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kintone Café 神奈川 Vol.15を主催・登壇しました



8月19日にkintone Café 神奈川を真鶴で開催しました。
告知サイト

今回は株式会社あわえさんにもご協力いただき、現地での会場の確保や真鶴の皆さんへの声かけ等をお願いしました。

なぜ真鶴で開催することになったのか、その背景を説明します。
まず、今年の1月にさかのぼる必要があります。

私が自社でサテライトオフィスを開きたいと考え、その候補地の一つとして真鶴を訪れたのが発端です。その際に真鶴の街並みに惹かれ、また来たいなあと思っていました。

その後、5月にCLS高知があり、私も高知まで足を伸ばして参加しました。その中のセッションでとても心に刺さるキーワードが提示されました。
「公私混同」
この言葉を語った方こそ、登壇されておられた株式会社あわえの吉田代表です。
私はその言葉にとても印象を受け、あわえさんのページを訪れたところ、なんとあわえさんのサテライトオフィスの1つに真鶴があるではありませんか。
株式会社あわえ様


kintone Café 神奈川は、4月の頭に小田原で開催しました。小田原で会場として使わせてもらったコワーキングスペースも、一月に真鶴に訪れた後、小田原で使わせてもらった場所でした。
CLS高知で得た着想から、kintone Café 神奈川の次は真鶴で開催したいけどどうだろうか、kintone Café 神奈川を運営する皆さんに諮ったところ、いいねえ。という声をいただいたので、私からあわえさんにコンタクトを取り、今回のkintone Café 神奈川が実現しました。

まず最初のあわえさんとのオンラインミーティングでは、kintone Café 神奈川を一緒に進めてくださっている藤村さんとkintone Caféの理念やイベントの内容を説明し、協力し合える可能性をすり合わせました。
さらには私と藤村さんとで真鶴にお伺いし、あわえさんのスタッフとして現地で活動されている松木さんと会場の使い方や当日のテーマやスケジュールを打ち合わせました。

早い段階でテーマが地域創生と言う方向性は決めていました。あわえさんが手がけておられる地方創生の事業と、神奈川県唯一の過疎地である真鶴町の課題をkintoneで解決する。そのようなイベントスキームが早い段階から頭にあり、ブレることもありませんでした。

言うまでもなく、kintone Caféは企業セミナーではありません。理念でもそれは厳しく禁じています。
なので、私たちからもあわえさんとの最初のオンラインミーティングでそれは入念にお伝えし、ご理解いただきました。そして、あくまでもkintoneを使って真鶴町の課題の解決策を探る方針で臨みました。


8月19日。
真鶴町最大の祭りである貴船祭りも一段落し、真夏の海日和が続く真鶴町。
この日もとても暑く、駅から会場である真鶴町観光役場に向かうだけで一苦労でした。

でも、海を目の前にした会場はまさに開放的。
私はデビット伊東さんのいらっしゃる伊藤商店でラーメンを啜り、13時前に現地に着きました。すると、皆さんも開始時間である15時を待つのも惜しいかのように、14時過ぎにはかなりの人が集まってきました


今回は、ジョイゾーの根崎さんに司会進行を担ってもらうことにしました。

kintone Caféの理念や会場の諸注意など、ここでX(Twitter)でハッシュタグでつぶやいてもらうよう皆様にお願いせず、ホワイトボードに書いただけにしたのは失敗でした。おかげで今回のkintone Caféはつぶやきが控えめでした。

でも、その後の自己紹介は23、4人の全参加者に円滑に行ってもらい、根崎さんの進行も順調。目玉焼きをどのように食べるか、また、何をかけるかと言う質問を交えたことで、自己紹介の内容にバラエティが生まれたのは良かったです。
実際、皆さんの自己紹介を聞いていると、人によってそれぞれの目玉焼きがあるんだなぁと思いました。


さて、自己紹介の前にはあわえ社の三宅さんから真鶴について軽く触れていただきました。
その中では、皆さんに真鶴の置かれた状況や、今回の目的をインプットしてもらいました。

続いては、私からkintoneの紹介を行いました。
まず私から聞いたのは、皆さんの中にkintoneを初めて触る方がどれくらいいるか、ということです。すると10名ほどの方がkintoneを触ったことがないそうです。
実際、事前に聞いていた話でも、何人かはkintoneを初めて触ると聞いていました。そのため、私のスライドの内容もかなり初心者向けかつコンパクトにしました(ちなみに今回初めてcanvaをkintone Caféのスライドに使いました)。

今回の紹介では、kintoneの基本機能では、地域課題を解決するには足りないと判断し、外部との連携の可能性を理解してもらうことが地域創生の肝だと考えていたので、外からのさまざまな情報をkintoneに流入させる方法やkintoneから外の媒体に情報を出力させるやり方について話をしました。

まぁ皆さんうなずいてくださったり一生懸命聞いてくださっていたので、少しは役に立ったのかなと思います。
スライド(kintone Café 神奈川 Vol.15 (canva.com))

さて、私の登壇の次は、いよいよ今回のメインの一つである山口さんによるグループワークです。


実は、皆さんが参加者が入室される際、真鶴の良いところを付箋に書いてもらい、窓に貼って貰いました。

そして山口さんの登壇では、まず、アイスブレイクとして、改めて参加者の皆さんに個人のやりたいことや希望願望を付箋に書いてもらい、窓に貼り出してもらいました。

この猛暑の中、ダウンジャケットが欲しいとか、旅行したいとかマンホールカードを取得したいとかYSL展に行きたいとか、真面目な学術的なことや、技術的な目標を書いてくださる方もいたり、とてもバラエティー豊かな内容でした。
こうやってアイスブレイクを設けるだけで、研修とはよく回るっていうのは私も経験上知っています。まさにその生きた実例が見られました。

