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選別主義を超えて―「個の時代」への組織革命


本書は、私が人を雇用し、そろそろ組織を構築しなければ、と思い始めた頃に読んだ。

私の社会人のキャリアは、人とは違う道を歩んだように思う。
新卒で就職する事を諦めた私は、フリーター・ニートの道へ。しばらく、アルバイト生活を転々とした後、就職を決意するもののブラック起業に入ってしまい、揚げ句に皆の面前でクビを宣告され。
そこから、いきなり上京した私は派遣社員の道へと。やがて正社員に登用された私は程なくして転職。そこで個人事業主として会社の立ち上げにスカウトされ、さらにそこを抜けた後は個人事業主として、複数の現場を渡り歩くフリーランサーの稼業へと。やがて、個人事業主を法人にし、雇用に踏み切って今に至った。
このテーマでは、以前鎌倉商工会議所で登壇して話したこともある。

私のキャリアは上に書いたとおりだ。そのため、組織の中で組織の論理に苦しめられた経験が少ない。むしろ、苦しめられたらすぐにそこを離れた。そして、組織の論理に縛られるのを嫌って、その度に自分にとって楽であろうと選択を重ねてきたら今に至った。

本書の後半には、組織の中で自営業のように自由に動く働き方や、フリーランスの形を選ぶ働き方が登場する。ところが、私はだいぶ前にフリーランスの生活を選んだ。すでに本書に書かれている内容は自分の人生で実践していた。つまり、私は本書から学ぶところは本来ならばなかった。

だが、ここに来て私は人を雇用し、組織を作る側になった。すると、本書の内容は私にとってちがう意味を帯びてくる。

組織になじめず、組織から遠ざかっていた私が組織を作る。この皮肉な現実について、本書はいろいろな気づきを与えてくれた。
つまり、私が嫌だったと思う事を個人にしないような組織。それを私が作り上げていけばよいのだ。

しかし、どのように自分に合った組織を作ればよいのだろうか。
例えば経営者としての私が人を雇い、評価し、昇進・昇給させる。その時の基準はどこにおけば良いのだろうか。
私が人を昇進させ、昇給させる営み。それはつまり選別することに等しい。
一方、本書のタイトルは「選別主義を超えて」と題されている。選別がそもそも今の世の中にそぐわなくなり、その次を説いている。
と言う事は、私の中でされて嫌だったことをする必要はない。そのかわり、新たな手法を駆使して組織を運営していかなければならない。ここで私の脳内は堂々巡りを始める。

第一章 席巻する選別主義

この章では、今までのように横並びで入社し、終身雇用の名の下に全ての社員を平等に扱う建前から、早めにエリートを選別し、昇給や昇進にもあからさまな差をつけるやり方が広まっている現状を紹介している。

弊社はまだ零細企業だ。メンバーも少ない。一括で何十人も採用できるような規模になるにはまだ早い。そもそも、働けない社員を雇う余裕はない。そのため、弊社は採用面接の段階で選別をしなければ立ち行かなくなる。

また情報技術を旨とする弊社であるため、昔ながらありえたような単純作業のために人を雇うつもりもない。むしろ、そうした作業は全てシステムに任せてしまうだろう。

第二章 選別主義の限界

この章では、そうした選別主義がもたらす組織の限界について触れている。
社員間に不公平感がはびこること。そもそも選別を行うのは人間である以上、完璧な選別などありえないこと。本章はそうした限界が紹介される。
私も今、経営をしながらそれぞれの社員の適性やスキルや進捗を見極めるようにしている。だが、規模がより広がってくると、私一人ですべての社員の評価をすることは不可能だ。そもそも、私も人の子だ。完璧に客観的な評価ができるか正直自信はない。

第三章 「組織の論理」からの脱却を

ここからは、新たな働き方への転換を紹介している。

組織が人を選別することの限界が来ているのなら、一人一人の社員が個々の立場で自立し、組織に頼らない人間として成長する。そうした道が紹介されている。

この章で書かれているのは、私が組織の中にいながら次の道を模索した試行に通ずる。実際、私はそのような選択を自分の人生に施してきた。今の私は弊社のメンバーにも、自立できるような人になってほしいと望んでいる。

もう、組織に頼りっぱなしで生きる生存戦略は、その本人の一生にとって良くない結果をもたらす。

何も言わず、文句も言わず、ロボットのように働いてくれる社員は果たして経営者にとってありがたいのか。おそらく私はそうした社員の明日は厳しいと感じる。

第四章 適用主義の時代へ

この章で紹介するのは、選別主義に代わる新たなパラダイムである適応主義だ。ある一定の年数がたてば昇給していくのではなく、その都度の会社の業績と個人・部署の業績を社会の状況に照らし合わせ、その都度で評価を行う。それが本書のいう適応主義だ。つまり年功序列は関係ない。

