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kintone hive sendaiに参加しました


4/13に仙台PITにて行われたkintone hive sendaiに参加しました。

私にとって、初めてのkintone hiveへの現地参戦。
それまで、私にとってのkintone hiveといえば、幕張メッセで行われるCybozu Daysの中で開かれるkintone AWARDでした。

各地のkintone hiveで選ばれた方によるえりすぐりの大会。毎年そのレベルの高さは知っていました。
ところが、ここ三年、私はkintone AWARDをよくみられていません。それは、Cybozu Daysでブースを出展するようになり、ブースの対応で見られなくなったからです。

そんな私が初めて予選であるkintone hiveを観戦したのは昨年。kintone hive tokyoでした。
今、ジョイゾー社にいらっしゃる根崎さんが感動的な登壇を成し遂げた日とした記憶にも鮮やかです。
他の登壇者のレベルも高い。
そこで気付かされたのは、幕張のkintone AWARDだけでなく、各地で行われるkintone hiveも見なければ、ということです。

そこで今年は、kintone hive sendaiに合わせて東北からの複数のご縁を調整しました。
前々日には郡山市で。そして前日は米沢市で商談。その流れで最終日には仙台市で。kintone hive sendaiに参加できることになったのです。
それまでの二日間、頭の中はkintoneにどっぷりつかっていました。そして、会場の仙台PITの熱気や雰囲気は、kintoneにまみれた頭をさらに活性化させてくれました。


プライベートでライブハウスには何度も行ったことがあります。が、kintone hiveのようなIT系イベントてライブハウスに来るのは初めて。
会場の雰囲気はまさにライブ。心は湧き立つ一方。
やはり来て良かったと思わされました。

冒頭に登場したサイボウズ東北支社の田澤さんの話もバッチリ。メリハリの利いた話は、盛り上げ方を指南しつつ、会場の気持ちを高め、ライブ感をさらに盛り上げる名MCです。


一人目の登壇者は株式会社グローバルフィールドの保坂 梨恵さん。インパクトのあるいでたちで登場。
少し緊張していらっしゃるようですが、それがまたライブ会場の良さです。緊張していらっしゃる様子は、ディスプレイを通して見ると気づきません。会場の肌感覚とでもいいましょうか。
慰謝料のかわりに会社を受けついだというくだりでは、聴衆の心も鮮やかにつかんでいらっしゃいました。

保坂さんの登壇は、kintoneの良いところ、つまり簡単にレポートが表示できる利点を活かしている点で分かりやすかったです。
kintoneに変えたことでご本人が出産された際も、数カ月の間、会社に一切出社せずに業務が回せたそうです。引き継いだ時は紙の山だった業務を解きほぐし。

その結果、社員の皆さんの仕事も週休2.5日で回せるようになったそうです。kintoneの導入効果をフルに享受していらっしゃいます。
同じ経営する身として、社長がいなくても会社が回る体制はまさに理想。

保坂さんの属しておられる業種は、弊社にとってもなじみのある業界です。
その観点から拝聴した保坂さんの登壇内容からは、お客様はどういうところをkintoneの価値として置かれているのかがわかり、とても参考になりました。

保坂さん、ありがとうございました!


続いては、旭川信用金庫 古田 真之さん。
なんとkintone hiveに信用金庫の方が登壇されるのは初めてだそう。
こちらも私にとってはとても興味深いお話でした。というのも、弊社でも今、まさに信用金庫さんに近しい案件を担当させていただいているからです。

どのようにセキュリティやコンプライアンス上の懸念を払拭し、未知のツールを導入するのか。
それをどのようにして稟議を通し、組織全体に広めていくのか。
私もその難しさを感じながら、日々の提案や作業を行っています。

実際、旭川信用金庫さんでも、一度は導入に挫折したそうです。
そこで終わらずに、再び細かいアプリの作成からやり直し、徐々に組織内部で認知度を高め、ついには、当初挫折したアプリの再構築に取り掛かってらっしゃる最中だそうです。
まさにkintoneの導入のお手本ともいうべき内容。
話の構成がきっちりしているところは信用金庫さんの堅確性を持たせつつ、合間に笑いを入れる構成も素晴らしい。


ここに書かれている通り、金融機関とクラウドデータの組み合わせは、今後、私たちとしてもさらに社会に向けて働きかけていかなければならない部分だと思っています。
今後、旭川信用金庫さんがどのように導入してゆくか。その行く末が楽しみでなりません。

古田さん、ありがとうございました!