実は、こうした事は、全て山口さんの周到な準備の一つでした。
山口さんのグループワークの手法はワールドカフェを踏襲しておられましたが、その上に山口さん自身による準備や山口さん自身のファシリテーション能力によって、とても良い形で議論が進みました。

4人ずつ5テーブルに分かれた各グループではとても熱心に議論が進みました。私たち運営側でも議論が円滑に進められるように、真鶴の方や真鶴以外から参加した方をテーブルごとに分散させた形で分けました。
それもあって、本当に皆さんが真鶴のことをよく考え議論してくださったと思います。

私が山口さんにお会いするのは今回が初めてでしたが、その進め方にとても感銘を受けました。

実は私も先日研修講師を100人ほどの方の前で行いました。そのご縁で別の研修講師の方の手腕も拝見し、最近私の中では、研修講師と言うキーワードがとてもホットです。

今回の山口さんの手法も今後どこかで参考にさせてもらいたいと思いました。
ワールドカフェの手法自体は、
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ワールドカフェ
のリンクに書いてますので、ご参考にしていただければと思います。

このときの私の担当は、各テーブルから挙げられた解決策をホワイトボードに書き移す係。
それぞれが別々の課題と解決策を提示してくださっており、良い感じに散らばった結果となりました。真鶴の皆さんにも良いきっかけができたのではないでしょうか。

さて、ここで一度休憩をとり、水分補給や名刺交換等に時間を使ってもらいました。

続いては「真鶴の課題を語る」と題して、あわえ社の松木さんと、観光案内所の近くでhonohonoというお店を経営されておられる入江さんからそれぞれ10分ずつ真鶴の現状や課題を語ってもらいました。

今回のテーマは真鶴と言う神奈川県でも、唯一の過疎地域として認定されている町の課題をkintoneでどう解決するか、という事でした。
6700人を擁する街の人口も、年々減少しており、5000人を切る可能性も視野に入らなければならないそうです。
5000人といえば村から町になるための必要条件です。さすがに町になった後、再び村に格下げされることはあまりないそうですが、危機感も持たれている方が多いとの印象を受けました。
一方で、東京から見れば真鶴は熱海の手前であり、まだまだ可能性があるはず。今回も多くの真鶴の方が来ていただき、活発な議論が繰り広げられましたが、お二方の話も、まさにそうした議論をより裏付ける内容でした。

お二方の話の後は、藤村さんからkintoneを使った課題解決の提案と言うことで2つほど提案をしていただきました。

kintoneをよく存じ上げている藤村さんならではの提案は、これからの真鶴にとって参考になる情報のはずです。
その後、私も藤村さんとともにパネリストとして、皆さんの前に移動し、皆様からの質問やkintoneを使ってどのようにこの場で出た課題を実現していくかということをお答えしました。皆さんからも時間の許す限り、積極的に質問を行っていただき、私からもその場でお答えさせていただいたつもりです。

今回の反省点としては、ここをもう少しじっくりと掘り下げたかったところですが、ちょっと時間が足りなかったかなと言う感じです。

でも、私が皆さんからの質問に答える内容を真鶴町役場の中村さんが一生懸命ノートにメモしておられるのが印象的でした。きっとこの後、真鶴町でも地域課題の解決にあたっては、kintoneを使った仕組みを検討していただければ、私たちも本望です。期待したいと思います。

最後には恒例の全員写真。

さて、お楽しみの懇親会です。今回は観光案内所の目の前にあるお店の別部屋をお借りし、約七割ほどの方が残って歓談と懇親を楽しみました。

真鶴といえば魚です。真鶴の漁港で揚がったお魚のフライや刺身が美味しくて美味しくて。そこに真鶴みかんが添えられていたのが素晴らしい。

その他もきちんとお腹にたまるものもたくさんご用意していただき、我々も存分に食べて満足しました。

さて、一次会で何人かの方が帰られましたが、続いての二次会はなんと草柳商店と言うお酒屋さん。こちらはお店でお酒を買ってその辺で飲むことができます。このスタイルがとても新鮮で、かつ真鶴町に迎え入れられたと言う感触が得られました。それがとても嬉しかったです。
ここでも、皆さんの間では話が盛り上がりました。10人ほどの皆さんと楽しく会話ができました。もちろん、次のkintone Caféへのや仕事へのつながりもこの一次会と二次会で生まれました。
もちろん、そして真鶴の今後の事についても。

私としては、マンホールカードのことで盛り上がったり、私を指して現職の議員の方から議員に向いていると言われたことも印象に残りました。

そろそろ帰宅です。まだ夜の10時前だというのに暑い。汗が滝のように流れる中を駅まで歩きました。そして、おそらくはちゃんとそれぞれが家に帰れたはず。
真鶴も神奈川県の一部なのです。少し遠いけど。

それにしても今回は本当に楽しかったです。朝にお知らせを見てわざわざ遠くからきてくださった方もいれば、通り掛かって参加してくださった真鶴の方もいました。神奈川県の全域から様々な人が参加し、とても盛り上がりました。

毎回やる度にやって良かったと感動するkintone Caféですが、今回も100%以上の満足感が残りました。反省点もありましたが、kintone Caféの新しいあり方が作れたような手応えがありました。

まずは今回参加してくださった方、登壇してくださった方、ありがとうございました。また、企画段階から関わっていただき、場所を用意してくださったり、相談もしてくださった株式会社あわえのお二方や、素晴らしいグループワークを進めていただいた山口さん、お店の皆さんやその他真鶴の皆さん、本当にありがとうございました。

