家族で台湾・台北101・台北 2019/7/25


最終日の朝は、のんびりと過ごす予定でした。

ですが、私はのんびりと起きている場合ではありませんでした。
なぜか。
この晩、私はベッドの掛け布団の外に足を出して寝てしまったのです。
おいしい獲物を虫たちが見逃すはずがありません。私の両足は虫たちの格好のターゲットにされました。
朝、目覚めた私の両足には無数の虫の噛みあとが残されていました。強烈なかゆみをともなって。
朝からカイカイと足を掻きまくる私。
これは私の失敗でしたね。

妻子はホテルでのんびりするというので、私は一人でやりたかったことをするため外に出ました。
それは、自転車で台北の街を巡ることです。24年ぶりに。

24年前。台湾を自転車で一周する旅に出た若者五人。台北の新光三越百貨店でマウンテンバイクを購入しました。
ですが、二日目で一人が山道の登りについてこられず脱落しました。
さらに南端を回り、台南に着いたところで、一人が日本での用事があるため、電車で帰って脱落しました。
台南からの道中は三人となりました。
新竹からの最終の行程で、私以外の二人は、先に桃園国際機場に自転車を置いてくる、といって離脱しました。
なので、台北まで自転車で戻ってきた時、私一人でした。
夜、放し飼いにされた犬に追いかけられりしながら、たった一人で台北の市街に戻ってきた私。
台北の第一大飯店に戻ってきた時の高揚感と達成感と湧き上がる喜び。その時に感じた全能感は、その後の私の人生にも多大な影響を与え続けています。


私は一周を成し遂げた感動のあまり、その時、ホテルのフロントにいた陳正容さんに台湾一周の証明書を書いてもらえないか、とお願いしました。
つたない英語で道中を説明した私。今から考えるととても厚かましいお願いでしたが、陳正容さんは夜間にそれを書き上げ、部屋のドア下に差し込んでいてくれたのです。
陳正容さんの消息については、私は何度かFacebookで検索しましたが見当たりません。同姓同名の方はいらっしゃるのですが。
今回の旅でお会いできないことは承知でしたが、第一大飯店には必ず再訪し、当時の思い出をもう一度温めたいと願っていました。


台北の街にはYouBikeというレンタルサイクルのサービスがあります。クレジットカードで登録しておくと、自転車が借りられるサービスです。
最近、日本でも同じようなサービスが増えています。ですが、私は日本では使ったことがありません。
初めてこのようなサービスを使ったのが、私が自転車で壮挙を成し遂げた台湾というのも何かの奇遇を感じます。


無事に自転車を借りられたので、24年の歳月を感じながら万感の思いで自転車を漕ぎました。
24年前と変わらぬ台北駅から、当時、自転車を購入した新光三越百貨店を通り、そして第一大飯店へ。
おぼろげでセピア色だった私の記憶に色がよみがえってきます。
24年前から何も変わっていないように思える台北の街並み。
ようやく来られた、という感動の瞬間でした。
街のすべてを心に刻もうと、あちこちを写真に撮る私。撮らずにいられましょうか。


帰りには二・二八和平紀念公園にも寄りました。
二・二八事件とは、台湾が国民党の統治下におかれてすぐ、本省人(元から台湾に住んでいた人々)と外省人(国民党)が対立し、国民党による弾圧が行われた事件を指します。その事件をきっかけとして、台湾には長い間戒厳令が敷かれました。
この公園は、その事件を記念するために設けられたといいます。


24年前には来なかった場所を訪れ、中華民国総統府などあちこちを寄った私。あと二日ぐらい、台北を自転車で巡る幸せに浸っていたかったのですが、ホテルのチェックアウト時間が迫っています。
自転車を返し、ホテルに戻ったのはチェックアウト15分前。部屋で速攻でシャワーを浴び、ロビーに走って何とか妻子と合流できました。

さて、この日は台湾の最終日。
残り少ない時間を有効に使わなければ。

ホテルを出た私たちが向かったのは、MRTの龍山寺駅。そこから、西門駅で乗り換え、松山新店線へ。降り立ったのは公館駅です。
そこで見かけたのはMister Donuts。娘がアルバイトをしていることもあって、日本との違いに興味津々。日本にはない商品もあり、いろいろと買い込みました。


さて、この日の最初の目的地は台湾スイーツの名店です。家族が行きたいと望んだのはMr.雪腐というお店。
削ったかき氷にたっぷりとかかったシロップが絶品でした。妻も娘もとてもおいしいと絶賛の味でした。こうしたスイーツがさして行列もせずに食べられるのが本場のうれしさです。


Mr.雪腐のお店を出た後、次の目的地に向かおうと通りを歩いていると、なんと、KAVALAN Whiskyの路面店を発見しました。
今回の旅では花蓮にあるKAVALAN Whiskyの蒸留所にも行きたいと思っていた私。行程の都合であきらめていましたが、こうやってお店に巡り合えて感激です。
私一人でお店に入り、なめるようにボトルの数々を見て回りました。日本ではあまり見かけないブレンドや樽が並ぶさまはまさに眼福。
店員さんに断りをいれて店内も撮らせてもらいました。
そして、見るだけではなく一本買って帰りました。


MRTの台電大樓駅まで歩き、そこからMRTの中正記念堂駅へ。そこで淡水信義線に乗り換え、台北101/世貿駅へ。
言わずとしれた台北101のふもとの駅です。
台北101は超高層ビルとして、一時は世界一の高さを誇っていました。今も台北の新たな観光名所として名高いと聞きます。
24年前にはできていなかったので、私にとっては初めての訪問です。


そこのフードコードでしばらく時間を過ごした私たち。
妻も娘たちも、すでにおなかも旅の経験も満腹の様子。もりもりと101のお店を巡ろうとは思わなかったらしく、まったりとした時間を過ごしました。
私はフードコートの中でBuckskinのカウンターを見つけ、クラフトビールをいただきました。今回の旅ではクラフトビールのブルワリーにも行きたかったのですが、期せずして最終日にいただくことができました。
その後、妻子でいくつかのアパレルの店々を巡っているさなかに、きちんとしたBuckskinのパブを見つけたので、つたない英語で「コースターをくれないか?」と話しかけて無事にコースターも入手できました。


妻も娘たちも満足したところでMRTに乗って中正記念堂駅と西門駅を経由し、龍山寺駅へ。そろそろホテルに預けている荷物を持って空港へと向かわねばなりません。
ホテルに別れを告げ、台北駅を通り、台湾のにぎわいを目に焼き付けました。
そして桃園国際機場へ向かうMRTへ乗り換えました。いよいよ台北の景色ともおさらばです。


空港では日本でもおなじみのタピオカチェーンのCOCOでタピオカを頼む娘たち。今回の旅で、いったい何店舗のタピオカを制覇したのか。覚えていないぐらい、タピオカ店に行きました。
初日にはおどおどしていた娘たちも、だいぶ台湾に慣れてきており、しかも台湾が好きになってくれたのがうれしいです。
ただ、時間に余裕がなかったため、免税店にはあまり長くいられず、食事をとる時間もありませんでした。
それでも、素晴らしい四日間の余韻に漂いながら、日本へ帰る旅人として出発の時間を待つ私たち。


いよいよ、peach航空に乗る時間は迫り、夕闇の桃園国際機場を離陸した私たち。
羽田に着いたのは夜中の一時過ぎで、Tully’s Coffeeでしばし時間を過ごしました。
そしてそこから車を駆って家へ。

四日間の旅はこうして終わりました。実に楽しく有意義な時間が家族と過ごせたと思います。
娘たちも妻もまた台湾には来たいとか。娘たちにとっては物心がついてから初めての海外が台湾でよかった。気に入ってくれて親としても満足です。

私は帰宅して少し寝た後、さっそくCybozu社の本社で長時間の開発者向けイベントCybozu DevCampへと。
尾瀬から台湾、そして都心へと続いた六日間は、全力で開発者としての本分に立ち返る時間で締めました。
DevCampの会場でしきりと足を掻きむしり、真っ黒に焼けた変な人を見かけた方。私は前日まで台湾で日に焼け、虫に刺されていたので許してください。

そうしたあれこれの思い出も、この素晴らしい毎日のたまものから。すべてに感謝です!

そして、コロナで一変した世界に生きる私たちが、またこうした海外への旅に出かけられる日を心の底から願いたいと思います。


家族で台湾・十分・士林 2019/7/24


ホテルを出た私たちは、台鉄の萬華駅から乗車しました。この方が台北で乗り換える手間が省けるのです。
それにしても台鉄の駅は暗い。
昨年も感じたことですが、この萬華駅はとくに照明が乏しいように思い、不安になります。

今日の行き先も昨日と同じく瑞芳駅。台北で適切な列車に乗り換えれば、あとは電車に乗っているだけ。
しかも、前日のようなアクシデントも起こらず平穏でした。昨日とほぼ同じルートをたどり、瑞芳駅で下車。
今回は瑞芳駅からバスに乗り換える必要もありません。少し時間がありました。なので、駅前を少し散策しました。

駅から歩いてすぐの道端の屋台では、大腸包小腸というものが売っていました。
これは、もち米を腸詰めにしたソーセージに切れ目を入れ、間にさらにソーセージをはさんだ食べ物です。これがとても美味しかったのです。
さらにその道を進むと、瑞芳美食街という屋内の屋台村のような場所がありました。
ここに入ってさまざまなものを食べましたが、どれも絶品。胡椒餅も美味しかったし、私がひとりで入った店で食べた牡蠣のお好み焼きみたいなものもとても美味しかったです。


庶民の味であってもどれも絶品で、パクパクと食べてしまいました。ここの瑞芳美食街は、地元の高校生たちも大勢で訪れていて、まさに地元に密着した場所でしょうね。また訪れたい場所です。

さて、電車の時間が迫ってきたので、瑞芳駅にもどりました。瑞芳駅から出ている平渓線への直通列車です。
この平渓線は、確か江ノ電とも提携していました。日本でも黄色い車両の気動車として知る人ぞ知る存在です。軒先をかすめるようにして走る電車といえば知っている人もいるかもしれません。
今回は周遊券を瑞芳駅で買って向かいました。
ローカルな感じの沿線を電車は走ります。ある程度の川幅のある川に沿って。そして、緑に満ちた森林地帯へと進みます。草が車体をこする葉音が旅情を高めてくれます。


車窓からはいくつも滝が見えます。それも、一つ一つの滝が相当の規模を持っているようです。列車から飛び降りて観に行きたくなります。でも、我慢。このあと滝も見に行くのですから。
列車は店々の軒先のすぐ前を走ります。なかなかワイルドであり、日本では味わえない光景です。


駅に着くと、大勢のお客さんが降りました。私たちもそれに続いております。
先ほど通ってきた軒先にある店々には、色とりどりのお土産が売っています。
さすがに昨日、九份で数えきれないほどのお店に寄ったので、今日はそれほどお店には食指が伸びません。


まず、私たちが目指したのはランタンです。巨大なランタンを空に飛ばす名物。
この日の目的の一つが、このランタンでした。
その四方に、家族の四人が一人一面、思い思いのメッセージを書きます。そして、それを空に飛ばすのです。
娘たちはそれぞれの思いを書き、私も妻もそれぞれの願いを書きます。
これからの心がけ次第ではありますが、願いよ叶えと。


思ったよりもランタンは高く飛び、かなりの高みに昇って行きました。
もちろん周囲では他にも無数のランタンが飛んでおり、私たちのランタンは上空で他のランタンと見分けがつかなくなりました。

このランタン、線路の上で飛ばすのです。日本では線路に立ち入るだけでもうるさく言われます。こうした非日常の場所で願いを書いたランタンを空に飛ばす。まさに非日常の極みです。


後で駅の近くを歩きまわった時、あちこちにランタンが落ちていました。それをおばさんが回収している姿も目撃しました。果たして私たちのランタンはどこまで飛んで行ったのか。
全てが異国ならではの貴重な思い出です。

私たちが続いて向かったのは、十分瀑布です。私が昨年も来ようと思ってこられなかった場所。滝が好きな私にとって今回の台湾旅行で最も楽しみにしていた場所。

川に沿った小道を歩いて行きます。歩いていると日本とそう変わりないようには見えますが、十分の駅前の喧騒を過ぎてさらに歩くと、少しだけにぎわいの消えた商店街のような一角があります。
その軒先には無数のツバメが飛び交っていて、あちこちに巣が見えます。
この辺りの自然の豊かさが感じられます。


小道を歩いていくと、先ほど私たちが乗ってきたばかりの平渓線の鉄橋があり、その脇を私たちは階段で登ります。
その登り口のすぐ側には滝があります。眼鏡洞瀑布です。
この滝もなかなかの滝姿です。私にとって初めてみる海外の滝。その感慨を存分に味わいながら、滝の前でたたずみました。


しかも、平渓線の鉄橋に沿った通路を歩いていると、ちょうど平渓線の電車が通ってきました。その動く姿は、電車が好きな方にはたまらないはずです。
旅情に溢れた音と動き。私もその喜びを存分に堪能しました。


なおも歩いていくと、何やら広場がありました。
前日の九份もこの日の十分も、昔は炭鉱でにぎわった場所。
この広場には炭鉱のよすがを感じさせる展示物が露天に雨ざらしで展示されていました。

この辺で、すでに暑さのあまり妻と娘は音を上げていました。そもそも滝に興味ないから、十分瀑布にも興味がなく。

ですが、私は台湾随一の滝とされるこの滝は絶対に見たい場所でした。
一つの川が丸ごと滝となって流れ落ちる様はまさに圧巻。その水量と飛沫の量は東洋のナイアガラと呼ばれるだけのことはあります。
あえてこの滝の残念な点をあげるとすれば、滝頭の部分にうまく水がたまるように少し人の手が入ってしまっていることでしょうか。
ですが、それを差し置いてもこの滝は見る価値があると思います。とくに滝が好きな向きには。
私はしばらく、滝の前から動けませんでした。まさに立ち尽くしていました。満足です。


滝の周りには一時間ほどもいたでしょうか。妙なトカゲともであったりしながら。そのうち、妻からLINEでまだかと言う催促が来ました。戻らなければ。


ここで、通信環境について。

今回の旅は日本からレンタルのポケットWi-Fiを借りてきました。
一つのWi-Fiで4人の端末が自由にネットにつなげられ、日本との連絡だけでなく、現地で家族間でLINEの連絡などが自在にできました。とてもありがたかったです。
ところがこのWi-Fiの問題は、Wi-Fi端末から離れるとつながらなくなることです。つまり、四人が常に一緒にいないと不便なのです。当たり前とはいえ、それが行動の足かせになりました。
この時も、私が瀧へ単独で向かったためため、LINEではつながりにくかったみたいです。

LINEをきっかけに現実に戻された私。妻と娘のもとに戻りました。
そして、十分瀑布の演じる見事な景色に別れをつげ、再び十分の街へと戻りました。


途中、駅の近くにあるカフェに寄って休憩。ここのカフェで現地の喫茶店の雰囲気を楽しみました。日本にいる時にもたまに家族で訪れるCaféの時間。まさにこの時もそのような時間が過ぎました。こうした家族四人で過ごす時間がかけがえのないことを感じつつ。

さて、十分駅には一時間に一本程度の電車しか来ません。
なので、妻と娘にはあちこちの店で自由に買い物を楽しんでもらい、私はその間に十分駅を心ゆくまで見学することができました。


この十分駅の特徴を空を舞うランタン以外に一つだけ挙げるとすれば、猫です。
猫が何匹もいるのです。しかもホームの上で自由に寝転がっています。
ネコの自由な姿が見られるだけでも、この駅に来る価値はあります。
もっとも三つ隣の猴硐駅はさらに猫で有名らしいのですが、今回は訪れることができませんでした。

私は十分駅をわが物顔で過ごす猫たちの自由気ままな姿に癒やされながら、夢中で写真を撮りました。
写真を撮るだけでなく、空を飛ぶランタンの姿を眺めたりしながら。


やがて電車が近づいてくる時刻になると、駅員さんが大声で人々を整理し始めます
それとともに、線路の上でランタンをあげていた人々も、さっと姿を消します。


人々がいなくなった線路を、煙を吐いて気動車がやってきました。
そして、十分駅に停車したあとは去っていきます。平渓線の終着駅である菁桐駅までいき、また十分駅に戻ってくるのです。
列車が去ると、次に電車がやってくるまでの間、人々は線路に湧き出てきます。そして、その上でランタンを飛ばし、思い思いに写真を撮ったりします。
このあたりのメリハリこそが台湾で過ごすコツだと思います。自由な時間は線路の上だろうが構わず、列車が来るときはきっちりと間を空ける。
そして、その緩急の大きさこそが台湾の魅力だと思います。そして、この魅力が味わえる場所こそ、この十分駅ではないでしょうか。

さて、菁桐駅から戻ってきた列車が折り返してくる前に妻子と合流し、そこからは帰りの列車に乗り込みました。
帰りの電車では、十分の街の余韻を楽しみ、台湾の田舎の風情を楽しみました。
この景色こそが、私が24年前に惹かれた台湾の風景です。

やがて列車は瑞芳駅へ。この時は乗り換えがあったため、瑞芳駅の外には出ませんでしたが、乗り換えの時間を利用してたくさんの写真を撮りました。こうやって異国の駅を画像に収めておくと、そのディテールだけで後日にも楽しめます。

やがてやってきた乗り換えの列車に乗り、そのまま台北から萬華駅へと移動しました。
萬華駅からはカイザーメトロホテルに戻って荷物を置き、すぐに私たちは出かけました。
MRTの龍山寺駅から台北駅へ。そこで板南線から淡水信義線に乗り換え、私たちが下りたのは士林駅。

ここは士林夜市の最寄り駅です。日本から持ってきた台湾のガイドブックによるとここが台北でも一番規模の大きい夜市なのだとか。

昨年の妻との旅と前日私たちが訪れた夜市は、ホテルにほど近い艋舺夜市と華西街観光夜市だけでした。
ですが、私にとっての夜市とはこんなものではなかったはずなのです。24年前の旅で、私が味わった夜市の思い出。店の人と値段を値切る交渉をしたり、異国のよくわからない飲み物を飲んだり(たしかタピオカミルクだったような)。
その時に経験した心が舞い踊るような楽しさは、上に挙げた二つの夜市では感じられなかったのです。
私はその経験をもう一回味わいたかったし、娘たちにも見せたいと思っていました。
なので、最後の夜は台北でも一番規模の大きい夜市に期待と思いました。

そしてついた士林夜市。まさにその街並みは華やかで、にぎやかさが夜の街を覆っていました。
私たちはそれこそ数え切れないほどの店々を巡りました。チーズケーキのホールの美味しい店があると聞いて行ったら、お店がまさに閉まる寸前で、ラスト一つのチーズケーキを入手したり、多様な屋台の食べ物を楽しみ、臭豆腐にもチャレンジしました。まさにおいしい台湾のグルメが集まっており、それらを心行くまで満喫しました。


さらに、何かちゃんとしたものも食べようと、夜市の真ん中にある市場の下に行くと、熱烈な客引きにつかまり、そこでもご飯を食べました。
よく見ると、隣にも数軒、同じような食堂があります。なのに、私たちが呼び止められたお店があらゆるお客を取り込んでしまうため、私たちが入った店の混雑とは違い、隣の店々が閑散としていたのが面白い光景でした。


こうした台湾の活気があふれる様子を味わうだけでも、士林夜市に来た甲斐はありました。
そして、娘たちにとっても士林夜市はとても良い印象を受けたようです。
今回の台湾の旅でもっとも印象に残ったのは、次女は士林夜市。長女はでした。

士林夜市にはいわゆるグルメの店だけでもなく、Nikeのショップや、台湾のファッションの最新のお店も集まっています。日本で例えるなら原宿のような感じでしょうか。
若い人たちの集まる最先端のエネルギーが士林にはありました。また来たい場所ですね。


夜市を堪能するだけ堪能し、すでに時刻は23時を超えようとしています。この夜市の発する雰囲気こそが、台湾人や中国人が持つエネルギーの象徴なのかもしれません。
日本では、もう同じようなエネルギーは感じられないような気がします。

私たちはホテルにつくと、早速、夜市で買ってきたチーズケーキをいただきました。そのおいしかったことと言ったら。
こうして台湾で過ごす最後の夜も過ぎていきました。


家族で台湾・九份 2019/7/23


朝、ホテルを出た私たちは、MRTに乗って台北駅へ移動し、そこから、台湾国鉄、いわゆる台鉄の駅へ乗り換えました。
台鉄には電車の種別が何種類もあります。
昨年、一人で基隆まで乗りましたが、その時は買うべき切符の種類がわからず難儀しました。
ですが今回はもう大丈夫。適切な電車を選び、四人分の切符を買い求める。台湾の鉄道はもう乗りこなせるに違いない。

そう思いましたが、台湾の鉄道の奥深さは、まだまだ私の理解のさらに先を行っているようです。
まず、座った席が指定席なのか自由席なのかがわからない。
しかも、家族四人で座っていると、途中から乗ってきた人に席にこられて怪訝な顔をされました。
なので、私たちは場所を移動しました。あれ、この電車は指定席やったっけ?

電車は、地下を進み地上へと。私が去年一人で乗った区間です。
異国の電車の旅は格別。
と、その時です。
急にざわざわとしだしたかと思うと、何やら焦げ臭い匂いが立ち込めてきました。
私たちが乗っている電車の前の方から、何やらざわめきとともに人が通路をこちらに向かってきます。
一体何が起きたのか。
焦げ臭い匂いである以上、何かが燃えているようです。
一体何が起こってるのか皆目わからないまま、私たちはいた場所から電車の後方車両に向けて移動しました。


日本だとこのような緊急事態が起これば、電車はすぐに緊急停止するはずです。なのに、電車は止まる気配も見せずに疾走しています。車内アナウンスもなく、何が起きているのか分からぬ私たちに不安が押し寄せます。

私たちが別の車両に移ってから、ようやく車掌らしき人のアナウンスが聞こえました。もちろん何を言ってるのか全くわかりません。
私たちは、不安をこらえながら、異国の電車の中で、心細げに通路に立っていました。
これぞ台湾というべきおおらかさ。私はこのおおらかさが好きですが、娘たちや妻にとってはなかなかの新鮮な経験だったようです。

やがて、電車は何事もなかったかのように八堵駅を過ぎ、瑞芳駅に着きました。
ここで降りたのは、この日の目的地である九份に向かうためです。ですが九份にはどうやって行けばよいのか。バスで行くことは調べていましたが、そのバス停がどこにあるのか分かりません。
まず駅を降り、街へと繰り出しました。瑞芳駅は日本統治の頃の雰囲気を今に伝える堅牢な印象のある駅です。
そんな駅舎を背後に、駅前のあたりを動き、九份へ向かうバス停らしき場所を見つけました。
その前に、時間に少しだけ余裕がありそうなので、娘の目当てであるタピオカ屋さんに行きました。
85度Cと書かれたこの店。日本にも支店を出しているそうですが、早速、今の旅で二軒目のタピオカを娘たちは楽しみました。


この店の隣にはケーキ屋さんもありまして、とてもかわいいケーキが色とりどりに並んでいました。
24年前の旅では男五人の旅でした。なので、こうしたお店には全くよることがありませんでした。その当時もこうした洋菓子系のお店は可愛らしいケーキがあったのでしょうか。

さて、タピオカに満足した後は、バスを待ちます。
すると、バスがやってきました。
このバス、日本で言えば観光バスでしか見かけられないような豪華な作りです。悠遊カードを使い、席へ。


九份は台湾随一の観光地でもあり、私にとってもはじめての訪問です。
とても楽しみ。
やがてバスは山道を抜け、九份のバス停に着きました。
バスを降りると、道には歩道をはみ出して大勢の人々が歩いています。道には車やバスが往来していますが、誰も彼も構わずに歩き回っています。観光地によくある光景です。

人々の流れに沿って歩き、九份の街の入り口へ。
狭い間口は、場末の商店街よりもさらに狭く、暗い感じが入るのをためらわせます。しかも、中からは独特の匂いが立ち込めています。さまざまな食べものと何か得体の知れない物の混じりあった匂い。日本ではまず嗅げないたぐいの匂いです。

その入り口を入っていくと、台湾のディープなお店が両側にずらりと連なっています。今風の店もありますが、昔ながらの台湾食材を扱う店もたくさん。
バラエティーの豊かな店々の様子は、豊かを通り越してカオスです。混沌とした色彩とごった煮のような店に挟まれた通路は観光客でごった返しています。
とにかく人が多く、強烈な匂いに慣れるまでは、歩くのもしんどいほど。


それでも、歩いて行くと、興味深いお店が無数にあるため、つい足を止め、覗き込んでしまいます。
最近の日本ではあまり見られなくなってきたエネルギーが渦巻いています。

やがて歩いていくと、素晴らしい景色の場所にたどり着きました。金山石。ここでしばらく、海と山が作り上げた美しい風景に心を委ねました。

金山石から数メートル戻った場所には、幸福堂と言う名前のタピオカ屋さんがありました。
見るからに美味しそうで、次女は一人で買いに行きました。そろそろ台湾の水になじんできたようです。
ここのお店は、タピオカの煮込みまで見せており、これがとても美味しそうでした。


実際、味はとても美味しかったです。今回の旅の中でも一番印象に残っています。
後日、日本にもこの幸福堂は進出したそうですが、行ってみたいと思います。

さて、幸福堂で甘いものを味わった後は九份茶房と言うお店で、お昼を食べました。
台湾のローカルな味わいが堪能できました。
が、飲み物も含めて日本では味わえない独特の味付けで、しかも量が多い。娘たちや妻には、お腹いっぱいだったようです。
ここも景色が良く、外の風景がとても楽しめました。内装もとても落ち着いていて、ここでしばらく人いきれの疲れを癒やしました。


さて、あたりにはさまざまなお店が軒を連ねています。
どこに行っていいかわからないですが、手当たり次第にいろんなお店に立ち寄りました。

もの珍しげに商品を見回していきます。お酒の店や、チョコレートの店、パイナップルケーキのお店、土産物屋、臭豆腐、スイーツ。
その中でも私たちが行ったのは、カラスミのお店です。今回の旅で、カラスミを買うと決めていた妻。
他にも、キャラクター商品の店や半貴石のお店、時計の店などなど。時計の店では、娘が好きな懐中時計の一つを買ってあげました。
娘はとても満足していました。ここのお店には、酒の瓶を加工して作った灰皿や箸置きなども売られていて、私はそれにすごく惹かれました。買って帰りたかった位です。
ネコも辺りに目立ちます。とても自由な感じが台湾らしくて心が和みます。


観光地だけあって、とても面白い店が多く、しかも日本の観光地ではない独特の商品が見られるので、いくらいても飽きません。
そして、時間はあっという間に過ぎて行きます。
坂を下って千と千尋の神隠しの湯屋のモデルになったとされる建物も通り過ぎ、狭い階段を下へと降りていきました。
と、空が曇り、大雨が降ってきました。昨日に続いて今日も土砂降り。台湾のこの時期は雨が多いことがわかりました。
私たちは慌てて、近くにあった台灣宜龍という茶器のお店に入りました。台湾茶の茶器を扱うお店です。私たちはここで、長時間雨宿りさせてもらいながら豊富な茶器の種類を堪能し、お茶の試飲もさせてもらいました。


皆さん、ある程度のこなれた日本語を話されます。
24年前に来たとき、年配の方がしゃべっていたような、日本の教育の名残があるような感じはしません。あくまでも観光客向けの日本語と言う感じです。
今回は観光客の王道コースなので、旅の出会いはありませんでした。
お茶屋さんでは一時間以上いたのですが。

なので移動し、千と千尋の神隠しの湯屋に似た建物のすぐ近くで雨宿りして、時間を過ごそうとした私たち。
ふと一人で来ていた若い日本人男性と話す機会がありました。
さまざまな話題で会話したのですが、もうこの方の顔も名前も忘れてしまいましたが、木更津にお住まいの方のようです。
旅の中でこうしたご縁ができるというのはまさに一期一会の喜びです。あえてSNSや名刺交換はせずに、ふとした旅のふれあいを堪能しました。


そうしているとようやく雨も止み、落ち着きましたが、すでに時間は17時。お店の多くは閉まり始め、一気に人通りも減ってきました。
それでも私たちは、まだ開いているお店に片っ端から立ち寄り、妻や娘たちが行きたいお店にも可能な限り入りました。ギリギリまで九份を楽しもうと。私も一人で小師父というお店で鶏油飯を食べました。美味い!


バス停近くの展望台から見た夜景はとても美しく、この景色だけでも九份に来た価値はありましたね。

帰りのバスは、心地よく瑞芳駅まで。
ここでもう一軒、超大杯甜品屋というお店でもタピオカを頼む娘たち。もう、買い方も心得てきています。頼もしい。


台北駅から台鉄で帰りましたが、台北で降りずに次の萬華駅まで。実は私たちが泊まっているカイザーメトロホテルは、この駅にほぼ直結なのです。

で、ホテルで落ち着くはずもなく、私たちは再び街へ。夜市を堪能しなければ。
龍山寺のそばにある艋舺夜市と、その奥にある華西街観光夜市へ。
金代山産藥膳坊というヘビ料理の店やアダルトショップの軒を並べるここは、観光客がターゲットではなさそうで、年頃の娘たちを連れ歩くには少々刺激的な場所です。
少し小腹を満たすために屋台でパンを買ったり、前回もきた酒屋さんに寄ったり。


私は夜、ひとりでもう一度街へ出て、コンビニを巡ってビールを探してました。


家族で台湾・中正記念堂 2019/7/22


至仏山を登り、尾瀬から帰ってきた私。
足を休める間もなく、AM3時に家を出ました。

羽田まで車を駆って、国際線駐車場に着いたのはAM4:05。
こんなに早く着いたのも、9カ月前に妻と二人で台湾を旅した際、LCCのチェックイン時間を読み違えた失敗があったからです。

物心ついてから初めて国外に出る娘たちは、チェックインカウンターや税関に戸惑いを隠せない様子。
でも、搭乗口107Bには相当の余裕をもってたどり着くことが出来ました。私はそこでひと眠り。
AM5:50に出発するpeach航空の台北行きには、早朝にも関わらず、多くの旅行客で混みあっていました。

皆さん、旅の期待にあふれています。わが家もそう。何しろ、家族四人で海外に出るのは14年振りなのですから。

桃園国際機場に着いた時も、その興奮は鎮まるどころか高まるばかり。
入国審査までの通路を歩く間にも、壁に貼られた広告に異国情緒を感じて興奮するわが家。
去年来た際は、それまでのドタバタと、台北までの時間のなさに焦っていたため、通路をじっくり見やる余裕がありませんでしたが、空港の通路の広告には旅人を現地になじませる効果がありそうです。


娘たちにとっては初めての入国審査。付き添いなどできないので、娘たちのそれぞれの対応にお任せ。
でも、かろうじて全員が台湾への入国を認められました。


まずは金を入手しましょう、と妻が換金を。さらに腹ごしらえ、ということで空港内にあったサブウェイへ。
台湾でサブウェイを食べるのは初めてかもしれません。まずは英語で注文するミッションをクリア。もちろん英語が話せる妻が。
普段は物怖じしない次女も、さすがに注文にあたっては尻込みし、なかなか話しかけるには勇気がいる様子。


最初はこんな感じでおっかなびっくりだった娘たちが、四日間の台湾の旅をへて、次第に慣れて行く様子が面白かったです。

さて、昨年は時間がなかったので台北までタクシーを使いましたが、今回は悠々とMRTを使って台北まで移動しました。
移動にあたっては、前回は買わなかった悠遊カードを四人分購入しました。係員のおじさんが手振り身振りを交えて買い方などを教えてくれました。


MRTは昨年の帰りに利用して以来。
車窓からの風景も、山々の間に点在する農村風景は日本との違いがあまり感じられません。
ですが、徐々に都市部に入ってくるとともに、次第に台湾らしさにあふれた景色が増えてくるとともに娘たちは興味津々の様子。
新しいのだか古いのだかよくわからない高層ビル。デカデカと掲げられた政治家のポスター。ひらがなやカタカナの一切ない文字。
娘たちにとっては物心ついてから初めての海外ですから、さぞやそうした景色から異国を感じてもらったことでしょう。


台北駅に着いた私たちが、乗り換えの長いコンコースを歩く間も、娘たちの興味は尽きない模様。
台湾のガチャガチャや独自の広告。あらゆるものに目をやっている二人の様子に目を細まります。
海外に連れてきてよかった、という思いとともに。


まずは一息、ということで台湾でもおなじみのスターバックスに入りました。
日本のお店との違いに興味津々の娘たち。
私と妻は昨年にも別の場所のスターバックスに入ったのですが、最初におなじみの店に入ることで、まずは娘たちも安心できるはず。こちらの方が空港で訪れたサブウェイよりもより安心できたかも。

私たちは台北駅からMRTに乗り換え、北門駅と西門駅を乗り継いで板南線へ。
実は台北駅で乗り換えを間違えたのですが、何度も乗り換えを繰り返す間にも悠遊カードの恩恵を受けました。こりゃ楽。

台湾のMRTは日本の地下鉄tと載っている感覚はそう変わらず、ある部分では日本よりも進んでいます。例えば切符がないこととか。
そうしたあらゆるものが娘たちに刺激となることが親としてうれしいです。

龍山寺駅に着きました。
さて、これまでの道中は、いわば観光客向けの台湾ばかりを見てきました。が、ここからは少し台湾の昔ながらの風景が展開します。
まだ朝が早かったのですが、服を商う店々のいくつかは軒を開けていました。
それでも、日本とは違う街の様子は娘たちには物珍しかったようで、キョロキョロとしていました。バイクの多さにもびっくりしたのではないでしょうか。バイクに興味のある次女にはとても興味深かったようです。


そんな通りを抜け、私たちはカイザーメトロホテルへと投宿しました。昨年も妻と泊まったホテルです。
今回は妻がチェックインしてくれたので、すんなりと手続きが済みました。
そして、荷ほどきもほどほどに、早速街へと繰り出しました。

まずはホテルの近くのファミリーマートへ。そこでまずは娘たちに台湾のコンビニの商品が日本とそう変わらないことを説明しました。
ここでも興味津々の娘たち。

続いて向かったのは龍山寺。昨年も妻と二人で中華風の参拝を学びました。
ここで娘たちを加えて四人で再び参拝。
独特の運試しのやり方や、見た目が派手な中国の仏教寺院を目に焼きつけてもらいました。


次いで向かったのは、近くのタピオカ屋さん。
次女の台湾での楽しみの一つは、タピオカ屋さんめぐり。
タピオカブーム真っ最中の日本ではなく、本場のタピオカ屋さんで思う存分食べてみたいとのことで、まず一軒目。
美味いと満足そうな娘。日本のタピオカとは粒のでかさから何から違うらしいです。

ほんの少し、ディープな台湾の街並みを歩み、私たちは再びMRTの龍山寺駅から西門駅へ。さらにそこで乗り換えて中正記念堂駅へ。


ここも昨年、妻と来ました。
民主廣場は広大で、空は雲が立っていたものの、青々としています。陽光をたっぷり浴びながら広場を歩いて中正記念堂へ。
まさかこの後、中正記念堂に閉じ込められるとも知らずに。

今回は衛兵の交替の時間をぎりぎりのタイミングで見られました。
この光景も日本では見られないものの一つです。


その後、私たちは、地下の文物展示室を見学しました。
ここは蒋介石総統の事績を様々な遺物から紹介しています。なので、かなりの広さがあります。
娘たちには興味がないでしょうが、私にとっては昨年来られなかったので、今回は来たいと思っていました。

理由は二つ。
一つ目の理由は、2蒋介石総統の執務室をバックに写真が撮りたかったからです。24年前にも撮ったこの場所で、24年の時間を楽しみたかった。
二つ目の理由は、根本博中将に蒋介石総統が送った花瓶のうちもう一対があることを、昨年の訪問後に知ったからです。それが見たかった。

その花瓶は確かにありました。とても立派な花瓶です。私はしばし、その前で感慨にふけりました。
根本博中将は国共内戦で窮地に立った台湾のために密航してまで台湾におもむいた方です。根本博中将が軍事顧問に就いたことで、国民党軍は金門島を巡る古寧頭戦役で共産党軍に大勝し、台湾と台湾海峡はかろうじて国民党の主権が保たれました。
根本博中将は晩年、私が普段利用する駅のすぐそばに住んでいたそうです。ですが、私はつい最近まで根本博中将の事すら知らずにいました。
自らの不明を詫びつつ、24年前の自分との違いに思いを馳せました。

案の定、娘たちにとってこうした展示には興味がありません。母娘でベンチに座って会話してました。
なので、私も展示を切り上げ、家族で中正記念堂のお店を見て回っていました。


そんな館内に突如雷鳴がとどろき渡ったのはその時です。そして、激しい雨音が。夕立です。広場を歩む時の空には入道雲が立っていたとはいえ、夕立の気配どころか暑すぎるほどだったというのに。
しかもこの夕立、相当に激しいものでした。中正記念堂から見ると、外はたたきつけるような雨、そしてひっきりなしに周囲に落ちる稲妻の激しい光と音。
中正記念堂には直接地下で外部とつながる通路はなく、出ようと思えば雷雨の中を広場を歩くほかはありません。つまり、異国の地にあって私たちは閉じ込められてしまいました。猛烈な雷雨に。

さて、どうするか。
夕立なのでいつかは止むはず。それまでに中のお店をさらに見て回ろうと、あちこちのお店を巡りました。台湾土産としてふさわしい品を物色しながら。
中正記念堂にはいわゆる土産物屋さんもあれば、郵便局、本屋、お茶店などもあります。時間をしばしつぶすには充分の規模です。
床にはトリックアートが描かれています。
美術館とミュージアムショップも。ちょうど、美術館では精巧な人体像をテーマとした展覧会が催されていて、興味がありました。が、見送りました。
なにしろ、雷雨のことが気がかりになっており、展示に集中できそうにありません。


店巡りをあきらめた私たちは、ホールで一時間以上も雷雨の収まるのを待っていました。が、雨の勢いは一向に衰える様子を見せません。
さすがにまずいと思い、大きめの傘をお土産屋さんで購入し、決死の思いで外へ脱出することに決めました。
作戦はこう。私が3往復し、娘たちと妻を一人ずつ送り出すのです。
中正記念堂から近くの大孝門までは約百メートル。幸いにも少し稲妻の頻度は弱まったので、土砂降りの中を一人ずつ、私と相合傘で。
雷に打たれることなく、無事に三往復して大孝門までたどり着けました。

続いては、大孝門から中正記念堂駅まで移動しなければなりません。距離は約500m弱。
そこで、塀の内側に回廊のような通路があったのでその通路を進んだのですが、残念ながら、その通路はちょうど200メートルほど進んだ場所でふさがっていました。
さて、どうするか。
回廊から、庭園の中の通路に出られるので、そこを突っ切って、次に向かうべき道を偵察に出ました。
すると、あちこちで池みたいになっている庭園の通路さえ超えられれば、國家技藝院の大きな階段の下まで行けそうです。


また一人ずつ、相合傘で突破することに決めました。
二人で歩むには色々と難儀する道のりでしたが、なんとか全員を國家技藝院まで送り届けられました。
しかも、最後の一人を送るときになって、ようやく雨もやみ、青空まで戻ってきてくれました。
かなり苦労しましたが、妻や娘の肩を抱いて歩んだこの経験は旅の思い出として大切にしたいです。
おそらく平時に娘たちの肩を抱く機会はそうありませんので。

中正記念堂駅に着いたことで、ずぶ濡れのままMRTに乗って台北駅へ。
そろそろ夕方なので、おなかも空いてきました。
なので、昨年妻と二人で偶然訪れて美味しかった饗食天堂へ向かいました。
ビルへは少し迷いましたが、無事にたどり着けました。Q Square。この見事な空間は日本に引けをとらないばかりか、凌駕していると思えます。
娘たちにも台湾が先に進んでいることを理解してもらえたと思います。