続いては、株式会社ニイヤマハウス 長南 卓弥さんです。
こちら、今回の登壇された方の中では、もっとも技術者に寄った内容でした。何しろ、長南さんはもともとパチンコなどの遊技機のプログラミングを行っておられたそうです。

ゲーム業界出身である長南さんのプレゼンは、ドット絵をうまく取り入れつつ、動きがあってとてもわかりやすい内容でした。プレゼンの妙味を感じさせてくれました。
Google CalendarとExcelと紙と基幹システム。まさにkintoneに切り替えると効果が発揮しやすい取り合わせです。
長南さんが素晴らしいのは、プログラミングができるIT経験者でありながら、アナログでのコミュニケーションをおろそかにせず、根気よく導入に向けて努力されたところです。

その苦労が実り、kintoneの導入が軌道に乗り始めるとよくあること。それはポータルサイトが大渋滞する件です。
ポータルを整理してあげると、お客様の満足度があがる。私もそんな経験を何度もしてきています。
ところが、なかなかポータルサイトの整備に手が回らないのも事実。これは、デザインが苦手な私にとっても由々しき問題です。

長南さんのkintone portal desingerを使った改善は、このところkintone portal desingerを全然使っていなかった私にとって大いなる気づきを与えてくれました。
長南さん、ありがとうございました!


続いては、東北特殊鋼株式会社 桜井 利江さん/木田 司さんです。

kintone導入歴一年と一年半という二人の掛け合いは、先輩と後輩のほほえましい関係を思わせて楽しかったです。
私もまだ掛け合いプレゼンはやったことがありません。一度はやってみたいと思います。プレゼンに躍動感が出ますから。

さて、お二人の登壇の何が素晴らしかったって、こちらの会社様は社長様からの声掛けが絶妙だったことです。
トップが業務改善へのやる気を持ち、そこから社内にkintone喫茶を結成し、多様な立場で情報共有する体制を作った。


私の中で今回のkintone hiveで刺さった言葉は数多く挙げられます。その一つはこちらで紹介されていたkintone喫茶。もちろんkintone Caféを運営する身としては見逃せません。

kintone喫茶によって現場の中で情報共有の機運を高め、業務改善につなげる。
素晴らしいと感じたのは、kintoneから帳票を出せるようにした後、その内容をもとに現場からのフィードバックをもらい、リスクアセスメントの評価につなげたところです。
出した帳票をもとに、現場から安全性を高めるためのフィードバックを受け、それをアプリや帳票に反映する。まさにあるべき業務改善のスパイラルです。
安全は全てに優先される。この言葉はあらゆる業種に通じるはずです。kintoneは安全管理にも使えるよい事例でした。

社内をkintone 喫茶で改善した東北特殊鋼さんの事例は、kintone Café運営にとっても役立つことでしょう。

桜井さん、木田さん、ありがとうございました!


続いては、株式会社昇栄 山崎 梨英さんです。

プレゼンのタイトルを見た瞬間、私のボルテージは上がりました。
「ライトコースでどこまでできるか、基本機能の極限活用が生み出したものとは!?」
私が苦手意識を持っているのはライトコースです。苦手というより、手がけたことがない、というのが正解です。

何しろ、今まで自社や多くのお客様の環境でkintoneに触れてきましたが、ライトコースはまだ一度も使ったことがないのです。
先日に開催したkintone Café 神奈川でも懇親会でその話題が出て、次のお題はライトコースハックに決まりました。そのタイミングの良さもあって、山崎さんの登壇でボルテージが上がりました。

スタンダードコースに頼ってしまうのはシステム開発会社の弱み。
工夫次第では関数だけでやり切れる。

と言いつつ昇栄さんも、ついにスタンダードコースに舵を切られるそうです。
うーむ、私としては納得ができる結末。
ですが、ライトコースではやはり限界があるのか、という割り切れなさが残ります。

むしろライトコースを突き詰めて、そこからスタンダードコースに舵を切るのがkintoneを提案する身としては正しい在り方なのか。
そもそも、最初からスタンダードコースがありきで提案する弊社のやり方が正しいのか。
ライトコースを突き詰めたからこそ、スタンダードコースに上げる際に発生する費用を捻出するための不要な業務やサービスが抽出でき、社内の稟議も通りやすいのか。

私の中でもっとも考えさせられたのが山崎さんの登壇でした。
私もそうですから、山崎さんがkintoneを導入するにあたってのいきさつや苦労は皆さんにとって、興味津々のはず。

アンケートでもぜひkintone Café 神奈川で話してください、とむちゃぶりを書いてしまいました。
ぜひまた、お話を伺えればと思います。

山崎さん、ありがとうございました!