もう一度、いや、何度でも真鶴には来たいと思います。


kintone Café 帯広に登壇しました


3/11にkintone Café 帯広に登壇してきました。
告知サイト

昨年九月のCLS道東の参加をきっかけに開催へ向けて動き出した成果の日。私は当初、kintone Café 帯広のためだけに北海道に行く予定でした。

が、今回は登壇だけでなく、他にも仕事の成果を加えたいと考え、いろいろな工夫と調整を凝らしました。

結果、今回の旅では登壇だけでなく、多様な成果を得ることができました。その意味でもエポックとなる登壇だったと思います。

私が地方でイベントに登壇するのは、昨年の6月のkintone Café 高知 & SORACOM UG SHIKOKU以来。
登壇をきっかけに夜の懇親会を通して地域の方々とご縁を結び、私の登壇実績や認知度を増やす。それだけでももちろん成果としては十分です。

が、私はさらに上を目指したいと思いました。訪問地で先に案件の引き合いを得ておき、案件のヒアリングや商談ができるのが望ましい。さらに具体的な案件の話のご縁が頂ければなおありがたい。今回の旅では、それらの点でも成果が挙げられました。それどころか、帯広に行く前に、新千歳空港に立ち寄り、札幌にいる弊社メンバーと千歳市内で対面フォローまで果たせました。

本稿では、イベントそのものについてお伝えしたいと思います。

ツイートまとめ

当初、kintone Café 帯広はSORACOM UGの皆さんと共催の方向でした。が、紆余曲折をへて、帯広に在住のkintone エバンジェリスト今野さんに企画を委ねました。

ところご開催の数日前に、今野さんがインフルエンザにかかってしまうと言うアクシデントが起こりました。そこで急遽、MOVEDの松永さんに司会と進行を担っていただきました。
そうしたこともありつつ、kintone Café 帯広はつつがなく終わり、帯広や十勝の中でも新たなご縁が結べました。

まずはご参加の皆様や登壇者の皆様に御礼を申し上げたいと思います。


まずは松永さんによる「kintone Caféとは!」でスタート。


続いて、サイボウズのかんちゃんによる「サイボウズ社内のkintoneの日常〜もうすぐ春編🌸〜」
この時期、kintoneで社内のシステムを運営していらっしゃる方は、組織変更や人事異動や新学期の準備に忙しいはず。
サイボウズさんもそれは同じ。と言うことで、かんちゃんのお話しされた内容は、とても参考になりました。

実は今度の4/1にkintone Café 神奈川を開催するのですが、そのテーマが決まったのが帯広滞在中。
神奈川のスタッフである藤村さんからの提案が、この時のかんちゃんの登壇内容に結びつき、即決で「新学期」に決まりました。4月1日も楽しみにしておいてください。

続いては、私の登壇「kintoneエコシステムで人生を好転させた人、を連れてきた」です。
スライド

このネタは、今野さんと事前に打ち合わせをする中で、話してほしいとご依頼いただいたものです。

私がなぜ十年以上、kintoneに肩入れしているのか。それを全てこの内容に盛り込んだつもりです。

今回のkintone Café 帯広には、kintone Café 自体に初参加の方が10名弱いらっしゃいました。そもそもkintone自体もあまり知らない方もいらっしゃいました。
そうした方々にとって、私の話した内容が少しでも刺さってもらえたのなら本望です。

続いては、SEED PLUSの前嶋さんと大崎農園の大崎さんによる「雪の多い帯広と雪のない埼玉でIoTデバイスを開発してみた」です。

前島さんも昨年の9月以降、私によってkintoneの世界に巻き込まれた人です。帯広が属する十勝は、道東の中でも特に農業が盛んなわが国有数の農業大国です。

これからの農業にIoTの出番は頻繁に求められるはず。そこから得たデータは、kintoneで簡単に見える化することで、より一層の価値が高まります。
そうしたシステム構築を実践してらっしゃる前嶋さんの登壇内容は実践的でした。
私も今後もさまざまな農業案件の実践に励みたいと思いました。


続いての大崎さんは、農家の立場から独力でプログラムを学び、本まで出したすごい方。
私も負けてられないと刺激を受けました。いつかは農園にも伺える日が来ることを願っています。


続いてはMOVEDの松永さんによる「インボイス制度開始まであと半年だよ」です。

弊社はすでに適格請求書発行事業者の登録番号も取得しています。お客様にも順次番号の通知を行いはじめています。

ただ、弊社はそれに加えて、お客様のシステム実装の中でインボイス制度の対応も進める立場です。
その意味でも、松永さんの登壇内容は、とてもタイムリーでした。私も弊社も準備をさらに進めないと。


>続いては、山忠ホールディングスの生田目さんによる「kintone x 基幹システム 業務改善大妄想」です。
生田目さんは昨年11月のCybozu Days 2022でも弊社ブースに来てくださいました。その時、弊社のブーステーマが農業とIoTとkintoneに設定したこともあって。
そこで伺いきれなかった生田目さんの取り組みやこれからの課題など、とても興味深くお伺いしました。

生田目さんの話した内容は、決して妄想ではありません。今のわが国の農業関係者が真摯に考えていかなければならない課題です。

弊社もぜひこうした取り組みの力になりたいと思いました。


トリを務めてくださるのは、斎藤栄システムデザイン工房の匠こと斎藤さん。「kintoneでも“データ設計”マジ大事!~後で困らないようにするために~」このタイトルで話していただいた内容は、kintoneに関わるシステム管理者はもちろんですが、ユーザー様にとっても大切なことでした。

ここがうまく考慮できていないために、kintoneによるシステム構築に挫折し、kintoneが使えないとか、kintoneから別のシステムに乗り換えるとかのお客様の事例を時折耳にします。
とても残念なことです。

kintoneにこれから挑戦しようとする方には、ぜひ聴いてもらいたいセッションでした。

夜の懇親会でも、帯広や十勝の方同士で意気投合する姿や、新たなご縁ができるの目の当たりにし、やって良かったなと思った次第です。




後日談ですが、私の帯広滞在の最終日、kintone Café 帯広にご参加が叶わなかった今野さんとお会いすることができました。
今回会場としてお借りした相互電業の社長さまともお話が出来、また次のkintone Café 帯広の開催に向けての話も進められました。
今野さん、今回はいろいろとありがとうございました!

