テニスはするのも観戦も好き。だから本作は映画館でチラシを見た時から絶対に行こうと思っていた。封切り日にも鑑賞に行きたかったぐらいに。ところが仕事が立て込んでいて十日も我慢した。最近はテニスの四大大会の観戦もできていない。大坂なおみ選手の全米オープン優勝も、錦織選手の準決勝の試合も見逃した。かつてのように朝まで観戦する体力も時間もなくなりつつあるからだ。だからこそ、本作とスクリーンで出会うのがとても楽しみだった。そして、本作が期待を裏切らぬ内容だった。うれしい。

本作の内容はとても素晴しかったと思う。例えるなら、上質のスポーツノンフィクションを読んだ時の気分だろうか。『Sports Graphic Number』のような。克明に描かれたアスリートの心の動きが、試合の展開と一致する。スポーツノンフィクションの妙味とはそこにあると思う。

わたしが熱心にテニスを観ていた頃、強かったのはジム・クーリエやピート・サンプラス、アンドレ・アガシだ。ガブリエラ・サバチーニはファンだったし、シュティフィ・グラフや伊達公子の試合はよく観ていた。ベッカーやレンドル、エドベリが晩年を迎えつつあり、ボルグはとうに引退していて、マッケンローは引退するかしないかという時期だったと思う。当時の私にとって、ボルグとは伝説の人物。長髪をヘアバンドで縛った聖人のような風貌だけがインパクトに残り、私の中で固定されていた。固定されたイメージでしか知らなかったといってもよい。一方、私が知るマッケンローは、試合中に吠え猛ける姿もたまに見られたとはいえ、すでに角は取れており、悪童と呼ばれた面影はほぼ消え失せていた。

だが、遅れて来たテニスファンである私も、1980年のウインブルドン決勝がテニス史に残る名勝負であったことは知っていた。ウインブルドン五連覇が掛かったボルグに新生マッケンローが挑む構図。壮絶なタイブレークを耐えたマッケンローがフルセットの勝負に持ち込み、最終セットでボルグが辛くも勝利を手にした白熱の試合内容。後年、『YouTube』でその試合の一部を観たが、名勝負と呼ばれるにふさわしい内容だったと思う。

本作はその名勝負に焦点を当てている。試合そのものだけでなく、試合を戦った二人の人生にも光を当てている。氷の男と呼ばれたボルグと悪童と呼ばれたマッケンロー。彼らがテニス界で最高峰の戦いに臨む際、その胸中にあったものは何か。頂点を争う者にしかわからない葛藤と苦しみ。氷の男、または悪童と呼ばれた男はどのようにして作り上げられたのか。彼らの少年時代を描くことで、勝負の背景にあったドラマを映画として表現したのが本作だ。

絶妙な脚本によって、私たちは思い知る。壮絶な試合の裏側に戦った二人だけが知るそれぞれの人生があったことを。勝利者だけが知る真の孤独。あの試合が語り継がれるべきは、試合内容だけではない。二人のテニス選手の人生も語られるに値するのだ。その二つを純粋な形で抽出したことで、本作は質の高い映画として成功が約束された。

私が今までに読んだことのあるテニスプレーヤーの伝記は、アーサー・アッシュのそれぐらい。それとてだいぶ昔だし、ボルグやマッケンローの評伝は読んだことがない。なので、私には本作の描写の全てが新鮮だった。特に、本作で描かれるボルグの少年時代。それは、私の中に居座っていた聖人=ボルグの印象を全く変えた。

すぐに逆上し、自分から勝負に負けてしまう悪童。それが少年時代のボルグ。その姿は悪童として名を知られていたマッケンローと比べても引けを取らない。本作にも唾を吐き、審判や観客に悪態をつくマッケンローが幾度となく登場する。ボルグの子供時代もまさにそう。審判のジャッジに激昂し、コーチに歯向かう。荒れる二人が交互に描かれる。