続いては有限会社光成工業 畠山 成光さんです。

それまでに五組の登壇を聞いて少々疲れ気味の観客に向かって、ハイテンションで登壇する畠山さん。「Let’s kinjoy!」の決めゼリフとポーズを武器に、会場の反応が薄くとも孤軍奮闘する姿に最初は若干の痛々しさを感じました。
が、それをものともせず、会場の空気を徐々に自分のものにしていく姿はまさにライブ!この会場の雰囲気が変わっていく熱が感じられるのがライブ会場の良さなのですね。これはオンラインでは体験できません。あらためて、来てよかったと思いました。
会場の聴衆を味方につけ、会場の雰囲気をライブで変えた畠山さんの打たれ強いメンタルとkintoneが大好きな熱量。
この熱さがあってこそ、光成工業さんは変わったのだと強く納得できました。そして、これは畠山さんが選ばれるのではないかと、登壇されている途中から感じました。

でも、聴衆の皆さんは決して畠山さんの「Let’s kinjoy!」の決めゼリフや熱量に幻惑されたわけではないのです。
実際、光成工業さんの取り組みは、参考になるべき点がとても多くありました。

まず、一部メンバーだけで動いて失敗した後、社長様から言われた「全員でやれ」の言葉。
早いうちから一部の方だけでやってしまい、実際に使う方に最後に伝えてしまうと、kintone導入は失敗はせずとも必ず苦労します。私も今までに何度か、失敗をやらかしたことがあります。

そして全員でやるようになってからの畠山さんの動きが素晴らしい。あさっての全体朝礼までに宣言するように、との指令を基に、告知動画を四人で作ってしまうのです。
しかもキックオフイベントではそれまで使っていた紙の日報の原本を現場のリーダーが破る姿を示す。その結果、日報のデジタルへの切り替えが一気に進んだそうです。


さらに、現場の年配の社員さんの声を生かした専用アプリ。これ、なかなかできるようでできないです。でも、それをやってしまったところが素晴らしい。
私たち導入側も、ここまで全ての社員さんを巻き込めた導入ができているのだろうか。すべての社員さんの声が聞けているのだろうか。プロジェクトメンバーだけで完結していないだろうか。
とても勉強になりました。

畠山さん、おめでとうございました!

東北・北海道地区代表には畠山さんが選ばれましたが、6組の皆さんの中で優劣があったのではなく、東北・北海道からの代表としてAWARDを勝ち取ってくれるのではないか、そんな期待があったからこその選出理由だったのでしょうね。


さて、投票結果の集計中は、サイボウズ東北支社の大越さんをファシリテーターとし、
社会保険労務士法人めぐみ事務所の原 和也さんと信幸プロテック株式会社村松 直子さんの鼎談です。
題して「スペシャルセッション「もっぺん、聞かせでけねが?おめほのきんとーん!」」

各お題が東北弁で書かれ、それを読み上げる大越さんの東北弁が流ちょうなのがよかった。

このマトリクスに出ているとおり、それぞれの導入経緯の違いが対比できているのがよかったです。

私も、こうと決めつけず、お客様の内部をよく把握し、お客様に適した提案をしていかなければ。学びが大きすぎます。

公平に。そして透明性をもって。
【kintoneは「楽しい」を大切に】 2023/4/13 kintone hive sendai2023 まとめ – Togetter


夜はアフターhive交流会。
今回、前日の米沢での商談に一緒にいった頼りになるパートナーさん二人と。


冒頭にすがわらさんと水沢さんによるhiveの振り返り。
この場で水沢さんからは弊社で副業も込みで働いていることをカミングアウトしていただきました。

今後とも東北を一緒に盛り上げていきましょう!

