『エピソード7:フォースの覚醒』、『エピソード8:最後のジェダイ』。そして『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』。これらの三作品はスター・ウォーズを蘇らせた。そして蘇らせるだけでなく、新たな魅力までも備えさせた。そのインパクトは、劇場公開当時に『エピソード4〜6』を観ていない私のような観客にもスター・ウォーズ・サーガの魅力を十分に知らしめた。偉大なる作品群だと思う。

サーガとは物語だ。だから終わりがない。未来を語れば選択肢は無限。過ぎ去った物語も無限。だからこそスピンオフ作品は生まれる。しかもそれがスター・ウォーズほどの作品ともなればスピンオフのための題材は山のようにある。だからこそ、スター・ウォーズから派生した相当の数のスピンオフ作品が小説やコミックなどで発表されているのだろう。そして、あまたのスピンオフ作品の中でも正統なスピンオフに位置付けられていたのが『ローグ・ワン』だ。

正統のスピンオフと銘打つだけのことはあり、『ローグ・ワン』は本編に劣らぬ内容だった。魅力的な登場人物たちがデス・スターの設計書を苦心の末奪い取る。そして大勢の犠牲を払った末、データは無事に送信される。本編の『エピソード4:新たなる希望』では『ローグ・ワン』で送信されたデス・スターの設計書データをもとにストーリーが構築されている。長い間、このエピソードは『エピソード4:新たなる希望』のオープニングロールの文章の中だけで触れられていた。あれほどの最新鋭の基地の設計図がなぜ都合よく反乱軍の手に収まったのか、という疑問。それは『エピソード4』の前提が安直との弱点でもあった。『ローグ・ワン』はそのエピソードを描くことで本編を補完した。スピンオフの役割が本編の補完にあるとすれば、『ローグ・ワン』はまさにそれを果たしていた。

そして本作だ。本作もまたスピンオフ作品だ。だが、果たして本作は本編を補完しているのだろうか。そう問われると私は少し言い淀むしかない。たしかにハン・ソロは本編の『エピソード4〜7』における主要なキャラクターだ。それらの中でハン・ソロから発せられたセリフは観客の印象に残っている。例えば『エピソード4』でルークと出会った時、ハン・ソロはミレニアム・ファルコン号を「ケッセル・ランを12パーセクで飛んだ船だ」と紹介していた。また、ミレニアム・ファルコン号にはサイコロのようなお守りが登場する。『エピソード5:帝国の逆襲』ではミレニアム・ファルコン号がランド・カルリシアンからギャンブルで巻き上げた船であることが観客に知らされる。また、チューバッカとハン・ソロの絆の深さは、エピソード4〜6にかけて印象的だ。それらの前提がどこから来たのか。それはスター・ウォーズのファンにとっては気になるはず。そして前提となる情報は今まで描かれないままだった。本作はそれらの観客の渇きを癒やすために作られたのだろう。『エピソード7』でハン・ソロが物語から去った今、なおさらハン・ソロという人物はしのばれなくてはならないのだから。だが、それらは本当に補完されるべき情報なのだろうか。わたしには少し疑問だ。

スター・ウォーズが好きな私としては、本作は当然みるつもりだった。だからこそ封切りした翌々日、私にとってはいつもよりも早いタイミングで映画館に行ったのだ。結果、上に書いたようなハン・ソロにまつわるエピソードの伏線についてはほぼ納得できた。だが、本作をみた後は逆にモヤモヤが残った。どこがどうモヤモヤなのか。それは本作をみていない方にとってネタバレになるのでこれ以上書かない。とにかく本作に登場した主要人物の中で、その後の本編にどう関わるのかわからない人物が二人、登場する。また、その関わりが『エピソード4』につながるのか、それとも『エピソード1〜3』につながるのかもわからない。本作は、過去の作品が広げた風呂敷を確かに畳んだ。だが一方で新たな謎も広げた。それはスピンオフ作品のあるべき姿とは思えない。ある意味、スピンオフのセオリーから外れているとすら言える。もちろん、物語とは終わるはずのないものだ。だから、本来はエピソードを収束させる考え自体が間違っているのだろう。それはスピンオフ作品であっても同じ。だが、スター・ウォーズの本編ありきでスピンオフを考えていた観客には少しモヤモヤが残る。スピンオフがさらなるスピンオフを生む。この手法は賛否両論がありそうに思える。また、もしこの設定が他のスピンオフ、つまり8作の本編と2作のスピンオフの他に多数発表された小説やコミックにつながるのであれば、なおさら非難の声は挙がりそうな気がしてならない。