そこからどうやってボルグは冷血と呼ばれるまでになったのか。それは、コーチのレナートが辛抱強く教え諭し、それによくボルグが応えたことで作り上げられた。師弟が衝突と叱責を繰り返しながらも、ついにはマシンのようなと称されるルーチンワークを作り上げ、常勝を手にしていく様子がテンポよく描かれる。その中で観客は氷の男と呼ばれたボルグのイメージが実はかりそめのイメージに過ぎず、実はボルグとは触れればやけどするマグマのような熱さを秘めていたことを知るのだ。実は二人の対決とは、氷VS炎どころか、炎VS炎。ボルグがウインブルドン五連覇を達成できたのも、自らの内に燃え盛る炎を完璧に押さえ込んだ強烈な自制があってこそ。

本作にもレナートが「一ポイントごとに集中しろ」とボルグに言い聞かせるシーンがある。それは言うのも聞くのも簡単。だが、これほど難しい実践もない。師の教えを鉄の意志で実践しきったことがボルグの強さの秘密だったのだろう。本作では、ボルグの役を年齢に応じて三人が演じ分けている。どの俳優もボルグの各年代によく似ているのだろう。最も年若のボルグはボルグの実の息子が演じているのだから恐れ入る。念入りにボルグの成長を描きたかった監督の意図が伝わってくるし、それは成功している。

ボルグが自らを懸命に律する姿は痛々しい。ウインブルドンで勝ち上がっていくにつれストレスをため込み、コーチやフィアンセにあたるボルグ。そこには勝負に勝ち続けたあまり、孤独に苦しむ男の苦しみがある。頂点を極めた者だけが知る、決して理解されない痛み。どれだけ華やかな場に呼ばれ、賞賛の声を浴びても、決して癒やされない苦しみ。本作のエピローグで触れられるが、1981年のウインブルドンで再び合間見えた両者は、再び死闘を繰り広げ、マッケンローが雪辱を果たす。そしてボルグは26歳の若さで引退を表明する。(本作のテロップでは同じ年に引退とあったが、ウィキペディアでは引退が1983年と書かれていた。)それはツアー方式の変更という別の理由もあったようだが、ボルグは燃え尽きたと解釈した方がしっくり来る。燃え盛る炎を自制の力で冷やし続けることにうみ果てたと考える方が。

本作で、悪態をつくマッケンローをテレビで見ながら、フィアンセのマリアナ・シミオネスクが「集中力を切らしているみたい」とつぶやき、それに対してボルグが「いや、違う」と返すシーンがある。猛るマッケンローにかつての自分の姿を重ねたボルグ。そこから、追想シーンに入ってゆく流れは鮮やか。コーチのレナートが二人のかつてを思い返すシーンや、マッケンロー自身が子供時代の神童ぶりを振り返るシーンなど、本作のあちこちに追想シーンが挟まれる。それらのシーンが二人の内面を立体的に彫り上げる効果を挙げているのは言うまでもない。

また、本作にはたくさんのテニスのラリーも描かれる。ストーリー描写とテニスシーンのバランスは絶妙。あらゆる角度からサーブ、ストローク、ボレー、そしてスマッシュを描いていて観客を飽きさせない。また、テニスは選手のフォームが癖に出やすい。マッケンローやボルグも特徴的なプレースタイルを持っている。それを再現することは至難の業だったはず。私は実物のフォームとの違和感をそれほど感じなかった。それを編集とアングルの工夫と演技で違和感なく見せていたことは特筆できる。実際、本作を観た後に、『YouTube』で当時の試合を見返してみたが、やはり違和感は感じなかった。

そもそも二人の俳優がボルグとマッケンローを絶妙に演じているのだから、試合シーンがそっくりなのも当然。最初の登場では「あ、顔が違う」と少しの違和感を感じた。が、映画を見ているうちに、どんどん私の記憶の中の2人の容貌がスクリーンの二人の俳優によって塗り変えられていく。それほど、二人の俳優の演技はよく似ていた。マッケンローが登場するときはビリー・スクワイヤやブロンディーがガンガンに流れ、イケイケなマッケンローのイメージが観客の心に刻まれる。気持ちいいほど、監督の意図にはめられた自分がいた。観客冥利とはこのこと。エンドロールでは実際の二人や映画で使われたシーンの元となった写真が映され、観客は実際のボルグとマッケンローの容貌を取り戻す。この演出もまた心憎い。