続いては、6班に分かれての業務改善ワーク。私もかつてこのワークはサイボウズさんのオフィスで取り組ませていただいたことがあります。それ以来、数年ぶりに模造紙と付箋とマーカーを駆使し、私の中で錆びついた学びを新たにしました。
私たちの班にいらっしゃった方がまさにkintone導入前。これからkintoneの社内提案に入られるそうです。同じ班の私たちにとってはkintone hiveで学んだ成果をお見せできる格好の場です。
学んですぐに実践。とても貴重な場となりました。

埼玉、東京、神奈川に帰らねばならない私たちは、二次会以降はご遠慮しました。
仙台駅から乗った新幹線では、今回のhiveでの学び。商談で出た課題やこれからの進め方など、存分に語り合えました。

商談をご一緒した郡山、米沢のみなさま。kintone hive sendaiの会場やアフターhive懇親会で出会った皆様、本当にありがとうございました!

そして充電器を託してしまった松井さん、次回どこかのhiveで必ずや!


あなたの知らない福島県の歴史


郡山に出張で訪れたのは、本書を読む10日前のこと。セミナー講師として呼んで頂いた。そのセミナーについてはこちらのブログブログで記している。

この出張で訪れるまで、私にとって福島はほぼ未知の地だったと言っていい。思い出せるのは東日本大震災の二年半後に、スパリゾートハワイアンズに家族と一泊したこと。さらに10年以上遡って、友人と会津若松の市街を1時間ほど歩いたこと。それぐらいだ。在住の知人もおらず、福島については何も知らないも同然だった。

何も知らない郡山だったが、訪れてみてとてもいい印象を受けた。初めて訪れたにもかかわらず、街中で私を歓待してくれていると錯覚するほどに。その時に受けた好印象はとても印象に残り、後日ブログにまとめた。

わたしは旅が好きだ。旅先では貪欲にその土地のいろいろな風物を吸収しようとする。歴史も含めて。郡山でもそれは変わらず。セミナー講師とkintone ユーザー会が主な目的だったが、郡山を知ることにも取り組んだ。合間を見て開成館にも訪れ、郡山周辺の歴史に触れることもその一つ。開成館では明治以降の郡山の発展がつぶさに述べられていて、明治政府が国を挙げて郡山を中心とした安積地域の発展に取り組んだことがわかる。郡山の歴史を知ったことと、街中で得た好印象。それがわたしに一層、福島への興味を抱かせた。そして、郡山がどんな街なのか、福島の県民性とは何か、に深く興味を持った。本書に目を留めたのもその興味のおもむくままに。福島を知るにはまずは歴史から。福島の今は、福島の歩んできた歴史の上にある。本書は福島の歩んできた歴史を概観するのによい材料となるはずだ。

東北の南の端。そして関東の北隣。その距離は大宮から東北新幹線で一時間足らず。案外に近い。しかし、その距離感は関東人からも遠く感じる。関西人のわたしにはなおさらだ。そのあたりの地理感覚がどこから来るのか。本書からは得られた成果の一つだ。

本書は大きく五章に分かれている。福島県の古代。福島県の鎌倉・室町時代。福島県の戦国時代。福島県の江戸時代。福島県の近代。それぞれがQA形式の短項目で埋められている。

たとえば、古代の福島県。白河の関、勿来の関と二つの関が設けられていたことが紹介される。関とは関門。みちのくへの関門が二つも福島に設けられていたわけだ。福島を越えると別の国。蝦夷やアイヌ民族が住む「みちのおく」の手前。それが福島であり、関西から見るとはるか遠くに思える。ただ、それ以外で古代の文書に福島が登場することはそれほどない。会津の地名の由来や、会津の郷土玩具赤べこの由来が興味を引く。だが、古代製鉄所が浜通り(海岸沿い)にあったり、日本三古泉としていわき湯本温泉があったり、古来から対蝦夷の最前線としての存在感はは福島にあったようだ。

そんな福島も、源頼朝による奥州合戦では戦場となり、南北朝の戦いでも奥州勢が鎌倉や京に攻め上る際の拠点となっている。また、戦国の東北に覇を唱える伊達氏がすでに鎌倉から伊達郡で盛んになっているなどは、福島が中央の政情に無縁でなかったことを示している。

そして戦国時代だ。福島は伊達氏、特に独眼流正宗の雄飛する地ともなる。伊達氏が奥州を席巻する過程で激突した蘆名氏との擂上原の合戦は名高い。秀吉による奥州仕置が会津若松を舞台として行われたことも見逃せない。会津に転封された蒲生氏郷や上杉景勝など、中央政府からみても会津は一つの雄藩に扱われる国力を持っていたこともわかる。また、この頃に「福島」の名が文献にあらわれるようになったとか。「福島」の名の由来についても通説が提示されている。今の福島一帯が当時は湖沼地帯で、付近の信夫山から吾妻おろしが吹き、それで吹く島と見立てたのを縁起の良い「福島」としたのだという。別の説もあるようだが・・・

