日本的な年齢で呼び表すと、古稀。古くから稀にしか生きた人がいない。七十年とはそれだけの年数を意味します。

戦争が終わり、七十年。もう、そろそろいいじゃないか。終わりにしませんか。そう思います。七十年を区切りとして、第二次大戦を史実として歴史家に委ねてもよいのではないかと思います。歴史は歴史として尊重し、未来に目を向けるべきではないでしょうか。

勿論、当時を知り、まだ存命の方が多数いらっしゃることは承知の上です。南京、ドレスデン、ワルシャワ、沖縄、廣島、長崎、東京、その他第二次大戦で戦火に炙られた戦場の数々。それらの場所で、戦争の惨禍と人間の残酷な面をまざまざと目にした方々の体験を水に流すわけではありません。そんな失礼な仕打ちは論外です。私の父からして、明石空襲で命からがらの目に遭っています。第二次大戦の全ての被災者の方々とその体験への哀悼やねぎらい、苦しみや悲しみに対して十分に尊重することは当然です。

その事を前提として、国や民族の単位で、謝罪や誠意の多寡を言い争うのはもうやめにしませんか、と提案したい。未来に目を向け、これからのアジアについて建設的な関係を築きませんか、と意見を投げ掛けたい。

かつての大日本帝国は過ちをおかした。これは認めます。中国側の主張する南京の犠牲者数は白髪三千丈の一種として、認めるわけにはいきません。しかし、例え僅かであれ、日本軍による虐殺行為もあったでしょう。慰安婦にしても、ほとんどが朝鮮人の仲介業者による運営だったかも知れず、日本軍による組織だった関与は皆無だったかもしれません。しかし、軍として何らかの関与がなかったと強弁するのも難しいでしょう。一方で、アメリカによる東京大空襲や、廣島・長崎への原爆投下は間違いなく戦争犯罪です。ナチスによるホロコーストもまた同じ。日本はそれらを今さら告発することはしないし、東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ将軍には戦後勲一等旭日大綬章といった勲章まで授与しています。

一方で、杉原千畝氏や樋口中将のようなユダヤ民族に対して救いの手を伸ばした人の話もあれば、諸国民の中の正義の人に連なる人々のような、人類の良心が示された話もあります。戦中アメリカに対して果敢に戦った軍人が、戦後アメリカに招かれて勇気をたたえられた話もあります。

戦争とは国の名によって行われました。しかし、その行動は個人の意思です。たとえ時代の空気や巧妙な宣伝工作によって惑わされていたとしても。日本、朝鮮、中国、アメリカ、ドイツに至るまで、愚劣な人による愚かな行為があり、高潔な人による賞賛される行為がありました。そこには民族や国の優劣などないと思っています。全ては不幸な時代の不幸な諍いの結果であり、犠牲者の方々には申し訳ないのですが、今更そのことをあげつらったり、非難を応酬することはやめにしませんか、と重ねて言いたいのです。無論、それらの事実に蓋をするわけではありません。ただ、それらの事実は特定の国や民族を非難するための外交カードとして使うのではなく、人類の愚かさの教訓として後世に残すべきもの、そう思うのです。

なので、元首相が跪いて謝罪しようが、現役閣僚がかつての韓国統治を正当化しようが、もはやそれは個人の歴史観の問題として扱えないだろうか、と云いたいのです。昨日の安部首相による戦後70年の談話や鳩山元首相による韓国での謝罪など、それぞれがそれぞれの個人的な信念で行ったこと。それを尊重しようではありませんか。戦後70年の区切りとして、安部首相の談話には日本が示せる最大限の誠意が込められていたと思います。

昨日、日本のいちばん長い日を観劇してきました。観劇の感想は別にアップしたのでそれを読んで頂くとして、私は今の日本人が当時の人々を断罪する資格はないと思っています。当時の人々には当時の価値観や時局があり、それらに殉じて精いっぱいの日常を生きた。そう思っています。残虐な所業や卑怯な振る舞い、あるいは高潔な対応や勇気ある行動など、それぞれの国や民族でそれぞれの個人が行ったことについては人間の愚かさと気高さとして、あるがままに受け止めればよいと思います。

これからは過去の出来事に捉われず、前向きに生きて行きたい。そう提言したいと思います。古稀とは、中国の生んだ偉大な詩人杜甫の曲江の一節にある言葉です。日本は中国から多大な影響を受けてきました。中国にも愚かな歴史もありましたが、そろそろ中国も度量を示し、拡張ではなく融和の精神を示してほしいと思っています。


2 thoughts on “70年目の終戦記念日を考える

  1. 水谷 学

    東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ将軍は、以前読んだ第1回泉鏡花文学賞を受賞した半村良の日本史を読み替える伝奇SF「産霊山秘録」に登場していました。戦国時代から白く輝きながら東京大空襲の真っ只中にテレポーテーションして来た人間をルメイはB29の中から目撃する。著者は以下のようにルメイの大量殺戮行為を作品中で詳述している。この作品は昭和48年に書かれたが、巻末にこうした事実が書かれたのは戦争の記憶を後世に伝えるためだったかと思う。

    着任したルメイ将軍は、サイパン、グアム、テニアンの三地区にある指揮下のB29が六百機以上と知って舌なめずりをした。史上に名高いこの屠殺将軍は、全機の弾倉を焼夷弾で満たせと喚いた。

    そしてルメイは三月九日夜、遂にその地獄の使者を東京に向けて発進させた。 グアム、サイパン、テニアンの各基地から三百数十機のB29が合計二千トンにのぼる爆弾をかかえて一斉に舞い上った。

    B29の弾倉には通常五トンの爆弾が納められる。 しかしルメイ将軍は六トンの搭載とうさいを要求した。 小型焼夷弾六千発分である。

    このルメイ将軍の新しい爆撃方式は、飽和爆撃システムと呼ばれ、攻撃中心地点では一平方メートル当り三発の焼夷弾が火の手を挙げる計算だった。そして事実、被爆した地域では焼夷弾の飽和状態が出現し、そこは焦熱地獄と化したのだった。

    政府はその参謀総長に対し、航空自衛隊の育成に協力した功で、勲一等旭日大綬章を与え、労をねぎらった。その人物の名は、なんと、カーチス・E・ルメイであった。彼が行なった昭和二十年三月十日の東京大空襲では、八万三千六百名の死者と、十万二千五十七名の負傷者をだしている。

  2. 長井祥和 Post author

    水谷さん、おはようございます。

    ルメイ将軍自身が、述べていますよね。アメリカがもし負けていた場合、自分は間違いなく戦犯で起訴されると。

    半村さんのこの本はまだ未読なのですが、昭和48年の時点では、勲章授与などありえないといった怨嗟の声が当然あったでしょう。

    でも、私はもうよいのではないかと思います。例えばA級戦犯の合祀問題についても、日本には心を残して亡くなった方を、怨霊を鎮めるために神として祀る風習がありました。そこには死ねば全て彼岸と此岸に分けて、死者をどうこう言わない文化があると思います。

    ルメイ将軍にしろ、A級戦犯となった方々にしろ、もう歴史の狭間を生きた人物として尊重すればよいのではないかと思っています。

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