先日、安保法案が可決されましたね。

安倍政権にとっては重要な一歩だったと思います。また、国会議事堂の周りでシュプレヒコールを上げていた方々にとっては残念な結果となりました。

のっけから結論を言います。
「安保反対するのなら、可決後もその思いを貫き、安倍政権を牽制するだけの気概をもって頂きたい」
これです。

とはいっても、私、別にデモ隊の方々の主張に賛成するわけではありません。むしろ反対です。また、私は安保法案、特に集団的自衛権にも反対の立場です。安保法案の可決前夜には、国会議事堂まで行って野次馬として高みの見物をしました。見物して、そして失望しました。

1960年の安保反対運動のうねりは、安倍首相の祖父を退陣に追い込みました。そればかりか、時のアイゼンハワー米大統領の訪日をも阻んだと聞きます。私が生まれる前のことですが、さぞや熱気に満ちていたことでしょう。国会周辺を幾重にも取り囲むデモ隊。女子学生の死去。そこには確かに時代の潮流が渦巻いていたと思います。不謹慎なようですが、私もその現場に立ち会い、時代の潮目が変わる瞬間に立ち会いたかったと思います。

IMG_1399IMG_1400
その思いから、今回は野次馬との批判も甘んじて受けるつもりでデモ現場に行ったのですが・・・そこはただの祭りの場でした。単調なフレーズの連呼と鉦や太鼓のリズムで飾られた場。そこらの路上に神輿が鎮座していたとしても、全く違和感のない雰囲気。国会議事堂を囲んで訴えるというよりは、国会議事堂という御神体を祭り上げる祭祀の場となっていました。

あの1960年もこんな騒がしく賑わう祭りのような雰囲気だったのでしょうか。そうは思いたくありません。それとも私が抱いたこの思いは、平和な時代の申し子のとるに足らぬ感傷に過ぎないのでしょうか。

あのころの日本は、確固とした方針を持っていませんでした。朝鮮戦争の軍需景気にわき、GHQの軛から解かれたとはいえ、もはや戦後ではない、と白書で啖呵を切らねばならぬくらい、敗戦後を引きずっていました。まだ日本の進む道を選べるだけの国力もなく、未来はあいまいなままでした。このまま、ソ連を仮想敵として、アメリカの庇護に甘んじるのか、それとも、敗戦の事実を噛み締め、アジアの中流国家として傷が癒されるのを待つのか。

結果は岸首相がデモと刺し違える形で首相を辞任し、新安保条約は成立しました。跡を継いだ池田首相は所得倍増計画をぶちあげ、経済立国日本としての名乗りを挙げました。今の我々の繁栄は、間違いなくその結果でしょう。デモに破れたとはいえ、人々は必死に働き、奇跡とも言われる高度経済成長へと我が国を導きました。私がこんなことを書けるのも、私の祖父母や親の世代の努力あってのものです。

IMG_1902IMG_1903可決から10日ほど経った今夜、祭りのあとを見物に行きました。そこは、見事なまでにがらんどうでした。熱気どころか、秋の夜風が気ままに吹くだけの。この空虚な感じこそが、あのデモで騒々しく鳴らされていた鉦やコールや太鼓の残響なのでしょう。メッセージの軽さを象徴するかのように、そこには余韻すら感じられませんでした。

寒々しさすら覚える空っぽの路上から、55年前のデモが起こしたような我が国の未来は占えるのでしょうか。大いに不安です。今回のデモはそもそも、背後に何もありませんでした。闇雲に戦争反対を唱えたところで、55年前と違い、全く説得力はありません。近所のエキセントリックな独裁者は核開発ごっこに夢中で、さらに、巨大な人口と国土を持つ中華思想の国は、覇業への野心を隠そうともしません。その上、かつては強大な力と意思を持っていたGHQの親玉は、世界の警察ごっこに疲れ、その警ら業務の一部を我が国に肩代わりさせようとしています。そして我が国は勢いが衰えたとはいえ、世界第三位の経済大国となっており、米国の替わりに警らが出来るほどの経済力を持っています。

今は、1960年とはあまりにも違ってしまいました。当時デモに参加した人々は、戦禍の悲惨さを夜毎の悪夢で繰り返し体験していました。そういった人々が唱える安保反対と、今のデモ隊が単調に唱える安保反対は、重みが全く違います。しかも、戦争反対の呪文をいくら唱えても、裏側に具体的な戦争反対のための対案がない以上、結果は見えています。残念ながら、我が国の隣人は、お花畑の住人でも聖人でもありません。

誰だって戦争には反対です。だからこそ、戦争に巻き込まれないような手立てを講じるしかないのです。憲法は改正し、自衛隊を「国を守る軍隊」として定義する。いざ、事有らば、即座に対応できるだけの制度を整える。国防を放棄し、隣人の善意を信じるなど絵空事でしかありません。

一方、かつての我が国は他国を侵略する過ちを犯しました。これは残念ながら認めねばならないでしょう。なので、憲法で自衛隊を軍隊として認めたのであれば、その軍隊が再び外国を侵略することのないようにしなければなりません。今の自衛隊の装備は専守防衛にカスタマイズされていると聞きます。しかし、魔が差す指導者が将来現れないともかぎりません。そのため、国外での武力行使を厳禁するような憲法の規定は欠かせません。日本は地勢的に外に打って出られない宿命を背負っています。それは歴史上からも明らかです。明らかであっても日本が再び侵略国としての汚名を着ないように憲法で宣言することは必要でしょう。

その意志を体現し、睨みを利かせる重石として、今回のデモに参加された方々にはシラケることなく活躍して頂きたい。無意味な戦争反対の呪文を唱えるだけでは軽すぎて重石たりえません。

今の我が国は、アメリカが辛うじて睨みを効かせてくれているからなんとか外交が持っているように思えます。しかしその庇護はいつ外れてもおかしくありません。特にアメリカのイエローストーン国立公園地下にあるとされるスーパーボルケーノ。ここの破滅的噴火はいつ起きても不思議ではないといいます。万が一の際は、アメリカの国土の大半は灰に埋もれるとも聞きます。そうなった場合、アメリカには最早日本を助けるだけの余裕はないでしょう。

その時に日本が日本自身の決断で防衛出来なかったら、どうなるでしょう。竹島や尖閣諸島を奪われるだけでは済まないかもしれません。再び他国を侵略しないと謳った崇高な憲法も、無意味な紙切れに化けてしまいます。

そうはなりたくないですよね。

少なくとも、ネット越しではなく、実際に足を運ぶだけの思いがあったのであれば、安保法案が可決されたからといって一気に無関心になるのではなく、引き続き政権を牽制するだけの極になって欲しいと思います。たとえ理は政権側にあろうとも、一度パワーバランスが偏ったらそれを平衡に戻すために、どれほどの苦労を強いられるか。古来からの我が国の歴史がそれを証明しています。


コメントを残して頂けると嬉しいです

物申すの全投稿一覧