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球界に咲いた月見草 野村克也物語


本書を読んだのは、野村克也氏が亡くなって三カ月後のことだ。

もちろん私は野村氏の現役時代を知らない。野村氏は私が7歳の頃に現役を引退しているからだ。
ただ、野村氏が南海ホークスの選手だった頃に住んでいた家が、私の実家から歩いて数分に位置していたと聞いている。ひょっとしたら幼い時にどこかですれ違っていたかもしれない。

現役時代から、解説者として監督として。野村氏の成し遂げた偉大な功績は今更言うまでもない。
また、野村氏は多くの著書を著したことでも知られる。実は私はそれらの著書は読んだことがない。ただ、野村氏の場合はその生涯がそもそも含蓄に富んでいる。

その生涯を一言で表現すると”反骨”の一言に尽きるだろう。本書のタイトルにそれは現れている。月見草。この草は600本の本塁打を打った際、インタビューを受けて語った中に登場する。野村氏の生きざまの体現として知られた。

本書は、野村克也という一人の野球人の生涯を丹念に追った伝記だ。本人も含めて多くの人に証言を得ている。
幼い頃、父が中国で戦死し、母も大病を患うなど貧しさの少年時代を過ごしたこと。高校の野球部長が伝をたどってつないでくれた南海ホークスとのわずかな縁をモノにして入団したものの、一年でクビを告げられたこと。そこから捕手として、打者として努力を重ね、戦後初の三冠王に輝いたこと。選手で一流になるまでにはさまざまな運にも助けられたこと。
南海ホークスでは選手兼任監督として八シーズンの間、捕手と四番と監督の三つの役割を兼任したこと。ささやき戦術や打撃論、キャッチャーのポジションの奥深さ。王選手や張本選手との打撃タイトルや通算成績の熾烈な争い。

南海ホークスから女性問題で解任されたあとも、生涯一捕手としてボロボロになるまでロッテ、西武と移り、45歳まで捕手を務め上げたこと。
その後解説者として腕を磨き、ノムラスコープと言う言葉で野球解説に新風を送り込み、請われて就任したヤクルト・スワローズでは三回の日本一に輝いた。本書の冒頭はその一回目の優勝のシーンで始まっている。

本書には書かれていないが、その後も阪神タイガースや楽天イーグルスの監督を務め、社会人野球の監督まで経験した。
楽天イーグルスの監督時代には、そのキャラクターの魅力が脚光を浴び、スポーツニュースでもコーナーが作られるまでになった。

本書には月見草を語ったインタビューの一節が載っている。
「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある。自己満足かもしれないが、そんな花もあっていい。月見草の意地に徹し切れたのが、六○○号への積み重ねになった」(230ページ)

長年日の当たらないパ・リーグにいた野村氏。だが、その生涯を通して眺めれば、月見草どころか超一流のヒマワリであったことは間違いない。
ただ、その結果がヒマワリだったからと言って、野村氏のことをあの人は才能があったから、と特別に見てはならない。
確かに、野村氏の生涯は、結果だけ見れば圧倒的な実績に目がくらむ。そして、野村氏のキャラクターには悪く言えばひがみっぽさもある。
たが、そうした境遇を反骨精神として自らのエネルギーに変え、自らを開花させたのも本人の意思と努力があってこそ。
努力を成し遂げられる能力そのものを才能と片付けてしまうのは、あまりにも野村氏に失礼だと思う。

本書の中には、野村氏に師匠がいなかったことを惜しむ声が度々取り上げられる。かの王選手を育てた荒川博氏も本書で語っている。遠回りせずに実績を残せたのに、と。一人の力で野村氏は自らを作り上げてきたのだ。荒川氏はそれが後年の野村氏に役立っているとも述べている。

私が野村氏の生涯でもっとも共感し、目標にできるのは独りで学んだことだ。なぜなら私も独学の人生だから。
一方、私が野村氏の生涯でもっともうらやましいと思うのは、幼い頃に苦難を味わったことだ。私は両親の恩恵を受けて育ち、その恩に強く感謝している。だが、そのために私が試練に立ち向かったのは社会に揉まれてからだ。今になって、子供の頃により強靭な試練に巡り合っていれば、と思う。そう思う最近の自分を逆に残念に感じるのだが。

野村氏がさまざまな書物を著していることは上に書いた。
おそらくそれらの書物には、ビジネスの上で世の中を渡るために役に立つ情報が詰まっているだろう。
私がそれらの本を読んでいないことを承知で言うと、野村氏の反骨の精神がどういう境遇から生み出されたのかを学ぶ方が必要ではないかと思う。あえてその境遇に自分を置かずにビジネスメソッドだけ抽出しても、実践には程遠いのではないか。
今、私も自分の生き方を変えなければならない時期に来ている。ちょうど野村氏が選手を引退してから、評論家として生きていた年齢だ。私は野村氏のような名伯楽になれるだろうか。今、私にはそれが試されている。

くしくも本稿を書き始めた日、日本シリーズでヤクルト・スワローズが20年ぶりに日本一に輝いた。スワローズの高津監督は野村氏の教え子の一人として著名だ。
人が遺すべきものとして金、仕事、人がある。言うまでもなく、最上は人た。
亡くなった野村氏はこの度のスワローズの日本一を通し、人を遺した功績で今もたたえられている。

私も人を遺すことに自分のマインドを変えていかないと。もちろん金もある程度は稼がなければならないが。
それらを実現するためにも、本書は手元に持ち続けたいと思う。そして、本書が少しでも読まれることを願う。

‘2020/05/25-2020/05/25


もっと遠くへ 私の履歴書


本書を読む少し前、Sports Graphic Numberの1000号を買い求めた。
そこには、四十年以上の歴史を誇るNumber誌上を今まで彩ってきたスポーツ選手たちの数々のインタビューや名言が特別付録として収められていた。

その中の一つは著者に対してのインタビューの中でだった。
その中で著者は、755本まで本塁打を積み上げた後、もっとやれたはずなのにどこか落ち着いてしまった自分を深く責めていた。引退した年も30本のホームランを打っていたように、まだ余力を残しての引退だった。それを踏まえての言葉だろう。
求道者である著者のエピソードとして印象に残る。

著者が引退したのは1980年。私が小学校1年生の頃だ。
その時に担任だった原田先生から聞いた話で私の印象に残っていることが一つだけある。それは、王選手がスイングで奥歯を噛み締めるため、ボロボロになっていると言う話だ。なぜかその記憶は40年ほどたった今でもまだ残っている。
後、私は著者によるサインが書かれた色紙を持っていた。残念なことにその色紙は、阪神淡路大震災で被災した後、どさくさに紛れて紛失してしまった。実にもったいないことをしたと思う。

本書は、著者の自伝だ。父母や兄との思い出を振り返った子供時代のことから始まる。
浙江省から日本に来て五十番という中華料理の店を営んでいた父の仕事への取り組み。双子の姉だった広子さんのことや、東京大空襲で九死に一生を得たこと。
墨田区の地元のチームで野球に触れ、左投げ右打ちだった著者を偶然通りがかった荒川選手が左打ちを勧めたところ、打てるようになったこと。
甲子園で優勝投手となり、さらにその後プロの世界に身を投じたこと。プロに入って数年間不振に苦しんでいたが、荒川博コーチとともに一本足打法をモノにしたこと。
さらに巨人の監督に就任したものの、解任される憂き目に遭ったこと。そこで数年の浪人期間をへて、福岡ダイエーホークスの監督に招聘されたいきさつ。長きにわたってチームの構築に努力し、心ないヤジや中傷に傷つきながら、日本一の栄冠に輝いたこと。さらにその後WBC日本代表の初代監督として世界一を勝ち取るまで。

本書を読む前から、著者の文庫本の自伝なども読んでいた私。かねて福岡のYahoo!ドームの中にあると言う王貞治記念館を訪問したいと切に思っていた。福岡でお仕事に行くこともあるだろうと。
本書を読んでますますその思いを募らせていた。

それがかなったのが本書を読んでから11カ月後のこと。福岡に出張に行った最終日、PayPayドームと名前を変えた球場の隣にある王貞治ベースボールミュージアムに行くことができた。

ミュージアム内に展示された内容はまさに宝の山のようだ。しかも平日の夜だったこともあり、観客はとても少なかった。私はミュージアムを心ゆくまで堪能することができた。帰りの新幹線さえ気にしなければ、まだまだいられたと思う。
そしてその展示はまさに本書に書かれたそのまま。動画や実物を絡めることにより、著者の残した功績の素晴らしさが理解できるように作られていた。

ミュージアムでは一方足打法の連続写真やそのメリットも記され、等身大のパネルやホログラム動画とともに展示され、一本足打法が何かをイメージしやすい工夫が施されていた。
その脇に「王選手コーチ日誌」と表紙にタイトルが記されたノートが置かれていた。荒川博コーチによる当時のノートだ。中も少しだけ読むことができたが、とても事細かに書かれていた。著者もこのノートの存在をだいぶ後になるまで知らなかったらしい。
ミュージアムの素晴らしさはもちろんだが、一方で本書にも長所がある。例えば、一本足打法の完成まで荒川氏と歩んだ二人三脚の日々で著者自身が感じていた思いや、完成までの手ごたえ。その抑えられた筆致の中に溢れている感謝の気持ちがどれほど大きいか。それを感じられるのは本書の読者だけの特典だ。これはミュージアムとお互いを補完し合う意味でも本書の良さだと思う。

そこからの世界の本塁打王としての日々は、本書にも詳しく描かれている通りだ。

ただ、著者の野球人生は単に上り調子で終わらないところに味がある。藤田監督の後を継いで巨人の監督に就任して五年。その間、セ・リーグで一度優勝しただけで、日本シリーズでは一度も勝てなかった。そして正力オーナーから解任を告げられる。
数年後、福岡ダイエー・ホークスから監督就任の依頼があった著者は悩みに悩んだ結果、受諾した。当時のホークスはとても弱いチームだった。かつて黄金時代を築いた南海ホークスの栄華は既に過去。身売りされて福岡に来たもののチーム力は一向に上向かない。
そんなところに監督として招聘されたのが著者。ところがそこから数年、なかなか勝てない時が続いた。バスに卵を投げつけられるなど、ひどい仕打ちを受けた。

それを著者はじっと耐え忍び、長い時間をかけてホークスを常勝チームに育て上げていった。今でこそソフトバンク・ホークスと言えば常勝軍団として名をほしいままにしている。その土台を作ったのが著者であることは誰も否定しないはずだ。

ミュージアムでもホークスの監督時代のことは多く取り上げられていた。だが私は、著者の選手時代の輝きに当てられたためか、あまりその展示は詳しくみていない。
著者のためにこのような立派なミュージアムを本拠地に作ってくれる。それだけで著者が福岡で成し遂げた功績の大きさがわかろうと言うものだ。

本書はあとがきの後も、著者の年表が載っている。さらに全てのホームランの詳細なデータや輝かしい記録の数々など、付録だけでも60ページ強を占めている。
まさに、本書は著者を語る上で絶対に落とせない本だと思う。
いつかは著者も鬼籍に入るだろう。その時にはもう一度本書を読み直したいと思う。

‘2020/05/01-2020/05/01


背番号なし戦闘帽の野球 戦時下の日本野球史 1936-1946


当ブログでは、幾度か野球史についての本を取り上げてきた。
その中では、私が小学生の頃から大人向けの野球史の本を読んできたことにも触れた。

私の記憶が確かなら、それらの本の中には大和球士さんの著作も含まれていたように思う。
残念なことに、当時の私は今のように読書の履歴をつけておらず、その時に読んだ著者の名前を意識していなかったため、その時に読んだのが大和球士氏の著作だったかどうかについては自信が持てない。
だが、40年近く前、球史を網羅的に取り扱った本といえば、大和氏の著作ぐらいしかなかったのではないだろうか。明治から大正、昭和にかけてのわが国の野球史を網羅した大和球士氏の著作の数々を今、図書館や本屋で見かける事はない。おそらく廃版となったのだろう。

それは、大和氏のように戦前の野球史を顧みる識者が世を去ったからだけではなく、戦前の野球そのものへの関心が薄れたことも関係していると思われる。
毎年のペナントレースや甲子園の熱闘の記録が積み重なるにつれ、戦前から戦中にかけての野球史はますます片隅に追いやられている。

ところが、この時期の野球史には草創期ならではのロマンが詰まっている。
だからこそ最近になって、早坂隆氏による『昭和十七年の夏 幻の甲子園』や本書のような戦前から戦中の野球史を語る本が発刊されているのだろう。

なぜ、その頃の野球にはロマンが感じられるのだろうか。
理由の一つには、当時の職業野球がおかれた状況があると考える。
職業野球など、まともな大人の就く職業ではないと見なされていた当時の風潮。新聞上で野球害毒論が堂々と論じられていた時期。
だからこそ、この時期にあえて職業野球に身を投じた選手たちのエピソードには、豪快さの残滓が感じられるのかもしれない。

もう一つの理由として、野球とは見て楽しむスポーツだからだというのがある。
もちろん、野球は読んでも面白い。そのことはSports Graphic Numberのようなスポーツジャーナリズムが証明している。例えば「江夏の21球」のような。
そうしたスポーツノンフィクションは、実際の映像と重ね合わせることによってさらに面白さが増す。実際の映像を見ながら、戦う選手たちの内面に思いを馳せ、そこに凝縮された瞬間の熱量に魅せられる。私たちは、文章にあぶりだされた戦いの葛藤に極上の心理ドラマを見る。

野球の歴史を振り返ってみると映像がついて回る。古来から昭和31年から33年にかけて西鉄ライオンズが成し遂げた三連覇や、阪神と巨人による天覧試合。そして巨人によるV9とその中心であるONの活躍。阪神が優勝した時のバックスクリーン3連発も鮮やかだったし、イチロー選手の活躍や、マー君とハンカチ王子の対決など、それこそ枚挙に暇がない。

ところが、野球史の中で映像が残ってない時期がある。それこそが戦前の野球だ。
例えば沢村栄治という投手がいた。今もそのシーズンで最高の活躍を残した投手に与えられる沢村賞として残っている名投手だ。
沢村栄治の速球の伸びは、当時の投手の中でも群を抜いていたと言う。草薙球場でベーブ・ルースやルー・ゲーリックを撫で切りにした伝説の試合は今も語り草になっているほどだ。ところが、沢村投手の投げる姿の映像はほとんど残っていない。その剛速球の凄まじさはどれほどだったことだろう。
数年前、一球だけ沢村栄治が投げる当時のプロ野球の試合の映像が発掘され、それが話題になった。そうした映像の発掘がニュースになるほど、当時の映像はほとんど残されていないのが現状だ。

景浦將という阪神の選手がいた。沢村栄治のライバルとして知られている。景浦選手の自らの体をねじ切るような豪快なスイングの写真が残されているが、景浦選手の姿も動画では全く残っていない。
他にも、この時期のプロ野球を語る上で伝説となった選手は何人もいる。
ヘソ伝と呼ばれた阪急の山田伝選手の仕草や、タコ足と言われた一塁手の中河選手の捕球する姿。荒れ球で名を遺す亀田投手や、名人と称された苅田選手の守備。
そうした戦前に活躍した選手たちの伝説のすべては、文章や写真でしか知るすべがない。延長28回の試合なども有名だが、それも今や、字面から想像するしかない。
だからこそ、この時期のプロ野球には憧れやロマンが残されている。そしてそれがノンフィクションの対象として成り立つのだと私は思っている。

私も戦前のプロ野球については上述の大和氏の著作をはじめ、さまざまな書物やWikipediaで目を通してきた。だが、本書はそうした私の生半可な知識を上回る内容が載っている。

たとえば戦時中に野球用語が敵性語とされ、日本語に強制的に直されたことはよく知られている。だが、それらの風潮において文部省や軍部がどこまで具体的な干渉を野球界に対して突き付けていたかについて、私はよく知らなかった。
文部省からどういう案が提示され、それを職業野球に関わる人々はどのように受け入れたのか。
もう一つ、先にも書いた延長28回といった、今では考えられないような試合がなぜ行われたのか。そこにはどういう背景があったのか。
実はその前年、とある試合で引き分けとなった試合があった。その試合が引き分けとなった理由は、苅田選手の意見が大きく影響したという。ところが、その試合が戦いに引き分けなどありえないという軍部の心を逆なでしたらしい。その結果、勝負をつけるまでは試合を続ける延長28回の長丁場が実現したという。
そうした些細なエピソードにも、軍国主義の影が色濃くなっていた当時の世相がうかがえる。

