あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。ここから先はかつての連載が打ち切られた後に執筆しています。
家の処分をめぐる熾烈な攻防を描いています。本当にタフな毎日でした。
家を手放す決断
前回の第四十六回で書いた2003年のあわただしい日々。2003年は年末に地主の家に伺って地代を払うことで幕を閉じました。
その際、今後の家の処分について話し合いを持ちました。そこで決まった方針は、私たち一家が別の場所に引っ越す前提に準備を進めることでした。
その際、長井家と地主の間に残る肝心かつ山積みの懸案事項を一旦は棚上げしました。まずは家の処分について膠着している状況を前に進める。その思惑は双方で一致しました。
懸案事項とは以下の通りです。
・都市計画に含まれている道路拡張分の40坪部分について、長井家と地主の借地権割合
・都市計画に含まれていない建屋二棟を含んだ残りの140坪について、長井家と地主の借地権割合
・140坪の借地権の権利を持つのはどちらか。その借地権移転の補償額
・建物や庭木の処分はどちらが行うのか。その費用負担の決定
このように、私たちは新たな家を探す方向で決断しました。
今の家にずっと住み続ける事はできない。それは私にはわかっていました。
どう考えても地主が土地の借地権を売ってくれるはずはありません。また、私たちに140坪の所有権を買うだけの資産はありません。祖母から妻あてに遺産として残された一千万円は結婚してからの四年間で尽きかけようとしています。同じ場所に住み続ける手段は閉ざされていました。
奇跡は起こらない。当時の楽天的な私ですら、その事は理解していました。
私たちも無策だったわけではありません。さまざまな選択肢を模索していました。
本連載の第四十六回で第七案に挙げていた「土地と上物を第三者に売却する」ことも検討しました。
その時、私たちが売却相手として考えていた相手は、住んでいる家の前にある「あけぼの病院」です。あけぼの病院の理事長は妻とは面識があり、面会を申し込みました。そして、建物と土地を含めて買ってくれないかという話をしたのです。
病院としては敷地を拡張するチャンスです。あわよくば土地と建物を含めて買ってくれるのではないか。と言う期待を抱いていました。もし買ってもらえたら、私たちは土地や建物の売却について地主と交渉する重荷から逃れられます。
ところが、病院からはお断りの返事が返ってきました。
他にもさまざまな方にこの家の売却については相談にも乗ってもらいました。そうした相談の一部は本連載の第三十九回にも書いた通りです。
私たちはいくつかの不動産業者を訪れました。例えば住宅情報館など。他にもその当時、私が勤めていた会社の方からの紹介で相模原の総合建設業を営む谷津建設の方とも面談しました。
そうした方々から聞こえる地主の評判。それはやり手、かつ、剛腕の持ち主であることです。
この地主を知らない町田近辺の不動産屋はもぐりだとも言われました。そして皆さん、地主の存在を聞いた途端、一様に手を引いていくのです。
私が対決しなければならない地主とはそのような方でした。
家探しを始める
今まで本連載で書いてきた通り、私が幾たびの交渉を含めて感じた地主の老獪さと手ごわさは、私にとっての大きな壁でした。
穏便にこちらの願いを聞いてくれるタマではない。交渉にかけては老練の方ですので、生半可なことでは負けてしまう。私にとってこの交渉は毎回果し合いをしているようでした。
少なくとも私たち夫婦の認識は、膠着した状況を打破するため、新しい場所に移り、借地権を返すしかないとの方向で一致していました。
それもあって、年末には先方の提案を呑み、前に進めることにしたのです。
家探しに当たっては、地主からも候補となる物件を提示してくれるとのことでした。
実際、2004年の正月の松の内を過ぎると地主からFAXが届くようになったのです。
言うまでもなく、妻の思いは複雑だったと思います。住めるものなら引き続き同じ場所に住みたい。そう願うのは当然です。思い出の場所ですし。
工事の途中で放置されたままの診療室の惨状を見るにつけ、この家の命脈が尽きていたことは妻も分かっていたようです。
私たち夫婦は、FAXに記された地主さんが薦める家のいくつかを見に行きました。
私たちの家探しの条件は、町田市内であることでした。
妻が働く実家の歯医者は、町田市にあります。町田市から別の市へ転居すると保健所への登録の手続きが必要です。また、町田から引っ越すと神奈川県民になることも考えられました。
また、妻自身が町田に住みたいと思っていました。さらに私も職場が相模原市にあるため、町田に住めれば通勤が楽であることも考慮しました。
もっとも、この時点の私は、相模原の会社に骨を埋めることはないだろう、ゆくゆくは都内や横浜へ通勤することになるかもしれないとの想定もしていた記憶があります。