まさに今、社会はこのようになりつつある。

著者は、そのような社会になるためには、学校自体も変わらなければならないと言う。つまり従来のように新卒で大量採用し、といった企業側の要請が変わりつつある以上、学校側も変わらなければならな。企業からも任意のタイミングで社員を学校で学ばせることもある。柔軟で流動的な制度とカリキュラムも必要だとする。

私もこの点は同感だ。
今のような複雑な社会において、企業に入った後は勉強せずに過ごせる訳がない。会社に入っても常に勉強しなければ、これからは社会人としては通用しないと思う。
では、人々は何をどのように学べばよいか。それは企業側では教えにくい。だからこそ大学や専門学校は、常に社会人に対して門戸を開いておかなければならない。

第五章 21世紀の組織像
本書が刊行されたのは2003年。すでに21世紀に突入していた中で21世紀の組織像を語っている。
本書が刊行されてから19年がたち、ますます組織のあり方は多様化している。情報技術の進化がそれを可能にした。

本書で、フリーランスなどの新たな働き方が紹介される。それは、会社や組織を一生の働き場として見ず、スキルアップの場として見る考えだ。キャリアの中で組織に属するのは、あくまでも自らをバージョンアップさせるため。

本章で書かれていることは、私から見ると当たり前の事のように思える。たが、まだまだ組織に依存する働き方を選ぶ人が多いのは事実だ。2022の今でも。まだまだこれは改善の余地はある。そして、企業側でも流動的に働き方を前提に業務を組み立てることが求められる。

終章 日本型システムを見つめ直す

この章では、欧米の最新型の経営手法を安易に持ち込み、日本でまねる事の危険性を述べている。

私もまだ、自分なりの経営手法については試行錯誤の段階だ。
結局、私がいくらあがいたところで、組織としてきちんとした運営ができるようになには、規模が大きくなければ意味がない。
弊社の今の規模であれば、まだ私一人で対応できる。だが、やがては人事担当者を設け、本格的に考えていかなくては。
ただ、そうなったら今度は私個人のくびきを離れ、組織が組織としての自前の論理を備えていく。そうなったとき、個の時代を標榜する本書の意図に反した組織になっていかないか。

そうした段階に達したとき、どこまで経営者の、つまり個を重視する私の考えが評価の中に生かされていくのか。
本書を読むと、そうした課題のあれこれが果てしない未来になるように思える。努力するしかない。

2020/10/21-2020/10/28


ビジネスモデルの教科書 経営戦略を見る目と考える力を養う


独立してから13年半。法人化してから五期目を迎えるというのに、私はビジネスが不得手だ。少なくとも自分ではそう思っている。

多分それは、私自身がなんでも独りで学んできたからだろう。特定の師匠や先生、メンターを持たず、本を頼りに自分の力で学んできた。言い方を変えれば、ビジネスの中で出会ってきたあらゆる人から学び、教わり、盗み取ってきた。
いくら私が大学で商学部に所属し、マーケティングや経営を学んだとはいえ、それはあくまでも机上の理屈。実学ではない。
私がそうしたビジネスの知識や仕組みを学んだのは、自ら個人の事業に乗り出していく中で試行錯誤しながらだ。
その生き方はかっこいいのかもしれないが、正統に学んだ方に比べるとかなりの遠回りをしているはずだ。
未熟であるがゆえに、今までにたくさんの失敗をしてきたし、この人には足を向けて寝られないという人も何人かいる。

そういう失敗を振りかえる時、私の中の悔いが頭をもたげる。
弟子としてきちんと学んでおきたかったと思うこともある。

それは私の中でビジネスプロセスについての知識が弱いリスクとして影を落としている。
ビジネスの中で試行錯誤しながらつかんだ知識は固いが、未経験のビジネスモデルとなるとはなはだ弱い。
今までにしでかした数多くの失敗は、私にとって糧となっているとはいえ、失敗したことでご迷惑をかけてきたこともまた事実。

一方で、今まで自分の力だけでやってきた自負もある。
失敗を反省し、ビジネスの現場で犯した失敗は、反省し、学びに変えることで私の中に活きた知識として身についているはずだ。

だがここら辺で一度ビジネスモデルについてきちんと学んでおきたい、そろそろ実学の知識を身につけておきたい。そこで本書を手に取った。

弊社の場合、情報処理業界をベースに活動している。
情報処理業界もビジネスモデルに沿って営まれている。そこに慣習もある。だが、それは他の業界では通用しない。情報処理業界に特化したビジネスモデルに過ぎないはずだ。
だから本書に挙げられているようなさまざまなビジネスモデルについて、私の知識は薄い。
そしておそらく今後も弊社がITを主戦場にしている限り、その他のビジネスモデルを自在に操ることはないはずだ。