饗食天堂は昨年の感動もそのままに、おいしくいただきました。
昨年は勝手がわからずに頼まなかったアルコールまでいただき。
すっかり満腹。中華料理の神髄を堪能しました。


しかも帰りには台湾コスメのお店でいろいろと試させてもらったりして、すっかり台湾に好印象を持った様子。
海外旅行で海外に恐怖感を味わってほしくない親心にとって、よい旅行になりそうです。

そこで、再び地下鉄に乗って龍山寺駅へ。
そこからカイザーメトロホテルへと戻り、初日の旅の疲れを癒やしました。


至仏山登山 2019/7/21


尾瀬の朝は早い。
4時半に起き、朝靄に漂う尾瀬を散策に出かけました。
三百六十度の尾瀬が瞬間ごとに姿を変えてゆく雄大な時間の流れ。それは、言葉にはとても表せない経験です。
一年前の朝、尾瀬の大地に立ち、壮大な朝の一部始終に心を震わせた経験は、私の中に鮮やかに残っていました。
今年は、山ノ鼻小屋から尾瀬の湿原に歩き、朝を全身で感じたのですが、正直に言うと昨年を凌駕するほどの感動までには至りませんでした。
今年も十分に素晴らしい朝だったのですが。昨年、尾瀬の朝を感じた初めての経験がそれだけ鮮烈で、得がたいものだったのでしょう。
尾瀬小屋は山ノ鼻よりさらに奥に位置していて、自然相も景色も違うのでしょうし。季節や場所によって自然はかくも違う顔を見せる。そのような当たり前のことを思い出させてくれました。それもまた、尾瀬の魅力の一端なのだと思います。


朝ごはんを食べ、小屋を出発したのは、7時少し前。
目の前にそびえる至仏山に向け、19名のパーティは歩みます(数が減っているのは、昨日のうちに帰られた方がいたので)。
昨日、目に焼きつけておいた至仏山の山容と麓へと至るアプローチ。ところが、行けども行けども麓にたどり着きません。
都会の人工物に慣らされた私たちは、尾瀬の広大な自然の中で距離感を失い、惑わされる。昨年も感じた距離感の喪失は、尾瀬ならではのものかもしれません。嬉しい錯覚といいますか。
そうした日常の汚れを気づかせてくれるのが旅の効能。なかでも尾瀬の効能はてきめんです。


やがて至仏山の登山口に着きました。そこからは登りです。
ところが、登山道には水が流れ落ちていました。数日前まで雨が降っていた名残なのか、それとも雪解け水なのか。
水に気を取られ、思ったよりも負担になる登りでした。


とはいえ、自然の中だと別人のように力が湧き出る私。植物相が変わる高さまではずっと先頭でした。
その後しばらく岩場で後続のみなさんを待った後は、数名でさらに上へと目指します。今度はじっくりと時間をかけながら。


というのも、私たちの背後には尾瀬の大湿原が少しずつその全容を見せてくれていたからです。
少し標高を上げると、その分だけ姿が広がる尾瀬。登るたびに背後を振り返ると、その都度違った顔を見せる尾瀬。
そうやって尾瀬を見下ろす快感を知ってしまうと、一気にてっぺんを目指して登るなどもったいなく思えます。また、登山道の脇には名も知らぬ高山植物のあれこれが姿を見せ始めました。こうした可憐な花々も私の足を引き留めます。
これらの花々は昨日は湿原で見かけませんでした。山に登らなければ出会えなかった尾瀬の魅力がここにも。
一緒に登っていた方が高山植物に詳しく、たくさんの名前を教わりました。


至仏山の山肌を彩る豊かな自然を楽しみつつ、振り返るたびに、広大な姿を横たえる尾瀬に目を奪われる。
私の登山経験などたかが知れていますが、そんな乏しい登山経験の中でも、この時に見下ろした尾瀬のすばらしさは別格で、人生でも屈指の眺めだったと断言できます。
湿原を歩くだけでなく、上からその素晴らしさを堪能する。それこそが登山の喜び。そして魅力。その本質に気づかされた道中でした。


古来から山男を、山ガールや旅人を引き寄せてきた尾瀬の魅力。それは私ごときが語りつくせるものではなく、私の見た尾瀬も、尾瀬が見せる無限の魅力の一つにすぎないはず。

頂上に近づくにつれ、急速に湧いてきた雲が尾瀬を覆い隠します。
まるで私たちの眼下に広がっていた先ほどまでの尾瀬が幻だったかとでもいうように。
その気まぐれなふるまいも、尾瀬の魅力の一つ。そうした振る舞いに出会う度、旅人はまた尾瀬へと足を運ぶのでしょう。


雲が湧き、気温も下がってきました。視界も少し悪くなってきたので、登りの足を早めました。
途中には高天ケ原と名付けられた場所があり、少し休憩もできましたが、この日の高天ケ原は急に湧いてきた雲によって灰色に染まっていました。仏に至る道は容易なものではない、ということを教えるかのように。
山の天気の変わりやすさをつくづく感じつつ、気を引き締めながら最後の登りへ。


9時48分。至仏山の山頂につきました。標高2228m。私にとって日本百名山の登頂は大菩薩嶺に次ぐ二峰目です。
達成感に浸りたいところですが、狭い山頂付近には大勢の登山家がたむろして混雑しており、落ち着くことなどとても無理な状況でした。


そんな混雑の中、後続の皆さんを待っていたのですが、一部の方が登りに難儀されているとの情報が。
なので、まず15名で集合写真を。
この時、晴れ間が広がっていたらとても映えたのでしょうが、先ほどから湧き上がってきた雲が去る様子はなく、写真の背景が少し曇り空だったのが惜しい。
でもみんな、いい顔です。達成感にあふれています。雲を吹き飛ばすほどの晴れやかな姿がうれしいです。


女性の皆さんはお手洗いのこともあるので、皆さん先に出発しました。
で、私はMさんとそこでしばらく後続の方を待つことにしました。体力にはまだ余裕があったので、遅れた方の荷物でも持とうかな、と。
結局、至仏山頂には1時間以上いました。やがて後続の皆さんも合流しました。
なので無事を祝って、そこで5人で再び写真を撮り、山ノ鼻小屋の方が持たせてくださったおむすびをパクパク。

そこから小至仏山へと向かいます。
私が荷物を持つまでもないとのことだったので、私の荷物は増えなかったのですが、ここから小至仏山への道も岩場が続き、油断はできません。
高山植物を愛でながら、帰りのバスの時間もにらみながら、山の景色を堪能しながら進みます。
小至仏山には11時50分に着きました。こちらも小という名が付きますが、標高2162m。私の中では生涯で二番目の高峰です。
雲がまだ辺りを覆っており、そこからの尾瀬の眺望は楽しめませんでしたが、辺りは登頂の達成感を感じるには十分すぎる景色。実にすがすがしい。


そこからは険しく危険な岩場を通りながらの下りでした。途中には雪が溶けきれずに残っている箇所も通り、ここがまぎれもない高山であることを思いださせてくれます。
オヤマ沢田代や原見岩と名付けられた岩に登るなどしながらの道でしたが、登りで遅れた方が下りでも苦戦しており、私とMさんが先に降りては、後続でサポートについてくださったお二方を含めた三名を都度待つ展開に。


途中、大学のパーティをやり過ごしたり、水場で花や草を写真に収めたりしながら、ぎりぎりバスに間に合いそうなタイミングをみて、最後はMさんと二人で鳩待峠へ。
無事に皆さんと合流し、後続の方もあとから合流することができました。無事下山。

来た時と同じく「ゆる歩様」を掲げた「OIGAMI」号に乗りまして、私たちが向かったのは「わたすげの湯」。ゆる歩山登りの会は温泉が付いてくるのがうれしい。
汗を流し、足腰の凝りをほぐす湯けむり時間の心地よさ。
休憩所では皆さんがビールを頼んでいたので、私もついご相伴してしまいました。こういう時間って本当に幸せですよね。


再び「OIGAMI」号に乗って上毛高原駅へ。そこで解散となり、それぞれの思いを載せて帰路へ。
この日の夜、東京駅近辺で打ち上げのお誘いをいただきましたが、私は翌朝早くに車に乗って羽田へ向かわねばならず、無念の辞退。
本当は皆さんと旅の思い出を語らいたかったのですが。
とはいえ、せっかく大宮に来たので、夕飯はなにか珍しいものを食べたい。そう思って駅前をぶらぶらしました。結局、これといったお店が見つからず、丸亀製麺に入ってうどんを。こういう締めもまた私らしいというか。

さらに、新宿では尾瀬のことを無性に知りたくなり、駅前のBOOKOFFに立ち寄って尾瀬の本を買い求めました。

こうして、二日間の尾瀬と至仏山の旅は終わりました。今回、ご一緒した19名の皆さん、「OIGAMI」号のドライバーの方、宿の皆さん、誠にありがとうございました。


尾瀬の旅 2019/7/20


ウィンドブレーカーを購入したのは、出発の前日の夜。20時ごろに御徒町のモンベルで購入しました。
われながら、毎度毎度のぎりぎりの間に合わせ感にあきれます。昨年の尾瀬は、現金を忘れ、お金を借りる失態をしでかしましたし。

でも今年は万全。朝は5時過ぎに妻に駅まで送ってもらい、お金も前日に下ろし済み。憂いなど一つも見当たりません。
大宮駅のATMを秒単位で操作する。そんなスリリングな経験もせず。


心に余裕をたたえながら上毛高原駅のホームにさっそうと降り立った私。まずは一息、山の空気を。
皆さんを待ってバス乗り場へ。今回はリーダーがバス「OIGAMI」号を借り切ってくださいました。バスの窓ガラスには「ゆる歩様」の文字が燦然と輝いています。総勢20名のパーティ。


貸し切りゆえ、尾瀬戸倉でバスを乗り換える手間もなく、鳩待峠まで睡眠がとれました。ありがたいことです。

鳩待峠からは昨年も通った道を山ノ鼻へと歩きます。
一年前は、水芭蕉の咲き頃で、あちこちに可憐な姿が楽しめました。が、今年は昨年に比べて一月半遅い日程だったため、水芭蕉の数は明らかに減ってました。
でも、この山道の先には雄大な尾瀬が待っている。そう思えば、去年にもまして魅力的な道中に感じられます。歩荷の姿も、去年は物珍しさが勝っていましたが、今回は尊く映ります。


山ノ鼻に着いて早々、まずは一宿をお世話になる山ノ鼻小屋へ。小屋の前の広場でお昼を。
私はその合間に、至仏山の山容を眺めました。仏へと至る山とはどのような形か、想像を膨らませながら。


腹に食べ物をおさめ、いざ尾瀬の湿原へと向かった私たち。

尾瀬の広大な湿原は私たちの前に変わらぬ姿で待っていてくれました。
むしろ、尾瀬の景観は、昨年より時期をずらしたためか、季節相応に夏の深まりを見せてくれているようです。
私は尾瀬の自然に精通しているわけでもなければ、そもそも生物相について一家言を説くほどの知見もありません。ですが、やはり何かが違うのです。色合いや植物の植生、空の輝きや山々の緑の深み。そのどれもが鮮やかになっているような。
天候は曇りなのに、目に映る光景のすべてが鮮やかに見えることが驚きです。
昨年の尾瀬には鮮烈な印象を受け、その時の感動がいささかも損なわれず、目の前に広がる景色は昨年の印象を一層強めてくれる。そんな経験です。
昨年に比べて色合いが鮮明になった分、自分の記憶に残る光景とのわずかな差を感じられることが、さらに感動を呼び、私の心に染み入っていきます。
尾瀬の大自然は日々の雑念を払い、感性を研ぎ澄ませてくれる。そして人を日常から解き放った境地に悟らせる。これこそが、あらゆる人を魅了する尾瀬なのでしょう。キザを承知でいうと。

「夏の思い出」が一年ぶりに脳内でメロディを奏でる中、私はもう一つのメロディにも耳をすませました。カエルです。
あちこちで鳴いていたカエル。今年も健在です。
ところが、どの水場に目をやっても、声はすれど姿が確認できません。今年もカエル様のご尊顔を拝むことは叶いませんでした。


カエルは見られませんでしたが、尾瀬はカエルの他にも目を楽しませる対象に事欠きません。モウセンゴケの鮮やかな赤。イトトンボの美しすぎる水色。そして貴い紫をまとったアヤメ。

そして、パーティーの皆さんがお目当てにしていたニッコウキスゲ。
ニッコウキスゲは残念ながらシカの食害があったらしく、一面の山吹色とまではいきませんでしたが、それでも、咲き誇る景色は十分な感動を与えてくれました。開花期に来たかいがありました。

今回のコースは、山ノ鼻から、竜宮十字路へ。そこから北に向けてヨッピ吊り橋を渡ったところで折り返し、そこから牛首分岐へ向けて戻るルートです。

ヨッピ吊り橋からさらに北へ向かうと、三条の滝や平滑の滝が待っています。行けるものならそこまで行きたかったのですが、今年も断念。


でも、山ノ鼻を起点にすれば二つの滝への往復は一人でも行けるめどがつきました。
今回、一泊させてもらった山ノ鼻小屋はベースとするには便利なようです。
昨年、泊まらせていただいた尾瀬小屋もオーナーさんの朝の心遣いや、朝もやの見事さで印象に残っています。が、一方で電源の確保に苦労しました。
ところが山ノ鼻小屋は電源が潤沢に使えたので助かりました。

夕飯も美味しく、お風呂も楽しみ、夜は銘酒「水芭蕉」をみなさんとご一緒に。
夜がふけた後は、小屋の前を乱舞するホタルを鑑賞。野生のホタルがはかない光を放ちながら飛ぶ姿は、尾瀬に来なければ味わえない経験です。実に幻想的なひと時でした。

私は、Wi-Fiがつながるのをいいことに、夜中まで連絡のやりとりや、仕事をこなすことができました。


名古屋出張・桑名・養老・大垣の旅 2019/6/4-5


一日目、6/4
家を9時過ぎに出て、新横浜経由で名古屋へ。名古屋には11:45分頃につきました。
今までにも何度か名古屋は訪れていますが、仕事で行くのはおそらく初めてのはず。
この日は名古屋のお客様との打ち合わせやシステムの説明会などがあり、午後から夜まで息をつく暇もないほど。

ホテルは妻に予約してもらいました。場所は伏見の手前、錦橋のたもとです。なので、名駅から歩いていけると判断し、久々の名古屋駅前を味わいつつ歩きます。
転送してもらった案内メールに書かれていた住所まで歩き、着いたホテルはなぜか工事中。おかしいと思いながら、エレベーターを上下してみました。それなのに、どの階も工事しているのです。
思い余って地下の事務所まで乗り込んでみたら、実はビル全体がまだ開業前だったという落ちでした。どうもメールの住所が間違っていたみたい。
わたしが泊まる名古屋ビーズホテルはそこから50メートル離れた場所にありました。ああ、びっくりした。

結局そうしたバタバタがあったので、宿を出たのは12:25分過ぎ。さらに、伏見駅で迷ってしまい、お客様のもとについたのは13時ギリギリでした。
そのため、楽しみにしていたきし麺を食べる暇はなく、ファミリーマートのおにぎりを急いで胃に収めました。旅情ゼロ。

午後のお客様のもとでの詳細は書きません。仕事は無事に終了しましたし、いくつかの打ち合わせもつつがなく終えることができました。(ちなみに一年たった今でもこのお客様とのやりとりは頻繁です。)

夜はお客様の四名の方が酒席に誘ってくださいまして、「世界の山ちゃん 千種駅前店」で。
実は私、初めての山ちゃん体験です。うれしい。
きし麺、あんかけスパゲッティ、手羽先など、名古屋グルメと銘酒を思うがままに味わい尽くしました。

かなりの量のお酒を飲み、酩酊してしまった私。なんとか宿に帰りつくことはできました。でも、バタンキューです。すぐに寝入ってしまいました。
栄のバーを訪問しようと思っていたのですが。おじゃんです。

二日目、6/5
この日は、せっかく名古屋に来たのだから、と観光にあてる予定でした。
朝一で作業をこなし、ホテルを出たのは9時過ぎ。
ホテルに荷物を預かってもらい、名駅まで歩いて向かいます。そこから近鉄に乗って桑名へ。10時過ぎに着いた桑名は、ほぼ4年ぶりの訪問です。
前回の訪問では実家に帰る途中に車で訪れ、川べりで車中泊をしました。桑名城や六華苑や焼き蛤が懐かしい。
今回は桑名はただ立ち寄るだけの場所です。駅前の観光案内所でマンホールカードを入手しただけでした。

この日、私が目指したのは養老の滝です。そこに行くには養老鉄道に乗りかえねばなりません。
この養老鉄道、昔は近鉄の一支線でした。今は近鉄グループに属しているとはいえ、独立した地方鉄道として運行されています。
こうしたローカルな電車の旅は久しぶりで、停車している電車を見るだけで旅の臨場感はいや増していきます。

電車は、桑名から養老駅までの十駅を一駅一駅、丁寧に停車してゆきます。のどかな旅です。
電化されているとはいえ、単線ですから速度も控えめ。車窓からの景色を存分に味わうことができます。旅情を満喫するには十分。
沿線には栗の花が咲き、目に飛び込む風景は、山際に沿った鉄道の風趣が感じられます。

栗の花 今も鉄路の時 刻み
養老鉄道車内にて

養老駅を訪れるのは二十数年ぶりのこと。
当時の記憶はありませんが、久しぶりに訪れた駅には個性がそこらに見られます。中部の駅百選に選ばれただけのことはあります。
ここは酒の愛好家にとっても著名な地。滝近くの水をひょうたんに汲んだところ、酒に変化して父を喜ばせたという孝行伝説でも知られています。
駅名もひょうたん文字で描かれており、おびただしい数のひょうたんが天井からぶら下がる姿は個性そのものです。

駅舎内には地元のNPO法人が観光案内所のような施設を運営しているようです。ただ、私がが訪れたタイミングでは閉まっていました。残念です。
そればかりか、養老駅には事前にレンタサイクルがあると調べていたのですが、駅員さんがどこかに行ってしまったため自転車を借りられませんでした。

なので、駅から養老の滝までを歩くことに決めました。なに、ほんの2、3キロのことです。私にとってはさほどの距離ではありません。
その分、養老の街並みを味わいながら歩くことができました。通りがかった養老ランドという「パラダイス」を思わせる遊園地がとても魅力的です。さらに、公園の中は木々が緑をたたえており、視界の全てが目に優しいです。

養老公園を歩いていると、平日の午前でありながら、開いている店があります。食指が伸びます。
さらに歩くと、菊水泉に着きました。
ここがあの孝行伝説の泉です。名水百選にも選ばれています。

泉の底に影の映る様子は透明そのもの。名水とは何かを教えてくれるようです。
菊水泉のような澄んだ泉をみると、私の心はとても穏やかになるのです。

クモの巣や 霊泉さらに磨きけり
菊水霊泉にて

菊水泉の横には養老神社も建立されています。もちろんお参りしました。そして旅のご加護と仕事の無事を祈願しました。

そこから養老の滝までの道も、見事な渓谷美が続きます。木々と周りの空気の全てが私を癒やします。その喜び。渓流には小さな滝が続き、徐々に期待を膨らませてくれます。

たどり着いた養老の滝は、20数年ぶりに訪問した私を見事な滝姿で待っていてくれました。20数年前は、雨の中でした。滝壺にでかいガマガエルを見つけたことはよく覚えています。
雨の中の訪問だったことに加え、当時は今ほど滝の魅力に惹かれておらず、滝の様子は覚えていませんでした。
だから今回が初訪問とみなしても良いのかもしれません。

養老の滝は直瀑です。30メートル強を一直線に落ちる水量が豪壮で、それが周囲の木々に潤いを与えています。
見事な晴れ空の中、落ちる滝飛沫を見ているだけで、すべての雑事が洗い流されていきます。

白布や 巌透かして 涼やかに
養老の滝にて

一時間近くは滝の姿をあらゆる視覚から眺めていたでしょうか。
養老の滝の前には広場が設えられています。そこには威厳を備えた二基の岩が屹立しています。その合間からのぞく滝も風情があります。
時の天皇からお褒めを賜り、元号にまでなったこの地。それを象徴するのが養老の滝です。
全国に名瀑は多々あれど、元号になった滝はここのみ。
そうした歴史と滝の美しさは、私を滝の前にしばりつけ、全力で引き留めようとします。
この地には私を惹きつける何かがあります。
ですが、きりがありません。後ろ髪を引かれるようにして滝を後にしました。

老い先に あらがう 滝の姿かな
養老の滝にて

養老公園には、滝以外にも私の興味を惹く場所がほかにもまだあります。
ひょうたんランプの館というお店は、名の通りひょうたんで作ったランプを販売しており、外から中を想像するだけで30分は私をとどめることは間違いなかったので、中に入りませんでした。
また、かつてこの地で製造されていた養老サイダーも、瓶があちこちのお店に飾られていて目を惹きます。この養老サイダーは、明治の頃から有名なサイダーとして知られていたものの、二十一世紀に入って操業が中止されていた幻の品。それがブランド名と原料水とレシピを基に復活したそうです。まさにその銘品である養老サイダーをいただいた私。美味しい。旅のうるおいです。

さらに、親孝行のふるさと会館を訪問しました。
養老の滝訪問の証を書いてくださるというのでお願いしたら、途中で墨が出なくなってしまい、サインペンになったのはご愛嬌。

帰りは行きと違う道を通り、養老寺なども詣でながら駅に向かいました。
行きに見かけた養老天命反転地という、錯覚をテーマとした屋外の芸術作品を展示する公園があり、ここには惹かれました。が、この後の行動の都合もあってパスしました。
その代わり、養老の街並みを目に焼き付けながら帰りました。
次回の訪問では養老の街をじっくりと観ることを誓って。

養老の駅に着き、次の電車までの間、しばらく駅前や駅舎を撮影していました。そして、桑名からやってきた電車に乗って大垣方面へ移動します。
せっかくなので、桑名から養老までは乗らなかったサイクルトレインの車両に乗りました。
サイクルトレインとは、車両内に自転車を持ち込める制度です。
でも、こういう試みって、実際に使われている現場に遭遇することはあまりないですよね?
ところが、次の駅ぐらいから自転車を持ち込んできたお客さんがいました。しかも私のすぐ横で。実際に利用されている様子をみて感動する私。
電車内に自転車など、都会では絶対見られない光景です。
また、サイクルトレインを実施している地方のローカル鉄道はあるでしょうが、そうした場所には車で訪れることがほとんどです。
この電車の旅にふさわしい体験ができました。

大垣に近づくにつれ、地元の高校生の姿が目立ってきます。
養老まで乗って来た時の寂とした車内とは様子が一変。学生の乗客と自転車がある車内。なかなかの盛況です。
そして窓の外には美しい車窓が広がり、旅の思い出にアクセントを加えてくれています。
こうした資産を多数持っている養老鉄道には、今後も頑張ってほしいです。うれしくなりました。

電車は大垣の駅に着きました。私は下車します。養老鉄道はさらに北の揖斐まで延びているそうです。機会があれば全線を乗車したいですね。それだけの魅力はありました。

さて、大垣の街です。私は大垣の駅は何度か乗り降りした経験があります。
大阪と東京を青春18きっぷで行き来する時、大垣駅は大垣行き夜行やムーンライトながらの終発着駅です。なので私は何度もお世話になりました。
ところが、大垣をきちんと観光したことは一度しかありません。

今回は短い時間ですが、レンタサイクルを借りて大垣の街を巡るつもりでした。
特に訪れたいのは奥の細道むすびの地記念館です。
松尾芭蕉が奥の細道の旅を完結したのがここ大垣なのです。
私も旅人の端くれとして、また、素人俳句詠みとして、一度は訪れてみたいと思っていました。

駅前のマルイサイクルというお店で自転車を借り、颯爽と大垣の街に繰り出しました。
自転車で旅に出るこの瞬間。これも旅の醍醐味の一つです。

商店街を抜け、しばらく行くと公園の横を通りました。ここは大垣公園です。大垣城をその一角に擁しています。
このあたりから芭蕉翁の時代の面影を宿す街並みが見えてきます。
水都の異名に恥じない美しい水路が流れ、そこに沿ってなおも走ると、住吉燈台という灯台が見えてきました。海沿いの灯台はよく見ますが、川沿いの灯台とは珍しい。しかもそれが往時の姿をとどめていることにも心が動きます。

水路にはかつて船着場だったと思われる階段があちこちに残されており、かつての水都の面影が偲ばれます。
芭蕉翁が奥の細道を終えたとされる実在の船着場の姿は、当時から何も変わっていないのでは、と思わせる風格を漂わせていました。
その船着き場のそばの川べりに建てられたのが、奥の細道むすびの地記念館です。

わが生も 締めは若葉で 飾りたし
おくのほそ道むすびの地にて

奥の細道といえば、日本史に燦然と輝く紀行文学の最高峰です。
あれほどの旅を江戸時代に成し遂げた芭蕉翁のすごさ。さらに俳句を文学的な高みまで研ぎ澄ませて作中に盛り込んだ構成。私も旅人の一人として、常々その内容には敬意を抱いていました。

旅の師を 若葉の下で 仰ぎ見る
おくのほそ道むすびの地にて

ただ、私は何も食べていません。おなかが空いています。さらに道中にも仕事上のご連絡を多くいただいていました。なのでまずは売店に直行し、食べられそうなお菓子を買い込みました。さらに併設のカフェスペースに電源があったので、お店の方に断りを入れて使わせてもらいながら、空腹を満たし、作業に勤しんでいました。
ここで購入した烏骨鶏の卵で作ったバウムクーヘンがとても美味しかった。

さて、腹がくちくなったところで、店の人に再度お断りをいれ、机にパソコンを置かせてもらい、資料館の中へ。

ここ、期待以上の展示内容でした。
芭蕉翁の奥の細道の全編を現代文に読み下した解説がパネルになって展示されています。その解説たるや、国語の教科書よりも詳しいのでは、と思わされます。これはすごい。感動しました。
私も何年か前、古文と読み下し文が併載された奥の遅道は読破しました。が、本では学べなかった詳しい内容や構成がこの資料館では学べます。
俳句を好む私のような人だけでなく、日本史や日本文学の愛好家にとってもここはお勧めできます。もちろん旅が好きな人にも気に入ってもらえることでしょう。
私もまた来ようと思いました。

あまりにも資料館に長居しており、カフェが先に閉まったことに気づかずじまい。せっかく許可をくださったスタッフの方にご迷惑をかけてしまったのは申し訳なかったです。
その分、またお伺いしたり宣伝しようと思いました。

記念館に併設された水場では美味しい水を飲めます。それを飲んで活力を得た後は、再び自転車で駅のほうへと。
大垣城の天守閣に寄ったのですが、天守はすでに閉館時刻のため、入れませんでした。
天守を背景に従えた戸田氏鉄公の騎馬姿の銅像が美しく、逆の角度からは夕日にとても映えていました。大垣城は「おあむ物語」の舞台でもあり、次回は城の見学も含めて訪れたいと思いました。

さて、時間は17時を過ぎました。マルイサイクルさんに自転車を返す時刻まではまだ余裕があります。
そうなると宿主の脳を操ってどこぞへ向かわせようとするのが私の中の悪い虫です。そやつに操られるがままに、私は次の目的地へとハンドルを切りました。
向かうは墨俣一夜城跡。後で確認したところ、大垣駅から7.3キロ離れています。
それでも行ってしまうのが私のサガ。そして持ち味。

ところがなかなか遠いのです。
一生懸命、自転車を漕いだのですが、揖斐川を超える揖斐大橋を渡り、安八町に入ったところで、引き返す潮時だと判断しました。無念です。あとで確認したら墨俣城まではちょうど真ん中でした。
そこから大垣駅へと戻り、自転車を無事に返却しました。大垣を堪能するには時間が足りなかったようです。いずれまた再訪したいと思います。
大垣駅から電車に乗り、豊橋行の新快速で名古屋へ。

名古屋に着き、せっかくなのでナナちゃん像を探しました。ですが、見つけることができません。
錦橋の名古屋ビーズホテルへと荷物を取りに戻った帰り、諦めきれずにナナちゃんを探しました。あった!ようやく見つけることができました。
インパクトのある姿を脳裏と写真に収めたところで、山本屋本店で味噌カツうどんを。
お土産は昨日お客様にお土産でいただいた名古屋名物のお菓子セットがあるので、家族にはあと一品買った程度でした。


高速道路・沼津の旅 2019/5/3


充実した連休も早くも最終日。
朝、東京へ向かって出発する窓から両親に手を振りつつ、甲子園を去ります。

尼崎インターチェンジから名神に乗り、草津ジャンクションから新名神へと乗り継ぎ。
連休の最終日は、渋滞がつきもの。
御多分にも漏れず、草津ジャンクションの手前では渋滞に悩まされました。
ですが、その後は順調そのもののドライブでした。土山サービスエリアで休憩した後は、掛川パーキングエリア以外は渋滞に巻き込まれることもなく。

土山サービスエリアには、小高く土がもられた丘が設えられ、今までも何度か利用させてもらっています。わが家のワンちゃんたちも少し休憩。

新名神の亀山と四日市の区間が通じたことで、草津から伊勢湾岸自動車道を経由して御殿場までの区間は、ほぼ渋滞とは無縁のドライブとなりました。

ところが、そんな幸せは「横浜町田ICから数十キロの渋滞」と言う表示を見るまでの事でした。大和トンネルを起点とした地獄の渋滞が今回の連休にも性懲りもなく待ち受けていたのです。

新東名の運転が順調すぎるだけに、渋滞地点までも順調に迫ってきます。刻一刻と。掛川を抜けた後は、新清水を過ぎ、富士に迫る。

そこで私は決断しました。長泉沼津インターチェンジで降りる選択肢を。

渋滞など無為な時間を過ごすより、連休の最後は家族とともに夕飯を食べる。ついでに沼津港の夜を満喫しながら、旅の余韻を楽しもうという趣向です。
そのまま、渋滞が解消していればなおよし。そんな心づもりです。
長泉沼津インターチェンジを降り、向かったのは沼津港。
かつて家族でも来たことがあるし、長女と二人で来たことがあります。
美味しいお店が集まっているここで海の幸を楽しめれば、連休の締めもふさわしくなるというもの。

また、赤く染まった夕焼けと、沼津港の凪いだ海面の様子が見事でした。富士のシルエットが浮かぶ姿はまさに絶景。
今、富士を染めている太陽は、つい前日には日御碕の夕景を演出していたのです。
これぞ自然の摂理。その仕組みの正確さと荘厳さには、心が打たれます。

連休も最終日を迎え、沼津港にはそれほど人が残っていません。
夕食までは順番を待ったものの、その時間を利用して、沼津港大型展望水門びゅうおを見学することができました。

赤富士や 夕陽 昨日は出雲染め
沼津港にて

海鮮のお店「浜焼きしんちゃん」では、前日に続いてサザエをいただき、沼津港で水揚げされた海の幸を心ゆくまで堪能しました。

御代明けて サザエを喰らう 西東
浜焼きしんちゃんにて

さて、21時頃まで沼津港にいた私たちですが、情報を調べると、東名の渋滞はまだ解消していない模様。ならばと、私は次の策を打ち出します。

沼津から函南へと抜け、そこから熱函道路を通って熱海へ。熱海からは3本の有料道路を乗り継いで、小田原厚木道路へと。小田原厚木道路を疾走した後は、厚木ジャンクションの手前で圏央道に乗り換え、東名の渋滞を回避します。そして相模原愛川インターで降りて家まで。
このルートで渋滞を回避できました。

こうして、神戸、梅田、鳥取、出雲、沼津と各地を股にかけた連休は終わりました。
思った以上に、自分のアクティブなエネルギーが失われていないことに安堵しつつ。


蒜山・長浜神社・出雲大社・日御碕の旅 2019/5/2


前日、鳥取から帰る車中での会話。
「さて明日は出雲に詣でるか〜」と妻。
「は?」と私。

鳥取から西宮の実家に帰り、寝た後に翌朝出雲に舞い戻るという、学生時代ですらやったことのない旅が始まった瞬間です。

鳥取から出雲へ行くには、隣の県にひょいと動くだけ。なのに、一度わざわざ西宮に舞い戻るこの背徳感。
いや、まあ、神社には興味のない娘たちにとっては、家でおじいちゃんおばあちゃんとお留守番して何か買ってもらえた方がええし、それならいったん西宮に帰るのが合理的なのはわかるんやけど。

そんなわけで、翌朝は夫婦水入らずのドライブの始まり。昨日も通ったばかりの中国道を西へと。
今回の旅では通り過ぎるだけの岡山県にも敬意を払わなねば、と勝央サービスエリアと蒜山高原サービスエリアにも寄りました。
蒜山高原サービスエリアでは、とてもおいしいクリームパンに出会いました。これは絶対に帰りに買って帰ろうと決めたほどの衝撃。

クリームパンを生んだ蒜山高原の自然の豊かさを存分にひけらかすように、晴れわたる空に大山がそびえています。
前の日は曇っていたので、鳥取側からの大山の景色は楽しめませんでした。ですが、晴れに恵まれたこの日は、雄大な山体が目の前に広がっています。しかも前日とは逆の方角から見るという経験がまたいい。
このまま出雲に行かず、大山を登りたくなりました。

米子からは山陰道に合流し、宍道湖を右手に見ながら出雲へと。そして、本当に出雲に着いてしまいました。
四十も半ばを過ぎてからのこのような旅をやってしまう自分がうれしい。自分の持ち味を発揮できるのも旅の喜びです。

出雲に着き、まず訪れたのは長浜神社。ここは妻が旅で訪れ、雰囲気にとても打たれた神社だそうです。

それももっとも。神社の境内は、暑い中にも凛とした風気に包まれていました。
暑さの中での参拝は、どこか気だるさを伴うもの。ですが、長浜神社はそうしたゆるみとは無縁で、神域にふさわしい姿で鎮座していました。

私は、神社の拝殿や本殿のたたずまいが好きです。
その姿を見ているだけで、時の流れを忘れられます。
夏の日差しが輝く中、木々に包まれた本殿。古代からの延々と続く時をあり続けてきた風格を備えています。その風格は、これからも長きにわたってますます磨かれてゆくことでしょう。

若萌えの 宮に願ひて 御代の明け
長浜神社にて

この地方一帯は、言うまでもなく国引き神話の地。長浜神社では、その神話にあやかって綱引き神事も行われるようです。
妻がお勧めしたとおり、長浜神社は私に強い啓示を与えてくれました。

続いて向かったのは、出雲大社。
この連休、山陰は大雨の予想でした。そのためか、思っていたよりも参拝客は多く参集していない様子。
おかげさまで、出雲大社駅の少し南にある駐車場に止められました。これもお導きでしょう。

前回の参拝は、家族と私の両親も一緒の参拝でした。2015年の8月25日。
その前々日と前日、そして当日の島根県は観測史上有数の大雨に見舞われていました。
松江地方気象台のレポート
そして、私たちが出雲大社を訪れたのは、その大雨が奇跡的に止んだ直後でした。
参道は木が倒れて通行止めになっていました。そして、私が車を停めた駐車場も本殿の脇にありました。なので、その時は参道をきちんと歩かずに参拝しました。

今回、四年振りに参拝するにあたり、きちんと参道を歩きたい。妻の意向と私の意思は同じでした。そもそも前々回、私が出雲大社を訪れたのは二十四年も前の事なので、もはや覚えていません。私もきちんと参道を歩きたい。
と言いながら、参道に軒を並べるお店にふらふらと吸い込まれるのはいつものこと。「出雲かみしお」では清め塩の多彩な世界に目移りし、「めのや」では勾玉の絢爛な世界に遊び。

さて、勢溜の大鳥居からいよいよ参拝です。参拝客が少なめといっても、そこは国内でも指折りの社格を擁する出雲大社。普通の神社よりもはるかに人が集まっています。
そんな人々の賑わいに負けず、境内の緑は若々しく、境内には清新の気が満ちているようです。

松の参道を歩き、手水舎で清めたあとは、銅鳥居をくぐります。巨大なしめ縄が有名な拝殿でまずは参拝。
今回は、妻が学んできた知識を生かし、きちんとお作法にのっとって参拝しました。御本殿の周りにある摂社を時計回りに詣で、最後に御本殿で参拝しました。
摂社のうち、特に素鵞社は必ず参らなければならないそう。妻の言葉通り、大勢の方が参拝の列を作っていました。
二十四年前の私が絶対に知らなかったであろう正式な参拝。年を取るとはこういうことなのでしょう。きっと。
二十四年がたった今、妻とこうやって詣でられることに感謝しつつ。

本殿の屋根の独特な曲線は大社造りと呼ぶそうですが、伊勢神宮やその他の神社の本殿とはまた違う魅力があります。
世界の屋根たらん、という包容力を備えているような。世のすべての吉凶をまとめ上げるような勢いのある形といいましょうか。
他の神社と違って周囲をくまなく、ぐるりとめぐることのできる出雲大社。本殿の美しいすがたをあらゆる角度から眺められることも、魅力の一つだと思います。

御代晴れや 皐月に映えし 宮の空
出雲大社本殿にて

さて、無事に参拝を済ませた後は、横にある北島国造館へ。古来から出雲大社の神事は、千家、北島の両家が司ってきたそうです。が、明治維新で神道に大きな変革が訪れた際、北島家は出雲大社の神事から外れ、別の出雲教という教団を打ち立てたのだとか。
そのあたりの事情はよく分かりませんが、北島国造館も出雲の歴史のまぎれもない生き証人のはず。
北島国造館の奥には、亀の尾の滝が清らかなしぶきを立てていて、初夏の暑気を和らげてくれます。

私にとって北島国造館は初めて訪れた場所のはずです。出雲には訪れるべき地がまだまだ多いことは分かっていたつもりでしたが、おそらく一生かかっても体得は出来ないほど、出雲は奥が深い。
帰りの松の参道でも、境内に散在する石碑の文字を読みながら、出雲の知識を少しでも得ようとする私。うさぎの故事も含め、出雲にはあと何度でも来たいと思わせる魅力があります。

さて、勢溜の鳥居をくぐって俗界に戻った私たちは、早速ご縁横丁へ。
ここでは店店を冷やかし、アイスクリームで一息。
駐車場に戻った後は、出雲阿国の像や道の駅に立ち寄り、続いての場所へと向かいます。
稲佐の浜を通り過ぎ、山道を十五分ほど走った先に目的地はあります。日御碕です。

まず、日御碕神社へ参拝。早くも日が傾きつつある中、門が閉じる寸前に参拝できたのはよかった。
妻は日御碕神社への参拝は初めてだったらしく、聖域としての風格を備えた神社の境内に、妻はとても強い印象を受けた様子。

無事に参拝を終えた後は、脇の道から日御碕灯台へと歩みます。
海に面した小径は「うみねこの坂道」と名付けられており、その名の通り、海には無数のうみねこが飛び交っていました。すぐ沖には経島(ふみしま)が海面から高くそそり立ち、島のあちこちにうみねこが営巣し、あたりを独占しています。日御碕神社の鳥居も設えられていますが、ここには神官さんも年に一度しか訪れないらしく、完全にウミネコのものとなっています。

夕陽があたりを金色に染める中、飛び交うウミネコの姿は、とても旅情をかき立ててくれました。

ウミネコや 鳴きかう島に 夕陽落つ
日御碕にて

なおも歩くと、日御碕と日御碕灯台が見えてきました。
私がここを訪れたかったのには理由があります。

二十四年前、私は三人の親友とともにここを訪れました。
そして画を描いていたおじさんと会話を交わしました。どういういきさつで会話が進んだのかは覚えていませんが、そのおじさんは占いもできるらしく、お金を払って占ってもらうことになりました。

