2015年は、私にとって地方創生を意識した年であった。地方創生に関するイベントにも参加したし、今年2016年には実際にその現場にも訪れた。先覚者達の見識を吸収した一年。その流れは本稿を書いている今もなお続いている。

本書は、その流れの中で読んだ一冊だ。著者は大手外資系航空会社の職を擲ち、いすみ鉄道の公募社長に就いた人物。鉄ちゃんとしてその世界ではよく知られる人物らしい。

いすみ鉄道とは、千葉県にある私鉄である。旧国鉄木原線を第三セクター転換し、今に至っている。しかし、房総半島の太平洋側から内陸に向けて延びる立地ゆえ、発展の望みは薄い。言い方は悪いが倒産廃止寸前の零細私鉄だったといえる。少なくとも著者が社長就任時点でもまだまだ予断を許さない状態だったようだ。

こう書くと誤解を与えるかも知れない。その誤解とは、本書の内容が功なり名遂げた経営者による過去の業績を誇る類の本という誤解だ。

だが、本書は少し違う。著者は今もなお、いすみ鉄道の社長である。そして、いすみ鉄道は今もなお、著者を筆頭に社員たちによって必死の経営努力が続けられている。とうに潰れてもおかしくないのに、著者の繰り出す経営施策によって延命している。やれることはなんでもやる。社長が自ら広告塔役を背負うことは当然。著者自らもブログで情報や理念を発信し、賛同者を募っている。本書はそのブログを書籍化したものだ。つまり、本書は過去の業績を誇るどころか、現在進行形で進む存続への苦闘をブログにして刻んだ成果なのだ。本書に書かれた内容は今もなお、活きている。

いすみ鉄道は国鉄木原線の時代、国鉄久留里線と接続し、市原へと繋がる構想があったらしい。房総半島横断線として。しかし、時代は効率化優先の車社会へと変わってしまう。そればかりか国鉄からJRへと経営母体も変わってしまう。そんな向かい風の中、市原への延伸計画は棚上げされる。都心へのアクセスが断たれたいすみ鉄道の存在意義はますます薄れるばかり。名所名刹といった観光資源もなく、遠方からの旅行者は見込めない。

存続の見込みなく、座して廃止を待つのみ。

普通の経営者はそこで諦める。しかし、著者は違う。著者はおのれが鉄ちゃんとして培ってきた想いをすべていすみ鉄道に注ぎ込む。その姿は、芸は身を助ける、を地で行くようだ。もっともいすみ鉄道の場合、趣味は会社を助ける、が正しい訳だが。

鉄ちゃんとして外野からあれこれ評論し批評するだけでなく、経営者として実践しているのが著者の凄いところだ。鉄道ファンとしての究極の夢の一つは鉄道会社の経営者ではないだろうか。著者が安定した職を捨て、いすみ鉄道の公募社長に転身したのも、夢の実現の過程なのだろう。鉄道を中心とした街づくりをシミュレートする「A列車で行こう」という有名なゲームがある。著者が日々行う経営とは、 「A列車で行こう」 の様な机上のデータで済むようなスマートなものではないはずだ。足と知恵と口で地域をこまめに回るような泥臭いものなのだろう。恐らくは苦しいこともあるだろう。けれども、著者の日々は充実しているに違いない。そういった泥臭い経営の積み重ねで著者が得た気づきが本書には記されている。

著者の行った施策のうち、よく聞くのは運転士公募制だ。運転士公募制とは、運転士になるための授業料700〜800万円を自己負担すれば、運転士として雇用するというものだ。鉄ちゃんとしての究極の夢の一つは電車の運転士になること。自らも鉄ちゃんである著者だからこそ思いつける企画だと思う。その夢への憧れも、実現への難しさもよく分かっているからこそ発想できたに違いない。そして同時に、鉄ちゃんが鉄道会社の社長に、という夢を実現した著者だからこそ、運転士という夢が実現できないはずはない!と世の鉄ちゃんに発破をかけているのだと思う。

