今日は東北地方太平洋沖地震から10年目の節目の日です。

10年前、私の動きは以下の二つのブログに書いています。
東北地方太平洋沖地震(発生日編)
東北地方太平洋沖地震(3/12-18編)

阪神・淡路大震災は、私の人生に強烈な影響を与えました。
東北地方太平洋沖地震もまた、阪神・淡路ほどではなかったものの、私の人生に大きな影響を与えました。

その影響を五つ、挙げてみたいと思います。

一つ目は、私に危機感を植え付けたことです。

上記のブログ内で3月25日に納品を予定していた某開発案件があったことは書きました。
その案件とは、ウェブサイトの作成とコンテンツを管理する仕組み(CMS)を含めたウェブサイト構築の二つでした。

ところが、地震とその後の激動の日々は、私から開発案件への時間と気力を奪いました。
その結果、納品がぎりぎりとなってしまったのです。
納品がぎりぎりになったことにより、お客様が前もって確保していたエンドユーザー様への納品までの余裕も使い果たしてしまいました。もちろん、相当にお叱りを受けました。
地震が理由なのは間違いないのですが、地震を理由にしてはなりません。当初の見積額からの減額を求められました。私の苦い思い出の一つです。

地震直後、私は少し躁状態で舞い上がっていました。
ところがしばらくして、私は逆に抑うつ状態に陥ったのです。
その理由は三つほど挙げられます。
地震によって若干の躁状態になった反動が来たこと。そして、上に書いたようないきさつでご迷惑をかけたこと。
最後の一つは地震とは直接関係ないのですが、私がとてもお世話になった大学の先輩がなくなったのが地震の起きる数日前で、そのお知らせが届いたのが地震が終わって数週間後。そのお知らせは私を強烈に揺さぶり、抑うつ状態へと落としました。

その当時の私は、都心の某銀行の本店に常駐していました。正直、この現場はいろいろと恵まれていました。銀行の本店ならではの雰囲気は、開発現場のような殺伐さとは無縁です。残業もなく、社食は安く。
ですから、この現場でずっと骨を埋める選択肢もあったのかもしれません。

ですが、この地震は私に危機感を植え付けました。
やがて抑うつ状態から上向いた私は、外部への働きかけを活発に始めました。
そうした私の外への活動は行員の方によく思われなかったのでしょう。私はその常駐現場を翌年の3月末で離任しました。

地震から離任するまでの一年、私はいろいろと動き回りました。
kintoneのβテスターに応募しました。また、自治会で役員の当番が回ってきた機会に総務部長を引き受けました。後にも書く通り、歯科診療所の開設の準備を進めました。
それらの活発な行動は、地震をきっかけに生まれた危機感が原動力となっていました。

その原動力は私を突き動かし、kintone・法人設立・自治会・エバンジェリストなどの今につながっています。

二つ目は、テレワークの必要を痛感したことです。

地震の当日、私がたまたま家で仕事をしていたため、さまざまな危険に遭わずに済んだこと。
錦糸町に行っていた妻が翌朝まで帰れず、しかも学童の保護会長としての仕事や、当時診療のアルバイトに通っていた鴻巣との行き来でかなり疲弊したこと。
妻が行けなかった代わりにたまたま家にいた私が娘たちを迎えに行けたこと。

こうした経験は、都心で仕事をするワークスタイルへの疑問とつながりました。
この先、都心への通勤を数十年続けた場合、やがて起こるはずの首都圏直下型地震や東南海地震によって同じ目に遭うに違いない。
その恐れは、私の中にリスクを回避する働き方への決意を固めさせました。

これまでの働き方ではどうにもならない、という決意。
その時の私の決意にkintoneが刺さったこと。
kintoneならば通勤せず、自宅で仕事をするスタイルが貫けるのではないか、というほのかな期待。

2012年の4月から私が常駐の技術者として参画したのはめちゃめちゃ忙しい現場でした。リスク回避どころか、平日はほぼ休めず、毎日終電が当たり前の現場でした。PMOと呼ばれるプロジェクトマネジメントの部署といえば、わかる人にはわかります。
そのような忙しい現場に、最初の一年間、町田からお台場まで毎日通っていました。
そんな日々の中、私は自治会の総務部長をこなし、後述する妻のココデンタルの開院準備に奔走していました。
そうした激動の日々に耐えられたのも、地震をきっかけとして芽生えた危機感を生かし、絶対に独立するという決意があったからです。

