」と聞かれても、吹きすさぶ砂嵐の中に土づくりの家が集まっている、というお粗末な答えしか持っていなかった。日本をハラキリゲイシャのイメージで想像する国外の方を笑えない。

だから、本書の冒頭で一面の雪景色が登場するだけで意表をつかれてしまう。イランにも雪がふる事実。そして、普通に舗装された道路を車が走る描写。それだけで、私の認識は簡単に揺さぶられてしまう。

さらに、その雪をぶつけ合い、はしゃぐ少女たちが、とても楽しそうなのをみて、私の思いはさらに意外な方向に向かう。彼女たちは保護施設に収容された犯罪者ではなかったのか。

だが、少女たちが歌う内容を知ると、私の認識は一変する。字幕には「幸せだからって不幸せな私たちを笑わないで」という文字が。少女たちが悪事を犯した罪人という見え方が変わる瞬間だ。

本作を上映する前振りで本作の宣伝スタッフの方の言葉や、リーフレットを見ていた私は、彼女たちを単なる犯罪者だとくくっていたように思う。だが、彼女たちは犯罪者の前に一人の人間なのだ。彼女たちの多くは私の娘たちと同じ年ごろであり、本来ならば芳紀を謳歌しているはずのかわいらしい少女なのだ、という事実に思い至る。

その事実に気づくと同時に、心から楽しんでいるように見える彼女たちの笑いの裏には、想像を絶するほどの痛みがあることが感じられる。そもそも、楽しげな雪合戦も高くそびえる塀に囲まれなければできない。また、本作のあらゆるシーンには、曇り空しか登場しない。本作を通して、一瞬たりとも晴れ間は見えない。それは本作が12月から新年までの20日しかロケしておらず、季節がたまたまだったことも関係あるだろうが、監督も晴れ渡った空は撮るつもりもなかっただろう。

あえて平板なイントネーションで少女たちにインタビューしているのは本作のメヘルダード・オスコウイ監督だろうか。一切の感情を交えず、施設に入った理由を娘たちのそれぞれに聞く監督。その中立的な声音につられるように、娘たちはそれぞれの境遇を述べる。

18歳の娘は、14歳で結婚し、15歳で子どもを産んだ。だが、クスリの売人になることを強いられ、7カ月も娘には会っていないという。その子の名前がハスティ(存在)というのも、痛々しい。この世に自分がある理由。それは娘が存在しているから。だが、施設に入っている以上、娘と会うことは叶わない。名前と境遇の落差の激しさ。

昔はいい子だったというが、周りの環境に合わせて不良のように振る舞っているという少女。自分を名無しと名乗っている。面会に来るおばあさんに対しては満面の笑みを見せるのに、釈放にあたっておばあさんが来てくれないことに泣き叫ぶ。そして朝方、世間に戻されても生きていけないと絶望にすすり泣く。性的虐待を受けた自分の帰る場所は父でも母でもなくおばあさんだけ。

なりたい職業が弁護士か警官。理由は同じ境遇の子供を助けてあげたいから。と語る直後に今の夢はと聞かれ「死ぬこと」と答える少女。その矛盾した答えを発する顔は、疲れて希望を失っている。彼女は性的虐待を加えた叔父のうそを信じる家族に絶望していた。だが、家族が実は叔父のうそを見抜き、自分を信じ、愛していたことを知った途端、輝きを取り戻す。満面の笑顔で施設を出る顔に憂いはない。

娘が生まれたら「殺す」と即答し、息子は?との問いに息子は母の宝だから、と答える少女。それは母への愛憎の裏返しであることはすぐに理解できる。だが、普段は陽気なムードメーカー役を担っているにもかかわらず、そこには絶望が感じられる。強盗の子は強盗にしかならないとあきらめ、肉親に対して何も差し入れをしてくれないことを電話口で泣きながら訴える。

そんな少女がいる一方で、息子が生まれれば「殺す」と即答する少女もいる。娘の名前はすでに付けているというのに。

釈放を申し渡されても、それに対して「お悔やみを」と返す少女。鎖につながれ、虐待される日々に戻るだけという絶望。決して自分に明るい未来があると信じず、そもそも明るい未来のあることを知らない少女。

651と名乗る少女は、クスリを651グラム所持していたからそう名乗っているという。本作に登場する少女たちにとってクスリは日常。それが正しくないとわかっていても、生活のため、肉親から求められれば扱うしかない。そんな切っても切れないのがクスリ。

実の父を母や姉とはかって殺した少女。「ここは痛みだらけだね」という監督に、四方の壁から染み出すほどだと返す。その少女は物静かに見えるが、実はもっとも矛盾と怒りを抱いている存在かもしれない。イスラム教の導師に対し、世の矛盾を一番熱く語っていたのも彼女。

本作には何人ものインタビューと、釈放されるシーンが挟まれる。BGMなどほとんどない本作において、目立つのは乗り込んだ車が発車するシーンで流れる不協和音のBGMだ。彼女たちの釈放後の生活を暗示するかのような。

彼女たちに共通する認識は、罰とは生きる事そのものであり、その罪は生まれてきた事そのものだという。なんという苦しく胸の痛む人生観だろうか。私は少女たちの全てに私の娘たちの生活を重ね合わせ、その間に存在する闇の深さに胸が痛んだ。いったい、私の娘たちと彼女たちの間には何の差があるのだろう。国や民族、宗教、文化が違うだけでこうなってしまうのだろうか?

施設の職員がAidsの知識を授けようとする。塀に囲まれた庭でバレーボールをする。収容者の乳飲み子のお世話をする機会が与えられる。新しいオーディオ機器で音楽も聴くことができる。人形劇を演じる事だってできる。それだけだと平和な日常だ。少女たちは施設の中にあって、平和に生きているようにも見える。だが、本作にあって、一切塀の外の世界は映し出されない。だからこそ、その矛盾と暴力に満ちた世界の無慈悲さがあぶりだされる。施設の人がとある少女を突き放すように、ここを出たら何が何でも外の世界で生きねばならないこと。たとえ自殺しても知ったこっちゃないと言い放つ。少女たちの笑顔や会話は、施設の中だからこそ許されるかりそめのもの。

女性だけが集まる場だと派閥やグループが陰険な争いを繰り広げる。そんな偏見が頭をもたげる。だが、本作の少女たちにそのようなものは見当たらない。泣く相手には胸を貸し、出ていく者にはもう戻ってくるなと励ましの声をかける。少女たちは下らない派閥争いなどにうつつを抜かす暇はないのだ。ここに収容されているのはみな同じく苦しむ仲間。だからこそ支えない、慰め合う。その事実にさらに胸が締め付けられる。

イスラム教の導師が少女たちに道を説こうとし、逆に少女たちからなぜ男と女の命の重みは違うのか、という切実な問いを投げかけられる。男と女の命の重みに差があるかなんて、少なくとも最近の日本では感じることはない。少女たちの真摯な問いに導師は「社会を平穏にしなければ」という言葉でお茶を濁す。

何が少女たちをこうしてしまったのか。イランにもイスラム教にも詳しくない私にはわからない。少女たちは決して犯罪者になるべくして生まれてきたのではない。それが証拠に、収容者の乳飲み子が登場し、その無垢な姿を観客の私たちに見せる。その表情からは、この子が将来強盗や殺人や誘拐や売春や薬物に手を染める予兆は全く見えない。

少女たちもまた、違う時空に生まれていたら輝かしい毎日を送っていたはず。少女たちの多くは顔立ちも整っており、化粧したら女優にだってなれるのでは、という子もいる。ただ、環境が。肉親との暮らしが少女たちをこのような境遇に追い込んでいるのだ。

彼女たちの境遇は、社会に潤沢な金を流通させればいなくなるのだろうか。それとも文化や宗教の違いは、今後も彼女たちのような存在を生み続けるのだろうか。監督はそこは描かない。あるがものをあるがままに。ただ、これがイランの現実だと監督は現実を提示する。7年の準備期間はダテではなく、本作に監督の私情は不要だとわきまえているのだろう。

心を痛めたまま、エンドクレジットが流れる。続いてトークイベントへ。

虐待被害を受けたお子さんがいるご家庭や里親家庭で養育支援をしているバディチームの代表岡田さん、妊娠相談、漂流妊婦の居場所づくりにとりくむピッコラーレ代表中島さんによるトークは、こうした現実を送る少女が日本にもいることを語ってくださった。最近の自販機は暖かくないという、普段の生活では気づかない事実。そうした経験から受ける視点は新鮮だ。わが国にも野宿し、その揚げ句に売春に走る少女はいるとか。

本作を見た後、日本にも同様の生活を送る少女がいることは衝撃だ。生活の確立に失敗し、放浪に走る少女たち。援助交際とは交際じゃない。ただの性的搾取だ、という言葉ももっともだし、売春を取り締まるとは売る側を取り締まる話であり、そうした行為を強いられている少女たちを救うことにならない、という指摘にもうなずける。春を買った側を取り締まる法律がない現状にも目を向けなければ、という指摘も納得がいく。同じ年ごろの娘を持つ私は、娘たちの将来だけを考えればよいのか。否。そうではないはずだ。

本書をただ観劇しただけなら、文化も宗教も違う場所の悲劇、として片付けてしまっていたかもしれない。だが、こうしてトークイベントが催されたことによって、本作への理解がさらに深みを増した。もちろん、映画館で観ることで、本作が伝えるメッセージの鋭さは痛みをもって伝わるはず。

私たちが何をすればよいのか。私は経営者として何をすればよいのか。その答えはまだ出ていない。ただ、トークイベントの中では、ボランティアの道もご紹介いただいた。あらためて自分の時間を見据えてみたいと思う。とても貴重な時間だった。

今回の催しを企画してくださり、当日も動いてくださったスタッフの皆様、本当にありがとうございました。

‘2019/10/17 サイボウズ社本社


DINER


小説や漫画など、原作がある作品を映像化する時、よく“映像化不可能“という表現が使われる。原作の世界観が特異であればあるほど、映像化が難しくなる。さしずめ本作などそういうキャッチコピーがついていそうだと思い、予告編サイトをみたら案の定そのような表現が使われていた。

原作を読むと“映像化不可能“と思わせる特異な世界観を持っている。映像化されることを全身でこばんでいるかのような世界観。私にとっても、原作を映像で観たいと願うと自体が発想になかった。(原作のレビュー

レビューにも書いたが、原作にはかなりのインパクトを受けた。人体の尊厳などどこ吹く風。イカレた描写にあふれた世界観は、脳内に巣くう常識をことごとくかき乱してくれる。小説である以上、本来は字面だけの世界である。ところが、あまりにもキテレツな世界観と強烈な描写が、勝手に私の中で作品世界のイメージを形作ってくれる。原作を読んだ後の私の脳裏には、店の内装や登場人物たちのイメージがおぼろげながら湧いていた。イメージに起こすのが苦手な私ですらそうなのだから、他の読者にはより多彩なイメージが花開いたはずだ。

原作が読者のイメージを喚起するものだから、逆に映像化が難しい。原作を読んだあらゆる読者が脳内に育てた世界観を裏切ることもいとわず、一つの映像イメージとして提示するほかないからだ。

監督は最近よくメディアでもお見掛けする蜷川実花氏。カメラマンが持つ独特の感性が光っている印象を受けている。本作は、監督なりのイメージの提示には成功したのではないだろうか。原色を基調とした毒々しい色合いの店内に、おいしそうな料理の数々。原色を多用しながらも、色の配置には工夫しているように見受けられた。けばけばしいけれども、店のオーナーであるBOMBEROの美意識に統一された店内。無秩序と秩序がぎりぎりのところで調和をとっている美術。そんな印象を受けた。少なくとも、店内や料理のビジュアルは、私の思っていた以上に違和感なく受け入れられた。そこに大沢伸一さんが手掛ける音楽がいい感じで鳴り響き、耳でも本作の雰囲気を高めてくれる。

一方、原作に登場する強烈なキャラクターたち。あそこまでの強烈さを映像化することはとてもできないのでは、と思っていた。実際、キャラクターのビジュアル面は、私の期待をいい意味で裏切ることはなかった。もともと期待していなかったので、納得といえようか。たとえばSKINのビジュアルは原作だともっとグロテスクで、より人体の禍々しさを外にさらけ出したような描写だったはず。ところが、本作で窪田さんが演じたSKINのビジュアルは、何本もの傷跡が皮膚の上を走るだけ。これは私にとってはいささか残念だった。もっと破滅的で冒涜的なビジュアルであって欲しかった。もっとも、スキンのスフレを完食した事により狂気へ走るSKINを演じる窪田正孝さんはさすがだったが。