本書はプロ野球だけではなく、戦時中の大学野球や中等野球についてもさまざまな出来事を紹介している。
大学野球が文部省や軍部の横やりに抵抗し、それにも関わらず徐々に開催を取りやめていかざるを得なかったいきさつ。
私は、当時の大学が文部省や軍部の野球排斥の動きに鈍感だった事を、本書を読むまで知らなかった。
中等野球についても、戦時色が徐々に大会を汚してゆく様子や、各大会の開催方式が少しずつ変質させられていった様子が描かれる。そうした圧力は、ついには朝日新聞から夏の甲子園の開催権を文部省が取り上げてしまう。

厳しい時代の風潮に抗いながら、野球を続けた選手たちの悲劇性は、彼らの多くが徴兵され、戦地に散っていったことでさらに色合いを増す。
本書は、戦没選手たちの活躍や消息などにもきちんと触れている。
少しずつ赤紙に呼ばれた選手が球場から姿を消していく中、野球の試合をしようにも、そもそも選手の数が足りなくなってゆく苦しさ。選手だけでなく、試合球すらなかなか手に入らなくなり、ボールの使用数をきちんとカウントしては、各球場でボールを融通し合う苦労。著者が拾い上げるエピソードの一つ一つがとてもリアルだ。

選手の数が減ってくると、専門ではないポジションなど関係なしに持ち回ってやりくりするしかない。それは投手も同じ。少ない投手数で一シーズンを戦うのだから、今のように中四日や中五日などと悠長なことは言っていられない。南海の神田投手や朝日の林投手のシーズン投球回数など、現代のプロ野球では考えられないぐらいだ。高校野球で最近議論された投手の投球数制限など、当時の時代の論調からいえばとんでもない。そう思えるほどの酷使だ。
そうした選手や関係者による必死の努力にも関わらず、昭和19年になるともはや試合の体をなさなくなるほど、試合の質も落ちてきた。
そんな中、昭和20年に入っても、有志はなんとかプロ野球の灯を消さないように活動し続ける。
そうした戦前と戦中の悲壮な野球環境が本書の至るところから伝わってくる。

本書の前半は少々無骨な文体であるため、ただ事実の羅列が並べられているような印象を受ける。
だが、詳細なエピソードの数々は、本書を単なる事実の羅列ではなく、血の通った人々の息吹として感じさせる。

ここまでして野球を続けようとした当時の人々の執念はどこから来たのか。野球の熱を戦時中にあっても保ち続けようとした選手たちの必死さは何なのか。
野球への情熱にも関わらず、応召のコールは選手たちを過酷な戦場へと追いやってゆく。
才能があり、戦後も活躍が予想できたのに戦火に散ってゆく名選手たちの姿。ただただ涙が出てくる。

本書は昭和20年から21年にかけて、プロ野球が復活する様子を描いて幕を閉じる。
そうした復活の様子は本書のタイトルとは直接は関係ない。
だが、野球をする場が徐々に奪われていく不条理な戦前と戦中があったからこそ、復活したプロ野球にどれだけ人々や選手たちが熱狂したのかが理解できると思う。
大下選手が空に打ち上げたホームランが、なぜ人々を熱狂の渦に巻き込んだのかについても、戦中は粗悪なボールの中、極端な投高打低の野球が続いていたからこそ、と理解できる。

本書を読むと、東京ドームの脇にある戦没野球人を鎮める「鎮魂の碑」を訪れたくなる。もちろん、野球体育博物館にも。

本書は、大和球士氏の残した野球史の衣鉢を継ぐ名著といえる。

‘2019/9/5-2019/9/6


追憶の球団 阪急ブレーブス 光を超えた影法師


西宮で育った私にとって、阪急ブレーブスはなじみ深い球団だ。
私の実家は甲子園球場からすぐ近くだが、当時、阪急戦を見に西宮球場に行く方が多かった。阪神の主催ゲームはなかなかチケットが取れなかったためだろう。
よく父と西宮球場の阪急戦を観に行ったことを覚えている。

西宮球場や西宮北口駅のあたりは、当時も今も西宮市の中心だ。家族と買い物にしょっちゅう訪れていた。
そのため、子供の頃の私の心象には、西宮球場付近の光景がしっかりと刻まれている。
ニチイ界隈の賑わう様子。西宮北口駅のダイアモンド・クロッシングを通り過ぎる電車が叩く音。そして西宮球場で開催される阪急戦の雰囲気。
時期はちょうど1984年ごろだったと思う。

それから35年以上が過ぎた。
いまや西宮北口駅の周辺は阪神・淡路大地震を境にすっかり変わってしまった。ニチイもダイアモンド・クロッシングも西宮球場も姿を消した。
もちろん、本書で取り上げられる阪急ブレーブスも。

すぐ近くの甲子園球場で行われる阪神戦の熱気とは裏腹に、阪急戦の雰囲気は寂しいものだった。
1984年、阪急ブレーブスは球団の歴史上で、最後のパ・リーグ優勝を成し遂げた。
昭和40年代から続いた黄金期の最後の輝き。
本書の著者である福本豊選手。山田久志、簑田浩二、加藤英司、ブーマー・ウェルズと言った球史に残る名選手の数々。上田監督が率いたチームには、今井雄太郎、佐藤義則、山沖之彦という忘れがたい名投手たちもいた。弓岡敬二郎や南牟礼豊蔵といった選手の活躍も忘れてはなるまい。
こうした球史に名を残す選手を擁しながら、西宮球場で行われるナイターの試合には、いつもわずかな観客しかいなかった。
甲子園球場のにぎやかな応援風景とあまりにも違う西宮球場の寂しさ。それは小学生の私にとても強い印象を残した。

今日、阪急ブレーブスの栄華をしのぼうと思ったら、阪急西宮ガーデンズの5階のギャラリーを訪れると良い。
そこに飾られた幾つものトロフィーや銅像、優勝ペナント、著者を初めとした野球殿堂に選ばれた13選手をかたどったレリーフからは、球団の歴史の片鱗が輝いている。

だが、私が実家に帰省し、阪急西宮ガーデンズに訪れるたび、このギャラリー内のブレーブスの記念コーナーが縮小されているように思える。
阪急西宮ガーデンズが出来た当初、記念コーナーはギャラリーのかなりのスペースを占めていたように思う。
スペースの縮小は、阪急グループにとっての阪急ブレーブスの地位が低下していることをそのまま表している。

著者はこの現状も含め、阪急ブレーブスが忘れられることを危惧したのだろう。それが本書を著した動機だったと思われる。
かつてあれほど強かったにもかかわらず、強さと人気が比例しなかった球団。黄金期を迎える前は灰色の球団と言われ続け、黄金期を迎えても阪神タイガースには人気の面ではるかに及ばなかった球団。

本書は著者がブレーブスに入団する時点から始まる。悲運の名将と呼ばれた西本監督の下、黄金期への地固めをするブレーブス。
著者と著者の同期である加藤英司選手が、プロ生活の水に慣れていく様子が書かれる。

著者が入団する前年に、阪急ブレーブスは創立32年目にして初優勝を果たした。
当時は米田哲也投手、足立光宏投手、梶本隆夫投手が健在で、野手もスペンサー、長池選手といった選手がしのぎを削っていた。
そうそうたる選手層に加わったのが著者と加藤選手、そして山田投手。
そこで揉まれながら、著者は走攻守に存在感を発揮して行く。
著者が入った年、ブレーブスはパ・リーグを2連覇し、最初の黄金時代を迎える。
著者の成績に比例してブレーブスは強くなっていく。だが、V9中の巨人にはどうしても勝てない。そんな挫折と充実の日々が描かれる。

ブレーブスの選手層は、大橋選手、大熊選手、島谷選手といった選手の入団によってさらに厚くなる。
それまでパ・リーグといえば、南海ホークスか西鉄ライオンズ、大毎オリオンズの三強だった。そこに、黄金期を迎えたブレーブスが割り込む。
他の強豪チームに引けを取らない力を蓄えたブレーブスは、1967年から1984年までの18シーズンにパ・リーグを10度制し、3度日本一になっている。その間にはパ・リーグ3連覇を二度果たした。2度目の3連覇ではその勢いのまま、セ・リーグのチームを破り、三年連続で日本一の美酒を味わう偉業を成し遂げている。
昭和五十年代に限っていえば、ブレーブスは日本プロ野球でも最強のチームだったと思う。さらにいえば、わが国の野球史を見渡しても屈指のチームだったと言える。

著者はそのチームに欠かせない一番打者として、華々しい野球人生を送った。
二塁打数、安打数、盗塁数など著者の築き上げた成績は、いまも日本プロ野球史に燦然と輝き続けている。通算1065盗塁に至っては、当分の間、迫る選手すら現れないことだろう。

山田投手が日本シリーズで王選手に逆転スリーランを打たれたシーンや、昭和53年の日本シリーズがヤクルトの大杉選手のホームランをファウルだと主張した上田監督によって1時間19分の間、中断したシーン。
阪急ブレーブスが球史に残したエピソードは今もプロ野球の記憶に残り続けている。
それなのに、阪急は身売りされてしまう。

「9月上旬、南海ホークスがダイエーへの球団譲渡を発表した。かねてから噂になっていたので、僕はそれほど驚かなかった。86年以降の阪急ブレーブスは、念願だった年間100万人の観客動員を続けていた。身売りされた南海は、一度たりとも大台へ届かなかった。ブレーブスのナインにとって、南海ホークスの消滅は、対岸の火事にしか見えなかった。」(190ページ)

著者が危惧するように、売却と同時にブレーブスの歴史は記憶の彼方に遠ざかろうとしている。
冒頭に書いた通り、当の阪急グループからも記念コーナーの縮小という仕打ちを受け、ブレーブスの栄光はますます元の灰色に色あせてつつある。
阪急グループについては、宝塚ファミリーランドの跡地の扱いや、宝塚歌劇団の内部運営など、私の中でいいたい事はまだまだある。

著者はあとがきで宝塚歌劇のファンになった事を書いている。ベルばらブームによって宝塚歌劇団が息をふきかえした時期、くしくも阪急ブレーブスも黄金期を迎えた。
だが、その後の両者に訪れた運命はくっきりと分かれた。痛々しいほどに。

宝塚歌劇は東京に進出し、今では公演の千秋楽は宝塚大劇場、続いて有楽町の宝塚劇場の順に行われるという。要は公演のトリを東京に奪われているのだ。
東京という華やかな日本の中心に進出することに成功し、徐々にそちらに軸足を移しつつあるように見える歌劇団。
その一方で日本シリーズで三連覇したにもかかわらず、そして、徐々に観客数の向上が見られたにもかかわらず、身売りされた阪急ブレーブス。
人気のないパ・リーグで存続し続ける限り、日本の中心どころか、関西の人気球団にもなれないと判断した経営サイドに切り捨てられた悲運の球団。

たしかに、同じ西宮市に球団は二つも要らなかったかもしれない。
阪急ブレーブスが阪神タイガースの人気を凌駕することは、未来永劫なかったのかも知れない。
それでも、県庁所在地でもない一都市の西宮市民としては、二つのプロ野球球団を持てる奇跡に満足していた。そして、いつかは今津線シリーズが開かれることを待ち望んでいられた。
私は今もなお、ブレーブスを売却した判断は拙速だったと思う。

阪神間で育った私から見て、小林一三翁の打ち立てた電鉄経営の基本を打ち捨て、中央へとなびく今の阪急グループには魅力を感じない。
東京で仕事をする私から見ると、東京で無理に存在感を出そうとする今の阪急グループからは、ある種の痛々しさすら覚える。

たしかに経営は大切だ。赤字を垂れ流す球団を持ち続け、関西でも奥まった宝塚の地に遊園地と劇団を持っているだけでは、グループに発展の余地はないと考える心情もわかる。
だが、中央への進出に血道を上げる姿は、東京に住むものから見ると痛々しい。
それよりは、関西を地盤とし、球団と歌劇団と遊園地を維持し続けた方がはるかに気品が保てたのではないだろうか。東京一極集中の弊害が言われる今だからこそ。
それでこそ阪急、それでこそ逸翁の薫陶が行き渡った企業だと愛せたものを。
私のように歌劇団の運営の歪みを知る者にとっては、順調に思える歌劇団の経営すら、無理に無理を重ねているようにしか見えない。

著者があとがきに書いた歌劇団への愛着も、阪急ブレーブスという家を喪った痛みの裏返しであるように思う。
著者が本当に言いたいこと。それは、阪急グループに歴史を大切にしてほしい、ということではないだろうか。
タイトルにある影法師がブレーブスだとして、ブレーブスが超えた光とは何か。そのタイトルにこそ、著者の願いが込められているはずだ。

‘2019/5/22-2019/5/22


甲子園 歴史を変えた9試合


そろそろ夏の甲子園が始まる。本稿は百回記念大会が始まる前日に書き始め、百一回大会が始まる前日にアップした。

私の実家は甲子園球場に近い。なので、甲子園球場には幼い頃からなじみがある。長い夏休みを持て余す小学生には、高校野球の開催中の外野スタンド席は絶好の暇つぶしの場だった。最近でこそ有料になったと聞くが、私が子供の頃の外野席は無料だった。私の場合、外野スタンド席だけでなく、アルプススタンドにも無料で入ったことがある。長野高校の応援団にスカウトされ、応援団の頭数に入れられたのだ。全く縁のない選手たちに声援を送った経験はいまだに得難い経験だったと思っている。

また、私は甲子園球場のグラウンドにも入った。西宮市の小・中学生は、もれなく甲子園球場のグラウンドに入る機会が与えられるのだ。西宮市小学校連合体育大会、西宮市中学校連合体育大会は毎年行われ、グラウンドで体操やリレーを披露する。いや応なしに。私は都合四回、グラウンドで体操を披露したはずだ。

実際の選手たちが試合を行うグラウンド。そこに入り、広大な甲子園球場を見回す経験は格別だ。西宮市民の特権。私は初めて甲子園球場の中に入った時、高校野球の試合は何試合も見た経験があった。数え切れないほど。その中には球史でたびたび言及される有名な試合もある。

そうした経験は、私に甲子園に対する人一倍強い思いを持たせた。西宮市立図書館には野球史に関する本がたくさん並んでおり、子供の私は球史についての大人向けの本を何冊も読んだ。プロ野球史、高校野球史。だから、大正時代の名選手や昭和初期の名勝負。甲子園の歴史を彩る試合の数々は、私にとって子供の頃からの憧れの対象だ。

本書は、そんな私にとって久々の甲子園に関する本だ。内容はいわゆるスポーツ・ノンフィクション。雑誌の「Sports Graphice Number」で知られるような硬派な筆致で占められている。本書の発行元は小学館。Numberのようなスポーツ・ノンフィクションを出している印象はなかった。だから、こういう書籍が小学館から出されていることに少し意外な思いがあった。

だが、本書の内容はとてもしっかりしている。むしろ素晴らしいと言っても良い。本書は全部で9章からなっている。それぞれの章はそれぞれ違う執筆者によって書かれている。各章の末尾には執筆者の経歴が載っているが、私は誰も知らなかった。だが、誰が執筆しようと、内容が良ければ全く気にしない。

本書の各章で取り上げられる試合は、どれもが球史に残っている。

まず冒頭に取り上げられているのが、ハンカチ王子こと斉藤投手とマー君こと田中投手が決勝でぶつかった名試合。平成18年の夏、決勝。早稲田実業vs駒大苫小牧の試合だ。決勝再試合が行われたことでも知られている。この両試合をハンカチ王子は一人で投げぬいた。マー君は両試合ともリリーフの助けを借りたが、ハンカチ王子は一人でマウンドを守り、優勝を果たした。本編はハンカチ王子の力の源泉があるのかを解き明かしている。

本編にはハンカチ王子が鍼治療を受けていたことが描かれる。私はそのことを本書を読むまで知らなかった。プロに入った後、斎藤投手は今も鍼治療を受けているのだろうか。甲子園で名声を高めた斎藤投手のその後を知っているだけに、そのことが気になる。