ただ、弊社はシステム構築を武器にして、あらゆる業界の顧客に対してシステムの提案をする事がミッションだ。という事は顧客が採用するビジネスモデルについても知っておかねばならない。

そこに結論が行き着いた以上、他のビジネスモデルについて無知である事は許されない。だから、本書のような入門書は読んでおかねばなるまい。

実際、紹介されているビジネスモデルは私の知っているあらゆるビジネスモデルを網羅していると思う。

結局、経済活動とはある物品や見えないけれど人のためになるサービスを扱う商いだ。原材料から加工し、次のお客様に商品やサービスとして提供する。
原材料から次の加工へのプロセスは、携わる人が身に付けたスキルによってどうにでも変わる。
消費者側は、加工された商品や物件やサービスを評価し購入する。
それは、その主体者が個人であろうと法人であろうと変わらない。

しかもそのプロセスにおいては、生産者と加工者と消費者と言うプレイヤーの構造であることも多い。そこが定まっている限り、ビジネスモデルの種類がそうそう増えることはないはずだ。

その流通経路は、時代の移り変わりによって左右される。
かつては行商人が足を使って商品を流通させていた。それが馬車になり、帆船になり、鉄道となり、トラックになり。今やインターネットの中で商談が完結し、ドローンが発送する時代になっている。
間に商品を集積する市場があったり、中間に関与する企業があったり、そうした中間物を省こうとネットワークに頼ろうとするビジネスがあったり。

それらが網羅されているのが本書だ。以下に引用した目次の通り、あらゆるビジネスが網羅されている。
各ビジネスモデルは整理され、それぞれの特徴が簡潔にまとめられている。

第二部では、実際のセブン-イレブンやYKKといった有名企業のビジネスモデルが紹介され、とてもイメージしやすくなっている。

こうしたモデルをよく理解することで、よりビジネスが進展することだろう。私の場合はとてもよく理解ができた。末尾に目次を引用しておく。
全体的に見てもよくまとまっており、お勧めの一冊だ。

序章
ビジネスモデル概論と本書の読み方

第一部 事業レベル編
第1章 顧客セグメント・顧客関係のビジネスモデル
  地域ドミナント
  クリームスキミング
  特定市場の支配
  グローバル化
  顧客ライフサイクルマネジメント
  顧客の購買代理
  プラットフォーム

第2章 提供価値のビジネスモデル
  ソリューション
  同質化
  アンバンドリング
  デファクトスタンダード
  ブルーオーシャン

第3章 価格/収入構造のビジネスモデル
  レーザーブレード
  フリー
  敵の収益源の破壊

第4章 ビジネスシステムのビジネスモデル
  チャネル関係性の利用
  ダイレクト
  サプライチェーン種別の変更
  機能外販
  リソース先制
  マクドナルド化
  提携先のレバレッジ
  強者連合

第5章 事業レベルのビジネスモデルのまとめ

第1部 コーポレートレベル編
第6章 コーポレートレベルのビジネスモデル集

‘2018/11/29-2018/12/4


経営センスの論理


Cybozu社のイベントで何度か著者をお見かけした。そのイベントとは、Cybozu Days。その中にkintoneを活用したユーザーが事例発表を行うkintone hiveというコーナーがあり、著者はその審査委員長だ。

そんなわけで著者の名前は以前から知っていた。だが、著作を読むのは本書がはじめて。本書のタイトルが私を引きつける。経営センス。経営者の端くれにいる私に全く足りていない。

私は、自分に経営センスがあるとは思っていない。あればとっくに大勢の人を雇っている。私に経営センスがないのは、経営についての勉強を全くしていないからだ。全てが独学。ようやく法人化して四年目を迎え、さまざまな話をさまざまな方から伺い、自分なりに経営に試行錯誤してきた。

だからこそ、経営には「センス」と「スキル」があり、経営には両方とも必要なのだ、という著者の説には勇気づけられる。私の場合、圧倒的に足りないのは経営スキルであり、経営センスは多少なりとも身についているのでは、という勘違い。私に足りないのはむしろ経営センスではないだろうか。

財務諸表の読み方など、しょせんスキルの話だ。それらをいくら身につけてもそれだけでは優れた経営者とはいえない。せいぜいがスーパー担当者に過ぎない。そんな著者の言葉には頷けるところもあり、耳も痛い。私の場合は多分経営者ではなく、スーパー担当者に過ぎないのだろう。経営者でありながら、自分でプログラミングや設計やテストをこなしているうちは経営者とは言えない。