原作にはもっと危険で強烈なキャラクターが多数出ていた。だが、その多くは本作では割愛されていた。甘いものしか食わない大男のジェロ。傾城の美女でありながら毒使いの炎眉。そして妊婦を装い、腹に劇物を隠すミコト。特にミコトの奇想天外な人体の使い方は原作者の奇想の真骨頂。だからこそ、本作に登場しなかったのが残念でならない。

ただ、キャラクターが弱くなったことには同情すべき点もある。なにしろ本作には年齢制限が一切ついていない。子供でも見られる内容なのだ。それはプロデューサーの意向だという。だから本作では、かき切られた頸動脈の傷口から血が噴き出ない。人が解体される描写も、肉片と化す描写も省かれている。そうした描写を取り込んだ瞬間、本作にはR20のレッテルが貼られてしまうだろう。そう考えると、むしろ原作の異常な世界観を年齢制限をかけずにここまで映像化し脚本化したことをほめるべきではないか。脚本家を担当した後藤ひろひと氏にとっては、パンフレットで告白していたとおり、やりがいのあるチャレンジだったと思う。

ただ、キャラクターで私のイメージに唯一合致した人物がいる。それはKIDだ。私が原作のKIDに持っていたイメージを、本作のKIDはかなり再現してくれていた。KIDの無邪気さを装った裏に渦巻く救いようのない狂気を巧みに演じており、瞠目した。 本郷奏多さんは本作で初めて演技を見たが、久しぶりに注目すべき役者さんに出会えた気がする。

もう一つ、原作にはあまり重きが置かれなかったデルモニコなどのラスボス達。本作ではジェロや炎眉やミコトを省いたかわりにラスボスを描き、映像化できるレベルに話をまとめたように思う。それは、本作を表舞台に出すため、仕方がなかったと受け入れたい。

原作の持つまがまがしい世界観を忠実に再現するかわり、カナコの成長に重きを置く描写が、本作ではより強調されていたように思う。それは私が原作で感じた重要なテーマでもある。本作は、カナコの幼少期からの不幸や、今のカナコが抱える閉塞感を表現する演出に力を注いでいたように思う。その一つとして、カナコの内面を舞台の上の出来事として映像化した演出が印象に残る。ただ、原作ではBOMBEROとカナコの間に芽生える絆をもう少し細かいエピソードにして描いており、本作がカナコの成長に重きを置くのなら、そうしたエピソードをもう少し混ぜても良かったかもしれない。

それにしても、本作で初めて見た玉城ティナさんは眼の力に印象を受けた。おどおどした無気力な冒頭の演技から、話が進むにつれたくましさを身に付けていくカナコをよく演じていたと思う。

そして、主演の藤原竜也さんだ。そもそも本作を見たきっかけは、藤原竜也さんのファンである妻の希望による。妻の期待に違わず、藤原さんはBOMBEROをよく演じていたと思う。原作のBOMBEROは、狂気に満ちた登場人物たちを統べることができるまともなキャラクターとして描かれている。原作のBOMBEROにもエキセントリックさはあまり与えられていない。本作で藤原さんがBOMBEROに余計な狂気を与えず、むしろ抑えめに演じていたことが良かったのではないだろうか。

本作は、いくつかの原作にないシーンや設定が付け加えられている。その多くはカナコに関する部分だ。私はその多くに賛成する。ただし、本作の結末は良しとしない。原作を読んで感じた余韻。それを本作でも踏襲して欲しかった。

そうしたあれこれの不満もある。だが、それらを打ち消すほど、私が本作を評価する理由が一つある。それは、本作をとても気にいった娘が、本が嫌いであるにもかかわらず原作を読みたいと言ったことだ。実際、本作を観た翌日に原作を文庫本で購入した。完成されたイメージとして提示された映像作品も良いが、読者の想像力を無限に羽ばたかせることのできる小説の妙味をぜひ味わってほしいと思う。グロデスクな表現の好きな娘だからこそ、原作から無限の世界観を受け止め、イラストレーションに投影させてくれるはずだから。

‘2019/08/11 イオンシネマ新百合ヶ丘


アラジン


今年に入ってから一本も映画を見ていなかった。六月も終わろうとする今日、ようやく見たのが本作だ。

本作のアニメ版は何度も見た。娘たちが幼い頃はわが家のビデオでよく流していた。東京ディズニーシーにはアグラバーを模した街があり、娘たちが幼い頃は毎年そこに訪れては写真を撮ったものだ。そんな思い入れのあるアラジンが、最近の実写化の流れに乗って封切られたので家族で映画館に行ってきた。

東京ディズニーシーのアグラバーの一角には「マジックランプシアター」というアトラクションがある。そこでのジーニーは3D眼鏡の向こうではちゃめちゃなショーを展開してくれる。今までにも何度か見たが、なかなか面白い。実際、ジーニーというキャラクターは愛嬌もあって憎めない。魔神という恐ろしい存在であるはずなのに、その雰囲気を微塵も感じさせない。ディズニーの諸作品の中でも異彩を放つキャラクターだと思う。本作のジーニーも同じ。ジーニーを演じるのはあのウィル・スミス。

私はジーニーのはちゃめちゃな感じが本作でどこまで表現されているのか期待しながらみた。ところが、どうにも乗れない。例えば登場シーン。CGではなくVFXの粋を極めたような特殊効果。まさに現時点でVFXの先端を行く特殊効果に満ちた登場シーンなのに乗れない。ウィル・スミスの演技にもわざとらしさや下手さは感じられない。それにもかかわらず、アニメ版のジーニーのシーンと比べると何やら少し冷静になって見ている自分がいる。

なぜだろう。いまや、ちょっとやそっとの特殊効果では動じないのだろうか。荒れ狂う溶岩や真っ暗な洞窟の中、さらに見渡す限りの砂漠を舞台に、ジーニーが願い事のやりかたをアラジンに教えるシーンは特殊効果のオンパレード。アニメ版やマジックランプシアターとはレベルが違う特殊効果がこれでもかと繰り出され、現代に生きる醍醐味を堪能させてくれるシーンだ。リアルでありながらありえない誇張の数々。アニメの世界がそのまま実写になったようなものすごい展開の連続。であるにも関わらず、いまいちのめり込めない自分が意外だった。エンド・クレジットでとても多くのデジタル担当の名前が並んでいたのもわかるほど、ものすごい特殊効果だったのに。

それはひょっとすると、本作で見るべき本質はそこにないと、私が心の底で思っていたからかもしれない。そう、本作で見るべき点はほかにある。それはジーニーの登場シーンでもなければ、アニメ版でもおなじみのアラジンとジャスミンが魔法のじゅうたんで世界を飛び回るシーンでもない。アニメ版であればA Whole New Worldが流れる有名なシーンはクライマックスだが、本作はあくまでも展開の中の一つに過ぎない。

私が本作で面白いと思ったシーンは他にある。例えば冒頭のシーンだ。このシーンについてはあまり書かない。これから本作を見る方にとっては興を削ぐことになるから。だが、そのシーンは本作をアニメ版と隔てる最大の点かもしれない。独自の解釈がとてもいい。また、アラジンが登場するその次のシーンも私の印象に残った。アグラバーの活気ある街並みの中、コソ泥のアラジンが所狭しと駆け回る。アラジンの愛嬌と本質がよく描かれ、本作の全体の伏線にもなっている。みていて見事だった。ガイ・リッチー監督の手腕が光るシーンだ。

そして、見逃せないのは本作の脚本だ。そもそも、アニメとしてあまりにも有名な本作を、ただ単に特殊効果を披露するためだけに実写化しただけで何の意味もない。現代だからこその独自の視点が求められる。監督はそこをよくわかっていたと思う。

例えばジャスミンの自立した女性としての描かれ方は今の独自の視点だ。女性の意志や立場の強まりは、最近の映画でもよく描かれる。男女が真の意味で平等であること。本作にもその風潮が濃厚に反映されている。ジャスミンの女性としての受け身ではない強さがとても印象的だ。

ジャファーもアニメ版ではいかにもな悪役ぶりを発揮していた。だが、本作でのジャファーはとても人間的だ。あくなき権力欲が悪役としての存在感に説得力を与えていたように思えた。アラジンにしても、本来の自分と装った自分の間でジレンマに悩むシーンがある。そうしたシーンも現代の一つの断面として見逃してはならない。

また、本作は、主役の他の人物にも光をあてていたことが素晴らしい。アラジンとは、アラジン・ジャスミン・ジーニー・ジャファーの四人だけが登場する物語ではない。当然ながら四人以外の人物も登場する。それらの人物がきちんと描かれていたのが本作の優れていた点だ。例えばジャスミンの侍女であるダリアの描かれ方や、国王の忠実な部下であるハキームの描かれ方は、間違いなく本作に深みを与えていたと思う。勧善懲悪と自由を求めるだけの物語では、目の肥えた観客の心はつかめない。監督はそのことをよくわかっている。

もちろん、そうした監督の意志を演じる俳優陣の動きも見事だ。ウィル・スミスは、登場シーンこそ豪華絢爛な特殊効果に惑わされて本来の演技力が現れていなかった。(そもそもあのシーンはほぼCGらしいが)。だが、アラジンの忠実な従者として振る舞う姿や、単なる魔人ではなく人間になりたいという切ない願いは、ジニーに単なるトリック・スターではない新たな解釈を与えていたと思う。

本作で良かったのは、ウィル・スミス以外の主要キャストのほとんどが中東にルーツを持つ俳優陣で固められていたことだ。私は常々、ハリウッドが欧米の文化を押し付けることがあまり好きではなかった。どこか舞台であろうとも欧米中心の視点で描かれることが。だからこそ本作の主要なキャストが中東にルーツのある人々によって演じられていたことにとても安心した。

だが、正直に言うと、冒頭のアグラバーの街の描写が見事だっただけに、行き交う人々の発する声が全て英語だったことには毎度のことながら、幻滅を感じた。ただ、ハリウッドの作品である以上、それはもう必要悪と思うしかない。だからせめて、俳優陣の顔立ちが中東の風味を備えていてくれたことに救いがあった。

先日の「Bohemian Rhapsody」の主演のラミ・マレックもエジプトにルーツを持つそうだし、本作でアラジンを演じたメナ・マスードもエジプトにルーツを持つそうだ。これからもそうした俳優がどんどんハリウッドに進出して欲しいと思う。欲をいえば作中でもアラビア語を操ってくれれば言うことなしだ。

そうした国際色の豊かな俳優陣の中でも、ジャスミンを演じるナオミ・スコットの惚れ惚れとするような美貌ぶりは際立っていた。インドにルーツをもつそうだが、アニメ版のジャスミンを彷彿とさせる顔立ちでありながら、本作の重要なモチーフである女性の持つ強さを表現していて、まさに適切なキャスティングだったと思う。

本作は、教訓めいた内容もあるが、あまり深入りしていない。あくまでも華やかできらびやかな魔術の世界、アラビアン・ナイトの世界観を楽しむのが良いと思う。現代の最新技術を堪能するだけでなく、細かい部分でもアニメ版と比べるとよい。とにかく豊かだ。アラジンやジャスミンの歌う新曲もよいし、魔法のじゅうたんやアラジンと行動をともにするアブーの愛らしさといったら!アニメ版を飽きるほど見ていても、本作は見る価値はあると思う。純粋に楽しめる映画だ。

‘2019/06/29 イオンシネマ新百合ヶ丘


ボヘミアン・ラプソディ


涙こそこぼさなかったけど、泣いてしまった。ここまで再現してくるとは。映像と音楽でクイーンとフレディ・マーキュリーが私の中で蘇った今、彼らの曲の歌詞が私の中で真の意味を持って膨らんでいる。ライブ・エイドに遅れて育った私自身の後悔とともに。

ロック少年としては、私はかなり遅咲きの部類だ。中学三年生の時。1989年の春頃だったと思う。友人に貸してもらった映画のサントラ(オーバー・ザ・トップ、ロッキーⅣ、トップ・ガン)から入った私は、一気に洋楽にはまった。高校の入学祝いにケンウッドのミニコンポを買ってもらってからは、バイト代や小遣いのほとんどをCDに費やしていた。それでもなお、私は時代に遅れたロック少年だと思っている。なぜなら私はライブ・エイドをリアルタイムで経験していない。私が音楽にはまった時、FM雑誌に新譜として特集されていたのはクイーンの「The Miracle」。クイーンの歴史の中では晩年に発売されたアルバムだ。フレディ・マーキュリーが存命の間でいうと最後から二つ目にあたる。だから私は、リアルタイムでクイーンを聞いていた、とはとても言えない。