次回、帯広で開催する際は、私も参加できるように時間をやりくりしたいです。
また、皆さんにお会いできる日を楽しみにしています。

今回ご参加の皆様や、登壇された皆様、誠にありがとうございました


Cybozu Days 2022を終えて[出展までの準備]


本稿ではCybozu Days 2022を終えて[ブースで交流]に続き、今回の出展内容について書きます。

上の記事で書いたとおり、Cybozu Days 2022の出展準備に本腰を入れ始めたのは、開催の二ヶ月前でした。時間がありません。
そのため、今年は展示物のほとんどをSEEDPLUS社の前嶋さんとシンボ技研の山崎さんに委ねました。さらに、ブースの飾り付けの一環としてkintoneを用いたデジタルサイネージの仕組みも藤村さんに構築・提供していただきました。

今回、自社ブースの展示物に対して弊社が関わったことは、あまり多くありません。せいぜい、kintoneへの接続部分のアドバイスとkintone側のデータ加工(座標データをもとにGoogle MapのURLを構築し、kintone上に表示するなど)ぐらいです。
というのも、私を含めた弊社のメンバーは、押し寄せる案件の実装作業で手一杯だったからです。(弊社代表は多くの案件対応に加え、kintone hackの予選にまで出ることに。さらに9月の末にはコロナ陽性判定を受けてしまいました)
Cybozu Days 2022の準備もたけなわの時期の弊社からは、Cybozu Daysにかけるための時間も工数も失われていました。

それにも関わらず、今回は前嶋さんに無理をお願いし、展示物を増やしました。しかも、なるべく会場で目立つものという難題付きで。

最終的に弊社ブースの出展物は以下の六つに落ち着きました。
・熱中症対策
・GPSマルチユニット × LINE
・二酸化炭素濃度チェック
・雨量計エクストラ
・動画管理(ソラカメ)
・kintoneでデジタルサイネージ

昨年の展示物が三つだったのに比べ、今年は倍の六つです。
とはいえ、展示物が決定するまでには、何度も紆余曲折がありました。

ここに挙げたリストのうち、最初の四つは前嶋さんにお願いした出展物です。これらの展示物は前嶋さんが実際に構築したことのある実装がほとんどでした。とはいえ、既存の実装をそのまま展示するわけにはいきません。
例えば、幕張メッセの会場の通信状況を考慮しなくてはなりません。他にも出力される最終的な結果表示をkintoneに表示させる必要もありました。それらは、追加の開発作業が求められました。
今回は他にも実装上の難易度から断念した展示もありました。
その辺りの技術的な工夫については、前嶋さんの以下の記事をご覧ください。
kintone+ソラコム=新しい体験
~サイボウズデイズ2022のメカメカしいブースで農家さんのコスプレをした話。

山崎さんの実装についても、苦労がありました。
動画管理(ソラカメ)はすでに7/6-7に開催されたSORACOM DISCOVERYにおいて、展示物の候補に含めていました。
7/28に東京の大崎で開催されたIoT Solution Dayに山崎さんと二人で訪れ、そこで販売されて間もないソラカメを購入し、kintoneとの接続に挑戦したのです。
ところが、構築してみると実際に動作されるまでは円滑に進みますが、kintoneの画面にどう表示させるかにおいては多くの工夫が必要となりました。
その技術的な部分は、この後、別のブログで発表する予定です。

藤村さんにお願いしたデジタルサイネージのコンテンツをkintoneを使って表示する展示は、藤村さんがkintone Café 神奈川で実際に展示しており、技術的には困難はなかったと思います。
ですが、そもそも表示すべきコンテンツの選定がぎりぎりまで決まりませんでした。その結果、サイネージに表示する写真などの準備はギリギリまでかかりました。
藤村さんには、コンテンツ(ランディングページ)の実装もお願いしました。弊社ブースで配ったにんじん(ポン菓子)に貼ったQRコードを読むと表示されるページです。
藤村さんの記事はこちらをご覧ください。貴重な体験(CybozuDays2022)

これらの作業のほとんどを一気に10月に行ったのが今回のCybozu Days 2022の弊社の内幕でした。
Slackのチャンネルに前嶋さん、藤村さん、かのってぃさんをお呼びしたのは9/27。さまざまなやりとりが活発に始まったのはそれからです。実質的にCybozu Daysの準備は6週間で終わらせたようなものです。
あらためて、皆さんには感謝します。ありがとうございました。

昨年に続いて、弊社ブースの展示パネルは代表の娘にお願いしました。
ところが、9月の頭に決まっていたテーマや方向性を詰めるための展示物の確定が遅れてしまいました。
デジタルサイネージやランディングページはギリギリまで調整が利きます。が、パネルは事前に発注しなければなりません。その納期に間に合わせるように、色合いや配置などで最後まで頭を絞ってもらいました。そして、10月末に何とか間に合わせてくれました。
娘とアイデアを出してくれた妻にも感謝です。



11月に入ってからもランディングページやデジタルサイネージの調整、出展物の最終的な展示に向けての調整は続きました。
それらが整ったのは11月の10日と11日の本の数日前でした。皆さんにがんばってもらったので、何とか間に合うことができました。

そのあたりのかのってぃさんの一連の記事は
かのってぃ的CybozuDays2022 その1《ブース編》
かのってぃ的CybozuDays2022 その3《DAY1編》
かのってぃ的CybozuDays2022 その4《DAY2編》
をご覧くださいませ。

本当に皆さんには感謝です。

本稿の中で何度か触れてきたランディングページはこちらです。

ランディングページの中に今回出展をお手伝いして下さった皆さんの個人の紹介リンクや会社の紹介リンクが記されています。個人名や会社名の部分をクリックしていただければ、ページに遷移するはずです。

今回、他にも弊社ブースに来て手づだって下さった藤村さんの奥様や、去年はカーナビ+kintoneで実装してくれた大竹さんも今年はブースのスタッフとして対応してくれました。あわせて、この2日間のご対応、誠にありがとうございました。

会場の弊社ブースにはさまざまなお客様に来ていただきました。商談もCybozu Days の会場で発生しました。これは過去二回の出展にはなかった成果です。


今回ご協力いただいた皆さんは、来年も出展をお手伝いしてくださるとのことです。感謝!
ぜひ来年も弊社ブースにご期待くださいませ!