本書は2007年に初版が出ている。当然、その後の両投手については何も書かれていない。マー君がニューヨーク・ヤンキースでローテーションの一員として活躍していること、ハンカチ王子が日本ハムに入団するも、芽が出ずに苦しんでいることも。

続いて描かれるのは、平成10年夏の決勝だ。横浜vs京都成章の試合。横浜の松坂投手が決勝でノーヒットノーランを59年ぶりに成し遂げたことで知られる。

本書が出版された後の松坂投手も浮き沈みのある野球人生を歩んでいる。西武ライオンズからレッドソックスに移籍し、ワールドシリーズでも優勝を果たした。ところが、日本に戻ってからはソフトバンクで三年間、一度も一軍で勝ち星を挙げられず、その翌年に拾われた中日ドラゴンズで復活を遂げた。本書ではレッドソックスに入団したところまでが書かれている。松坂投手の選手生活の成功を誰もが疑わなかった時期に描かれているからこそ、今、本編を読むと感慨が増す。

ところが本編の主役は京都成章の選手たちだ。決勝でノーヒットノーランを許してしまった男たちのその後の人生模様。これがまた面白い。それぞれが松坂投手のような有名人はない。だが、有名でなくても、人にはそれぞれドラマがある。どんな人の一生も一冊の小説になり得る。本編はそれをまさに思わせる内容だ。社会人野球、整体師、スポーツ関係のビジネスマン。高校時代の努力と思い出を糧に人生を生き抜く人々の実録。私がついに無縁のまま大人になり、今となっては永遠に得られない高校時代の死に物狂いの努力。だからこそ今、京都成章の選手たちに限らず、全ての球児がうらやましく思える。

続いては昭和59年夏の決勝。取手二vsPL学園。
わたしはこの試合、球場に観に行ったのか、それとも家で観戦したのか覚えていない。記憶はあいまいだ。わたしが最も甲子園観戦に熱中した時期は、この試合も含めたKKコンビの活躍した三年間に重なるというのに。PLがこの試合で負けた事は覚えている。この年の選抜も岩倉高校に負けたPL学園。だが、わたしの中ではこの時期のPL学園こそが歴代の最強チームだ。

それは、自分が最も高校野球にはまっていた時期に強さを見せつけたチームだから、ということもある。私がPL学園の打棒を目の当たりにしたのは、この翌年。昭和60年夏の二回戦の事だ。東海大山形を相手に29-7で打ちまくった試合だ。この試合、私は弟と外野スタンドで観ていた。そしてあまりの暑さに体調を崩しかけ、最後まで観ずに帰った。だが、打ちまくるPL学園の強さは今も私の印象に強く残っている。

その試合から30年ほどたったある日、私は桑田選手の講演を聞く機会があった。娘たちの小学校に桑田投手が講演に来てくれたのだ。巨人と西武に別れたKKコンビ。かたや巨人でケガに苦しんだ後、復活を遂げ、大リーグ挑戦まで果たした。かたや引退後、覚醒剤に手を出し、苦しい日々を送っている。清原選手については以前、ブログにも書いた。29-7で勝った試合では清原選手がマウンドに立つ姿まで見た。PL学園とはそれほどのチームだった。ところが今や野球部は廃部になっている。過ぎ去った月日を感じさせる思いだ。

昭和57年夏の準々決勝。池田vs早稲田実業。
私の中でPL学園がヒーローになった瞬間。それは池田高校を昭和58年夏の準決勝で破った時からだ。その大会でPLが打ち負かした池田高校は、私の中で大いなる悪役だった。なぜ池田高校が悪役になったか。それは、本章に書かれた通り。大ちゃんこと荒木投手を無慈悲なまでに滅多打ちにした打棒。それは、幼い私の心に池田高校=悪役と刻印を押すに十分だった。

アイドルとして甲子園を騒がした荒木投手のことは、幼い私もすでに知っていた。荒木投手のファンではなかったが、あれだけ騒がれれば意識しないほうが変だ。ちなみに私が初めて甲子園を意識したのはその前年のこと。地元の西宮から金村投手を擁して夏を制した報徳学園の活躍だ。この時、すでに荒木投手は二年生。この頃の甲子園は。毎年のように話題となる選手が私を惹きつけた。良き時代だ。

本編では早実と池田の数名の選手のその後も描いている。あの当時の早稲田実業、池田、PLの選手は、九人の皆が有名人だったといえる。だからこそ、その後の人生で良いことも悪いこともあったに違いない。著者は有名だからこそ被ったそれぞれの人生の変転を描く。当時のメンバーが年月をへて、調布で再び縁を結ぶくだりなど、人生の妙味そのものだ。

昭和49年夏の二回戦。東海大相模vs土浦日大。
この試合は私が生まれた翌年に行われた。この試合で対決した両チームの中心選手は、プロ野球の世界でも甲子園を舞台に戦う。原選手と工藤選手のことだ。工藤選手は1980年代の阪神タイガースの主戦投手としておなじみ。原選手はいうまでもなく甲子園でやじられる対象であり、今はジャイアンツの監督だ。

本章は原貢監督を抜きには語れない。この数年前に三池工を率いて夏を制した原監督。その性根には炭鉱町の厳しさが根付いている。この試合でサヨナラのホームを踏んだ村中選手もまた、炭鉱町を転々とした少年期を過ごした方で、今は東海大甲府の監督をされているという。土浦日大の村田選手の人生も野球とは縁が切れない。厳しさが敬遠される昨今、当時は普通に行われていたであろうスパルタ指導は顧みられない。だが、本編を読むとスパルタ指導があっての制覇であることは間違いない。その判断は人によってそれぞれだが、その精神までは否定したくないものだ。

平成8年夏の決勝。松山商業vs熊本工。
この試合が今の世代にとってのレジェンドの試合になるだろうか。ここで戦った二校は大会創成期から古豪の名を確かにしている。そんな二校が60年以上の時をへて決勝で戦う。しかもともに公立校。興奮しない方がおかしい。ところがこの頃の私は、甲子園から関心が離れていた。球児どころか自分の人生の面倒を見られずにさまよっていた時期。

当時の私には今と比べて圧倒的に時間の余裕があり、まだ甲子園の実家に住んでいた。なので、タイミングが許せば生でバックホームを見られたかもしれない。今さらいっても仕方がないが、私の人生自体が、本編で描かれた奇跡のバックホームのようなドラマを求めていた雌伏の時期だったこともあり、この試合は見ておきたかった。

直前のライト守備交代。そして直後の大飛球とバックホームによる捕殺。まさにドラマチック。バックホームの主役である人物は本編ではテレビ業界の営業マン。当時、両校を率いた名監督も既に他界、もしくは引退している。もう本稿を書いている今から数えても22年もの時がたっている。それは伝説にもなるはずだ。

昭和36年夏の準決勝。浪商vs法政二。
そう考えると、本編が取り上げたこの試合は、もはやレジェンドどころか歴史に属するのだろう。長い高校野球の歴史でも速球の速さでは五本の指に入ったと称される尾崎行雄氏。そして私が野球をみ始めた頃には、既に現役を引退する寸前だった柴田選手。両校が三期連続でぶつかり、どの大会も勝った側のチームがその大会を制したというから、並みのライバル関係ではない。

オールドファンにとっては今も高校野球で最強チームというと、この二チームが挙がるという。時代を重ねるにつれ、より強いチームは現れた。だが、屈指の実力を持つ二チームが同時に並び立ち、しのぎを削った時期はこの頃の他にない。この時期を知る人は幸運だと思う。宿命のライバルという言葉は、この二チームにこそふさわしい。二チームに所属するメンバーを見ると、私が名前を知るプロ野球選手が何人もいる。それほどに実力が抜きんでいたのだろう。それにしても、一度は尾崎投手の投げる球を生で見たかったと思う。

平成12年夏の三回戦。智辯和歌山vsPL学園。
これまた有名な対決だ。この時、私は既に東京に出て結婚していた。私が人生で高校野球から最も離れていた頃。だから本編で書かれる試合の内容にはほとんど覚えがない。この試合に出場していた選手たちすら、今や30代後半。この試合の出ていた選手の中でも、後年プロに進んだ選手が数名いるとか。だが、残念なことに彼らの活躍も私の記憶にはほとんどない。

当時の私は一生懸命、東京で社会人になろうとしていた。それを差し引いても、この頃の私が野球観戦から遠ざかっていたことは残念でならない。甲子園歴史館にはよくいくが、展示を見ていても、この頃の高校野球が一番あやふやだ。

昭和44年夏の決勝。松山商vs三沢。
冒頭に書いた通り、子供の頃の私は高校野球史を取り上げた本はよく読んでいた。その中で上の浪商vs法政二と並び、この決勝再試合は必ず取り上げられていたように思う。三沢のエースだった太田幸司氏は、プロ入り後、近鉄で活躍されており、プロを引退した後もよく実家の関西地区のラジオでお声は耳にしていた。無欲でありながらしぶとく勝ち進んだ背景に、基地の街三沢の性格があることを著者は指摘する。今の三沢高校には復活の兆しが芽生えているとか。

この試合は本書の冒頭に描かれたハンカチ王子とマー君による決勝再試合によって、伝説の度合いが薄れた。とはいえ、この試合もやはり伝説であることには変わりない。

本書が取り上げているのはこの9試合のみだ。だが、中等野球から始まる長い大会の歴史には他にもあまたの名勝負があった。春の選抜大会にも。そうした試合は本書には取り上げられていない。たとえば昭和54年の箕島vs星稜。江川投手が涙を飲んだ銚子商との試合。奇跡的な逆転勝利で知られる昭和36年の報徳学園と倉敷商の試合。そうした試合が取り上げられていない理由は分からない。取材がうまくいかなかったのか、その後の人生模様を描くうえで差しさわりがあったのか。ひょっとすると他の書籍でノンフィクションの題材になったからなのか。延長25回の激闘で知られる、昭和8年の中京商vs明石中の試合も本書には登場しない。私の父が明石高の出身なのでなおさら読みたかったと思う。

100回記念大会の開幕日。私は実家に帰った。観戦はできなかったものの、第四試合のどよめきを球場の外から見届けた。そのかわり、甲子園歴史館に入って大会の歴史の重みを再び感じ取った。明日、百一回目の甲子園の夏が始まる。

百回大会は金足農業の快進撃が大会を盛り上げ、今年も地方大会からさまざまなドラマが繰り広げられた。また、素晴らしいドラマが見られればと思う。私も合間をみて観戦したいと思う。

‘2018/07/23-2018/07/24


カミソリシュート―V9巨人に立ち向かったホエールズのエース


当ページのブログでは何度も書いているが、私の実家は甲子園球場のすぐ近くだ。私が小、中学生だった9年間はすっぽり80年代におさまっている。つまり、80年代の甲子園とともに育った。タイガースが怒涛の打撃を披露する強さや、脆く投壊する弱さ。高校球児が春夏に躍動する姿。歓声や場内アナウンスが家にまで届き、高校野球は外野席が無料だったので小学生の暇つぶしにはうってつけ。そんな環境に身を置いた私が野球の歴史に興味を持ったのは自然の流れだ。難しい大人向けのプロ・アマ野球に関する野球史や自伝を読み、自分の知らない30年代から70年代の野球に憧れを抱く少年。野球史に強い興味を抱いた私の志は、大人になった今もまだ健在だ。

著者は、甲子園の優勝投手でありながら、投手として名球会に入った唯一の人物だ。ところが、私にとってはそれほどなじみがなかった。私が野球に興味を持ち始めた頃もまだ現役で活躍していたにもかかわらず。それは、著者が所属していたのが横浜の大洋ホエールズで、甲子園ではあまり見かけなかったからかもしれない。そもそも、著者の全盛期は私が物心つく前。なじみがなかったのも無理はない。

しかし、それから長い年月をへて、著者に親しむ機会が増えてきた。というのも、私はこのところ仕事で横浜スタジアムの近くによく行く。その度にベイスターズのロゴをよく見かける。そして、最近のベイスターズは親会社がDeNAになってから、マーケティングや観客の誘致に力を入れている。昨年の秋にはレジェンドマッチ開催のポスターを駅で見かけ、とても行きたかった。当然著者もその中のメンバーに入っている。

実は本稿を書くにあたり、レジェンドマッチの動画を見てみた。70歳になった著者の投球はさすがに全盛期の豪球とは程遠い。が、先発を任されるあたりはさすがだ。ベイスターズ、いや、ホエールズの歴史の中でも著者が投手として別格だったことがよく分かる。そんな著者は、2017年度の野球殿堂入りまで果たしている。

なお、同時に殿堂に選ばれたのは星野仙一氏。くしくも本書を読んでから本稿を書くまでの一週間に、星野氏が急死するニュースが飛び込んできたばかり。そして著者と星野氏は同じ岡山の高校球界でしのぎを削った仲。著者より一学年上の星野氏のことは本書でもたくさん触れられている。

本書は著者のプロ一年目の日々から始まる。プロの洗礼を浴び、これではいかんと危機感を持つ著者の日々。プロで一皮むけた著者の姿を描いた後、著者の生い立ちから語り直す構成になっている。

よく、ピッチャーとはアクが強い性格でなければ務まらないという。最近のプロ野球の投手にはあまり感じられないが、かつての野球界にはそういう自我の強いピッチャーが多いように思う。別所投手、金田投手、村山投手、江夏投手、鈴木投手、堀内投手、星野投手など。それを証明するかのように、本書は冒頭から著者の誇り高き性格が感じられる筆致が目立つ。特に1970年の最優秀防御率のタイトルを、当時、監督と投手を兼任していた村山投手にかっさらわれた記述など、著者の負けず嫌いの正確がよく表れていると思った。投球回数の少ない村山投手に負けたのがよほど悔しかったらしい。でも、それでいいのだと思う。著者は巨人からドラフト指名の約束をほごにされ、打倒巨人の決意を胸に球界を代表する巨人キラーとなった。対巨人戦の勝ち星は歴代二位というから大したものだ。一位は四百勝投手である金田投手であり、なおさら著者のすごさが際立つ。著者は通算成績で長嶋選手を抑え込んだことにも強い誇りを持っているようだ。

著者の負けん気の強さが前に出ているが、それ以上に、先輩・後輩のけじめをきちんとつけていることが印象に残る。著者からみた年上の方には例外なく「さん」付けがされているのだ。星野さんもそう。プロでは著者の方が少し先輩だが、学年は星野氏の方が一つ上。「さん」付けについては本書はとても徹底している。そのため、本書を読んでいると、誰が著者よりも年上なのかすぐに分かる。

もう一つ本書が爽やかなこと。それは著者が弱かったチームのことを全く悪く言わないことだ。著者は、プロ野球選手としての生涯をホエールズに捧げた。そのため、一度もペナントレースの優勝を味わっていない。甲子園で優勝し、社会人野球の日石でも優勝したのに。ところが、負けん気の強さにも関わらず、著者からは一度もホエールズに対する悪口も愚痴も吐かれない。そこはさすがだ。1998年にベイスターズが成し遂げた日本一について、自分がまったく関われなかったことが寂しいと書かれているが、そこをぐっと抑えて多くは語らないところに著者の矜持を感じた。

もっとも、生え抜き選手をもっと大切にしてほしいと、球団に対して注文は忘れていない。著者はベイスターズ・スポーツコミュニティの理事長を務め、横浜から球団が出て行ってほしくないと書いている。だからこそ、冒頭に書いたようなレジェンドマッチのような形で投球を披露できたことは良かったのではないだろうか。

それにしても、著者が大リーグのアスレチックスにスカウトされていたとは知らなかった。さらには、冒頭で触れたように甲子園優勝投手で、投手として名球会に入ったのは著者だけである事実も。ともに本書を読むことで知った事実だ。