そして江戸時代。多分、このあたりから今の福島の県民性が定まったのではないかと思う。たとえば寛政の改革の主役である松平定信公は幕政に参画するまでは白河藩主として君臨しており、その改革の志は白河藩で実施済みだとか。また、会津藩にも田中玄宰という名家老がいて藩政改革を主導したとか。会津藩校である日新館ができたのも、江戸時代初期に藩祖となった保科政之公の遺訓があったからだろう。また、その保科政之公は実際に家訓15カ条を残しており、それが幕末の松平容保公の京都守護職就任にも繋がっているという。朝敵の汚名を蒙ってしまった幕末の会津藩だが、そこには幕藩体制のさまざまなしがらみがあったことが本書から知れる。また、隣国米沢藩の上杉鷹山公の改革でも知られるとおり、改革がやりやすい土地柄であることも紹介されている。改革を良しとする土地柄なのに幕府への忠誠によってがんじがらめになってしまったことが、幕末の会津藩の悲劇を生んだといえるのかもしれない。

ところが、その改革の最もたるもので、私が郡山に訪れた際に開成館で学んだ安積疎水の件が、本書には出てこない。猪苗代湖から水を引き、それによって郡山や安積地域を潤したという明治政府による一大事業が本書にはまったく紹介されていないのだ。そこにいたるまでに、白虎隊や二本松少年隊の悲劇など、本書で取り上げるべきことが多すぎたからだろうか。少し腑に落ちないが、本書では近代の福島県からは幾人もの偉人が登場したことは忘れていない。野口英世、山川捨松、新島八重、山川健次郎、星一など。本書はそれを一徹な気風のゆえ、としているが、実際は改革を良しとする気風も貢献しているのではないか。円谷英二や佐藤安太といった昭和の日本を支えた人物はまさにそのような気性を受け継いだ人のような気がする。

本書はあくまで福島県の歴史を概観する書だ。なので県民性の産まれた源には踏み込んでいない。それが本書の目的ではないはずだから。本書にそこまで求めるのは酷だろう。

でも、もう少し、その辺りのことが知りたかった。改革が好きな県民性の由来はどこにあるのか。今も福島には改革の気質が濃厚なようだ。私をセミナーに招聘してくださるなど、福島ではたくさんのIT系のイベントが催されているようだ。会津大学はITの世界でも一目おかれている。

私が郡山を訪れた時、福島第一原発の事故による風評被害は郡山の皆さんの心に影を落としているように思えた。でも、ブログにも書いた通り、改革の志がある限り、郡山も福島もきっともとの姿以上になってくれると信じている。セミナーで訪れた後も再度郡山には及び頂いた。それ以来、福島には伺えていないが、また機会があれば行きたいと思う。その時はもう少し奥の本書で得た福島の知識を携えて。

‘2016/10/9-2016/10/10


三陸海岸大津波


3.11の津波は、日本人に津波の恐ろしさをあまねく知らしめた。ネット上に投稿された数々の津波動画によって。

私自身、それらの動画をみるまでは津波とは文字どおり巨大な波だと勘違いしていた。嬉々としたサーファーたちがパドリングして向かう巨大なパイプラインを指すのだと。しかし3.11で沿岸を襲った津波とは、海が底上げされる津波だ。見るからに狂暴な、ロールを巻いた波ではない。海上は一見すると穏やか。だが、実はもっとも危険なのはこのような津波なのかもしれない。

本書は、3.11が起きるまでに、三陸海岸を襲った代表的な津波三つを取り上げている。すなわち明治29年(1894年)の明治三陸地震の津波、昭和8年(1933年)の昭和三陸地震の津波、最後に昭和35年(1960年)のチリ地震津波である。

著者の記録文学はとても好きだ。時の流れに埋もれそうなエピソードを丹念に拾い、歴史家ではなく小説家視点でわれわれ読者に分かりやすく届けてくれる。記録文学の役割が過小に評価されているように思うのは私だけではあるまい。