Cybozu Days 2022を終えて[ブースで交流]


今年のCybozu Days 2022も無事に終わりました。


弊社もスポンサーブースを出展することができました。三年連続です。
今年も沢山の来訪者様に恵まれ、弊社ブースにも多くの方に来ていただいた事、まずは感謝いたします。ありがとうございました。

本稿では弊社の出展内容や技術に関する内容には触れず、ブースの成り立ちについて書きます。kintone界隈のコミュニティの広がりとそれがもたらす相乗効果を示すことが本稿の狙いです。

弊社のkintone案件率はほぼ九割です。ですが、kintoneを使った公開プラグインやサービスは提供していません。そのため、kintoneを主としたシステム構築を営む会社でありながら、ブースに出すべき特定のコンテンツを持っていません。それは弊社の弱みであり、強みでもあると考えています。
自在に展示内容を変えられる小回りの良さを生かし、去年は出展内容をIoTに特化しました。IoTとkintoneを打ち出す他社様ブースはないに違いないと。その目論見はあたりました。
おかげさまで昨年の弊社ブースは、皆さんから異彩を放っているとか、尖っているとかのご評価をいただけました。

ただ、今年も同じ出展内容の踏襲では意味がありません。来た人にとって、新しい発見を提供しなければ。小回りの利く弊社の良さも活かせませんし、何より私が面白くありません。さらに進化した姿を見せなければ。
また、昨年の弊社ブースの盛況をみて、kintoneと IoTの合わせ技でブースを作る会社様が現れるのではないかと。そうなった時に数多のブースの中に埋没する事だけは避けたい。


そこで今年は、IoTに加えて農業をテーマとして打ち出すことに決めました。

kintoneはプラットフォームです。その適用範囲は広く、業種や業態、職種を問いません。
つまり、Cybozu Daysにブースを出すのなら、業種を限らず、業際的な出展内容にすべきです。要するにkintoneの汎用性を打ち出す。それがセオリーのはずです。
ならば、あえて逆張りで業種を絞れば存在感が出せるのでは。それが今年の狙いでした。

とは言え、その結論に落ち着くまでには紆余曲折がありました。
実は今年の出展はもっと違う形で検討していたのです。ところが打診した相手様の反応がいまいち薄い様子。そこで、9月の初旬ごろから、並行して別の形での出展も検討を始めました。
もう一案が無理だと決定したのが9/15のこと。
その時点でCybozu Daysまで残り二ヶ月を切っていました。今までの出展準備の進捗と比べても遅れは歴然。
そこで新たな体制で振り切るべく、出展体制を急遽変えました。農業をテーマに加えたのもこの時です。

農業にテーマを振ったのは、弊社のお客様に農業に関わる会社様が増えた事によります。
弊社をめぐる環境やつながりを農業にテーマを絞ってみなおしたところ、実は弊社はかなり多種多様なご縁に恵まれていたことにも気づきました。

9/5に株式会社SEED PLUSの前嶋さんにお声がけし、出展内容はめどがつきました。
昨年も出展を手伝ってもらったシンボ技研さんと大竹さんには、今年もだいぶ早い時期から出展を依頼していました。
今回、デジタルサイネージをお願いした藤村さんには7月の中旬ぐらいにはスタッフのお声掛けをしており、藤村さんの当日の予定は流動的ながらサイネージは弊社ブースを変えてくれる予感がしていました。

あとは最後の一味をどう加えるか。昨年にもまして会場で存在感を出すにはどうすれば?
そこで現れたのがかのってぃさんてす。実はかのってぃさんと初めてお会いしたのは9/16です。場所はジョイゾーさんのオフィス。スナックジョイゾーてす。
その帰り、ご一緒に帰る中でお話ししたところ、私の普段の書き込みに共感を感じてくださっているとのこと。さらに、農業についても知見をお持ちとのこと。
これは誘うしかない、という訳でその二日後にスタッフとしてお誘いしてみました。

そのいきさつとその後のかのってぃさんのご活躍については、
こちらのブログをご覧ください。ご提案や飾り付けなど、とても良い感じのブースに仕上げてくださいました。

弊社の飾り付けを担当してくださったかのってぃさんの貢献度も大きかったのですが、今年は藤村さんに手配していただいた縦横それぞれのデジタルサイネージは、弊社ブースを会場内のランドマークに生まれ変わらせてくれました。弊社ブースに来てくださった方の多くは、異彩を放つ弊社ブースに印象を受けたようです。

実は私、かのってぃさんのコミュニティ界隈での強者ぶりをあまりよく知ってませんでした。ここまですごい方とはつゆ知らず。
おかげでCybozu Daysの開催期間中、弊社のブース前のスペースはあたかもコミュニティの縁繋ぎの場と化していました。オンラインでしかお互いを知らなかった方々が、弊社ブースの前でリアルなご縁を繋ぐ。私ももちろんその恩恵にあやかったひとりです。