当時の私は、芦屋市役所でアルバイトをしていました。そして、強烈な鬱に落ち込み、ようやく少しずつ回復する途上にありました。
山陰の旅は、友人たちが私を元気づけようとして旅行に誘ってくれたように記憶しています。
皆生温泉で一泊し、翌日は出雲市駅近くの駐車場で車中泊をしました。
鳥取砂丘や当時開催されていた山陰・夢みなと博覧会を訪れ、八重垣神社や出雲大社を訪れました。
そんな楽しい旅の締めに訪れた日御碕。

私はこのおじさんに、将来は公務員にはならないこと、そして四人の中で一番最初に結婚する、と予言されました。
鬱に苦しみ、将来のあてなど何もなかったその時の私に、です。正直、それを聞いた私は、占いをほぼ信じませんでした。たぶん、八割以上は疑っていたはずです。

ところが、それから2年後、私は関西を離れ、上京します。その時、すでに妻にはプロポーズまで済ませていました。もちろん芦屋市役所のアルバイトはとっくに辞めていました。
おじさんの占いはすべて成就したのです。
今にいたるまで、私は風水や占いの類は鵜呑みにしません。でも、この時のおじさんの予想は確かに当たったのです。
今や、おじさんの名前も顔も忘れてしまいました。そもそも、当時も名前を聞かずじまいだったように思います。

その時から二十四年後、私は妻を連れて日御碕を訪れることができました。
灯台の周りを見渡してみましたが、絵を描いている男性はいませんでした。
あれはまさに一期一会。旅の中で得た一瞬のご縁だったのでしょう。

日御碕灯台のたもとで、沈みゆく夕陽を眺めつつ、ずっと物思いにふけっていた私。
珍しく妻からも一緒に自撮りしようといわれ、何枚か写真を撮ったりしながら、二人で海を見ながら日が沈んでしまうまで座っていました。美しすぎる夕陽です。

占いのおじさんとの再会はなりませんでしたが、この旅はまだ終わったわけではありません。旅のご縁はこの後に待っていました。
そのご縁は、小腹が空いたので、サザエのつぼ焼きでも食っていこうと訪れた日御碕神社の駐車場のそばのお店で生まれました。
ここで最後までお店を締めずに頑張っていたお店のおじさんと、いろいろと会話した私たち。

出雲や日御碕にも、都会から地方創生の大志を抱いてやってくる若者はいるらしく、このおじさんもそうした若者とのご縁がある様子。
そうした会話で盛り上がっていると、時間はあっという間にたってしまいます。
令和を記念して地元のお店に配ったポスターまでいただき、さらにシンガーソングライターの方のCDまでお譲りいただきました。
そのお店の名前は園山商店といいます。その後、一年以上、園山商店さんとのご縁は途絶えています。ですが、きっといつか、よいご縁が復活するような気がします。
出雲とは日本中のご縁が集まり、そして生まれていく場所なのですから。

ただし、この旅でもう一つ、巡り合えなかったご縁がありました。それは、行きの道中で蒜山高原サービスエリアで食べたとてもおいしいクリームパンとのご縁です。
なんと、あのクリームパンは下り線のサービスエリアにしか売っていないとか。あんなにおいしかったのに残念。
お店の人も同じような質問をよくされると苦笑していました。

もうこれは、クリームパンを食いにまた来るしかない。
そして、その足でまた出雲や島根へ再訪しなければ。
なにしろ二日続けて山陰へ旅した私たちですから。


鳥取・由良・北栄の旅 2019/5/1


朝、家族で車で出発し、向かったのは鳥取。中国道を軽快に西へと走り、次いで、中国道から鳥取道へ乗り継ぎ、車は快調に北へと向かいます。旅路に一切の不安はありませんでした。

ところが、私たちの旅はいきなりの渋滞によって暗礁へと乗り上げます。しかもその渋滞のタチが悪く、トンネルの中で全く車が動かないのです。そう、渋滞のなかでも一番イライラが募るやつ。さらに悪いことに、渋滞にハマったのが対面通行の一車線のトンネルの中。戻れないし、動かない。八方塞がりとはまさにこのことです。

全く車が動く気配のないトンネルの中で、Twitterから状況を確認しようとする妻や娘たち。
そこで分かったのは、私たちが足止めされているトンネルで、しかも、つい先ほど事故が発生したらしいということ。
こういう事態にはあまり慣れていないだけに、イライラと不安は募ります。

約1時間半ほど黙り込んだ車の列の中で足止めを食ったでしょうか。ようやく車の列が動きだす瞬間がやってきました。一時はトンネルの中で何時間も閉じ込められるかと思った。
後からTwitterで調べたところでは、事故の一部始終や、その救助作業や撤去作業の一部始終を書いてる人がいたようです。

鳥取道で思わぬ足止めを強いられた私たちは、渋滞による遅れを取り戻すべく、鳥取の市街から9号線を使って西へと向かいました。

最初に立ち寄ったのは道の駅はわい。ハワイが好きな妻にとって、ここは喜ぶはず。一度は連れてきたかった場所でした。
ここではおいしそうなジェラートをいただきました。

ハワイからおさらばした私たちは、さらに日本海の潮の香りを浴びながら、風力発電の風車の足元を潜り抜けながら、北栄町へと至りました。
今日の目的は、ここ北栄町にある青山剛昌ふるさと館。青山剛昌さんとは、名探偵コナンの生みの親です。
街おこしをコナンで。それは鳥取県が県を挙げて取り組んでいる施策のようです。
ここまでの道中にも鳥取砂丘コナン空港とネーミングされた旧鳥取空港のそばを通ってきました。空港にまでネーミングされるほど、名探偵コナンは日本に浸透しています。コナンを創造した青山剛昌先生も、この辺では故郷の生んだ偉人に近い扱いです。

駐車場から青山剛昌ふるさと館に向かった私たちですが、既に館の前には行列ができており、チケットを買うだけでも苦労が待っている様子。
道中、何も買わずに来たためおなかがすいた私は、併設されている道の駅を訪れ、何か食べるものを探しました。ですが、食べ物はほぼ売り切れていて、何も買えません。
あちこちで写真を撮り、妻子のもとに戻って行列にお付き合いしましたが、それでも結局入館までに一時間ほど時間を過ごしました。
館内も混雑がひどく、展示物を丁寧に見ようと思うと骨が折れます。

でも、混雑が起きるのも、それだけ人々に愛されているからこそ。
人々に愛される作品を創り上げた業績は偉大です。しかも作家ご本人が現在進行形で活躍されているとなればなおさら。
よくある文人の過去の展示物や業績を偲ぶ施設ではありません。今現在も精力的に活動されている先生の施設。それだけに、青山剛昌ふるさと館の展示物には昔を顧みる雰囲気が一切ありません。
何よりも、館内にいる子供の割合が圧倒的なこと。それは、さまざまなメディアで展開されているコナンのコンテンツが今を時めく形で支持されている証しです。
青山剛昌ふるさと館は、コナンファンの方にはたまらない施設だと推薦できます。

私もコナンのコミックスは十巻あたりまでは読んでいます。
私はアニメよりもまず、一次創作物を読み込みたい人です。なので、あらためてコナンの原作を読破したいと思いました。

コンテンツの力は偉大です。
青山先生が幼少期の頃、書きためた作品。北栄町を中心としたこの地域で催されるイベントに提供したイラストの数々。私が印象を受けたのは青山先生の蔵書です。私も親しんだ推理小説の名作が並んだ書棚からは、あれだけの長期連載を、しかも推理物でやり遂げた先生の造詣の深さが感じられます。
こうした展示からは、青山先生の故郷への愛着がひしひしと感じられました。
故郷に錦を飾るとはこういうことでしょう。私は先生が成し遂げた証の数々にとても心を動かされました。何か世の中に残したい、という意欲がひしひしと私の中に沸き上がってきます。

ところが今も先生には寝る時間がほぼないらしい。従って、先生が北栄町に来訪し、自身の名が冠せられたここに来る事もあまりないそうです。それは売れっこのマンガ家である以上、宿命なのかもしれません。
月並みな言葉ですが、努力こそは力です。継続こそが成果です。
たとえ寝る暇がなくても、好きなことを仕事にできている先生は充実しているはず。それがよく感じられる展示でした。

ちなみに、ミュージアムショップもものすごい行列でした。私は店の外で長時間、妻子の戻りを待っていました。一時間近く待ったような気がします。

さて、青山剛昌ふるさと館の前には広場が設えられています。アガサ博士の黄色いワーゲンが停められた広場には、余裕をもった広がりがあります。時折、着ぐるみのコナン君も表に現れ、みなに愛嬌を振りまいています。

私は今まで、地方の道の駅をかなりの数を訪れました。その中でも、この施設の混雑は目を見張るほどです。
広場には、いくつかの屋台が店を出していました。その屋台の持ち主の一人が放し飼いにしていると思しき一羽のニワトリがあたりを自由にうろうろしていたのが印象に残りました。
ニワトリの姿をじっくり見ているだけでも、日々の雑事を忘れられます。

青山剛昌ふるさと館から由良駅までの二、三キロの道は、コナン通りと名づけられています。歩道には、コナンに出てくるキャラクターがプリントされていて、あたりの畑に咲いた花々を平面から見つめています。平面だけでなく、コナンに登場する主要キャラクターの銅像が道の両側のあちこちにたち、観光客を出迎えています。

私たちが最初に通りがかったのは、コナンの舞台である米花町の街並みを模した施設です。
さらにコナン大橋と名付けられた橋を渡ります。
その道はやがて交差点へと至ります。昔は街の目抜き通りだったと思われるこの交差点。旧町役場と思われる建物の前にもスイカをかじるコナン君の像が彩りを添えています。
さらにそこから、由良駅へと歩きます。

由良駅も完全にコナンの外観となり、コナン駅の愛称が名付けられています。道中がコナン尽くしで、そのなりふりも構わぬ感じが逆に吹っ切れてすがすがしかったです。

この駅も、街並みも、コナンで町おこしをする前は、寂れた田舎の気配に焦りを含ませながら、何の変哲もない様子でたたずんでいたのでしょう。
今や、多くの観光客が訪れる街中。駅にも活気が感じられます。
北栄町は、コナンを中心にした街おこしの成功例として記憶されるべきでしょう。

逆に、コナンに匹敵するキラーコンテンツがないその他の都市にとっては、街おこしの難しさを感じさせる実例になるかもしれません。

由良駅では、じっくり中を見させていただきました。駅舎の外観もコナン一色です。
ところが、駅の改札に入ると、旅情を感じられる風情を存分に残しています。定義が何かはさておいても、山陰のローカル駅とはこのような感じ、と言いたくなるような。

駅舎の一角には北栄町の観光案内所も設けられ、ここでは来駅証明書も買いました。どこまでも、コナンに彩られています。

再び、青山剛昌ふるさと館へ戻る途中、青山自動車という自動車工場を見かけました。おそらく青山先生のご実家に間違いありません。
駅や街並みの様子と違い、あえてコナン色を出さず、街の一つの風景として溶け込んでいたのが逆に堂々としていました。

さて、先ほど通りすがった米花町の街並みを模した施設。コナンの家 米花商店街と名付けられています。作中の街並みを再現したものでしょう。
そこにもグッズショップがあり、さらにカフェも併設されていたため、そこで遅い昼食をいただきました。

こういう施設もファンにはたまらないはずです。
コナンの映画が封切られる度、映画を観に行く妻や娘たちも、青山剛昌ふるさと館には満足していたようでよかったです。
私もコナンの世界を街おこしの活用する実例を存分に見ることができました。

車に戻った時、すでに時刻は夕刻。
もともとの私のもくろみでは、妻子がコナンにどっぷりつかっている中、大山のふもとにある大山滝を見に行くつもりでした。
ですが、行きに渋滞に巻き込まれたことと、思った以上にコナンに徹した街並みにからめとられてしまい、私の滝見は次回にお預けとなりました。

帰りは来た道を通って帰りました。で、夕食は中国道の加西サービスエリアの官兵衛というレストランでとんかつを食し。
連休の二日目はよい旅となりました。


神戸三宮・北野・梅田 2019/4/29-4/30


ゴールデンウィークを利用し、実家へと旅しました。
ざっと旅日記にまとめておこうと思います。

一日目、4/29
柿生駅前のオリックスレンタカーで車を借り、家で荷物を積み込んだ後、出発。
都内に出ていた妻を駅で拾ったのは19:30頃。
そこから東名に乗って西へとひた走った私。海老名SAと岡崎SAに寄っただけで、まっしぐらに車を駆り、実家に着いたのは夜中でした。

二日目、4/30
朝から夫婦で西宮神社へお参りに。関西に住んで二十年を超えた私ですが、年に一回の氏神様へのご挨拶は欠かせません。
娘たちが二人とも入学したことを報告し、感謝しました。

神の杜 平成惜しみ 初夏の雨
西宮神社にて

その後は、一度実家に戻り、娘たちを連れて電車で神戸へ向かいました。
三宮駅から高架下の雑多なお店を歩き回り、あちこちのお店を冷やかした私たち。
オシャレでありながら、なにやら雑多なエネルギーのあふれる高架下は、東京ではあまり見かけない場所のはず。娘たちも、あちこちのお店を見て回っていました。
昔も今も、私にはあまり興味のない場所なのですが・・・

高架下を堪能した後は、北野の方へ。神戸情緒を存分に感じながら、坂を上っていくこのあたりの景色を目に焼き付けます。
かつて、妻と付き合い始めた頃、北野を歩き回ったことが思い出されます。
妻は北野の界隈が好きなので、ここ数年、帰省の度に妻とこの辺りは歩き回っています。
ところが、娘たちを二人とも連れてきたことがありませんでした。多分、家族四人でこの辺りを歩き回るのは初めてでしょう。

北野工房のまちでは、地元の灘の酒を集めたアンテナショップで、うまい日本酒の試飲を堪能しました。北野工房のまちを訪れるのは何度目かですが、灘の酒がこれだけ飲める場所があることを知ってうれしかったです。
あまりに酒が美味しくて、二本買って帰りました。仙介と百黙を。

続いて私たちが食事をとったのは、「ザ・シーズンランドマーク神戸 北野」というお店。ここでは、神戸らしくビーフカレーに舌鼓をうちました。美味しかった。神戸がビーフカレーの本場かどうかは知らんけど。
異人館のような外観のスターバックスをはじめ、辺りに散在する異国情緒に満ちた建物を眺めながら歩くひととき。娘たちにも北野の街並みの魅力を感じてもらえたかも。

最後は新神戸駅の方から下ってにしむら珈琲店へ。
このあたりは私と妻にとって思い出の地。娘たちを連れ、夫婦の思い出の地を連れ歩くのもまた一興です。娘たちに神戸の良さを感じてもらえたなら何よりです。

神戸を堪能したところで、阪急に乗って梅田へ。
あと一年半強で酒が飲めるようになる長女、そして調理師学校に入学し、サービスの世界にも興味を抱く次女。
bar harbour Innは親として娘たちに推薦できる場所です。
二人ともマスターの藤田さんが丁寧に作ってくださったノンアルコールカクテルを美味しいと飲んでいました。
大人になる心構えを、少しでも感じてくれれば、と思います。
長女はその場で藤田さんの似顔絵を描いて進呈していました。

そして今日は事前に連絡を入れ、私が人生の師匠と目する早川さんとお会いすることができました。
多分、娘たちは早川さんに会うのは十年ぶりぐらいかもしれません。

若い頃の私が、早川さんに初めてbar Harbour Innで出会った頃、ようやく鬱も癒えはじめたばかりでした。その頃の私に今の未来図は決して想像できなかったです。東京に住んでいることも、結婚していることも、こんなに大きく育った娘たちがいることさえも。
人生の滋味と大人になることの意味を深く感じた時間でした。

ありがたさを感じつつ、実家では両親も含めて卓を囲んでの鍋を。
さっそく北野工房のまちで買ってきた仙介をうまいうまいと飲み干しつつ。


福山・三次・常清滝・邑南町 2019/3/2


昨夜、部屋に戻るなり、のび太くんもかくや、という速さで寝てしまった私。
アンカーホテルの一階の素晴らしいバーの存在を知ったのは翌朝のことでした。

いや、ホテルに泊まる前から、アンカーホテル福山の朝食の目玉が特製ホットドックだという事は知っていたのですよ。何しろkintone Café広島の前田さんから勧められていたので。むしろ、それが目的でこのホテルを選んだようなもので。

ところが、その朝食を出すお店が夜はバーになっている事は気づきませんでした。ましてや、そのバーを運営するのが福山では有名なバーあき乃さんということも。
朝、ホットドックを食べながら、バーカウンターに並ぶ桜尾GINのボトルの群れをうらめしく見つめる私。桜尾GINは広島の産んだGINの銘酒。今回の旅でも蒸留所が近ければ、訪れようかと思ったくらいです。
私の無念がどれほど深かったかは、この旅の直後に雑誌Whisky Galoreの懸賞で桜尾GINを見事当選させたことからもわかっていただけるかと。

さて、昨夜の深酒も旅の朝の清々しさの前には消え、私の前に開けているのは輝かしき一日。
一刻も早く今日の思い出を作りたいと、私の翼は早くも目的地に向かい、飛び立とうとします。
なので、福山城には登城せず、大手門からその姿を見上げるのにとどめました。

翼、いや、タイヤは国道2号線を西へ向かって転がります。福山西インターからは山陽道を、さらに尾道ジャンクションからは尾道自動車道を北へと。
私は、濃い霧が立ち込める山々を縫うように車を駆っていきました。そして降りたのは三次東インター。そう、広島県の北部です。

今日は私にとって初めて訪れる地、三次の街並みを散策し、常清滝を愛でるのが目的です。

三次市の旧市街は、古い町並みが保存されていました。昔ながらの広壮な門構えが並び、そこを貫く石畳の道。それらが整然とした印象を与えてくれます。
ここは全国に散在する小京都と呼ばれる地の一つ。ですが、石畳の広々とした感じは、混み込みした京都とは一線を画し、むしろ清潔ですらありました。
私が訪れた五十日後には「三次もののけミュージアム」の開館を控えていて、街の活性化には抜かりがない様子。

ですが、今日は先を急がねばなりません。夜には東京に居なければならないのですから。
私は常清滝へ急ぎました。
ところが、そんな私を三次の魅力がからめとろうと迫ってきます。毛利家ゆかりの地、という殺し文句で。

そこは尾関山公園。
戦国時代は毛利家に属する三吉氏が治めていたといいます。
江戸時代初期には賤ヶ岳七本槍の一人として名高い福島正則が広島藩の藩主となった時、臣下の尾関氏が城主となったことでこの名がついたとか。

わたしの記憶が確かならば、萩を除いて毛利家ゆかりの山城に訪れた経験はないはず。
前日に訪れた鞆城跡といい、毛利家のゆかりの城に二日続けて訪れられたのも、広島を旅する喜びというべきでしょう。これこそまさに吉縁。

尾関山公園の中は、風情のある日本庭園のように設えられており、そこには一人の女性の像が立っていました。
近寄ってみると、女性は、浅野内匠頭長矩の奥方である阿久利姫でした。
初代三次藩主の浅野長治の息女であり、幼少期を三次で過ごしたのだとか。
そして、浅野内匠頭長矩といえば忠臣蔵を語る上で絶対に欠かせない人物。
三次市とは忠臣蔵にも深い縁を持つ街だった事を知り、歴史の縁の深さをあらためて思い知らされました。
こうやって土地と歴史の交わる点に立ちあえる喜び。それこそが旅の醍醐味です。

尾関山のてっぺんには展望台があり、三次の街を一望の下に見ることができます。
三次は霧の街としても知られているのだとか。川が合流し、それが霧を生み、しかも盆地であるため霧はとどまる。
私が見たときも、うっすらとした霧が街を覆っていました。尾道自動車道を走っていた時に見た霧もあざやか。この辺の風土を語るには霧が欠かせないことを記憶しました。
春の街 訪ねて霧や 旅の夢
尾関山公園にて

盆地にたゆたう霧は、かくも幻想的。
そんな事を思いながら尾関山から眺めていると、下に一本の筋が光っている事に気づきました。その筋こそは三江線が走っていた線路です。

三江線は、私が三次を訪れる一年近く前に廃線となってしまいました。
三次と江津を江の川に沿って行き交っていたこの線も、最後は惜しまれて廃止されたようです。
私が訪れた尾関山駅は、駅舎やホーム、線路が残っており、いつ列車が到着してもおかしくない様子。ただし、ホームの駅名標や駅舎の看板は撤去され、傍目には駅である事に気づきません。
それでも駅舎の入り口には、三江線LAST RUNの文字が記されたチラシが貼られ、ここがかつて駅だった事を今に伝えています。
おそらくは地元の鉄道愛好者が残していったものでしょう。

尾関山から見下ろした三江線は、最初はいつ列車が走ってくるのだろうと思えたほど。その感想は尾関山駅のホームでも変わりませんでした。廃線の現実に慣れていない様子が、かえって廃線が地元へ与えた哀惜の深さを思わせてくれます。

私は尾関山駅跡を訪れたことで、三江線にも興味を持ちました。
常清滝へ向かう途中で訪れた、道の駅ゆめランド布野では、三江線の廃線当日を記録した写真集が売られており、つい購入してしまったほど。
残念ながら三江線は地方路線としての役割を果たしていないと判断されましたが、地元の人々にとっては日常の足だったことが分かります。
こうして一年後も路盤や線路が残されていることからも、地元の人々の諦め切れない思いの程が知れます。

さて、私は常清滝への道を目指しました。
常清滝は早春の気を存分にまとい、長大な筋となって流れ落ちていました。
三月とはいえ、まだまだ冬の気配が濃厚に残っているこの辺りには、肌寒ささえ感じました。この近辺はブッポウソウの生息地でもあるらしく、鳥の鳴き声が山々を癒やしています。私も周囲を見回しては、ブッポウソウを探しましたが見つけられませんでした。
あたりが春の芽生えに備え、山の鮮烈な気を蓄える中、長大な滝となって流れる落ちる常清滝。日本の滝百選に選ばれるだけのことはあります。
鳥・水・樹 常に清くを 味わえり
常に清く この場であれば 守れます。
常清滝にて

私は観瀑台からと、滝壺に降りての二カ所から、広島随一の滝を堪能しました。私にとって三十滝目となる日本の滝百選の滝です。去りがたい。




近くの川の駅常清に立ち寄った後、江平駅跡にも立ち寄りました。ここも廃止された三江線を構成した駅の一つです。
この駅も、廃線の現実を受け入れられない様子。むしろ、廃線を直前にした寂れた時間のまま、固まっているように思えます。それがかえって廃線の現実を浮き彫りにしていました。
道路が線路を跨ぐ部分には鉄パイプの柵とJR西日本の表記があり、それがなければ廃駅とは気づかないほどです。
いつでも駅として復活できそうな感じ。それがかえって、現実の寂しさを映し出していました。江平駅のたたずまいは、今回の旅でも印象に残った風景の一つです。
後はただ 早春の川に 身を映し
旧江平駅にて


続いて私が向かったのは近くの稲滝。標識を見つけたので立ち寄ってみました。
滝へ至る道は、かつては車が通れたのでしょう。舗装され、一定の幅を持っていました。
ですが、歩行者すら長い間絶えていたらしく、積もった土砂と落石、倒木に埋もれた道は、歩くのにも難儀するほどでした。
稲滝の姿が見える程度までは近づけたのですが、肉薄まではできません。少し、物足りない距離からの撮影しかできませんでした。

私は最後にもう一カ所。旧三江線の駅に寄りました。それは宇都井駅。島根県。邑南町にある駅です。
江平駅もギリギリ島根県に含まれていましたが、宇都井駅はより内陸に位置しています。
まさか、今回の旅で島根県に足を踏み入れるとは思っていなかった私は、はるばる島根県にまでやってきた感慨に浸りました。

この辺りで三江線は短絡するためでしょう、高架を走っています。
そのため、宇都井駅のプラットホームはかなりの高い位置にあります。ホームまでは百段ほどはあろうかと思える階段を登らなくてはなりません。
宇都井駅はそうしたアプローチからか、印象的な外観を持っていました。もし中国の駅百選が選定されていれば、きっと選ばれていたと思えるほど。

宇都井駅まで来る道中にも多くのサイクリストに遭遇しました。どうやら彼らのほとんどは、この宇都井駅を目指していたようです。
駅の周辺にもそうしたサイクリストが集っており、駅の周りは自転車の集散地となっていました。
私も彼らに混ざり、写真を撮りまくりました。近くの小川のせせらぎが心地よい音を立てていたのが印象に残っています。
宇都井駅で残念だったのは、廃駅になったため、プラットホームへの階段が閉じられていたことです。
今ではNPO法人江の川鉄道が時おりトロッコ列車を走らせており、その時だけはプラットホームまで上がれるようです。
駅の音や 雪解け水に 後託し
旧宇都井駅にて

こうやって閉じられた入口は、廃線の現実を見る者に突きつけているようです。
その現実は、この宇都井駅にも邑南町にも確実に影を落としているはず。
もっとも、三江線の廃止がこの地域にどのような影響を与えたのか、わたしにはよく分かりません。
ですが、一つだけ言えるのは、宇都井駅の遺構が地方の衰退の一つのモニュメントとなっていることです。私はこの地方のおかれた現実をしっかりと心に刻みました。

そんな私も今日、都会の親玉である東京に帰らなければなりません。
東京に帰るには、車で西宮まで戻り、さらに新幹線に向かう行程が待っています。
なぜ今日中に帰らなければならないのか。
それは、明日の朝から千葉の鋸山での登山が控えていたからです。

ひょっとしてこのスケジュール、かなりの無理があるのでは?
今更ながら、そんなことを思った私。13:30には宇都井駅に別れを告げ、三次市内まで車を走らせました。そして、14:30過ぎには三次インターチェンジから中国自動車道の流れに乗りました。
そこからは、休憩をせずに甲子園の実家まで。
確か、実家に着いたのは17:30頃だった気がします。

そして、そのタイミングで届いたのです。明日の鋸山への登山が雨天で中止になったという連絡が。
そうと知っていたら、もう少し島根や三次に止まっていられたものを。
その連絡をくださったのが、三次にルーツを持つ方だったというのも何かの暗合に思えます。
ですが、天候まではどうしようもありません。それもまた旅のつれづれなのだと諦めました。
そして、もう一泊実家に泊まらせてもらうことにしました。

翌日は若き日の私がお世話になった芦屋市役所を訪れ、今一度この目に原点である日々を思い返しました。それはとても有意義な時間でした。

また次回、笠岡、鞆の浦、福山、三次市、邑南町には機会を見つけてきたいと思います。この目が景色を愛でられるうちに。

この旅を通してご縁をいただいた皆様、本当にありがとうございました。


笠岡・鞆・kintone Café 広島@福山 2019/3/1


この旅を振り返るには、その前年の秋までさかのぼらなければなりません。
2018年の秋、kintone Café JAPAN 2018が日本橋のサイボウズ社で開催されました。それは、全国で活動するkintone Caféのリーダーが集まる場所。
その集まりに参加していたkintone Café 広島のリーダーである安藤さんに、来春は登壇します、と約束したのです。

約束した以上、果たすのは当然。
Messengerのやり取りによって決まった開催日が3/1でした。

前夜、新幹線で甲子園の実家に向かい、両親と鍋を囲んだ私。
翌朝、実家の車を借りて福山へ向かいました。
宝塚ICから中国自動車道と山陽自動車道を乗り継ぎ、一路西へと車を駆る私。今回は同乗者もおらず、車内には私ひとり。つまり、リハーサルには持ってこいです。夜に話す内容を何度も繰り返しフロントガラスに向けて語る私。多分、反対車線を走る超人的な動体視力のドライバーからは不気味に映ったことでしょう。

夜の登壇に向け、やる気に満ちた私。
とはいえ、高速道を降りたのは笠岡インターチェンジ。福山の一つ手前です。
なぜ、笠岡?
それはもう、私のいつものパターンが発動したからです。仕事で地方に行く際は必ず観光を組み込む。それは私の王道。
いったんkintoneのことは忘れ、笠岡を堪能したい!
そんな私が目指したのはカブトガニ博物館。

カブトガニ博物館は、まだ未訪問でした。なので前から一度は来たいと願っていました。何せ世界で唯一のカブトガニを取り上げた博物館ですから。
館内にはカブトガニの生態が観察できるよう、大小のカブトガニが多数、水槽で飼育されています。
この博物館では、生きる化石とも言われるカブトガニの生態や、なぜ笠岡にカブトガニが生息しているのかについての詳しい展示がされています。それらの展示はどれもが興味深く、知識として得がたいものです。なぜなら、カブトガニはあまり水族館でも見かけないからです。つまり、カブトガニの生きざまや萌えるポイントを知らずに生きてきたのです。

水槽の中でもあまり動かず、ジッとしている個体もいれば、雌雄のツガイが交尾中のまま、水槽に固定されたかのように動かない姿も食い入るようにみました。
何もかもがミステリアス。それでいて憎めない存在。
エイリアンのモデルになったのでは?と思わせるいかついフォルムを擁しているカブトガニに、萌えを感じる人はなかなかいないはず。
もし興味を持ったあなたは一度カブトガニ博物館に来てみることをお勧めします。

私の印象に強く残ったのは、カブトガニの血液から薬が作られていることです。
カブトガニの独特の青白い血からしか作れない薬があるらしく、それがここ笠岡で製薬会社と連携して作られているとか。
素晴らしいことです。それ以上に素晴らしいのは、青白い色の鮮烈さ。
カブトガニに対しては「おめえらの血は何色だァ」とすごんで見せても「青白ですが、何か?」と返し技を喰らうので気を付けなければ。

カブトガニ博物館には、養殖池やシアターや化石展示など見所に富んでいます。この博物館のためだけに笠岡に来る価値はあると思えました。そう言い切ってしまえるほど、全国でも唯一無二の存在なのです。
博物館の受付ではマンホールカードもいただきました。笠岡市のマンホールにはカブトガニがあしらわれていて、コレクターの琴線をくすぐってくれます。

博物館の外には大きめの公園が設えられ、そこには等身大と思われる巨大な恐竜の像が何体も展示されています。笠岡では恐竜も発掘されたらしく、館内にも化石が展示されていました。
私が訪れたとき、ちょうど幼稚園の園児たちが見学に来ていて、恐竜の周りでお弁当を食べていました。この中で何人が古生物学者になってくれることやら。楽しみです。


カブトガニ博物館の目の前に広がる海は、カブトガニの住処であることが納得できるほど凪いでいました。
この穏やかな海の光景は、笠岡を思い出すたびに脳裏に浮かぶことでしょう。

この海に 太古の奇跡 輝きぬ
笠岡市立カブトガニ博物館にて

私がまだ知らずにいた笠岡の魅力。
そうした出会いに恵まれる経験こそが、旅の妙味です。

他にも笠岡の魅力はあるはず、と駅前のラーメン店を探したのですが、あいにく車を停めるスペースが見つからず。
海辺の隠れ家のような場所にあるうどん屋も訪れてみましたが、そこも あいにくの閉店日でした。天は私に笠岡の食い物をお預け遊ばしやがる。

ところが私に、天は笠岡ラーメンを賜ってくださったのです。
それは広大な干拓地の中にある道の駅ベイファーム笠岡まで足を伸ばしたときの事。
せめてそこで軽く食事だけでも、と思った私に笠岡ラーメンの写真が。醤油ベースのそれをつるりと。ご馳走さまです。
時間が遅くなったので、惣菜ビュッフェまで用意されていたのですが、さすがにそれは我慢しました。
道の駅に売られている農産物はどれもがとても美味しそう。この地の豊かさを感じます。

何しろ、あたりは広大です。干拓によって生まれたとされる道の駅周辺は、広大な農地。この広がりから、豊穣な産物が生産される。まさにこれは笠岡のランドスケープ。
海と干拓地の平らで広やかな様子は、私の記憶に笠岡の魅力として残り続けるはずです。

続いて私が向かったのは鞆の浦。
私はかつて、福山には来たことがあります。だが、その時には鞆の浦は訪れませんでした。その時の私が訪れたのは、ホロコースト記念館。その話はまた別に。

さて、私の期待を裏切らぬように、鞆の浦は、風情と歴史を全力で私の眼前で表現してくれていました。
古来より風待ちの港町として栄えてきた伝統。それは、道の狭さにもあらわれています。車を止める場所を見つけられず私に鞆の街を二周もさせてしまうほど。

結局、停める場所が見つからず、観光案内所に車を停めさせてもらいました。最初は観光案内所にも一瞬だけ停めさせてもらうつもりだったのです。
ところが、少し街に足を踏み入れた私は出会ってしまったのです。保命酒の店舗に。
風情のある建物に掲げられる保命酒の看板。それが数軒連なり、通りを構成している。私はそのたたずまいにすっかり魅了されてしまいました。

保命酒の知識など全く持たぬまま、鞆の浦に迷い込んだ私。予期せぬ酒蔵の出現にすっかり上機嫌となり、鞆の浦から去り難くなってしまいました。
入江豊三郎本店の店舗に入り、店員さんにあれこれ質問させてもらい、製法の資料などを興味深く拝見しました。
養命酒とほぼ製法は同じらしいのですが、鞆の浦の賑わいとともに、全国的な知名度も落としてしまったとか。
惜しい。一介の飲んべえに過ぎないただの風来坊の私ですが、保命酒はもっと知ってもらいたい、と思える存在でした。
私も一本、入江豊三郎商店の一リットル瓶を、両親のために買い求めました。

保命酒によって鞆への興味がむくむくと湧いた私。
続いて向かったのは、鞆城跡。
天守は現存しませんが、天守の代わりに歴史博物館が鞆の街を見守っています。
天守台から見下ろす鞆の街、そして瀬戸内海。まさに絶景です。早春の瀬戸内海の景色とはこのようなものか、と悦にいる私。

ちなみにこの時の私は、鞆の浦がモデルとなったといわれる「崖の上のポニョ」は確かに意識していましたが、それほどの感慨は持ちませんでした。鞆城址からのアングルがポニョのしんに思い当たらなかったからかもしれません。
そもそも街もあまりポニョのことは表に出していない様子。
それはそうでしょう。これだけの観光資産を抱えていればポニョに頼らなくとも十分なはず。
ポニョの海 なだらかに春 歌いけり
鞆の浦にて

ますます鞆の浦に興味を抱いた私は、夜のkintone Caféのことなどすっかり忘れ、せっかくなので鞆の浦をさらに見て歩きたくなりました。
まず観光案内所に一度戻り、きちんとお店の人に話しをしてお金を支払い
、ついでに私向けに四蔵の製品がそれぞれミニボトルになったお土産を購入しまして。

再び街を巡り始めた私が訪れたのは、常夜燈のある海辺です。この日は観光客も多かったのですが、地元の中学生がボランティアガイドをしている姿に打たれました。数人ではなく、20人以上はガイドがいたでしょうか。積極的に声を掛けてくるのです。
私も声を掛けてくれた男子に太田家住宅や七卿落ちの史跡の由来を教わりました。なんだか胸がほっこりしました。

常夜燈のたもとにいた地元の古老らしき方は、ガイドさんの説明に納得がいかないらしく、文句を垂れていました。
わたしもその古老には常夜燈の由来をいろいろと教わりました。が、古老もいつの日か、ガイドできる体力がなくなるはず。
だからこそ中学生がガイドを行うことが重要なのです。
彼ら彼女らの存在がどれだけ観光客には爽やかに映るか。そして将来、地元への愛着をどれだけ養ってくれるか。
私にとって、鞆の浦の思い出の一つがこのガイドさんたちとの出会いでした。

常夜燈の側にはいろは丸展示館があり、そこは中に入って見学しました。坂本龍馬が乗っていて、紀伊藩の明光丸と衝突して沈んだあの船です。

私は最後に、坂本龍馬が隠れて住んでいたという桝屋清右衛門宅の隠れ部屋を見学しました。
鞆の浦とは、さほど広くない街の至る所にこうした歴史の面影を宿す場所があります。歴史が好きな人にとって、鞆には何日滞在しても飽きないことでしょう。
「竜馬がゆく」の世界がこうして今も残されていることに、粛然とした思いがよぎります。
室町、安土桃山時代、江戸時代、幕末と歴史の年輪が刻まれた鞆の浦の魅力は一度だけの訪問では到底味わい切れるものではないのでしょう。

わたしにとって見るべきところはまだまだあり、安国寺や平賀源内生祠など行けなかった場所からはいまだに後ろ髪を引っ張られ続けています。
ですが、そろそろ福山に向かわなければ。何のために福山にきたのか忘れそうになってしまいます。

私が福山でとったのはアンカーホテル。福山城の近くです。
シャワーを浴び、登壇内容の最後の確認をしていると、私と同じく遠方からkintone Café広島に来られた久米さんからご連絡があり、一緒にタクシーで会場に向かいました。
その後のkintone Café広島の詳細は、

kintone Café 広島 vol.12 @福山に登壇しました


に記しており、本項では割愛します。

とにかく、とても充実した一日でした。この旅でお会いした皆様、ありがとうございました。


福島県お試しテレワークツアー


今回の「福島県お試しテレワークツアー」の募集要項を読み、三年前の思い出が蘇りました。
その時に感じた郡山の皆さんの温かみ、そして復興への想い。その経験は私に地方への目を開かせてくれました。
それ以来、機会があるごとに、福島にできることは何かを考えていました。なので今回のお誘いも、すぐに参加を申し込みました。
https://www.facebook.com/191888961588176/posts/575688259874909

初日(1/16)、郡山で集合した私たちは、今回のツアーを主催する株式会社LIFULLの内田さんの運転で、co-ba koriyamaへと向かいました。
ここは三年前、kintone Café 福島Vol.1が開催され、私が登壇した場所です。
運営されている三部さんからは、co-ba koriyamaのご紹介と、取り組みのご説明を行っていただきました。
今後も農業経営のセミナーや、エストニアの動向の報告会、シェアリング・エコノミーを紹介するイベントなど、面白そうなイベントが開催されるようです。
前回にも感じたco-ba koriyamaの存在感と役割がさらに強く広がり、今の郡山の商業をつなぐハブとなっていることが感じられました。うれしいですね。
https://co-ba.net/koriyama/

続いてはランチトーク「⼆拠点ワーカーの実践者の話を聞こう」です。
普段、co-ba koriyamaを拠点にされている株式会社フリクシーの片岡さんは、実際に二拠点ワークを実践されている技術者です。しかも、株式会社フリクシーさんは医療系のアプリ開発を主な業務とされていらっしゃるとか。
https://www.flixy.co/

医療情報ガイドラインが用意されているとおり、医療情報には機微な内容が含まれます。そのため、まだまだクラウドへの取り組みが遅れている分野です。ネットワークでつながり、クラウドを利用されていても、開発は都心の開発センターでまかなわれている事が多いようです。
ですから、片岡さんのワークスタイルは相当に先進的ではないかと思います。郡山に住むと、首都圏で住むのに比べ生活のレベルが向上することは自明です。そうした実感を語る片岡さんの目は輝いておられました。
私もとても興味をもってお話を伺わせていただきました。たけやさんのお弁当をおいしく頬張りながら。

さて、テレワークを行うには無線LANが欠かせません。なのでタブレットやPCなどはWi-Fi対応が当然です。
ところが、私のノートPCはco-ba koriyamaのステルスSSIDがうまく拾えませんでした。タブレットは速攻でつながってくれたのに。
なので、テレワークをされる方はステルスSSIDもきちんと取れるようにしておいたほうがよいです。
ちなみに私がco-ba koriyamaで挙げた成果は以下の通り。
  ・弊社サイトのSSL化に欠かせない証明書取得のための仕様調査
  ・多数のお客様とのやりとり
  ・Zenrin APIとkintoneの連携の調査
合間には三年前にお世話になった方が二人、私に会いにco-ba koriyamaまで足を運んでくださり、旧交を温められました。ありがたいことです。うれしかった。

18時になり、内田さんの運転で向かったのは磐梯町。まずはLIFULLさんが運営されているLivingAnywhere Commons会津磐梯へ。
ここはとても立派で、仕事にも旅にも住めそうな施設でした。
今は伊豆下田と会津磐梯の二カ所が開設されていますが、今後、全国にLivingAnywhere Commonsのブランドで展開を予定されているようです。私も加入を検討したいと思いました。
https://livinganywherecommons.com

LivingAnywhere Commonsでは福島県の地域振興課の橋本さんと中根さん、さらにお隣の猪苗代町で株式会社アウレを経営されている遠藤さんと石川さんがお出迎えしてくださいました。
ここであらためて、皆さんと仕事を忘れて語らいの場を。

大きなお鍋に盛られた「ちゃんこ やぐら太鼓」さんのちゃんこ鍋と、地元の銘酒七重郎の純米大吟醸と会津ほまれの純米大吟醸。そしてビールのどれもが旅人のこころと初対面のぎこちなさをほぐしてくれます。
https://retty.me/area/PRE07/ARE235/SUB23501/100000362314/
こういう場を設けていただいたことに本当に感謝です。福島を何とか盛り上げたいという気持ちが伝わってきますし、私もなんとかしたいという思いが募ります。
福島県の地域振興課ではさまざまな機会を用意しているそうです。これを見逃すのはもったいない。
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11025b/

続いて私たちは、猪苗代町の道の旅籠「椿」へ。こちらが今回、二泊お世話になる宿です。
ゲストハウスには泊まらせていただいた経験がありますが、この椿さんもまた居心地がよく、良い時間を過ごさせていただきました。少々お酒をたしなみすぎましたが・・・・
https://hatago-tsubaki.net/

二日目(1/17)、ご用意いただいた朝ごはんをいただき、まず向かったのは猪苗代町のアスパラ邸。
ここは遊休不動産活用事業のケースとして、コワーキングが可能なように民家をリノベーションした施設です。とてもすっきりとした邸内は仕事にうってつけの様に思えます。
私はアスパラ邸でも作業してみたかったのですが、今回はスケジュールの都合でここでの作業は行いませんでした。
https://m.facebook.com/events/2369790489957237

続いて向かったのは、集まりいなです。
「こどもたちのサードプレイス」と銘打たれたこちら、現在進行形で施設の拡充が進んでいる様子。
今回のツアーの参加者にはお子さんもいましたが、熱心にロボットを組み立てている様子が印象的でした。そして見事に動かしていたことに感心しました。
https://atsumarina.jp/

集まりいなのWi-Fiと私のノートPCは無事につながったので、さまざまな作業が進められました。
  ・前夜、遠隔ミーティングを開きたいとのご要望をいただき、zoomを使って首都圏の方と打ち合わせ
  ・Zenrin APIとkintoneの連携の実装完了
  ・某kintone案件の項目および画面設計(ほぼ完了)

合間には猪苗代町のまるいち食堂でソースカツ丼をいただきました。うまい!!!

