不協和。

本作を一言で表すとするならば、この言葉がふさわしいのではないか。

本作を通して一貫しているのは不協和だ。それは背後で流れているスコアからしてそう。不協和音が全編にわたって流れ続け、観客は嫌が応にも本作のテーマが不協和であることを意識させられる。生物と技術。記憶と体験。人類と未来。自我と記憶。人類とレプリカント。誕生と成長。外界と内界。感情と論理。本作で取り上げられた対比のすべてが不協和に満ちているのだから。

本作の舞台は前作から30年後の2049年に設定されている。あらゆる過去のデータは2022年に起こった大停電によって損傷し、過去と現在の間に不協和が横たわった未来。だが前作と本作の間に断絶はない。特に、日本語が氾濫しオリエンタリズムに満ちた猥雑な未来観。前作で描かれた衝撃的なビジュアルは本作にも生かされている。強力わかもとは見つけられなかったけど、2049年のロサンゼルスには日本語や英語以外にハングルやキリル文字も氾濫し、より言語的に不協和だ。ロサンゼルス市警の掲示には日本語が書かれ、主人公がアクセスするDNAデータベースは日本語の音声でエラーメッセージを発する。

前作を踏襲し、より猥雑で救いようのない不協和がスクリーンを覆う本作の世界観は、前作で受けた新鮮さこそ喪われているものの、シンギュラリティを視野に入れつつ今を生きるわれわれに一層切実に迫ってくる。むしろ1982年に受けた衝撃よりも、今のわれわれのほうがブレードランナーの未来観をよりリアルに受け止められるのではないか。その意味でも、前作を踏襲し、よりリアルで頽廃な未来観として前作を凌駕していることは評価したい。

前作でレプリカントを製造していたタイレル社は倒産し、今はウォレス社が覇権を握っている。遺伝子組み換え作物を開発し、世界の食糧危機を救ったことでメガ企業となったウォレス社。農作物だけでなく新型レプリカントNexus9の製造まで一手に引き受けるまでの企業になっている。本作であえて悪を探すとすればこのウォレス社だ。だが、悪?本当にそうだろうか。もはや子供向けのアニメですら、わかりやすい善悪二元が出てこない今、ウォレス社を悪と名指しできる根拠はどこにあるのだろうか。多分、見つけられないはず。ウォレス社を悪と言い切る根拠はない。たとえば、今のわれわれがGoogleを悪と名指せようか?マイクロソフトを、アップルを、モンサントを、Facebookを? ウォレス社もまた同じなのだ。ウォレス社はただ、企業の「さが」である自己成長にまい進しているだけにすぎない。なおかつ、レプリカント増産や遺伝子組み換え作物で人類の未来に貢献する大義名分まで掲げている以上、何を非難されるいわれがあろうか。つまり、使い古された世界征服願望の視点ではウォレス社は語れないのだ。ウォレス社とは上に挙げた企業のように、ITで世を便利にし、農薬で農作物の増産に貢献する大企業と何も変わらないのだ。ITにも農薬にもデメリットはある。だが、それらの企業活動が大多数のニーズに合っていることも間違いない。メリットだってあるのだ。そうである以上、ウォレス社をどうして悪と名指しできようか。善と悪が水と油のようにきれいに分かれた状態は不協和とはいわない。価値観がまじりあい、絶え間ないノイズとなっている状態こそが不協和と呼べるのだから。

ただ、不協和に覆いつくされた2049年の世界で、ウォレス社内のデザインだけが異彩を放っているのは確かだ。猥雑なオリエンタリズムや広大な廃棄場のイメージとは対極の、不協和を一切排除した洗練されたデザイン。その対称の鮮やかさはとても印象に残る。水面の揺らめきが壁と天井に反射するウォレス社長の応接室、幾何学に整列したデータベースアーカイブのデザイン。全てが洗練され、機能美にあふれている。特にウォレス社長の応接室のセットは、水面の揺らめきのイメージとともに、本作が残す余韻として永きに渡って映画史に残る気がする。ところがそこにも不協和が隠れているのだ。水面の揺らめきは、異なる波長の集合体だ。一見するとやさしくゆらめくそれらは、一つ一つが違う波長が集まっている。つまり不協和。幾何学的な美しさが主流だった従来のSFデザインに猥雑さを持ち込み一石を投じたのが前作だったとすれば、本作が持ち込んだ洗練された不協和のデザインこそは、昇華された次代のデザイン思考だともいえる。洗練された不協和こそが、整列し整頓された機能美になり替わって未来のレイアウトの主流であること。それを本作はさりげなく提唱しているようだ。その証拠に、整えられた機能美のイメージは、本作にはほとんど登場しない。冒頭の太陽光発電施設が描く円の模様は砂塵にかすみ、ウォレス社の擁するデータベースアーカイブは、立ち入るものがほぼおらず、入り口が故障している。そんな些細なエピソードすらも、幾何学のデザインの終焉を語っている。本作が主張する未来が不協和に満ちている事を示して。

本作の主なプロットは、ウォレス社がレプリカントの生殖を目指すため、レプリカントが産んだ奇跡の子を手に入れるために謀略をめぐらせるというものだ。ウォレス社とはレプリカントを大量に生産する会社のはず。では、レプリカントは自動車やロボットと同じく量産すればいいのではないか。ところがウォレスの構想は、レプリカントに生殖機能を求める。レプリカントが生殖することでさらにレプリカントは増殖し、人類にも貢献できるのだ、と理想を掲げる。本作でウォレスは語る。人類の発展の陰には、安価で大量に使える労働力があったことを。それがレプリカントだとすれば、彼の主張はもはや奴隷制への回帰に過ぎない。ここで観客は、レプリカントと人間の違いが何かとの問題を突きつけられることになる。