野球史が好きな私として何がしびれるって、著者のように弱いチームにいながら、巨人に立ち向かった選手たちだ。こういう選手たちが戦後のプロ野球を盛り上げていったことに異を唱える人はいないだろう。正直、今も巨人を球界の盟主とか、かつての栄光に酔ったかのように巨人こそが一強であると書き立てるスポーツ紙(特に報知)にはうんざりしているし、もっというと阪神の事しか書かない在阪スポーツ紙にも興味を失っている。今や時代は一極集中ではなく地方創生なのだから。それは日本という国が成熟フェーズに入ったことの証だともいえる。だが、著者が現役の頃は、日本が登り調子だった。その成長を先頭に立って引っ張っていたのが東京であり、その象徴こそが「巨人、大鵬、卵焼き」の巨人だったことは誰にも否定できない。V9とは、右肩上がりの日本を如実に現した出来事だったのだ。そして、それだけ強い巨人であったからこそ、地方の人にとってはまぶしさと憧れの対象でもあり、目標にもなりえたのだ。そのシンボルともいえる球団には敵役がいる。著者や江夏投手、星野投手、松岡投手や外木場投手のような。そうした他球団のエースが巨人に立ち向かう姿は高度成長を遂げる日本の縮図でもあり、だからこそ共感が集まったのだと思う。

私は、かつて日本シリーズで三年連けて巨人を破ったことで知られる西鉄ライオンズのファンでもある。だからこそ、数年前に催されたライオンズ・クラシックにはとても行きたかった。同じくらい、ベイスターズのレジェンドマッチがまた開かれた暁にはぜひ行きたいと思っている。巨人に立ち向かい、ともにプロ野球を、そして戦後の日本を盛り上げた立役者たちに敬意を示す意味でも。

まずは、横浜スタジアムでの公式戦の観戦かな。できれば阪神戦が良いと思う。そして、実家に帰った際には甲子園歴史館で、著者が甲子園で優勝した記録を探してみたいと思う。

‘2017/12/27-2017/12/27


ルーズヴェルト・ゲーム


アメリカのルーズベルト大統領は、 野球の試合で一番面白いスコアは8対7だ、という言葉を残したという。本書のタイトルの由来はそこから来ている。私は本書を読むまでこの挿話を知らなかった。

本書で著者が取り上げたのは社会人野球だ。青島製作所という中堅機械メーカーを舞台に、社会人野球に賭ける男たちを主人公としている。

社会人野球とは、面白い切り口だ。やっていることはプロ野球と同じ。それなのにアマチュアとして一段低く見られがち。選手たちはその企業の正社員または契約社員の身分として大会を戦う。正社員ならまだいい。その企業と終身雇用のプロ契約を結んでいるようなものだから。しかし、本書に登場する青島製作所野球部の選手たちはほとんどが契約社員だ。アマチュア扱いを受ける社会人野球のなかでも、より低いアマチュア扱いに甘んじているのが野球部の契約社員なのだ。契約社員は、雇用が保証された正社員とは違う。業務の繁閑に合わせて首にされても文句がいえない身分だ。ましてや、企業の福利厚生の延長である野球専業の契約社員であるなら、その立場はさらに弱い。私も本書を読むまでは勘違いしていたが、社会人野球を雇用が保証された身分で行う企業庇護の余技と見ると大きな誤りをおかす。

青島製作所野球部は創業者の青島が立ち上げた。その青島も年齢から会長にしりぞき、営業出身の細川に社長を譲る。その折り、日本を不況の波が洗う。青島製作所もその波をモロにかぶり、大手からの受注が減ってしまう。さらにはライバル社からは熾烈な価格攻勢を受ける。

業績が悪化すると銀行からの融資も渋り気味となる。その結果、コスト圧縮が全社的な掛け声としてまかり通る。そうなると真っ先に槍玉に挙げられるのは野球部のような福利厚生。個々の社員に直接恩恵のある福利厚生ならまだいい。しかし、野球部のような企業チームはどう評価すべきか。本書にも総務部長がチーム存続を社内に説得するための根拠として、野球部の経済効果を試算するシーンがある。だが、結果は芳しくない。企業の広告塔としての効果は、プロ野球ならまだしも社会人野球だと低く見積もらざるを得ないのだろう。

前監督はチームを去り、ライバルチームの監督に収まる。ついでに主力選手も引き抜いてゆく。そのライバルチームこそは、青島製作所にとっては本業の競業相手でもあるミツワ電機。営業力に定評のあるミツワ電機は、青島製作所の主力分野にも参入してしのぎを削る関係だ。ただでさえ不況で売上が減っているところ、どうやって青島製作所は生き残るのか。野球部は廃部への圧力をはね除けられるのか、という筋書きでグイグイと読者を読ませる。

正直なところを言えば、本書の筋書きは著者の代表作である『下町ロケット』に似ている。会社の危機にめげそうになった経営者が、社員の頑張りに勇気をもらい、災い転じて会社を飛躍させる粗筋は同じだ。

だから本レビューでは『下町ロケット』と筋書きが似かよっている事にはこれ以上触れないことにする。しかし、本書が 『下町ロケット』 よりもさらに深みを増した物語になっていることは言っておきたい。それは、会社にとって遊び場は必要か、という観点を掘り下げていることにある。半沢直樹にせよ、『鉄の骨』にせよ、著者の小説にはビジネスや資本の論理が太い芯として貫かれている。その論理の檻の中で、精一杯我欲を満たしたり意地を張る人々の姿を描くのが著者の得意とする作風だ。作中に登場するゴルフや呑みのレクリエーションは、すべてはビジネスの論理のため。今までの著者の作品には、そういう思想が透けて見えていたように思う。社業の隆盛に向け、社員一丸となって努力する姿は一見すると麗しい。でも、企業とはそんなに一面だけの切り口でとらえられるものなのだろうか。社員の全てが小賢しく立ち回る大人だけではないはず。平日は業務をきっちりとこなす。でもら、休みには童心に帰り、羽目を外して英気を養う。そういう社員がいてこそ、会社とは伸びてゆくのではないか。

悩める細川が、廃部の瀬戸際に揺れる野球部の試合を観戦に来て、応援に童心に帰る社員たちの業務とは違う一面に触れる。同じく観戦に来ていた青島から、8対7で終わる試合が一番面白いという言葉を聞き、目をひらかされるシーンもそう。窮地に落ちていても、4対7の劣勢から、逆転満塁ホームランで勝ち越せるのが野球の魅力の一つだ。言ってしまえば経営も野球もゲームにすぎない。ビジネスライクな論理だけでは人は動かないし、会社も続かない。それは、仕事も遊びも百パーセントでやることをよしとする私にとって、大きく頷ける考えだ。

本稿を書くにあたってあらためてそのエピソードの由来を調べてみたところ、このようなページがあった。この中でドラマ版のあらすじが記されているが、本書とは細かい部分で少々違っている。だが、ルーズベルト大統領の言葉が、このように裏付けられたのはとても意義深いことだ。

こういった努力が満塁ホームランで報われることもあれば、そうでないこともあるだろう。だが、たゆまぬ努力が全くの無駄には終わらない可能性だってある。読者としては、前向きに受け取りたいものだ。著者も努力を続けてきた結果、ベストセラー作家の仲間入りをした。企業論理を追求してきた著者の作風も、本書によって一段と深い風味をかもすことになるはず。今後とも楽しみに読ませてもらえればと思う。

‘2016/08/09-2016/08/09


赤ヘル1975


世に原爆を題材にした小説は数あるが、被爆後のヒロシマを描いた代表作の一つとして本書を取り上げてもよいのではないか。戦後の広島の復興を、1975年の広島東洋カープ初優勝に象徴させた本書は、全く新しい切り口で原爆を描いている。

そもそも私は、広島東洋カープを舞台にした小説自体をあまり知らない。ノンフィクションであれば、「江夏の21球」を皮切りに、カープを舞台とした文章は幾つか読んでいる。樽募金のエピソードは白石選手や石本監督の自伝などでお馴染みだ。カープの歴史は、戦後プロ野球史の多様性を語る上で欠かせない。だが、小説の形式でカープを語った作品を私は知らない。私にとって本書は初めてのカープ小説のはずだ。そんな私に、原爆とカープを巧みに交わらせた本書はとても新鮮に映った。

本書は1975年のセ・リーグペナントレースの経過とともに物語が進む。春先からの赤ヘル旋風と称されるカープの戦いぶり。これがノンフィクション並に克明に描かれる。毎年、Bクラスでシーズンを終わることが当たり前だったカープ。しかし、カープとて手をこまねいていた訳ではない。1975年のカープは、シーズン前にユニフォームを一新して臨んだ。それまでの紺から、鮮烈な赤へ。チームカラーの劇的な変化。しかも、それを推進したのはカープにとって初の外国人の監督であるルーツ。

本書は、慣れ親しんだ紺から赤への変化を受け入れられない少年ヤスの葛藤で幕をあげる。「赤はおなごの色じゃ」という子供らしい葛藤で。

ヤスとユキオは中学一年生の熱狂的なカープファンだ。新聞記者を志望するユキオは皆が新学期に慣れないうちから、クラスの掲示板にカープ新聞を貼り出すことを提案する。本書は著者の地の文に加え、誤字脱字だらけのカープ新聞の記事がカープ初優勝までの盛り上がりを描いていく。その構成がとてもいい。カープファンですら期待薄だったシーズン開始から、奇跡とも言われた初優勝まで。読者は1975年当時のカープ優勝までの歩みや人々の盛り上がりをともに体験することになる。

21世紀の今でこそカープ女子の存在もあって人気は全国区だ。だが、1975年のシーズン当初は地方都市広島に本拠地を置く万年Bクラスのマイナーチーム。単にカープファンの一喜一憂を書くだけでは全国の読者が話に乗りづらい。著者はそこでマナブという東京から引っ越してきた少年を主人公におく。根っからのカープファンのヤスやユキオを差し置きマナブの視点で描いたことで、本書は全国の読者につながる視点を得た。

マナブがヤスとユキオに出会うシーンも秀逸だ。引っ越し早々、町の探検にジャイアンツの帽子をかぶって出かけるマナブ。カープ狂のヤスとユキオが因縁をつけるところから彼らの友情は始まる。二人と触れ合いながら、マナブは広島の街を徐々に理解してゆく。本書はマナブの異邦人の視点で広島を描いているため、広島に縁のない読者にも我が事のように広島を思わせる効果を挙げている。マナブが広島を理解してゆくにつれ、カープは躍進を続け、原爆投下後30年たってもなお残り続ける被爆者の実情や複雑な思いが徐々に現れてゆく。とても考えられた構成だと思う。

本書は単に広島東洋カープという万年Bクラスのチームが奮起して優勝した、という小説ではない。なぜカープ優勝が昭和史の年表で特筆されているのか。なぜあれほどまでに当時の広島の人々は熱狂したのか。それを理解するには、被曝都市としての広島を描くことが不可欠だ。野球史を詳しく掘り下げただけのノンフィクションではその辺りは描けない。著者が小説の体裁を採ったのもそれゆえだと思う。そして地元広島からの視点だけでなく、外からの視点で描いたことに本書の意味がある。

1975年はまだ被曝して30年しか経っていないのだ。身内や親族の誰かが被曝し肌を無残にめくり上げられた姿。めくり上げられ、吹き飛ばされ、燃え上がり続ける凄惨で不条理で鮮烈な街。薄暗さの中に、鮮血や炎の赤が揺れる網膜に刻まれる。30年経っても、被爆者たちが見た凄惨な光景は心にしまいこまれ、色褪せることはない。被曝体験が風化するにはまだ早すぎる。

本書には印象的な登場人物がたくさん出てくるが、横山庄造さんと妻の菊江さんも原爆で悲惨な目にあった一人。

家族全員を喪った菊江さんは、家族のそれぞれを広島以外の場所で喪っている。戦死や空襲など。広島だけが戦争被害に遭ったわけではないとの視点を著者はさりげなく提示する。同居する庄造さんは体中にケロイドを遺し、初対面のマナブを戦慄させる。長年、原爆体験には口をつぐみ続けてきたが、NHKが募った原爆体験の絵に取り組む決意を固める。庄造さんは、貼り絵に自らの表現の手段を見出す。庄造さんを手伝うため、色とりどりの紙を集めるマナブとクラスメートの真理子。その貼り絵は庄造さんの思いを表現するにはあまりに薄く、貼り絵はさまざまな色で厚く覆われる。庄造さんが貼り絵で混ぜ合わせる色が、カープの鮮やかな赤と対比されていることはいうまでもない。

カープが優勝するためには、生半可な色では駄目なのだ。あの夏の朝、流されたどの血の色よりも鮮烈な赤。しかもそれを選んだのは原爆を落とした国から来た監督。そこには因縁すら感じる。だがそんな因縁を乗り越えて変化を選んだのは広島の人々。そこには戦後の復興の確信を持ちたいという願いと、それをカープに託す人々の希望があったはずだ。ルーツ監督は意見の相違から早々に帰国してしまうが、チームは首位戦線に食い下がる。あの赤は、投下後の30年を思い起こすとともに、新たな広島を見据える為の赤なのだ。

マナブも広島に馴染んで行く。が、マナブには生活力のない父勝征がいた。そもそもマナブが広島に来たのも、父の商売の都合による。サラリーマンとしての勤めに向かず、ヤマっ気に富んだオイシイ話にばかり目の向く父は、広島にきた当初の商売に見切りをつけ、次のもうけ話に飛び付く。その商売というのが、ねずみ講。しかもあろうことか、ヤスの家業である角打ち酒場の客や、ヤスの母にまで声をかける。

カープ初優勝に熱狂する広島をよそに、夜逃げも同然に広島を離れるマナブと父。しかし、ヤスはマナブに友情を抱き続ける。あわや家を崩壊させかけた男の息子なのに。それは、マナブが度々示したヤスへの気遣いや、広島を理解しよう、溶け込もうとするマナブの努力が報われた瞬間である。だが、私は他にもあると思う。それは父がおかした過ちを息子がかぶることはない、という著者のメッセージではないか。父とはつまり、原爆を投下したアメリカの関係者を指し、太平洋戦争開戦を食い止められなかった当時の日本人を指す。息子とは、投下されて30年を経た広島の人々。血を思わせる赤を米国人の監督に提示され、受け入れた子の度量は父の過ちを許すかのよう。

過去を忘れちゃぁいけんが、前も向かにゃぁ。その思いに報い、優勝を果たしたのが、カープの面々である。日本の昭和史にあってカープ初優勝が特記されるのも、それ故のこと。そして、原爆を取り扱った小説の代表作の一つに、と私が本書を推す理由もそこにある。

本書を読み終えたタイミングは、米国のオバマ大統領が広島を訪問し、原爆慰霊碑に献花した印象的な出来事から少し経った頃。それに合わせたかのようにカープも「神ってる」快進撃を見せ、25年ぶりのリーグ優勝を遂げることになる。7度目のリーグ優勝は、すでにカープが全国区の人気チームになった後の話。1度目のリーグ優勝は、やはり格別な出来事だったのだとあらためて思った。

‘2016/06/21-2016/06/22


戦場に散った野球人たち


東京ドームに併設されている野球体育博物館。私が毎日通っても飽きないと断言できる博物館の一つだ。だが、忙しさのあまり、なかなか訪れる暇がない。本書を読み終えた時点では、最後に訪れてから10年以上経っており、生涯でも二三度しか訪問できていなかった。

数年前、当時後楽園に本社のあったサイボウズ社でのイベントで後楽園を訪れたことがあった。その帰り、野球体育博物館を訪問したのだが、閉館時刻に間に合わず涙を呑んだ。その時、館内に入れないのならせめて一目見ようと探し回ったのが鎮魂の碑。その時点で私はまだ一度も鎮魂の碑を観たことがなかった。にもかかわらず、その時は鎮魂の碑を見つけられず退散した。

小学校三、四年生の頃から野球史を読むのが好きで、大人向けの野球史の書物を読んでいた私。戦前の野球人についての記事を読むと必ず出てくるのが戦没の文字だ。子供心にも、その言葉には志半ばで奪われた命の無念のようなものを感じていた。沢村栄治、景浦将、吉原正喜、嶋清一、楠本保。子供の私にとって、それら戦没野球人は特別な存在だった。子供の頃の私が意識した初めての戦争犠牲者とは、戦没野球人のことだったように思う。それもあって、一度は鎮魂の碑は見たいと思っていた。

本書は、それら戦没野球人を列伝式に取り上げている。

「新富卯三郎」「景浦将」「沢村栄治」「吉原正喜」「嶋清一」「林安夫」「石丸進一」
本書で取り上げられているのはこちらの七名。いずれも戦前のプロ野球選手であり、戦没して靖国神社の祭神となっている。