お昼を食べた後、LivingAnywhere Commonsと集まりいなの二カ所に分かれて作業することになりました。
私は前者にも惹かれましたが、作業に集中できそうだったので、そのまま後者にとどまりました。
その決断が吉と出たのか、上に挙げたタスクは13:30にはほぼ完了しました。
いくらワーケーションやテレワークといっても、遊んでばかりだと能率が落ちます。
仕事と遊びの両立を行うには、集中力が肝心だと思います。
そうした私のモットーを実証するのに、co-ba koriyamaと集まりいなで集中できた事は、会心の事例となりました。

タスクに一区切りをつけられたことで、猪苗代の街へ散策にでました。
猪苗代駅、猪苗代町観光案内所、猪苗代町役場、猪苗代城を1時間半で巡り、見聞を広めました。そこで感じたことについては、稿をあらためたいと思います。
ただ一つだけ書いておくべきなのは、雪不足で苦しむ猪苗代駅前の閑散とした様子でした。
鉄道が地域交通の主役の座から降りて久しいとはいえ、その様子は、何とかしたいと思わせるに十分でした。

さて、3時過ぎになって合流した私たちが向かったのは、車で三十分ほど離れた中ノ沢温泉の花見屋旅館です。
広大な露天風呂につかり、ボーッとする。これぞ旅のだいご味です。

しかもこの温泉郷は見覚えがあると思ったら、三年前に一人で訪れた達沢不動滝の道中に通っていました。当時はこんなに素晴らしい温泉郷だとは全く気付かずにいました。
豊かな温泉が周囲に点在していることも首都圏ではなかなか味わえない旅の喜びではないでしょうか。

十分に英気を養ったところで、再び道の旅籠「椿」へ。
遠藤さんが猪苗代の夜をご案内してくださるというので、喜び勇んで散策に出かけました。
かつては映画館を擁する繁華街があったそうですが、今は残念なことにそれほどの賑わいは感じられません。
それでも、歴史の重みは感じられます。
  ・郷土の誇り野口英世氏のゆかりの地が点在しています。
  ・松平会津藩祖の保科正之公が眠り、祀られている土津神社(今回、とうとう行かれませんでした)。
  ・伊達軍と蘆名軍がかつて矛を交えた摺上原の戦いもこのあたりが舞台です。
猪苗代町は歴史が好きな方にとって、魅力的なアピールがまだまだ可能だと確信しました。

私たちが訪れたのは「すし割烹 はなまる」さん。
ここでも会津の豊かな農産物や銘酒を心行くまで堪能し、会話に花をまるっと咲かせました。
https://www.inawashiro-hanamaru.jp/

私は、この機会に遠藤さんに猪苗代で住む利点やきっかけや、今の状況などを失礼も顧みず質問しました。
遠藤さんが猪苗代で仕事をしようと思った動機は、
・海外か福島か、今後の身の振り方を考えたとき、地震後の被害に苦しむ福島のためになりたい。
・郡山や会津若松にはない磐梯山の雄大な景色に惹かれた。
・行政の中心福島、商業の中心郡山、ITの中心会津のどこにもアクセスしやすい場所に猪苗代が位置している。
・東京はプレイヤーが多く、やれることが限られている。猪苗代には一人ひとりにやるべき責任ややりがいが多い。
どれもがとても有意義な示唆でした。私にとって移住も視野に入れた情報としてとても参考になりました。
遠藤さんが経営する株式会社アウレさんのサイトはこちら。https://awre.co.jp/

道の旅籠「椿」に戻ってからも、日本酒を相当飲ませていただきました。酒どころ福島を旅する幸せを五臓六腑で味わい尽した二泊でした。
仕事と旅と飲食のどれもに満足できる。これぞワーケーションの妙味ではないでしょうか。

三日目(1/18)、朝ごはんをいただいた後、お世話になった「椿」のオーナーに別れを告げます。ありがとうございました。
続いて私たちが向かったのは「はじまりの美術館」。あいにく、美術館は閉館していましたが、猪苗代の周辺の風景に溶け込んだ外観にとても好感が持てました。
http://www.hajimari-ac.com/

猪苗代の街は、アートの街でもあります。夜の散策でも町のあちこちにアートが点在しています。
これらのアートはドイツをベースに活動するアーティストのTONAさんに猪苗代青年会議所さんが依頼したもののようです。
https://www.instagram.com/tona_one/

こうした活動が、街並みに活気を与えています。こうしたアートを巡るだけでも猪苗代は楽しめそうです。
猪苗代青年会議所には遠藤さんと石川さんも関わっていて、今後の活動が楽しみです。
https://www.facebook.com/647jc/

今回私たちがお世話になった稲川酒造さんを訪れた後、続いて向かったのは雪下野菜の収穫体験です。
会津猪苗代激甘フルーツ雪下キャベツ-猪苗代キャベツ研究会という名前で雪下野菜の栽培と普及を行っていらっしゃる深谷さんと古川さんにご案内いただき、キャベツ畑へ。

その前にご自宅でご用意してもらった長靴に履き替えながら、農家の風情にひたりました。飾られたアンコールワットの拓本が見事で、ネコちゃんやワンちゃんの人懐っこさとともに皆さんの心の温かさが感じられます。
去年も会津若松で会津伝統野菜や無農薬栽培に取り組む方のご自宅にお邪魔させていただきましたが、農家のたたずまいは東京では味わえないゆとりに満ちています。

雪下野菜のキャベツは、本来なら1メートルにもなる積雪の下で甘味を蓄え、収穫されます。
ところがニュースにもなった通り、今年の異常な暖冬は猪苗代にも影響を及ぼし、キャベツ畑に雪はまったく見られません。
ところが、収穫を体験させてもらい、その場でかじったキャベツの甘いこと!
凍って固い歯応えが、口の中で溶けて広がって甘みへと変化します。
雪の下に育つ野菜は徐々に雪の中で甘味を失うそうです。だから、雪の下にあっても甘味を失わないため、甘味に富んだ品種を植えるのだとか。そんな甘みの糖分がキャベツの体内を巡っているため、生命と甘みは維持される。私たちが口にしたキャベツはまさに甘みの結晶でした。
そうした説明を聞くにつけ、植物のたくましさと、それを活かす農家さんの英知が感じられます。そして農業とはつくづく奥深いものだという感慨も。

聞けば雪下野菜は首都圏には出荷されておらず、農協も通らずに直接地元のスーパーに下ろしているとのこと。産地ならではの貴重な体験をさせていただきました。
そして、雪下野菜を育てているのに雪下野菜を名乗れないこの冬の異常。そんな切実な危機感を感じたのも今回の旅の経験として残ることでしょう。

お花や野菜などを栽培しつつ、会津の未来に思いをはせる。お二方の取り組みは今後も応援させていただきたいですね。
会津猪苗代激甘フルーツ雪下キャベツ-猪苗代キャベツ研究会さんのページhttps://m.facebook.com/cabbaken/

そこからいよいよ猪苗代駅へ。ここで内田さんとはお別れです。
運転やアテンドなど、内田さんにはとてもお世話になりました。本当に感謝です。
飲んべえが集ってしまい、さぞ大変だったことでしょう。
https://lifull.com/

郡山へ向かう皆さんとは逆に、私は会津若松へ。
街並みを歩き、飯盛山を訪れ、会津若松への見聞を深めました。が、その内容はまた別の記事に譲りたいと思います。

この旅でご縁をいただいたあらゆる方に感謝です!

Twitterまとめ


上山の旅 2018/12/28



昨日、上山の街を白く染め上げた雪。
それが一夜明けると、からりと晴れた青空の下で街を白く彩っています。

朝食も、昨夜の豪勢な食事の余韻が響くような献立でした。

せっかくなのでチェックアウト時間になるギリギリまで湯を堪能しました。温泉に来たのだから、まずは湯を満喫しないと。
昨晩、街に降りしきっていた雪景色とは一変し、晴れ上がった空を見ながらの湯はいいものです。


チェックアウトも名残惜しいのですが、旅は動いてこそ旅。
宿の中庭や玄関に積もる雪の眩しさが、旅の前途を祝ってくれるかのようです。
昨日は宿までの道を歩きましたが、帰りは宿の方が駅まで送ってくださいました。


さて、お湯にひたるのが目的だった今回の旅。それ以外はまったくのノープランでした。
そこで昨夜調べたところ、レンタカーで郊外を目指すことに決めました。
かみのやま温泉駅前にはレンタカー屋さんがあり、そこで車を借りることに。
私はレンタカーの営業所が空くまで間、かみのやま温泉駅をじっくりと訪れました。
その間、妻子には昨日も訪れた観光案内所で時間を過ごしてもらいながら。

昨日はこの駅でつばさから下車しました。ところがつばさによっては通過していくこともあるらしいのです。
列車の接近を知らせるアナウンスがかなり前から頻繁に流される中、ホームで写真を撮っていた私に駅員さんが心配そうに近寄ってきました。
それもそのはずで、つばさは猛烈なスピードで駆け去っていきました。雪片を吹き飛ばしながら。なまじ私がホームの際に立っていたらただでは済んだとは思えません。ホームドアもないのに、都会ではお目にかかれない猛烈なスピードで通過していく様が印象に残りました。
この辺りは在来線に新幹線を走らせているので、都会のホームとは少し感覚が違うのでしょう。

それにしても、雪景色の駅前はまぶしかった。
雪に埋もれた駅前広場や通路を歩いているをうろつきながら、晴れ渡った雪原を冒険する気分に心が躍りました。

レンタカー屋で車を受け取り、妻子を観光案内所で拾い、昨晩のうちに検討しておいた目的地へ。
向かったのは楢下宿 丹野こんにゃく番所です。妻子はこんにゃくが好きなので、ここは目的地としてふさわしい、と思って。
実際、広大な古民家調のお店にはこんにゃくでできた多種多様な料理が並べられ、好きなだけ試食ができます。
その種類やおいしさは、比較すると申し訳ないのですが、群馬のこんにゃくパークの無料コーナーのそれを凌駕していました。まさにこんにゃくのうまさが存分に味わえました。
妻子が喜んでくれたことは言うまでもありません。

ちょうど、こんにゃくを噛んでいる間に屋根からドサドサッと雪が大きな音を立てて落ちました。

こんにゃくを 噛む窓の外 雪崩落ち
こんにゃく番所にて

さて、こんにゃく番所に満足したわが家。次に向かうべき目的地はまったくの白紙でした。
そこで昨日、観光案内所でパフェがおいしかったHATAKE Caféの本拠地であるフルーツ農園に行ってみようと思いました。
車で20分ほど走ると、そこは雪原に農園が広がっています。ただし一面雪に覆われていて、いったい何のフルーツが栽培されているのかわからないほど。
そんな雪原を走る猿を見かけましたが、彼はいったい何を求めてさまよっていたのでしょうか。

雪原や 無い物ねだり 猿が行く
上山市 フルーツラインにて

さて、運転してたどり着いたHATAKE Cafeは、残念な事に閉まっていました。平日なので仕方ない。
ところが、入り口に貼られていた案内によれば、別のショッピングセンターに併設されたお店は営業しているとか。
なので、そこからさらに10キロほどドライブ。かみのやま温泉駅から北に三キロほど行ったトマト上山店まで走りまして。
ここでは寒い中、焼き芋などを買いつつ、おとなりのファーマーズマーケットトマト上山店をのぞきました。地方を旅するとこういう農産物のお店につい立ち寄ってしまいます。山形の豊かな農産物がたくさん並んでいました。

農産物を満足してから向かったのは、斎藤茂吉記念館。ここも私が個人的に行きたい場所だったのです。
ところが、残念なことに閉まっていました。師走の平日なので仕方ありません。

続けて閉まっているお店をめぐると、さすがにがっかり感が湧いてきます。
温泉が目当てだったとはいえ、上山を満喫しきれないモヤモヤ感が生まれます。
そこで妻が郵便局に行きたいというので、上山旭町郵便局へ。ここでは風景印を押してもらいました。昨日は上山城の前にある上山十日町郵便局でも風景印をいただいたので、この旅行では二枚入手できました。

この時点で時間は午後3時半前。まだ新幹線の時間まで数時間はあります。
行く場所がなくなってしまったので、トマト上山店に行く途中で通りがかった「ぐっと山形」へ。
ここは山形県観光物産会館で、広い店内には山形の土産物が集っていました。
私はここで持ってきたノートPCで作業に没頭。
その間、妻は山形の日本酒を試飲し、二本ほど購入していた模様です。

そうしているとレンタカーの返却時間が迫ってきたので、駅へと向かいます。
レンタカー屋への途中で妻子を上山城の前にある菓子司 十五屋本店に下ろしました。
このお店、昨日も私がじっくり城を見ている間、妻子がここに立ち寄ってお店が気に入ったのです。
私はその間、レンタカーを返し、夜の街をのんびりあるきながら十五屋へ。通りがかると上山城がライトアップされていて、降り始めた雪の中、近くまで行って白く幻想的にそびえる城の姿を目に焼き付けました。
この十五屋さん、妻子が気に入っただけはあって、和菓子屋さんの奥にある喫茶コーナーが素朴で良い感じでした。コーヒーもおいしく長時間居ても疲れません。

結局、二日目はあれこれ移動したけれど、妻子のことを考えると最初から城下町あたりでまったりしていても良かったのかも。

新幹線の時間が迫るまでお店に居、タクシーを呼んでもらい駅へ。
楽しかった二日間の上山市ともいよいよお別れです。つばさは黒と白に彩られたかみのやま温泉駅を離れ、東京へ。大宮と新宿で乗り換え、無事に帰宅。

年の瀬に一年の疲れをいやす良い湯治の旅ができました。
またきっと上山市には来ようと思いました。次は雪のない時期に一人で。
そして家族とは雪の時期に。家族の会話でも時折、葉山館の話題がでるぐらい、気に入ってくれたようです。


上山の旅 2018/12/27


妻が急に、かみのやま温泉に行きたいといい、年末に家族で山形の旅を楽しんできました。

どうして急に?
妻のいつもの唐突さには慣れっこでしたが、今回も脈略のなさに戸惑いました。
どうも、妻がテレビで葉山館を見て興味を持ったらしいのです。
年の瀬のこの季節。かみのやま温泉に行っても雪で観光はできないはず。さては温泉三昧が目的か!

というわけで、6時半に出発したわが家。小田急から大宮に向かい、7:49分には大宮に着き、BECKS COFFEE SHOPで時間を過ごした後、8:34大宮発のつばさに乗りまして。
家族で電車旅行は久しぶりです。

福島からつばさは山形新幹線へと分け入り、景色に白さが濃くなってゆきます。山形県に入ると、もうそこは雪景色。積もった雪が雪国の風情を演出し、旅人の情緒は一刻ごとに濃さを増していきます。
道中、米沢や赤湯など私がまだ訪れたことのない駅に停まるつばさ。ついつい降り立ちたくなる衝動に駆られます。が、その思いをこらえる私を乗せ、雪国をつばさは走ります。
さて、大宮から二時間強の旅は10:55に完結。かみのやま温泉駅に下車しました。

上山市は私にとって今までほとんど縁がありませんでした。上山市の近くには長井市があり、遠い祖先を介して私とご縁があるはずにも関わらず。
ほかに上山市について私が思い出せるご縁といえば、かつてスカパーのカスタマーセンターでマネージャーをやっていた時、私の下で働いていた女性が上山市出身と言っていたことぐらい。この方には長女が生まれた時にベビーカーを譲っていただいたので、20年近い日々がたった今も感謝とともにそうした情報を覚えているのです。

さて、かみのやま温泉駅に降り立ったはよいのですが、特にどこに行くあてを考えていなかったわが家。
まず、駅前の観光案内所に向かいます。ここで食べたフルーツパフェが絶品でした。着いて早々、フルーツ王国山形の恵みを存分に満喫しまして。

観光案内書でのんびりした後は、城下町である上山市の歴史に触れるため、上山城へと向かいました。
上山城は明治維新で一度は破却され、その後に模擬天守として再建されたといいます。
江戸時代を通じて城主もかなりの頻度で入れ替わったようです。転封が繰り返された大名の悲哀が凝縮された町なのかもしれません。
天守から見る白く染まりつつある町は、旅の感慨に触れてただ美しい。

湯けむりを 霞ませよとて 雪の舞う
上山市街にて

土岐頼行公が藩主の代には紫衣事件で流罪を受けた沢庵和尚を手厚くもてなし、そこで沢庵漬が生まれるなど、歴史のある町としての逸話には事欠きません。

上山城の天守を兼ねた歴史資料館で上山の歴史を学んだ後は、葉山館へと歩いて向かいます。
城を出たあたりからすでに雪が降りしきり、景色は雪国のそれです。旅情を味わうといより、寒さに体をすぼめながら、雪国の厳しさを肌で感じながら。
葉山館までは2キロ弱ほど歩いたでしょうか。もう十分に雪国を堪能しました。途中、かみのやま市役所に立ち寄り、マンホールカードをもらいつつ。

でも、歩いただけのかいはありました。かみのやま温泉 葉山館は外観も温泉旅館としての格式を備えていました。内装も日々の疲れを癒やしてくれます。
部屋には二十四時間入り放題の内湯が備え付けられ、家族四人が広々とくつろげる広さは家族から感嘆の声を引き出すのに十分でした。
バルコニーには足湯が設えられ、そこから見下ろす上山の街並みは雪の舞いに白く染まっています。

雪国の 風情に浴みし 足湯かな
上山温泉 葉山地区にて

そこで、家族には存分にお風呂を満喫してもらうことにして、私は街へと出ました。
まずは来る途中に気になっていたディスカウントショップの「わくわくコマレオ 上山店」で日本酒「米鶴」を購入しました。
さらに、国道458号線を1キロほど歩き、沢庵和尚が庵を結んでいた春雨庵を訪れました。

上にも書いた通り、春雨庵は沢庵和尚が流罪の身をかこちながら、上山の人々と交流を結んだ場所です。
庵の中には入れなかったのが心残りでしたが、境内はゆっくりと見て回ることができました。

雪の降り仕切る中、ただ、そこにある庵。
三百何十年もの間、この庵はそうやってありつづけてきたのだろうな、と思うだけで、来てよかったとしみじみ思いました。
寒さも忘れて春雨庵をじっと見つめていました。

冬雪に 悟りの声を 耳すまし
春雨庵にて

宿への帰り道は、薄暗くなる空と、昼の明かりをとどめる雪のせめぎ合いでした。
柿の木には雪が降り積もり、柿の実の色合いも雪に押しつぶされそうでした。

雪のせの 柿の実や 帰途早まりし
上山市街にて

宿に帰ってからは、湯を楽しみ、食事も楽しみました。
山形の名産が満載で、給仕の方の対応もほどよく洗練されていたのが印象的でした。
娘たちも浴衣に身を包み、間近に迫った進学のプレッシャーを一時でも忘れられたのではないかと思います。

夜も内湯を楽しみ、大浴場も楽しみ、まさに温泉三昧。すばらしい年末となりました。


台湾の旅 2018/10/29


さて、台北の朝です。ホテルも部屋もほどよい空間で、ゆっくり眠れました。この日、まず私たちが向かったのは近くの龍山寺です。その前にファミリーマートに寄り、お茶などを買いました。朝ご飯は抜きました。前の晩、餐食天堂で食べ過ぎたため、これ以上食べられません。

龍山寺は妻が行きたいと願っていた場所。いわゆるパワースポットです。道教や仏教など中国の伝統的な宗教が凝縮された寺です。23年前にも台北のどこかで中国のお寺を詣でた記憶がありますが、それは果たしてどこだったのか。忘れてしまいました。

龍山寺は、線香があちこちで煙をあげていること、お供え物が無数に並べられていることが印象に残ります。そして地元の年配の方々が堂を囲むように地面に座り、何やら一心不乱に祈っています。とてもにぎわっていながら、敬虔な信仰が根付いている印象があります。

さらに、おみくじも備わっています。どうやらおみくじは日本と違い、無料のよう。ツボに挿し込まれた無数の棒を一本引き抜くと、番号が書かれています。おみくじの託宣が書かれた棚にはそれぞれの番号ごとに引き出しがあり、開けると中に託宣が書かれた紙があります。続いて、その託宣が本当に叶うのかを、二枚で一組の木でできた貝のようなものを地面に落とし、その裏表の組み合わせで占います。妻が調べたところでは、他にもいろいろ、お詣りに当たっての作法があるようです。入り口で線香を受け取ると、お堂の奥にあるそれぞれの神様(関羽と華佗以外は知りませんでした)ごとに設けられたにお願いをし、大きな赤いろうそくの火から線香を熱し、反時計周りで最後にお堂にお詣りするのが良いのだとか。私たちはそのように理解しましたが、本当にこれで良いのかは理解できていません。

私たちの知らない中国の神々が多く祀られ、そこに大勢の地元の人が詣でている。時期やイベントに関係なく、普段から敬虔に詣でていると思われる人たちです。龍山寺を訪れてみて思いましたが、中国は神々への信仰がはるかに日本よりも強いように思えます。年配の方だけでなく、私たちと同じか若い人たちの姿も見えます。こうした中国の神々については、もう少し知っておかねばならないでしょうね。

さて、私たちが見よう見まねで祈っていると、本堂の周りで唱えていた人々が急に一斉にお経を唱え始めました。どうやらそういう時間になったようです。朝の祈祷の時間なのでしょうか。そうした場面に出会うと、日本よりもはるかに神が生活に根ざしているように思えます。この経験はなかなか得難いものでした。日本でも神社の本殿で正式参拝をしているときに覚える感覚のような。

龍山寺では妻は何かお守りを購入していたようです。日本の神社と同じようなお守り売り場が用意されていました。また、廟を囲む広場の一角にはなかなかいかめしい滝が水量も豊かに音を立てていました。おそらくは人工でしょうけど。

さて、龍山寺を出た後は、中正紀念堂に向かいます。地下鉄を乗り継げば行けますが、それよりも歩いていきたいと妻が言います。私はYoubikeという、すぐに利用できそうな街角のレンタサイクルで行きたかったのですが、妻は自転車は危ない、と及び腰。仕方がない。23年ぶりに台北を自転車で走破するもくろみはついえました。

ただ、歩いて感じる台北も、それはそれでまた良いものです。一時間弱は歩いたでしょうか。途中、カルフールの近くにあるスターバックスで朝のコーヒーと食事をとることにしました。スタバまでの道中も、車道の脇の建物の軒下の狭い通路を歩くのですが、この雰囲気はかつて私がみた台湾の光景そのものです。昨日はあまりそうした場所を歩かずにいたのですが、これこそが私にとって台湾を特徴づける街の様子です。しかも龍山寺のあたりは、台北でもかなり古い市街地の様子。再開発も途中になっていることから、まだまだ古い台湾の風情が残っている地域と言えましょう。

カルフールの前にはかなり大きな交差点があります。それを横断し、さらに中正紀念堂の方向へと向かいます。このあたりはさすが建物の軒下ではありません。広大な道く、歩道も潤沢に用意されています。その道に沿って台北市立大学の壁が続き、附属幼稚園の園庭も見えます。ただ、道のあり様からは洗練という印象は受けません。それよりも、古い建物をそのまま飾らずに使い続ける合理性が、自然と風合いを与えているようです。道路こそ広々としていますし、ゴミも落ちていないのですが、建物には年季が入っていて、それが人工的な印象を一掃してくれます。

歩きながら興味深く沿道の建物や土地が映しだす風物に目を奪われている間に、国家戯劇院が見えてきました。

23年前にも中正紀念堂は訪れ、その大きさと広さに感銘を受けた記憶があります。その印象を上書きするように国家戯劇院やその対に建つ国家音楽廳の巨大さは偉大。はるか向こうにそびえ立つ中正紀念堂は離れた距離でもその大きさが感じられます。それらを含む自由広場の広大さといったら!

巨大な自由広場の向こうに中正記念堂がそびえ立つその威容は、日本ではあまりみられない光景です。中華民国の威光を台湾にあまねく示すためには必要な装置だったのでしょう。国家戯劇院と国家音楽廳を両側に見つつ、私たちは中正紀念堂へと歩みます。とにかく広いので、歩くだけでも距離があります。中正紀念堂に着くと、今度は堂の中ほどまで続く階段を登ります。堂内に入ると、そこには蒋介石の巨大な座像があり、その巨大さは23年前と変わらず。ちょうど、衛兵の交代式があったばかりで、集っていた人々が急速にほぐれていきます。残念ながらわずかなタイミングの遅れで交代式には間に合いませんでした。

蒋介石の巨大な座像は、台北にとってのシンボルであることは間違いありません。ここには博物館を兼ねた展示コーナーがあるのですが、そろそろホテルへ戻らねばなりません。自由広場を歩き、壮麗な門から広場を後にします。そして来た道と同じ道を歩いて帰ります。行きに一時間かかったのだから、帰りも同じ時間が必要です。

私たちに残された時間は多くありません。なぜなら、昨日の飛行機の失敗があったから。帰りの飛行機も早い飛行機を取るはめになりました。おそらく5時ぐらいに桃園国際空港を出発する便だとか。ホテルでチェックアウトし、帰路に就きます。帰りは、直接、台北駅に行ったほうが楽だろうと思いました。ホテルには台鉄の萬華駅が直結しています。しかも台北駅まで一駅。なので、台湾国鉄を利用しました。列車が遅れたため、暗い駅の中で待たされましたが、やってきた電車に乗り、台北駅で乗り換えました。

行きは桃園国際空港からタクシーを使いましたが、帰りはMRTに乗って帰ることに。いわゆる台北メトロの郊外線です。これがなかなか乗り心地が良いのです。しかも社内でWi-Fiが充電ができます。台湾の進んだ一面をまた見せられた思いです。MRTに乗ること一時間で桃園国際空港へ。ここで、パイナップルケーキやお土産屋を巡り、出国、そして搭乗。

行きと違って、帰りは実にスムースでした。予定よりも早い便で帰ったため、台北でし残したことをいえばきりがありません。ですが、龍山寺と中正紀念堂という目的は達成できたので、不思議と未練はありませんでした。むしろ、妻とは今度娘たちを連れてこよう、という話になったぐらいです。私にとっても23年ぶりの台湾を思い出すには、ちょうど良い旅の日程だったのかもしれません。

旅の良さとは、日常から離れることで自分を客観的に見つめられる。よくそういいます。私にとってこの旅は、自分を客観的に見つめるというよりも、かつての自分と今の自分を、台北の街の発展を通して比較できた。その事に尽きると思いました。

私に自信を与えてくれたという意味でも、かつての台湾一周旅行はとても思い出に残る旅でしたから。今回の旅でお世話になった皆様と妻に感謝です。


台湾の旅 2018/10/28


妻から台湾に行こうと誘われたのはだいぶ前のこと。春先だった気がします。宝塚の星組に属するジェンヌさんのファン代表をやっている妻は、台湾公演について行かねばならなくなったのです。そこで妻は、私を一緒に連れて行くことで、私をなだめ、なおかつボディーガード役を担わせよう、ともくろんだのでしょう。なにしろ妻にとっては初めての台湾。台湾はおろかアジア圏にすら旅したことがなかったというのですから。

なだめられていると分かっていても、台湾と聞いて私の心は大いに動きました。22歳の時に台湾に行ってからすでに23年がたっています。いずれは台湾には再訪したいと思っていた私。妻の誘いに乗るしかないでしょう。断らないはずは、、ありません。切れていたパスポートも更新して、この日に備えていました。

この日の朝、私は妻を乗せて羽田への道を運転していました。私たちが乗る飛行機はLCCのPeachで、朝の5時55分に羽田を出発する予定。この時、私は離陸前に行わねばならないチェックインのことをあまり深く考えていませんでした。チェックインを所定の時間までに終わらせていないと飛行機には乗れません。妻からはその所定の時間を聞いておらず、通常と同じく30分前にはついていればいい、と思っていました。間違いでした。

私の予定通り5時前には羽田空港に着きました。楽勝です。早く着きすぎた、とすら思っていました。ところが、羽田空港のPeachのチェックインカウンターに向かったところ、どうもおかしい。人気がないのです。カウンターには人気どころか、スタッフの姿もない。慌てふためき、あらゆるカウンターを巡り、インフォメーションにも聞いてみました。早朝とはいえ、何人かの方が親身になって調べてくれました。結局、分かったのは、私たちがチェックインの時間に遅れてしまったこと。その飛行機は私たちが状況を理解しようと交渉している間に旅立っていってしまったことです。

すでに6時をまわり、天を仰いでいる暇はありません。なんとかして台湾に行く方法を見つけなければ。妻にとってみれば、代表としての務めを果たすため、何としても台湾に行かないと。台湾の宝塚ファンの友人が向こうで待っていて、昼食をともにする約束があるとか。

私はこの時点でもう諦め、私は行かなくていいから妻1人だけでも台湾にいかせようとしました。ところが妻は偉い。何とか頑張って交渉し、2時間後に成田から離陸するバニラエアの便を見つけてきました。当然、Peachに支払った全額は戻ってきません。さらに余分70,000円ほどの費用をバニラエアに払わねばなりません。ですが、せっかく妻が粘ってくれた機会をみすみす逃すわけには行きません。成田まで車を飛ばし、なんとかバニラエアの10時の便に乗ることができました。私はほぼ、台湾行きを諦めていたので、妻の粘りには感謝しかありません。

さて、台湾に着きました。23年ぶりの台湾。その感慨に浸る間も無く、入国審査の列に並びます。時間は迫っています。妻は台湾の友人との昼食は謝って参加を諦めたけど、台北の国家戯劇院で行われる星組公演の開演にはギリギリ間に合うかもしれません。急がねば。私も妻の執念が実るよう、間に合わせたい。

私たちは、何も考えずにタクシー乗り場に直行しました。年配の運転手の方に交渉し、国家戯劇院まで乗せてもらう事にしました。実は23年前の旅では、通常のタクシーには全く乗りませんでした。台湾の南端の枋寮駅から墾丁国家公園までを闇タクシーに乗ったぐらい。もちろん、前回は高速道路にも乗っていません。

タクシーの車窓からみる高速道路の外に広がる景色は、まぎれもない台湾。かつての記憶を重ね合わせようにも、初めて訪れた異国のように思えます。羽田、成田、桃園と目まぐるしく移動した朝の興奮はまださめません。そこにきて23年ぶりの台湾。私の目に映るものすべてがただ新鮮でした。

タクシーの運転手は、70代をゆうに越えている男性でした。でもiPadと思われるタブレットをカーナビとして、なんのためらいもなく操っています。そして私たちも、日本から持ってきたiPad/iPhoneが何の操作もせずに使えている事に気づきます。

やがて車は台北市内へ。23年もたつと、当時のことなど何も覚えていません。しかも、台湾一周を終えようとする私が万感の思いでペダルを漕ぎ、台北市内に入ったのは夜のこと。だから、なおさらこの景色は新鮮でした。でも夜の台湾で感じた方向感覚や、地形などの綾がまざまざと思い出され、23年ぶりに帰ってきた喜びがあふれてきます。

タクシーを国家戯劇院まで回してもらい、妻は下車。そこからは私一人です。まず、妻が予約しておいてくれたカイザーホテル台北にたどり着かないと。速やかに行き先をタクシーの運転手に伝えなければ、台北で複数の重い荷物を持ったまま迷子になってしまいます。iPadを駆使してホテルのウェブサイトを調べ、運転手に見せたところ、運転手に住所を理解してもらえました。そして無事にホテルに着きました。この運転手さん、それまでの旅路の間でも、iPadの翻訳機能を使い、一生懸命に日本語でコンタクトを取ろうとしてくれていました。私たちに話しかけてはこないものの、iPadに歓迎の言葉を打ち込み、それを日本語に翻訳するのです。その武骨な気持ちがとてもうれしかったです。かつての一周旅行の中、行く先々で年配の方々から受けた親切を思い出しました。

ホテルに着きました。チェックインをひとりでやらなければなりません。そもそも、パスポートが切れていたことからも分かりますが、私にとって海外旅行自体が10数年ぶりです。次女がまだ乳児だった頃、家族4人でハワイに行った時が最後です。それ以来、英語でしゃべる機会はほとんどありません。ましてや、ホテルでチェックインを行うなど、私にとって亀が皇居を一周するようなもの。実際、ホテルのカウンターでかなり苦労しました。どうもフロントの方が言っていたのは手付金を払ってくださいと言う事だったらしいけれど、私はそんなことすら理解できません。一生懸命、交渉していたのです。無知って怖い。

ただ、妻が成田空港で先に日本円を台湾ドルに両替してくれていてました。それをホテルのフロントの方に渡し、なんとかチェックインは終了。荷物も預けられました。

さて、その時点ですでに台湾時間の13時を過ぎていました。私がこの日、計画していたのは、台湾国鉄と平渓線を乗り継ぎ、十分瀑布に行く事でした。ところが予定よりも四時間も遅れています。もう、私が十分瀑布を訪れる時間はなさそうです。

でも台湾に来た以上、ホテルでこもっているなどあり得ない。旅をとことん愛する私が私であるゆえん。それは、骨身を惜しまず行動する事です。なのでまず、ホテルの近くにある龍山寺駅に向かいました。台北メトロ(MRT)です。前回の旅ではもちろん使っていませんし、そもそも未開通でした。前回の旅では自転車が主だったので電車にも乗っていません。この台北メトロ、日本よりも進んでいると思える点があります。いわゆるプリペイドカードの代わりにプリペイドコインが使えるのです。自販機でプリペイドコインを購入すれば、それを改札口に入れるだけ。この点、日本よりも進んでいます。切符がないので。

地下鉄の中は日本とそう変わりません。整然としています。駅も清潔で、かつて訪れた際に感じた猥雑さはどこへやら。23年の月日を感じます。電車は整然と台北駅へ。再び改札をとおって駅コンコースへ。

台湾の地下街を歩くこと、それは大阪の地下街を歩く感じに似ています。梅田の地下街を歩いているような不思議な感覚に襲われますが、ここは台北。並んでいる店の看板は漢字と英語。全ての漢字は繁体字で書かれています。当たり前ですが。

私は勝手の知った場所を歩いているような気持ちになりました。足取りも軽く、堂々と。台湾国鉄、台鉄の看板を頼りにコンコースを歩く私。程なく、台鉄の切符売り場にたどり着けました。ところが、事前にウェブで切符や電車の種類を調べていたにもかかわらず、やはり買い方がわかりません。自強号、莒光号。いろんな列車があるのです。

だが、時刻はすでに14時過ぎ。これから十分に行くことは叶わない時間です。無念。もっともこれは私も悪いので仕方ない。まず切符を買ってみてどこかに行ってみよう。なんとか十分瀑布の近くまで行けないか、と考えて思いついたのは基隆。基隆の街は、前回の台湾一周旅行でも通り過ぎたはずですが、全く記憶がありません。何か港のようなものが見えたような気もしますが、それすらもあやふや。であれば、この機会に訪れ、きちんと街を歩いてみよう、と。

そして電車を待つことしばらく。よくわからないままに、少し古びた電車が来たのでそれに乗りました。台湾国鉄には急行や特急のような列車種別もあります。ですがそうした列車に乗ると、花蓮や蘇澳の方まで行ってしまうというので、區間車に乗りました。しかも基隆行。

台北駅を出ると、しばらく列車は地下を進みます。それにしても、どの駅も光量が足りないように思えます。どよーんとした印象の駅が続きます。それとも日本の駅が無駄に明るすぎるのでしょうか。地上の駅も心なしか古びて見えます。

そもそも、台湾の建物の多くがそうです。一度建ててしまうと風雪にさらされるままに任せ、メンテナンスをあまりしないようです。機能を重視し、見た目は気にしない。そんな台湾の気風が感じられます。私が車窓から見る景色が、かつて自転車で通ったような気がするのも、多分23年の間、建物は一新されず当時のままの姿を保っているからかもしれません。

23年前の私たちは、無謀にも台北で自転車を買い、何も計画せずに台湾一周自転車旅行の旅に出ました。それ以来、人生山あり谷ありで、当時の無鉄砲さは過去において来てしまったように思います。ですが、変わるのは人だけでよく、建物は古びるがままでよい。そんな台湾の気質の源を、駅や車窓からの眺めを見ながら考えました。

しばらくして、基隆駅に着きました。終点です。この駅は、今まで通ってきた数駅に比べ、かなり綺麗です。改札を出て駅舎を見返ると、新しい駅舎が輝いています。あとで調べたところ、基隆駅はちょうど新しい駅舎に変わったばかりだそう。道理で、と納得しました。