どういう順番で物件を巡ったか、そもそもどこを訪れたのか。あまり記憶は残っていません。いくつかの物件の場所は覚えていますが、私たちが地主から勧められた物件のうち実際に訪れたのは、せいぜい5カ所くらいだったように思います。
正直に言うと、地主の薦めてくる物件は心に響きませんでした。
それは仕方のないことです。私たちが住んでいるのは駅近に建つ180坪の敷地と二軒の家です。その条件と比べてしまうと、どの物件も見劣りします。
地主の薦める以外の物件も夫婦であたってみましたが、なかなか意中のものは見つかりません。
私たちの手元には少なくとも3千万円は入ってくるはず。さらにローンを組んだとして5千万円くらいの物件は買えるはず。それが私たちの皮算用でした。
ところが、この価格帯で探しても、私たちが望む物件はなかなか見つかりませんでした。
もちろん、私たちの当時の収入や実力から考えると、分不相応な望みであることは当時もわかっていました。が、ここで下手に妥協すると、180坪の家にある大量のモノを収める場所にも難儀するし、モノが収まらない。何よりも家庭が崩壊する可能性があります。
地主から市から通行人からの圧力
なかなか意中の家は決まらない一方で、借地権割合の交渉も並行して進めなければなりません。
上に書いた通り、私たちの住んでいた敷地の一部は町田市の計画した道路の拡張部分にかぶっていました。
町田市にとっては、何十年も滞りづけている道路拡張を進めなければなりません。長井家と地主の交渉の進展を今かと待ちかねています。既に道路拡張の他の部分は、工事を進めています。
長井家と地主の交渉の肝とは、上にも書いたように借地権の割合です。町田市からは、地主と私たちで取り決めた借地権の割合に按分して支払われます。この割合が7対3なのか、半々なのか、4対6なのかによって私たちの収入額は変わってきます。
2004年の3月には町田市よりあらためて40坪についての測定・資産評価の連絡がきました。約4000万円です。つまり、借地権割合が半々の場合は私たちには町田市から2000万が振り込まれますが、3対7になった場合、1200万円しかもらえません。
また、40坪についての借地権割合が決まっても、残りの140坪についてはどうするのか。普通に考えればこちらは50年以上住んでいるので占有権が主張できます。その部分の売却額をどのように交渉するのか。
この頃の交渉の推移はあまり覚えていません。後に弁護士の先生に提示するため、いきさつを時系列でまとめた資料があり、それを基に本稿を書いています。
2004年の4月になり、意中の家が見つかりました。成瀬の高台にある土地です。そこを妻が気に入り、そこに家を建築することで話を進めることにしました。
私たちはこの家のローンを含めた全額を地主に負担してほしいと提案しました。その代わり、180坪についての借地権割合は私たちがゼロでよいと。
それにあたって、地主からはまずその代金が高すぎる。値引き交渉をしてほしい、と。
もちろん地主としては、取り分を上げるために老獪な策を巡らしてきます。それはわかります。ところがそこで、地主は私にとって許しがたい手段に訴えてきました。
ある日、私が地主の家に交渉で訪れたところ、その場には見知らぬ人物の姿がありました。
歳の頃は私よりもずいぶん上、おそらく五十歳くらいでしょうか。ひと目でその筋の方であることを匂わせるわかりやすい外見ではありません。ですが、堅気ではない雰囲気を旺盛に発散しています。裏に剣呑な何かを仕込んでそうな、ただならぬ凄み。
私はこの予期せぬ人物の登場に体がカッと燃え上がりました。激高しかけたのを覚えています。その思いは必死にこらえましたが、抑えきれなかったはずです。上ずった声で啖呵を切ってその場から退出したのを覚えています。
この方の名前も忘れましたし、今、この方と街ですれ違っても気がつかないでしょう。
ですが、地主はこの私を甘く見ていました。
この結果、私は高ぶりました。絶対脅しに屈するものかとけて決意を固めると同時に、交渉に本気になりました。私がこの交渉に弱みを見せると、家族にとってはよくない結果が待っています。負けられない。私が腹を固めたのもこの時だったように思います。
もちろん、地主が私よりも交渉術にたけ、何よりも土地を持っている強みがあり、百戦錬磨の経験を備えた人物であることは承知の上です。
2004年の4月には道路拡張の歩道部分がわが家の敷地を除いて完成しました。それをきっかけに通行人からの嫌がらせが顕著に増えました。ごみを投げられたり罵声を浴びせられたり。
そして、私たちが地主と交渉している間に、上の成瀬の物件は売れてしまいました。前払い金を払うタイミングを逃したためです。町田市からもすぐには金額を支出できないとの話があり、みすみす意中の物件を逃してしまったのです。
身を削るような交渉が連日のように続く中、2004年はやがて下半期に移ろうとしていました。
次回も家探しの日々、そして地主や町田市との交渉を書きたいと思います。ゆるく永くお願いします。