それぞれの章では、中等野球や大学、プロ野球と故人の関わりに筆を費やしている。そして、戦中の消息と分かっている限りの最期の瞬間を描き出している。これは各章に共通する構成だ。

本書で取り上げられた戦没野球人のうち、「新富卯三郎」はかろうじて名前を記憶していた程度。球歴やその死に様など詳細な事実を知ったのは本書を読んでの事だ。また「林安夫」は凄まじいまでのシーズン登板回数で名前を知っていた。だが、最期の様子は本書を読むまで知らなかった。

「景浦将」「沢村栄治」「吉原正喜」「嶋清一」については私が子どもの頃からすでに伝説の人々。その無念さは子供の私にもつたわっていた。後年、書かれた記事や書籍のいくつかは読んだことがある。でも、本書を通して初めて知ったこともある。「沢村栄治」の師匠が巨人の往年のエースだった中村稔氏の師匠と同じであるエピソードは聞いたことがあった。が、巨人・中日で活躍した西本聖投手のフォームが「沢村栄治」の師匠を通して中村稔氏から伝授された事は本書を読んで初めて知った。テレビや野球カードでも西本氏の豪快な足をあげるフォームはおなじみだったが、それが沢村氏のあのフォームに由来を持っているとは知らなかった。

「石丸進一」については、実は伝記本を持っている。なので、最期のキャッチボールなどの逸話についても知っていた。

知っていた方も知らなかった事も含め、なぜ戦没野球人の逸話は人を惹きつけるものを持っているのだろう。それは多分、好きなものを戦争にうばわれた、という真っ直ぐな悲しみが伝わって来るからではないだろうか。戦争に命を奪われた人は、当たり前だが戦没野球人以外にもたくさんいる。出征して異国の地に眠り、靖国神社の祭神と祀られている人。核分裂の熱線に一瞬で妬かれた人。機銃掃射や焼夷弾に貫かれ焼かれた人。いずれも不条理な死を余儀なくされた。それらの犠牲者と戦没野球人を差別化するのが愚かな事はもちろんだ。それらの戦没者の方々にも好きな人やスポーツ、物事はあったはずだ。でも、戦没野球人を描いた文章からは好きな野球を奪われた無念がストレートに迫ってきたのだ。多分、子供の頃の私にはより一層強烈に焼き付けられた。

殺される、という悲劇にはさまざまな想いがついてまわる。妻や子や親にとってみれば親しい人が喪われた悲しみがあるはずだ。では、殺された当人にとってみればどうだろう。多分、殺される瞬間の恐怖もあるだろう。だが、それよりも自らが殺されることで、自分の一切の可能性が閉ざされる事、そして、したいと思っていた事が未来永劫できなくなる。その理不尽さへの無念ではないだろうか。

彼ら戦没野球人達が打ち込んだ野球。それは、今の我々が野球に対してもつ重みとは明らかに違う。彼らが打ち込んだ野球とは、野球害毒論として新聞紙上で公然と非難される野球であり、卑しい職業として風当たりの強かった職業野球の野球であり、敵性スポーツとして軍部から睨まれた野球なのだ。そんな野球への風潮をモノともせずに野球に打ち込んだ彼らがだからこそ、好きな野球を戦争に奪われたとの無念さが我々にも迫って来るのではないだろうか。

著者もおそらくは同じ思いを持っているのではないか。著者は私と同じ年でもあり、興味の向きも似ていることから、密かに注目しているノンフィクションライターである。以前にも『昭和十七年の夏 幻の甲子園―戦時下の球児たち』を読み、レビューを書いた。

本作もまた、私の心にビシッとハマる一作だ。著者のノンフィクションは私の心に訴える何かがある。

本書を読んで一ヶ月後、私は衝動を抑えられず、野球体育博物館を訪れた。もちろん、鎮魂の碑にも。その前でしばしたたずみ、好きな事を戦争で諦めざるをえなかった彼らに思いを馳せた。彼らは、物言わぬまま名前だけを私の前にさらしている。おそらく、戦没野球人達の名前は鎮魂の碑によって永らく残されることだろう。だが、彼らの事績は名前だけではない。本書で書かれたような、それぞれの青春や希望や人生、そして草創期の野球に捧げたという事実も忘れずにいたいものだ。

‘2016/01/12-2016/01/14


左腕の誇り 江夏豊自伝


本書を読み終えて半年が経とうとしている。その間、本書のレビューは後回しにし、他の本のレビューを優先した。それが幸いしたのか、本書をレビューとして蘇らせるのに時宜を得た事件が起きた。その事件とは、清原さんの覚醒剤による逮捕。

逮捕以来二週間がすぎたが、まだマスコミの報道は続いている。プロ野球界を揺るがす事件に対し糾弾の炎よ燃え盛れ、とばかりに報道はまだ鎮火する様子をみせない。

私は逮捕当日、そして10日後にブログを書いた。共に清原さんの将来の更生と復活を願う主旨だ。そしてその両方で江夏氏を引き合いに出した。覚醒剤で逮捕され、服役を経て、見事に更生した江夏氏のことを。江夏氏が更生できたのだから、清原さんにできないはずはない、と。

何故そう書けたのか。それは、本書の内容が鮮やかに頭に入っていたから。

本書では球史に残る名投手、江夏豊が余すことなく自らを語っている。自伝故に、手前味噌なところもあるかと思いきや、その内容は率直だ。少年時代の野球との出会い。甲子園には手の届かなかった高校時代。阪神入団のいきさつ。林コーチとの出会いと投球への開眼。藤本監督の薫陶。村山投手との交流。そして年間奪三振数世界一の栄光。

本書を読むと、投手江夏にとっての体力的なピークが入団二年目だったことがわかる。

長嶋選手のライバルであった村山投手から、王選手をライバルとするように指示された逸話はよく知られている。ライバルは王選手。それを実践するように、日本記録タイとなる三振を王選手から奪い、その後の打者一巡を三振を奪うことなくしのぎ、再び王選手から三振を奪って日本記録を達成する。プロ野球史に残る名勝負といえるだろう。

若い時にのみ許される、怖いもの知らずの天狗。「一度は大いにテングになるべきだと僕は思っています」「しかしテングの鼻は必ずどこかで折れる。自分に自信が持てなくなるときが何度もやってくる。そのとき、どう立ち直るかが、その人の価値だと思うんですね」(140P)。後年の江夏氏は、この言葉を実践した。また、このような言葉もある。「野球という一つの世界で、天性だけで飯が食えるといったら一年二年です。あとは本人の努力と工夫」(147P)

三年目以降の江夏投手は、身体の故障や不調との戦いだった。私自身、本書を読むまでは勘違いしていた。オールスターでの九連続奪三振。延長十一回に自らのホームランでノーヒットノーラン達成。江夏の21球で知られる1979年日本シリーズの投球。どれも投手江夏の才能が成せた技、と。ところが本書を読むと、それらの偉業の裏に江夏氏の苦悩と努力と克服があったことが分かる。

特にオールスターでの9連続奪三振は、剛球投手の真骨頂と思われがちだ。しかし、すでにこの時、投手江夏は心臓に病を抱えた状態だった。ニトログリセリンが手放せなくなっていた経緯も本書には綴られている。昭和46年といえば、巨人がV7を成し遂げた年。巨人に結果としてV9を許したとはいえ、当時の阪神が弱かったかというとそうではない。むしろ、巨人によく喰らいついていたといえる。江夏氏は心臓病を抱えながらエースとして奮闘し、なおかつオールスターで空前絶後の偉業を達成したのだから大した者だ。しかもこの試合では、自らホームランも放っている。9連続奪三振をなしとげながら、打席ではホームランを放つなど、もはや漫画の世界の話だ。漫画の世界という言葉で思い出すのはこのところの大谷選手の活躍だ。しかし、四十年以上前に、江夏氏のような投手がいたことを忘れてはならない。

そしてこの心臓病発症と、9連続奪三振の偉業を境に、江夏氏の球運に陰りが生ずる。

江夏氏といえば傲岸不遜な一匹狼とのイメージがついて回っている。実際、本書を通して読むと、要領よく立ち回るのが苦手な氏の生き方が伝わってくる。決して自分から壁を築いている訳でもない。人を自ら遠ざけることもしない。ただ愛想よく振る舞うのが苦手なだけ。でも、圧倒的な球威を持つゆえに、江夏氏の周りには人が集まる。それを疑わずに受け入れる江夏氏は、エースとして持ち上げられる。そして、利用される。

人が集まれば派閥が出来上がる。当時の阪神タイガースは、村山投手という大エースに、今牛若丸と称された吉田選手がいた。その中で江夏氏は派閥争いに巻き込まれ、意に染まぬ形で村山投手とも気まずくなってしまう。後を継いだ金田監督との関係も当初は蜜月だったが、監督自身の人望のなさに、江夏氏から愛想をつかす。

恐らくはこういった派閥にほとほと嫌気がさしたのだろう。江夏氏が徐々に孤高の一匹狼の殻をまとっていく様子がよくわかる。江夏氏の言葉に辛辣な風味が混じり始めるのもこの辺りから。このあたり、氏と同じく派閥嫌いな私にとっては身につまされる思いで読んだ。

そして江夏氏の孤高のイメージは、本書内で吉田氏のことを「吉田義男」とほぼ呼び捨てする事件で固まる。江夏氏にそうさせたのは何か。それは、阪神タイガースからのトレード放出。江夏氏に無断で、騙し討ちのような形で南海へトレードに出されたのだ。未だにこの件では、江夏氏の怒りが融けることはないようだ。私にとっても、このエピソードは以前から知っていたし、印象に残っている。人の付き合いは堂々と正面から行うべき、と私の肝に刻み込まれたエピソードである。

南海に移った江夏氏は、野村監督の野球術に心酔する。そして短いイニングで試合を締めるための投球に開眼し、野球人として新境地を開く。投球術にはますます磨きがかかり、蓄積したデータと緩急取り混ぜた打者との駆け引きにプロとしての真価を発揮する。この辺りの身の処し方など、世のビジネスマンにとって参考になるはずだ。少なくとも私は、このくだりを読んで私自身の技術者人生の行く末に思いを致さずにはいられなかった。

野村監督の南海解任に従い、南海から広島へ。そして広島東洋カープで演じたのが有名な江夏の21球だ。故山際淳司氏がノンフィクション小説として作品化し、SportsGraphicNumberの創刊号を飾ったことでも知られている。この日本のスポーツノンフィクションの金字塔となった余りにも有名な一編では、職人芸ともいえる投球術が堪能できる。

が、意地悪く読めば、独りで満塁にしたピンチを独りで収拾しただけともいえる。つまり、一人相撲。野球は一人でもできる、と言い放った言葉が一人歩きし、それが江夏氏の孤高のイメージ形成に一役買った経緯は本書にも記されている。だが、その言葉は図らずも江夏氏の不幸の原因を言い当てているのではないか。江夏氏の不幸とは、才能を発揮したスポーツが団体競技だったことだろう。しかも、江夏氏の自身は人一倍職人気質だったにも関わらず、団体競技で輝いてしまう。そのギャップに苦しみつつ投げ抜いたことが、より一層人々に強い孤高の印象を与えたのだと思う。

上にも書いたエピソードの数々は、あまりにも劇的すぎる。それはファンが江夏氏をヒーローに祭り上げるには十分すぎるレベルだ。そのレベルが高ければ高いほど、人から寄せられる期待が熱ければ熱いほど、当の本人は、イメージに縛られてしまうのではないだろうか。まるで溶けた蝋が体にまとわりつくように。

そして、そのイメージが輝かしければ輝かしいほど、自らのイメージに縛られることになる。それを埋めるために、麻薬、覚醒剤にたよってしまう。それは、決して擁護すべきことではないのだろう。他の道を極めた達人たちは麻薬に溺れなかったではないかと言われればそれまでだ。だが、我々凡人には高みに達してしまった江夏氏のような人の苦しみは理解できない。そもそも人の内面の苦しみを完全に理解することなど不可能。安易な断罪など以ての外、ということは弁えておきたいものだ。

江夏氏の覚醒剤の一件は、江夏氏から聞き書きして本書を構成した波多野氏によってエピローグで触れられている。が、本書の刊行からさらに時を経て本書に触れた我々は、江夏氏が覚醒剤から見事に更正したことを知っている。

江夏氏の更生には、江夏氏を知るプロ野球人達の尽力が大きかったと聞く。本書にはその辺りのエピソードは出てこない。それらの方々は、江夏氏の公判において証人となって江夏氏を親身に擁護したと聞く。ともにプロ野球道の高みを極め、自らのセルフイメージと現状がギャップの乖離がどれほどの苦しみかを共感できる仲間。そのような仲間達に恵まれたことは、晩年の江夏氏にとって幸運だったのではないか。

清原氏が逮捕の少し前に名球会の試合に出場した動画がyoutubeで観られる。そこには、67才の江夏氏と75才の王氏の対決も登場する。もちろん、両者の間にかつてあったはずの緊張感は片鱗も見られない。でも、そこには自らのセルフイメージの幻影から解き放たれた江夏氏の幸せな姿があった。私にはその姿がとても良いものに映った。

清原さんはどうだろう。江夏氏が見事に覚醒剤から縁を断ったように、清原さんには何としてでも復活した姿を見せて頂きたい。そして、その過程において清原さんの苦しみをもっとも理解できる人とは江夏氏その人ではないだろうか。そして、本書は清原さんにこそもっとも読んでほしい。

清原さんに今一番欠けているのは、自らへの自信であり、理解者だと思う。本書に詰まっている江夏氏の輝かしい業績とその後の変転は、清原さん自身のプロ野球人生を思い出させることだろう。そして、江夏氏の過ごした浮沈の激しい人生は、江夏氏には失礼な言い方になるかもしれないが、優れた一編の小説にも似た極上の読後感を与えてくれる。

私の家のすぐ近くに、江夏氏が引退試合を行なった多摩市一本杉公園野球場がある。その駐車場の脇にあまり目立たぬ佇まいで、江夏氏がお手植えした木が育っている。なんの装飾もてらいもなく、素っ気無いプレートにそれと書かれていなければ絶対にそれとは気づかない木だ。でも、この簡潔にして素朴な様子こそが、江夏氏の浮沈に満ちた人生の到達点であるように思えてならない。

素晴らしい一冊。

‘2015/10/28-2015/11/08


また一人昭和30年代の野球を知る方が・・・


8月14日、野球評論家の豊田泰光氏の訃報が飛び込んできました。享年81歳。

豊田氏は昭和30年代のプロ野球を知る上で欠かせない人物です。昭和30年代のプロ野球を語るには西鉄ライオンズは外せません。豊田氏は黄金期の西鉄ライオンズの主軸として必ず名のあがる選手でした。野武士軍団とも称された個性派集団にあって、一層の個性を放っていたのが豊田氏です。

豊田氏の訃報については、球界の様々な方から追悼コメントが寄せられました。中でも長嶋巨人名誉監督からのコメントは、長嶋氏の訃報と読めなくもない見出しがつけられ紛らわしいとの批判を浴びました。

見出し云々はともかくとして、長嶋氏のコメントは、豊田氏の輝かしい現役時を的確に表していると思えます。

「素晴らしい打者でした。巨人が3年連続で西鉄に破れた1956年から58年の日本シリーズでの大活躍は、強く印象に残っています。ご冥福をお祈りします」

見事なコメントですよね。ミスタープロ野球とも言われた長嶋氏にここまで言わしめた豊田氏の実力が伝わってきます。

豊田氏は現役を退いたのち、評論家として活躍しました。私が見た氏は、すでに球界のご意見番としてスポーツニュースの中の人でした。辛口な評論家として立ち位置を作った豊田氏は、その一方で、プロ野球の歴史の伝道師でもありました。過去を知らないプロ野球ファンに、今のプロ野球の隆盛が過去の積み重ねの上にあることを訴え続けました。

豊田氏の業績の一つは、ライオンズ・クラシックです。2008年から2014年まで、豊田氏の監修のもと催されました。在りし日の西鉄ライオンズの栄光を顕彰しつつ、西武ライオンズが確かに西鉄ライオンズの伝統を継ぐ後裔球団であることを宣言する感動的なイベントでした。それは黒い霧事件という残念な事件によって閉ざされた西鉄ライオンズの歴史を掘り起こす作業でもありました。黒い霧事件は西鉄ライオンズの輝かしい歴史に泥を塗ったばかりか、ライオンズの歴史を作ったであろう名投手を球界から葬り去りました。数年前、池永投手の復権はなり、さらにライオンズ・クラシックによって西鉄ライオンズの栄光も復権なったといえます。