前回の旅の時、私は駅にあまり興味を持っていませんでした。なので、写真にもほとんど残していません。その分、今回の旅ではここぞとばかりに写真に撮りまくりました。

駅舎を出て少し歩けば、基隆の港の桟橋や建物が見えてきます。一新した駅舎とは違い、とても古びています。私にとって興味のある、さまざまな街角の風景。例えばマンホール。郵便ポスト。郵便局。それらのどれもがメンテナンスもそこそこに風砂にすり減らされたまま、潮気に錆びつき、そして時間に溶けています。

埠頭をぶらついてみました。船がたくさん停泊しています。向こう岸には軍艦らしき厳しい船の姿が目に入ってきます。基隆の港をきちんと見るのは初めてですが、知らない場所を訪れている感覚がとてもうれしい。高揚した気分のまま、しばらく歩いていると、観光用の桟橋のような所に着きました。桟橋を模した木の板の広場には地元の人や若者、観光客がたむろしています。K-E-E-L-U-N-Gの文字があしらわれたオブジェが広場に立っています。かなりおしゃれな感じ。日本でもよく見かける観光用の桟橋に来ているよう。

23年もたてば、台湾もすっかり変わります。かつてはこんなオシャレな場所はみなかった気がします。だが、今や台湾は日本を凌駕する勢い。鴻海がシャープを買収したニュースを持ち出すまでもなく、台湾は今や一流の先進地になっています。私は台湾の勢いを、ここ基隆の波止場で強く感じました。

波止場を離れ、そばのファミリーマートに行ってみました。23年前の旅行でもさんざんお世話になったファミリーマート。お店の中には、当然ながら台湾の商品が並んでいます。ところが、日本の商品もちらほら見かけます。23年前にも伊藤園のペットボトルに驚いた記憶がありますが、その時よりもたくさんの日本製品やブランドを見かけます。そうした細かな発見がなんだか懐かしい。二、三本適当なペットボトルを選び、無事にレジで支払いを。初めてのお買い物も無事に完了。

さて、基隆の街をもっとゆっくり歩きたかったのですが、既に時刻は5時を回っています。すこし日が落ちてきました。妻と台北で落ち合う時間まで、まだまだあるとはいえ、夜になると勝手がわかりません。町をぶらつくのは諦め、駅舎や駅の中を撮って時間を過ごしました。基隆駅はちょうど旧駅から新駅で変わったばかりで、旧駅の遺構もまだあちこちに残っています。日本がかつて統治していた頃からある旧駅舎のようですが、風情があります。旧駅は完全に撤去されず、がらんとした空間が通路の一部としてそのまま使われています。廃虚と化した旧駅の中をそのままに普通に見せる。日本であれば旧駅は完全に覆い隠してしまうところですが、台湾は本当にそうした部分で身なりを気にするところがなく、好感が持てます。

新しい基隆駅の駅舎本屋は、帽子のような形の意匠でとてもおしゃれ。だが、そんな洗練された駅と、桟橋も観光地のような瀟洒な様子に変わっているにもかかわらず、駅前の歩道橋の上には大きな犬を側に侍らせ、座り込んでいる年配の人が。そうしたアナーキーで野放図な感じが、かつて私が一周した台湾を思い出させます。かつては道端で野良犬同士が交尾しているのを何度も見たぐらいなので。

さて、基隆駅から再び台北行きの電車に乗って帰ります。台北行の列車がなく、果たして台北に向かうには何に乗れば良いのかよくわかりません。ですが、北廻線と南廻線があり、花蓮や蘇墺行と逆方向の列車に乗りました。来た時と同じく區間車で帰ります。

折のよいことに妻も、国家戯劇院での舞台が終わったらしく、台北駅で待ち合わせることにしました。後で聞いたところ、妻は台北駅まで行く方法がわからなかったのだとか。昼食を一緒に食べる予定だった方は、そのまま南の高雄の方まで帰ってしまうのですが、その方が近くを歩いていた観劇帰りの方を捕まえ、妻に台北までの案内を頼んだのだとか。そうした行動力の凄みが感じられます。そんなわけで妻とは台北駅の地下街で合流することができました。

それにしてもこの旅の間、何も設定を変えずにLINEがつながったのはありがたかったです。まさに幸いといいましょうか。おかげで妻とは日本にいるのと同じようにコミュニケーションができました。

さて、妻と落ち合ったので、どこかで飯を食うことになりました。もちろん私にも妻にもあてがありません。そこで、台北の地下街をぶらつきながら、どこかのショッピングビルの地下から上へと昇って行きました。もちろん初めて来るビルで、勝手がわかりません。ですが、地下街を歩いていても、日本の渋谷・新宿・池袋・梅田の地下街を歩いているのとまったく変わりません。おしゃれな店は日本と同じような面構えをしています。扱っている品物もそう変わりません。日本で見かけるようなブランドのロゴがそこら中にあふれています。

ショッピングモールの上に登ってゆくエスカレーターもとても華やかで、日本のショッピングモールと全く遜色がありません。むしろ、日本よりも洗練されているかも。そう思わされました。最上階にレストランがあるのも日本と一緒。そこを一周し、店をめぐってみます。と、よくわからないけれど、何かのバイキングらしいお店を見つけました。餐食天堂という名前のお店です。すごく人が並んでいます。どのぐらい待つかはわからないものの、英語で何分待つか聞いてみました。すると予約を受け付けてもらえました。そして、列の後に並ぶように言われたので並びました。

ラッキーなことにその列は、店のオープンを待って並んでいた列だったらしく、私たちは、それほど待たずに開店と同時に店の中に入ることができました。この餐食天堂には全く事前に調べずに入りましたが、大当たりでした。日本で見るバイキングとはレベルが違う種類。そして量。日本でこのお店と比較できるとすればホテルのバイキングレストランぐらいです。そのぐらい素晴らしかった。中華の味付けをベースにしていますが、最新の中華の味付けがされています。つまり洗練されている感じ。寿司もあるしサラダもある。カクテルもあるし、土瓶蒸しまで。妻も私も大満足。ここに来ただけでも、朝のバタバタの苦労が報われたと思えました。

もう十分、これ以上食えない、というまで食べてお店を出ました。また、エスカレーターをぐるぐる回りながら下の階まで向かいます。途中、おしゃれな店に立ち寄りながら。中には日本の酒を専門に売っているお店もあります。本当に日本のショッピングセンターと変わらず、異国情緒がある分、飽きさせません。

23年前の私たちが訪れた百貨店は新光三越百貨店でした。自転車売り場へ直行し、ほかの場所はほとんど観ず。最終日にお土産でLevronの口紅と響17年を買った記憶はありますが、当時も今もおしゃれには全く興味がないので、妻との旅で台北の洗練された部分を堪能しました。今は当時よりお金があるだけのことかもしれませんが。

満足したところで、ホテルに戻ります。地下鉄での帰り方を妻に指南しながら二人で龍山寺駅で下車。そして、ホテルへの道を歩きます。ところがホテルに着いたものの、どうも私の手続きのやり方がまずかったらしく、荷物が見当たらないトラブルが。それはしばらくして解消したのですが、始動が遅かっただけに、もう少し台湾を見て回ろうということで、再び外へ。

妻が夜市に行きたいと言うので、近所の艋舺夜市をぶらつきました。この夜市、後で調べたところ、昔からある夜市らしく、かなり地元に即していました。ワイルドなオーラが漂っています。少し人通りの絶えた華西街観光夜市というアーケードに足を踏み入れると、アダルトショップはあるし、蛇の店はあるし、となかなか怪しい雰囲気を醸し出していました。妻と二人でのんびり歩きつつ、なんとなく台湾を堪能した気分になれたのはよかったです。

部屋に戻ると私はお仕事。ちゃんとパソコンも持ってきています。Wi-Fiがつながり、各サービスも日本にいるのと同じように使えます。全く問題がなくやるべき作業ができました。

つまり、私もやろうと思えば海外でリモートワークができるのです。まさにNOMAD。これこそ23年前には全くなかった環境です。これで今後の旅の選択肢は増えました。あらゆる意味で台湾を満喫しつつ、初日の夜は更けていきました。


会津の旅 2018/10/9


さわやかな朝。私にとっては民泊で迎える初めての朝です。昨夜、日が替わるまで語り合った疲れはどこへやら。旅を満喫している今を祝福して目覚めました。

早速、荷作りとあいさつを。昨夜の語らいで仲良くなったオーナーのSさん、島根から来たOさんも私たちと顔なじみになりました。Oさんに至っては気ままな一人旅ということもあって、H.Jさんの田んぼの手伝いに来てくれることになりました。仕事に出るSさんとはここでお別れ。昨日語り合ったことは、決して忘れないでしょう。良いご縁に感謝です。今後も会津の観光やITでご縁があるに違いありません。

昨夜、車を置かせてもらった「酒家 盃爛処」まで歩く途中、会津の風情を存分に堪能しました。かつての城下町を彷彿とさせる風景も、昨晩のお話を伺った後では私には違う風景として映ります。戊辰戦争の前後ではどう変わったのか。十字路のない街角の様子はかつてはどうだったのか。理髪店の数も心なしか他の都市に比べて多いように思えます。こうした知識は、ガイドマップに頼っていると知らずに終わったはず。得た知識を即座に確認できることが、旅先で語らうことの醍醐味と言えましょう。

この日の私たちは、さらに会津を知識を得るべく、昨日に続いてH.Jさんのお宅へ。この日、私たちに任されたのはお米を袋に詰める作業です。昨日、収穫したお米は巨大な乾燥機の中で乾燥され、摩擦によってもみ殻を脱がされます。風で吹き飛ばされたもみ殻は、大きな山となって刻々と成長しています。

乾燥機から選別機へと移動したお米は、品質を二種類に選別されます。良い方は「会津米」の新品の紙袋に、悪い方は東北の各県の名がうたれた再利用の紙袋に。紙袋をセットし、一定の量になるまでお米をため、適量になったら袋を縛るまでの一連の作業は人力です。私たちが担ったのはこの作業。これがなかなか難しい。茶色の紙袋は初めは当然、ぺたんこ。で、そこにお米がたまるにつれ、紙袋はじょじょにかっぷくの良い姿へと変身します。変身した紙袋を最後にうまく縛る。その縛るコツががなかなかつかめない。結んだひもの位置がずれると、それは収穫の寿ぎではなくなるのです。縦横が正しくあるべき姿に結ばれてはじめて、収穫のお祝いに相応しく袋となり、晴れて出荷されるのです。米の紙袋の結び目にもきちんと意味があることは初めて知りました。結び目が重要なのはなにも水引だけではなかったのです。

きちんと結んだ後は、出荷準備完了を占めるシールを貼り、パレットの上にきちんと並べて積み上げていきます。私たちはまさに、収穫から出荷直前までのすべてのプロセスに携わらせていただけたわけです。

今回、H.Jさんは袋詰めの工程に助っ人を呼んでくださっていました。地元の方でよくこしたお手伝いをされているとか。慣れた手つきでひもを縛り、積んでゆく。私たちの縛りが甘ければ、再度縛りなおしてくださいます。多分、たどたどしい私たちに「しょうがねえなあ」と思っていたことでしょうが、もくもくと働く姿に、私はただ従うのみ。慣れない私たちには難しいこれらの作業も、慣れると立て板に水のごとく、こなせるようになるのでしょうか。あれから十カ月たった今でも、動作を再現できるかも、と錯覚に陥りそうになるくらい、何度も結びました。こうした作業の全てが私にとっては新鮮で、そのどれもが農業の奥深さを伝えてくれます。農業に携わる人々は皆さんがたくましく、生活力をそなえているように見えるのは気のせいでしょうか。

作業の合間に水分の補給は欠かさず、H.Jさん宅からもあれこれと差し入れをいただきつつ、すでにお昼。お昼には食事に連れて行ってくださいました。向かったのは会津若松駅近くの中心部。ただ、はじめH.Jさんが考えていたお店が閉まっていたらしく、かわりに向かったのは「空山neo」というラーメン屋さん。こちらは繁盛しており、味もとてもおいしかったです。そこは、会津若松の目抜き通りで、朝まで泊まっていた「隠れ家」さんは、同じ通りをさらに進むとあります。どこも軒並み、風情のある店構え。酒蔵があり、お店が並ぶ。それでいてあまり観光地ずれしていない様子に好感がもてます。私たちがラーメンの後に寄った「太郎焼総本舗」も、落ち着いたたたずまいで私たちを迎えてくれました。味がおいしかったことはもちろんです。

Oさんは午前、昨日私たちが体験したコンバインの運転などをさせてもらったりして別行動でしたが、午後もそれぞれが別々に作業にあたりました。私たちは選別機によって下に選別された米を紙袋に袋詰めする作業に従事していましたが、しばらくたってからH.Jさんに野菜の畑へと連れて行ってもらうことになりました。

その畑は、昨日の田んぼとは違う場所にあり、丸ナスとキャベツが植えられています。もちろん、無農薬栽培。キャベツ畑なのにキャベツがほとんど見えず、草が奔放に生い茂っています。しかし地面には丸々としたキャベツがつつましやかに私たちの収穫をお待ちしているではありませんか。丸ナスも色合いとツヤがとてもおいしそう。バッタやカエルがわんさかと群がる畑の作物は、見るからにおいしそう。こうまで無農薬の畑に生き物が群がる様子を見ると、生き物もいない農薬まみれの畑への疑問がつい湧いてしまうのです。

畑への往復、私はH.Jさんの軽トラックの助手席に乗せてもらい、農業のIT化について意見を交換していました。人手の足りなさを解消するための開発も進んでいる、とはつねづね聞いていますが、H.Jさんもそうしたロボットによる農業の効率化には大賛成の様子。無農薬栽培は、H.Jさんが農業の本質を探る中、たどり着いた結論であることは間違いないでしょう。要するに農薬の使用は、作物の本質を損ねるもの。でも、農薬を使用しなければ、人手も手間もとてもかかります。そうした矛盾を解消する可能性をIoTを活用した仕掛けは秘めているのです。作物に優しく、手間を減らす。いい事ずくめです。

私も弊社も、IoTはまだ実務としてはほとんど手がけていません。特に農業関連は未経験。IoTに関するご相談はちょくちょく受けるようになっており、この二日で、IoTが農業で必要な理由を自分の体で感得しました。その可能性を見せてもらえた以上、何かに活かしていきたいと思うのは当然です。とてもためになった道中の会話でした。

さて、H.Jさんの家に戻った私たちは、ブルーベリーやブドウや梅干しをおいしくいただきました。ところが、時刻はそろそろ15時になろうとしています。東京へ帰る準備をしなければ。名残惜しいですが、キャベツや丸ナスやフルーツ類をいただき、H.Jさんのもとを辞去しました。たった二日なのに名残惜しさが心を締め付けます。

Oさんも加えた五人でK.Hさんの運転で鶴ヶ城へ。まずは会津若松のシンボルともいえるここを訪れなければ。ぐるりとお濠をめぐり、駐車場から城内を歩いて一回り。時間があれば城内にも入りたかったのですが、さすがに時間が足りません。大河ドラマ「八重の桜」は一度も見なかった私ですが、会津の街にがぜん興味が湧いてきましたし、また来たいと思います。城内で売っていた奥只見の産物を買い求めて。

もう一カ所「道の駅 ばんだい 徳一の里きらり」にもよりました。ここで最後のお土産物を購入し、会津を後にしました。また会津には来ることでしょう。私にお手伝いできることがある限り。

さて、Oさんは次の目的地に移動するため、郡山駅で降ろすことになり、郡山インターチェンジから市街へ。2年前に自転車や車やバスで動き回った郡山の街を、ひょんな縁でまた来られることになり、私の喜びもひとしお。大友パンや柏屋も健在の様子。駅前にはgreeeenのドアがあり、二年前の興奮が思い出されます。

Oさんはこの後まだまだいろいろな場所を旅するのだとか。うらやましい。またの再会を約して、Oさんとはここでお別れ。旅のご縁のすばらしさや、時間と場所を共有した思い出の余韻に浸りながら。

さて、私たちも旅の余韻に浸りたいところですが、そうも言ってられなくなりました。なぜなら東北道が通行止めという情報に接したからです。そこでK.Hさんが下した判断は、磐越自動車道でいわきまで出て、常磐道で都内に帰る、という遠回りのプラン。普通ならまず取らないこのプランも、東北道が通れないのでは仕方ありません。道中、高速道路の脇にある放射線量を示す電光掲示板が、この地域の特殊性を示します。

常磐道は何事もなく順調で、休憩した友部サービスエリアを経由して、私たちは表参道の駅前で降ろしてもらいました。K.Hさんはそこから柏のご自宅まで帰られるのだとか。二日間、運転をしてくださり、ありがとうございました。そういえば、帰りの車の中では「会津ファンクラブ」の存在を教えてもらい、その場で入会しました。

旅の終わりはいつもあっけないものですが、この二日間の旅もこうやって終わりました。あとは重いキャベツや丸ナス、そして数えきれない思い出を背負い、家に帰るだけです。折悪しくこの日、小田急は毎度おなじみの運転見合わせが起きており、会津の余韻も首都圏の日常がかき消しにかかってきていました。

四日後にはH.Jさんが東京の有楽町の交通会館に農産物を販売に来られると伺っていたので、妻を連れて伺いました。そして余蒔胡瓜や立川ごぼうといった会津野菜をたくさん購入しました。その二つとも妻や家族が美味しいと大変気に入ってくれまして、私が持って帰った丸ナスもキャベツもあっという間に品切れ。

会津野菜がわが家からなくなると時を同じくして、私は首都圏の日常に追われるようになってしまいました。そして気が付くと10ヶ月。今、ようやく会津の思い出をブログにまとめられました。でも、思い出してみると、二日間があっという間に鮮やかに思い出せました。それだけ素晴らしい旅だったという事でしょう。それにしても皆さま、本当にこの二日間、ありがとうございました。


会津の旅 2018/10/8


会津で農家さんの稲刈りのお手伝いに行きませんか?

こんな魅力的なお誘いをいただいたのは、今回の旅に先立つ事、二週間。9/22の事でした。農家さんのお手伝いをし、現地で民泊し、うまい酒を飲む。仕事をしながら会津を知り、会津に貢献する。実に魅力的ではありませんか。

私は会津とその周辺には特別な思いを持っています。話は2016年に遡ります。その年、私は郡山に二度お呼ばれしました。二回の訪問の間にセミナーに登壇すること二度、ユーザー会で登壇すること一度。また、二回の訪問の合間には、郡山とその周辺を訪れました。そこで触れた郡山の皆さんの思い。それが私の心を震わせました。

当時、あの原発事故から五年がたっていました。私が見聞きした郡山には異常な様子はありませんでした。過密なスケジュールの中、自転車で乙字ケ滝へ行き、車で猪苗代湖や銚子ケ滝、達沢不動滝を訪れました。たわわに実っていた田んぼの稲穂は、放射能の痕跡など微塵も感じさせず、猪苗代湖畔から眺めた磐梯山の雄大な姿は、原発事故の前から変わらぬ福島の風景を私に誇っていました。空は青く、稲穂は首を垂れ、凪いだ湖面に空が映る。ただただ美しいコントラスト。美しい風景に心を癒やされた私を、郡山の人々は温かく迎えてくれました。

それにも関わらず、郡山の皆さんはいまだにやまぬ風評被害に憤っていました。ユーザー会の後の懇親会では郡山の方から風評被害への憤りを聞きましたし、その翌日には郡山の駅前で放射能の危機を煽る街頭演説に行き当たり、私は憤りを抑えられませんでした。もちろん、乙字ケ滝への道中では汚染土の廃棄場の看板も見かけました。美しい自然の影に潜む福島の現実も知らされました。自然の美しさと、現実に直面する皆さんの危機意識。それにも関わらず私を歓待してくれた温かみ。二度の福島への訪問は、私の心に福島を支援したい気持ちを育みました。

弊社は、福島を応援します。(9/30版)
弊社は、福島を応援します。(10/01版)
弊社は、福島を応援します。(10/02版)

以来、二年。今回の会津へのお誘いは、私にとって再び福島県へ伺える良い機会です。断る方が難しい。私の場合、こうしたお誘いにもスケジュールを柔軟に調整できる強みがあります。

朝7:15。新宿のスバルビルの上で待ち合わせでした。私とご一緒するのは三人の方。お誘いくださったK.Cさん、運転手を買って出てくださったK.Hさん。そしてY.Mさん。K.Cさん以外のお二人とは初対面です。

K.Hさんは、普段から運転をよくしているそうです。秋田の観光に深く関わっていらっしゃるというK.Hさんは、普段から何度も秋田と東京を往復されており、運転に慣れていらっしゃる様子。全く疲れた様子を見せず、二日間にわたり数百キロの運転をこなしていただきました。結局この二日間、私は1度もハンドルを握ることがなく、ただK.Hさんの安定した運転を助手席でナビゲートするのみ。疲れを知らぬK.Hさんにはただただ感謝です。

新宿から首都高に乗り東北自動車道へ。郡山ジャンクションからは磐越自動車道の猪苗代磐梯高原インターチェンジまで。久しぶりに見る福島の景色に私のテンションも上がります。車中では初対面であるからこそ楽しめる新鮮な会話で盛り上がりました。

インターチェンジを下り、早速、道の駅猪苗代で休憩を。まずは福島の空気に慣れたところで、最初の目的地「den*en cafe」へ。ここは、目の前に磐梯山がそびえる絶好のロケーションです。写真を何枚も撮っても飽きないほど秋晴れの磐梯山は雄大。私たちに山の偉大さを教えてくれました。「den*en cafe」さんの料理もおいしく、コーヒーも絶品。K.Cさんのチョイスはさすがです。自由に持って帰って良いと玄関の前に無造作に置かれる野菜たちがとても美味そうで、いくつか持ちかえり、車内で食べてしまいました。こうした何気ないおもてなしに会津の農業の可能性とゆとりをまざまざと感じます。

さて、一般道を会津若松まで走ります。すでに稲刈りを終えた田んぼには稲叢がならび、それが会津の秋の風情を見せてくれます。会津の稲叢は大きくせず小分けにしています。こういう風景を見るたび、旅情が心を満たします。

会津若松は、十数年以上前に友人と2人でやってきて以来。懐かしさを感じる間もなく、車はそのまま今回お世話になるH.Jさんのお宅へ。築100年以上はゆうにあるであろう昔ながらの農家。広間に上げていただき、H.Jさんにごあいさつを。私たちのためにH.Jさんのお母様が作っておいてくれた塩を振っただけの余蒔胡瓜(あいづよまききゅうり)がとてもおいしかった。

H.Jさんはこの余蒔胡瓜のような会津伝統野菜を復活させた立役者です。それと同時に、無農薬による米の栽培に挑まれています。無農薬である以上、人の手がどうしても必要。今回、私たちが呼ばれたのも、米の収穫に際し、除草やその他の作業をお手伝いするためでした。

早速、田んぼへと向かいました。見渡す限りの田んぼ。会津は盆地です。ところが盆地であることを忘れさせるぐらい、田んぼが広がっています。この広がりに会津の豊かさを感じます。

お借りした長靴を履き、田んぼの中へ。稲穂が実る田んぼは、人の手による収穫を待っています。ところがH.Jさんの田んぼは無農薬で栽培されているので、雑草もあちこちから顔を出しています。その中に、米と似た種をつけるクサネムが混じっていて、これを手で除去することが私たちのミッションです。なぜなら、米袋の中にクサネムの種が混じると、価値が著しく落ちてしまうから。しかもクサネムの種の除去は機械ではどうしてもできないそうです。今まではクサネムの除去はH.Jさんやボランティアで手伝いにきている会津大の学生さんたちや、近くの農家の方がされていたそうです。私たちも作業を教わりながらこなしていきます。

とはいえ、都会っ子には簡単ではありません。田んぼに入ると、稲を踏むのはご法度。稲を避ける足元は、ぬかるんだ土に深く沈みます。それを乗り越え、一歩一歩進まねばなりません。これが案外と大変でした。クサネムの株は成長が早く、何度となく皆さんの手によって除去されてきたはずが、すぐにまた生えてきます。その繰り返しです。私の前にも、今までに見逃されたクサネムが稲の間から自己を主張しようと、子孫を残そうと背丈を伸ばしはじめていました。それらを刈り取り、畝に積みあげておきます。

それにしても、無農薬で育った田んぼだけあって、稲の合間に住み着く虫や蛙の多いこと多いこと。アゲハの幼虫や、バッタ、カエル。彼らは私たち侵入者の歩みにつれ、ぴょこぴょこあたりを逃げ回ります。静かに収穫を待つ田んぼどころか、大騒ぎ。でも、これが田んぼのあるべき姿なのでしょう。そして、本来の農業のあるべき姿でもあるはずです。ところが、それが頭ではわかっていても、こうやって実際に作業に当たってみると、農家の方にとって無農薬栽培が簡単ではない事はすぐにわかります。作業とは、やってみることが大切。実際に田んぼに入って鎌を振り回すこの体験は、私にそのことを痛感させてくれました。

大勢でクサネムを探し回ったかいがあり、いよいよコンバインで稲刈りです。今まで無農薬で楽園のようだったバッタや蛙の住みかが、あっという間にコンバインで刈り取られ面積を減らしていきます。これもまた、農業の現実。理想はあくまでも刈り取ってこそ完成なのです。H.Jさんがコンバインを操り、みるみるうちに周囲から刈り取られる姿を見るにつけ、文明の力の偉大さと、農業の本質を垣間見た思いです。

そんな風に物思いにふけっていたところ、H.Jさんのご厚意で、私たちにもコンバインを運転させてもらえることになりました。私もせっかくなので操縦をさせてもらいました。前後左右に加え上下なども加わり、なかなか難しい。でもとても楽しい。収穫している実感がわきます。

実は田んぼに入る前の私には、腰の不安がありました。腰痛持ちの私にとって、かがんで作業することは禁忌。稲刈りの作業にどこまで耐えられるのか。そんな不安がありました。ところがコンバインだとかがむ間もなく、効率的に稲穂はコンバインの胃袋に収まってゆくのです。こうした効率化によって、お米がさほど手間をかけずに刈り取られ、私たちの食卓に並ぶようになったのです。胃に収まったお米をトラックに移し替える作業もオーガと呼ばれる可動式のパイプを通し、人の手は不要。文明の力の偉大さを感じます。無農薬栽培とは言え、こうした作業はどんどん文明の力を借りていくべきでしょう。使うべきところには文明を使い、農作物の本質を追求するべきところには農薬は使わない。すべてはメリハリ。抑揚の妙です。
稲を刈る 我らに天の はしごかな

トラックに米が移される中、畝に集められたクサネムの株はガソリンをかけられ、煙と化していきます。地方で高速を走っていると、よく田んぼで野焼きしている光景に出会いますが、こうした作業だったことに得心しました。あらゆる一瞬が知識となり、身についていくようです。
刈の終 ねむ焼く匂い 語りけり

H.Jさんはそうした作業をこなしながら、近くのアイス屋さんのブルーベリーアイスを差し入れる手配までしてくださいました。私たちの手伝いなど、H.Jさんが普段されている作業の大変さとは比べ物にならないはず。それでもこうしたねぎらいを怠らないところはさすがです。実際、無農薬栽培を実践されているH.Jさんの苦労は、並大抵のものではないはずです。年齢は私とそう変わらないはずですが尊敬できます。見習わなければ、と思いつつ、アイスのおいしさに顔がほころぶ私。

トラックに米が全て移ったところで、田んぼでの作業は終わり。夕日があたりを照らす中、私たちは田んぼを後にしました。H.Jさんの家へ寄った後、会津若松駅のそばにある「富士の湯」に寄っていただきました。汗まみれの体に温泉が実に心地よかった。ついで私たちが向かったのは今日の宿。今回の旅で泊まるのは、古民家をリノベーションし、民泊の形式で提供している「隠れ家ゲストハウス」さん。私たちが通されたのは、和室の一部屋。二段ベッドが二つ設えられ、学生の頃にとまった木賃宿を思い出しました。そもそも民泊は初めてなので、とても楽しみです。

荷物を解いたところで食事へ。夜の懇親会に予約を取っていただいたのは「酒家 盃爛処」というお店。会津でも有名なお店らしく、なかなか予約が取れないそう。しかも、隠れ家さんには駐車場がないことから、こちらの駐車場にご厚意で車を一晩おかせてもらえることになりました。そうしたお心遣いの一つ一つが身に沁みます。

会津の街並みを今に伝えるかのような「酒家 盃爛処」の店内は、おいしい料理の数々と、会津地区を中心とした酒蔵の銘酒でにぎわっていました。H.Jさんや田んぼでご一緒だった会津大学のボランティアの学生さんたちも交え、とても楽しい時間を過ごしました。会津の食事(こづゆ、ニシンの山椒漬けなど)や酒(春泥、風が吹くなど)のうまさはただ事ではありません。おもてなしと食事と酒に酔いしれながら過ごす一夜。旅の喜びはまさにここにあり。会津の皆さまの旅人をもてなそうという心意気に打たれました。郡山で感じた福島への愛着が、午後から夜までの会津での体験でさらに深まる思いです。

「隠れ家ゲストハウス」さんに戻ります。すると、五、六名の宿泊者やオーナーの皆さんが、集まってお酒を飲んでいるではありませんか。一緒にきた三人さんは、お部屋に戻って就寝したのですが、私は、せっかくなのでその場に一人だけ混じりました。

この語らいの時間もまた、今回の会津の二日間の良き思い出となりました。旅先でその場の縁を結ぶ。旅の醍醐味とは、まさにこうした一期一会の瞬間にある。私はそう思っています。オーナーのSさんもまさに、その喜びを味わいたくてこの隠れ家をオープンしたとの事。皆さんとの語らいは、とても刺激的でした。会津の歴史や風土についていろいろなお話をことができました。戊辰戦争での、長州藩との凄絶な戦いや白虎隊の悲劇。会津の街並みの秘密や、今に至る街並みの変遷。とてもここには書ききれません。一部を以下に抜粋してみます。

・会津若松の遊郭は現存する一軒しかない。そして理容室が多い。それは、赤線が引かれる前はチョンの間だったという噂。
・街中にズレた十字路が多いのは、猪苗代湖からの水を街中に行き渡らせるための工夫。
・街中には戊辰戦争以前からの古い建物がほとんどない。今に残る古い建物は、当時、長州藩の兵士が占領した家ばかり。なので、会津の人にとっては古い建物を見ると複雑な気分になる。
・戊辰戦争時、会津藩側の多数の死者を埋葬する事を禁じられた。それが会津の人々の長州への恨みを深くした原因。当時の戦いでなくなった、浮かばれなかった死者の霊があたりを漂っており、飯盛山はスピリチュアルな方には鬼門。
・会津の幼稚園のお遊戯では白虎隊の悲劇を題材にしたものが多く、その内容には切腹して死ぬ結末のシーンまで含まれている。

オーナーのSさんは各地のゲストハウスも訪ね歩かれたそうで、会津を振興することへも並々ならぬ思いを持っておられました。会津がITに力を入れている事は、2年前の郡山への訪問の際に感じていました。Sさんは会津大のご縁の中で、IT関係への支援も活動の一つに含めているとか。また、一緒に語っていたOさんは、島根からの旅行者で、各地のゲストハウスを巡っているとか。こうしたご縁がその場の空気と料理と酒をおいしくします。

Sさんから伺ったお話で、印象に残った事を書き留めておきました。以下に抜粋してみます。
・みそ汁理論。熱いうちは対流して均一に汁の色が行き渡るが、冷えると一カ所にかたまる。箱物行政はお金があれば無理やり流れを作れるが、お金が尽きれば流れも止まる。誰かが対流を起こし続けなければならない。

実に濃い内容のトークを交え、かなり遅くまで私は皆さんと語らいを楽しみました。

たった一日なのに、もう何日も会津にいたような気がする。そう思わせるほど濃密な一日。お誘いいただいたK.Cさん、運転してくださったK.Hさん、一緒に鎌を振り回したY.Mさん。H.Jさんのおもてなしの数々、ボランティアの学生の皆さん、「酒家 盃爛処」の皆さん、隠れ家のオーナーSさん、旅のご縁で結ばれたOさん、その場で会話を楽しんだ皆さん。感謝の言葉は尽きません。


鹿島の旅 2018/7/15


あまりよく寝られないままに起きました。あたりはうっすらと白んできています。朝ぼらけの鉾田駅前は人通りが全くなく、通り掛かる車もわずか。まだ時間は四時半ごろ。睡眠が満足に取れたとはいえませんが、私は行動を始めました。

この鉾田駅、廃駅になってからすでに十年以上の月日をへています。しかも、その十年の間に起こった東日本大地震が、残っていたホームの遺構を完全に壊してしまいました。なので、バス会社の車庫に併設されたバスターミナルがあるとはいえ、ここがかつて駅だったことを示すものはほとんど残っていません。かろうじて壊れて陥没したホームや線路の後はまだ残っており、バス会社の事務所がかつての駅舎だったことを想像させる程度。あるいは脇に立つコンクリート造りの廃屋が駅舎だったのかもしれません。
草深き 路盤の鉄路 今はなし

私は荒れ果てた駅の跡地を散策しつつ撮影します。まだ早朝の霧が体にまとわりつく中、私は思うがままにあたりを歩きまわりました。鉾田駅の裏手には、広大な草原のようなものが広がっています。湿原とでもいえそうなこの湿原、後で調べましたが、何なのかよくわかりません。ゴルフ場でもなく、湿原として登録されていることもなさそう。ですが、北海道や尾瀬でみられるような光景は、旅立ちの朝として旅情をかき立ててくれます。立ち上る霧の向こうに果てなく広がる湿原。鉾田駅にはあらためて訪れたいと思いました。

駅周辺を存分に撮影した後、私は移動に踏み切りました。と、すぐに鉾田駅から数百メートルほど離れた場所にあるファミリーマートを発見。このファミリーマート、イートインコーナーを擁しています。ここのファミリーマートを昨夜知っていれば、充電ができたかもしれないのに残念。ここで朝食を食べたり充電したりして1時間近くを過ごしたでしょうか。バッテリーと胃を満たしたところで次の行き先へ向かいます。

鉾田市内をぐるっと回り、訪れたのは新鉾田駅。鹿島臨海鉄道大洗鹿島線の駅です。新鉾田駅は高架の上に設けられた単線の駅。有人改札でした。後で調べたところでは、鹿島臨海鉄道でも数駅しかない有人駅のうちの1つだとか。早朝とはいえ、時間も限られているので、私は新鉾田駅にはそれほど長居せず、次の場所へと向かいました。

次に私が訪れたのは、北浦湖畔駅です。鹿島臨海鉄道大洗鹿島線は単線で、しかも非電化の路線です。なので外から見ても鉄道があるようには見えません。延々と伸びる高架。それが、なかなか良い風情をこの鉄道に与えています。

北浦湖畔駅は、築堤の上にありました。この駅を私は下から、そして築堤の上から存分に撮影しました。ちょうどその時、気動車がやってきました。この気動車、二両編成です。朝の北浦に沿って走ってきたのでしょう。気動車がぶるぶると息もあらく駅を去っていく様も、物悲しいような情緒にあふれていました。朝もやの中に徐々に姿を消していく気動車。その様子は、鹿島臨海鉄道に対する私の愛着を産みました。
気動車の吐く煙 ともに霧に去り

今日の予定は、鹿島神宮をじっくりと参拝する予定でした。ですが、鹿島臨海鉄道の風情が気に入った私は、他の駅にも寄ってみることにしました。朝が早かったため時間もたっぷりありますし。

北浦湖畔を南に向かう途中、北浦に架かる橋を見つけました。行方市へ渡る橋のようです。ちょっと渡ってみました。この辺はとにかく農業の盛んな土地のようです。畑が一面に広がっています。ここが関東とは思えないほどののどかさを発揮していました。行方に渡ってはみたものの、丘の上の体育館に立ち寄った程度。私はすぐに橋を渡り、鹿島臨海鉄道の鹿島灘駅へと向かいました。

のびのびと続く道路の脇に、鹿島灘駅のロータリーへのパスが見えます。私はロータリーに車を停め、駅を散策しました。と、ちょうど気動車がやってきました。その気動車にはラッピングがされていました。鹿島臨海鉄道の沿線には大洗があり、そこにある水族館「アクアワールド」の水族たちをあしらっていました。なお、大洗はアニメ「ガールズ&パンツァー」の舞台にもなっているようです。それにあやかった「ガールズ&パンツァー」とのタイアップによって観光客を呼び込んでいるようです。駅にも「ガールズ&パンツァー」のキャラクターをあしらったポスターやステッカーが見受けられます。私は「ガールズ&パンツァー」を観ていないので、全くわかりませんが。

さて鹿島灘の駅の次に訪れたのは鹿島大野駅。この駅には最初から寄るつもりでした。なぜなら、鹿島大野駅は関東の駅百選に選ばれていたからです。この駅も無人駅でしたが、駅舎は立派なもの。独特の意匠が存在感を出していました。駅前は広大で、十分なゆとりがあり、百選に選ばれる理由も理解できます。ただ、コンクリートの駅舎には歴史の重みよりも、材質に由来する疲れと、随所に荒れが見られ、手入れがなされていない無人駅の悲しみを感じました。

鹿島大野駅よりも私が好感を持ったのは、次の長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅です。日本で一番長い駅名だそうです。ここでは、駅のロータリーに花壇が設えられており、地元のボランティアの方々と思しき年配の方々が一生懸命に手入れしていました。駅の周囲は白い砂で覆われています。その様はまるで三カ月前に訪れたばかりの沖縄を思わせます。駅のすぐ横を道路がまたいでおり、そこから駅を見下ろすこともできます。駅に到着し、遠ざかる気動車を見送ることもできました。

せっかく日本一駅名の長い駅に訪れたのだからと、近所のはまなす公園にも足を伸ばしてみました。この辺りは、北浦と太平洋に挟まれた長い砂州のような土地ですが、それなりに起伏があります。はまなす公園は名前こそ浜辺にありそうな名前ですが、実は起伏に富んだせせらぎや池を擁しており、公園が好きな向きには興味深い場所です。昇龍の滝と名付けられた人口の滝もしつらえられており、期せずして今回の旅で滝も訪問できました。オニヤンマが辺りを遊弋し、地震で壊れたままとはいえ、水琴窟が設えられています。この公園の目玉は展望塔です。私もお金を払って上に登りました。

朝方に辺りを覆っていた靄こそ消えたものの、展望塔からの景色はあいにくの雲でさえぎられていました。なので鉾田や鹿島の風土を一望に見渡すことはできませんでした。ただ、展望塔にはこの地を紹介する展示がありました。鹿島の歴史や風土。かつての鹿島神宮が置かれた地理や、鹿島神宮を中心として栄えてきた歴史の一端。それらを知ることができたのはよかったです。展望塔から見下ろすと、グラウンドでは少年野球の試合が行われ、フリーマーケットが催されています。のどかな朝の様子を堪能しました。
鹿島灘 霧とハマナス 斑色

私が続いて訪れたのは、荒野台駅。駅の名にそむかず、駅の片側の地は全くの未整備。道路だけは区画されていますが、区画された未来の駅ちか物件は、植物が奔放に蔓や枝を伸ばしています。一組の家族連れが、虫かごと網を持って昆虫を探していました。多分、この辺りには昆虫がわんさかいるのでしょう。その証拠に、私もロータリーの地面でバタバタしていたカブトムシのオスを捕まえました。その傍の林の樹の幹でもカミキリムシを捕まえました。荒れ野どころか、自然の豊かな駅。私にとっての荒野台駅はそんな印象を残しました。