だが、著者の筆力をもっても、津波とは難しい題材ではなかったか。

なぜか。それは、時間と時刻だ。

時間とは、過ぎ去った時間のこと。本書が書かれたのは1970年だという。明治三陸津波からは76年の月日がたっている。もはや経験者が存命かどうかすら危ぶまれる年月だ。では、昭和三陸津波はどうだろう。こちらは被害に遭ってから38年。まだ体験談が期待できるはず。

だが、ここで時刻という壁が立ちはだかる。明治も昭和も地震発生時刻は夜中である。津波が三陸沿岸を総ざらいしたのは暗闇の中。つまり、目撃者からは行動の体験は引き出せても、視覚に映った記憶は期待できないのだ。

二階の屋根の向こうに波濤が見えた、海の底が引き潮で数百メートルも現れた、という目撃談は本書に載っている。だが、断片的で迫力にかける。そもそも夜分遅くに津波に襲われた被災者の方々が克明に状況を目撃しているほうがおかしいのだ。

被災者に立ちはだかるのは暗闇だけではない。津波とは一切を非情に流し去る。朝があたりを照らしても、元の風景を思い出すよすがは失われてどこにもない。そして、その思い出すらも時の経過が消し去って行く。荒れ狂う波が残した景色を前に、被災者はただ立ち竦むしかない。後世に残すに値する冷静緻密な絵や文章による描写を求めるのは被災者には酷な話だ。写真があればまだよい。だが、写真撮影すら一般的でない時代だ。

そんなわけで、著者の取材活動にも関わらず、本書は全般的に資料不足が否めない。でも著者は明治、昭和の津波体験者から可能な限り聞き取りを行っている。

視覚情報に期待できない以上、著者は他の感覚からの情報を集める。それが聴覚だ。本書には音についての情報が目立つ。地震発生時に二発響いたとされる砲声とも雷鳴とも聞こえる謎の音。海水が家屋を破壊する音や家にいて聞こえるはずのない水音。目には映らない津波の記憶も、耳の奥にはしっかりと残されている。そういった情報は聞き取りでも残された文献からも拾うことができる。

地震の記録としてよく知られるのは、宏観現象だ。宏観現象とは、前兆として現れた現象のことだ。本書は宏観現象も網羅している。

なかでも秀逸なのは、ヨダという東北弁の語彙の考察だ。ある人は揺れがないのに襲いかかる津波をヨダといい、ある人は揺れの後の津波をヨダという。著者が出した結論は後者である。その様な誤解が生じたのは、本書で三番目に取り上げるチリ地震津波の経験が影響しているのだろう。地球の裏側で起こった地震の津波が2日後に死者を出すほどの津波になるとは誰も思うまい。

そして、そういった波にも甚大な被害を受けること。それこそがリアス式地形を抱える三陸の宿命なのだろう。

だが、宿命を負っているにも関わらず、三陸の人々の全員に防災意識が備わっているかと言えばそうでもない。

著者の聞き取りは、三陸の人々が地震にたいして備えを怠っていたことを暴く。津波を過小評価し過去の地震の被害を軽くみた人や、誤った経験則を当てはめようとして逃げなかった人が津波にはやられている。

今の時代、昔から受け継がれてきた知恵が忘れられているのはよく言われる。しかし、昔の人たちも忘れることについては同じだったのかもしれない。

明治の地震でも更地と化した海沿いから、高台に家屋を移す試みはなされた。しかし、漁師は不便だからという理由でほどなく海沿いに転居する家が後を絶たなかったとか。そしてそれらの家は、後年、沿岸を襲った津波の被害に遭う。

結局、人とは喉元を過ぎれば熱さを忘れる生き物かもしれない。その意味でも著者の記録文学は残っていくべきなのである。

‘2016/6/29-2016/6/29


おくのほそ道


旅。大人にとって魅惑的な響きである。旅を愛する私には尚のこと響く。名勝に感嘆し、名物に舌を肥やし、異文化に身を置く。私にとって旅とは、心を養い、精神を癒す大切な営みである。

しかし、この夏休みは、残念なことに旅に出られそうになかった。参画するプロジェクトの状況がそれを許さない事情もあった。また、私も妻も個人の仕事を飛躍させるためにも、この夏頑張らねばとの覚悟もあった。

旅立てないのなら、せめて旅の紀行に浸りたい。先人の道を想像に任せて追い、先人の宿を夢の中で同じくする。からだは仕事の日々に甘んじても、こころは自由に枯野を駆け巡りたい。それが本書を手に取った理由である。

