3度目の緊急事態宣言が出されました。
「またか!」と言う悲鳴や政府の対応を批判する声など、世間の反応はさまざまです。

この機会に改めて私の考えを述べてみたいと思います。

そもそも、わが国の状況が欧米に比べて深刻ではない状態で、どういう状態を目指せばよいのでしょう。
さらに、前提として考えておきたい問いがあります。それは、今の複雑な社会において、特定の誰かに責任を被せられるのか、という疑問です。

政治家や官僚。医師や医師会をはじめとした医療関係者。そもそもの拡散地とされる中国。営業自粛に応じないお店。家にこもらずに外出する人々。
今回のコロナ禍において槍玉に挙げられるのはこのような方々でしょうか。

まず、政治家や官僚。
たしかに、個々の事例では非難されるべき不祥事もあります。ですが、全体としては今以上の成果を求めるのは難しいのではないでしょうか。
あらゆる利害関係者や諸外国との関係を調整し、国民の声も考慮しながら国としての全体最適を追求する。
私が同じ立場になったとしても、今以上の成果を出す自信はありません。

続いて医療関係者。
医師の立場として人命救助は最も優先すべきです。コロナの感染経路の最も濃厚な場所が飲食店である以上、飲食店の営業の自粛を国に進言するのは当然でしょう。
その決定的なエビデンスがいまだにないとしても、医療に携わる以上、言いにくくても言わざるを得ません。人は酒が入ると身構えを解き、たやすく感染源になってしまう生き物です。医療関係者はむしろよくやっていると思います。
また、ワクチンの製造競争で欧米におくれをとっていることや、感染のメカニズム解析のおくれも非難のタネになりえます。
ですが、それを責めるべきではありません。努力はなされているはず。であれば、素人が後講釈で非難すべきではありません。

営業自粛に応じないお店。
お店を開けなければ経営が立ち行きません。当たり前のことです。
支給される補助金で何とかして、というのは酷な話です。一人でやりくりしているようなお店ならまだしも、従業員を抱えるようなお店にとって、今の支給額は雀の涙。足りないのです。
経営者の立場では休業に応じず営業するお店の気持ちはよく分かります。
そもそも、支給金申請のための書類が煩雑で、その作成だけで、支給金分の人件費が賄えるのではないかと思えるほどです。むしろ、ここを何とかすべきでしょう。

家にこもらずに外出する人々。
人の価値観やライフスタイルはそれぞれ。ですが、私のように家にこもるのが苦手な人にとって、家へ閉じこめられる苦しみは大変なものです。
その一方で、コロナをきっかけに家にこもりがちの人の世間からの視線は大幅に改善したとか。
そもそも、誰も外に出なければ、特定の業種にとっては死活問題です。
それこそ逆に、人々の心身の不調が生じ、社会に無益な出費を強いてしまうのではないでしょうか。

では、国や官僚が補助金を無尽蔵に支給すればよいのでしょうか。
それは、残念ながら得策ではありません。
昨年の緊急事態宣言で支給されたような一括支給は現実的ではありません。国の財政にとってよくないことは当然です。
たとえ、いくら国民の貯蓄額が大きいから国の財政は赤字でも国は安泰、との論が正しいとしてもです。国の財政赤字をこれ以上悪化させることに渋くなるのは当然です。

国は全体最適を考える組織。特定の個人や団体に恩恵を与えることは建前として無理でしょう。
たしかに、国の予算が最適な組織に適正な価格で配分されているかは、甚だ疑問です。
ですが、こうした予算の配分については、すでに政治家や官僚の調整能力の範疇を越えていると思います。今の複雑な社会の中で国民すべてが納得できる方法などどだい無理なのです。

結局、誰にも責任を求められないのが現実ではないでしょうか。
誰にも責任を求められない社会。これ、どこかで聞いたことがありますよね。そう、わが国の文化です。
わが国の、いや日本の文化の特徴。特定の人間に責任を負わせず、責任の所在を曖昧にする。これは日本のオハコと言うべきでしょう。

冒頭に書いた通り、わが国の状況は諸外国に比べて深刻ではありません。
でも、コロナは私たちの何かを変えるチャンスでもあります。コロナが起こる前から長期低落傾向が顕著だったわが国の将来。それを変えるチャンスなのです。

日本には和を以て貴しとなすの精神が強く根付いています。歴史を振り返ってみてもそう。
日本の歴史を紐解くと、歴史はさまざまな教訓を教えてくれます。
私たちは歴史から何を学び、どのように変えるべきでしょうか。