とはいえ、経営センスを身につけねばならないことは差し迫った課題だ。そもそも経営センスとは何なのか。で、どうやって身につけるのか。分かるはずがない。著者は「善し悪し」よりも「好き嫌い」で経営することが経営センスではないかという。そう聞くと、「好き嫌い」による経営は感情を論理より重んずる経営と同じ意味になり、あまりよろしくない気がする。ところが、センスある経営者をみていると好き嫌いで経営判断を下しているとしか思えないと著者はいう。確かに有名な経営者の言動、例えばスティーブ・ジョブズや松下幸之助の事績を見ると、論理よりも感情が見え隠れする。

経営者といえども人間だ。時間も有限にしか持たない。つまり、どこまでを自らの手で行い、どこまでを任せるのかについての線引きをきっちり行わねばならない。それがすなわち、本書でいうハンズオンとハンズオフの境界なのだろう。とくに、オフの線引きが重要なことは本書から読み取れる。私の場合もそう。コーディングはまだしも、テストまで手を染めることはやりたくないし、やってはならないと思っている。ところが、先日、某案件で私自身がテスターとなってしまった。忸怩たる思いに苛まれている。

著者は経営で重要なこととして「自由意志の原則」を挙げている。本来経営とは自由意志に基づくはず。ところが「⚪⚪せざるを得ない」という理由で経営の舵取りをする経営者がいかに多いか、と嘆く。これも耳が痛い。弊社の場合、さしずめ「人を増やさざるを得ない」「案件を請けざるを得ない」から経営しているといえよう。

第1章が、「経営者」の論理であるなら、第2章は、「戦略」の論理を取りあげている。ここで重要なのは、「連続性」と「非連続性」の観点だ。ここでいう連続性とはルーチン業務を指す。この連続性のラインに載っているかぎり、イノベーションは生まれない。同業他社から一歩抜け出すためには非連続性の中に踏み込まねばならない。著者がここで持ち出すのは、米国のサウスウエスト航空の事例だ。航空業界の中にありながら、あえてLLCという機軸を生み出す。そして業績を好転させる。一方で著者は、IT業界を技術革新の連続からなる非連続性の業界と解釈する。アマゾンは非連続性の中でユーザーの購買行動という連続性に着目し、業界のみならず、全産業の中でも巨人となった。新規の事業ではなく、従来からある事業の連続の中に商機を見いだしたからこそ、アマゾンはその地位を得た。

ちなみに著者は非連続性の業界の例としてIT業界をあげたが、連続性の部分もある。いわゆるSESだ。多重請負のもと、大手開発案件に技術者を派遣する業務だ。私も以前はこの業態の末端にいた。この業態には残念なことにイノベーションはない。私自身も未来を感じられずにいた。それなのに十年近くも在籍してしまった。それは私の後悔であると同時に、本書の記載に唯一疑問を抱いた点だ。

あと、この章では攻撃は最大の防御という戦略も描かれる。著者はご自身の頭髪を例に挙げ、ユーモアをたっぷり振りかけつつ戦略を語る。本書は全体的にこのような脱線が随所に挟まれ、心を和ませてくれる。「善し悪し」よりも「好き嫌い」で経営は語られるべき、を実践するかのように。

第3章は、「グローバル化」の論理だ。

この章にも重要な指摘がちりばめられている。そもそも著者は、グローバル化に当たっては、三つの壁があるという。それは英語の壁、多様性の壁、経営人材の希少の壁だ。それらはある意味では分かりやすい構造だ。しかし、著者の視点によると、この壁はかなりの誤解を生んでいるという。まず、英語の壁は英語の能力ではない。コミュニケーション能力の壁であること。多様性についても同じく誤解が生じている。それは、経営とはどこかで統合しなければならないことだ。各部門が好き勝手やっていたら会社は成り立たない。当然の指摘だと思う。「経営の優劣は多様性の多寡によってではなく、一義的には統合の質によって左右される」(119p)

三つ目に挙げられた経営人材の希少。経営人材とは、一章で挙げられた経営センスを持った人材を指す。スーパー担当者だけでは会社は回らない。センスを持った人材を育てなければならない。「非連続性を乗り越えていける経営人材の見極めは多くの日本企業にとって最重要課題である」(131p)