さて、そろそろ鹿島の街並みが近づいてきました。次に私が向かったのは、塚原卜伝の墓と生家跡です。かつては梅香寺の境内にあったとされる墓ですが、寺は昔に焼失し、元は寺の境内だったと伝わる地に祠と墓が残るのみです。でも、小高い斜面を登った場所にある墓の位置は素晴らしい。周りの小高い丘に囲まれており、そこからの景色は素朴な感じに覆われていました。ここで眠れる塚原卜伝は、剣豪として生き抜いた怒涛の生涯からは一転、安らかでくつろいでいられそうです。私は自分の墓の場所にはあまりこだわりはありません。ですが、塚原卜伝の墓の場所だけは望ましいと思いました。こういう場所で永遠の眠りにつきたい。
剣聖を 詣でし我に トンボ守り

続いて私が向かったのは、鹿島神宮駅です。昨夜訪れた時は、暗闇の中に立つ塚原卜伝の像はよく見えませんでした。お日様の下でみる、剣豪は鹿島の街とその発展を見据え、堂々としています。鹿島神宮の駅前は、昨夜見た時の印象とさほど変わりません。にぎやかではなく、店もあまり見られません。ただ、鹿島神宮へ至る参道の玄関口としては、十分な広さがとられていました。駅には鹿島臨海鉄道の気動車も停車しており、ターミナル駅であることは十分に理解しました。


さて、ようやく鹿島神宮へ参拝する時がやってきました。昨晩訪れた参道は、誰もいない静けさに満ちていました。ですが昼間はさすがに人通りがあり、店々が軒を開いています。門前町としてにぎわっていますが、あくまでも節度をわきまえているようです。私は駐車場に車を停め、参道を歩いて境内に入りました。楼門から、拝殿で参拝し、さらに奥宮へと歩を進めます。

鹿島神宮は初めての参拝ですが、ここは拝殿や本殿よりもさらに奥の樹叢や奥宮、そして御手洗池が印象に残りました。御手洗池。この池は全く涸れることがないそうです。横から湧き出る泉の水は汲み放題。御手洗池から流れ出した水流はさらに奥へとせせらぎとして流れ、辺りを潤しています。このせせらぎにはザリガニが多数生息しています。その多さはなみではありません。少年たちが無限に思えるほどのザリガニを捕まえていました。私も手で何匹か捕まえてみました。簡単に手で捕まえられるほど、ザリガニがうじゃうじゃといます。これほどたくさんのザリガニを一つ所で見たのは生まれて初めてでしょうね。東屋が設けられていますが、笛を吹く方が多彩なメロディーを奏で、あたりのなごやかな光景に彩りを添えています。
熱暑にも きのこ育む 清き杜

御手洗の 霊験篤し ザリガニズ

御手洗池とその周辺の景色。豊かな自然の中を流れる緩やかな時間。私は時の過ぎるのを忘れ、ここでしばしの癒しを受け取りました。茶店でイワナの塩焼きを食べ、日あたりのよい景色を眺めながら、御手洗池にはもう一度来たいと心から思いました。境内には鹿園があり、何匹もの鹿が餌を食んでいました。鹿の餌が売られていたので、私も餌を買って鹿と触れ合いました。鹿と言えば奈良が有名ですが、もともと鹿島の鹿が由来なのだとか。

境内の樹叢は、まっすぐな高みを持つ杉が何本も林立し、ここが神聖な杜を感じさせてくれました。縦に伸び、広がりを持つ樹叢は、はるか向こうまで奥行きをもって続いています。それらの樹々は長い年月をかけて育ち、時間の積み重ねを体現しています。縦横奥行きに加えて時間をも。この樹叢は、四次元の空間そのものなのです。その一角には、要石と呼ばれる石が埋まっています。古くから今までに幾多の地震を食い止めて来たのだそう。事実、鹿島を震源とした地震はあまり聞いたことがありません。北には北米プレートと太平洋プレートがせめぎ合う日本海溝を、西には関東大震災や遠からず来る東海地震の震源を擁するこの地。古人は経験からこの地が地震の緩和地帯であることを見抜いていたのかもしれません。この先も要石がわが国の地震の被害を最小限に留めてくれることを祈りました。

鹿島神宮は果てしないほど境内が広いわけではありません。かつては広大な所領を有していたのでしょうが、今は道路や住宅地、店舗に囲まれています。ですが境内の中に入ると、広く感じられるから不思議です。四次元の空間がそう感じさせるのか、自然に富んだ御手洗池がそう思わせるのか。さほど広くもなく、寝ていない割には疲れを感じません。もう一度行ってみたいと思える神社でした。
人の来ぬ 道を進んで 涼をとる

参道を歩いて駐車場に戻りました。参道で鹿島名物を食べたかったのですが、掲題の御手洗池のほとりで食べたイワナで我慢。次回はいろいろと食べたいと思います。

続いて私が向かったのは、鎌足神社です。藤原鎌足が鹿島の出身である事は、前掲の「本当はすごい!東京の歴史」にも載っていました。私ももともとの知識として持っていました。その出自を証明するかのような鎌足を祀る神社があると知り、これは行かねばなるまい、と思いました。鎌足神社は鹿島神宮とは比べ物にならないほど小規模で、宮司も常駐していないような小さなお社でした。ですが、この神社こそが、日本を長年にわたって支配し続けた藤原氏の由来が鹿島にあった証なのです。
明日香へと 史よ届けと 汗立ちぬ

続いて、近くにある根本寺でも参拝。ここには芭蕉も訪れたことがあり、鹿島でも、いや、日本の国内でも有数の古刹とのこと。誰もいない境内には蝉の鳴き声が響き、夏を感じさせてくれました。すぐそばには鹿島城山がそびえていました。車で頂上の駐車場までアクセスでき、そこからの景色はなかなかの絶景でした。鹿島神宮側が見られず、神宮を一望できなかったのが残念です。鹿島城を見られたことで、もう一つの目的地に足を向けました。
燃える日に 発願せんと 蝉時雨

早朝の 霧は何処へ 高気圧

霧去りて 陽が照り返し 水郷や


まず最初に訪れたのがクラブハウス。鹿島の臨海工業地の一角に立つそこは、見事な設備で私を迎えてくれました。アントラーズと言えばJリーグ屈指の名門チームとして有名です。ところがJリーグ発足前のチームは、住友金属工業のサッカー部を母体とした、弱小な地方の一クラブでしかありませんでした。それが、今や、Jリーグ最多の優勝回数を誇るクラブに成長しています。その成功の秘密の一端がこのクラブハウスの設備から垣間見えました。暑い中、選手が練習している姿も見えます。アントラーズグッズもさまざまなものが取りそろえられています。ここでは鹿嶋市のマンホールカードを配布していましたが、マンホールをあしらったマウスパッドも購入しました。本当はユニフォームなども買いたかったのですが、そうそう来られないので我慢しました。

クラブハウスの近くには、風力発電の風車がいくつも回っていました。私はそれらを写真に撮ろうと鹿島港へと車を走らせました。鹿島の街の発展は、鹿島神宮や塚原卜伝に代表される武道の伝統だけではなく、鹿嶋港を中心とした工業地帯に支えられたことも忘れてはなりません。鹿島アントラーズもまた、港を中心とした産業から生まれたクラブだったのですから。


日が昇り、暑さがかなり厳しくなってきました。私は続いてカシマサッカースタジアムへと向かいました。ゆうべ見た繭のように白く輝くスタジアムは、太陽の下でも同じように輝いていました。ジーコの像があり、サッカーボールのモニュメントがスタジアム前に飾られています。私はカシマサッカーミュージアムがあることを知り、外観をじっくり眺める間も惜しく、そこへ入りました。鹿島アントラーズといえばJリーグ発足時を彩った幾人もの名選手を忘れるわけにはいかないでしょう。ジーコはもちろん、アルシンドや本田選手、黒崎選手、長谷川選手、秋田選手、古川選手、レオナルドやジョルジーニョなど、枚挙に暇がありません。

ミュージアムには当時のロッカールームがそのまま残されています。展示コーナーにはクラブが今まで勝ち取ってきたトロフィーやペナントで埋め尽くされています。おびただしい新聞記事が額装されたパネルとして並び、当時の熱狂を思い出させてくれます。今までに在籍した選手のうち、アントラーズの歴史で特に選ばれた十数名が殿堂入りと同等の扱いで顕彰されるコーナーも設けられています。まさに、Jリーグが発足してから二十数年の歴史がこのミュージアムに凝縮されています。2002年日韓ワールドカップの舞台としても使われたことや、そもそもスタジアム建設前からの歴史など、町おこしのレベルをはるかに超え、世界にカシマの名を轟かせたいきさつを知ることができました。かつて、Jリーグ発足前にはサッカーでは無名だった鹿島が、なぜここまで国内屈指のサッカーの街になりえたのか。その歴史は日本のこれからを考える上で参考となりました。

私はカシマサッカースタジアムの中で至福の数時間を過ごしました。ミュージアムからはグラウンドのピッチにも少し足を踏み入れることができます。広大な空間を選手の視線から見渡す感動。私が訪れた日は試合は開催されていませんでしたが、試合となるとこのスタジアムがどう変わるのか。興奮がまざまざと伝わってくるようです。

私は、ミュージアムの中に図書室を見つけました。図書室に展示されている膨大なサッカー関連の雑誌や書籍の数々。目をみはりました。サッカー、ストライカー、サッカーマガジン、サッカーダイジェスト。その他いくつものサッカー雑誌の数々。私が知らないものもあります。そうした貴重な雑誌の数々がバックナンバーとして創刊号から含めて並んでいます。サッカーがまだ日本ではそれほど人気でなかった頃のサッカー雑誌など、そうそう読めるものではありません。七十年代、八十年代の記事を時間のたつのを忘れて見入っていました。タブレットを充電させてもらいながら。

寝不足もあって、三十分から一時間ほどの仮眠もさせてもらい、私はこのミュージアムの設備をあらゆる意味で堪能しました。

すでに時刻は閉館の5時近くになろうとしています。私はミュージアムを出て、カシマサッカースタジアム駅へと向かいました。この駅はスタジアムで試合が開催される日だけ営業し、普段は臨時駅として使われていません。この日も駅の中には入れませんでしたが、鹿島臨海鉄道とJR東日本の共同駅の様子を外から思うままの角度で撮りました。

そろそろ日が落ちてきました。私が鹿島にいられる時間もそう長くはありません。本当は銚子の方にも行きたかったし、香取神宮や息栖神社にも行きたかった。ですが、とても行けそうにありません。そこで私が向かったのは鹿島灯台。住宅地の中にぽつんと立つ灯台は、海に面していないにもかかわらず、なかなか見ごたえのあるものでした。

おお、日が今にも落ちそうとなっています。鹿島に来れるのはいつかわからず、あと一カ所どこかに行っておきたい。そこで、私は近くのもう一駅だけ寄ることにしました。北浦を渡る橋から見事な夕日を眺めながら、対岸の潮来市へ。延方の駅前を散策します。JR東日本の駅をじっくりと堪能しました。

鹿嶋市を去るにあたり、最後にやり残したこと。そう、それは昨晩ばんどう太郎に行けなかったこと。銚子方面に足を伸ばせなかったこと。なので神栖市にあるばんどう太郎を訪れ、うどんで鹿島の旅を締めました。疲れた体においしいうどんがとてもうれしかった。

お店を出た時、すでにあたりは闇に覆われており、私は都心への帰途に就きました。高速道路を飛ばして都心へ。途中、妻子を帝国ホテルで拾い、家へと。充実に充実を重ねた二日間でした。


場所 日時
Pasar幕張 幕張PA (下り) 2018/7/14 19:41
ミニストップ Pasar幕張下り店 2018/7/14 19:47
酒々井PA (下り) 2018/7/14 20:09
大栄PA (下り) 2018/7/14 20:25
佐原PA (下り) 2018/7/14 20:45
鹿島神宮大鳥居 2018/7/14 21:01
鹿島神宮 楼門 2018/7/14 21:16
カシマサッカースタジアム 2018/7/14 21:47
出光 セルフ鹿嶋SS 2018/7/14 22:14
ちゃあしゅう屋 鹿嶋店 2018/7/14 22:20
鹿島神宮駅 2018/7/14 22:56
剣聖 塚原卜伝生誕之地 プレート 2018/7/14 23:07
ミニストップ 鹿島神宮駅前店 2018/7/14 23:15
セイコーマート鹿嶋中店 2018/7/14 23:28
鉾田駅 2018/7/15 0:13
ファミリーマート 鉾田中央店 2018/7/15 5:38
新鉾田駅 2018/7/15 6:13
北浦湖畔駅 2018/7/15 6:23
鹿島灘駅 2018/7/15 7:06
鹿島大野駅 2018/7/15 7:30
長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅 2018/7/15 8:37
大野潮騒はまなす公園 2018/7/15 9:16
荒野台駅 2018/7/15 10:58
セイコーマート 鹿嶋小山店 2018/7/15 11:14
塚原卜伝の墓 2018/7/15 11:24
塚原卜伝像 2018/7/15 11:41
鹿島神宮大鳥居 2018/7/15 11:48
鹿島神宮 楼門 2018/7/15 11:51
鹿島神宮 拝殿・本殿・御神木 2018/7/15 11:56
鹿島神宮 境内鹿園 2018/7/15 12:15
鹿島神宮奥参道 2018/7/15 12:15
鹿島神宮 奥宮 2018/7/15 12:16
鹿島神宮 要石 2018/7/15 13:00
鎌足神社 2018/7/15 13:34
根本寺 2018/7/15 13:40
鹿島城山公園 2018/7/15 13:56
鹿島アントラーズ クラブハウス 2018/7/15 14:22
セイコーマート 鹿嶋平井店 2018/7/15 14:44
カシマサッカースタジアム 2018/7/15 15:20
カシマサッカーミュージアム 2018/7/15 15:20
鹿嶋灯台 2018/7/15 17:39
延方駅 2018/7/15 18:24
ばんどう太郎 神栖店 2018/7/15 18:48
大栄PA (上り) 2018/7/15 20:15
辰巳第二PA 2018/7/15 21:44
神田橋出入口 2018/7/15 21:53
帝国ホテル 東京 2018/7/15 22:00

鹿島の旅 2018/7/14


思い立って鹿島に行ってきました。なぜ鹿島か。それは数日前に読んだ本がきっかけです。その本のタイトルは「本当はすごい!東京の歴史」です。その本で著者が唱えているのは、鹿島や富士山を中心とした東国から日本の文明が始まったとの説です。日本の東征神話には実は前段階があり、高天原は鹿島にあった。東征を行った神々は、鹿島を出て高千穂へ至り、高千穂を出て出雲を攻め、ついで大和へ向かったのではないか。著者が唱える説はかなり斬新。真偽はともかく、新鮮な意見といえましょう。

鹿島神宮と富士山と伊勢神宮が二等辺三角形を作っているとの著者の仮説は、私に強い印象を与えました。伊勢神宮といえば日本第一の宮。そのことに異論はありますまい。ですが、本書の説を信ずるなら、鹿島神宮にも同等の評価を与えるべきなのです。鹿島は藤原氏の祖である藤原鎌足の出身地として知られています。ところが、ご承知のとおり、藤原鎌足といえば奈良の飛鳥のイメージ。古代にあって鹿島から奈良に出て栄達を果たすことは容易ではなかったはず。ところが、鹿島が当時の我が国にあって有名な地として認識されていたとすれば、藤原鎌足の栄達にも合点がいきます。その後に千数百年の藤原氏の栄華すら、鹿島とからめることで謎が解けそうです。その他、この本から得た気づきについてはブログに書きました。

鹿島に行こうと思った逸る気持ちを実行するため、車が使える日を選びました。それが7/15。時間を有効に使うためには、早朝に現地に居るのが望ましい。そこで私は前の晩から家を出発しました。東名から首都高、東関東自動車道を経由して鹿島へ。成田から先は私にとって初めて訪れる地。せっかくなので、パーキングエリアやサービスエリアに全て寄りました。なにしろ時間はたっぷり。

鹿島につきましたが、夜なので街並みの様子はよく分かりません。ただカーナビに導かれ、鹿島神宮へと。ところが、鹿島神宮の参道と思われる道路には全く人通りがありません。石畳と妙に静まり返った沿道が、かろうじてここが門前町である事を教えてくれます。

それにしても夜とはいえ、この静けさはなんでしょう。神社の参道といえば、門前に屋台が軒を並べる光景が思い浮かびます。たとえ深夜でも仕舞われた屋台が路上に置かれ、それまでの雑多な雰囲気がどこかに漂っているはず。ところがこの参道には一部の隙もありません。整然としています。私にとって、この静けさは予想外でした。たまに車が通るほかは、人も通らず、開いている店もなく真っ暗です。参道からすでに神域の厳かさに満ちている。それは私の中に鹿島神宮への崇敬を呼び覚ましました。

その静けさに甘えるように、私は大鳥居のすぐ近くに車を停めました。そして大鳥居から楼門までのわずかな距離をしばらく散策しました。大鳥居を越えるとすぐ、手水舎があり、夜にも水が湛えられています。そこからみた楼門はライトアップされており、とても荘厳な雰囲気をかもし出していました。

静まりかえった神社の暗がりには、気合のこもったかけ声が響いてきます。剣道の稽古でも行われているのでしょうか。森の奥から聞こえてくる裂帛の気合い。夜のしじまの神域に響く武の音。古くからの武道の聖地である鹿島神宮の重みが迫ってきます。
神域の 暑き夜を裂き 鬨の声

楼門の向こうへも入れましたが、私はここで踵を返しました。武道の気合に気圧されたと言ってもよいでしょう。やはり、神社は昼のうちに参拝するのがよろしかろう。明日、陽の光の下であらためて参拝しよう、と。

さて、せっかく誰もいない夜道を堂々と歩けるのですから、もう少し鹿島の街を見てみたいと思いました。次に私が向かったのは鹿島神宮駅です。鹿島神宮駅は初めての訪問。ですが、私にとって初めてのような気はしません。鹿島神宮行きと言う電車を総武線の行き先表示でよく見かけるからでしょうか。夜の静けさの中にたたずむ鹿島神宮駅は、ひなびた雰囲気ではなく、郊外の閑静な駅として私の前にありました。せっかくなので駅前を歩きました。そして、鹿島神宮の参道へと至る坂道の途中にある塚原卜伝の像を訪れました。夜なので、あまりよく見えませんでしたが、剣豪が威厳のある姿で街を見守っています。前日に読み終えた「塚原卜伝」の印象が鮮やかに私の中に立ち上がります(レビュー)。

さて、そろそろ宿を探さねばなりません。今回の旅は、最初から車中泊のつもりでした。問題はどこに車を泊めるか。当初は、鹿島神宮の門前町のどこかに車が停められないかと思っていました。ところが、あてにしていたクラフトビールのお店は臨時休業。であればお酒は別の場所で飲もう。せっかくなのでもう少し場所を変えてみようと思いました。

その前に、夜の鹿島の街をドライブしました。最初の訪れたのは高天原の地。「本当はすごい!東京の歴史」に紹介されていたのが、鹿島には今も高天原があるとの情報。地図を見ると確かにそうした住所が存在するようです。実際、私が見た住居表示には確かに〝高天原◯丁目〝の文字が。本に書かれていた事は本当でした。少し感動した私。鹿島が日本の歴史の発祥の地なのかもしれないとの本の主張に真実味が増します。

その勢いで向かったのはカシマサッカースタジアム。夜の暗闇の中にライトアップされたスタジアムの姿はとても壮麗。まゆのような丸みを帯びた外観が堂々としています。私はしばらく、じっくりとその姿を目に焼き付けました。そして駐車場にも車を乗り入れ、さらに近くからスタジアムに見とれます。駐車場にはカブトムシを採っているとおぼしき親子の姿も見えます。

そろそろ、腹ごしらえもしなければ。そう思った私が訪れたのは「ばんどう太郎」。茨城県では有名なお店で、かつて家族で袋田の滝に行った帰りに立ち寄りました。ところが残念なことに、私が訪れたとき、ラストオーダーの時間を少しすぎてしまいました。替わりに私が訪れたのは近くの「ちゃあしゅう屋 鹿嶋店」。茨城のラーメン事情を知るため、チェックインしました。すでにタブレットの充電がやばく、お店で充電させてもらいながら。

そして私は今夜の寝床を探すため、次なる場所へ向かいました。私が向かったのは鉾田です。今回の旅では、私のいろんな趣味の巡りもするつもりでした。なので、関東の駅百選に選ばれながら、すでに廃駅となって久しい鹿島鉄道の鉾田駅を訪れてみようと思いました。北潟湖畔をひたすら北上します。途中、セイコーマートを発見し、珍しいアルコール類を何本か買い込みました。セイコーマートと言えば北海道。そんなイメージが強いですが、茨城にも店舗がある事は知っていました。一人旅でセイコーマートに出会えるとはうれしい限り。

しばらくして夜の鉾田に到着。ところが、鉾田の駅には何もありません。なぜかビッグエコーのお店だけがこうこうと明かりを点している他、開いているお店は全くありません。車も好きに止め放題。かつて、住居か店舗があったであろう空き地が駅の真ん前にあり、そこに車を止めさせてもらいました。ビッグエコーで一人カラオケをしながら、朝を迎えられればよかったのですが、あいにくなことにお店は夜中の2時に閉まってしまう模様。なので私は車中泊を敢行します。

夜、たまに通る車の音。暑苦しいため開け放しの窓から車内に侵入し耳元で羽音を立てる蚊。これらに妨害されながら、私は眠れぬ一夜を過ごしました。
百選の 駅跡の闇 車中泊


尾瀬の旅 2018/6/3


山小屋の朝は早い。それはなんとなくわかっていました。だが、これほどまでに早いとは。起きたのは4時半。しかも、アラームもなしに。なぜなら周りの人たちが皆起きるからです。私もその気配に目覚めました。気配だけでなく、寒さでも目が覚めました。私はこの旅においても、山登りにふさわしからぬ格好でやってきました。朝方の尾瀬を舐めた装備で。だから、夜ちょっと寒かったのです。毛布も布団も用意されていたにもかかわらず。そんな訳で私は惰眠をむさぼることなく、皆と変わらぬ時間に目覚められました。

起きたとはいえ、朝食にはまだ時間があります。ではなぜ皆さんは起きるのか。それは、朝もやの中に目覚める尾瀬を体で感じるためです。朝もやの尾瀬。それは私の目に幻想の世界と映りました。朝もやが尾瀬の一帯をベールの様に覆い、音もなくゆらめく様子。それが見渡す限り広がっています。この光景は、早く起きて見るべきといえましょう。尾瀬ならではの素晴らしい朝まだき。都会では決して見られないほどの。

木道には、まだお互いの顔さえよく見えないほどの暗さであるにもかかわらず、たくさんの人が朝もやの尾瀬を一目見ようとたたずんでいます。凍えるほどの寒さであるにも関わらず。私も精一杯着込み、朝もやの尾瀬を見届けようと気張ります。でも、それだけの価値はありました。朝もやに覆われていた尾瀬の向こう、至仏山があるはずの方角が徐々に白んで行きつつあるのが分かります。それとともに、朝もやが少しずつ薄らいでいくのです。朝もやが薄らいでいくと同時に鳥が活動を始めます。鳥がさえずり、鳥が飛び交い、尾瀬の朝が始まりつつあることを尾瀬中に知らせるかのように。そして、朝もやの向こう側から、湿地の広大な地平が私たちの前に徐々に姿を現します。この一連の流れは、ただただ荘厳。時間の移り変わりを全身で受け止め、魂で感じる。これこそ、朝を迎える営みの本来の意味なのでしょう。この感覚も、現代の都会人がうしないつつある感覚だと思います。

そのうちに朝日が燧ケ岳の向こう側から姿を現します。ここにおいて尾瀬の朝はクライマックスへ。朝もやから日の出までの一時間ちょっとの時間。これは、私の人生でも貴重な経験でした。今までにも比叡山や神戸空港から初日の出を見たことがあります。でも、朝もやと鳥が広大な空間で織りなすハーモニー。この経験は尾瀬でしか味わえません。

そして朝食。ところがまだ六時前だというのに、朝食を待つ長蛇の列ができています。私たちはここでも遅れを取りました。でも、朝食の時間には間に合い、おいしい朝ご飯をもりもりといただきました。そして、今日の道のりを無事に踏破するため、準備を進めます。

私たちが宿を出たのは六時半ごろだったでしょうか。オーナーは各パーティーの出発を送り出すのに忙しく立ち回っています。そんな忙しい中でありながら、私たちの集合写真を撮ってくださろうといろいろと骨折ってくれます。その姿をみて、山小屋の本質が少しは分かった気がします。山小屋とは自己責任と自己管理が求められる場所。お互いが己を律しつつ、一期一会の縁を大切にしようとする場所。それこそ山男山ガールの本分なのでしょう。今まで、私にとっての山はハイキングの延長でしかなく、せいぜい、見知らぬ人同士がすれ違いざまに「こんにちは」と呼びかけ合う程度の認識でした。ところが、山小屋の朝を体験し、山の気持ち良い朝を過ごしてみると、私の中で山への意識がさらに強まったような気がします。

さて、われわれは尾瀬小屋を出発し、次なる場所に向かいます。今日のルートは、燧ケ岳の脇をぐるっと回り、尾瀬沼から三平峠を抜け、大清水のバス停を目指します。正直に言うと、今回の旅に臨むにあたり、私には一つの不安がありました。その不安とは腰痛です。春先から悪化していた腰痛。果たして今回の尾瀬の旅で皆さんに迷惑をかけずに歩きとおせるのだろうか、という不安。その不安は私の心の中にずっと巣くっていました。昨日は平坦な道がほとんどだったので、腰痛を忘れて景色を堪能できました。ところが今日は山を越えねばなりません。私の腰はこの行程に耐えられるのか。

そんな私の不安を払うかのように、朝を謳歌する森は私を元気にします。空気は一点の雑味もなく、ただただおいしい。木漏れ日も私の心に優しく降り注ぎます。やがて道は上りになりました。そして、その道のりは次第に急になっていきます。山登りの段階にはいったのでしょう。私たちのパーティーの他にも複数のパーティーが同じ道程をゆきます。皆さん山小屋に泊まり、早朝に出発した方々なのでしょう。私たちはそうした方々を追い抜きながら、尾瀬沼のを目指して歩を進めます。

山を登っていると、何度か湿原を抜けます。木道が湿原を貫き、左手にそびえる燧ケ岳はくっきりと姿をあらわにしています。ちょっと左に折れて登ればすぐに登頂できそうなほど、すぐ近くにそびえています。このあたりからは昨日見かけたような雄大な広がりは見えません。ですが、木道が渡された湿原に人の姿はまばら。そのためか、昨日よりもさらに荒らされていない自然を味わえました。とくにこのあたりには水芭蕉の群生が目立ちます。昨日、鳩待峠から山の鼻に至る道の脇でも水芭蕉の群落を見かけました。ですが、往来する人々が発する熱で水芭蕉も弱ったのか、あまり精彩が感じられられませんでした。ところが、このあたりの道に咲いていた水芭蕉はとにかく元気。可憐な株、元気な株、それぞれが群生して一つの景観を作り上げています。これぞ「夏の思い出」にも歌われた尾瀬の水芭蕉といわんばかりに。

いくつもの湿地を行き過ぎ、登りと下りを繰り返した後、私たちは尾瀬沼のほとりにつきました。そこは沼尻という地名がついています。私たちの眼前に広がる尾瀬沼。そこは私たちを満面の輝きで迎えてくれました。朝の陽光が湖面をきらめかせ、見渡す景色の中には人工物がまったく見あたりません。沼と名付けられていますが、沼の語感にはどちらかといえばどんよりとした暗さがあります。ですが、私たちを迎えた尾瀬沼は全てが明瞭。どこにも後ろ暗さはありません。何事も隠さず、自然のすべてを開けっぴろげにしています。それどころか、沼のほとりにたたずむ私たちの心を見透かすかのよう。このきらめきを前にすると、自然の偉大さに襟を正すほかありません。沼と池の区別はよくわかりませんが、こちらのサイトによると、自然にできたものが沼だそうです。遠いむかし、大地のうねりが尾瀬沼を作り上げたのでしょう。昨日見かけた雄大な景色も良かったけれど、尾瀬沼のありようも私たちを癒やしてくれました。

私たちは、尾瀬沼の周りを沿ってさらに歩みを進めます。次に訪れた場所はビジターセンター。ここで私たちはしばし休憩をとり、尾瀬小屋の方が作ってくださったおむすびを頬張りながら、存分に景色を楽しみました。お土産物を冷やかしながら、次の峠に向けて英気を養います。この山小屋を過ぎると、さらに尾瀬沼をぐるりと回りこみ、山小屋へ。そこからは急な登りがあり、その先では三平峠が私たちを待ちうけています。

さて、三平峠。確かに登りは急でしたが距離が短い。私にとっては拍子抜けがするほど簡単に突破できました。さすがに私の腰は痛みを感じはじめていました。が、何とか皆さんの足手まといにならず、無事に峠を越えられたのはよかった。三平峠を過ぎれば後は下るのみ。ここからは、ひたすら峠を降り、大清水まで向かいます。

峠を過ぎてから私の印象に残ったのは二カ所。一つは湧水がきれいだったこと。もう一つは道にわずかにできた水たまりに、無数のオタマジャクシが群がっていたことです。その生命のたくましさというかみなぎる力。自然の営みの妙を感じた瞬間でした。しばし足を止め、ただただオタマジャクシの集団に見ほれました。

さらに下っていくと川に行きあたりました。その川沿いにしばらく進んでいくと滝が見えました。今回の尾瀬の旅で、もし可能であれば三条の滝に行ってみたかった。ところがそれは昨日訪れたヨッピ吊橋のさらに先にあります。行程の中に組み込むには難しく、とても行くのは無理。なのでここで見た滝が、今回の旅で私が見た唯一の滝です。後から調べたところでも無名の滝。おそらくはこちらのサイトに載っているナメ沢の2段十メートルの滝だと思います。あまり自信はありません。ですが、今回の尾瀬の旅で唯一出会ったこの滝は、精一杯の滝姿を私の前に披露し、水しぶきを上げていました。

山道を下っていくと急に道が広がりました。そこは一ノ瀬という地。かつてはここまでバスが来ていたらしく、朽ちたバス停と小屋が残っています。ここで長く伸びきったパーティーの後続を待ちました。一ノ瀬からは、ある程度舗装された道を行くのみ。私たちは数人で歩きつつ、しゃべりつつ、大清水まで下っていきました。大清水バス停。ここは上毛高原駅へ向かう直通バスの発着所でもあります。私はリーダーにお願いし、帰りのバスの切符もお願いしました。お金を借りたので他のお土産にはお金は使えません。ここでバスに乗ってしまうと尾瀬を離れてしまう。そんな中、私の心に手持ちの金がない後ろめたさがあったのは悔やまれます。

大清水から上毛高原へのバスは、来た時と同じく二時間ほどかかりました。皆さんは、眠りを取ったり車窓を眺めたりしながらバスに揺られていました。私は、持ってきた文庫本を読みながら、行きのバスでも見かけた吹割の滝や、ロマンチック街道に沿って点在する名所の数々を目に焼き付けました。遠からず必ず再訪することを誓いつつ。

上毛高原駅に到着しました。ここからの帰りの切符はクレジットで購入し、約30時間ぶりに自分のお金で支払えました。そして切符の購入待ちをしている間に、帰りの新幹線はやってきました。なので、上毛高原駅でもあまり余韻を味わう間もなく、帰りの新幹線に乗って群馬を離れます。この日は余韻を味わう間もないほど、すんなりと過ぎてしまったのがちょっと残念です。私は新幹線を大宮で下車。大宮からは数名に分かれ一緒に帰り、新宿からは小田急線でお近くに住む方と帰りました。道中、いろいろな話をしながら旅の余韻を噛み締めていました。家に帰ったのはまだ日が高く、私にとってはまだ現地にいてもおかしくないほどの時刻。私が今までに経験してきた旅のほとんどは、夜になってから現地を出ることがほとんどだったので。ですが、これこそが山ガール・山男の時間軸なのでしょう。勉強になりました。

最後に、今回連れて行ってくださったパーティーの皆様、そしてお金を貸してくださったリーダーにお礼を言わねば。誠にありがとうございました。とても素晴らしい二日間になりました。ちなみにお金は翌日にきちんとリーダーに振り込み、お返しできました。

この旅から四カ月後、私は独りで吹割の滝を訪れました。さらにバスの車窓から気になっていた奥利根うどんのお店にも立ち寄りました。ですが、一人で尾瀬を再訪するには敷居が高いようです。幸いなことに、今回のパーティーで再度尾瀬を訪問する計画が持ち上がっているようです。再び、尾瀬を訪問できればこれほどの幸せはありません。


尾瀬の旅 2018/6/2


40歳を過ぎた頃から山登りがしたくなりました。そんな私の思いに応えるかのように、お誘いしてもらったのが山登りのグループ。それ以降、年に一度の参加ですが、山登りをさせてもらっています。今回、そのグループで尾瀬の旅が企画されました。一回でいいから尾瀬に行ってみたいと思っていた私は、一緒に連れて行ってもらいました。

当日の朝、大宮へ向けて小田急で向かった私。実は一つ、前夜にし忘れたことがありました。それは旅費の調達。すっかりお金を下ろすのを忘れたまま、当日の朝を迎えてしまったのです。うかうかしていると無一文で山に向かう羽目になってしまいます。ところがそうなる確率はかなり高い。
 1.7時2分に大宮を発つたにがわ401号に乗らないと集合時間に間に合わない。
 2.キャッシュカードが使えるのは朝7時以降。
 3.使えるATMは限られている。
埼京線の車内で大宮駅の構内地図を血眼になってにらんだ私。新幹線の乗り換え口に近く、私のカードが使え、なおかつ朝7時に空いている機械。あった! ところが、朝7時ちょうどに操作したディスプレイには「時間外」という文字が。ああ無情。ワンモアトライしても状況は同じ。かくして私は金を手にすることもできず、階段を駆け上がってたにがわの車内へ。ギリギリセーフ。

上毛高原駅に降りたった時点で、私の所持金は3千円程度でした。もちろん、バスに乗る前に金を下ろすことはできません。なぜなら上毛高原駅構内や近辺に私が使えるATMはなかったからです。それぐらいは抜かりなく調べておきましたので。役に立たぬクレジットカードとキャッシュカードを懐に、私は途方に暮れて駅の改札を抜けました。ちなみに行きの切符だけは事前に購入しておいたのです。私が忘れていたのは当日の宿泊費のこと。間抜け。

上毛高原の駅前のバス停。そこが今回の集合場所でした。私が乗ったたにがわがぎりぎりだったため、今回、一緒に尾瀬を歩くパーティーのメンバーは全員揃いました。バスはすでに到着しており、乗客を乗せ始めています。もうなりふり構っていられません。すぐにリーダーに私の窮状を訴えました。リーダーは快く「いいよ貸すよ」と言ってくれました。若干あきれ顔で。そりゃそうだ。しかも私が「尾瀬の小屋でATMとかカード支払い、無理ですよね」なんて間抜けさに拍車をかける質問をするので、あきれ顔がさらにクッキリと。多分、私も自分にあきれ顔だったはず。ともかく最初のバス代はお借りできました。

バスに乗ってしまった以上、もうどうしようもありません。ここは成り行きに任せ、みんなの迷惑にならぬようにするのが肝心。肩身の狭い思いをしながらも私の肚は座りました。上毛高原駅を8:00に出たバスは、鳩待峠行きバス連絡所まで約1時間50分の道のりを走ります。道中、コンビニや銀行を見かけるたび、私の脈拍はリズムを刻みました。しかし運転手を脅してバスから降りるだけの度胸はとてもとても。そうしているうちにバスは終点へ。

鳩待峠行きバス連絡所は、マイカー入山が規制されている尾瀬への入り口です。そこから鳩待峠へのシャトルバス代も立て替えてもらいました。ここから先はATM不毛地帯。もはや、完全に覚悟を決めるしかありません。私はこの先、お金のことは一切気にしまい、楽しもうと決めました。30分強、シャトルバスに乗って着いたのは鳩待峠。10:50。尾瀬の入り口です。いよいよここからがスタート。リーダーの点呼のもと、私たちは尾瀬への第一歩を踏み入れました。

尾瀬への道。それは拍子抜けするほど楽でした。なぜなら人が多かったから。行列が途切れずに続き、私たちはその流れに乗って歩くだけでよかったのです。ただし、道中は単調ではなく、なだらかな道なりにも尾瀬らしい光景は見られます。その光景とは道端に咲く水芭蕉と黙々と進む歩荷の姿です。歩荷とは、尾瀬の山小屋に必要な物資を運ぶ人たちを指します。彼らは山小屋が求める物資を大量に背負子に背負って運びます。私たちのようなハイカーが歩むのと同じ道を黙々と往復して。過酷な仕事であることは一目でわかるし、尊敬の念を抱きます。この日、私たちは何度も歩荷の姿を見かけました。こういう人たちの仕事によって私たちのようなハイカーは尾瀬を訪れ、自然を満喫し、泊まれるのです。そのありがたみを尾瀬への道中で意識できたのは幸いでした。尾瀬の中心はまだ先だとは言え、道の左側には山々が見え隠れし、まぎれもない山岳地を進んでいることを意識しました。

さて、鳩待峠から延々と歩いた私たちは、ついに尾瀬の入り口、山の鼻にたどり着きました。そこはまさに尾瀬の入り口。山小屋が並び大勢のハイカーがめいめいに群を作ってたむろしています。私たちも陣を確保し、食事をとりました。山小屋にはトイレ待ちの人が列をなし、それぞれが旅の準備を進めています。その間に私は、広場を抜けた先の歩道まで足を進め、山を眺めました。私の視線の先には至仏山がそびえています。その麓に立ってみると、大いなる広がりが至仏山のてっぺんに向けて収斂しており、つい誘われそうに。まさに登山口。今からちょっと登って来る、と言いたくなる誘惑に駆られました。もちろん、勝手な行動は禁物です。私は至仏山をしっかりと目に焼き付け、皆さんの元へと戻りました。

さて、いよいよ尾瀬の道を歩みます。そこはまさにうわさに聞いていた尾瀬そのもの。うわさどころか、映像や写真をはるかに凌ぐ広がり。私たちの前に広がるのは、ただただ雄大な尾瀬の光景。たぶん、この感覚は自分で体験しなければ決して味わえないでしょう。私たちの行く手には燧ケ岳の山体が待ち受け、逆を向くと至仏山が控えています。はるかに続く木道にはハイカーが連なり、それが遠く見えなくなるまで続いています。この景色こそ、人々が歌に詠み、メロディーに乗せ、語り継いできた尾瀬なのでしょう。木橋を歩いている間、私の脳内を「夏の思い出」が無限にループしていたことはいうまでもありません。

尾瀬の湿原を歩いていると、やたらにカエルの鳴き声が聞こえてきます。木橋の両脇には、流れる川や池、水たまりがあります。それらの水場をのぞくと、カエルが何匹も大口を開けて歌っているのでは。そう思えるほど、カエルの合唱が耳をうちます。なので私は木橋を歩いている間もずっとカエルを探していました。結局、一匹も出会えませんでしたが、サンショウウオらしき両生類の泳ぐ姿には癒やされました。

山々は美しく、空は青い。鳥がたまに飛び交い、さえずりが聞こえる。行く手と背後に雄大な山がそびえ、そこにケロケロとカエルの声がこだまする。ここは別天地。ぜいたくな時間と空間。都会ではまず夢の向こうのまぼろしでしょうし、どれだけVRの技術が進もうとも人の五感+αを完璧に満たすことはできないはず。

燧ヶ岳と至仏山は悠然とその姿をさらしている。それなのに私たちを取り巻く景色は刻一刻と姿を変えます。広大な湿原を飛びまわる鳥のさえずり、水のせせらぎの音。植生や花々の移り変わり。せせらぎは自在に流れて池をなし、川に水を集めて沼に注ぎ、燧ケ岳の姿を克明に映します。どこまで歩いても無限の自然。その可能性が私を飽きさせません。