しかし、私が今までの人生で訃報を聞いて一番衝撃を受けたのはフレディ・マーキュリーのそれだ。エイズ感染というニュースにも驚いたが、翌日、畳み掛ける様に死のニュースが届いた時は言葉を失った。洋楽にどっぷりはまり、当時すでに「A Night At The Opera」がお気に入りだった高校二年生にフレディ・マーキュリーの死は十分な衝撃を与えた。さらに数年後、フレディ・マーキュリーの遺作として出された「Made In Heaven」は、ラストの隠しトラックにトリハダが出るほどの衝撃を受けた。「Made In Heaven」を始めて聴いた時の衝撃を超えるアルバムには、昔も今もまだ出会っていない。それ以来、クイーンは私のお気に入りグループの一つであり続けている。

本作が公開されることを知った時、私は半年以上前から絶対見に行くと決めていた。クイーンというバンドの成り立ちから栄光の日々が描かれる本作。だが、より深みを持って描かれるのが、フレディ・マーキュリーの出自や性的嗜好だ。パールシーの両親のもとに生まれ、インドで教育を受けてイギリスに移り住んだ出自。バイ・セクシャルとしての複雑な性欲の発散の日々。それらは、クイーンの大成功の裏側に、複雑で重層的な深みを与えていたはずだ。その点はロック・バンドの成功という表面だけではなく、もっと深く取り上げられるべきだと思う。クイーンはそうした意味でもいまだに特異なグループであり続けている。本作はまさにクイーンの特異さを描いている。本作は、私の様なアルバムとWikipediaと書籍でしかクイーンをしらない者に、より多面的なクイーンの魅力と闇を伴い、心にせまり来る。

正直、私は本作を見るまで、フレディ・マーキュリーが自身の歯の多さを気にし、常に口元を隠す様な癖を持っていたことや、デビューの頃の彼女だったメアリー・オースティンが本作に描かれる様に公私でフレディ・マーキュリーを支えたほどの存在だったことも知らなかった。また、本作でフレディ・マーキュリーを操ろうとする悪役として描かれるポール・プレンターの存在も知らずにいた。こうした情報は私の様な遅れて来たファンにとって貴重だ。

本作はブライアン・メイとロジャー・テイラーが音楽を監修しているという。だから本作に描かれた内容もおおかた事実に即しているはずだ。内容にも明らかな偏りは感じられなかった。ブライアン・メイとロジャー・テイラーがお互いの歌詞をけなし合ってケンカするシーンなども描かれていたし。ジョン・ディーコンが「Another One Bites The Dust」のベースラインを弾いて三人のケンカを仲裁するシーンとかも描かれていた。フレディ・マーキュリーを表に出しつつも、四人の個性の違いがきちんと書き分けられていたのではないか。もっとも、本作はオープニングとエンディングをライブ・エイドで締める構成にするため、事実とは違う時間軸で描いたシーンが多々あるようだ。フレディ・マーキュリーがエイズ感染をメンバーに伝えたのはライブ・エイドの前だったかのように本作では描かれているが、ライブ・エイドの後だったらしい。フレディ・マーキュリーがポール・プレンターに絶縁を言い渡す時期もライブ・エイドの後だったとか。

ただ、本作は映画であり、そうした脚色は当然あっても仕方ないことだと思う。脚色がありながらも、芯の部分を変えずにいてくれたことが本作をリアルにしていたと思う。何よりも、俳優陣の容姿が実物の四人にそっくりだったこと。それが一番、本作に説得力を与えていたと思う。フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは、以前友人から勧められて観ていた「Mr.Robot」の主人公としておなじみだった。また、娘たちが好きな「ナイト・ミュージアム」にも登場していた。確かに顔はフレディ・マーキュリーに似ているとは思ったが、本物より目が少し大きいな、とか。でも演技があまりにも迫真なので、次第に本物とそっくりに思えてくるから不思議だ。また、私の感想だが、ブライアン・メイにふんしたグウィリム・リーがあまりにもそっくり。彼がギターを弾くシーンだけで、事実との些細な違いなどどうでもよくなったぐらいに。「Bohemian Rhapsody」の有名な四人の顔の映像や、「 I Want to Break Free 」の女装プロモーションビデオも本作では四人が再現している。そうしたクイーンのアイコンともいえる映像を俳優たちがそっくりに演じているため、時間がたつにつれ、俳優の容姿が本物に近づいていくような錯覚を覚える。エンド・クレジットに本物の「Don’t Stop Me Now」の映像が使われることで、観客は映画が終わり、今までのドラマを演じていたのが俳優だったことにハッと気づかされる。

そして本作の音楽は、映像と違い、あえてフレディ・マーキュリー本人の声を多くのシーンで使っているそうだ。劇中でフレディ・マーキュリーが歌う、音源として残されていない歌声は、私もYouTubeで映像を観たことがあるカナダ人のマーク・マーテルが担当したそうだ。むしろ、それで良かったのではないかと思う。なぜならフレディ・マーキュリーの声はあまりにも唯一無二だから。マーク・マーテルのような手練れのそっくりさんが吹き替えるぐらいでなければ、いくら実際の俳優がうまく再現したとしても、観客の興を削いでしまう可能性が高い。

それよりも本作は、フレディ・マーキュリーという人物の志と成功、そして死に至るまでの濃縮された生の躍動に注目すべきだ。彼の生はまさに濃縮という言葉がふさわしい。たとえ45年しか生きられなかったとしても。おそらく普通の人の数倍も濃い密度をはらんだ人生だったのではないだろうか。本作にも「退屈などまっぴら」という意味のセリフが三度ほど出てくる。「俺が何者かは俺が決める」というセリフも登場する。一度やったことの繰り返しはしない、カテゴリーにくくられることを拒むクイーンの姿勢が本作の全編に行き渡っている。何気なく流され、生かされているのではなく、自分で選択した人生を自分で生きる。そしてその目標に向かい、時には弱音も吐きながら、理想は捨てぬまま、高らかに生の高みを歌い上げる。本作にはそのスピリットが貫かれていた。彼らの曲の歌詞の意味が真に理解できた、と冒頭にも書いたが、それは本作に一貫するテーマ、生の謳歌に通じる。本作が発するメッセージとは生きる事への賛歌だ。

私が訪れた回が満席で、次の回に回してもすぐに席がいっぱいになり、私が座ったのは前から二列目。とても見にくかったが、その分、迫力ある波動が伝わってきた。曲中で流れる実際の唄声の多くは私が好きな曲。私がクイーンで好きな「The Prophet’s Song」 、「39」や 「Innuendo」が流れなかったのは残念だが、最後に流れた「The Show Must Go On」が私の涙腺を緩めてしまった。人生という面白くも厳しく、愉快で苦しいショー。自分のショーは自分の力で演じてゆかねばならない。生きていく限り。表現者としてこれ以上のメッセージが発せられるだろうか。

‘2018/11/17 TOHOシネマズ六本木ヒルズ


ボルグ / マッケンロー 氷の男と炎の男


テニスはするのも観戦も好き。だから本作は映画館でチラシを見た時から絶対に行こうと思っていた。封切り日にも鑑賞に行きたかったぐらいに。ところが仕事が立て込んでいて十日も我慢した。最近はテニスの四大大会の観戦もできていない。大坂なおみ選手の全米オープン優勝も、錦織選手の準決勝の試合も見逃した。かつてのように朝まで観戦する体力も時間もなくなりつつあるからだ。だからこそ、本作とスクリーンで出会うのがとても楽しみだった。そして、本作が期待を裏切らぬ内容だった。うれしい。

本作の内容はとても素晴しかったと思う。例えるなら、上質のスポーツノンフィクションを読んだ時の気分だろうか。『Sports Graphic Number』のような。克明に描かれたアスリートの心の動きが、試合の展開と一致する。スポーツノンフィクションの妙味とはそこにあると思う。

わたしが熱心にテニスを観ていた頃、強かったのはジム・クーリエやピート・サンプラス、アンドレ・アガシだ。ガブリエラ・サバチーニはファンだったし、シュティフィ・グラフや伊達公子の試合はよく観ていた。ベッカーやレンドル、エドベリが晩年を迎えつつあり、ボルグはとうに引退していて、マッケンローは引退するかしないかという時期だったと思う。当時の私にとって、ボルグとは伝説の人物。長髪をヘアバンドで縛った聖人のような風貌だけがインパクトに残り、私の中で固定されていた。固定されたイメージでしか知らなかったといってもよい。一方、私が知るマッケンローは、試合中に吠え猛ける姿もたまに見られたとはいえ、すでに角は取れており、悪童と呼ばれた面影はほぼ消え失せていた。

だが、遅れて来たテニスファンである私も、1980年のウインブルドン決勝がテニス史に残る名勝負であったことは知っていた。ウインブルドン五連覇が掛かったボルグに新生マッケンローが挑む構図。壮絶なタイブレークを耐えたマッケンローがフルセットの勝負に持ち込み、最終セットでボルグが辛くも勝利を手にした白熱の試合内容。後年、『YouTube』でその試合の一部を観たが、名勝負と呼ばれるにふさわしい内容だったと思う。

本作はその名勝負に焦点を当てている。試合そのものだけでなく、試合を戦った二人の人生にも光を当てている。氷の男と呼ばれたボルグと悪童と呼ばれたマッケンロー。彼らがテニス界で最高峰の戦いに臨む際、その胸中にあったものは何か。頂点を争う者にしかわからない葛藤と苦しみ。氷の男、または悪童と呼ばれた男はどのようにして作り上げられたのか。彼らの少年時代を描くことで、勝負の背景にあったドラマを映画として表現したのが本作だ。

絶妙な脚本によって、私たちは思い知る。壮絶な試合の裏側に戦った二人だけが知るそれぞれの人生があったことを。勝利者だけが知る真の孤独。あの試合が語り継がれるべきは、試合内容だけではない。二人のテニス選手の人生も語られるに値するのだ。その二つを純粋な形で抽出したことで、本作は質の高い映画として成功が約束された。

私が今までに読んだことのあるテニスプレーヤーの伝記は、アーサー・アッシュのそれぐらい。それとてだいぶ昔だし、ボルグやマッケンローの評伝は読んだことがない。なので、私には本作の描写の全てが新鮮だった。特に、本作で描かれるボルグの少年時代。それは、私の中に居座っていた聖人=ボルグの印象を全く変えた。

すぐに逆上し、自分から勝負に負けてしまう悪童。それが少年時代のボルグ。その姿は悪童として名を知られていたマッケンローと比べても引けを取らない。本作にも唾を吐き、審判や観客に悪態をつくマッケンローが幾度となく登場する。ボルグの子供時代もまさにそう。審判のジャッジに激昂し、コーチに歯向かう。荒れる二人が交互に描かれる。

そこからどうやってボルグは冷血と呼ばれるまでになったのか。それは、コーチのレナートが辛抱強く教え諭し、それによくボルグが応えたことで作り上げられた。師弟が衝突と叱責を繰り返しながらも、ついにはマシンのようなと称されるルーチンワークを作り上げ、常勝を手にしていく様子がテンポよく描かれる。その中で観客は氷の男と呼ばれたボルグのイメージが実はかりそめのイメージに過ぎず、実はボルグとは触れればやけどするマグマのような熱さを秘めていたことを知るのだ。実は二人の対決とは、氷VS炎どころか、炎VS炎。ボルグがウインブルドン五連覇を達成できたのも、自らの内に燃え盛る炎を完璧に押さえ込んだ強烈な自制があってこそ。

本作にもレナートが「一ポイントごとに集中しろ」とボルグに言い聞かせるシーンがある。それは言うのも聞くのも簡単。だが、これほど難しい実践もない。師の教えを鉄の意志で実践しきったことがボルグの強さの秘密だったのだろう。本作では、ボルグの役を年齢に応じて三人が演じ分けている。どの俳優もボルグの各年代によく似ているのだろう。最も年若のボルグはボルグの実の息子が演じているのだから恐れ入る。念入りにボルグの成長を描きたかった監督の意図が伝わってくるし、それは成功している。

ボルグが自らを懸命に律する姿は痛々しい。ウインブルドンで勝ち上がっていくにつれストレスをため込み、コーチやフィアンセにあたるボルグ。そこには勝負に勝ち続けたあまり、孤独に苦しむ男の苦しみがある。頂点を極めた者だけが知る、決して理解されない痛み。どれだけ華やかな場に呼ばれ、賞賛の声を浴びても、決して癒やされない苦しみ。本作のエピローグで触れられるが、1981年のウインブルドンで再び合間見えた両者は、再び死闘を繰り広げ、マッケンローが雪辱を果たす。そしてボルグは26歳の若さで引退を表明する。(本作のテロップでは同じ年に引退とあったが、ウィキペディアでは引退が1983年と書かれていた。)それはツアー方式の変更という別の理由もあったようだが、ボルグは燃え尽きたと解釈した方がしっくり来る。燃え盛る炎を自制の力で冷やし続けることにうみ果てたと考える方が。