もちろん弊社にとっては、私自身が経営人材として舵取りをしていかねばならないわけで、肝に銘じねばならない。

第4章は「日本」の論理。ここも、日本にしがみつかざるを得ない(という自由意志を放棄したような)、弊社にとっては心強い内容に満ちている。いわゆる日本の終わりを予言する論調。それらの論調に反し、著者は日本の優位を説く。例えば日本が抱える問題で筆頭に挙がるのは少子高齢化だろう。だが、著者に言わせれば、それは逆を返せば問題が分かっていることと同じ。そして問題が事前に分かっていれば対策も採りやすい。一方、諸外国にも問題はある。日本と違い、諸外国の抱える問題は不確定の要因からなっている。たとえば宗教の対立、民族の対立などの問題はいつ何時どのように起こるか分からない。日本の場合はその問題が相対的に低いため優位な地位にあるというのが著者の分析だ。また、日本の企業は専業志向であるため、その分野では底力を発揮するというのも著者の見立てだ。諸外国の企業はポートフォリオ経営に特化し、採算が悪ければあっさりとその事業を売却する。日本でも大手の家電メーカーは、事業の切り売りをはじめているが、中堅どころの体力のあるメーカーは専業志向で頑張っていると著者はいう。

第5章は「よい会社」の論理。

この章で著者は、若者のブランド志向を指摘する。かつての私を思い返すと耳が痛い。顔から汗が噴き出る思いだ。就職活動の時、ろくに会社分析をせず、イメージだけで選んでいた私自身への痛烈な指摘が続く。私はこの時の経験から大企業への信仰がすっかりうせてしまった。今、零細企業の経営者として恥じるところはまったくない。ところが今の若者たちの多くはまだ企業をブランドイメージで捉えていると思う。消費者として眺めたときのイメージと、働く側で見据えたイメージの落差。先日もとある方としゃべっていたが、その方からはいわゆる大手企業にある官僚的な体質、社風について懇々と教えていただいた。

良い会社とは、いわゆる企業ランキングではわからない。そこで著者はGPTWインスティテュートによる働きがいのある会社ランキングを推奨する。このランキングは従来の指標とは一線を画し、働き甲斐に着目したランキングなのだそうだ。

第6章は「思考」の論理。

ここではもう少し経営センスのコアな部分に着目する。「抽象」と「具体」の往復。それこそが、地頭の良さを決めると著者はいう。その振れ幅の大きさこそが、行動や選択の幅や人間の器を大きくする。頭でっかちなだけでは駄目で、猪突猛進なだけでもだめ。両方が出来る人こそが器の大きい人物なのだろう。また、情報と注意をトレードオフするコツとして、巷に溢れる情報の渦の中で、どこまでを取捨選択すべきに帰ったについて、著者は語る。私の場合はSNSからの情報を絞ることにした。結局のところ、SNSから得られる情報量と時間の生産性を考えると、どうしても生産性は落ちる結論に達する。私はそう割りきってSNS投稿を行うように変えた。私の考えでは、自分のビジネスの広告効果より、生涯の収穫量に重点をおいている。

このように、本書はさまざまな視点から考えさせてくれる。

’2018-06/22-2018/06/30


ローカル線で地域を元気にする方法: いすみ鉄道公募社長の昭和流ビジネス論


2015年は、私にとって地方創生を意識した年であった。地方創生に関するイベントにも参加したし、今年2016年には実際にその現場にも訪れた。先覚者達の見識を吸収した一年。その流れは本稿を書いている今もなお続いている。

本書は、その流れの中で読んだ一冊だ。著者は大手外資系航空会社の職を擲ち、いすみ鉄道の公募社長に就いた人物。鉄ちゃんとしてその世界ではよく知られる人物らしい。

いすみ鉄道とは、千葉県にある私鉄である。旧国鉄木原線を第三セクター転換し、今に至っている。しかし、房総半島の太平洋側から内陸に向けて延びる立地ゆえ、発展の望みは薄い。言い方は悪いが倒産廃止寸前の零細私鉄だったといえる。少なくとも著者が社長就任時点でもまだまだ予断を許さない状態だったようだ。

こう書くと誤解を与えるかも知れない。その誤解とは、本書の内容が功なり名遂げた経営者による過去の業績を誇る類の本という誤解だ。

だが、本書は少し違う。著者は今もなお、いすみ鉄道の社長である。そして、いすみ鉄道は今もなお、著者を筆頭に社員たちによって必死の経営努力が続けられている。とうに潰れてもおかしくないのに、著者の繰り出す経営施策によって延命している。やれることはなんでもやる。社長が自ら広告塔役を背負うことは当然。著者自らもブログで情報や理念を発信し、賛同者を募っている。本書はそのブログを書籍化したものだ。つまり、本書は過去の業績を誇るどころか、現在進行形で進む存続への苦闘をブログにして刻んだ成果なのだ。本書に書かれた内容は今もなお、活きている。

いすみ鉄道は国鉄木原線の時代、国鉄久留里線と接続し、市原へと繋がる構想があったらしい。房総半島横断線として。しかし、時代は効率化優先の車社会へと変わってしまう。そればかりか国鉄からJRへと経営母体も変わってしまう。そんな向かい風の中、市原への延伸計画は棚上げされる。都心へのアクセスが断たれたいすみ鉄道の存在意義はますます薄れるばかり。名所名刹といった観光資源もなく、遠方からの旅行者は見込めない。