本作でボルグを演じたスヴェリル・グドナソンと、マッケンローにふんしたシャイア・ラブーフがこれほどまでにハマった理由。それは忠実に言葉を再現していることだ。ボルグは自分のスウェディッシュを操り、マッケンローはアメリカンスラングを交える。そこにハリウッド大作にありがちな英語で押し通す傲慢さは皆無。本作の冒頭で、全仏オープンに出場するボルグが、カフェに入ってフランス語が話せないから、と英語で話すシーンがある。その流れのまま、本作も英語で押し通すのかと思わせておきながら、レナートコーチやマリアナとはスウェディッシュで話させるあたり、監督の確信犯としての洒落っ気を感じた。もしボルグが全編を英語で話したとすれば本作は台無しだ。エージェントとは国際共通語である英語。プライベートとや母国人とは母国の言葉。その辺りの言語の使い分けがとても自然だった。そこが私にとっては評価が高い点だ。冒頭に協力者としてスウェーデン大使館、デンマーク大使館、フィンランド大使館の名が出てくるが、さぞ和訳は大変だったと思う。また、マッケンローの荒れるスラングも、さぞこうだったと思わせるほど役にはまっていた。シャイア・ラブーフの映画ははじめてみたが、マッケンローという行ける伝説を演じるに、まさにはまり役だったと思う。

二人の俳優を固める脇役陣も見事。ボルグの少年時代を演じるレオ・ボルグはジュニア大会で優勝もしているボルグ本人の息子だそうだが、見事に父の子供時代を演じ切っていた。俳優でも食っていけるのではないだろうか。それと若い時期のボルグを演じていたマーカス・モスバーグ。荒れ狂うボルグを演じるだけに、彼の演技こそが本作の鍵を握っていたと言っても言い過ぎではない。もう一人、本作にとって重要な人物がいる。いうまでもなくボルグのコーチ、レナートだ。そのレナートを演じていたのはステラン・スカルスガルド。ハリウッド大作にも出演しており、私もスクリーン上でその存在に気づいた。その円熟の演技は本作に強力な説得力を与えていた。炎から氷へとボルグを変える錬金術師として、なくてはならない存在感を発揮していたと思う。

また、ボルグのフィアンセ、マリアナ・シミオネスクを演じたツヴァ・ノヴォトニーも素晴らしい。スウェーデンでは一流の女優さんだそう。初めてお見かけしたが、とても美しい。決勝戦でレナートコーチと一喜一憂するシーンがある。このシーン、実際の試合の映像も残っているのだが、まさにそっくり。ちなみに、実際の映像で映っているマリアナ・シミオネスクもとても美しい。わたしは実物のマリアナの美しさに心奪われた。女優に引けを取らないほどの容姿。当時、テニスを見ていたらファンになっただろうな。

こうした素晴らしい俳優をスクリーン上に映えさせたスタッフもお見事。本作は、私にとっては久々に観た北欧の映画。ハリウッド大作では味わえない、北欧の映画の魅力が詰まった一作だ。映画とスポーツの粋。それを一度に味わえる作品はそう多くない。そんな作品が北欧から登場したことこそ意味があるのだ。私は本作に巡り合え、とても幸せを感じている。

わたしは本作でテニスがさらに好きになった。そして、テニスの歴史にも興味を持った。そしてボルグとマッケンローの伝記を探してみた。すると、まさにそれにぴったりの本『ボルグとマッケンロー テニスで世界を動かした男たち』を見つけた。その本も読まねばなるまい。勝負や孤独の本質を掴むためにも。

‘2018/09/11 イオンシネマ新百合ヶ丘


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