もう一つ、本書で印象的なのは逆転の発想だ。いすみ鉄道のアクセスの悪さ。これもまた、著者の手にかかればいすみ鉄道の売りとなる。「なにもない、がある」は、いすみ鉄道の状況を逆手にとった名コピーだ。そこには開き直りとも云える美学がある。開き直りといっても捨て鉢なそれではない。むしろ開き直ることで、余計な虚飾や見栄が省かれる。いすみ鉄道の素の姿、いすみ鉄道の本質が売りとなる。素顔を晒し、ありのままを見せた者に、人は敵意を捨て丸腰で相対してくれるものだ。

マーケティングとは、あえて斜めにいうと、金を抱える消費者の警戒心の裏をつく作業だ。そのマーケティングに腐心するのが大抵の企業だとすると、明け透けに消費者に相対するいすみ鉄道は、その真逆を行く。「ありのままそこにある」いすみ鉄道に、消費者が勝手に魅力を付与していく。これは、なまなかの経営者に出来る発想ではない。もはや悟りの境地の経営といっても良いほどだ。

いすみ鉄道の普通とは逆を行くマーケティングは、いすみ鉄道に遊びに来ても列車に乗らなくてもいい、という著者の言葉にもつながる。それはもはや鉄道会社の存在意義を自ら否定するに等しい。常識をひっくり返すような著者の経営手法は、おそらくは外資系出身の著者が養った素養にも求められるのではないか。

だが、このままでは志を持った著者のような経営者が跡を継がない限り、いすみ鉄道の将来は心細い。いすみ鉄道にとっての悲願は、小湊鉄道と接続し、東京湾からの直通列車を走らせる事だろう。相互接続については、本書によれば著者自らが小湊鉄道に働きかけているようだ。私もそれが実現する事を願ってやまない。

実は本書を読み終えて10ヶ月経った2016年8月に、家族で養老渓谷を訪れた。その帰りに少し足を伸ばし、上総中野駅を訪れた。上総中野駅はいすみ鉄道と小湊鉄道が接続する駅である。だだっ広い駅前広場に、竹をあしらったトイレが異彩を放っている。駅舎は一つで、その中は待合室が一つあるきりの構造。片側を小湊鉄道が、もう片方をいすみ鉄道使用エリアとして分けられていた。そこにあるポスターやちらしの内容からも、いすみ鉄道が一生懸命PRに努めている事が見て取れた。待合室の一方の小湊鉄道と比べると経営への熱意は歴然と表れていた。駅のホームは二つ。両社が一つずつ使っていた。ここでも両社の違いはすぐに分かる。いすみ鉄道のホーム上にある自販機にはラッピングが施されていた。ホームにも世話を欠かしていない花壇が設えられており、いすみ鉄道が一生懸命存続への企業努力を続けていることは痛いほど感じられた。

なのに、線路は繋がっていない。すぐ横を並走しているのに、線路は切り離されたままだ。ほんの一足で、横の線路に飛び移れるほどの近さなのに、互い違いとなっている線路。ほんの少しだが無限に遠いその距離が、いすみ鉄道の現状と著者の無念さを表しているように思えてならない。著者もさぞや歯がゆい思いでいる事だろう。同情を禁じ得ない。そしてこの線路が早く繋がる日の来ることを私も待ちたいと思う。

この時、私が訪れたいすみ鉄道の駅は上総中野駅のみだった。他の駅、特にいすみ鉄道の中心駅である大多喜駅には訪れる時間がなかった。なのでいすみ鉄道の様子がわかったとはとても言えない。しかし地方の駅の醸し出す雰囲気がとても好きな私としては、応援したいと思う。それ以上に、同じ経営者として著者の経営努力に対して尊敬の念を惜しまない。ローカル線再生は、地方再生にもつながる。地方再生において求められる発想とは、官僚的発想ではなく、著者のような在野の実務家からしか生まれ得ないのではないか。私もそんな著者の努力については、できる事があればまた訪れるなどして応援したいと考えている。

と、本稿を書いていて、まだそれが実践できていないことに気付いた。慌てて上総中野駅でちらしを見かけたローカル鉄道.comにも会員登録した次第だ。皆様も是非登録して応援してあげて欲しい。

‘2015/10/18-2015/10/18


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