本作で、悪態をつくマッケンローをテレビで見ながら、フィアンセのマリアナ・シミオネスクが「集中力を切らしているみたい」とつぶやき、それに対してボルグが「いや、違う」と返すシーンがある。猛るマッケンローにかつての自分の姿を重ねたボルグ。そこから、追想シーンに入ってゆく流れは鮮やか。コーチのレナートが二人のかつてを思い返すシーンや、マッケンロー自身が子供時代の神童ぶりを振り返るシーンなど、本作のあちこちに追想シーンが挟まれる。それらのシーンが二人の内面を立体的に彫り上げる効果を挙げているのは言うまでもない。

また、本作にはたくさんのテニスのラリーも描かれる。ストーリー描写とテニスシーンのバランスは絶妙。あらゆる角度からサーブ、ストローク、ボレー、そしてスマッシュを描いていて観客を飽きさせない。また、テニスは選手のフォームが癖に出やすい。マッケンローやボルグも特徴的なプレースタイルを持っている。それを再現することは至難の業だったはず。私は実物のフォームとの違和感をそれほど感じなかった。それを編集とアングルの工夫と演技で違和感なく見せていたことは特筆できる。実際、本作を観た後に、『YouTube』で当時の試合を見返してみたが、やはり違和感は感じなかった。

そもそも二人の俳優がボルグとマッケンローを絶妙に演じているのだから、試合シーンがそっくりなのも当然。最初の登場では「あ、顔が違う」と少しの違和感を感じた。が、映画を見ているうちに、どんどん私の記憶の中の2人の容貌がスクリーンの二人の俳優によって塗り変えられていく。それほど、二人の俳優の演技はよく似ていた。マッケンローが登場するときはビリー・スクワイヤやブロンディーがガンガンに流れ、イケイケなマッケンローのイメージが観客の心に刻まれる。気持ちいいほど、監督の意図にはめられた自分がいた。観客冥利とはこのこと。エンドロールでは実際の二人や映画で使われたシーンの元となった写真が映され、観客は実際のボルグとマッケンローの容貌を取り戻す。この演出もまた心憎い。

本作でボルグを演じたスヴェリル・グドナソンと、マッケンローにふんしたシャイア・ラブーフがこれほどまでにハマった理由。それは忠実に言葉を再現していることだ。ボルグは自分のスウェディッシュを操り、マッケンローはアメリカンスラングを交える。そこにハリウッド大作にありがちな英語で押し通す傲慢さは皆無。本作の冒頭で、全仏オープンに出場するボルグが、カフェに入ってフランス語が話せないから、と英語で話すシーンがある。その流れのまま、本作も英語で押し通すのかと思わせておきながら、レナートコーチやマリアナとはスウェディッシュで話させるあたり、監督の確信犯としての洒落っ気を感じた。もしボルグが全編を英語で話したとすれば本作は台無しだ。エージェントとは国際共通語である英語。プライベートとや母国人とは母国の言葉。その辺りの言語の使い分けがとても自然だった。そこが私にとっては評価が高い点だ。冒頭に協力者としてスウェーデン大使館、デンマーク大使館、フィンランド大使館の名が出てくるが、さぞ和訳は大変だったと思う。また、マッケンローの荒れるスラングも、さぞこうだったと思わせるほど役にはまっていた。シャイア・ラブーフの映画ははじめてみたが、マッケンローという行ける伝説を演じるに、まさにはまり役だったと思う。

二人の俳優を固める脇役陣も見事。ボルグの少年時代を演じるレオ・ボルグはジュニア大会で優勝もしているボルグ本人の息子だそうだが、見事に父の子供時代を演じ切っていた。俳優でも食っていけるのではないだろうか。それと若い時期のボルグを演じていたマーカス・モスバーグ。荒れ狂うボルグを演じるだけに、彼の演技こそが本作の鍵を握っていたと言っても言い過ぎではない。もう一人、本作にとって重要な人物がいる。いうまでもなくボルグのコーチ、レナートだ。そのレナートを演じていたのはステラン・スカルスガルド。ハリウッド大作にも出演しており、私もスクリーン上でその存在に気づいた。その円熟の演技は本作に強力な説得力を与えていた。炎から氷へとボルグを変える錬金術師として、なくてはならない存在感を発揮していたと思う。

また、ボルグのフィアンセ、マリアナ・シミオネスクを演じたツヴァ・ノヴォトニーも素晴らしい。スウェーデンでは一流の女優さんだそう。初めてお見かけしたが、とても美しい。決勝戦でレナートコーチと一喜一憂するシーンがある。このシーン、実際の試合の映像も残っているのだが、まさにそっくり。ちなみに、実際の映像で映っているマリアナ・シミオネスクもとても美しい。わたしは実物のマリアナの美しさに心奪われた。女優に引けを取らないほどの容姿。当時、テニスを見ていたらファンになっただろうな。

こうした素晴らしい俳優をスクリーン上に映えさせたスタッフもお見事。本作は、私にとっては久々に観た北欧の映画。ハリウッド大作では味わえない、北欧の映画の魅力が詰まった一作だ。映画とスポーツの粋。それを一度に味わえる作品はそう多くない。そんな作品が北欧から登場したことこそ意味があるのだ。私は本作に巡り合え、とても幸せを感じている。

わたしは本作でテニスがさらに好きになった。そして、テニスの歴史にも興味を持った。そしてボルグとマッケンローの伝記を探してみた。すると、まさにそれにぴったりの本『ボルグとマッケンロー テニスで世界を動かした男たち』を見つけた。その本も読まねばなるまい。勝負や孤独の本質を掴むためにも。

‘2018/09/11 イオンシネマ新百合ヶ丘


ミッション:インポッシブル フォールアウト


イメージがこれほどまでに変わった俳優も珍しい。トム・クルーズのことだ。ハンサムなアイドルとしての若い頃から今まで早くも30年。今なお第一線にたち、相変わらずのアクションを見せている。しかもスタントなしで。ここまで大物俳優でありながら、芸術的な感性を感じる作品にも出演している。それでいて、50歳も半ばを超えているのに、本作のような激しいアクションにスタントなしで挑んでいるのだからすごい。もはや、若かった頃のアイドルのイメージとは対極にいると思う。

正直言うと、本作も半ばあたりぐらいまでは、『ミッション:インポッシブル』や『007』シリーズなどに共通するアクション映画のセオリーのような展開が目についてしまい、ほんの少しだけだが「もうおなかがいっぱい」との感想を抱きかけた。だが、本作の後半は違う。畳みかけるような、手に汗握る展開はシリーズでも一番だと思う。それどころか、今まで私が観てきたアクション映画でも一、二を争うほどの素晴らしさだと思う。

なぜ本書の後半の展開が素晴らしいのか。少し考えてみた。二つ思いついた。一つは、トム・クルーズふんするイーサン・ハントだけを完全無欠なヒーローとして描いていなかったことだ。もちろん、ハントのアクションは驚異的なものだ。それらのアクションのほとんどを50代半ばになるトム・クルーズがスタントなしで演じないことを考えるとなおさら。だが、彼にはIMFのチームがある。ベンジーとルーサー、そしてイルサのチーム。クライマックスに至るまで、ハントとハントのチームは最後の瞬間まで並行して難題に取り組む。普通、こうした映画の展開は、主人公が最後の戦いに挑むまでの間に、露払いのように道を開く仲間の活躍を描く。それは主人公を最後の戦いに、最大の見せ場にいざなうためだけに存在するかのように。だが、本作ではハントが最後の努力を続けるのと同時に、ハントの仲間たちもぎりぎりまで戦う。その演出はとてもよかった。もはや一人のスーパーヒーローがなんでも一人で成し遂げる展開は時代にそぐわないと思う。

また、超人的な活躍を繰り広げるハントの動きも本作のすばらしさに一役買っている。ハントの動きにうそが感じられないのだ。スタントが替わりに演じていたり、ワイヤーアクションによる動きは目の肥えた観客にはばれる。要するにトム・クルーズ自身がスタントなしで演じている様子が感じられるからこそ、本作の後半の展開が緊迫感を保てているのだと思う。

それを是が非でも訴えたいかのように、パンフレットにもスタントなしの撮影の大変さに言及されていることが多かった。トム・クルーズが撮影中に足を骨折したシーンと、全治9カ月と言われたケガからわずか6週間で撮影に復帰したトム・クルーズの努力。トム・クルーズがけがしたシーンは、パンフレットの記述から推測するに、ハントがイギリスで建物の屋根を走って追いかけるシーンで起こったようだ。骨を折っても当然と思えるほど、本書のアクションは派手だ。そして、ここで挙げたシーンの多くは、本作の前半のシーンだ。私が「もうおなかがいっぱい」とほざいたシーンとは、実は他のアクション映画ならそれだけでメインアクションとなりえるシーンなのだ。それらのシーンを差し置いても、終盤のアクションの緊張感が半端ないことが、本作のすごさを表している。

なお、50代半ばというトム・クルーズの年齢を表すように、直接肉体で戦うアクションシーンは本書にはそれほど出てこない。だが、本書にはそのことを感じられないほど、リアルで斬新なアクションシーンが多い。例えば成層圏を飛ぶ飛行機から飛び降りたり、ヘリコプターから吊り下げた荷物へと10数メートル飛び降りるシーン。パリの街並みを逆走してのバイクチェイス。イギリスで建物の屋上を走り抜け、ジャンプするシーン。そもそも、ミッション:インポッシブルのシリーズにはアクション映画におなじみの格闘シーンはさほど登場しない。それよりも独創的なアクションが多数登場するのがミッション:インポッシブルのシリーズなのだ。

ちなみに、本作はIMAXでみた。本当ならば4Dでみたかった。だが、なぜか4Dでは字幕ではなく、吹替になってしまう。それがなぜなのかわからなかったが、おそらく4Dの強烈な座席の揺れの中、観客が字幕を読むのが至難の業だからではないか、という推測が妻から出た。IMAXでもこれだけの素晴らしい音響が楽しめた。ならば、4Dではよりすごい体験が得られるのではないだろうか。

よく、映画は映画館でみたほうがよい、という作品にであう。本作は、映画館どころか、4Dのほうが、少なくともIMAXで観たほうが良い作品、といえるかもしれない。

なお、スタントやアクションのことばかり誉めているが、共演陣が素晴らしいことはもちろんだ。だが、本作の俳優がどれほど素晴らしかろうとも、アクションシーンの迫力がそれを凌駕している。

また、本作は少々ストーリーがややこしい。誰が誰の味方で、誰が誰の敵なのか、かなり観客は混乱させられる。私自身、本作の正確なストーリーや、登場人物の相関図を書けと言われると詰まってしまう。多分、そこは正式に追っかけるところではなく、アクションシーンも含めて大迫力の映画館で何度でも見に来てね、という意図なのかもしれない。私もそれに乗ってみようと思う。

‘2018/08/14 TOHOシネマズ ららぽーと横浜


ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー


『エピソード7:フォースの覚醒』、『エピソード8:最後のジェダイ』。そして『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』。これらの三作品はスター・ウォーズを蘇らせた。そして蘇らせるだけでなく、新たな魅力までも備えさせた。そのインパクトは、劇場公開当時に『エピソード4〜6』を観ていない私のような観客にもスター・ウォーズ・サーガの魅力を十分に知らしめた。偉大なる作品群だと思う。

サーガとは物語だ。だから終わりがない。未来を語れば選択肢は無限。過ぎ去った物語も無限。だからこそスピンオフ作品は生まれる。しかもそれがスター・ウォーズほどの作品ともなればスピンオフのための題材は山のようにある。だからこそ、スター・ウォーズから派生した相当の数のスピンオフ作品が小説やコミックなどで発表されているのだろう。そして、あまたのスピンオフ作品の中でも正統なスピンオフに位置付けられていたのが『ローグ・ワン』だ。

正統のスピンオフと銘打つだけのことはあり、『ローグ・ワン』は本編に劣らぬ内容だった。魅力的な登場人物たちがデス・スターの設計書を苦心の末奪い取る。そして大勢の犠牲を払った末、データは無事に送信される。本編の『エピソード4:新たなる希望』では『ローグ・ワン』で送信されたデス・スターの設計書データをもとにストーリーが構築されている。長い間、このエピソードは『エピソード4:新たなる希望』のオープニングロールの文章の中だけで触れられていた。あれほどの最新鋭の基地の設計図がなぜ都合よく反乱軍の手に収まったのか、という疑問。それは『エピソード4』の前提が安直との弱点でもあった。『ローグ・ワン』はそのエピソードを描くことで本編を補完した。スピンオフの役割が本編の補完にあるとすれば、『ローグ・ワン』はまさにそれを果たしていた。