存続の見込みなく、座して廃止を待つのみ。

普通の経営者はそこで諦める。しかし、著者は違う。著者はおのれが鉄ちゃんとして培ってきた想いをすべていすみ鉄道に注ぎ込む。その姿は、芸は身を助ける、を地で行くようだ。もっともいすみ鉄道の場合、趣味は会社を助ける、が正しい訳だが。

鉄ちゃんとして外野からあれこれ評論し批評するだけでなく、経営者として実践しているのが著者の凄いところだ。鉄道ファンとしての究極の夢の一つは鉄道会社の経営者ではないだろうか。著者が安定した職を捨て、いすみ鉄道の公募社長に転身したのも、夢の実現の過程なのだろう。鉄道を中心とした街づくりをシミュレートする「A列車で行こう」という有名なゲームがある。著者が日々行う経営とは、 「A列車で行こう」 の様な机上のデータで済むようなスマートなものではないはずだ。足と知恵と口で地域をこまめに回るような泥臭いものなのだろう。恐らくは苦しいこともあるだろう。けれども、著者の日々は充実しているに違いない。そういった泥臭い経営の積み重ねで著者が得た気づきが本書には記されている。

著者の行った施策のうち、よく聞くのは運転士公募制だ。運転士公募制とは、運転士になるための授業料700〜800万円を自己負担すれば、運転士として雇用するというものだ。鉄ちゃんとしての究極の夢の一つは電車の運転士になること。自らも鉄ちゃんである著者だからこそ思いつける企画だと思う。その夢への憧れも、実現への難しさもよく分かっているからこそ発想できたに違いない。そして同時に、鉄ちゃんが鉄道会社の社長に、という夢を実現した著者だからこそ、運転士という夢が実現できないはずはない!と世の鉄ちゃんに発破をかけているのだと思う。

もう一つ、本書で印象的なのは逆転の発想だ。いすみ鉄道のアクセスの悪さ。これもまた、著者の手にかかればいすみ鉄道の売りとなる。「なにもない、がある」は、いすみ鉄道の状況を逆手にとった名コピーだ。そこには開き直りとも云える美学がある。開き直りといっても捨て鉢なそれではない。むしろ開き直ることで、余計な虚飾や見栄が省かれる。いすみ鉄道の素の姿、いすみ鉄道の本質が売りとなる。素顔を晒し、ありのままを見せた者に、人は敵意を捨て丸腰で相対してくれるものだ。

マーケティングとは、あえて斜めにいうと、金を抱える消費者の警戒心の裏をつく作業だ。そのマーケティングに腐心するのが大抵の企業だとすると、明け透けに消費者に相対するいすみ鉄道は、その真逆を行く。「ありのままそこにある」いすみ鉄道に、消費者が勝手に魅力を付与していく。これは、なまなかの経営者に出来る発想ではない。もはや悟りの境地の経営といっても良いほどだ。

いすみ鉄道の普通とは逆を行くマーケティングは、いすみ鉄道に遊びに来ても列車に乗らなくてもいい、という著者の言葉にもつながる。それはもはや鉄道会社の存在意義を自ら否定するに等しい。常識をひっくり返すような著者の経営手法は、おそらくは外資系出身の著者が養った素養にも求められるのではないか。

だが、このままでは志を持った著者のような経営者が跡を継がない限り、いすみ鉄道の将来は心細い。いすみ鉄道にとっての悲願は、小湊鉄道と接続し、東京湾からの直通列車を走らせる事だろう。相互接続については、本書によれば著者自らが小湊鉄道に働きかけているようだ。私もそれが実現する事を願ってやまない。

実は本書を読み終えて10ヶ月経った2016年8月に、家族で養老渓谷を訪れた。その帰りに少し足を伸ばし、上総中野駅を訪れた。上総中野駅はいすみ鉄道と小湊鉄道が接続する駅である。だだっ広い駅前広場に、竹をあしらったトイレが異彩を放っている。駅舎は一つで、その中は待合室が一つあるきりの構造。片側を小湊鉄道が、もう片方をいすみ鉄道使用エリアとして分けられていた。そこにあるポスターやちらしの内容からも、いすみ鉄道が一生懸命PRに努めている事が見て取れた。待合室の一方の小湊鉄道と比べると経営への熱意は歴然と表れていた。駅のホームは二つ。両社が一つずつ使っていた。ここでも両社の違いはすぐに分かる。いすみ鉄道のホーム上にある自販機にはラッピングが施されていた。ホームにも世話を欠かしていない花壇が設えられており、いすみ鉄道が一生懸命存続への企業努力を続けていることは痛いほど感じられた。