私も他のSaaSのお客様や弊社のお客様の待ち合わせ場所にうちのブースを使ってもらいました。うちのブースの前で待ち合わせたり、あいさつしたり。その様子は梅田のBIGMANを思わせます。
そうしたご縁繋ぎの役割を担うことで、弊社のブースがやたらと賑わっているように見えるのです。それが人を呼び、さらには案件へとつながってゆく。
まさにこれこそコミュニティの力。ご縁を繋ぐってよいですね。


コミュニティとは、無私と無償の集まりです。
そして、Cybozu Daysに集う方に共通するのは、サイボウズさんの展開するサービス群です。皆さん、困っています。あるいは悩んでいます。または、困っていたことがkintoneやOfficeやGaroonやメールワイズで解決した、救われた人たちです。または、これから救われたい!と願う人たちの集まりです。
コミュニティとは同じ興味持つ方だけでも成り立ちますが、切実な課題を持った方の方がより結びつきが強まります。

それはビジネスの機会を創出してくれます。

もちろん、コミュニティをビジネスの草刈り場としてみてはなりません。
また、勧誘行為はコミュニティの場ではタブーです。
さらにコミュニティの化けの皮をかぶってブースを出すのももってのほかです。

もし私が来年そんな不埒な思惑を持ってCybozu Daysに臨んだら、総スカンをを喰らうことでしょう。むしろ食らわしてやってください。
そこはバランスです。ビジネスとコミュニティの両輪がうまく回っているから、サイボウズさんの展開するエコシステムはこれほどまでの支持を受けていると私は考えています。

私も三回目の出展にて、ようやくコミュニティとビジネスのバランスが掴めたように思います。
来年も、より進化した弊社ブースをお見せしたいと思っております。

末尾になりましたが、来場者の皆様、出展社・登壇者の皆様、サイボウズの皆様、そして弊社ブースのスタッフの皆様、ありがとうございました。


生きるぼくら


著者の名前は最近よく目にする。
おそらく今、乗りに乗っている作家の一人だからだろう。
私は著者の作品を今まで読んだことがなく、知識がなかったので図書館で並ぶ著者の作品の中からタイトルだけで本書を手に取った。

本書の内容は地方創生ものだ。
都会で生活を見失った若者が田舎で生きがいを見いだす。内容は一言で書くとそうなる。
2017年に読んだ「地方創生株式会社」「続地方創生株式会社」とテーマはかぶっている。

だが、上に挙げた二冊と本書の間には、違いがある。
それは上に挙げた二冊が具体的な地方創生の施策にまで踏み込んでかかれていたが、本書にはそれがないことだ。
本書はマクロの地方創生ではなく、より地に足のついた農作業そのものに焦点をあてている。だから本書には都会と田舎を対比する切り口は登場しない。そして、田舎が蘇るため実効性のある処方も書いていない。そもそも、本書はそうした視点には立っていない。

本書は、田舎で置き去りにされる年配者の現実と、その介護の現実を描いている。そこには生きることの実感が溢れている。
生きる実感。本書の主人公である麻生人生の日常からは、それが全く失われてしまっている。
小学生の時に父が出て行ってしまい、母子家庭に。その頃からひどいいじめにさらされ、ついには不登校になってしまう。高校を中退し、働き始めても人との距離感をうまくつかめずに苦しむ日々。そしてついには引きこもってしまう。

生計を維持するため、夜も昼も働く母とは生活リズムも違う。だから顔を合わせることもない。母が買いだめたカップラーメンやおにぎりを食べ、スマホに没頭する。そんな「人生」の毎日。
だがある日、全てを投げ出した母は、置き手紙を残して失踪してしまう。

一人で放りだされた「人生」。
「人生」は、母の置き手紙に書かれていたわずかな年賀状の束から、蓼科に住む失踪した父の母、つまり真麻おばあちゃんから届いた達筆で書かれた年賀状を見つける。
マーサおばあちゃんからの年賀状には「人生」のことを案じる文章とともに、自らの余命のことが書かれていた。
蓼科で過ごした少年の頃の楽しかった思い出。それを思い出した「人生」は、なけなしの金を持って蓼科へと向かう。
蓼科で「人生」はさまざまな人に出会う。例えばつぼみ。
マーサおばあちゃんの孫だと名乗るつぼみは、「人生」よりも少し年下に見える。それなのにつぼみは、「人生」に敵意を持って接してくる。

つぼみもまた社会で生きるのに疲れた少女だ。しかもつぼみは、立て続けに両親を亡くしている。
「人生」の父が家を出て行った後、再婚した相手の実子だったつぼみは、「人生」の父が亡くなり、それに動転した母が事故で死んだことで、身寄りを失って蓼科にやってきたという。

「人生」とつぼみが蓼科で過ごす時間。それはマーサおばあちゃんの田んぼで米作りに励みながら、人々と交流する日々でもある。
その日々は、人として自立できている感触と、生きることの実感を与えてくれる。そうした毎日の中で人生の意味を掴み取ってゆく「人生」とつぼみ。

本書にはスマホが重要な小道具として登場する。
先に本書は田舎と都会を比べていない、と書いた。確かに本書に都会は描かれないが、著者がスマホに投影するのは都会の貧しさだ。
生活の実感を軸にして、蓼科の豊かな生活とスマホに象徴される都会の貧しさが比較されている。
都会が悪いのではない。スマホに没頭しさえすれば、毎日が過ごせてしまう状況こそが悪い。
一見すると人間関係の煩わしさから自由になったと錯覚できるスマホ。ところがそれこそが若者の閉塞感を加速させている事を著者はほのめかしている。

「人生」がかつて手放せなかったスマホ。それは、毎日の畑仕事の中で次第に使われなくなってゆく。
そしてある日、おばあちゃんが誤ってスマホを池に水没させてしまう。当初、「人生」は自らの生きるよすがであるスマホが失われたことに激しいショックを受ける。
だが、それをきっかけに「人生」はスマホと決別する。そして、「人生」は自らの人生と初めて向き合う。