そして本作だ。本作もまたスピンオフ作品だ。だが、果たして本作は本編を補完しているのだろうか。そう問われると私は少し言い淀むしかない。たしかにハン・ソロは本編の『エピソード4〜7』における主要なキャラクターだ。それらの中でハン・ソロから発せられたセリフは観客の印象に残っている。例えば『エピソード4』でルークと出会った時、ハン・ソロはミレニアム・ファルコン号を「ケッセル・ランを12パーセクで飛んだ船だ」と紹介していた。また、ミレニアム・ファルコン号にはサイコロのようなお守りが登場する。『エピソード5:帝国の逆襲』ではミレニアム・ファルコン号がランド・カルリシアンからギャンブルで巻き上げた船であることが観客に知らされる。また、チューバッカとハン・ソロの絆の深さは、エピソード4〜6にかけて印象的だ。それらの前提がどこから来たのか。それはスター・ウォーズのファンにとっては気になるはず。そして前提となる情報は今まで描かれないままだった。本作はそれらの観客の渇きを癒やすために作られたのだろう。『エピソード7』でハン・ソロが物語から去った今、なおさらハン・ソロという人物はしのばれなくてはならないのだから。だが、それらは本当に補完されるべき情報なのだろうか。わたしには少し疑問だ。

スター・ウォーズが好きな私としては、本作は当然みるつもりだった。だからこそ封切りした翌々日、私にとってはいつもよりも早いタイミングで映画館に行ったのだ。結果、上に書いたようなハン・ソロにまつわるエピソードの伏線についてはほぼ納得できた。だが、本作をみた後は逆にモヤモヤが残った。どこがどうモヤモヤなのか。それは本作をみていない方にとってネタバレになるのでこれ以上書かない。とにかく本作に登場した主要人物の中で、その後の本編にどう関わるのかわからない人物が二人、登場する。また、その関わりが『エピソード4』につながるのか、それとも『エピソード1〜3』につながるのかもわからない。本作は、過去の作品が広げた風呂敷を確かに畳んだ。だが一方で新たな謎も広げた。それはスピンオフ作品のあるべき姿とは思えない。ある意味、スピンオフのセオリーから外れているとすら言える。もちろん、物語とは終わるはずのないものだ。だから、本来はエピソードを収束させる考え自体が間違っているのだろう。それはスピンオフ作品であっても同じ。だが、スター・ウォーズの本編ありきでスピンオフを考えていた観客には少しモヤモヤが残る。スピンオフがさらなるスピンオフを生む。この手法は賛否両論がありそうに思える。また、もしこの設定が他のスピンオフ、つまり8作の本編と2作のスピンオフの他に多数発表された小説やコミックにつながるのであれば、なおさら非難の声は挙がりそうな気がしてならない。

ストーリーについてはこれぐらいにしておく。後もう一点で言いたい不満はアクションシーンについてだ。たまにハリウッド大作をみていて思うのが、弾幕の中を登場人物が無傷で切り抜けるシーン。あれ、どう考えても都合よすぎでしょ。実は本作にもそのようなシーンが登場する。それはミレニアム・ファルコン号の前で壮絶な打ち合いの末、全員を回収して離陸し、宇宙に飛び去るシーンだ。同様のシーンは『エピソード4』にもあった。本作はもちろんそれを踏まえての演出だと思う。だが、本作の弾幕の厚さはただ事ではない。『エピソード4』の同じシーンの弾数とは段違いの。それなのにL3-37がスクラップになるだけで、その他のほとんどの人物はほぼ無傷で切り抜ける。これは如何なものか。『エピソード8』がいい意味で観客の期待を裏切ることに成功していたので、本作の撃ち合いシーンに工夫がなかったことには苦言を呈したい。

ハリウッド大作にありがちなことは他にもある。英語が標準語である設定だ。舞台がフランスだろうが日本だろうがドイツだろうが英語でグイグイ押し通すやり口。これは私はハリウッドの必要悪として半ば諦めている。スター・ウォーズにしてもそう。全てが英語だ。異星人のオールスターが登場する本作にしてもそう。異星の言語を翻訳するため英語の字幕が出たのは数シーンのみ。特に目についたのは二つのシーンだ。ハン・ソロとチューバッカが出会うシーン。見張りを欺くため、ハン・ソロがウーキー語でチューバッカに話しかける。ここまではまだいい。だが、脱出が全うできそうな場において、英語で普通に喋るハン・ソロの声を事も無げに聞き分けるチューバッカ。無理やり、そしてたまたま銀河共通語が今の英語であるという設定を鵜呑みにすれば解釈できるかもしれない。だが、ハン・ソロの名前の由来が明かされるシーン。そりゃないでしょ、と思った。あれはやりすぎだ。

さて、あまり映画の悪口は書かない私。だが今回はつい書いてしまった。でも、その点を除けば本作は良かったと思う。特に俳優陣についてはいうことがない。ハン・ソロもランド・カルリシアンも、もう少し似た俳優さんを配役に充てても良かったように思う。だが、これはこれで仕方ない。容姿以上に、彼らの演技からは若かった頃のランドやソロはこんな感じやったんやろうなあと思わせる説得力があった。特にランドを演じていたドナルド・グローヴァーさんは、今までさほど表現されてこなかったランドを深掘りすることに成功していたと思う。ハン・ソロを演じたオールデン・エアエンライクさんも老けたハン・ソロが印象に残ってしまいかねない今の観客に、若々しいハン・ソロを思い出させたように思う。また、新たなキャラクターたちもとても良かった。とくにヒロインのキーラを演じたエミリア・クラークさんの可憐さの中にどこか冷たさのある感じ。ハン・ソロの師匠ともいうべきトバイアス・ベケットを演じたウディ・ハレルソンさんの存在感。ヴァルを演じたタンディ・ニュートンさんも以前『クラッシュ』で見かけた時とは印象がガラリと変わっていた。他にもエンドクレジットには旧三部作からお馴染みの方の名前も見つけられた。C-3POやイウォークの中の人とか。

スター・ウォーズは超大作だけにカメオ出演がとても多いと聞く。脇役でも油断すると誰が出演しているかわからないのがスター・ウォーズの楽しさ。細かくみればもっといろいろなことがわかるのだろう。実は私が上で批判したような伏線も、今までの『エピソード1-8』『ローグ・ワン』をよく見れば、本作の設定とつながっているのかもしれない。とくに『エピソード1〜3』は、わたしも映画館で見たきりだ。『エピソード1〜3』を再び見直すのだ、というメッセージが本作なのかもしれない。私も見直してみようと思う。

‘2018/07/01 イオンシネマ新百合ヶ丘


The Greatest Showman


私が、同じ作品を映画館で複数回みることは珍しい。というよりも数十年ぶりのことだ。私が子供の頃は上映が終わった後もしばらく客席にいれば次の回を観ることができた。今のように座席指定ではなかったからだ。だが、いまやそんな事はできない。そして私自身、同じ映画を二度も映画館で観る時間のゆとりも持てなくなってきた。

だが、本作は妻がまた観たいというので一緒に観た。妻子は三度目、私は二度目。

一度目に観た時。それは素晴らしい観劇の体験だった。だが、すべてが初めてだったので私の中で吸収しきれなかった。レビューにもしたため、サウンドトラックもヘビーローテーションで聞きまくった。それだけ本作にどっぷりはまったからこそ、二度目の今回は作品に対し十分な余裕をもって臨むことができた。

二回目であっても本作は十分私を楽しませてくれた。むしろ、フィリップとバーナムがバーのカウンターで丁々発止とやりあう場面、アンとフィリップがロープを操りながら飛びまわるシーンは、前回よりも感動したといってよい。この両シーンは数ある映画の中でも私の記憶に刻まれた。

今回、私は主演のヒュー・ジャックマンの表情に注目した。いったいこの映画のどこに惹かれるのか。それは私にとってはヒュー・ジャックマンが扮したP・T・バーナムの生き方に他ならない。リスクをとってチャレンジする生き方。バーナムの人生観は、上にも触れたフィリップをスカウトしようとバーでグラスアクションを交えながらのシーンで存分に味わえる。ただ、私はバーナムについてよく知らない。私が知るバーナムとはあくまでも本作でヒュー・ジャックマンが演じた主人公の姿だ。つまり、私がバーナムに対して魅力を感じたとすれば、それはヒュー・ジャックマンが表現した人物にすぎない。

ということは、私はこの映画でヒュー・ジャックマンの演技と表情に惹かれたのだ。一回目の鑑賞ではそこまで目を遣る余裕がなかった。が、今回はヒュー・ジャックマンの表情に注視した。

するとどうだろう。ヒュー・ジャックマンの表情が本作に力を漲らせていることに気づく。彼の演技がバーナムに魅力を備えさせているのだ。それこそが俳優というものだ。真の俳優にセリフはいらない。真の俳優とはセリフがなくとも表情だけで雄弁に語るのだ。本作のヒュー・ジャックマンのように。

本作で描かれるP・T・バーナムは、飽くなき挑戦心を持つ人物だ。その背景には自らの生まれに対する反骨心がある。それは彼に上流階級に登り詰めようとする覇気をもたらす。

その心のありようが大きく出るのが、バーナムとバーナムの義父が対峙するシーンだ。本作では都度四回、バーナムと義父が相まみえるシーンがある。最初は子供の頃。屋敷を訪れたバーナムが淑女教育を受けているチャリティを笑わせる。父から叱責されるチャリティを見かねたバーナム少年は、笑わせたのは自分だと罪を被り、義父から張り手をくらわされる。このシーンが後々の伏線になっていることは言うまでもないが、このシーンを演じるのはヒュー・ジャックマンではなく子役だ。

次は、大人になったバーナムがチャリティ家を訪れるシーンだ。この時のバーナムは意気揚々。自信満々にチャリティをもらい受けに訪れる。ヒュー・ジャックマンの表情のどこを探しても臆する気持ちや不安はない。顔全体に希望が輝いている。そんな表情を振りまきながら堂々と正面から義父に対し、その場でチャリティを連れて帰る。

三度目は、パーティーの席上だ。ここでのバーナムはサーカスで名を売っただけに飽き足らず、ジェニー・リンドのアメリカ公演の興行主として大成功を収めたパーティーの席上だ。上流階級の人々に自分を認めさせようとしたバーナムは、当然認めてもらえるものと思いチャリティの両親も招く。バーナムは義父母をリンドに紹介しようとする。ところが義父母の言動がまだ自分を見下していることを悟るや否や、一言「出ていけ」と追い出す。この時のヒュー・ジャックマンの表情が見ものだ。バーナムはおもてでは愛嬌を振りまいているが、裏には複雑な劣等感が潜んでいる。そんな複雑な内面をヒュー・ジャックマンの表情はとてもよく表していた。そしてチャリティの両親をパーティーから追い出した直後、乾杯の発声を頼まれたバーナムは、堅い表情を崩せずにいる。さすがにむりやり微笑んで乾杯の発声を務めるが、その自らの中にある屈託を押し殺そうとするヒュー・ジャックマンの表情がとてもよかった。

なぜ私はこれほどまでに彼の義父との対峙に肩入れするのか。それは、私自身にも覚えのある感情だからだ。自らの境遇に甘んじず、さらに上を目指す向上心。その気持ちは周りから見くだされ、軽んじられると発奮して燃え上がる。だが、燃え上がる内面は押し隠し、愛嬌のある自分を振る舞いつづける。この時のヒュー・ジャックマンの顔つきは、バーナムの内面の無念さと焦りと怒りをよく表していたと思う。そして結婚直前の私の心も。

四度目は、再びバーナムが実家に戻ったチャリティを迎えに行くシーンだ。火事で劇場を失い、ジェニー・リンドとのスキャンダル報道でチャリティも失ったバーナム。彼がFrom Now On、今からやり直そうとチャリティの屋敷に妻子を取り戻しに行くシーンだ。ここで彼は、義父に対して気負わず当たり前のように妻を取り戻しに来たと伝える。その表情は若きバーナムが最初にチャリティをもらい受けに乗り込んだ時のよう。ここで義父に対して媚びずに、そして勝ち誇った顔も見せない。これがよかった。そんな見せかけの虚勢ではなく、心から自らを信じる男が醸し出す不動の構え。