また、私にとって俳諧とは、縁遠い物ではない。かつて一度だけ、100枚ほど出した年賀状全てに違う俳句を詠んで記したことがある。10年ほど前には、旅先で投句した句が本に載ったこともある。昨夏からは、旅先でその情景を一句詠み、旅の楽しみとして再開したこともある。たとえ駄句であっても、句を詠むことで、写真や散文には収めきれない、こころが感じた情景を残すことができたように思う。

そのような嗜好を持つ者にとって、本書は、一度はきちんと読み通さねばならない。ひと夏の読書として、本書は申し分ない伴侶になってくれるはずである。それもあって、本書のページを繰った。

おくのほそ道。云うまでもなく、本書は日本が誇る紀行文学の最高峰である。中学の古文で、必ず本書は取り上げられ、その俳諧の精神を学ばせられる。

しかし、教科書に取り上げられる際、本書の中で取り上げられる箇所はほんの僅かである。せいぜいが「月日は百代の過客にして、、」で始まる一章と、平泉、山寺、最上川下りの部分が紹介されるのが関の山か。つまり、日本人の大半は、教科書で取り上げられた僅かな部分しか、奥の細道を味わっていないといえる。偉そうにこのような文を綴っている私からして、その大半の中の一人である。古文の教科書でつまみ食いのように本書に目を通して以来、本書をじっくり読むのは四半世紀ぶりであり、通読するのは無論初めてである。

徒歩で江戸を立ち、みちのくへと向け北行し、仙台、松島、平泉へ。鳴子から出羽の国へ抜け、山寺によりながら、最上川を下って酒田へ。象潟を鑑賞し、一路南へ。親知らずの難所を超え、越中、越前を過ぎ大垣へ。今の余裕のない社会人には、同じ行程を電車や車で旅するだけでも、贅沢といえる。ましてやじっくりと徒歩で巡ることなど、見果てぬ夢である。当時の旅の辛さを知らぬ私は、ただ羨ましいと思うのみである。

本書は紀行文学であり、俳句がつらつらと並べられた句集ではない。旅先毎に、一章一章が割り当てられ、そこでの行程の苦難や、旅情を親しみ、受けた恩恵を懐かしむ。本書は一章一章の紀行文の積み重ねであり、そこにこそ、素晴らしさがある。いかに名吟名句が並べられていようとも、それらが無味乾燥に並べられている句集であるならば、本書は数世紀に亘って語り継がれることはなかっただろう。本書のかなめは紀行文にあるといってもよく、肝心の俳句は、それぞれの章に1,2句、心象風景を顕す句が添えられて、アクセントとして働いているのみである。章によっては句すら載っていない。あくまで本書は紀行文が主で、俳句は脇である。

本書の中で、人口に膾炙した有名な句として、
 夏草や 兵どもが 夢の跡
が登場する箇所がある。平泉訪問である。しかし平泉の章は、この句だけが載っている訳ではない。その前後を平泉訪問の紀行文が挟む体裁をとっている。要は松尾芭蕉と同行する弟子の河合曽良の平泉観光日記である。他の旅先では、それぞれの紀行文が章を埋める。尿前の関では馬小屋に泊まったり、酒田では地元の名士の歓待を受けたり、親不知では遊女に身をやつした女と同宿になったり、福井では同行の河合曽良と別れたり。名所旧跡をただ回るだけでなく、これぞ旅の醍醐味とも云うべき変化に富んだ紀行の内容が章ごとに展開し、飽きることを知らない。

また、本書は松尾芭蕉が主役かと思いきや、そうではない。同行の河合曽良の句も多数掲載されている。例えば日本三景の一つ、松島を訪問した際は、あまりの風光明媚な様子に、芭蕉翁からは発句できず、河合曽良の一句が替わりに載っている。これも意外な発見であった。

また、他にも私にとっての発見があった。本書はその場の即興で詠んだ句がそのまま載っている訳ではない。おくのほそ道の旅は大垣で終わるのだが、本書が江戸で出版されたのは、旅が終わって数年後のことであり、その間、芭蕉翁は詠んだ句を何度も推敲している。それは紀行文も同じである。あの芭蕉翁にして、その場で詠んだだけでは後世に残る名句を産み出しえなかったということである。これは、新鮮な発見であった。私は本書を読むまで恥ずかしながら、俳句とは即興性に妙味があると勘違いしていた。即興であれだけの句を産み出しえたことに芭蕉翁の偉大さがあると。しかしそうではない。むしろ旅から帰ってきた後の反省と反芻こそが、本書を日本文学史上に遺したのだということを教えられた。