大量生産とは規格だ。つまり幾何学の公式で説明のつく概念だ。でも、ウォレスの執務室のデザインは、幾何学の機能美ではなく、柔らかな不協和で包まれている。ウォレス社のデザインが幾何学から柔らかな不協和に変化していること。ここからは、大量に作られたレプリカントから、生物の本質であり混沌である生殖へと立ち返ろうとする意思を象徴している。それは矛盾にも通じる。われわれが感じる根本的な違和感も同じ。そもそもレプリカントが生殖能力まで手に入れたとすれば、レプリカントと人間の境目はどこにあるのだろうか。その疑問は不協和へとつながり、われわれを一層混迷に陥れる。

いったい、われわれはどこに向かおうとしているのか。本作が突きつけるテーマは深刻だ。技術革新の恩恵に乗り、繁栄を謳歌してきた我らが人間族。技術は果たして人類を幸せにしてきたのだろうか。そして、今後も繁栄を約束してくれるのだろうか。 技術革新の旗手として、率先して技術革新に邁進してきたアメリカ自身があまりにも速い革新のスピードに恐れを抱いていないだろうか。

デッカードが潜む、廃虚と化したラスベガス。アメリカの繁栄の象徴ともいえる場所。ホログラムで歌うエルビス・プレスリーに、マリリン・モンロー。そしてフランク・シナトラ。その中で殴り合うデッカードとK。新旧の価値観が殴り合いとしてスクリーンで表現される。プレスリーの歌う「Can’t Help Falling In Love」を好きだというデッカード。アメリカが本当に幸せだったのはこの頃だったのではないか、との苦い問いかけが含まれたセリフだ。廃虚のラスベガスで飲み手を待ち続ける何百万本ものジョニー・ウォーカー。生身のデッカードの飼い犬。リアルをリアルで認識すれば事足りた世界の名残がここにある。

いまや、その世界は、記憶を創造できるアナ・ステライン博士の脳内にしかない。アナ・ステライン研究所で博士が現出させる緑の繁る林と、木漏れ陽の光。誕生パーティーでお祝いする子どもたち。降り落ちる雪の美しさ。もはやリアルではなくデータによる再現でしか体験できない過去の美しさ。アナ・ステライン博士も、本作のキーとなる人物。そして過去の豊饒な地球が博士にしか再現できない。そんな設定も何かを示唆しているようだ。

本作にはあまりにも多くの啓示が含まれている。あまりにも多くの警句と、あまりにも多くの哲学が。本作には何度も繰り返し見るだけの価値があると思う。ビジュアル的にもそう。現時点で最新の技術が惜しげもなく投入される。その技術のすばらしさはジョイが体現している。ジョイとは、本作の主人公のKのバーチャルガールフレンド。可動式のプロジェクタで投影されるだけだったが、ウォレス社のコンソールから最新版にバージョンアップすることで、実態をともなって外で持ち運べるようになる存在。あるときは街娼のマリエッティと同期して、Kとベッドをともにする。その同期のシーンがとてもリアルなのだ。

ただ、そのシーンにはCGも多用しているはずだが、実在の俳優の演技がベースになっている。俳優の演技があってこその本作であることを忘れてはならない。例えばジョイを演ずるアナ・デ・アルマスの可憐さは、特筆すべきだ。キリストめいた風貌のウォレスを演じたジャレッド・レトも本作に欠かせない存在感を放っていた。ウォレスに忠誠を誓うレプリカントのラヴを演じたシルヴィア・フークスの強靭かつ冷徹な演技も、その見事なファイティングシーンとともに記憶に残る。また、アナ・ステライン博士に扮したカーラ・ジュリの無垢な容姿は、本作にあって唯一のみずみずしいシーンにとてもマッチしていた。さらに、前作から続けてのハリソン・フォードは、本作の重要なテーマである過去への回顧を表現するに欠かせない。その重厚感と存在感はさすがというほかない。そして最後に主人公Kを演ずるライアン・ゴズリングである。レプリカントにふさわしい無表情を装いつつ、わずかな顔の動きだけでKの内面を表わす演技。抑制の中にレプリカントの悲哀と生存への意志を込めた演技は、素晴らしいと思った。抑制されたからこそ、とあるシーンでKが感情を爆発させるシーンに効果が現れるのだ。

本作がまだ生身の俳優によって演じられていること。それが救いだ。すでに本作でもCGが演じているに等しいシーンは多々ある。例えばジョイのシーンとか。それが今後は遠からず、CGの登場人物、AIの俳優、AIの撮影監督にAIの製作総指揮という日だって来ないとも限らない。その時、人間は彼らの作った娯楽に飼いならされるのだろうか。ここ最近、原爆開発についての本や、人工知能が人類を滅ぼす危険を唱える本など、かなり悲観的な本を読むことが多い。それらの本を読んでいると、上にも書いたような技術の進展が人間を追い越すシンギュラリティについて悲観的な予想しか湧いてこない。その日にわれわれは何を思うのか。本作のような未来は果たして防げるのか。2049年とは、シンギュラリティが起こるとされる4年後だ。私はその時、何をしているのだろう。

’2017/11/24 イオンシネマ新百合ヶ丘


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