よく、悲しい時は無理やり笑えという。顔の表情筋の動きが脳に信号として伝えられ、悲しい気分であるはずの脳がうれしい気分だとだまされてしまう。その生活の知恵はスクリーンの上であっても同じはず。

本作でヒュー・ジャックマンの表情がもっとも起伏に満ちていたのが義父とのシーン。ということは、本作の肝心のところはそこにあるはずなのだ。反骨と情熱。

だが、一つだけ本作の中でヒュー・ジャックマンの表情に精彩が感じられなかったシーンがある。それはジェニー・リンドとのシーンだ。最初にジェニー・リンドと会う時のヒュー・ジャックマンの表情はよかった。ジェニー・リンドの歌声をはじめて舞台袖で聞き、公演の成功を確信したバーナムの顔が破顔し、安堵に満ちてゆく様子も抜群だ。だが、ジェニー・リンドから女の誘いを受けたバーナムが、逡巡した結果、話をはぐらかしてリンドから離れるシーン。ここの表情がいまいち腑に落ちなかった。もちろんバーナムは妻への操を立てるため、リンドからの誘惑を断ったのだろう。だが、それにしてはヒュー・ジャックマンの表情はあまりにも曖昧だ。ぼやけていたといってもよいほどに。もちろんこのシーンではバーナムは妻への操とリンドとの公演、リンド自身の魅力のはざまに揺れていたはずだ。だから表情はどっちつかずなのかもしれない。だが、彼が迷いを断ち切るまでの表情の移り変わりがはっきりと観客に伝わってこなかったと思う。

それはなぜかといえば、このシーン自体が曖昧だったからだと思う。リンドはせっかく秋波を投げたバーナムに振られる。そのことでプライドを傷つけられ公演から降りると啖呵を切る。そして金のために自分を利用したとバーナムを攻め、スキャンダルの火種となりかねない別れのキスを舞台でバーナムにする。ところが、公演を降りるのはいささか唐突のように思える。果たしてプライドを傷つけられただけですぐに公演を降りるのだろうか。おそらくそこには、もっと前からのいきさつが積み重なった結果ではないだろうか。それは、映画の上の演出に違いない。そもそも限られた時間で、リンドは誘惑し、バーナムがリンドから誘惑に初めて気づき、その場でさりげなく身をかわす。そんなことは起こるはずがない。それは映画としての演出上の都合であって、それだけの時間で演出をしようとするから無理が生じるのだ。Wikipediaのジェニー・リンドの項目を信じれば、リンドが公演を降りたのは、バーナムの強引な興業スケジュールに疲れたリンドからの申し出だとか。それがどこまで真実かはわからない。が、本作ではあえて劇的な方法で二人を別れさせ、リンドとバーナムのスキャンダルにつなげたいという脚本上の意図があったのだろう。だが、その意図が練られておらず、かえってヒュー・ジャックマンからも演技の方向性を隠してしまったのではないか。それがあのような曖昧な表情につながってしまったのではないかと思う。

他のシーンで踊り歌うヒュー・ジャックマンの表情に非難をさしはさむ余地はない。だからこそ、上のシーンのほころびが惜しかった。

‘2018/04/02 イオンシネマ多摩センター


The Greatest Showman


私は劇場で舞台や映画を観る前にあまりパンフレットを読まない。だが、本作は珍しいことに見る前にパンフレットを読んでいた。なぜなら妻と長女が先に観ていて、パンフレットを購入していたからだ。だから軽くストーリーの概要だけは知った上でスクリーンの前に臨んだ。家族四人で観たのだが、妻と長女は二回目の鑑賞となる。妻子にとっては何度も観たいというほど、本作に惚れ込んでいるようだ。

妻子の言う通り、確かに本作は素晴らしい。何がいいって、とにかく曲がいい。本作にはとてもキャッチーで耳に残る楽曲が多い。ミュージカルが好きな妻子にとってはミュージカル映画の王道を行く本作はたまらないと思う。私もミュージカルの舞台や映画はよく見るのだが、本作に流れる曲の水準の高さは他の名作と呼ばれるミュージカル舞台や映画に比べても引けを取らないと思う。かなりお勧めだ。妻が最初の鑑賞でサウンドトラックを買った気持ちもわかる。

妻から事前に聞いていたのは、本作が多彩な切り口から楽しめること。だが、その切り口が何なのかは観るまでは分からなかった。そして観終わった今は分かる。それは例えば家族の愛だったり、ハンディキャップを持って生まれた方への真の意味の配慮だったり、挑戦する人生への賛歌だったり、19世紀には厳然とあった差別の現実だったり、夫と妻の間の視点の違いだったり、身分を超えた愛だったり、演劇史からみたサーカスの役割だったり、米国のエンターテイナーの実力の高さだったり、あまりCGを感じさせない本作の撮影技術だったり、いつのまにか日本のテレビから消えた障がい者だったり、本作の場面展開の鮮やかさだったり、事実を脚色する脚本の効果だったり、SING/シングのシナリオと本作のシナリオが似ていることだったり、YouTubeで流れるメイキングシーンを観たくなるほどの本作の魅力だったり、さまざまだ。

そのすべての切り口から、本作は語れると思う。なぜなら本作は、限られた尺の中で視点のヴァリエーションを持たせることに成功しているからだ。メリハリを持たせているといってもよい。本作の尺は105分とそれほど長くない。そんな短い時間の中であっても構成と映像に工夫を凝らし、これだけたくさんの切り口で語れるような物語を仕上げている。その演出手法は見事だ。

本作はどちらかといえば物語の展開を楽しむ類の作品ではない。19世紀のアメリカで異彩を放ったP・T・バーナムの生涯をモチーフとしているが、彼の生涯は詳細に語らず、端折るところは大胆に端折っている。特に、バーナムと妻のチャリティの出会いから子を持つまでの流れを「A Million Dreams」の曲に合わせて一気に描いているシーンがそうだ。曲の一番を子役の二人に歌わせ、そのあと、ヒュー・ジャックマンがふんする青年バーナムとミシェル・ウィリアムズの演ずるチャリティの声が二番を引き継ぐことで、観客は視覚と聴覚で二人の成長を知る。しかも、この流れの中で挟まれるシーンは、チャリティが身分の違うバーナムに一生をかけて添い遂げようとする意志の強さと、バーナムの上流階級を見返したいとの反骨の心を観客に伝えている。

本作には上に挙げたシーンのように、登場人物の視点や心の揺れを画面の動きだけで表す演出が目立つ。それによって映像の中に多種多様な物語をイメージとして詰め込んでいるのだ。だからこそ、上に挙げたようなさまざまな切り口を本作の中に描写できるのだろう。

私は先に挙げた切り口のうち、三つほどが特に印象に残った。それを書いてみたい。

まずは、障がい者の取り上げ方だ。かつてドリフターズがやっていた「8時だョ!全員集合」では何度か小人のレスラーがでていた。ところが、最近はそういった障がいのある方を笑うような番組は全く見かけなくなった。障がいのある方を笑うなどもってのほか、というわけだ。だが、もともとエンターテインメントとは、本作でもバーナムが語っていたように猥雑で日常には出会えない出来事を楽しめるイベントだったのではないか。障がいのあった方でも、喝采と拍手でたたえられるような場。観客が彼らを笑うのではなく、彼らが観客を笑わせる。それこそがエンターテインメントの存在意義ではないかと思うのだ。だからこそ、彼らが一団となって自分が自分であることを高らかに歌い上げる「This is me」がこれだけの感動を呼ぶのだ。

本作には大勢のフリークスと呼ばれる人々が登場する。体の一部に障がいをもち、普段は日陰に追いやられていた方々だ。本作に登場する障がい者のうち、犬男やヒゲ女、入れ墨男などは、特殊メイクだろう。だが、当時人気を博した親指トム将軍を演ずる方と巨人を演ずる方は、実際に小人症と巨人症を患いつつ俳優として糧を得ている方だと思われる。かつて「ウィロー」という、小人の俳優がたくさん出演する映画を劇場で観た。今の日本に、こういうハンディキャップを持った方々の活躍する場があり、エンターテインメントとして成立っていることを私は寡聞にして知らない。スポンサーに配慮しての、リスクを考えてのことなのかどうかも知らない。もしそうだとすれば、もし日本の一般的な娯楽であるテレビに昔日の勢いが失われているとすれば、そういう見せ物的な要素が今のテレビから失われたからではないだろうか。

もちろん、障がい者もさまざまな人がいる。人によっては表に出たくないと思う人もいるだろう。だが逆に、人前に出て自分を表現し、賞賛を受けたいと思う障がい者だっているはず。障がい者だからといって十把一絡げにあつかうのはどうだろう。本作にも、彼らのようなフリークスたちが、バーナムサーカスに入って初めて本当の家族を得たというセリフがある。とすれば、そういう場をもっと作っても良いと思うのだ。エンターテインメントとはお高くとまった娯楽であっても良いが、同時に猥雑で珍しいものという側面もなくてはならないはず。アンダーグラウンドで後ろ暗い要素は全て排除され、インターネットに逃げてしまった。それが今のテレビがオワコン扱いを受ける原因だと思う。本作は、今の我が国のエンターテインメントに足りないものを思い出させてくれる。

続いては、バーナムがパートナーのフィリップをバーでスカウトするシーンだ。「The Other Side」のナンバーに乗って二人が丁々発止のやりとりを繰り広げる。本作には記憶に残るシーンが数多くあるが、このシーンもその一つ。ミュージカルの楽しさがこれでもかと堪能できる。カクテルバーのフレアショーを思わせるようにグラスとボトルが飛び交う。今の地位を捨てて冒険しようぜと誘うバーナムと、上流階級に属する劇作家の地位を盾に拒むフィリップ。スリリングなグラスのやりとりに対応して、「The Other Side」の歌詞は男の人生観の対決そのものだ。もちろん人によって価値観はさまざま。どう受け取るかも自由だ。私の場合は言うまでもなくバーナムのリスクをとる生き方を選ぶ。バーナムが今もなお名を残す成功者であり、彼の後ろには何百人もの失敗者がいることは承知の上で。それは本作が多面的な視点で楽しむことができるのと同じだ。全ては人生観の問題に帰着する。でも、それを差し置いてもこのバーで二人が掛け合いを演ずるシーンは心が躍る。すてきな場面だと思う。

あと一つは、結婚とは夫婦の感じ方の違いであることだ。バーナムは先に書いたとおり、成功に前のめりになる人物だ。リスクをとらない人生などつまらないと豪語し、フィリップを自らの生き方に巻き込む。だが、奥さんのチャリティはバーナムとは少し違う。彼女にとって成功はどうでもいいのだ。彼女は夫のバーナムが夢を追う姿に惹かれるのだから。そのため、バーナムが成功に浮かれ、夢を忘れた姿は見たくない。フリークスの仲間や家族を置いたまま、欧州から招いたジェニー・リンドとの興行に出かけるバーナムには夢を忘れて成功に溺れる姿しか感じない。そして、リンドとバーナムにスキャンダルの報道がでるに及んでチャリティは家を出てしまう。チャリティにとってみれば成功とはあくまでも結果に過ぎない。結果ではなく、経過。理想を見る男と現実を見る女の違いと言っても良いかもしれない。

つまり、本作はただ無責任にバーナムのような投機的な生き方をよしとする作品ではない。それとは逆のチャリティの価値観を置くことでバランスをとっている。それに応えるかのようにバーナムは最後までジェニー・リンドからの誘惑に揺るがず、妻子に操を立て続ける。彼が娘たちと妻を慈しむ心のなんと尊いことか。本作、そして主演のバーナムに魅力があるとすれば、この点だろう。山師の側面と家族に誠実な側面の釣り合いがとれていること。自らペテン師と大書されたシルクハットをかぶる姿も彼からうさん臭さを払拭している。

不具のフリークスたちをたくさん抱えてはいても、根本的に彼の側の人物で悪く書かれる人は登場しない。外見は中身の醜さに比例しないからだ。むしろ、つまらぬ差別意識で垣根を築こうとする上流階級の心の狭さこそが本作においては醜さの表れなのだ。本作は、一見するといびつな人物が多数登場するキワモノだ。だが、実は本作はあらゆるところでバランスをとっているのだ。それこそが本作を支える本質なのだと思う。