ストーリーについてはこれぐらいにしておく。後もう一点で言いたい不満はアクションシーンについてだ。たまにハリウッド大作をみていて思うのが、弾幕の中を登場人物が無傷で切り抜けるシーン。あれ、どう考えても都合よすぎでしょ。実は本作にもそのようなシーンが登場する。それはミレニアム・ファルコン号の前で壮絶な打ち合いの末、全員を回収して離陸し、宇宙に飛び去るシーンだ。同様のシーンは『エピソード4』にもあった。本作はもちろんそれを踏まえての演出だと思う。だが、本作の弾幕の厚さはただ事ではない。『エピソード4』の同じシーンの弾数とは段違いの。それなのにL3-37がスクラップになるだけで、その他のほとんどの人物はほぼ無傷で切り抜ける。これは如何なものか。『エピソード8』がいい意味で観客の期待を裏切ることに成功していたので、本作の撃ち合いシーンに工夫がなかったことには苦言を呈したい。

ハリウッド大作にありがちなことは他にもある。英語が標準語である設定だ。舞台がフランスだろうが日本だろうがドイツだろうが英語でグイグイ押し通すやり口。これは私はハリウッドの必要悪として半ば諦めている。スター・ウォーズにしてもそう。全てが英語だ。異星人のオールスターが登場する本作にしてもそう。異星の言語を翻訳するため英語の字幕が出たのは数シーンのみ。特に目についたのは二つのシーンだ。ハン・ソロとチューバッカが出会うシーン。見張りを欺くため、ハン・ソロがウーキー語でチューバッカに話しかける。ここまではまだいい。だが、脱出が全うできそうな場において、英語で普通に喋るハン・ソロの声を事も無げに聞き分けるチューバッカ。無理やり、そしてたまたま銀河共通語が今の英語であるという設定を鵜呑みにすれば解釈できるかもしれない。だが、ハン・ソロの名前の由来が明かされるシーン。そりゃないでしょ、と思った。あれはやりすぎだ。

さて、あまり映画の悪口は書かない私。だが今回はつい書いてしまった。でも、その点を除けば本作は良かったと思う。特に俳優陣についてはいうことがない。ハン・ソロもランド・カルリシアンも、もう少し似た俳優さんを配役に充てても良かったように思う。だが、これはこれで仕方ない。容姿以上に、彼らの演技からは若かった頃のランドやソロはこんな感じやったんやろうなあと思わせる説得力があった。特にランドを演じていたドナルド・グローヴァーさんは、今までさほど表現されてこなかったランドを深掘りすることに成功していたと思う。ハン・ソロを演じたオールデン・エアエンライクさんも老けたハン・ソロが印象に残ってしまいかねない今の観客に、若々しいハン・ソロを思い出させたように思う。また、新たなキャラクターたちもとても良かった。とくにヒロインのキーラを演じたエミリア・クラークさんの可憐さの中にどこか冷たさのある感じ。ハン・ソロの師匠ともいうべきトバイアス・ベケットを演じたウディ・ハレルソンさんの存在感。ヴァルを演じたタンディ・ニュートンさんも以前『クラッシュ』で見かけた時とは印象がガラリと変わっていた。他にもエンドクレジットには旧三部作からお馴染みの方の名前も見つけられた。C-3POやイウォークの中の人とか。

スター・ウォーズは超大作だけにカメオ出演がとても多いと聞く。脇役でも油断すると誰が出演しているかわからないのがスター・ウォーズの楽しさ。細かくみればもっといろいろなことがわかるのだろう。実は私が上で批判したような伏線も、今までの『エピソード1-8』『ローグ・ワン』をよく見れば、本作の設定とつながっているのかもしれない。とくに『エピソード1〜3』は、わたしも映画館で見たきりだ。『エピソード1〜3』を再び見直すのだ、というメッセージが本作なのかもしれない。私も見直してみようと思う。

‘2018/07/01 イオンシネマ新百合ヶ丘


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