田舎とは人が生きる意味を生の感覚で感じられる場所だ。
本書に登場する蓼科の人々はとにかく人が良い。
ただし、田舎の人はすべて好人物として登場することが多い。実際は、それほど単純ではない。実際、田舎の閉鎖性が都会からやってきた若者を拒絶する事例も耳にする。すべての田舎が本書に描かれたような温かみに満ちた場所とは考えない方がよい。
本書で描かれる例はあくまで小説としての一例でしかない。そう受け取った方がよいだろう。
結局、都会にも良い人と悪い人がいるように、田舎にだって良い人や悪い人はいるのだから。
そして、都会で疲れた若者も同じく十把一絡げで扱うべきではない。田舎に合う人、合わない人は人によってそれぞれであり、田舎に住んでいる人もそれぞれ。

「人生」とつぼみはマーサおばあちゃんという共通の係累がいた事で、受け入れられた。彼らのおかれた条件は、ある意味で恵まれており、それが全ての若者に当てはまるわけではない。その事を忘れてはならない。
そうした条件を無視していきなり田舎に向かい、そこで受け入れられようとする甘い考えは慎んだ方がよいし、受け入れられないからと言って諦めたり、不満をSNSで発信するような軽挙は戒めた方が良いだろう。

私は旅が大好きだ。
だが私は、今のところ田舎に引っ越す予定はない。
なぜなら生来の不器用さが妨げとなり、私が農業で食っていく事は難しいからだ。多分、本書で描かれたようなケースは私には当てはまらないだろう。
一方で、今の技術の進化はリモートワークやテレワークを可能にしており、田舎に住みながら都会の仕事をこなす事が可能になりつつある。私でも田舎で暮らせる状況が整っているのだ。

そうした状況を踏まえた上で、田舎であろうと都会であろうと無関係に老いて呆けた時、都会に比べて田舎は不便である事も想定しておくべきだ。
本書で描かれる田舎が理想的であればあるほど、私はそのような感想を持った。

間違いなく、これからも都会は若者を魅了し続けることだろう。そして傷ついた若者を消耗させてゆくだろう。
そんな都会で傷ついた「人生」やつぼみのような若者を受け入れ、癒やしてくれる場所でありうるのが田舎だ。
田舎の全てが楽園ではない。だが、都会にない良さがある事もまた確か。
私はそうした魅力にとらわれて田舎を旅している。おそらくこれからも旅することだろう。

都会が適正な人口密度に落ち着く日はまだ遠い先だろう。
しばらくは田舎が都会に住む人々にとって、癒やしの場所であり続けるだろう。だが、私は少しずつでもよいから都市から田舎への移動を促していきたいと思う。
そうした事を踏まえて本書は都会に疲れた人にこそお勧めしたい。

‘2019/01/20-2019/01/20


会津の旅 2018/10/9


さわやかな朝。私にとっては民泊で迎える初めての朝です。昨夜、日が替わるまで語り合った疲れはどこへやら。旅を満喫している今を祝福して目覚めました。

早速、荷作りとあいさつを。昨夜の語らいで仲良くなったオーナーのSさん、島根から来たOさんも私たちと顔なじみになりました。Oさんに至っては気ままな一人旅ということもあって、H.Jさんの田んぼの手伝いに来てくれることになりました。仕事に出るSさんとはここでお別れ。昨日語り合ったことは、決して忘れないでしょう。良いご縁に感謝です。今後も会津の観光やITでご縁があるに違いありません。

昨夜、車を置かせてもらった「酒家 盃爛処」まで歩く途中、会津の風情を存分に堪能しました。かつての城下町を彷彿とさせる風景も、昨晩のお話を伺った後では私には違う風景として映ります。戊辰戦争の前後ではどう変わったのか。十字路のない街角の様子はかつてはどうだったのか。理髪店の数も心なしか他の都市に比べて多いように思えます。こうした知識は、ガイドマップに頼っていると知らずに終わったはず。得た知識を即座に確認できることが、旅先で語らうことの醍醐味と言えましょう。

この日の私たちは、さらに会津を知識を得るべく、昨日に続いてH.Jさんのお宅へ。この日、私たちに任されたのはお米を袋に詰める作業です。昨日、収穫したお米は巨大な乾燥機の中で乾燥され、摩擦によってもみ殻を脱がされます。風で吹き飛ばされたもみ殻は、大きな山となって刻々と成長しています。

乾燥機から選別機へと移動したお米は、品質を二種類に選別されます。良い方は「会津米」の新品の紙袋に、悪い方は東北の各県の名がうたれた再利用の紙袋に。紙袋をセットし、一定の量になるまでお米をため、適量になったら袋を縛るまでの一連の作業は人力です。私たちが担ったのはこの作業。これがなかなか難しい。茶色の紙袋は初めは当然、ぺたんこ。で、そこにお米がたまるにつれ、紙袋はじょじょにかっぷくの良い姿へと変身します。変身した紙袋を最後にうまく縛る。その縛るコツががなかなかつかめない。結んだひもの位置がずれると、それは収穫の寿ぎではなくなるのです。縦横が正しくあるべき姿に結ばれてはじめて、収穫のお祝いに相応しく袋となり、晴れて出荷されるのです。米の紙袋の結び目にもきちんと意味があることは初めて知りました。結び目が重要なのはなにも水引だけではなかったのです。

きちんと結んだ後は、出荷準備完了を占めるシールを貼り、パレットの上にきちんと並べて積み上げていきます。私たちはまさに、収穫から出荷直前までのすべてのプロセスに携わらせていただけたわけです。