なのに、線路は繋がっていない。すぐ横を並走しているのに、線路は切り離されたままだ。ほんの一足で、横の線路に飛び移れるほどの近さなのに、互い違いとなっている線路。ほんの少しだが無限に遠いその距離が、いすみ鉄道の現状と著者の無念さを表しているように思えてならない。著者もさぞや歯がゆい思いでいる事だろう。同情を禁じ得ない。そしてこの線路が早く繋がる日の来ることを私も待ちたいと思う。

この時、私が訪れたいすみ鉄道の駅は上総中野駅のみだった。他の駅、特にいすみ鉄道の中心駅である大多喜駅には訪れる時間がなかった。なのでいすみ鉄道の様子がわかったとはとても言えない。しかし地方の駅の醸し出す雰囲気がとても好きな私としては、応援したいと思う。それ以上に、同じ経営者として著者の経営努力に対して尊敬の念を惜しまない。ローカル線再生は、地方再生にもつながる。地方再生において求められる発想とは、官僚的発想ではなく、著者のような在野の実務家からしか生まれ得ないのではないか。私もそんな著者の努力については、できる事があればまた訪れるなどして応援したいと考えている。

と、本稿を書いていて、まだそれが実践できていないことに気付いた。慌てて上総中野駅でちらしを見かけたローカル鉄道.comにも会員登録した次第だ。皆様も是非登録して応援してあげて欲しい。

‘2015/10/18-2015/10/18


シンプルに考える


先日レビューをアップした「WORK SHIFT」は第一回ハマドクで取り上げられた一冊だ。その内容は起業したての私に大いに示唆を与えてくれた。まさにビジネス本読書会のハマドクに相応しい本であった。

第一回ハマドクから一ヶ月を経て、第二回ハマドクが催された。そこで取り上げられたビジネス本が本書である。

著者は社長として、LINEのサービス開始から飛躍までを引っ張った人物として知られる。本書の内容もまた、LINEプロジェクトの中で著者が実践した経営・組織についての考えを軸に編まれている。

長時間の定例会議、大部な報告書作成。組織が肥大化するにつれ、増えてゆく作業だ。これらは云うならば組織運営のためだけに発生する作業である。組織を維持するためのイベントや作業が企業内で蔓延し、本業に関係ない作業が増え続けてしまった状態。それをいわゆる大企業病と呼ぶ。本来ビジネスに必要なのは、対顧客への直接的なサービスだけのはず。しかし、顧客へ提供するサービスの背後では、内部統制や組織運営の名の下に間接業務が増えていく。それらの多くは報告の為の報告、会議のための会議に陥りがちだ。対顧客サービスには直接関係しない間接作業は、企業の意思決定を鈍らせ、場合によっては歪ませすらする。複雑となった組織では、得てして経営者の想いが反映しづらくなるものだ。

著者が本書で言いたいことは全て題名に込められている。「シンプルに考える」。タイトルからしてシンプルそのものであり、著者の考え方そのものだ。

著者は本書で軽量で機動的な組織運営についての考えを語る。本書はマニュアル本でもノウハウ本でもない。具体的な方法が載っている訳でもない。しかし、本書の全体で著者の考えが充分に示されている。それらを実践した結果がLINEプロジェクトであり、LINEサービスなのだ。

今でこそ様々な機能が盛り込まれているが、LINEの本質とはテキストとスタンプによるメッセージツールといってもよいだろう。その背後にある哲学はシンプル極まりない。そして著者の唱える「シンプル」が成果となったのがLINEである。それに比べると大抵のWebサービスは機能を盛り込もうとしがち。その結果、複雑なインターフェースや機能が盛り込まれたサービスになってしまい、ユーザーからそっぽを向かれる。そうやってユーザーの支持を失っていったサービスは枚挙に暇がない。しかし、LINEの背後には「シンプル」という著者の哲学がある。顧客のニーズを追求した結果、シンプルな機能以外をそぎ落としたサービスとしてLINEは世に出た。それは複雑という名の袋小路に入り込んだSNSやメッセンジャーとは一線を画す。サービスをシンプルに、顧客ニーズに合わせたことがユーザーに支持され、世界進出するまでになった。LINEプロジェクトを率いた著者の哲学とLINEのサービスはまさに表裏一体。本書の読者は、行間の至るところでLINEのインターフェースを思い浮かべることだろう。

はじめに、で著者は問う。会社にとっていちばん大切なことは何か?と。そしてすぐに答えを示す。ヒット商品をつくり続けることであると。それにはどうすればよいか。ユーザーのニーズに応える情熱と能力をもつ社員だけを集める。そして、彼らが、何物にも縛られず、その能力を最大限に発揮できる環境をつくり出す。シンプルに考えるとは、このように問いと答えが一本の線で繋がっている様をいうのだろう。そこには大企業病の入り込む余地はない。