この現場でのお台場の日々は一年で終わりました。そこから同じプロジェクトの別現場である麹町に移動して四年。さらに稼働時間を半分に減らした麹町での一年半。
その間も終電で帰ることなどしょっちゅうでした。だから、独立するための準備にもなかなか時間が割けませんでした。ですが、そんな日々にあっても私は、自分で常駐に頼らずテレワークを武器にやっていくための覚悟や準備を数年かけて練っていました。
おかげでその常駐先を離脱して以降、私は常駐現場には一度も参画していません。今は常駐に頼らず、何とか法人を運営できています。

三つ目は、妻の歯科診療所開設です。

地震が起こった当時、妻は鴻巣の某歯科医院まで週一度ほどアルバイトに通っていました。
上のブログにも書いた通り、地震の当日から翌朝まで錦糸町に足止めを食らった妻は、地震の翌日に鴻巣に行かねばなりませんでした。ところが、学童の保護者会長だった妻は、地震への対応もこなさねばならず、その上に交通機関がマヒして疲弊の極にありました。
結局、翌日の鴻巣での診療はなくなったのですが、遠距離の通勤をいつまでも続けてはいられないとの思いが強まりました。

その経験は、妻と私に開業への気持ちを高めさせてくれました。
その時、ちょうど物件のご紹介をいただきました。妻がココデンタルクリニックを開院したのは、地震の翌年の6月です。

地震がなかったら、妻はココデンタルクリニックを開いていなかったかもしれません。
そして今もまだ、ココデンタルクリニックは続けられています。

四つ目は、地域に関心が向いたことです。

この地震によって東北地方、特に福島が大変な苦しみにあったことは誰もが知っています。

地震は私に地方への関心を呼び起こしてくれました。特に福島へのご縁と関心を。

地震の起こった翌秋のこと。次女が通っていた学童の秋祭りで飛ばした風船。
その風船が、偶然にもいわき市のスパリゾートハワイアンズに近いクレストヒルズゴルフ倶楽部さんに落ちました。
それがご縁で、家族でスパリゾートハワイアンズに泊まりに行ったのは2013年の8月のことです。

さらに福島とのご縁は続きます。kintone Caféからつながったご縁で郡山に行く機会をいただいたのは2016年。
そこで味わった温かさには感銘を受けました。また、夜の懇親会では、皆さんが風評被害への憤りとやるせなさを抱えていることも知りました。
郡山駅前では福島を襲う放射能の危機と福島からの脱出を訴える街頭演説に出会いました。人々の不安をあおるような演説に私は憤りました。

そうしたきっかけから、私は郡山や福島を応援するようになりました。それ以降、私が福島を訪れたのは六回。
おそらく地震がつないでくれたご縁だと思っています。

また上に書いたように、地震の翌年から就任した自治会の総務部長の活動も、私に地域への関心を向かせてくれました。

五つ目は、家族との絆です。

地震の当日、娘たちや妻と離ればなれになった経験は、家族への思いを強めました。
それまでも家族は大切にしていたつもりです。が、災害は家族をいやおうなしに引き離してしまいます。それをまざまざと感じさせてくれたのがあの日でした。

やがて起こるであろう首都圏直下型地震や東南海地震は、私から家族を引き離すかもしれません。
それどころか、私の命すら奪いかねません。
そのためにも、今のうちからやりたいことをしておかねば。

危機感をバネにリモートワークの体制を作り、地域と家族を大切にする。
私がこの地震で感じたことです。

上にも書いたとおり、阪神・淡路大震災の方が私に与えた影響は甚大でした。でも、その当時の私は学生であり、できることなどわずかでした。でも、今は違います。長じて経験を積み、それなりに社会的な立場もあります。
そんな今だからこそ、地震から受けた影響を社会に還元しなければ、と思うのです。
もちろん、私の力などまだまだ未熟です。が、そろそろ未熟だといって責任から目を背けていられません。

先日も余震とみられる揺れが東北を襲いました。まだ、3.11は終わっていないのです。
これからも地震で無念の死を遂げた方々に哀悼の意を込め続けたいです。そして、十年後の今も地震の苦しみを抱えていらっしゃる方を応援したいと思います。

地震から十年。私に何ができるのか。私が自らの一生を悔いなく全うし、しかも社会に対して貢献するにはどうすればよいのか。
あの日から十年たった今、その思いをかみしめたいと思います。


カテゴリ: 物申す.
最終更新日: 3月 12, 2021

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