今回のコロナをきっかけに変えるべきこと。それは制度だと思います。
日本の歴史の中で、既存の仕組みを壊す人物は多数現れました。木曽義仲、新田義貞、織田信長などはそうした人々です。ですが、彼らの栄華は短いものでした。彼らの後には最後の勝利者がいます。源頼朝、足利義満、徳川家康。彼らが行ったことこそ、制度の整備です。制度をもって国を治める。最近では明治政府がそれを成し遂げました。

歴史から学ぶ教訓とは制度の整備です。社会制度を少しずつ変えていく。これしかないと思います。
過去、わが国は外圧によって何度か大きな変革を遂げてきました。最近では明治維新や、第二次大戦の敗戦がそうでしょう。

今回のコロナは言うならば外圧です。
であれば私たちは外圧であるコロナをきっかけに大きく変われるのではないでしょうか。
いまや、疲弊した制度を変えるべき時だと思います。
もう、日本の高度成長を支えた制度は破綻しています。そのことを認め、新たな方向に舵を切るべきです。

もちろんこれは当時の制度を設計した人々の責任ではありません。むしろその方々こそ、日本の高度成長を成し遂げたのであり、彼らは褒められこそすれ、非難されるいわれはありません。ですが、制度はいつか疲弊し、磨耗します。不磨の制度などありえません。

ということは、われわれはこの機会に今の制度を変える努力をすべきです。特に働き方に関する制度変更は喫緊です。
もはや儀式のための儀式、運営のための運営、統制のための統制はやめなければ。無意味で形骸化したあらゆる儀式はこの機会に取りやめるべきでしょう。
かつての成功事例を捨て去り、新たな制度設計を!
コロナによって強いられた変革であっても、これを前向きな機会ととらえ、制度を見直す!
そのためにはITの力はどんどん使うべきです。情報処理の力を最大限に生かす。

情報処理の力を生かすには、われわれが知恵を絞らなければならないことがあります。
それは、対面ではなく、ディスプレイ越しに意思の疎通を図る方法についてです。

くしくも今年になり、弊社もスタッフを募り体制を増やしました。
となると私が教える必要があります。ですが、情報の伝達には苦労しています。
リモートを前提とした体制を作ったものの、実際、会って話したほうがスキルや要件の伝達ははるかに効率的です。
これは私が感じているだけでなく、スタッフさんからも同じことを言われました。

リモートは対面での伝達に劣る。
この事実を錦の御旗として、一体どれだけの会社がテレワークへの道を閉ざしてきたのでしょう。
とはいえ、あの無残な通勤の混雑は、決して人間にとってあるべき姿だとは思いません。
テレワークを閉ざすのと引き換えに、通勤が残されるとすれば、それは進歩でもなんでもありません。

リモートワークを進め、なおかつ意思の疎通をきちんと行うには何が足りないのか。それを考える必要があります。

国も東京都もテレワークの推進を訴えてはいるものの、実際、国の制度を決めるべき官僚自らが通勤を余儀なくされている現状では、何を言っても説得力はありません。
単純な作業からやめていくのは当然のことです。その意味では脱ハンコは当然です。また、電話番などの無意味な慣習も止めるべきでしょう。

さらに、国全体が電話ではなく官民合わせてデジタルツールを使った連絡を推進すべきだと思います。
また、国中がコロナによってテレワークに移行しつつある今、Zoomのようなオンラインコミュニケーションツールを使うためのよりよい知見は溜まってきています。
複数のコミュニケーションツールも各社から出されています。
国は、こうした事例を積極的に集め、国民により積極的な啓発活動をしていく必要があるのではないでしょうか。

最後に、何より訴えたいことがあります。
それは私たち国民が、国や自治体や特定の誰かに責任を負わせるのではなく、自らで変革の道を探っていかなければならないことです。
明治維新でも先の敗戦後にも制度を整えたのは国です。ですが、その時に復興の力となったのは民間の力です。民間が国に頼らず責任をせず、前を向き、未来を見る。

今回のコロナは外からやってきた外圧です。
この機会を生かし、民間からもっと積極的にデジタルを使い、テレワークを推進する。そして、ディスプレイ越しでのコミュニケーションの効率的な方法をより突き進める。
それがコロナによって強いられた現状を逆手にとる策だと思うのです。
上記に書いた緊急事態宣言の効果や責任の所在は直近で見るべきとし、私たちはより先の未来を見つめようではありませんか。シン・ニホンを目指して。


カテゴリ: 物申す.
最終更新日: 4月 26, 2021

コメントを残して頂けると嬉しいです

物申すの全投稿一覧