バーナムとチャリティは、身分の差を乗り越えて結ばれる。もう一組、身分の差を乗り越えて結ばれるカップルがいる。フィリップとアンだ。見た目や身分の壁を取っ払おうとする本作の試みがより強調されるのが、ザック・エフロンが演ずるフィリップとサーカスの空中ブランコ乗りアンにふんするゼンデイヤが夜の舞台で掛け合うシーンだ。演目に使うロープを使って二人が演ずるダイナミックな掛け合いは「Rewrite The Stars」のメロディに合わせ、サーカスを扱う本作にふさわしい見せ場を作る。ここも本作で見逃せないシーンの一つ。バーナムがとうとう義父と分かり合えなかったように、フィリップもアンとの恋を成就させるため両親と縁を切ってしまう。このシーンは、私が妻と結婚した頃のさまざまなことを思い出させる。立場は逆の。それもあって本作は私を魅了する。

本作はとにかく歌がよいと冒頭に書いた。それらの歌は、歌い手の姿が映えていればなおさら輝く。挿入歌が良い映画はたくさんある。だが、それらはあくまでも映像の後ろに流れる曲にすぎない。本作は演者がこれらの曲を歌いながら演ずる。曲はBGMではなく、作品そのものなのだ。全ての歌い手が輝いている。(ジェニー・リンドがステージで歌うシーンはさすがに吹き替えだったが。ミッション・インポッシブルであれだけのアクションをこなしていた彼女がこれだけ歌ったとすれば、それこそ感嘆する)。特にタイトルソングと上に書いた「This is me」はフリークスが勢ぞろいして見事なダンスを見せながら歌われるのだからたまらない。

欧米はミュージカルが芸術として欠かせない。我が国も宝塚や劇団四季、その他の劇団が頑張っているとはいえ、まだまだ主流にはなっていない。それは、テレビであまりミュージカルが流れてこないためもあると思う。たぶん、ミュージカルの魅力に気付いていない日本人はまだまだ多いはず。

今の私はジャニーズ事務所に何も含むところはない。秋元康さんにも。なので、ジャニーズ事務所や秋元康さんに逆にお願いしたいのだが、所属のアイドルの皆さんにはミュージカルで遜色なく歌い踊り演じられるぐらいのレベルになってほしいと思う。そうすれば、本作のようなレベルの作品が日本から生まれることだって夢ではなくなるのだから。

それこそ、何度でも本作をリピートしてみて欲しいと思う。

‘2018/03/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


スター・ウォーズ/最後のジェダイ


エピソード7に始まる新三部作はスターウォーズサーガを完全に再生させた。それだけでなく新たな魅力まで備えて。

エピソード4-6までの旧三部作はあまりにも偉大だった。そのため、なぜダース・ヴェイダーがうまれたのかを描くエピソード1-3の三部作は、4-6に矛盾なくつなげる使命が課せられてしまった。その使命は、エピソード1-3を監督したジョージ・ルーカスの想像力の足かせになったのだろう。観客の意表をつくストーリーは影をひそめ、最新の撮影技術の披露、もしくは、ジャー・ジャー・ビンクス、または笑えるくらい敏捷なヨーダといったキャラに頼るしかなくなってしまった。

そこでジョージ・ルーカスが下した決断がすばらしい。まず、ルーカスフィルムをディズニーに売却したこと。さらにスターウォーズに関する一切の権利を委ねたこと。これはジョージ・ルーカスのなした素晴らしい英断だったと思う。なぜなら、この決断によってエピソード7以降のストーリーに命が吹き込まれたからだ。権利がルーカスから離れたことによって、必ずしもルーカス自身が監督しなくても良くなった。そのため、監督の人選が自由になった。その成果が、エピソード7はJ.J.エイブラムス、本作はライアン・ジョンソンという若い監督の抜擢につながった。しかも、別々の監督に委ねたことは、それぞれの作品に変化を加えただけでない。スターウォーズサーガに新たな可能性も加えたのだ。優れた外伝の製作として。言うまでもなく「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のことだ。続いて「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」まで公開予定というのだからファンにとってはたまらない。

たぶん、ルーカス監督がエピソード1-3ではなくエピソード7-9を監督しても素晴らしい作品に仕上がったことだろう。だが、一人ではスピンオフ作品までは手が回らなかったはずだ。その意味でもルーカスはスターウォーズサーガの今後にとってベストの決断を下したと思う。

ルーカスの決断が優れているのは、ただ続編の製作に繋がったことではない。世代をこえてサーガが伝わるきっかけを作ったことを評価したいのだ。だからこそ、エピソード7のJ.J.エイブラムス監督とエピソード8のライアン・ジョンソン監督が伝統を重んじ、そこにさらに新たな魅力を加えてくれたことがうれしいのだ。二人は師であるルーカスからスターウォーズサーガを受け継ぎ、弟子として申し分のない仕事をした。そして、万人に納得させることに成功した。

師匠から弟子への伝承。それは、本作そのもののテーマでもある。エピソード7はレイとルーク・スカイウォーカーの邂逅で幕を閉じた。本作ではプロローグから間も無く二人の関係が始まる。これ以上はストーリーを明かすことになるので書かないが、旅立って行くレイに対してこのようなセリフが投げかけられる。「師とは弟子に乗り越えられるためにある」と。

弟子であるライアン監督がそのようなセリフを仕込み、公開する。如実に世代交代を感じさせるシーンだ。

ライアン監督がそう自負したくなるのもわかる。本作はとにかく脚本がいい。今までの8作の中で一番といっても良い。何がいいかというと、シリーズにつきものの予定調和を排する姿勢だ。予定調和こそシリーズものの最大の敵。その排除に腐心した跡が本作から感じられる。エピソード7は、世代交代して最初の作品として、世界観の踏襲に慎重に配慮する姿勢が顕著だった。本作では前作がよみがえらせた世界観に乗りながらも、観客の期待を良い意味で外す演出が目立つのだ。しかもことさらに旧三部作を匂わせつつ、絶妙にはぐらかせる。絶妙に。

たとえばエピソード5の「帝国の逆襲」では、ヨーダの元で修行するルークが描かれる。それは主にフォースを体得するための努力だった。しかし、本作にはそういう努力のシーンが少ない。ルークはレイをベン・ソロすなわちカイロ・レンに匹敵するフォースの持ち主と恐れる。つまり、努力よりも素質が重んじられる。その違いは、ルークが修行中に闇へとつながる洞穴に赴くシーンで示される。ルークは洞穴でダース・ヴェイダーの影を憎しみに任せて切ってしまう。あのシーンに対比する本作のシーンは、映像技術の進歩を感じさせながら、よりフォースの本質に迫っている。素晴らしいシーンだ。そこではフォースの力とその根源を示し、なおかつ観客には筋書きに通ずる深い示唆を与えているのだ。

本作において、師に迫るための努力はそれほど重要とされない。グルやメンターはジェダイには不要なのだ。むしろ、フォースの力とそれを操る素質に重きが置かれている。さしずめ、弟子のライアン監督が師ルーカス監督を凌駕する本作を生み出したのは、飛躍的に進歩した撮影技術の力が大きいことの証しだとでもいうように。

ファンにとって新三部作の今後に不安はない。それどころか、スターウォーズサーガ自体が世代をこえて愛されることも本作で約束されたのではないか。新しく生まれ変わったスターウォーズサーガの今後に曇りはない。

かつて私が映画にはまった中学生の頃。旧三部作のノベライズ版も買いそろえ、エピソード7以降のストーリーが発売されているとのうわさを聞き、読みたさに心焦がれたことがある。あれから30年。本作でそれが叶った。こんな幸せなことはない。願わくは、私が死ぬ時までスターウォーズサーガの続きに耽溺させてもらえれば。

もはやその楽しみに預かれないレイア姫。本作のエンドクレジットにも以下の言葉が登場する。

in loving memory of our princess
Carry Fisher

いい演技だった。安らかに。

’2018/02/08 ムービル


DESTINY 鎌倉ものがたり


本作を観終わった私が劇場を出てすぐにしたこと。それは鎌倉市長谷二丁目3-9を検索したことだ。その住所とは作中で一色夫妻の住む家の住所だ。一色夫妻とは、堺雅人さん扮する一色正和と高畑充希さん扮する妻亜紀子のこと。作中、何度も映し出される一色家の門柱にこの住所が記されている。私はその番地を覚えておき、観終わったら実際にその番地があるのか検索しようと思っていたのだ。何が言いたいかというと、本作で登場する二人の家が実際に鎌倉にあるように思えたほど本作が鎌倉を描いていたという事だ。

その住所はおそらく実在しない。二丁目3-6と3-11は地図から地番が確認できるが、二丁目3-9の地番は地図からたどれないからだ。Googleストリートビューで確認すると、3ー9と思しき場所に建物は立っているのだが。ただ、ストリートビューでみる二丁目3-9の周囲の光景は、本作に登場する二丁目3-9とは明らかに違っている。それもそのはず。本作に出てくる鎌倉の街並みは、現代からみればノスタルジックの色に染まっているからだ。パンフレットに書いてあった内容によると、エグゼクティブプロデューサーの阿部氏からは1970-1980年代の鎌倉でイメージを作って欲しいと監督に依頼したようだ。つまり、その頃の鎌倉が本作の舞台となっている。

そのイメージ通り、冒頭で新婚旅行から帰ってきた二人の乗っているクラシックカーは江ノ電と海岸に挟まれた道を走り、江の島をバックにして有名な鎌倉高校前の踏切を折れ、山への道を進む。その光景の中には全く現代風の車は登場しない。走っている江ノ電の正面にある行き先表示は電光掲示板で、あれっ?と思ったが、どうもその車両は1000系のように思えた。調べてみると1000系の車両は1979年にデビューしたようだ。スクリーンで電光掲示を掲げた江ノ電を見た瞬間、本作の時代考証に疑問を抱きそうになったが、その車両ならギリギリ許されるのだろう。

本作はあちこちでVFXを駆使しているはず。ところが、公式サイトの解説によれば冒頭の車のシーンの撮影には苦労したようだ。それはつまりVFXに安易に頼らず、なるべく生のシーンを撮影しようという山崎監督の意識の高さの表われなのだろう。本作は山崎監督の抱く世界観が全編に一貫している。その世界観とは、原作の絵柄を生かしながら、懐かしいと思われるような鎌倉の街並みを再現しつつ、魑魅魍魎が登場してもおかしくない世界でなければならない。そんな難しい世界観の創造に本作は見事に成功している。監督が本作で作り上げた世界観が私にはしっくりとしみた。なお、私は原作は読んだことがないので、本作のイメージがどの程度作風を思わせる仕上がりなのかはわからない。でも、監督がその世界観の再現に相当苦労したであろうことは伺える。

何しろ、本作に登場する鎌倉は現実と幻想のはざまにある鎌倉なのだから。リアルすぎても不思議すぎても駄目。その辺りのさじ加減が絶妙なのが本作のキモなのだ。日本の古都には狐狸、妖鬽の類がふさわしい。京都などその代表といえる。鎌倉は京都と同じく幕府を擁した過去があり、寺社や大仏などあやかしのものを呼び寄せる磁力にも事欠かない。そのため、鎌倉にあやかしがうろついていても違和感がない。ただ、私は本作を観て、鎌倉とあやかしのイメージが親しいことに初めて気付かされた。今までまったくそのことに気づかなかったが、私にそのことに気づかせるほど本作の映像は絶妙だったのだ。

本作でみるべきは、鎌倉を装飾する監督のセンスだと思う。全編にわたって、鎌倉の何気ない路地や、緑地、砂浜が登場する。そこかしこにコマい魔物がうろちょろするのだ。そして現実も幻想もまとめて縫い付けるように走る江ノ電。本作には多くの伏線が敷かれている。その一つが一色正和の鉄道模型趣味なのだが、江ノ電が本作の映像の核になっていて、鉄ちゃんにもお勧めできること請け合いだ。

また、江ノ電が現世と黄泉を1日一度運行しているという設定もいい。海岸の砂浜にある現世駅はとても現実にあり得ない設定のはずなのに、江ノ電ならではの雰囲気をまとっていた。駅が好きな私でも許せるようなたたずまい。運行される車両はタンコロという鉄ちゃんには有名な車両。今も一両が由比ヶ浜で静態保存されている。そして、本作で現世駅が設置されている場所もたぶん由比ヶ浜にあるのだろう。砂浜に海岸と平行に軌道が延び、その先は黄泉へと通ずる渦がまいている。こういう江ノ電の使い方もとても興味深い。

本作は冒頭から一色夫妻の仲の睦まじさが全開だ。それはもちろん、終盤に正和が黄泉へと亜紀子を連れ戻しに行く展開の伏線になっている。伏線は他にもたくさんある。例えば夜店で亜紀子が正和に買ってとねだる鎌倉彫りの盆や、納戸の中で亜紀子が見つける像など、全てが黄泉の国でのクライマックスに向けて進んで行く。