木橋は山の鼻からほぼ一本道に東へと伸び、牛首分岐と呼ばれる分岐点に至ります。そこを境にほとんどの方は山の鼻の方へと戻ってゆきます。ところが牛首分岐の先にも湿原が果てなく広がっています。そして牛首分岐から先へ向かうハイカーの数はグッと減ります。その奥へ向かうのは私たちのような山小屋に泊まるハイカーだけなのでしょう。だから、その先に続く木橋の往来は、それまでと違って心に余裕を持てました。そして余裕の心でじっくりと自然に浸れます。場所によってはほぼ独占といってもよいほどに。

相談の結果、私たちは牛首分岐から北のヨッピ吊橋へと向かいました。そしてヨッピ吊橋を渡る体験を楽しんだ後は南へと下ります。ヨッピ吊橋から南に下る道は人通りも絶え、木橋を行くのは私たちのパーティーのみ。この一望がすべて独占できます。全てが満ちたり、完結しているこの湿原を。木橋の脇に咲く小さな植物を見かけるたび、腹ばいになって植物を接写しても誰にも迷惑をかけずに済む。この無限の広さの下、木橋から道を踏み外さない限り、自然は私たちのもの。

私たちが南に下った道は、竜宮と名付けられた場所で牛首分岐から伸びるもう一本の道と合流します。そこからは東に向かって山小屋へ向かいます。途中、福島と群馬の県を分かつ川を橋の上から見下ろします。県境といってもそれはあくまで人間の決めた境目にすぎず、自然はそんな思惑を超越して流れています。すぐ北には新潟の県境も接しています。さらに広大な尾瀬の中には栃木との県境も含んでいるはず。ここは地理の妙味が楽しめる場所。これはまさに山歩きの楽しみです。

さて、目の前には燧ケ岳が迫りつつあります。燧ヶ岳の麓に固まった建物群が見えており、あのどれかが今夜の宿のはず。もう間近です。ところが行けども行けども山小屋は近づいて来ません。まっすぐに伸びる一本の木道の果てに燧ケ岳も山小屋群が見えているにもかかわらず。こうした広大な平原の中では人の距離感がいかに当てにならないか。ビルや住居に慣れ親しんだ普段の生活は、私たちの距離感を退化させてしまったのでしょう。そして都会の生活を支えているのは電力。東京で暮らす私たちの場合、東京電力です。そして尾瀬の木橋をなす全ての木材には東電の印が銘打たれています。東京電力が尾瀬保全に果たした役割は賞賛を惜しみません。一方、都会と尾瀬の間に横たわる環境の差の激しさが私を複雑な思いに閉じ込めます。都会を支えているのが原子力発電であり、その支えが崩れた福島第一原発事故の影響を知る今ではさらに複雑な気持ちに陥らせます。

そうやって考えているうちにも、少しずつ山小屋の群れはその姿を大きく、明らかにしていきます。そしてわれわれはようやく山小屋に着きました。尾瀬小屋。今日、私たちが泊まる場所です。

ところで私、今まで山小屋に泊まった記憶がありません。おそらく今回が初めてのはず。なので山小屋にはちょっとおっかないイメージを持っていました。なぜならここは自給自足の場。先ほど見かけた歩荷が届ける貴重な物資が全て。その現実を踏まえると、都会にいるような感覚で泊まることは許されません。ゴミは持ち帰るのが鉄則。私のような山の素人にもそれぐらいの想像は及びます。その予想を裏付けるように、早速オーナーの方から、泊まるに際の注意ががありました。それは簡潔にして明瞭。誤解の立ち入る隙もないほど。こういうところも、山小屋の敷居の高さでしょうし、自己責任と自己管理を兼ね備えた人にしか許されない厳しさなのでしょう。

私たちが泊まる部屋は二階。20畳ほどの部屋です。ここで男女一緒に別パーティーの人たちも一緒に泊まるのです。私たちは旅の疲れを癒やしつつ、そこでめいめいが荷物を整理したり、次なる準備を進めたりします。山小屋といっても、何も全く原始的な生活を強いられる訳じゃありません。団欒用の部屋にはテレビも付いていれば、電源もあります。ただし、電源は貴重です。電子機器に充電だってできます。もちろん、それは各自の節度ある利用にかかっています。私もタブレットの充電に重宝しました。

中を探検しているうちに、気がつくとパーティーの皆さんがいないことに気づきました。あれ、と思って外に出ると、皆さん玄関の外の木のベンチに座りビールを飲み始めていました。私も遅れて参加しました。

今回のパーティー、私は三度目の参加でした。知った人もいますし、初めての人もいます。なので、そうした方々への自己紹介もしながら、ビールを飲みながらの歓談です。私は仕事柄、誰も知り合いのいない集まりに一人で参加することが苦になりません。というか、苦にしていては個人事業も法人も立ちいかないので自分をそう躾けた、という方が正しいかもしれませんが。でも、たとえそうした集まりが苦手な人であっても、山はおススメです。たとえ話題の引き出しが乏しくも、話術が下手でも気にする必要はありません。美しい自然の全てが話題のネタに使えますし、移りゆく自然の一瞬一瞬が雄弁にあなたのかわりに語ってくれるはず。しかも、このパーティー、私にとって仕事上で利害関係のある人は皆無です。なので私も気兼ねなく過ごせます。何よりも素晴らしい景色をともにする一体感。これこそが山の楽しみではないでしょうか。

心地よいビールと自然に酔っているうちに、夕日がその色合いを濃くしていきます。そして至仏山の方角に色を残しながら、夕闇があたりを染めていくのです。時が一刻ごとに尾瀬の景色を違った形で映し出し、それを屋外でビールを飲みながら見つめる。そんなぜいたくな時間の使い方、買ってでも欲しいはず。尾瀬にハマる人は何度も来る、と聞きますが、今日の経験だけでその意味が少しわかった気がします。

暗がりが濃くなる中、食堂に向かい、ご飯を食べます。すでに食堂にはたくさんの人たちが列をなしていました。パーティーごとにまとまって食事できないほどに。むしろここではそんなわがままは不要です。郷に入ればなんとやら、で流儀にしたがいました。私の前後左右で同じパーティーの方派一人。でも、隣の初対面の方と茶碗にご飯をよそいよそられ。こうした一期一会も山小屋の醍醐味だと納得しながら。しかも、山ガールと山男の食欲は限度を知りません。そんな期待を満たすかのようにご飯がおかわりできる喜び。もちろん、これらの食材は歩荷の皆さんの苦労のたまものであることを忘れてはなりません。なので、残すなど論外。なるべく残飯が出ないようにおかわりを際限なくしたいところですが、後ろにも食事を待っている人がいるので、その辺りのマナーへの配慮も必要です。こうした呼吸は何度も山小屋へ泊まるうちに身につくものなのでしょう。

尾瀬小屋には、団欒できる部屋もちゃんと用意されています。火鉢を囲みテーブルを囲み、歓談を。また、別の部屋にはギャラリーのような写真が飾られた部屋もあり、そこでもめいめいが好きなように時間を過ごせるのです。

そして、山小屋の夜は早い。これは、都会の生活に慣れていると全く味わえません。私のような宵っ張りにはなおさら。何しろ21時ごろにはもう消灯なのですから。そしてその分、朝は早い。

皆さんが静まった後、私は尾瀬に関する本をギャラリールームで読みながら、しばし時間を過ごしました。今日の感動を知識で補いたい。宵っ張りには夜は暮れたばかりなのですから。高ぶった心を鎮めるためにもこうした部屋があることはありがたい。

そんなわけで、尾瀬の旅の初日は終わりました。素晴らしかったです。皆様に感謝。


家族で沖縄 2018/3/28


沖縄旅行も三日目。この日、当初の計画では首里城を訪れるつもりでした。ですが、訪問したのは違う場所。私たちが訪れたのは海中道路、浜比嘉島、そして伊計島でした。なぜ急に行き先を変えたのか。それはおとといの夜にパワースポットとしてシルミチューとアマミチューの墓を、そして昨日の夕食会では海中道路を薦められたからです。

薦められて今回訪れた場所はどこも全くの計画外。そもそも情報すらありません。さて、どんな所だろうと思いながら訪れた場所のどこもが素晴らしかった。

高速道路で北上し、途中から一般道へ。市街地を走ってたどり着いたのは海中道路入口。昨日、行きたかったのに行けなかったのは今帰仁城だけではありません。その近くにある古宇利大橋も走りたかったのです。ところが、美ら海水族館で時間を使い切ってしまいました。昨日見られなかった海と道路の織りなす美しい景色を見たいと思い、私は海中道路にやってきました。この海中道路、走っているとそれほどドラマチックな景色には出会えません。なぜなら平坦だから。海中道路の途中にある海の駅あやはし館の二階にあるうるま市立海の文化資料館で知ったのですが、海中道路は住民たちが自らの力で海を埋め立て、作った道路だというから驚きです。その際は米軍のブルドーザーも借りたといいますが、実質の作業は住民によってほとんどが担われたそうです。それだけ平安座島、浜比嘉島、宮城島、伊計島の四島の人々が抱く本土への交通手段への思いが強かったに違いありません。そうした人力で作り上げられた道路だから、高低差がなく、橋の風景がよく見える場所はあまり見当たりません。海の駅あやはし館にも展望台はありますが、そこでも全貌はよく見えませんでした。海中道路を通り過ぎ、いよいよ島へ乗り込んだ私たち。すぐに浜比嘉大橋を渡ります。渡った先は浜比嘉島。何の変哲もない島に見えます。ですが、この島は沖縄の神々が最初に住み着いたところなのです。

おとといに訪れた知念岬の近くの斎場御嶽は琉球で最も聖なる地。斎場御嶽から海の向こうに浮かで見える久高島は、琉球に神々がやってきた地と伝えられています。今に伝わる琉球開闢にまつわる神話。その神話に登場する神々の墓がこの浜比嘉島に残っているのだとか。アマミチューの墓は海辺沿いにある周囲20~30メートルほどの小島に鎮座しているというので、車を停めて訪れてみました。小島との距離は数メートル。なのでコンクリートの小道でつながっています。お墓はなんの飾りも装いもなく、島の中に慎ましやかにありました。コンクリートの歩道の手前に「アマミチューの墓」の看板がなければ、墓であることすら気づかないかも。でも、お墓とはそもそもこうした素朴なものなのかもしれません。ただ、この小島、あまりにも観光地化されていません。以前の台風で打ち上げられたと思われるゴミが撤去されずにたまっています。そこがちょっと残念といえば残念でした。でも、お墓の前に広がる浜辺から見た浜比嘉大橋と根本が波にえぐられた岩のコントラストは美しく、墓とあわせて一見の価値はあります。

私はその後、その周辺の集落を歩き回ってみました。この辺りには沖縄本土を席巻する都市化やアメリカ型の暮らしは及んでいないようです。沖縄に特有の屋根の低い家。そして石組みの塀とそれに挟まれ入り組んだ狭い道路。それらは素朴な風情を残していました。私はそうした光景をじっくりと目に焼きつけ、街並みを歩きました。

ついで車で向かったのはシルミチューの墓。そこは神社のような鳥居があり、そこを潜ると緩やかな階段が参拝者を上へと導きます。その様はまさに本土の神社そのもの。その上を目指して進んでいくと岩屋があります。そこがシルミチューの墓です。柵があって岩屋の奥の洞には入れませんが、上から枝垂れた植物の枝が岩屋と洞を彩り、一層厳かな雰囲気を漂わせています。神秘的な場。ここは娘たちにとってはあまり興味のない場所だったかもしれません。ですが、琉球の文化を語る上では欠かせない場所。私はここに来て良かったと思います。教えてくださった方に感謝です。せっかくなのでその近くの岩場をゆっくりと家族で散策。岩場と砂地が複雑に入り組んだ地形に海水が浸透し、干潟を作り上げています。いろいろな魚や貝も見ました。ここで私たちは、イカの骨と思われる謎の平たい物体を見つけ、大切に持ち帰ります。

さて、浜比嘉島を去る時がきました。この後の行動は全くのノープラン。島々の奥の方にビーチがあると聞いており、そこで時間を過ごそう、とだけ決めていました。平安座島、宮城島の向こう、伊計島へとビーチを求め、車を走らせます。

途中、大規模な石油タンク群が見えます。行きの飛行機からも見えた景色です。ボタンが多数並んだような沖縄にそぐわない光景。その横を車で走りながら、これもまた沖縄の一つの現実だと思いつつ車を走らせます。実はこの日の早朝、私は一人でゆいレールの県庁前駅を訪れました。趣味の駅巡りの一環として。沖縄の行政の中心であり、にぎわいの象徴でもある国際通りを擁する中心。ところがモノレールに沿って下を流れる久茂地川の色はどんよりと濁り、川からはドブのにおいが濃厚に漂ってきます。沖縄でありながら、那覇はすでに都会の汚濁をこれでもかと身にまとっています。そんな沖縄の別の現実を突きつけられた朝。ところが石油タンク群を過ぎ、さらに道を進むと、沖縄ののどかな風景に出会えます。

時々見かけるビーチの看板に導かれながら、私たちがたどり着いたのは大泊ビーチ。その手前にも、別のビーチがありましたが、私の勘が一番奥にあるビーチへと進ませるのです。大泊ビーチは有料でした。でも、勘に従って良かった。有料だけあって、ここはとても素晴らしいビーチでした。入り口からして、離島の風情がみなぎっています。音楽がのんびり流れる小屋と、のどかに寝そべる猫が私たちをお出迎え。そこから浜辺へ下る小道を進むと、そこは誰もいないビーチ。完全に貸し切り。広大なビーチが私たちの思うままに使えます。もう、ただただ感動。妻と娘たちはここで、浜辺に落ちているガラスや貝をひたすら拾い集めます。その種類の豊富さだけでも見飽きません。普通に店で売られていてもおかしくないカラフルで小粒な貝が浜辺に散らばり、陽光にきらめいています。これぞ沖縄。一昨日、昨日とビーチには訪れましたし、そのどこもが本土では出会えない美しさです。ですが、大泊ビーチはその中でも一番でした。

今回、泳ぐための道具は持ってこなかったので、海には入りませんでした。ですが、沖まで行こうと思えば行けます。かなたには沖縄本島も見えます。ここではいっとき、文明から切り離されず、それでいて文明を忘れられます。

しばらくすると他の人々もやって来ましたが、それでも広大なビーチには多くても十人がいるだけ。私たちがほぼ独占する状態に変わりありません。望んでも望めないぜいたくな空間と時間。一人500円の値段も惜しみないと思えるほどの。波打ち際で遊び、ベンチに座り、ぼーっと海を見る。それはまさに南国のリゾートの過ごし方。ここ10年近く、家族を南国やハワイに連れてきていません。今回の旅が、妻にとってハワイのかわりになれば。少なくとも大泊ビーチはホノルルのビーチよりもダントツで美しく、圧倒的にきれい。それほど、ここの海は美しかった。2、3時間このビーチで過ごしたでしょうか、そろそろ行かねばなりません。

帰るにあたり、伊計島をぐるっと回って見ました。まず、伊計島灯台。ビーチからも見えていた灯台にはぜひ行って見たいと思っていました。離島に立つ灯台。人が常駐せず、無人でただ海を見守る存在。それはまさに最果ての旅情そのもの。私はその前でしばしたたずみ、旅の空を見上げました。この辺り、見渡す限りの畑が広がり、それも旅情を一層促します。何の作物が育っているのかはわかりませんが、私の好きな景色です。

海中道路へ戻る途中、ぬちまーす塩の工場に寄ります。ですが、中には入りませんでした。ぬちまーす塩は妻が愛用しています。が、すでに国際通りで買い込んでいました。なので工場には寄らなくて良いと妻が言うので次の場所へと向かいます。そこはキングタコスのお店。おとといの夜、国際通りで出会った妻の患者さんから教えてもらったお店です。私たちが訪れたのはまさに街の食堂と呼ぶに相応しい店でした。そして、出されたキングタコスの武骨な感じと言ったら。それはまさに庶民の味。私は特においしいおいしいと食べました。娘たちにはちょっと量が多く、しかも味が単調だったようでしたが。こういうお店を訪れるのも旅の楽しみです。

刻々と、飛行機の時間が迫りつつあります。まだ沖縄にとどまっていたい。満喫したい。焦りにも似た思いを抱きながら、私は車を駆ります。そんな私の目に映ったのは勝連城跡の標識。ここに寄ってみようじゃないか、と妻を誘います。なぜなら昨日、今帰仁城に寄れなかったから。今回の旅でまだ達成できていない事があるとすれば、それは城の訪問。

そう思って訪れた勝連城でしたが、これがまた素晴らしかった。麓から見上げる城の様子は、勇壮さと威容を兼ね備えています。城の権威がここまで体現された城は本土でもそうは見られません。しかも勝連城には天守がありません。石垣の遺構だけでこれほどの印象を受けるとは思いませんでした。私にとって勝連城の第一印象とは、本土で出会ったどの城より強烈でした。

麓の駐車場に車を停め、娘たちは城に興味がないと言うので私と妻の二人で城を登ります。登って行くと、次々と曲輪が現れます。それらは本土の城と遜色がなく、むしろ勝連城が十五世紀に建てられたことを考えると、本土よりも進んでいると言えましょう。各曲輪は広々としていて、四の曲輪ではなぜか、コスチュームに身を包んだ五人の戦隊が、何やら収録らしきものをしています。近くに寄らなかったので推測ですが、五人の正体はうるま市の観光の戦隊モノ、闘牛戦士ワイドー!だと思われます。私たちはそれを上から見つつ、標高を刻むにつれ変わりゆく城の姿を楽しみました。勝連城は阿摩和利が反乱を起こした際、立て籠った地だと伝わっています。それは十五世紀。日本の戦国時代よりさらに前に、大きな嵐が琉球で起こりました。その嵐は尚氏による琉球の統一を確かにしました。琉球の歴史において、欠かせない舞台になったのがここ勝連城。それだけの重みと、時の流れが石組みの一つ一つにしみこんでいるように思えます。それを感じながら、天守台からの景色を堪能します。ここからの景色がまた素晴らしい。走っているときには感じられなかった海中道路の全体が一望のもとに見えます。南に目を転ずれば、おととい訪れた知念岬が。全てがきらめき、海の恵みの広がりが感じられる。それが勝連城。阿摩和利がここに城を立てた必然が実感できます。

この勝連城、私が今までに訪れた城の中でも鮮烈な印象を残しました。あまりにも。その印象をより確かなものにしたい。まだまだ長い時間ここにいて琉球の風を感じていたい。南国の陽の光を浴びていたい。しかし、そろそろ飛行機の時間を意識しなくてはなりません。城の資料館で勝連城の歴史をざっと見て、琉球の歴史の本を買い、国際通りへと車を飛ばします。国際通りでは、娘たちと家族で最後のお土産を買い回りました。例えば妻はサメの歯でできたアクセサリーを買います。娘たちもお土産を買います。私は、国際通りの近くにある市場本通り、市場中央通り、むつみ橋商店街を冷やかし、那覇の騒がしさとエネルギーを耳になじませます。

いよいよ、車でレンタカーを返しに行きます。今回、この車にはとてもお世話になりました。沖縄観光はレンタカーが一番ですね。レンタカーを返し、来た時と同じ送迎バスで空港へ。空港では、名残を惜しむようにお土産を買い、そして機上の人に。羽田に着いたのは深夜。でも充実した三日間が過ごせました。お世話になった方々に感謝です。


家族で沖縄 2018/3/27


今回、グレイスリーホテル那覇に泊まったのは、妻がここの朝食をおいしいと評価したからです。私が泊まった昨年も素晴らしい朝食をいただきました。娘たちにも朝食は好評でした。そして始動。

この日の目的地は二つ。美ら海水族館と、今帰仁城です。沖縄本島の北部。なので朝食も早々に車を出します。車で高速のインターまで向かい、そこから北に進路を定めます。そして許田インターチェンジで高速を降ります。名護は私が23年前に大学の合宿に来た際、はじめに泊まった地。その時の記憶では人の少ないのどかな場所という印象が強いですが、その頃とはもう全く違っています。そもそも記憶がほとんどなく、どのホテルに泊まったかすら覚えていません。車は名護の市街地を通り過ぎ、本部の方へ向かいます。私にとっては未知の地。そのあたりから海沿いを走ると、海の輝きが否が応でも目に入ってきます。その色の鮮やかさ。あまりの美しさに我慢できず、途中にあった崎本部緑地公園というところに寄りました。そこに広がる砂浜とエメラルドグリーンの海。みんな大はしゃぎ。感嘆の声しかでません。本土にいては知らなかったはずのこのような通りすがりの場所でも美しい海が見られる。それが沖縄の沖縄たるゆえん。ここはゴジラ岩と称されるゴジラに似た岩があり、岩のゴツさが目立ちます。が、美しい海と砂はゴジラに負けずきらめいています。目いっぱい写真を撮りまくりました。

もうここですでに景色の美しさに目がくらみそう。眼福を通り越し、心が洗われます。それほどの美しさでした。ですが、私たちが向かうべきは美ら海水族館。さらに車を走らせます。美ら海水族館は私にとって初めての場所。広い駐車場に停め、ゲートへと歩きます。かつての海洋博覧会の跡地を利用した広大な敷地。期待に心も弾みます。

水族館が好きな私にとって美ら海水族館は1つの憧れ。ようやくそれが今叶おうとしています。言うだけあって水槽が大きく魚の種類も多彩。中でも熱帯魚の美しさは目を奪います。巨大水槽は広く、中で回遊する魚たちにも気のせいか余裕が感じられます。

黒潮の深みのある豊かさ、サンゴに群がる色鮮やかな芳醇さ。小さな水槽には本土の水族館ではあまり見ない魚が姿を覗かせています。タッチプールや上から見下ろせる水槽、そしてさまざまなサメの歯型など、サメの生態を紹介するコーナー。盛りだくさんです。

美ら海水族館の売りは、本館だけでなく屋外の施設が豊富である事です。オキちゃん劇場と名付けられたイルカショーのプールは広大で、かつダイナミック。ここはすぐ背後に美しい海が控えており、視覚的にもイルカが映えます。海の向こうには伊江島が横たわり、伊江島をバックにイルカが飛び跳ねる様はまさにフォトジェニック。オキちゃん劇場の近くにはイルカラグーンという浅めのプールもあります。そしてイルカプールの近くにはウミガメのためのプールや砂浜が設えられたウミガメ館が。そこでは間近でウミガメの歩みも泳ぎも見られます。また、マナティー館というマナティのための施設もあり、そこでは巨大なマナティが人魚よろしく肢体をあらわにして泳いでいます。これらはどれも水族館が好きな人にはたまらない場所でしょう。

美ら海水族館は、確かに素晴らしい。何が素晴らしいって、外の設備の広さやその開放感。それこそが美ら海水族館の素晴らしさに違いない。私たちは飽きることなく水族館の中や外の施設、売店をぐるぐる歩きまわりました。

そしてこの水族館、目の前にビーチが広がっています。マナティ館のすぐ脇からビーチに降りられます。これだけでも日本の本州の水族館では味わえないぜいたくさです。こうした場所は観光客の多さにビーチも薄汚れているのが常態のはず。ところがこのビーチ、驚くばかりに美しい。ここでしばらく体を、心を、足を洗います。ここだけでも美ら海水族館の優れた点が感じられます。十分満足しきった私たち。歩き疲れたので水族館の建物の屋上デッキにあるお店で私はノンアルコールビールを、そして娘たちはアイスを食べます。

続いて私たちが向かったのは、エメラルドビーチ。ここは広く大きな突端があり、やしの木が伊江島をバックに育っています。この広いエメラルドビーチ、まさにビーチという名にふさわしい。これが水族館のすぐ横にあると言うことが信じられぐらい。私と長女はそこでヤドカリを探し、それと遊んでいました。

エメラルドビーチでのんびりと海を見ながら、私たちは2時間近く過ごしたでしょうか。こうした余裕のある時間こそ、沖縄に来た真価だと思います。今回、当初は今帰仁城に行く予定でした。それは妻の希望でした。私も同感。ところが、エメラルドビーチの豪華さとぜいたくさは、今帰仁城へ行く時間を奪ってしまいました。

そろそろ私たちは美ら海水族館を後にしなければなりません。次に行くべき場所があったからです。それは友人との再会。昨年、私が独りで沖縄を旅した際、那覇空港で再会した友人。その時が16、7年ぶりの再会でした。今回はその友人の家族とうちの家族が一緒になって食事をする。そのような提案をいただきました。その場所は美浜アメリカンビレッジ。どのくらいかかるのか全く見当がつきません。なので、エメラルドビーチから本館へと戻り、最後に少しお土産屋を観てから帰ります。そして車へ。帰り、名護市街までは順調でした。ところが許田インターの手前で渋滞にはまり、しかも、降りた沖縄南インターでも渋滞に巻き込まれます。結局友人の家族に会えたのは約束の時間から45分ほど後。本当に申し訳ない。

ご主人には昨年会いましたが、奥さまにお会いするのは17,8年ぶり。お互いその当時は子供がいません。ですが、今はお互いが大きな子供を連れています。時の流れるのは早い。でも、その間もずっと年賀状のやりとりは続けていました。ですから、茨城に住んでいた家族がいきなり沖縄に移住したと聞いた時は驚きました。まさに行動力の権化。私などとても及ばない行動力です。今回、主に話をしたのは沖縄で住むことについてです。このご主人は「幸福度No.1☆「沖縄移住」でワクワク楽園生活」という本を出し、Amazonでランキング一位に輝いています。(https://okinawa-move.jp)。昨年、那覇空港でお会いした際には本を出すことの大変さとその効果についていろいろと教えていただきました。私にとって見習う点をたくさんお持ちの方です。

久々の再会、楽しい時間はあっという間に終わり。その家族は先にお店を去ります。私たちはアメリカンサイズの料理を一生懸命平らげます。そしていざ会計に行ったところ私は驚きます。なんと、先にうちの分のお勘定を済ませていただいているではないですか。本当に申し訳ない。遅れてきたのに。そしてありがたい。こうした友人によって、私は今まで何度助けられてきたことか。どうにかして将来の恩返しにしたいものです。

さて、私たちはせっかくなので美浜アメリカンビレッジを散策します。沖縄といえば米軍が持ち込んだアメリカンな文化が町のあちこちに根付いています。この近く、沖縄市は昔はコザ市といい、沖縄住民の騒動でもよく知られる町です。美浜アメリカンビレッジはそのアメリカンな感じを残したまま観光地として昇華し、賑わっています。本土では味わえない興味深いお店が軒を連ねていて、娘たちもまた来たいと申しております。私ももう一度、今度は昼間に来てみたいと思いました。

さて、美浜アメリカンビレッジを出た私たちはホテルへと戻ります。今日は満足し切っています。なので、居酒屋には行かずに寝ます。いや、飲まない、という選択肢はありません。なので、ローソンで買ったビールそして泡盛で一日を締めます。とても楽しい一日でした。


家族で沖縄 2018/3/26


思い切って家族で沖縄へ、と妻が企画したのが今回の旅。その前触れには、二月に修学旅行で沖縄に行った長女の意向があります。その中で長女はアブチラガマに行き、ボランティアのガイドさんの話にとても感銘を受けたのだとか。そのガイドさんの名前は忘れたけど、お礼が言いたい、という長女の想いを実現させることが今回の目的です。

4月からは娘たちが二人とも受験生に。旅行にはそうそう行けなくなる。それを見越しての今回の旅です。これが家族四人の最後の旅になるかもしれない、との思いで。

Am6:30に羽田を発つSkymark511便に乗るため羽田へ。私は昨年の沖縄ひとり旅の時と同じく、パソコンを持参して来たので、搭乗口の近くでしばし作業。そして睡眠。まだ寒さを感じる羽田の早朝から、9:30に那覇空港へ。とたんに陽気が体を包みます。一気に旅気分。ここは沖縄。家族でそろって飛行機に乗って出かけるのは1年半ぶり。皆が高揚します。那覇に着いたらすぐにレンタカーの送迎バスに乗りました。昨年の一人旅ではレンタカーの手違いで時間を無駄にしました。その時と同じ轍は踏みますまい。

さて、レンタカーを借りたわれわれは一路、アブチラガマへと向かいました。道中、沖縄の空気や雰囲気を存分に味わいながら街を流します。次女はすでに興奮しています。無理もありません。次女がリゾート地に来るのはずいぶん昔にフラの大会に出るためハワイを訪れて以来ですから。道沿いのあらゆるお店に突っ込みと笑いと解説を交えています。こういう時、家族を連れてきて良かったと思います。

車はカーナビに従いアブチラガマへ。ところが事前に予約しておいたアブチラガマの見学時間は午後。なのでカーナビの目的地を変更。知念岬に狙いを定めます。知念岬。そこは昨年、私がひとり訪れた地。近くの斎場御嶽ではいたく感動し、琉球で最も聖なる地の厳粛さが今もまだ息づいていることを全身で受けました。そこは私に命を吹き込んでくれました。

今回、旅の開始を知念岬にしたのは良かった。まず最初に沖縄の海の美しさを家族に見せられたから。折りしもパラグライダーがすぐ上空を飛び回っており、海はどこまでもきらめいて青。海の向こうに久高島が横たわり、凪いだ海は平和そのもの。 昨年、私が訪れた際は台風の翌日でした。そのため空も海も台風がかき回した痕跡を荒々しく残していました。今年は波打ち際まで独り向かい、海の透き通る美しさをじっくりと味わいました。その間、娘たちと妻も知念岬の公園でのんびり。海と空の広がりを全身で感じてくれたはず。

知念岬公園を堪能した後は道の駅に寄りました。まだ沖縄で何も食べておらず、最初の沖縄料理はここでおいしい沖縄そばやロコモコ。ちょうど糖質オフダイエットをしている最中でしたが、沖縄そばとあれば食べないというのが無理です。沖縄の海を見ながらとてもおいしい食事のひとときを過ごしました。本来ならば近くの斎場御嶽にも連れて行ってやりたかったのですが、アブチラガマの時間が迫ってきたため次の場所へと移ります。

娘が修学旅行で訪れたアブチラガマ。そこは沖縄戦で起こった悲劇を今に伝える場の一つ。沖縄戦では多くの兵や住民、そして動員学徒が米軍に追い詰められました。その場所が今もなお、残されています。それもリアルなかたちで。その地の底には光は届かず、生と死のはざまが闇に凝縮されています。押し込められた深い苦しみ。それを発散することもできない漆黒。そんな闇の中で兵隊や看護学生が閉じこもり、出口の見えない絶望を味わっていました。今回、私たちをご案内してくださったガイドの方は石嶺さんといいます。長女が修学旅行で教わったガイドさんとは別の方だったようですが、とても精力的かつ情熱的な語りをされる方で、私たちはその語りから地の底に何があり、地上の歴史からどう隔絶されているのかを学びました。

アブチラガマ。その入り口は観光地にありがちなこと様相とは程遠い。もちろん、チケットの売り場らしき小屋はありますが、壕の入り口自体は何の飾りもありません。

入るとすぐ中は真っ暗です。懐中電灯がないと何も見えません。漆黒の闇。壕の外がどうなっているのか何もわかりません。わずかな湧水、それも岩から浸み出すようなわずかな水だけが全て。この湧水を頼りに人々は生きながらえました。石嶺さんは私たちにこの真っ暗な中の絶望と孤独、そして生きていることの大切さを一生懸命語ってくれます。生きるという営みの実感。今の子供たちが希薄にしか持たず、分かろうにも分かり得ない感覚。

これからどうやって生きていけばいいのか。娘たちが受験を控えた今、漠然と生についての不安を感じていることでしょう。そんな中、石嶺さんの話から何かを感じ取ってくれたのであればうれしい。

アブチラガマの中を歩きつつ、その中で石嶺さんが教えてくれたこと。それは生の厳しさ、死の近さだけではありません。孤独という状態 。それが石嶺さんが何よりも実感させたかったことだと思います。それは周りに誰がいようと生きるのは自分1人である事実。真の孤独は今のSNSや情報に囲まれた社会では味わえません。生と死の境目が曖昧でありながら、誰も頼るもののない孤独。壕に閉じこもった誰もが自分のことで手一杯で、人に頼れない心細さ。アブチラガマの絶対的な闇は、私たちに生の実感を教えてくれます。

アブチラガマを出る前、石嶺さんは私たちをある場所に導きました。そこは出口にほど近い場所。暗闇なのは相変わらずですが、わずかな光が洞窟内にこぼれ出ています。それは外の光です。そしてその光がわずかに洞窟内の一点だけを照らしているのです。それを見た時、壕内の人々の喜びはいかばかりかものだったか。想像ができます。一寸先も見えない中では、その光は希望そのものだったはず。絶望から希望への転換を石嶺さんは熱く語ります。

普段は陽気で快活な次女も、アブチラガマの中では無言でした。彼女なりにその荘厳かつ厳粛な空気を感じていたのでしょうか。二回目の長女はもちろん。彼女たちなりにいろいろな思いを噛み締めてくれたことでしょう。私にとってもここは初めて。平和祈念資料館やひめゆりの塔にもジオラマや保存された壕はありましたが、それらは明かりに照らされ、時の流れにさらされ続けています。ですが、アブチラガマの闇は当時の闇を引きずっていました。だからこそ壕内に響く石嶺さんの話はとてもよく胸に染み入りましたし、私たちにはとても教えられない平和を愛する心命と、そのかけがえのなさを娘たちに伝えてやれたと思います。石嶺さんありがとうございました。

アブチラガマから外に出た時、陽光が私たちの目を射ます。死の闇から生の光へ。そのコントラストこそ、生の実感に他ならないのです。アブチラガマの真上は、通ってもそれと気づかない道路と畑です。そこに咲いていたハイビスカスがとても印象に残りました。

続いて、私たちが向かったのは、ひめゆりの塔です。昨年も私1人で訪れました。が、今回も外すわけにはいきません。こんにちは沖縄の平和学習の一環で娘たちを連れて行こうと思いました。ところが、肝心の次女が車内で寝てしまいました。だからひめゆりの塔へ伺ったのは私と妻と長女だけ。去年、私は一人で訪れじっくりと見ました。なので私自身にとっての新たな発見はありません。ですが、今回はレクイエムホールに備え付けられた体験談のかなりに目を通しました。ここは何度訪れても厳粛な気持ちになってしまいます。前回は私1人でしたが、今回は娘と一緒なので、娘がどう考えているのか、平和の大切さを教えられます。

そしてひめゆりの塔の前にある優美堂でサーターアンダギーをおいしくほおばります。沖縄の料理と食事の豊かさと、そこに込められた平和の大切さを噛み締めながら、ひめゆりの塔を後にしました。もう一カ所、平和祈念公園にも行きたかったのですが、今回は寄る時間がありません。昨年は、私1人が訪れましたが、ここも見せたかった。特に、放映される米兵が撮影した動画は強い印象を残しています。海に浮かぶ幼児の死体。それが波に漂いつつ、当てどなく永久に口を閉ざしうつろな顔をさらしている。それはまさに衝撃でした。他にも無残な集団自決の遺体が動画で映し出されます。そうしたショッキングな動画は、私たちが享受する平和の価値を雄弁に語ります。そして、今の生の大切さも。

私たちは平和の大切さの余韻を感じつつ、那覇へと向かいます。今回、私たちが泊まるのは、ホテルグレイスリー那覇。妻が昨年、泊まって良かったと言い、私も一人で泊まりました。そこは沖縄の国際通りのまさにど真ん中。とても良いロケーション。そこにチェックインした私たちは早速、国際通りへと繰り出します。

あるいは娘たちにとって、沖縄とは陰惨な戦場の過去より、国際通りのエキゾチックな異国情緒の今こそが大事なのかもしれません。それもいいでしょう。あれこれ言うつもりはありません。そう言う私も泡盛の名店には舌なめずりなのですから。

私たちが今回訪れたのは、妻が家族と行きたいと言っていた居酒屋です。ところが場所と名前を忘れたらしく、私たちが入ったのは「波照間」と言うお店でした。ここで後ほどの時間を予約し、続けて国際通りを散策します。去年は大雨の中を歩き回ったので、泡盛のお店を訪れるだけで精一杯でした。今回は国際通りの賑わいと広がりを感じながら歩き回りました。家族で訪れる観光。これはこれで悪くありません。

さて波照間に戻ってきました。この波照間は沖縄民謡のライブがあります。実はここは妻の意中の店ではなかったようですが、私たちは焼酎や泡盛そして沖縄の名物に舌鼓を打ちながら、最後に沖縄民謡のサービスを楽しみました。琉球衣装に身を包んだ男性1人と女性2人による3人のショウ。とても風情があります。特に男性の方の顔は、私の知る大学の後輩にそっくり。女性も琉球風に結った髪が沖縄情緒を体現しており、とても美しかった。(ところがこの翌々日、お店に入ろうとするお二人の姿を国際通りで見かけました。完全に洋装でした。)

さて、食事を堪能した私たちは、さらに国際通りをのんびりと歩き回ります。妻や娘たちは沖縄の産物を。私はもっぱら泡盛巡り。そして存分に国際通りを堪能した後、私たちは宿へと戻りました。しばらく宿の中で旅の疲れを癒やした後、私と妻とで再び街へと出ます。ボートレースアンテナショップ 沖縄・国際通り Double Deckerというお店でお会いしたのは妻のココデンタルクリニックの患者さん。沖縄から町田へと通ってきてくれているありがたい方。そこでしばらく軽いお酒を飲みながらおしゃべり。ついで、私たちは夫婦で「ぱいかじ」へ向かいます。ここも妻が行きたがっていた場所です。「ぱいかじ」でもライブが行われているようですが今回はライブはやっていませんでした。でも、料理はおいしく、酒もうまい。何杯も泡盛をいただきました。こうやって夫婦で沖縄でお酒が飲める幸せをかみしめつつ。

それはとても幸せなひとときでした。すべてのことに感謝。


札幌・由仁の旅 2017/10/20


早朝から起きて前夜の仕事の続きを。こうやって旅先でも仕事ができることに感謝。昨日の旅日記の中で、9月末で常駐から解き放たれた、と書きました。ただし、常駐から解き放たれても仕事からは解放されません。むしろ旅をしながら仕事をするためには工夫がいります。それは私にとって望むところ。旅ができるのであれば旅先で仕事をすることもなんら苦にはなりません。喜んで旅先での仕事を片付けます。

さて、今日は妻の学びの日。私も久々の北海道の一人旅を満喫する日。ただ、その前に一つだけ用事がありました。それはメダイ探し。メダイとは聖母マリアが彫られたメダルのこと。私も妻もクリスチャンではありませんが、一、二回ほど夫婦で教会のミサに行ったことがあります。そして妻は方々でメダイを買います。それを首に掛けていると、メダイが妻を守ってくれるのだそうです。妻の身に何かが起こりそうになると、不思議なことにメダイがなくなるのです。身代わりのように。この旅の前にもなくしたばかり。そこで新たなメダイを買うため、教会を探すことから今日の行動は始まります。

実は前日の余市でも教会を探しました。ところが見つけられませんでした。そこで前の晩、ススキノから歩いて帰る時、教会の場所を調べて立ち寄りました。それはホテルの近くにある「北海道クリスチャンセンター」。そのため、私は2日目の車をクリスチャンセンターの近くにあるタイムズカーシェアリングで予約しました。2日目の相棒もソリオ君です。ところがホテルをチェックアウトし、「北海道クリスチャンセンター」に向かったのですが、そこには妻の求めるメダイがありません。他に売っている場所がないか尋ねたところ、紹介されたのが「カトリック北11条教会」。さすがは札幌。クリスチャンも教会が多い。妻はここで無事にメダイを入手。あとは妻を学会会場の近くまで送るのみ。メダイを得たことで旅の無事は約束されたも同然。

今年の第76回矯正歯科学会はさっぽろ芸文館、ロイトン札幌、札幌市教育文化会館の3カ所で行われています。その近くで妻を下ろします。そして私は南へと向かいます。とその時、私のFacebookのメッセンジャーに着信が来ました。実は昨夜、余市と小樽の写真をFacebookにアップしたのです。それにコメントをもらったのです。「北海道いますよ〜」と。それは仕事を介して知り合った横浜の方からのコメントでした。「どこかのCaféで偶然会うかもですね~♪」とコメントを返した私。するとそれを受けてメッセンジャーで「会いませんか?」。これにはシビれました。こういうご縁が生まれるからSNSは侮れません。この頃すでに私はFacebookへの依存度を少しずつ減らそうと考えていました。だからなおさらこのメッセージが刺さりました。このご縁をいかさない手はない。ただ、お会いするタイミングをどうするか考えねば。なにしろメッセンジャーを受け取った時、私はすでに札幌市街を抜け、真駒内公園を過ぎようとしていましたので。そこで夜に会えないでしょうか?とメッセージを返したところ、OKのご返事が。ちょうど妻とは夜に札幌で落ち合い、ご飯を食べてから千歳に向かおうと約束していました。なので、夜に急遽札幌での飲み会が決まりました。

段取りが決まったことで、私はさらに南へと向かいます。私が向かう先はアシリベツの滝。日本の滝百選の一つです。私は生涯の目標の一つに百選の滝の全制覇を掲げています。札幌の近くにある百選の滝といえばこのアシリベツの滝ぐらい。白老にあるインクラの滝も検討しましたが時間がなさそう。なのでアシリベツの滝を訪れ、その後、夕張に向かう。それが私の計画でした。

そんなふうにアシリベツの滝に向かった私ですが、そこは名うての観光地、北海道。やすやすとは私を滝に近づかせません。運転している私の前に現れたのは謎のモアイ像。「な、なんや、、、あれ?」。度肝を抜かれつつ、いったんはその場を通り過ぎた私。しかし、強烈な印象が脳内でフラッシュバックします。そして、私を強い力で引き止めます。こんなネタをやり過ごしてええんか?という潜在意識からの声。かつて、いや、今もモアイと呼ばれる私がモアイ像を見過ごしていいのか。自分の分身を無視して先に進むことなかれ、と私の中のモアイが何かを告げます。

そこでブレーキを掛けた私。引き返して真駒内滝野霊園という大きな門の前にある広大なスペースに車を停めます。門の中にも車を乗り入れられたのですが、いったん中に入ると最後、二度と戻れないのではという根拠のない予感が私にそれ以上の行動をさせません。不気味なこと極まりないモアイの立像。門の向こうに車を走らせると、必然的に入場者を見定めるように居並ぶモアイの前を通り過ぎなければなりません。待ち構えるモアイの群れ。怖い。

私は今まで何も知らずに生きていました。ところがすでにモアイ軍は札幌に侵攻していたのです。ここは何? なんかの宗教? あまりにも意図が見えず、戸惑う私。門前に車を停めたことすら、とんでもない間違いだったのではないか。私を第二の人生に導く門を、今くぐってしまったのではないか。おもむろに奥から謎の老人がやってきて、「お久しぶりです、マスター」と私を呼びやしないか。

事態がそのように進んでいたら、私が今、この文章を打つことはなかったでしょう。モアイ軍に担がれたみこしに乗ってイースター島に凱旋していたかも。そう考えると、モアイの軍勢を写真に撮っただけでそれ以上は深入りしなかったことは賢明な判断と言えます。

その日の夜にFacebookの書き込みに対し、札幌の方からコメントしてもらった情報によると、この地は札幌では良く知られたスポットであるらしい。ここを訪れてから10カ月近くたち、ようやく真駒内滝野霊園のことを調べてみました。うん、ますますわからない。安藤忠雄氏の設計による頭大仏?モアイ像?ストーンヘンジ?うーん、これは再度訪れてみなければ。不気味さのあまり、モアイ像の写真を撮るだけで逃げてしまったことが悔やまれます。賢明な判断どころか、臆病な自分に喝!