私は当時、とてもこのイベントに行きたかったのですが、仕事があって行かれずじまいでした。今年は三連覇の最初の年から60年という節目の年。きっとやってくれるはずと期待していたのですが、豊田氏の訃報によってその願いは霧消しました。それだけにこの度の豊田氏の訃報が残念でなりません。

それにしても、60年もたってしまったのだと思わずにはいられません。赤ちゃんが赤いちゃんちゃんこを着るまでの年月です。長嶋氏のコメントがご自身の訃報と間違えられるほど長嶋氏も老いました。豊田氏もいつの間にか齢80を過ぎていた訳です。気がつけば西鉄ライオンズの黄金期を闘った戦士たちのかなりがあの世へ旅立ちました。

昭和30年代のプロ野球を輝かしいものにした生き証人の皆様が、次々と旅立っていきます。多分、これからも次々と訃報が飛び込んでくることでしょう。昭和30年代のプロ野球を彩った荒武者達が居なくなるに連れ、昭和30年代のプロ野球が我々から遠ざかっていきます。

今までに何度もブログなどで書いてきましたが、私は昭和30年代のプロ野球にとても強い憧れを抱いています。その憧れの対象は、豊田氏を筆頭に野武士軍団として巨人を叩きのめした西鉄ライオンズだけではありません。他のチームにも個性派が揃っていたのが昭和30年代のプロ野球だったように思うのです。

野球がまだ洗練から程遠い荒くれものの集まりによって戦われていた時代。巨人・大鵬・卵焼きと持て囃される前の時代。そして高給取りとして高嶺の花扱いされる前の時代。それは日本が、もはや戦後ではない、と宣言し、右肩上がりする一方の時期に重なります。いわば昭和30年代のプロ野球とは、日本が一番活気あり、伸び盛りだった頃を象徴する存在だったのではないでしょうか。

私がプロ野球をみはじめた時期は1980年代です。甲子園に住んでいた私は、甲子園球場の熱狂も寅キチ達の声援もよく知っています。バックスクリーン三連発に、長崎選手の満塁ホームランに狂喜した阪神ファンです。

でも、何か物足りなかったのですね。阪神タイガースよりも、その戦う相手に。阪神以外のチームがスマート過ぎた、というのは言い過ぎでしょうか。巨人にしてもそう。当時の巨人監督は藤田氏。球界の紳士たる巨人を代弁するかのような紳士キャラでした。阪神が日本シリーズで闘った相手監督は、管理野球でしられる広岡氏でした。皮肉にも野武士軍団の後裔チームは当時黒い霧イメージを払拭するため管理野球に活路を見いだしたわけです。

当時の私にとって、阪神タイガースの敵とは魅力的なキャラでなければならない。そう思っていたのかも知れません。でも敵キャラとしては何か飽きたらない。そう思ったからこそ当時の私は大人向けの高校野球史やプロ野球史を読み耽る小学生となった。ひょっとしたらですが。でも、今思っても難しい本をよく読んでいたと思います。たぶん当時の私にはそこに描かれる個性的な選手達が魅力的に映ったのでしょう。かつてプロ野球の試合とはこれほどまでに魅力的だったのかと。

ひょっとすると私は当時のプロ野球選手たちに武士の憧れを抱いていたのかも知れません。ちょうどいまの子供たちが戦国武将に夢中になるように。

下剋上上等。高卒出の新人投手が神様仏様と持ち上げられる実力主義。分業制が幅をきかせる前の、グラゼニが正しいとされる世界。

私にとって、昭和30年代のプロ野球とはそのような魅力に溢れた世界だったのです。スポーツグラフィックナンバーがまだ二桁の頃の西鉄ライオンズ特集号も持っていたし、ベースボールマガジンが刊行した選手たちの自伝も読み漁りました。ナンバーが出した西鉄ライオンズ銘々伝というビデオももっています。

多分当時の野球は、いまの野球に比べてレベルが低かったことでしょう。それは日米野球の結果を見ても明らかです。しかし、巧さと魅力は似て非なるもの。たしかに今の日本プロ野球は格段にレベルアップしました。その象徴がイチロー選手です。イチロー選手の偉業は、メジャーリーグでの3000本安打達成で不滅となりました。ただただイチロー選手の才能と努力の賜物です。そして、イチロー選手の姿にかつてのプロ野球をしるオールドファンは、野球が輝いていた時代の時めきを感じるのではないでしょうか。イチロー選手を見出だしたのは当時の仰木監督。黄金期の西鉄ライオンズのメンバーです。昭和30年代の個性を重んずるプロ野球の遺伝子は、イチロー選手の中に確かに息づいているはずです。魅力の上にある巧さとして。

そしてイチローの偉業の前に、プロ野球を育て上げた選手たちの戦いの積み重ねがあったことを忘れてはならないと思うのです。それは単なる懐古趣味ではありません。まだプロ野球選手の社会的な地位が低い頃、ただ野球が好きな選手たちによって行われていただけ。でに魅力だけはたっぷり詰まっていたと思うのです。

でも野球の粗野な魅力が失われ、人気スポーツになった時期に起こったのが黒い霧事件です。奇しくも昨年から今年にかけ、あろうことか球界の紳士の巨人軍の内部で発生した賭博事件は、何かの暗示のように思えてなりません。

人によっては60年前の三連覇を、一極集中が進む東京への地方の意地とみる人もいるでしょう。または、かつて西鉄ライオンズを率いた三原監督が自分を追いやった巨人を見返したのと同じ姿をソフトバンクの王会長にみる人もいるかもしれません。しかし私はかつて福岡で猛威を振るった賭博が東京で起こったことに、東京と地方の立場の逆転を感じます。

もし、東京が再び野球でも都市としても日本の盟主でありたいのであれば、昭和30年代のプロ野球から学ぶべきものは多いように思います。水戸出身の豊田氏は辛口にそれをどこから見守っていることでしょう。


死闘 昭和三十七年 阪神タイガース


私が自由にタイムマシンを扱えるようになったら、まず昭和三十年台の野球を見に行きたい。
今までにも同じような事を何度か書いたが、相も変わらずそう思っている。

野武士軍団と謳われた西鉄ライオンズ。親分の下、百万ドルの内野陣と称された南海ホークス。名将西本監督が率いたミサイル打線の大毎。迫力満点の役者が揃った東映フライヤーズ。在阪の二球団も弱かったとはいえ、阪急ブレーブスは後年の黄金期へと雌伏の時期を過ごし、近鉄もパールズからバッファローズへと名を変え模索する時期。

昭和三十年台のプロ野球とは実に個性的だ。

あれ? と思った方はその通り。ここに挙げたのは全てパ・リーグのチーム。

では、セ・リーグは? 昭和三十年台のセ・リーグは、語るに値しないのだろうか。この時期のセ・リーグに見るべきものは何もないとでも? そんなはずはない。でも、この時期の日本シリーズの覇者はパ・リーグのチームが名を連ねる。以下に掲げるのは昭和30年から39年までの日本シリーズのカードだ。

年度    勝者    勝 分 負  敗者
------------------------
昭和30年  巨人(セ)  4   3  南海(パ)
昭和31年  西鉄(パ)  4   2  巨人(セ)
昭和32年  西鉄(パ)  4 1 0  巨人(セ)
昭和33年  西鉄(パ)  4   3  巨人(セ)
昭和34年  南海(パ)  4   0  巨人(セ)
昭和35年  大洋(セ)  4   0  大毎(パ)
昭和36年  巨人(セ)  4   2  南海(パ)
昭和37年  東映(パ)  4 1 2  阪神(セ)
昭和38年  巨人(セ)  4   3  西鉄(パ)
昭和39年  南海(パ)  4   3  阪神(セ)

10年間で見ると、パ・リーグのチームが6度覇を唱えている。中でも昭和31年〜34年にかけては三原西鉄に日本シリーズ3連覇を許し、鶴岡南海には杉浦投手の快投に4連敗を喫している。後世の我々から見ると、この時期のプロ野球の重心は、明らかにパ・リーグにあったと言える。それこそ一昔前に言われたフレーズ「人気のセ、実力のパ」がピッタリはまる年代。いや、むしろ残された逸話の量からすると、人気すらもパ、だったかもしれない。

では、後世の我々がこの時代を表すフレーズとして知る「巨人・大鵬・卵焼き」はどうなのだ、と言われるかもしれない。これは当時、大衆に人気のあった三大娯楽をさす言葉として、よく知られている。

だが、ここで書かれた巨人とは、本書の舞台である昭和37年の巨人には当てはまらない。当てはまるとすれば、それはおそらくONを擁して圧倒的な力でV9を達成した時代の巨人を指しているのではないか。だが、V9前夜のセ・リーグは、まだ巨人以外のチームにも勝機が見込める群雄割拠の時期だった。この時期、セ・リーグを制したチームは巨人だけではない。三原魔術が冴え渡った大洋ホエールズの優勝は昭和35年。結果として大洋ホエールズが頂点に立った訳だが、一年を通して全チームに優勝の可能性があったと言われており、当時のセ・リーグの戦力均衡がそのままペナントレースに当てはまっていたと言える。

この時期にセ・リーグを制したチームはもう1チームある。それが、本書の主役である阪神タイガースだ。昭和37年と39年の2度セ・リーグを制した事からも、当時のタイガースはセ・リーグでも強豪チームだったと言える。

本書は1度目の優勝を果たした昭和37年のペナントレースを阪神タイガースの視点で克明に追う。この年のタイガースはプロ野球史に名を残す二枚看板を抜きにして語れない。小山正明氏と故村山実氏。二人の絶対的なエースがフル稼働した年として特筆される。

当時のタイガースの先発投手は、この二人を軸とし、藤本監督によって組み上げられていたことはよく知られている。今も言われる先発ローテーションとは、この年のタイガースが発祥という説もあるほどだ。

本書はキャンプからはじまり、ペナントレースの推移を日々書き進める。いかにして、藤本監督が二枚看板を軸にしたローテーションを確立するに至ったのか。二枚看板のような絶対的な力はないとは言え、それ以外の投手も決して見劣りしない戦績を残していた。そういった豊富な投手陣をいかにしてやり繰りし、勝ち切るローテーションを作り上げるか。そういった藤本監督の用兵の妙だけでも本書の内容は興味深い。

また、この時期のタイガースは投手を支える野手陣も語る題材に事欠かない。試合前の守備練習だけでもカネを払う価値があったとされるこの時期のタイガースの内野陣。一塁藤本、二塁鎌田、遊撃吉田、三塁三宅。遊撃吉田選手は今牛若との異名をとるほどの守備の名手として今に伝わる。今はムッシュとの異名のほうが有名だが。その吉田選手を中心に配した内野守備網はまさに鉄壁の内野陣と呼ばれた。打撃こそ迫力に欠けていたにせよ、それを補って余りある守備力が昭和37年のタイガースの特徴だった。藤本監督の用兵も自然と投手・守備偏重となるというものだ。

と、ここまでは野球史を読めばなんとなく読み解ける。

本書は昭和37年のセ・リーグペナントレースをより詳細に分解する。そして、読者は概要の野球史では知りえない野球の奥深さを知ることになる。本書では名手吉田のエラーで落とした試合や二枚看板がK.O.された試合も紹介されている。鉄壁の内野陣、二枚看板にも完璧ではなかったということだろう。後世の我々はキャッチフレーズを信じ込み、神格化してしまいがちだ。だが、今牛若だってエラーもするし、針の穴を通すコントロールもたまには破綻する。本書のような日々の試合の描写から見えてくる野球史は確かにある。それも本書の良さといえよう。日々の試合経過を細かく追った著者の労は報われている。

また、他チームの状況が具に書かれていることも本書の良い点だ。先にこの時期の巨人軍が決して常勝チームではなかったと書いた。原因の一つはON砲がまだ備わっていなかった事もある。しかし、昭和37年とは王選手のO砲が覚醒した年でもあるのだ。王選手といえば一本足打法。それが初めて実戦で披露されたのが昭和37年である。以降、打撃に開眼した王選手の打棒の威力は言うまでもない。ON砲が揃った巨人軍の打棒にもかかわらず昭和39年にも優勝したタイガースはもっと認められて然るべき。が、昭和40年代の大半、セ・リーグの他のチームは巨人の前に屈し続けることになる。

その前兆が本書では解き明かされている。ON砲の完成もその一つ。また、阪神タイガースの鉄壁の守備網にほころびが見え始めるのも昭和37年だ。鉄壁の内野陣の一角を成し、当時のプロ野球記録だった連続イニング出場記録を更新し続けていた三宅選手の目に練習中のボールがぶつかったのだ。それによって、三宅選手が内野陣から姿を消すことになるのも昭和37年。また、不可抗力とはいえボールをぶつけてしまった小山投手も、翌昭和38年暮れに世紀のトレードと言われた大毎山内選手と入れ替わって阪神を去る事になる。つまり三宅選手の離脱は、すなわち二枚看板の瓦解に繋がることになったのだ。本書でも小山投手と村山投手の間に漂う微妙な空気を何度も取り上げている。両雄並び立たずとでもいうかのように。

なお、本書ではペナントレースの後始末とも言える日本シリーズにはそれほど紙数を割かない。が、その後の阪神タイガースを予感させるエピソードが紹介されている。それは相手の東映フライヤーズの水原監督に対する私情だ。先に日本シリーズで西鉄ライオンズが巨人を三年連続して破った事は書いた。球界屈指の好敵手であった三原監督に三年連続して負けた水原監督は、さらに翌年の日本シリーズで鶴岡南海に4タテを食らわされることになる。さらには昭和35年のペナントレースでセ・リーグに戻ってきた三原監督の大洋によってセ・リーグの覇権を奪われることになる。それによって巨人監督を追われる形となった水原監督が東映フライヤーズの監督となり、ようやくパ・リーグを制したのがこの年だ。そして、水原監督が巨人選手の頃の監督だったのが阪神藤本監督。水原監督を男にしてやりたいという藤本監督の温情があったのではないか、と著者はインタビューから推測する。

そういった人間関係でのゴタゴタはその後の阪神タイガースを語るには欠かせない。その事を濃厚に予感させつつ、著者は筆を置く。昭和37年の紹介にとどまらず、その後のセ・リーグの趨勢も予感させながら。

昭和40年からのプロ野球は、それこそ巨人・大鵬・卵焼きの通り、巨人の独り勝ちとなってしまう。だが、そこに理由が無かったわけではない。それなりの出来事があり、その結果がV9なのだ。その前兆こそが、本書で描かれた昭和37年のペナントレースにあること。これを著者は描いている。本書は昭和37年のペナントレースについての書であるが、実は巨人V9の原因を見事なまでに解き明かした書でもあるのだ。

本書は日本プロ野球史のエポックをより深く掘り下げた書としてより知られるべきであり、実りある記録書として残されるべきと思う。

‘2015/7/27-2015/7/30


4256本より3000本


イチロー選手の記録達成の話題で世間は盛り上がっていますね。私も毎日スポーツ記事をわくわくしながら見ています。根詰めて作業に没頭しているここ数日はニュースを見ることが一瞬の息抜きといいますか。

イチロー選手の偉大さは今さら書くまでもありません。私もイチロー選手も1973年生まれ。42歳と云えばプロ野球では引退しない方が珍しいぐらい。サラリーマンでも現場から管理職へと配置される年齢です。ですが、彼は生涯一選手として少なくとも50才まで現場でやると公言しています。その姿勢は、私にとって励みになります。励みどころか、私にとって同世代で尊敬できる人といえばまずイチロー選手の名前が上がります。今まで成果を積み上げてきた彼の姿にどれだけ鼓舞されたことか。

さて、これを書いている2016/6/15現在、イチロー選手が日米両国で積み上げたヒットの数は4255本。あのピート・ローズ氏がメジャーリーグで成し遂げた4256本まであと一本と迫っています。そしてその記録をもって通算安打数世界一と見なすかどうかについて、日米であれこれ取り沙汰されています。ピート・ローズ氏もあれこれと意見を述べているようですね。