黄泉の国に向けて走る江ノ電のシーンは本作でも印象に残る美しい映像が見どころだ。パンフレットによれば中国にまで赴いてイメージを作って来たそうだ。その甲斐があって、とても特徴的な黄泉の国のイメージに仕上がって居ると思う。死神によると黄泉の国のイメージは見た人が心に抱く黄泉の国のイメージが投影されるらしい。そうやって語り合う正和と死神の背後に映り込む黄泉とは、実は私自身が黄泉に対して抱くイメージなのだろうか。実は一緒に観た妻や娘にはスクリーン上の黄泉が違った風に映っているのだろうか、と思ったり。そう思わされる独創的な黄泉の国だったと思う。昭和30-40年代の家屋が斜面に積み重なったような黄泉のイメージとは、実にステキではないだろうか。

ただ、本作の美術や衣装、小道具をはじめとした世界観は良かったのだが、全体的な構成はアンバランスだったように思えた。もっと言えば前半部分が少し冗長だったかな、と。それは本作が原作のエピソードを複数組み合わせたことによるもので、仕方なかったかもしれない。例えば、一色正和が事件を推理し解決するエピソード。このエピソードが貧乏神への伏線となり、亜紀子の遺体探しのエピソードにしか掛かっておらず、本編全体にかからないなど。

それもあってか、本作の豪華な俳優陣の演技に統一感が感じられなかったのは残念だ。確かに一色夫妻を演じる二人はとてもよかった。でも、どことなく全編につぎはぎのようなぎこちなさが感じられたのだ。でも、それはささいなこと。娘たちはとても本作を気に入ってくれた様子。今までに観た日本映画で二番目に好きといっていたくらいなので。妻も私も本作はよかったと思う。

ここまで鎌倉を妖しく魅力的に描いてくれたからには、行きたくもなるというもの。その際はぜひとも事前に原作をしっかり読んでから散策したいと思う。

’2018/01/03 TOHOシネマ日劇


ブレードランナー 2049


不協和。

本作を一言で表すとするならば、この言葉がふさわしいのではないか。

本作を通して一貫しているのは不協和だ。それは背後で流れているスコアからしてそう。不協和音が全編にわたって流れ続け、観客は嫌が応にも本作のテーマが不協和であることを意識させられる。生物と技術。記憶と体験。人類と未来。自我と記憶。人類とレプリカント。誕生と成長。外界と内界。感情と論理。本作で取り上げられた対比のすべてが不協和に満ちているのだから。

本作の舞台は前作から30年後の2049年に設定されている。あらゆる過去のデータは2022年に起こった大停電によって損傷し、過去と現在の間に不協和が横たわった未来。だが前作と本作の間に断絶はない。特に、日本語が氾濫しオリエンタリズムに満ちた猥雑な未来観。前作で描かれた衝撃的なビジュアルは本作にも生かされている。強力わかもとは見つけられなかったけど、2049年のロサンゼルスには日本語や英語以外にハングルやキリル文字も氾濫し、より言語的に不協和だ。ロサンゼルス市警の掲示には日本語が書かれ、主人公がアクセスするDNAデータベースは日本語の音声でエラーメッセージを発する。

前作を踏襲し、より猥雑で救いようのない不協和がスクリーンを覆う本作の世界観は、前作で受けた新鮮さこそ喪われているものの、シンギュラリティを視野に入れつつ今を生きるわれわれに一層切実に迫ってくる。むしろ1982年に受けた衝撃よりも、今のわれわれのほうがブレードランナーの未来観をよりリアルに受け止められるのではないか。その意味でも、前作を踏襲し、よりリアルで頽廃な未来観として前作を凌駕していることは評価したい。

前作でレプリカントを製造していたタイレル社は倒産し、今はウォレス社が覇権を握っている。遺伝子組み換え作物を開発し、世界の食糧危機を救ったことでメガ企業となったウォレス社。農作物だけでなく新型レプリカントNexus9の製造まで一手に引き受けるまでの企業になっている。本作であえて悪を探すとすればこのウォレス社だ。だが、悪?本当にそうだろうか。もはや子供向けのアニメですら、わかりやすい善悪二元が出てこない今、ウォレス社を悪と名指しできる根拠はどこにあるのだろうか。多分、見つけられないはず。ウォレス社を悪と言い切る根拠はない。たとえば、今のわれわれがGoogleを悪と名指せようか?マイクロソフトを、アップルを、モンサントを、Facebookを? ウォレス社もまた同じなのだ。ウォレス社はただ、企業の「さが」である自己成長にまい進しているだけにすぎない。なおかつ、レプリカント増産や遺伝子組み換え作物で人類の未来に貢献する大義名分まで掲げている以上、何を非難されるいわれがあろうか。つまり、使い古された世界征服願望の視点ではウォレス社は語れないのだ。ウォレス社とは上に挙げた企業のように、ITで世を便利にし、農薬で農作物の増産に貢献する大企業と何も変わらないのだ。ITにも農薬にもデメリットはある。だが、それらの企業活動が大多数のニーズに合っていることも間違いない。メリットだってあるのだ。そうである以上、ウォレス社をどうして悪と名指しできようか。善と悪が水と油のようにきれいに分かれた状態は不協和とはいわない。価値観がまじりあい、絶え間ないノイズとなっている状態こそが不協和と呼べるのだから。

ただ、不協和に覆いつくされた2049年の世界で、ウォレス社内のデザインだけが異彩を放っているのは確かだ。猥雑なオリエンタリズムや広大な廃棄場のイメージとは対極の、不協和を一切排除した洗練されたデザイン。その対称の鮮やかさはとても印象に残る。水面の揺らめきが壁と天井に反射するウォレス社長の応接室、幾何学に整列したデータベースアーカイブのデザイン。全てが洗練され、機能美にあふれている。特にウォレス社長の応接室のセットは、水面の揺らめきのイメージとともに、本作が残す余韻として永きに渡って映画史に残る気がする。ところがそこにも不協和が隠れているのだ。水面の揺らめきは、異なる波長の集合体だ。一見するとやさしくゆらめくそれらは、一つ一つが違う波長が集まっている。つまり不協和。幾何学的な美しさが主流だった従来のSFデザインに猥雑さを持ち込み一石を投じたのが前作だったとすれば、本作が持ち込んだ洗練された不協和のデザインこそは、昇華された次代のデザイン思考だともいえる。洗練された不協和こそが、整列し整頓された機能美になり替わって未来のレイアウトの主流であること。それを本作はさりげなく提唱しているようだ。その証拠に、整えられた機能美のイメージは、本作にはほとんど登場しない。冒頭の太陽光発電施設が描く円の模様は砂塵にかすみ、ウォレス社の擁するデータベースアーカイブは、立ち入るものがほぼおらず、入り口が故障している。そんな些細なエピソードすらも、幾何学のデザインの終焉を語っている。本作が主張する未来が不協和に満ちている事を示して。

本作の主なプロットは、ウォレス社がレプリカントの生殖を目指すため、レプリカントが産んだ奇跡の子を手に入れるために謀略をめぐらせるというものだ。ウォレス社とはレプリカントを大量に生産する会社のはず。では、レプリカントは自動車やロボットと同じく量産すればいいのではないか。ところがウォレスの構想は、レプリカントに生殖機能を求める。レプリカントが生殖することでさらにレプリカントは増殖し、人類にも貢献できるのだ、と理想を掲げる。本作でウォレスは語る。人類の発展の陰には、安価で大量に使える労働力があったことを。それがレプリカントだとすれば、彼の主張はもはや奴隷制への回帰に過ぎない。ここで観客は、レプリカントと人間の違いが何かとの問題を突きつけられることになる。

大量生産とは規格だ。つまり幾何学の公式で説明のつく概念だ。でも、ウォレスの執務室のデザインは、幾何学の機能美ではなく、柔らかな不協和で包まれている。ウォレス社のデザインが幾何学から柔らかな不協和に変化していること。ここからは、大量に作られたレプリカントから、生物の本質であり混沌である生殖へと立ち返ろうとする意思を象徴している。それは矛盾にも通じる。われわれが感じる根本的な違和感も同じ。そもそもレプリカントが生殖能力まで手に入れたとすれば、レプリカントと人間の境目はどこにあるのだろうか。その疑問は不協和へとつながり、われわれを一層混迷に陥れる。

いったい、われわれはどこに向かおうとしているのか。本作が突きつけるテーマは深刻だ。技術革新の恩恵に乗り、繁栄を謳歌してきた我らが人間族。技術は果たして人類を幸せにしてきたのだろうか。そして、今後も繁栄を約束してくれるのだろうか。 技術革新の旗手として、率先して技術革新に邁進してきたアメリカ自身があまりにも速い革新のスピードに恐れを抱いていないだろうか。

デッカードが潜む、廃虚と化したラスベガス。アメリカの繁栄の象徴ともいえる場所。ホログラムで歌うエルビス・プレスリーに、マリリン・モンロー。そしてフランク・シナトラ。その中で殴り合うデッカードとK。新旧の価値観が殴り合いとしてスクリーンで表現される。プレスリーの歌う「Can’t Help Falling In Love」を好きだというデッカード。アメリカが本当に幸せだったのはこの頃だったのではないか、との苦い問いかけが含まれたセリフだ。廃虚のラスベガスで飲み手を待ち続ける何百万本ものジョニー・ウォーカー。生身のデッカードの飼い犬。リアルをリアルで認識すれば事足りた世界の名残がここにある。

いまや、その世界は、記憶を創造できるアナ・ステライン博士の脳内にしかない。アナ・ステライン研究所で博士が現出させる緑の繁る林と、木漏れ陽の光。誕生パーティーでお祝いする子どもたち。降り落ちる雪の美しさ。もはやリアルではなくデータによる再現でしか体験できない過去の美しさ。アナ・ステライン博士も、本作のキーとなる人物。そして過去の豊饒な地球が博士にしか再現できない。そんな設定も何かを示唆しているようだ。

本作にはあまりにも多くの啓示が含まれている。あまりにも多くの警句と、あまりにも多くの哲学が。本作には何度も繰り返し見るだけの価値があると思う。ビジュアル的にもそう。現時点で最新の技術が惜しげもなく投入される。その技術のすばらしさはジョイが体現している。ジョイとは、本作の主人公のKのバーチャルガールフレンド。可動式のプロジェクタで投影されるだけだったが、ウォレス社のコンソールから最新版にバージョンアップすることで、実態をともなって外で持ち運べるようになる存在。あるときは街娼のマリエッティと同期して、Kとベッドをともにする。その同期のシーンがとてもリアルなのだ。

ただ、そのシーンにはCGも多用しているはずだが、実在の俳優の演技がベースになっている。俳優の演技があってこその本作であることを忘れてはならない。例えばジョイを演ずるアナ・デ・アルマスの可憐さは、特筆すべきだ。キリストめいた風貌のウォレスを演じたジャレッド・レトも本作に欠かせない存在感を放っていた。ウォレスに忠誠を誓うレプリカントのラヴを演じたシルヴィア・フークスの強靭かつ冷徹な演技も、その見事なファイティングシーンとともに記憶に残る。また、アナ・ステライン博士に扮したカーラ・ジュリの無垢な容姿は、本作にあって唯一のみずみずしいシーンにとてもマッチしていた。さらに、前作から続けてのハリソン・フォードは、本作の重要なテーマである過去への回顧を表現するに欠かせない。その重厚感と存在感はさすがというほかない。そして最後に主人公Kを演ずるライアン・ゴズリングである。レプリカントにふさわしい無表情を装いつつ、わずかな顔の動きだけでKの内面を表わす演技。抑制の中にレプリカントの悲哀と生存への意志を込めた演技は、素晴らしいと思った。抑制されたからこそ、とあるシーンでKが感情を爆発させるシーンに効果が現れるのだ。

本作がまだ生身の俳優によって演じられていること。それが救いだ。すでに本作でもCGが演じているに等しいシーンは多々ある。例えばジョイのシーンとか。それが今後は遠からず、CGの登場人物、AIの俳優、AIの撮影監督にAIの製作総指揮という日だって来ないとも限らない。その時、人間は彼らの作った娯楽に飼いならされるのだろうか。ここ最近、原爆開発についての本や、人工知能が人類を滅ぼす危険を唱える本など、かなり悲観的な本を読むことが多い。それらの本を読んでいると、上にも書いたような技術の進展が人間を追い越すシンギュラリティについて悲観的な予想しか湧いてこない。その日にわれわれは何を思うのか。本作のような未来は果たして防げるのか。2049年とは、シンギュラリティが起こるとされる4年後だ。私はその時、何をしているのだろう。

’2017/11/24 イオンシネマ新百合ヶ丘