モアイ像の呪縛から逃れた私が向かったのは滝野すずらん丘陵公園。広大な駐車場に車を停め、早速滝を目指します。この公園、とにかく広い。かなり整備された公園との印象を受けます。整然とした敷地の中に紅葉した木々がぽつぽつと立っています。吊り橋とのコントラストがとても美しい。いわゆるフォトジェニックな風景がそこら中にあります。そして私に撮られるのを待っています。アシリベツの滝を見たいとの焦る気持ちもありますが、ついつい周りを見渡しながらの移動します。歩くこと十分ほどでアシリベツの滝に到着。これで私にとって24カ所目の日本の滝百選です。緞帳のような広大な崖から左右に別れた水流が、手前の朱塗りの橋の下をくぐって川となり、流れていきます。音も水量も控えめ。すでに盛りの夏を過ぎた今、最盛期には遠いのでしょう。ですが、それをおいてもやはりよい滝姿。平日のためか、公園の中ではほとんど人を見かけませんでした。ですが、アシリベツの滝では滝愛好家と思われる男性が一心不乱に滝の写真を撮っていました。私も同じく、滝の前で長い時間を過ごしました。ですが、いつまでもいるわけにはいきません。

さきほど歩いてきた道を戻ります。この公園にはあと三カ所の滝があるらしく、せっかくなので滝をめぐろうと思いながら。次に向かったのは白帆の滝。この公園は滝野と名付けられているとおり、もともと滝が集まっていた場所を公園として開発したようです。白帆の滝は小ぶりで水量も控えめでしたが、人影の絶えた滝の前で存分に滝を眺めることができました。

続いては鱒見の滝へ。道中、左側にお堂があり、立ち寄ってみました。このお堂の前には弘法大師の立像が辺りを睥睨しています。その横には牛に乗る大黒様の像が。なにやらご利益をいただけそうな感じ。私もしっかりお参りしてきました。北海道の旅が今後の私に糧となるように、と。あとで調べたところでは、このお堂は北海道八十八箇所の第七十番札所 輝光山 弘法寺奥之院というそう。鱒見の滝道場と看板が掲げられていましたが、修行者も訪れるのでしょうか。

鱒見の滝はそこからすぐのところにありました。アシリベツの滝は少し滝つぼから観瀑台まで離れていましたが、こちらは滝の間近まで寄れます。なによりも、この女性的な滝姿。一枚岩が丸みを帯び、水流もなだらか。これは私が観てきた滝の中でも優美な姿は一番かもしれません。ここでも時間の過ぎるのを忘れて見入っていました。

とはいえ、時間には限りがあります。すでに三つの滝でかなりの時間を費やしてしまいました。滝野すずらん丘陵公園はかなりの敷地の広さを持っており、滝の移動だけで数キロは歩きます。滝野すずらん丘陵公園の地図をみると、私が訪れた範囲などほんの一部。多分、公園全体の1/6にも満たないはず。また機会があればここには来たいと思います。一つだけ行けなかった滝もあったし。

さて、次に向かうのは夕張。ところがすでに時刻は3時に近い。なので、行けるだけ行ってみようと車を走らせます。夕張は一回目の北海道一周で訪れたきり。その時も寂れた雰囲気と、私と連れに起こったアクシデントで印象に残っています。そして今や、夕張と言えば全国でも最悪の財政赤字の街。JRの夕張線も廃止が決まっているとか。それまでの間に再訪を果たしたい。

そんな思いで車を走らせます。ところが慣れないため、カーナビに頼ったのが間違い。遠回りを強いられてしまいます。後で地図を見たところ、上野幌まで札幌市街にもどり、そこから国道274号線に乗って北広島に向かってました。時間のロス。長沼町を抜けて由仁に向かう道中、これぞ北海道といわんばかりの見事な地平線を堪能しつつ、私は急ぎます。ですが、どう考えても夕張まで行ってる時間はなさそう。なので由仁で断念。由仁駅を訪問し、駅と周囲を散策することにしました。駅鉄です。

今回、どこか一つは北海道の過疎駅を訪れたいと思っていました。1度目の旅では網走や原生花園駅を。2度目の一人での一周旅行では函館、森、帯広、釧路の駅前で寝袋にくるまり、稚内、岩見沢、余市、札幌、千歳、塘路、愛国、幸福の各駅を訪れました。それなのに、当時の私はあまり駅や鉄道には関心がなく。もったいないなあ、と。そこで今回はどこか一駅でも、過疎の現実をみたいと思っていました。

かつては蒸気機関車が行きかい、にぎわっていたであろう由仁駅。今は閑散としたもの。広大な駅構内には列車を待つ人の姿が皆無。それもそのはずで、平日でも岩見沢と苫小牧を結ぶこの線は、1日七本しか列車が来ないのです。室蘭本線と本線を名乗っているのに。千歳から帯広へ抜ける石勝線のルートからわずかにはずれ、完全に過疎化しています。私の求める通りに。広大な駅構内がかつての繁栄をしのばせるだけに、なおさら侘しさがにじみます。これぞ旅情と言うべき瞬間。

ただ、そんな旅情も私が気楽な旅人だから感じているだけのこと。本来はこの姿ではダメなんですよね。旅情も駅や線路があってこそ。過疎が進みすぎると、旅情も何も駅や線路そのものが撤去されてしまうのですから。特にJR北海道は全国六つにわかれたJRでも財政的に最も厳しいとか。夕張の廃線もそうだし、由仁駅もこのままでは厳しいでしょう。

もう、保有する過疎路線は廃止するしかないのか。何らかの手段で復活は見込めないものか。貨物こそが、突破口のような気がします。ドライバーの不足が深刻化する運送業界。その突破口の一つとして、鉄道貨物に光が当たっているという話を何年も前に聞いたことがあります。乗客の輸送には需要がなくとも、貨物にはまだ望みがあるのではないか。多分、由仁駅に貨物列車が停まることはもうないでしょうが、苫小牧の港湾と旭川方面をつなぐ貨物ニーズはあるかも。それが由仁駅を少しでも延命せんことを。そんなことを思いました。

なまじ、由仁駅に連結された箱物のホールが立派だっただけに。なまじ、無人の待合室に手作り感があっただけに。なまじ、駐車場の横の公園で十人ぐらうの子供の歓声が聴こえただけに。私は旅情より、由仁駅に活気が戻る日を思わずにはいられません。

すでに時刻は五時を回っています。札幌で私を待つ人がいる。帰らないと。「ヤリキレナイ川」の看板に後ろ髪を引かれつつ、同じ道を通って車を飛ばします。夕張にはきっとまた来る、と誓いながら。

妻との待ち合わせ場所は札幌駅の北口。朝に約束した方も。慣れぬ道を走りやって来たのですが、ところがカーナビ任せだとどこにいるのか全くわからず。ついには札幌の南から北へ抜ける道で迷ってしまいました。それでも何とか妻と合流し、車の荷物を全て下ろします。そこからタイムズカーシェアリングの駐車場へ。その瞬間がまさに返却予定時刻にぴったり。ギリギリでした。そこから待ち合わせている方と合流し、さらに妻とも合流します。

そして向かったのが居酒屋日本一別宴邸。場所はなんと、今朝まで泊まっていたホテルマイステイズの下。昨夜も気になってはいたけど、ススキノに吸い寄せられてしまい、このお店には行けなかったのでした。ところがこのお店がおいしくおススメなのだとか。まさに下暗し。私たちが着いた時、そこにはお二方がお待ちになっていました。そのうち一人は私も既知の方。妻にとってはみなさん初対面。新鮮な顔合わせですが、とても良い飲み会となりました。料理もお酒もおススメというだけあって見事なもの。こぼれ寿司や牡蠣など、昨夜に続いて北海の幸を堪能しました。お呼びいただいた皆様には感謝しかありません。

そんな宴だからこそ、時間は速く進みます。いつの間にか、千歳に向かうエアポート快速の時間が迫って来ました。これに乗らないと帰りの飛行機に乗れないかも。それで私たちだけ辞去することに。慌てて札幌駅に向かいエアポート快速に乗ります。楽しい北海道の旅も終わりを迎えました。最後に飲み会というサプライズも設けていただき感謝です。ちなみにここでお会いした三名の方とは、その後も横浜や東京で会っています。また、今後もお会いすることでしょう。ご縁とはかくもうれしいもの。これからも大切にしたいです。

千歳でお土産を買い求め、両手を荷物だらけにしてスカイマークの搭乗口へ。そして羽田へと。旅の終わりとはいつも寂しい。ですが羽田への機上で、私には寂しさの中にも充実を感じていました。旅を誘ってくれた妻には感謝です。また札幌でうちら夫婦をお誘いしてもらった方々にも。

実はこの記事をアップしようとしたのが、北海道の全域が停電した地震の前夜でした。アップを延期した翌朝に地震が発生。震源地はこの記事にも登場した由仁駅から45キロぐらいしか離れていません。北海道にお住いの方々や、自然、過疎化した駅がどうなってしまったか。気になっています。私にできるのは、北海道に再び人が賑わい、しかも自然が豊かであり続けること。それを願っています。


札幌・余市の旅 2017/10/19


妻から一緒に北海道に行かないか、と言われたのは出発の約2カ月前でした。札幌で開かれる日本矯正歯科学会に妻が出席するので一緒に来ないか、と。マジで?と私が二つ返事で了承したことは言うまでもありません。

旅が好きな私にとって北海道は格別です。生まれてから今まで三回、北海道の一周を果たしています。三度目の一周旅行の時は、妻と長女、そして今は亡き風花も巻き込んで北海道を連れまわしました。それは2002年の晩夏のこと。とても良い思い出になりました。もっとも、行き帰りを飛行機の荷物室に閉じ込められた風花には悪夢だったはず。だからこそ幸福駅で脱走して北の大地に骨を埋めようとしたのでしょう。それから15年が過ぎました。2006年にも仕事で苫小牧に行ったことがありますが、その時を最後に北海道へ行くことは途絶えてしまいました。北海道への飢えと渇きがずっと私の心身をさいなんでいました。夢に北の大地が出て来て私を呼ぶこともしばしば。そんな私にとって今回の妻からの提案は、しおれた花に水をやるようなもの。テンションも上がります。

今回は夫婦で二人だけの旅。羽田で車を停め、早朝のスカイマークで空に飛びました。LCC万歳! 国内であればどこへでもLCCで行ける気がします。全く不便を感じません。時間と金のない私にとって頼れる存在なのがLCC。

旅の始まり。それはいつも心を高ぶらせます。私は高揚する心をおさえられず、千歳のコンコースで踊りだしそうになりました。旅の始まりに心は踊り、幸せ色に染まります。しかも今回の旅は、私にとってよい記念でした。何か記念かって、自由に旅ができる立場になったことです。9月末日で常駐先から離任し、毎日決まった場所に出かける義務がなくなりました。自由。それは私が何年にもわたって望み続けた境遇。おのれのコントロールによって仕事を調整し、好きな時に旅に出る。そんな私の理想が初めて実現できたのが今回の北海道への旅でした。千歳のコンコースで私がどれほどの解放感に浸っていたか。とても文章に書き表せないほどです。

新千歳空港駅からエアポート快速に乗り札幌へ。千歳空港駅のトンネルを抜けると、車窓の向こうに広がるのは私の愛してやまない広大な北海道。ただ平らな大地が広がり、果てが見えません。これぞ北海道の醍醐味というべき眺め。私はこの光景を見たいがために繰り返し北海道を一周したのです。そんな私が久々に見る北の大地は、相変わらず旅の喜びを与えてくれます。

札幌に近づくにつれ、広大な風景の中にも少しずつ人家が目立ってきます。駅に停まるたび、駅の周辺に人家が目立ちはじめるのがわかります。人家だけでなく、隣の線路には並走する電車までも現れます。緑の列車です。側面に”SAPPORO”の文字と空を指差すクラーク博士のイラストが書かれています。テールランプには”ライラック”と書かれていました。”ライラック”は20年以上前、一人で北海道を電車で一周した際に乗った特急です。その時にも一人で北海道を特急に乗って回りました。その時の記憶が蘇り、私のテンションはさらに高まります。私の北海道の旅は、こんな粋なペイントを施された電車で歓迎されました。このような電車を横に並べて走らせるなんて、JR北海道もにくい演出をする。

札幌に着いた私たちは、すぐにホテルへ。駅の北側にあるホテルマイステイズが今回の宿です。妻がチェックインしている間に私は近くのタイムズカーシェアリングの駐車場に行き、予約しておいた車を調達。一日目の相棒はスズキのソリオ君があてがわれました。

今日の目的地は余市。私の希望です。北海道のロードサイドを存分に楽しみつつ小樽まで車を走らせます。国道5号線を走るのも15年ぶり。ずいぶんと久しぶりなので、前回がどうだったか全く思い出せません。多分、前回はレンタカーの足元を自在に動き回る風花や、乳児だった長女のお世話でてんてこまいだったはず。私も運転どころではなかったのでしょう。今だから書けますが、石勝峠を走っているときは長女を片手で抱っこしながら運転するはめになり、危なっかしかった。

目に見える景色の全てが新鮮です。そして私を興奮させます。運河や赤レンガ倉庫の横を通った際は、15年前の思い出話で妻との話に花が咲きました。当時、評判の店でアイスクリームを買おうと並んでいたら、中国人の団体に並ぶ列に割り込まれたのです。それが妻には強烈な思い出だったようで、何度もそれを言い募っていました。今回の旅は前回の旅で刻まれた悪い印象を拭い去る良い機会。楽しむで~。小樽を過ぎると目立ち始めるのは海岸線の美しさ。そして早くも色づき始めた木々の色合いです。本州よりも早く訪れた北海道の秋が私を魅了します。

やがて車は余市の中心部へと。まず最初に訪れたのは道の駅「スペース・アップルよいち」。ここは15年前にも来ました。まだ道の駅が健在な様子に安心しましたが、長居はしません。さっそく目的地へと向かいます。余市蒸留所。角に突き出した重厚な石組みの門構えはいつ訪れても独特の存在感を醸し出しています。拓殖に燃えた明治の意気込みを今に伝えるかのよう。今の日本の会社の多くは、入り口を開放的にすることに腐心しているようですが、この門は真逆をいっています。いつまでも開拓の志を象徴する門構えを守り続けて欲しいものです。

受付では見学ツアーを申し込みました。そしてツアー開始時間まで間があったので二人で構内をめぐりました。重厚な門が15年前の記憶を蘇らせたように、構内に建つ各建物の光景がその時の記憶を呼び覚まします。石組みのキルンに、蒸溜棟や貯蔵蔵。それらの全てが私の記憶を刺激します。

余市蒸溜所を訪れるのは今回で三回目です。私が初めてここを訪れたのは1996年のこと。一人で北海道を一周した旅の途中でした。ゲストセンターでおねだりし、田中美奈子さんが大きく映ったニッカモルトのポスターをもらって帰りました。このポスター、私の実家の部屋に今も貼ってあります。帰省の度に、旅の思い出が蘇ります。1996年当時は、今と違ってウイスキー景気が落ち込んでいました。そして観光客もまばらでした。ポスターをもらえるぐらいに。この時は一人で思う存分、中を巡った記憶があります。その次に来たのは家族で来た15年前。そろそろ、世界的にウイスキーの需要が上向きはじめていました。

そして今回。知っての通りここ十数年、世界的なウイスキーブームに湧いています。それに追い打ちをかけるように、NHKの朝の連続テレビドラマ「マッサン」がブームを巻き起こしました。「マッサン」を放映している頃、余市蒸溜所にも無数の観光客がやって来たと聞きます。実は今回の訪問にあたり、私が恐れていたことがあります。それはマッサンブームが余市蒸溜所を変えてしまったのではないか、ということです。しかし、私の見た構内の様子は21年前、そして15年前と同じでした。何も変わらず、そのままのたたずまいでそこに立っていました。竹鶴氏がリタ夫人と歩いたであろう昔のまま。レストランが前回と変わっていたかどうかは記憶から薄れていましたが、ゲストハウスは記憶と同じ。

二人でじっくりと歩いていると、受付の時間が迫っていることに気づきません。慌てて入り口の傍にある待合室まで戻ります。門の入ってすぐ左にある待合室。ここは初訪問です。今まで見学ツアーを申し込んでいなかったから完全にスルーしていました。なので、待合室に展示された全てが私にとって新鮮。ゲストをおもてなしするための展示物の数々が私をくぎ付けにします。北海道遺産であり、登録有形文化財であり、近代化産業遺産である余市蒸溜所。待合室の展示物に目をやるだけで時間が過ぎていきます。ここにいられるだけで満ち足りた気持ちになる。そんな場所はそうそうありません。

私がウイスキーにひかれたきっかけは1995年の夏。当時広島に赴任していた大学の先輩のおかげです。泊めていただいた先輩宅で飲んだ響17年が私にウイスキーのおいしさを教えてくれました。その響も、源流をたどればニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝氏に行き着きます。なぜなら竹鶴氏は山崎蒸溜所の建設にあたり、多くの力を尽くしたからです。そして、余市こそは竹鶴氏が理想のウイスキー作りを目指すために白羽の矢を立てた地。私は初めてこの地を訪れた際、場内の雰囲気に心の底から魅了されました。そして、この地を訪れたことで、私は決定的にウイスキーの道にハマるのです。

私にとって聖地にも等しい場所。ですから、三度目の訪問となった今回、マッサン景気をくぐり抜けても何も変わっていなかったことがとてもうれしかったのです。

しかもうれしかったことはまだ続きます。今回の見学ツアーでは、蒸溜棟で石炭直火焚きの現場を見せていただきました。感激。少し前までは石炭直火焚きによる蒸溜は世界で唯一、ここ余市でのみで行われているとされていました。今は世界中にクラフトウイスキーのディスティラリーが増えたので、他に採用している場所もあることでしょう。でも、余市蒸溜所の石炭直火炊きが今でもまれであることに変わりはありません。科学的な温度管理よりは効率で劣るのかもしれません。でも、竹鶴氏がスコットランドで学んだ技術を今も愚直に守り続ける。これこそが余市蒸溜所の素晴らしさなのです。その愚直さを象徴するものこそ、いかめしい門構えなのです。門は今も無言で語っています。その無言の語りに私が魅せられたものづくりのスピリットが込められていることは言うまでもありません。

私の記憶が確かなら、前の二回では石炭直火焚きの現場は見られませんでした。ところが今回はそれが見られた。感動です。ただ感動。ポットスチルにはしめ縄が巻かれています。ウイスキーとしめ縄。異質の取り合わせですが余市蒸溜所には似合います。魅力の一端がこうした形で示されていることに、私は深い感銘を受けました。

私のテンションはとどまるところを知りません。場内に漂う香りと雰囲気に酔っているのかも。スコットランドの蒸溜所を模したともいわれる石造りの建物群の間で立っているだけで、目が癒やされます。国内でも類を見ない景色は一見の価値があります。あとは観光用としてたまにしか人の立ち入らないというキルンが稼働し、大麦を乾燥させるその場に立ち会えればいうことはありません。今やキルンで大麦をいぶして乾燥させることは世界的にも少数派になっていると聞きます。仮に余市蒸溜所でキルンが常に使われる日がくれば、どれだけの評判になることか。多分、余市の名前はさらに広く世界にとどろくはずです。

見学ツアーで引き続き訪れたのは、創業当時からある貯蔵庫。ここは前の二回でも訪れました。私はここで我慢しきれず、ガイドさんに質問までしてしまいました。もはや私のテンションは旅人の域を超え、違うステージにあります。あんた、ここで仕事するか、と言われたら「はい」といいそうなほど。続いて訪れたウイスキー博物館でも私のテンションは持いています。ここは初めて来たときにはなかった施設です。前回の訪問時と比べても展示内容にも工夫が凝らされています。ウイスキー作りの愚直さと酒文化の奥深さを伝えて続けてほしい。そう思います。

見る景色、嗅ぐ香り、聞こえる音の全てが愛おしい。蒸溜所やバーを訪れるたびに、私は本当に酒にまつわるあらゆる文化が好きなのだなあと思います。

あっという間の見学ツアーも、ゲストセンター(ニッカ会館)で終わりました。ここではお待ちかねの試飲が。ところが、今回のわたしはドライバー。そういえば前回もドライバーで試飲を前に指をくわえていました。でも今回の旅は妻に飲んでもらわなければ。旅行に誘ってくれた感謝の意を込め、妻にはうまそうに飲んでもらいました。実は前回の訪問時、妻はそれほどウイスキーが好きではありませんでした。ところが今や妻もウイスキーの愛飲家。15年掛けて調教してきた成果がいまここに。私がちびちびとアップルジュースをいただく間、うまそうにウイスキーを空ける妻。うん、私も満足です。ま、私も精一杯、鼻で試飲しましたけどね。

心ゆくまで試飲を楽しんだ私たち。余韻を味わいつつ次に向かったのは、ニッカ会館に併設されているレストラン「樽」です。ここがまたおいしかった。余市をはじめ、北の大地が産み出す海山の産物が惜しげもなく使われた料理の品々。まずいはずがない。妻はここでもウイスキーを頼み、至極満足の様子。良かった良かった。私も飲めない分、料理を堪能しました。いつもよりも念入りに。

ついで私たちはディスティラリーショップへ。ここもまた、私にとっては誘惑に満ちた場所。目移りして困ります。あまりにも困ったので、娘たちへの土産だけ買いました。ところがショップを出てから、最後にウイスキー博物館の奥にあるBARに行ったことで、私たちはさらに散財してしまうのです。財布のひも?そんなモノはどこかに揮発しています。妻がここで頼んだのはシングルモルトの余市2000と、NIKKA COFFEY GIN。本場のバーで飲める至福を堪能する妻。私はそれを目で飲もうと凝視します。あまりのうまさに、私たちはディスティラリーショップに戻ります。さっきは鉄の意志で娘たちへの土産だけで我慢したのに、COFFEY GINの大瓶を購入。余市2000は無念の終売だったので、私はアップルブランデーを買いました。本物の地で生まれる本物の酒を前にして、財布の紐を締めることなど愚の骨頂。酒飲みの本能に抗うなど無意味な努力。私はそのことを深く思い知りました。

かなりの荷物になってしまいましたが、いかめしい門をくぐる私の顔には、きっと満面の笑みが浮かんでいたことでしょう。あふれんばかりの幸せとともに、今や私たちは余市蒸溜所を去ります。また来なければ!との思いとともに。

ただ、私はまだ未練を残していました。その思いは、私を次なる地に向かわせます。それは竹鶴氏とリタ夫人の眠るお墓。とはいえこのお墓は、マッサンブームの最中に竹鶴家の遺族から墓参をご遠慮してもらいたいとの話があったばかり。果たして観光客として静かな眠りを邪魔して良いものか。少し躊躇したのですが、おおよその場所まで車で近づきました。そして迷ったので墓参を諦めました。そのかわり、見事な夕陽を目撃しました。空を美しく染め、落ちて行く夕陽。その色は先ほど見た石炭の炎。竹鶴氏が日々の酒造りの中で見つめ続け、今もリタ夫人と一緒に見ているはずの色。それをパシャパシャと撮りつつ、竹鶴夫妻の眠る地にさよならを告げます。余市はあと何度来られるか。二十回も来られればいいほうでしょう。でも、また来たいとおもっています。独り、もしくは妻と。

余市には心から満足しましたが、せっかくなの久々の小樽にも寄ることにしました。東に向けて車を走らせている間に日は刻々と落ち、やがて空がすっかり闇で覆われたころ、小樽に着きました。前回は慌ただしく通過しただけでなく、妻が気分を害した小樽ですが、今回は気持ちも新たにのんびりと散策します。夜の小樽運河に映る灯りが旅の情緒をやさしく揺さぶります。余市で予想外の出費をしたので、あまり物は買いません。それでもさまざまな店を冷やかしました。夜でしたが、10数店は訪れたでしょうか。夜でも小樽の情緒は味わえます。むしろ夜だから良かったのかも。それは、あながちライトアップのせいだけではないでしょう。観光地だからこそ漂うゆとり。それが私たちを包みます。小樽は裕次郎記念館がかつてあったのですが、今回の旅のわずか1カ月半前に閉館してしまいました。15年前に訪れた際、妻が来たいと言っていたのですが。とうとう訪れることがなかったのが残念です。また小樽には来たいと思います。

そこからは同じ道を戻って札幌へ。ホテルにチェックインし、車を返します。そして二人で歩いてススキノまで。肌寒ささえ感じる涼しさの中、札幌駅を通り抜け、札幌駅前通りを南下しつつ、札幌の空気を味わいます。どの店に行こうかと品定めをしながら。ススキノは妻も初めて。私もほぼ初めてといってよいです。

この日は札幌で学会がありました。なので夜のススキノは歯科医が集まっています。妻が顔見知りの歯科医にばったり会うかもしれない。でも、それもまたよし。そして私たちが訪れたのは、有名なニッカの看板のすぐそばにあるお店。北海道 増毛町 魚鮮水産 すすきの店。妻がとにかく魚介が食いたい、と。私も全く異存のあろうはずがなく。そして偶然訪れたこの店がとてもおいしかった。魚が新鮮。すすきのとはこれほどのレベルなのか、とあらためて北海道気分が爆発します。私も焼酎やウイスキーをようやく楽しめました。こうして北海道に妻と来られたことに感謝しつつ。18年も結婚生活が続いていることに感謝しつつ。

帰りは時計台を見て帰ろうと、その道にそって北上。途中、大通公園からテレビ塔を見つつ。かつてここで寝袋で寝たのも、しきりに地元の方に家に泊まりに来い、とお誘いいただいたことも懐かしい。十分に満足して宿に帰り、私は持ってきたパソコンで仕事。全てが満ち足りた一日。


沖縄ひとり旅 2017/6/20



ぐっすりと眠った私。すがすがしく目を覚まします。妻からホテルグレイスリー那覇を勧められた理由。それは朝食にあります。とても充実していて種類もたくさんよ、と言われていたのです。寝ぼけ眼で訪れた私は、妻の言葉の意味を理解します。とても良いです。朝食バイキングの品ぞろえはわたしをとても満足させてくれました。海ブドウが食べ放題なのもよいです。


満腹した私は、チェックアウトを済ませ、国際通りへ。昨日の大荒れの天気が一転、晴れ間がのぞいています。今日の旅路やよし。元々の天気予報から計画したとおり、今日は屋外をメインとした場所へと向かいます。斎場御嶽へと。再び沖縄本島の南部へと相棒を駆って向かいます。


やがて車は南城市に着き、太平洋に沿って走る国道331号線へ。このあたりも沖縄南部ののどかさが感じられます。私はそこから海岸線をたどって知念岬へ。ここの道の駅の駐車場に車を停め、斎場御嶽への入場券を買い求めます。連絡があって作業の必要があった私は、道の駅の中でパソコンを広げ作業。道の駅には御嶽についての説明書きがあり、事前に知識を仕入れます。


そしてそこから白砂が敷き詰められた道をのぼり、斎場御嶽へ。この道中がすでに南国感を出しています。いやがおうにも期待は高まるばかり。両側に茂る木々も、私の旅情を掻き立ててくれます。やがて御嶽の入り口へつき、受付を済ませて御嶽の本丸へと急ぎます。


御嶽とは6/18分のブログでも書きましたが、琉球の人々にとって重要な祭祀の場。那覇空港についてすぐに訪れた安次嶺御嶽もよかったのですが、つかみどころのない円形の広場に石造の遺構があるだけでした。それが御嶽の一般的な姿なのか。そう思った私の認識は斎場御嶽で一新されました。


本来なら一般の人は入れない場所。聖地なのですから。それなのに、聖なる由来がありそうな遺構が足元に置かれています。香炉が足元に無造作に置かれた通路には、何も考えなければ普通のハイキングコースのよう。ところが奥に進むにつれ、うっそうとした樹木が覆いはじめ、聖地の装いをまといはじめるのです。まず最初にとおるのは大庫理(ウフグーイ)。岩が祭壇のように見立てられ、聖なる場としての威厳を表わしています。続いて寄満(ユインチ)を向かいましたが、そこもまた、聖地としての面影を濃厚に宿していました。
そして大庫理から寄満への道すがら、大きな池があります。これは実は沖縄戦の艦砲射撃で着弾した跡地が池になったところだとか。あたりにはサンショウウオが群がっており、あちこちでたむろしています。池には白い泡のような物体が浮いており、そこにサンショウウオが群がっています。聖地なのにサンショウウオを餌付けしているのか?と疑問がムラムラと湧きます。それにもまして、沖縄最高の聖地でありながら艦砲射撃の被害から逃れることのできなかった現実。これがこの地が沖縄であることをいやおうなく私に伝えてきます。


さらに歩く私の前に広がったのが巨大な岩盤。上に覆いかぶさるように迫る岩からは二点で水が滴り、受ける石造りのツボのようなものがしつらえられています。シキヨダユルアマガヌビーとアマダユルアシカヌビーという名前なのですが、こういう見るからに聖なる遺構が、何ら保護されずにおかれていることに、沖縄の器の大きさを物語るようです。


そしてその岩盤の奥の脇には、通路が直角三角形に切り出されたようになっています。その奥にあるのが三庫理。これこそ斎場御嶽の奥の院。琉球最高の聖地です。そしてもちろん、誰でも入れます。奥へ進むと見るからに聖なる道具と思われる遺構が足元におかれています。看板には金製勾玉が近世出土した旨が書かれているのですが、足元は無造作。掘ろうと思えば掘れてしまいます。しかもその壁の反対側には樹木で切り取ったような向こうに海が広がっています。うすく地平に広がるのは久高島。アマミキヨが琉球に渡ってくる前、久高島からやってきたという伝承があります。つまり三庫理こそは琉球の国生み伝説の地でもあるのです。


それなのに、これほどまでに無防備。かつては男子禁制の場だったというここは、聞得大君の仕切る祭祀の地でした。それなのにこれほどひらかれてことがよいのだろうか、と思えます。こうやって私がブログに書くことで斎場御嶽の観光客増加に寄与してしまうのでは、と思えるほど。すでに私が訪れた時にも十数人の観光客が訪れていました。それでもなお、聖地としての厳かさを失っていなかっただけに、何らかの対策が成されるのではないかと思いました。


なお、オオサンショウウオが群がっていた泡の正体。それはモリアオガエルの卵だそうです。受付にわざわざ戻ってスタッフの方に伺ったところ、そうおっしゃっていました。しかもあれは餌付けしているのではなく、自然に産卵されたものだそう。とても貴重なものが見られました。

ここは、ぜひとも再訪したいと思いました。

帰りの道々にで両側に広がる店々にも立ち寄りたかったのですが、一つのお店だけ寄るにとどめました。でも観光地ずれしていない様子はとても良い印象でした。もっとゆっくりしたいところですが、すでに大幅に時間超過の予感が・・・


と思いながら、知念岬郵便局で風景印を押してもらい、知念岬にも歩いて向かう私です。やはり海を一望にして自分の小ささを見つめないと。そしてこれからの自分の未来がこれだけ広がっていることを心を全開にして受け止めないと。そう思って降り立った知念岬から見た海の凪いでいたこと!

そこから一路、ひめゆりの塔へ。誰もが行く場所とはいえ、22年ご無沙汰にしていたとなると行かねばなりません。22年前に強烈な印象を受けた、レクイエムの流れるホールの印象が変わっていないことと、それ以外の展示物をしっかり胸に刻まないと。


到着したひめゆりの塔は、入り口からして記憶の外でした。そして、記念館の傍に壕の入り口が大きく孔を開けているのですが、そこの印象も全くありませんでした。まったく私は22年前に何を見ていたのか。記念館にはいると展示を凝視します。どうやってひめゆり部隊が結成されたのか。彼女たちの学園生活。沖縄戦が始まってからの経過や、彼女たちが少しずつ追い詰められ、傷つけられてゆく様。そして、私が22年前に訪れたホールは同じでした。ひめゆり部隊の皆さんの顔写真、名前、死にざまとなくなった地。もちろん行方不明の人もたくさん。

さらにすっかり忘れていたのですが、上に口を開けていた壕は、地下でこのホールに繋がっているのです。すっかり忘れていました。ホールには生きながらえることのできた方の体験談が読めるようになっています。ホールの手前では体験談を語る語り部の方の動画が流れており、見入ってしまいました。今は上品な老婦人となっている彼女たちが、これほどの地獄を見たのかと思えば複雑な気分に囚われます。

私はこの旅行の2カ月半前に「ひめゆりの塔」を読みました(レビュー)。その中では生徒たちの赤裸々な感情が描かれていていたのですが、先生の役割は幾分薄めでした。しかしひめゆり部隊を引率した先生が戦後贖罪のために尽くしたことも知られています。今回、特別展として先生に焦点を当てた展示も催されていました。私はとてもその展示に感銘を受けました。なぜなら、今の私の年齢とは、当時の先生方が生徒たちを引率した年齢に近いからなのです。私がこの当時の先生たちと同じ立場に置かれたらどのように行動したでしょうか。時勢に迎合し、軍国主義を唱え押し付けていたのでしょうか。それとも生徒と友達のように接していたのでしょうか。それとも頼りにならず生徒たちを真っ先に戦場に迷わせた教師だったのでしょうか。わかりません。ひめゆり部隊が晒された砲弾の嵐は、普通の人間が経験できる場所ではないので、私には想像すらできません。

だから私は先生方の写真や担当教科、そして人となりを伝えるパネルをじっくり読みました。私が彼らだったらどう対処しただろうと思いながら。それは今の私が親としてどう娘たちに接するかの自問自答にも繋がります。また、教育学の教授だった祖父の影響からか、教育を担う者の目線も含んでいたと思うのです。その印象はあまりにも強く、家でもじっくり読んでみるため図録を駆ってしまうほどに。

ひめゆりの塔を出たのはすでに微妙な時間。ですが、駐車場わきのソフトクリーム屋さんでソフトクリームをいただきつつ、客あしらいに慣れたおじさんと話します。すでに沖縄滞在の時間が残されていないと思いつつ、梯梧の塔にも足を延ばします。ここも別の学校の学徒の慰霊の場所です。

この付近には同様にこのような塔があちこちに立っています。そのすべてに幾人もの人々の想いが込められているのでしょう。

さて、帰りは道の駅に二カ所寄って物産を全速力で冷やかした以外は、全力で那覇空港に近いレンタカー屋に向かいます。レンタカー屋に返した後は、帰りは歩いて帰らず素直に送迎バスで空港へ。なぜこんなに急いだかというと、17年ぶりの再会があったから。17年前、辻堂の護摩焚き会でご夫婦と知り合い、そのすぐ後に結婚式の披露宴にも呼んでくださった方。その方は数年していきなり家族で沖縄に移住したのです。以来、Facebookと年賀状だけのやりとりが続いていたのですが、今回思い切って声をかけてみたところ、帰りの那覇空港でお会いすることになったのです。その方の決断力と行動力には尊敬するしかありません。今回お会いしてお話しした内容は、とても参考になりました。ビジネスの面もそうですが、実際に沖縄移住への経緯を本に執筆し、それでアマゾンのカテゴリー別で一位にもなった経験。編集者とのやりとりや、それが本になっていくまでのいきさつ。この方との話し合いから二カ月がたち、私に本音採用での連載「アクアビット航海記」の話が来ます。もちろん即答で引き受けたことはいうまでもありません。

この方と空港の食堂でお話しできたのは1時間もありませんでした。あまりにも濃いお話であっという間に時間が過ぎてしまいました。17年ぶりという思いも忘れるほどに。最後は搭乗時間ギリギリになってしまい。ダッシュで走ってぎりぎり帰りの便に乗れましたが。

帰りは羽田からバスで町田まで。妻に迎えに来てもらいました。素晴らしい旅でした。