令和の御代がすぐそこに来ています。新たな時代への期待が高まっているのを感じ、私も楽しみです。
 
 今上天皇のご意向による譲位は、国民の間でもさまざまな意見を生んだようです。ただ、私は全く賛成です。そもそも今の伝統を謳う方々の意見をよくよく吟味してみると、明治以降に作り上げた伝統に根ざしているように思えてなりません。光格天皇が譲位したのも十九世紀初めの事。長きに渡った天皇制の歴史でも、つい最近まで譲位が行われていたのです。だから、私にとって、譲位に反対する理由などありません。むしろ今上天皇の誠意を感じたぐらいです。

 今上天皇が象徴となっていただいた平成の世。それは私にとって生涯消えることのない思い出であり続けるでしょう。平成の時代が始まったの私が中学三年生の時。以来三十一年。その期間は、現在四十五歳の私にとって、三分の二を占めています。私が成長し、挫折し、また蘇るまでの日々。中学から高校、大学。そして地震からニートをへて上京、結婚、引っ越し、独立、法人化。そうした私の激動の日々に寄り添ってくれたのは平成なのです。思い出に残らないはずがありません。

 平成という字は、「平らに成る」と書きます。この字面を指して、日本が悪平等に陥った時代であったという説を唱える方もいるようです。皆が平らに成ろうとするあまり、冒険を恐れ、出る杭は打たれる時代。それが長期にわたる不況につながった。確かに一理ある意見です。

 古来、元号の文字には次なる時代への願いがこめられていたといいます。天変地異や疫病が流行する度、凶事を吉事に変えるための改元が行われ、吉兆を祝うためにも改元が成されました。その意味でいえば、平成の前の昭和は、本邦の歴史上でも有数の振幅を示した時代でした。だから、昭和の次の時代は平らかに成って欲しい、との提案者の意図は理解できます。そして願い通り、平成の世の日本は戦争とは無縁でした。災害やテロに苦しめられたとはいえ、総じて良い時代だったといえるのではないでしょうか。

 では次の令和はどういう時代になるのでしょう。令和には政府発表によれば美しい調和の意味が込められているとか。美しい調和。まさに日本のこれからの道を示していると思います。今の日本の一番の問題は少子高齢化です。そのため、移民に門戸を開かねばどうにも社会が維持できない。そのことに異論を唱える方はあまりいないと思います。

 これからのわが国は、諸外国からやってきた移民との調和が欠かせません。わが国は歴史上、何度となく移民の波にさらされてきました。全国各地に点在する「秦野」「太秦」「高麗」「百済」の地名はそれを物語っています。日本はもともと移民で成り立ってきた国なのです。だから移民に対して神経質になることはありません。ただ、今回の移民の波は、多種多様な国・民族を受け入れます。これまでの移民とは質量ともにレベルが違います。そのため、新たに来られた方々によって日本の良さが打ち消されないよう、国民にも意識の向上が求められます。それでいながら移民の方々を調和しながら受け入れ、皆で日本の文化を育てていく必要があるのです。

 元号は不要という意見も聞きます。ですが、私は元号は時代の流れを象徴する、とても良い制度だと思っています。もちろん、情報屋の立場から言わせてもらうと、システムの仕組み上、元号を使うことは不利益でしかありません。ですが、あらゆる年月計算は西暦をベースとし(Unix Timeが2038年までしか用意されていないことは脇において)、元号による表記はあくまでローカライズされた表示用の値とすればよいだけの話。そうすればなんら問題はないはずです。

 むしろ、元号によってわが国の時代の総意が象徴されることのほうが大切ではないでしょうか。私は象徴天皇制には賛成です。そして象徴の立場であり続けるためにも今の皇室は努力されていると思います。今上天皇・皇后の両陛下の姿勢からもその事は感じられます。何度か皇居の奉仕活動に参加した妻は両陛下からの気品を感じ、襟を正したとか。私も先日、こどもの国を訪問された両陛下のお姿をお見掛けしました。そして本稿を書いた前日には、令和の御代の象徴となる皇太子殿下が三年半前に登られたという石老山に登り、富士を眺め、令和に思いを馳せてきました。そうした機会に触れる度、平成への感謝と令和への期待が増していきます。

 ここにきて日本でも多様性を求める声が増えてきています。平らかに成る世から、多様性をベースとしたハーモニーの時代へ。時代は明らかに変化し、しかも良いほうに向かっているはず。私も令和への改元を楽しみに待ち望みたいと思います。


カテゴリ: 物申す.
最終更新日: 4月 29, 2019

3 thoughts on “平成から令和へ思うこと

  1. まぶりん麻呂。

    長井さんのコメントからヒントをいただきました。

    「秦野」「太秦」から、景教=キリスト教ネストリウス派の末裔とされる秦氏が、八幡神社、稲荷神社、金比羅神社などの神社ネットワークで日本の礎としていく道筋に荒神として荒ぶる神として坂越の地に荒神として祀られています。現在執筆中にちらちら登場させ始めた荒神に当てはめる作業をやらねばと思っています。そういえば干沢城の帰り道に荒神塚があったのを覚えていますか?NHKで初めて化け物を登場させた宮部みゆき原作の「荒神」はご覧になりましたか?「信玄の巫女」の方向性が合致しているので繰り返し観返しています。

    「高麗」「百済」から、滋野氏の祖である貞保親王が船代とと呼ばれる韃靼人の援助を受けていたらしいことを最近知りました。馬文化を輸入したのは韃靼人だったみたいです。そして小説の核のひとつとなる鷹の文化も韃靼人の手によることが山本兼一氏の「弾正の鷹」「白鷹伝」で紹介されていて、おこがましいことですがこの分野で彼の後継者になれたらとの思いを抱いています。

    「信濃奇勝録」にもありますが、北御牧村下之城の両羽神社に奉納されている2体の木像があります。1体は海野氏の祖と言われる貞保親王の像で、もう1体は目が大きくて、牙があり総髪の異様なもので、ダッタン人(満州や沿海州をダッタンと言っていた)と呼ばれている船代の像であります。

    (左)貞保親王・(右)船代木像=ダッタン人(両羽神社)

     当時の日本は野生の馬だけでしてので、馬の飼育繁殖の技術指導のために高句麗や蒙古の人達が多く渡来しました。

     騎馬遊牧民族として名高い蒙古人が、牧場の仕事の合間に馬頭琴をひいたり、祖国のメロデーを口ずさんでおり、この美しい音色がやがて土地の歌となって「小諸節」や「江差追分」となり、その本流がモンゴルであると定説になっております。

     大伴氏の栄えた頃、大伴連忍勝も信濃に派遣された一族の末裔で、法華寺川(金原川の下流)に土着して居所を持ちこの嬢里に発生した土豪海野氏はこの大伴氏の血をひくものではないだろうか。 (上田小県誌より)

    1. 長井祥和 Post author

      水谷さん、ありがとうございます。

      信濃という場所は日本の西が東に向かう先端の地として、実に興味深いと思っています。

      特にそれは神話の世界や民俗の世界、また、日本の地層の観点からも明らかですよね。

      あの地はいつ訪れても何かの契機を感じています。また信濃の地を訪れましょう!

       

       

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