まだ学ばされたことはある。同行する弟子の河合曽良が、曽良旅日記なる書物を出版している。その内容は本書の道程を忠実になぞったものである。その日記と本書の記述を照らし合わせると、行程に矛盾する箇所が幾多もあるとか。つまり、芭蕉翁は、あえて文学的効果を出すために、本書の章立てを入れ替えたことを示している。これも紀行文の書き方として、目から鱗が落ちた点である。ともすれば我々は、紀行文を書く際、律義に時系列で旅程を追ってしまいがちである。しかし、紀行文として、旅程を入れ替えるのもありなのだ、ということを学べたのは、本書を読んだ成果の一つである。

そして、私が旅日記を書く際の悪癖として自覚しているのが、旅程の一々をくどくどと書かねば気が済まないことである。しかし、本書の筆運びは簡潔にして要を得ている。紀行文が簡潔ならば、添えられた句はさらに簡潔である。読者は本書の最小限の記述から、読者それぞれの想像力を羽ばたかせ、芭蕉翁の旅路を追うことになる。無論、そこには読者にもある程度の時代背景や文化を読み解く力が求められる。

そのため、本書は久富哲雄氏の詳細な注釈と現代語訳が各章に亘って付されている。注釈だらけの本は、構成によっては巻末にまとめて並べられていることが多い。そのような本は、毎回ページを繰り戻すことになるので、得てして読書の興を削ぎがちである。しかし本書は章ごとに原文と現代語訳と注釈が添えられ、理解しながら読み進められるようになっている。

また、これは巻末になるが、旅程の地図も詳細なものが付けられている。地図を見るのが好きな私にとり、嬉しい配慮である。ましてや本書をひと夏の旅の替わりとして使いたいといった私の目的に合致しており、読みながら道中のイメージを膨らませることができた。

この夏は、幸いなことに実家の両親を共にし、丹後方面に旅をすることができた。日本三景の一つ、天橋立を自転車で往復することもできた。芭蕉翁は確か天橋立には訪れていないとか。私が本書を読んだ成果を句に残したことは云うまでもない。本書から受け継いだ俳諧の精神を込めたつもりだったが、推敲したからといって、その域には遠く及ばぬものだったのは云うまでもない。芭蕉翁は未だに遠い。

’14/07/24-‘14/08/10


骨の記憶


著者の名前はミステリ関係のランキング本や新古書店などで目にしていたけれど、手に取るのは初めて。

浅い見方をすればプロットは集団就職での裸一貫での状況からバブルに踊るまでの日本昭和史を背景に絡めたサクセスストーリーで、有りがちといえば有りがちな内容である。が、それだけで切って捨ててしまうには惜しいほどのディテールが込められている。特に前半部、主人公が東北で貧富の差をかみしめつつ、とある出来事にまきこまれるまでの展開において、実に骨太で気合の入った描写が続く。東北弁が縦横に駆使されていて、ほとんど意味がつかめないほどである。私は東北出身者ではないので東北弁が妥当な使われ方をしているのかどうかわからないが、上京後の主人公の運命の変遷によって主人公の言葉が徐々に標準語に置き変わっていく様など、丁寧な描写がなされていることに好感が持てた。

凡百の成功譚や、見せかけの成功を戒める教訓譚からこの本が一線を画しているのも、この丁寧な描写に尽きると思う。

主人公が運をつかみ始めるところから話の展開が速くなるのは、よくある偉人伝と同様な流れであり、成功者の孤独やむなしさ、それを覆う上流社会の暗さの描写もきっちりと押さえた筋の展開は安心して読み進められる。だからといって単調な筋展開に陥らないのは、冒頭に仕掛けられた伏線がかなり印象に残るものであるからであり、どのように主人公が自らの人生の落とし前をつけるか、についての興味は持続し、ページを繰る手は休まらない。

戦後日本が国際経済で覇を唱えるまでの道行と、主人公のそれを重ねて読むことで、戦後日本の光と闇を、集団就職という視点から追体験することも可能な小説である。

’11/12/03-’11/12/05