私の意見としては、4256本の達成よりも3000本の達成を祝うべきだと思っています。3000本というのはメジャーリーグでイチロー選手が打つはずの安打数。今現在、2977安打ですから、あと23本です。私としてはメジャーリーグのみでイチロー選手が成し遂げた3000本安打の達成こそが真に評価されるべき指標なのだと思っています。

日米両国で積み上げたイチロー選手の偉業については誰も異議を挟みますまい。でも、それは参考記録として留めておくべきです。歴代一位というのは文字通り歴代の記録です。かつてとルールが違った時代、例えば19世紀の記録も含んでいます。ルールが違っていても歴代記録として含めて良いのなら、他の国のリーグでの記録も合算してよいのではないかという意見もあるでしょう。でも、歴代記録として認められるのはルールが違う時期を含んでいても、やはりメジャーリーグで成し遂げた記録に限定されるのです。

https://mlb.mlb.comを見れば分かりますが、あのサイトにはありとあらゆる選手の記録が網羅されています。年毎の記録や通算記録すらも。その記録は1876年まで遡って掲載されています。1876年といえば、日本で言うと明治8年。散切り頭や文明開化の時代です。そんな昔から、記録が残っているって凄いと思いませんか。つまりアメリカ人とは記録についてのこだわりも強い一方、記録に対する尊敬の念も人一倍払う国なのです。

アメリカの四大スポーツといえばNFL(アメリカンフットボール)、NHL(アイスホッケー)、NBA(バスケットボール)に加えてMLB(ベースボール)を指すのが一般的です。それらスポーツに共通するのは記録することの執念です。

NFL:https://www.nfljapan.com/stats/
NHL:https://www.nhl.com/stats/
NBA:https://stats.nba.com/
MLB:https://mlb.mlb.com/stats/

上に挙げたのは四大スポーツのサイトに設けられた成績のページです。これらページを見るとわかりますが、とにかくあらゆる角度からチームごと、選手ごと、年ごと、月ごとに成績が網羅されています。それがアメリカ流です。

MLBでいうと、その記録は上にも書いた通り1876年まで遡って参照することができます。1876年というのはメジャーリーグの二つあるリーグのうちナショナルリーグの設立された年です。ストライクに対するアンフェアボールのルールが出来たのは1872年で、それからまだ4年しかたっていません。アンフェアボールというのは、打者に打ちやすい球を投げることが前提であった当時の野球ルールから発生したルールです。つまり当時は圧倒的に打者有利のルールになっていたということです。でも、MLBのサイトにはその時代の記録がきちんと残されています。残されているだけでなく、歴代記録としてカウントまでされています。普通はそういった打者有利のルールの下での記録は参考扱いになってもおかしくありません。でも、メジャーリーグの公式記録として採録されています。

メジャーリーグにあって、記録というのはかくも神聖なものです。そこまで記録に対して敬意を払うアメリカのメジャーリーグに対して、日米両国の合算を世界一として認めてもらうのは出来ない相談です。これはお互いのレベルがどうとかいう以前に、記録に対する文化の違いだと思います。

イチロー選手が4256本を打ったとしても、それは多分王選手の868本の本塁打と同じような参考記録扱いとなるのではないでしょうか。でもそれでいいと思います。それによってその偉業が損なわれる訳ではないのですから。当時王選手が参考記録ながら追い抜いたのはハンク・アーロン選手の755本でした。ですが、今でも王・アーロン両選手は野球大会の開催などで協力しあう関係と聞きます。つまりお互いがお互いの記録を尊重しているのです。お互いの力を認め合った選手同士にとって、記録が参考かどうかは二の次なのでしょう。4257本をイチロー選手が打ったとしてもそれがアメリカの中で世界一の記録として認識されることは多分ないでしょう。でも、それによってイチロー選手の偉業が損なわれるわけではありません。なぜなら、イチロー選手はメジャーリーグだけで3000本を打つはずだから。3000本安打というのは、限られた選手しか到達していない高みです。メジャーリーグの140の歴史でもまだ達成者は30人弱しかいません。

繰り返しますと、メジャーリーグは記録を重んずる文化です。どこの国の選手だろうが、女性だろうが、性転換をしようが、片足が義足だろうが、メジャーリーグの中で成し遂げた記録であれば、メジャーリーグの記録として尊重される。とすれば、イチロー選手の3000本安打こそは、メジャーリーグの中で積み上げた偉業として、正当に評価され尊重される記録となることでしょう。

4256本も素晴らしいことですし、楽しみにしたいと思います。が、それは一つの通過点。それよりもあと23本に迫った3000本を楽しみにしようではありませんか。そしてその後も50歳まで生涯一選手として活躍してくれるよう応援したいと思います。かつてシアトルにイチロー選手を応援に行く機会が間近にあったのですが、それを逸してしまっています。私にとってイチロー選手を見に行くことは念願といっても良いです。アメリカに行ったら行きたい場所は多数ありますが、イチロー選手の活躍を目にすることと、クーパーズタウンの野球殿堂博物館には何を差し置いても行きたいと思っています。それを支えに私も同世代として頑張りたいと思います。少なくとも50歳までは。

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これは昨日うちのワンちゃんと散歩の際に撮った近所の球場。


野球博物館の役割-断罪ではなく感動を伝える


先日、2/11に東京ドームの野球殿堂博物館に行ってきました。記憶が確かなら私にとって四回目の訪問です。四回目といっても、前回の訪問からはだいぶ間が開いてしまいました。前回の訪問がいつかはよく覚えていませんが、10年ぶりでしょうか。展示内容も大分忘れていました。今回久々に訪れてみて、野球殿堂博物館が狭く感じました。私の記憶ではもっと広かったような気がしたのですが。あれ?こんな狭かったっけ?と。

多分、それは甲子園歴史館に慣れたからでしょう。私が野球殿堂博物館から遠ざかっていた10年の間、甲子園歴史館には足繁く通いました。毎年、帰省の度に足を運んだと言っても過言ではありません。甲子園歴史館は広さもさることながら、その資料の豊かさで他の追随を許しません。

中等野球から始まる高校野球100年の歴史はざらではありません。幾多の名勝負が豊中球場、鳴尾球場、そして甲子園球場で繰り広げられました。甲子園歴史館には、それら歴史の生き証人であるボールやグラブ、旗やスコアブックが展示されています。映像資料もふんだんに用意され、動画で熱戦の様子が流されています。私などは、訪れる度に毎回資料を見ているだけで目頭が熱くなります。

甲子園歴史館に展示されている品々は、歴史に残る熱戦の目撃者でもあります。その日、甲子園のグラウンドで飛び交った白球の行方や、スタンドの熱気や応援団の歓声を無言で今に伝えてくれているのが、それらの展示品なのです。例えそれら品々の持ち主がどのような人生を歩もうとも、ボールやグラブが歴史的な一戦に一役かったことは事実です。それら展示品を無かったことは誰にもできません。
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ここ10日ばかり、清原さんの覚醒剤による逮捕の件が世を騒がせています。中には、ゴシップ記事に近いものも見受けられます。反響の大きさからも清原さんが野球界に残した足跡の大きさがうかがえます。このことについては先日ブログにも書きました。

今回の清原さん逮捕に関し、私にとって印象に残ったニュースが二つあります。
一つは甲子園歴史館からの清原さん関連資料の撤去。記事
もう一つは日本プロ野球名球会による除名するつもりはないとの柴田副理事長による談話。記事

実に対照的な措置です。日本プロ野球名球会が清原さんを除名しないし、するつもりもないと明言したことは大いに評価したいと思います。今回、私が野球殿堂博物館を訪れたのは二つ目的がありました。一つは戦没野球人を慰霊する鎮魂の碑が見たかったこと。もう一つは清原さんの業績が残されているかを確認したかったことです。後者の目的については果たせませんでした。そもそも清原さんの展示スペースは用意されていなかったようです。野球殿堂博物館のプロ野球の展示スペースが狭く、おそらく今回の騒動で展示品を入れ替えることもしていないのでしょう。つまり日本プロ野球名球会と野球殿堂博物館は、今回の件については現時点では静観の態度をとるという事を意味します。

一方、甲子園歴史館の判断には疑問が付きます。記事を読むと「教育上の配慮から」との取ってつけたようなコメントが出されています。しかし教育上の配慮というのはあまりにも解せない文句です。事大主義の極致ともいえる判断であり、利用者としては困惑するほかありません。

今回の一連の報道の中には、清原さんがプロ野球選手として現役で活躍している時から覚醒剤を使用していたという記事もあります。その真偽はまだわかりません。しかし仮に清原さんが現役の際に覚せい剤を使用したとして、穢されるのはプロ野球選手としての実績のはずです。その点、日本プロ野球名球会や野球殿堂博物館が何らかの措置をとるのならまだ分かります。しかし甲子園歴史館が展示しているのは、清原さんの高校時代の実績です。まさかPL学園の選手として成し遂げた数多の実績すら、覚せい剤の影響下にあったと疑っているのでしょうか? まさか。たとえその後の人生で転落したからといって、高校時代の実績は実績として認めるべきでしょう。あの時スタンドで味わった感動や興奮が、何十年か後の過ちで全て否定されてしまうのでしょうか。それは一高校野球ファンとして到底納得のいくものではありません。

人によって振幅の差こそありますが、深みも高みも栄光も挫折もあってこその人生ではありませんか。一度の過ちで過去の実績を否定することは、人間の一生をあまりに平板に単純にみる態度です。人の生をそのような平板な単純な営みとみなすことこそ、教育上の配慮が足りないと思えるのですが。

野球殿堂博物館と日本プロ野球名球会は、全くの別組織ですが、ともにプロ野球の歴史に敬意を払う点で同門ともいえます。名球会については発足時の経緯もあって批判的な意見も良く耳にします。が、私は名球会の会員の方々が成し遂げた実績は素直に凄いと思っています。対象外だった大正生まれの川上氏や別所氏、若林氏、野口氏、杉下氏、中尾氏、藤本氏の実績と併せて一つの基準として尊重すべきと思います。もちろんそれは清原さんの実績にも当てはまります。名球会の会員には同じく覚醒剤で服役した江夏豊氏の名前もあります。服役して一旦自主退会したものの、見事に更生した江夏氏を名球会は受け入れています。実に懐の深い対応ではありませんか。

ブログにも書いた通り、甲子園歴史館は高校野球の歴史に加え、阪神タイガースの歴史も展示されています。私が昨秋に訪れた際は、江夏豊氏はちゃんと阪神タイガースの名投手の一人として取り上げられていました。江夏氏は容疑者ではなく、実刑判決を受けて服役したにも関わらず。一方、清原さんはまだ判決前の容疑者の状態です。それなのに覚醒剤に縁のないはずの高校時代の実績すら否定されようとしています。これはあまりに不公平です。

甲子園歴史館と野球殿堂博物館(日本プロ野球名球会)。両者のこの対応の違いはなにかを考えてみました。それはプロとアマチュアの意識の違いなのかもしれません。甲子園歴史館はアマチュアイズムを標榜するあまり、今回の事件に過剰反応してしまったのではないでしょうか。

でも、私はそうじゃないと思うのですよね。プロやアマチュア以前に、野球をテーマにした博物館が持つべき視点は別にあると思うのです。それは「野球とはこんなに人を感動させるスポーツなんですよ」というシンプルなものです。過去に幾多の名勝負がグラウンドで繰り広げられ、過去に先人たちが作り上げてきた歴史の積み重ねの上に今の野球がある。このことを展示し、野球の素晴らしさを伝えることが、この両施設に課せられた使命ではないでしょうか。野球の素晴らしさとは、グラウンド上で選手たちが魅せるプレイに限定されるはずです。何十年も後の一選手の私生活の過ちが、野球の魅力を損なうとはとても思えません。甲子園歴史館の関係者の方がもしこの拙いブログを読まれることがあれば、是非とも清原さんに関する展示品の復活をお願いします!

蛇足ですが、今回の訪問で思ったことを最後に書きます。それは野球殿堂博物館のことです。そろそろ野球殿堂博物館は施設を拡充すべきです。野球殿堂博物館の展示は、プロ野球に留まらず、日本代表のスペースや女子プロ野球や高校大学社会人まで含めています。それは、日本の野球を巡る状況を網羅的に展示する意味で、実に素晴らしいことだと思います。でも、限られたスペースですべてを紹介しようとするあまり、一つ一つの紹介が中途半端になっているように思えてなりません。それこそ、東京ドームなのですから、栄光の巨人軍の歴史を大々的に展示するスペースがあってもよいはずです。少なくとも甲子園歴史館の阪神タイガースの展示スペース並の広さは欲しいところです。過去に後楽園球場を本拠地にしていた日本ハムファイターズの展示もありですよね。私は阪神ファンですが、巨人の歴史が今のプロ野球を作り上げたことを否定するつもりはありません。

それでは野球殿堂博物館を拡充するにはどうしたらよいでしょう。左隣のグッズショップは残しても良いと思います。が、反対側の飲食店は移動してもらい、その空きスペースを使って野球殿堂博物館の展示スペースを広げるべきでしょう。東京ドームが出来て間もなく28年を迎えようとしています。東京ドーム開業30周年あたりの目玉として、野球殿堂博物館の大幅拡充があっても良いのではないでしょうか。

広がった博物館には、日本の野球の歴史を全て網羅し、幾多の名選手の品々が展示されるとよいですね。江夏氏と清原さんの展示ももちろん。もっともお二方の殿堂入りまでは望みません。しかし野球の歴史において一時代を築いたお二人の実績は顕彰されるべきです。二人ともそれだけの実績と積み重ね、数多くの感動を我々に与えてきたのですから。


甦れ、甲子園のヒーローよ!


清原さんが覚醒剤所持の疑いで逮捕されましたね。

正直、あまり驚きませんでした。ブログや報道からも孤独感漂っていましたし。かつての甲子園での活躍を知る私としては、ただただ寂しいです。

私は人生で一度だけ、日射病になりかけたことがあります。それは、甲子園球場のレフトスタンドでした。グラウンドでは、PL学園の打棒が爆発し、東海大山形のナインを打ちのめしていました。29-7というワンサイドゲーム。あまりの点差に余裕が出たのか、清原さんもマウンドで投球を披露した熱暑の中の試合です。

子供の頃甲子園に住んでいた私にとって、球場は馴染みの場でした。夏休みは暇さえあれば観戦に行ったものです。外野は無料だったし。

小学生の私にとって、グラウンドで躍動する高校球児達は、憧れを通り越して、畏敬する存在でした。実際の歳の差よりずっとずっと大人に見えたものです。
今回の逮捕で改めて知ったのは、清原さんが、私のたった6才しか上でないということ。当時の感覚では20歳くらい上の印象だったのに。

数年前、娘たちが通う小学校に桑田氏が講演に来てくださいました。桑田氏といえば、PL学園でKKコンビとして清原さんと並び称された方です。私ももちろん講演を拝聴しました。子供の頃の憧れの対象を目の前にして興奮しないわけがありません。とはいえ、私は桑田氏については永らく誤った印象を持っていました。憎き巨人に入ったことだけでも敵だったのに、面白おかしく歪められた報道が加われば、キライにならないはずがありません。しかし、子供たちやかつての子供たちである我々に語りかける桑田氏の素顔は、実に丁寧でした。私は一気に氏のファンとなりました。子供の頃に感じた、20歳年上との感覚は揺らぎませんでした。桑田氏は、「氏」のままです。

しかし、今回の逮捕によって、清原さんは、「さん」付けになってしまいました。たった6歳しか違わない清原さんに。

挫折は人を強くするといいます。今回のニュースで一番残念に思うのは、清原さんが巨人に入団できなかったという挫折から這い上がった姿を見せてくれなかったことです。意中の巨人に入団出来ず、翌年の日本シリーズでライオンズの一員として巨人を倒す直前、感極まって一塁ベース上で泣いた姿はよく知られています。その姿は美しかった。

一方、順風満帆に巨人に入団した桑田氏は、偏向報道に泣かされ、肘の重傷に苦しめられました。復活のマウンドで膝まずいてプレートに手をおいた所作には感動させられました。その姿は我々に真の挫折から立ち直った人の美しさを教えてくれました。

数年前の講演でも、挫折から立ち直る美しさ、夢を求め続ける姿勢を子供たちや親たちに語り伝えて下さいました。娘たちにとっても私にとっても得難い経験だったと思います。

挫折は人を強くします。思うに清原さんにとって、ドラフトで巨人に選ばれなかったことは挫折ではなかったのではないか。今回の逮捕こそが人生で初めて味わう挫折だったのではないかと思います。日本シリーズで巨人に勝ち、西武黄金時代を作り上げました。満足な成績を挙げられなかったとしても、意中の巨人で四番を勤めました。無冠の帝王と呼ばれながらも、2000本安打も500本塁打も成し遂げました。挫折どころか、まぶしいばかりの野球人生でしょう。

面識もなく、かつては20歳以上も年下だった私ごときが清原さんの心中を推し量ることは、おそらくはおこがましいことなのでしょう。しかし、今回の件が清原さんにとって初めて味わう挫折に違いない。そう思います。

そしてその姿は、かつて同じプロ野球人として覚醒剤に手を出し、服役した江夏豊氏を思い出させます。江夏氏も、孤独感に負けてつい出来心でヤクに手を出してしまったと聞きます。が、プロ野球界の仲間たち多数に支えられ、立派に更正されたとか。今春の阪神のキャンプでも臨時コーチを任じられたとの嬉しいニュースはまだ耳に心地よく残っています。

清原さんにも、江夏氏と同じように立ち直って頂きたい。そう切に願っています。そして、清原さんのプレーする姿に見とれた少年の私が畏敬の念を思い出させるように、清原さんではなく清原氏と呼べる存在になって戻ってきて欲しい。心からそう思います。

いつの日か、臨時コーチ扱いではなく、タイガースの一軍コーチや監督として、江夏氏と清原氏が甲子園に並び立つ日がくる。そんな楽しい想像したっていいじゃないですか。それが現実の光景となれば、これほど嬉しいことはありません。植草アナの名台詞を引くまでもなく、二人とも甲子園の申し子といっても良い存在なのですから。

そんなことを想いつつ、書いてみました。
甦れ、我が甲子園のヒーローよ!


