映画館で泣いたのはいつ以来であろう。これほどまでに泣かされてしまうとは・・・・

本作は、ウォルト・ディズニーをメインキャストとし、ディズニー社が製作する映画である。なので、劇中がウォルト礼賛、ディズニー万歳のトーンで統一されていてもおかしくない。実際その覚悟をもってスクリーンに臨んだ。

しかし、私の予想は見事に裏切られた。少しでも白けた気分にさせられていたら、これほどまでに感動しなかったであろう。

本作では、メリー・ポピンズの映画化にあたり、どうしても映画化を実現したいウォルト・ディズニーと、それを激しく拒む原作者とのやりとりを通して、原作者がメリー・ポピンズに込めた思いが解き明かされていく。

頑固女として、ディズニー側の提案のことごとくをはねつける原作者。彼女が言い募る難癖は、音楽、キャスト、色使いなど、映画全般に及ぶ。それに対して苦悩する脚本家、音楽監督、そしてウォルト・ディズニーと秘書のドリー。原作者の心をとかして、映画化を実現するにはどうすればいいのか・・・。

本作の予告編やコピーでは、その謎はウォルト・ディズニーが解き明かすかのように受け止められる。しかし、本作はそんなミステリー仕立ての安易な構成には流れない。むしろ、映画の冒頭からその謎の答えは我々観客に提示されている。それはつまり、原作者の過去である。本作にとってキーとなる原作者の過去を辿るにあたって。回想シーンはほんのちょっぴりどころではない。頻繁に挿入される。現在の映画化作業の意見の応酬がが全体の6割とすれば、過去の映像が4割ぐらいにはなろうか。

過去と現在の映像がひっきりなしにシンクロしあう中、圧巻なのは過去、原作者の父が演説をする下りである。そのシーンと、現在の映画化作業の中で、バンクス氏の銀行のシーンを作曲する過程が混ざり合う。メリー・ポピンズに込めた原作者の想いが見事に表現された演出は素晴らしいの一言である。

トム・ハンクス演ずるウォルト・ディズニーの演技も円熟の見事なものだし、エマ・トンプソン扮する原作者トラヴァース夫人は心の動きには涙をそそられた。しかし、演技力ではそれほど印象には残らなかったとはいえ、コリン・ファレルの見せた父親像こそが、メリー・ポピンズ誕生にとって不可欠なピースだと思われる。

娘の中に占める父親への思慕。これこそがメリー・ポピンズに込めた原作者の想いであり、本作が発するメッセージである。劇中、ウォルトが語る。「たとえ何年かかろうとも、娘に対する父の約束はなされなければならない」。これこそがメリー・ポピンズ映画化へのウォルトの執念の源である。自らが抱えるその想いがメリー・ポピンズに対する原作者の想いと一致することに気付いた時、謎は解かれ、物語は大団円へと進む。

本作が発するメッセージは、父と娘の関係だけではない。それは「人はみな、それぞれの事情を抱え、生きている」ということである。そんな当たり前の事実を、人はつい忘れがちである。仕事の失敗に怒り、性格の不一致をその人のせいにする。でも、人はそんなに浅い存在ではない。栄華を極めているかに見えるウォルト自身にも身の上話はあり、実直なリムジン運転手のラルフにも障害を患う娘がいる。そして愛する父を亡くした原作者の過去にも。それを理解し合い、思いあえることの大切さ。リムジン運転手のラルフも、本作のキーマンといっても過言ではない。

ウォルトに「金でハリウッドに君臨する王者」と言わせたり、冒頭で原作者がアヒルや犬、クマやネズミをクローゼットに押し込むシーンがあったりと、ウォルト礼賛で白けさせないような配慮も随所にこめられている。アナハイムのディズニーランドを登場させたり、ディズニーに思いを語らせる箇所など、斜めに構えてみれば、批判はできよう。ウォルトとて色んな噂や誹謗のネタが多数あることは承知の上。でも、それは本作の価値とは無関係である。むしろ好悪が混ざり合ってこその、夢と魔法の王国ではないか。

その意味では、「夢と魔法だけでは作れない映画がある」という本作のコピーは秀逸である。

’14/3/21 イオンシネマ 新百合ヶ丘


コメントを残して頂けると嬉しいです

映画を観、思いを致すの全投稿一覧