本書は以下、組織を運営する上で、著者が感得したシンプルな考えの数々が披露される。

実はそのほとんどは、はじめに、で列挙されている。それもシンプルな言葉で。

「戦わない」
「ビジョンはいらない」
「計画はいらない」
「情報共有はしない」
「偉い人はいらない」
「モチベーションは上げない」
「成功は捨て続ける」
「差別化は狙わない」
「イノベーションは目指さない」
「経営は管理ではない」

各章で著者が述べるのは、これらフレーズを分かりやすく砕いた説明に過ぎない。だが、その実践は簡単ではない。著者のいう内容は、実は今までは一般の経営者にとっては理想論でしかなかった。経営学の実務でもまともに取り上げられなかった類の空論といってもよい。例えば報告の廃止、研修・教育を前提としない、研究や開発部門の撤廃、経営理念・計画の除外といった施策の数々。企業を利益を生み出すプロフィット部門と利益を生み出さないコスト部門に分けるとすれば、これらの作業は全て組織のコスト部門に属する。コスト部門のスリム化は、大企業経営者なら誰もが思い付くことだ。しかし著者が実践したような大幅なカットは、組織運営の実務を考える上では異端の手法といってもよい。著者は普通なら理想論として一顧だにしないことを実践し、LINEを世界に通用するインフラアプリに育てた。

その秘密とは、はじめに、で著者が記している。上にも書いた「ユーザーのニーズに応える情熱と能力をもつ社員だけを集める」がそれだ。とくに「だけ」に傍点が振られていることに注目しなければならない。著者の論点の芯とは、目標設定とコミュニケーションに長けた社員「だけ」を揃えることなのだから。そういった社員にはそもそも教育が不要であり、日報による達成度の報告も不要。余分な内部統制がなくとも自律的に組織の意を汲み、能動的に動く。そういった「使える」社員で組織を揃えるということだ。なので社会人として未熟かつ能力未知数な新卒採用など論外。組織の意図を瞬時に汲み取り、プロダクツに反映させられる人物のみを中途採用で集めれば、間接業務は極限まで省け、なおかつ統制の取れたチームワークのもと、時代の求めるプロダクツが送り出せる。そのプロダクトこそがLINEではないかと思う。

念の為にいうと、LINEプロジェクトの就業実態はブラックでもなんでもないと思う。むしろ逆だろう。高い目標が設定されたとしても、それを越えるだけのスキルとハートを持った人の集まりなのだから。著者のLINEチームが結果を出せたのも、そもそもメンバーが優秀だから。という当たり前の結論に落ち着いてしまう。

こう書くと、私が本書に対しネガティブイメージを持っているように捉えられるかもしれない。しかし、それは違う。むしろ本書にはポジティブイメージしか持っていない。というのも採用業務の重要性をここまで雄弁に語ったビジネス本にはまだ出逢ったことがないからだ。

いくらITが発達しようとも、所詮ビジネスとは人の営み。人あってのビジネス。ビジネスを成功させるにはいかにして優秀な人物を集めるかに掛かっている。そんな根本のことが、本書には記されているように受け止めた。

ただし、私は本書をポジティブにとらえてはいるが、一つ重大な疑問をもっている。それは、著者がLINE社長を退任した理由だ。著者は2003から2015年までの12年を過ごしたLINE社を退任した。はじめに、でその事が書かれている。また、その理由として、著者にとっての役目が終わったから、という説明が付されている。

確かにそうなのかもしれない。LINEはいまやコミュニケーションに欠かせない手段となっている。インフラといってもいい。ここまでLINEを世に認知させたことで、著者の役割が終わったという理由には確かに一理ある。だが、退任の理由とは単にスタートアップを率いた著者の役目が終わったからなのだろうか。言い換えれば、著者が本書で述べた手法とは、サービスのスタートアップ時には有効だが、保守フェーズに入った企業には用いづらい手法だから著者はLINEプロジェクトを離れたのではないだろうか。

心なしか、著者が辞任してからというもの、LINEサービスの体系が複雑化している気がしてならない。サービスのラインナップは増えているが、それがLINEの良さであるシンプルさを失わせないか気になる。

著者はLINE辞任後にC Channel株式会社という新会社を起こしたという。 本稿を書いた時点では1年半しか経っておらず、まだまだこれから成長してゆく企業なのだろう。LINEサービスの今後とともに、著者の新会社の行方を見守っていきたいと考えている。その二つのサービスのこれからに、著者が本書で述べた経営哲学の成否が顕れてくるのではないかと期待しつつ。その結果、日本的経営という20世紀の神話のこれからが見えてくるのではないかと思う。

‘2015/9/23-2015/9/23