南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史


甲子園球場に浜風が吹けば、場内アナウンスが聞こえる。そんな至近距離に私の実家はある。20代半ばで東京に出るまで、大半の年月を実家で過ごした私にとって、プロ野球とは阪神と同義であった。

阪神ファンにとって、憎き相手は巨人。阪神ファンにとって、これは常識。子供の頃からさんざん刷り込まれる。

ところが、子供の頃の私にとって、巨人よりも嫌いな球団があった。それは南海ホークス。

我が甲子園球場至近の小学校にも、迫害をものともせず、巨人ファンを貫く連中がいた。ある時、巨人ファンの友人と応援するチームのことでやり合った。確か1984年、甲子園が日本一に酔う前の年の事である。詳細な内容は忘れてしまったが、彼に対し、「巨人は嫌いやけど、南海の方がもっと嫌いや」と言い返したことがある。

当時の私の心を思い返すと、巨人ファンの彼に対するおもねりもあったとは思う。ただ、そのころの私にとって、また、甲子園付近の住民にとって、南海ホークスとはこのような扱いであった。小学生の頃から野球史が好きで、大人向けの野球史の本を読んでいた私。南海ホークスのかつての栄光を知らなかった訳ではない。それでも、80年代の南海ホークスは、私にとってくすんだ存在でしかなかった。

本書は、南海ホークス球団の歩みを軸に、野球ファンと球団の関わり合いに焦点を当てている。南海ホークスと言えば、鶴岡監督という個性の下、100万ドルの内野陣を形成し、プロ野球の歴史に確かな足跡を残している。私が思うに、間違いなく歴代最強チームの一つだろう。だが、本書ではプレーヤーの偉業やそれぞれの紹介にはそれほどページを割いていない。野村監督ですら現役時代のエピソードはささやき戦術や月見草の語りが登場するのみである。むしろ、ユニフォーム変更などといったファンサービスの実践者として、また、引退後の解説者、執筆者としての露出についての方が多く取り上げられている。ドカベン香川選手もわずかな登場のみである。

このように、本書ではあくまで南海ホークスという球団とファンとの関わり合いを中心に据え、プロ野球ファンの生態史の分析を主眼としている。もちろん、御堂筋パレードには紙数も割かれているし、ダイエーへの身売りにも筆を費やしているが、それは球団とファンの関わりを語る上で欠かせないから。それに反して、プロ野球史では避けて通れない2リーグ分裂のごたごたにはそれほど触れていない。それよりも、当初のパ・リーグの旗振り役であった毎日の離脱による、マスコミ露出の激減と、それによるパ・リーグの長期人気低落の原因分析に重きが置かれている。

また、本書では野球ファンの応援史としての記述も充実している。早慶戦の応援スタイルから始まり、トランペットや鉦や太鼓の応援スタイル。果ては広島ファンが発祥とされているジェット風船から、甲子園の応援スタイルへと話題は膨らむ。大変興味深い一節である。

本書の分析はさらに続く。私の嫌っていた80年代の南海ホークスが、懸命のファン獲得への努力を行っていたこと。ホークスを応援し続けるファンの願いをよそに、身売りされるまでの経緯。そして、南海亡き後のファンが、どのように心の整理をつけたかにも分析の幅は広がる。甲子園の超人気チームの陰で、これほどの悲哀のドラマが繰り広げられていたことに、私は胸を衝かれた。

そして終章では、福岡に移ったダイエーホークスが、どのようにして集客力を高めていったかについて、様々な角度から考察を重ねる。ダイエーという巨大小売業の物量作戦と、西鉄移転後にプロ野球が渇望されていたという利点はあったとはいえ、見事にファンの心をつかんだダイエーホークスの姿に、今後のプロ野球とファンの関係を託し、本書は幕を閉じる。

その後、私が大阪球場に行くことは遂になかった。千里山にある大学に通っていた頃、よく難波で飲んでいた。行こうと思えば行けたが、遂に行かなかった。一度だけ足を踏み入れたのは、友人と難波WINSに行った時のこと。既に住宅展示場と化していたその場所は、もはや球場ではなく、私の好奇心の慰みものとなっただけであった。1998年、取り壊し開始。

私がようやく難波パークスにある南海ホークスメモリアル施設を訪れたのは、2012年の夏のことである。訪問前から聞いていたが、野村捕手・監督の紹介が露骨なまでに抹消されている施設。野村選手側の要望によるものとはいえ、「哀しい」の一言である。

本書は熱烈なホークスファンであった著者二人によるものである。合間に著者二人による一編ずつのエッセイが挿入されている。本書内の冷静な筆致とは違い、ホークスファンとしての心の叫びが赤裸々に記されており、本書に素晴らしいアクセントを加えている。その一編は、南海ホークスメモリアル施設が出来る前に書かれたと思われる。その中に、ホークス記念館の実現を熱く訴えている下りがある。南海ホークスメモリアル施設は実はそのエッセイによって実現したのではないかとまで思える一編である。いつの日か、野村選手が南海ホークスメモリアル施設に紹介されることを願わずにはいられない。

奇しくも、私が本書を読み終え、本稿に手を付けるまでの間に、水島新司さんの「あぶさん」の連載最終話が発売された。縁を感じる出来事である。しかし、これで南海ホークスの物語が終わる訳ではないと思いたい。不当に南海ホークスを貶めていた少年時代の私。彼への懺悔の意図もこめ、南海ホークスという球団の物語が、大阪に今も息づいていることを、何らかの形で再び確認しに行きたいと思う。

’14/01/25-14/01/30


国鉄スワローズ1950‐1964―400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団


プロ野球史に興味を持つものとしては、国鉄スワローズの名前は避けては通れない。国とプロ野球という今では考えられない組み合わせもさることながら、400勝金田投手の名前が残る限り、必ず言及されるからである。

晩年こそ名球会会長を追われる形で辞任したことで、選手時代に天皇と呼ばれた傍若無人ぶりがクローズアップされたが、本書を読む限りではたとえ万年B級と揶揄されながらも金田投手が国鉄球団に抱いていた愛着がうかがえる。

国鉄の労使一体となった球団への応援体制や、日本野球草創期からの国鉄と野球のかかわりなど、その膨大な調査結果には頭のさがる思いである。新書と軽んじてはならぬ内容の充実ぶりは、野球ファンだけでなく、鉄道好き、経済や企業文化好きにとっても得るものが多いと思われる。

こういった球団の存在があってこその今のプロ野球の隆盛なのだが、扱いとしては誠にさびしい限りである。

最近西武ライオンズが前身である西鉄ライオンズへのリスペクトを打ち出しているが、ヤクルトスワローズも国鉄スワローズに対して何かやってくれないだろうか。

’12/3/1-’12/3/1


昭和十七年の夏 幻の甲子園―戦時下の球児たち


私の実家は甲子園であり、幼少のころから大和球士氏の書く大人向けの野球史書などを読む子供であったため、未だに本書のような秀作に出会うたびに、心が高鳴る。

本書は戦前最後の中等野球大会として開催されながら、主催者が朝日新聞社ではなく文部省とされたため、幻の中等野球大会として球史からもほとんど抹消されかかった大会の経過と、その大会に出場した選手たちの人生模様を丹念に描いた作品である。

一回戦から決勝までの全試合について、対戦相手2校の存命選手から話を聞き取り、彼らの野球にかける思いと、その思いをぶつけた試合の様子が克明に記録されていく様は、一級のスポーツノンフィクションである。

ナンバーによくあるような選手の克明な心の動きを追うというよりは、すでに老境に入った元球児達の回想を元に構成されているため描写が客観的に抑えられており、それが却って当時の状況を鮮明に伝えてくれる。

また、聞き取った相手の方の戦争への関わりや、戦後についてのエピソードも載っており、青春盛んな時期に野球を思いっきりしたかったという無念さが簡潔な文体の行間からにじみ出てくる。談話を録った方々の名前は敬称略ではなく、さん付けで記されている律義さにも好感が持てた。

それにしても国威発揚の名の元に球場という名の戦場に出された選手たちの悲愴なこと。

戦場ゆえに選手交代は認めないという、今のルールではありえない運営が行われ、タイガース史で名が残る富樫選手が、剛球投手として、一回戦から決勝戦まで進みながらも、途中で肩を壊し、ほとんど投げられる状態でないのに決勝戦も完投させられ、投手生命を絶たれたエピソードは、この大会の奇形ぶりを表す点として印象に残った。

元選手が著者に語った言葉が印象的であった。平和な時代に思いっきり野球がやりたかったです。僕らの時代の球児は皆、そう思っているんじゃないですかね」

’12/02/14-’12/02/16


西宮と府中・・・・・・・最後に町田


 府中という町が気に入っている。

 この2ヶ月間、通勤先として日々訪れているからだけでなく、前々職の会社が酒販店を府中に出店していて、よく訪れていたこともある。また、上京するきっかけとなった東京旅行で、町田の次に訪れたのが府中競馬場だったという第一印象もあるのかもしれない。

 だが、私にとって府中が気になる理由は、私の故郷である西宮に似た空気を感じるからではないだろうか。そこで指の動くままに府中のことについて綴ってみる。

 競馬場の町である
 いうまでもなく東西の競馬場の筆頭に上げられるのが、府中競馬場と阪神競馬場である。後者は正確には宝塚市だが、西宮市境に位置するので、私の中では西宮市の財産である。もともと鳴尾競馬場もあったしね。最近の競馬場は健全さと猥雑さが入り混じった独特な雰囲気があり、府中と西宮は私の俗な部分を刺激する。

 門前町である
 西宮といえばその名が示すとおり、神社である。本家の広田神社より有名になってしまったが西宮戎神社。町田市民として8年が過ぎたが、毎年の初詣は続けている。府中はといえば、大国魂神社とけやき並木である。門前の雰囲気は少々異なっているが、ともに門前町としての伝統と落ち着きがあり、府中と西宮は私を聖なる道に誘う。

 酒の町である
 1年ほど前にサントリーの武蔵野ビール工場見学に行ったのだが、ここの水、はるばる丹沢・富士山系から流れてきた地下水なのだとか。美味かった。
 西宮といえばなんといっても宮水である。灘五郷のうち二郷を擁する町であり、立ち並ぶ酒蔵は、私にとっての故郷の象徴でもある。少々近代化されすぎたきらいがあるとはいえ、未だにふらりと酒工場見学に立ち寄ったりする。そして西宮の酒は日本酒だけではない。アサヒビールの工場もあるし、今は作っていないとはいえ、かつてはニッカウィスキーのグレーンモルトをも蒸留していた。私にとって酒はなくてはならないものであり、その2つを抱える町というだけで府中と西宮は私にとって特別な街なのである。

 スポーツの町である。
 上京した私がよくネタにするのが、実家から甲子園球場の場内アナウンスや声援が聞こえたということ。いまや野球だけではなくダンスや俳句、パソコンからファッションに至るまで高校生にとってのオリンピックの如きキーワードとなった甲子園。かたや府中には東芝府中というラグビーの名門があり、私の職場から歩いてすぐのところにある東芝府中のラグビーグラウンドはそれは立派なものである。やるのも見るのも好きなスポーツの名門チームを抱える街府中と西宮。私にとっての聖地である。

 お墓の町である。
 府中の多磨霊園はわかるが、西宮にもお墓? そう、あるんです。満地谷墓地が。火垂るの墓の舞台にもなりました。私もかつて友人の立場でお骨拾いまで参加させてもらった想い出の場所です。多磨霊園にはまだ入ったことはありませんが、一度は訪れてみたい場所です。安らげるだけの静けさと広がり。府中と西宮はそんな空間までも抱え込めるのです。

 川の町である。
 私の実家から歩いて5分のところに流れるのは武庫川。私が交通事故で2週間入院したのも武庫川の土手を走る車と喧嘩したからです。一方府中には多摩川です。正直多摩川とはまだあまりお近づきになっていないのですが、しょっちゅうお姿を拝見させてもらっています。生物流転の様を感じさせてくれる府中と西宮。私にとってのガンジス川である。

 山の町である。
 まだネタがつきないからすごい。西宮といえば市内各所から見える六甲山系の偉容と、麓にそびえる甲山である。休日の度に六甲に登っていたのが懐かしい。さて、府中にも山? そう、あるんです。浅間山。鬼押し出しのほうではなく、「せんげんやま」と呼ぶ。上にも書いた酒販店がまさにこの山の近くでした。山椒は小粒でもピリリと辛い。そんな一服の刺激が楽しめるのが府中と西宮なのです。

 廃線跡の町である。
 府中本町から帰るときなど、国鉄下河原線の廃線跡の道を通って帰ることがある。府中の余裕を示す一例としても興味深い廃線跡である。標識や線路が20数年の時をへて残っているからすごい。一方西宮には、阪神武庫川線の廃線跡がある。今は住宅地になってしまったが、私が子供の頃には武庫大橋の駅ホーム廃墟がだらーんと残っていて、よく蝉取りにいったものです。また今夏にも歩いたが、国鉄福知山線の廃線跡もいい味を出していて、うちの妻がまた行きたいとのこと。ノスタルジーに浸ることができる府中と西宮なのです。

 他にも公園があり、寺院があり、街道や高札場があり、縦横の交通網があり、美術館があり、高速道路が通り、中規模のプールがあり、競輪や競艇もあり。。。と共通点がまだまだ出てきそうである。決定的に違うのは海の有る無しと文教都市のしての充実度か。海や埋立地や多数の大學までも持っている西宮の奥は深い。とはいっても府中には三億円事件で有名な刑務所や私も二度訪れた府中免許更新所があるから侮れない。

 さて、こんな府中だが、その市庁舎、かなり質素な佇まいである。
 私の住んでいる町田にはほとんど触れずに府中のことばかり書いたのにも訳があって、町田では市庁舎立替の話がかなり進んでいる。町田には町田の魅力があることを承知であえて言わせてもらうと、市庁舎に金を使う余裕があれば、もっと他にすることがあるんでねぇの、と思うのである。町田に八年も住んでいながら、他の町の自慢をするというのも変な話である。府中と同じでなくてもいいから、もうちょっと新規住民の呼び込みだけではなくて、昔からの住民を大事にしてよ、といいたい。

 遠藤周作や白洲次郎など、阪神間と町田の両方にゆかりのある有名人がいるのに、阪神間と府中の両方にゆかりの有る人は知らないだけになおさら。