今回、H.Jさんは袋詰めの工程に助っ人を呼んでくださっていました。地元の方でよくこしたお手伝いをされているとか。慣れた手つきでひもを縛り、積んでゆく。私たちの縛りが甘ければ、再度縛りなおしてくださいます。多分、たどたどしい私たちに「しょうがねえなあ」と思っていたことでしょうが、もくもくと働く姿に、私はただ従うのみ。慣れない私たちには難しいこれらの作業も、慣れると立て板に水のごとく、こなせるようになるのでしょうか。あれから十カ月たった今でも、動作を再現できるかも、と錯覚に陥りそうになるくらい、何度も結びました。こうした作業の全てが私にとっては新鮮で、そのどれもが農業の奥深さを伝えてくれます。農業に携わる人々は皆さんがたくましく、生活力をそなえているように見えるのは気のせいでしょうか。

作業の合間に水分の補給は欠かさず、H.Jさん宅からもあれこれと差し入れをいただきつつ、すでにお昼。お昼には食事に連れて行ってくださいました。向かったのは会津若松駅近くの中心部。ただ、はじめH.Jさんが考えていたお店が閉まっていたらしく、かわりに向かったのは「空山neo」というラーメン屋さん。こちらは繁盛しており、味もとてもおいしかったです。そこは、会津若松の目抜き通りで、朝まで泊まっていた「隠れ家」さんは、同じ通りをさらに進むとあります。どこも軒並み、風情のある店構え。酒蔵があり、お店が並ぶ。それでいてあまり観光地ずれしていない様子に好感がもてます。私たちがラーメンの後に寄った「太郎焼総本舗」も、落ち着いたたたずまいで私たちを迎えてくれました。味がおいしかったことはもちろんです。

Oさんは午前、昨日私たちが体験したコンバインの運転などをさせてもらったりして別行動でしたが、午後もそれぞれが別々に作業にあたりました。私たちは選別機によって下に選別された米を紙袋に袋詰めする作業に従事していましたが、しばらくたってからH.Jさんに野菜の畑へと連れて行ってもらうことになりました。

その畑は、昨日の田んぼとは違う場所にあり、丸ナスとキャベツが植えられています。もちろん、無農薬栽培。キャベツ畑なのにキャベツがほとんど見えず、草が奔放に生い茂っています。しかし地面には丸々としたキャベツがつつましやかに私たちの収穫をお待ちしているではありませんか。丸ナスも色合いとツヤがとてもおいしそう。バッタやカエルがわんさかと群がる畑の作物は、見るからにおいしそう。こうまで無農薬の畑に生き物が群がる様子を見ると、生き物もいない農薬まみれの畑への疑問がつい湧いてしまうのです。

畑への往復、私はH.Jさんの軽トラックの助手席に乗せてもらい、農業のIT化について意見を交換していました。人手の足りなさを解消するための開発も進んでいる、とはつねづね聞いていますが、H.Jさんもそうしたロボットによる農業の効率化には大賛成の様子。無農薬栽培は、H.Jさんが農業の本質を探る中、たどり着いた結論であることは間違いないでしょう。要するに農薬の使用は、作物の本質を損ねるもの。でも、農薬を使用しなければ、人手も手間もとてもかかります。そうした矛盾を解消する可能性をIoTを活用した仕掛けは秘めているのです。作物に優しく、手間を減らす。いい事ずくめです。

私も弊社も、IoTはまだ実務としてはほとんど手がけていません。特に農業関連は未経験。IoTに関するご相談はちょくちょく受けるようになっており、この二日で、IoTが農業で必要な理由を自分の体で感得しました。その可能性を見せてもらえた以上、何かに活かしていきたいと思うのは当然です。とてもためになった道中の会話でした。

さて、H.Jさんの家に戻った私たちは、ブルーベリーやブドウや梅干しをおいしくいただきました。ところが、時刻はそろそろ15時になろうとしています。東京へ帰る準備をしなければ。名残惜しいですが、キャベツや丸ナスやフルーツ類をいただき、H.Jさんのもとを辞去しました。たった二日なのに名残惜しさが心を締め付けます。

Oさんも加えた五人でK.Hさんの運転で鶴ヶ城へ。まずは会津若松のシンボルともいえるここを訪れなければ。ぐるりとお濠をめぐり、駐車場から城内を歩いて一回り。時間があれば城内にも入りたかったのですが、さすがに時間が足りません。大河ドラマ「八重の桜」は一度も見なかった私ですが、会津の街にがぜん興味が湧いてきましたし、また来たいと思います。城内で売っていた奥只見の産物を買い求めて。

もう一カ所「道の駅 ばんだい 徳一の里きらり」にもよりました。ここで最後のお土産物を購入し、会津を後にしました。また会津には来ることでしょう。私にお手伝いできることがある限り。

さて、Oさんは次の目的地に移動するため、郡山駅で降ろすことになり、郡山インターチェンジから市街へ。2年前に自転車や車やバスで動き回った郡山の街を、ひょんな縁でまた来られることになり、私の喜びもひとしお。大友パンや柏屋も健在の様子。駅前にはgreeeenのドアがあり、二年前の興奮が思い出されます。

Oさんはこの後まだまだいろいろな場所を旅するのだとか。うらやましい。またの再会を約して、Oさんとはここでお別れ。旅のご縁のすばらしさや、時間と場所を共有した思い出の余韻に浸りながら。

さて、私たちも旅の余韻に浸りたいところですが、そうも言ってられなくなりました。なぜなら東北道が通行止めという情報に接したからです。そこでK.Hさんが下した判断は、磐越自動車道でいわきまで出て、常磐道で都内に帰る、という遠回りのプラン。普通ならまず取らないこのプランも、東北道が通れないのでは仕方ありません。道中、高速道路の脇にある放射線量を示す電光掲示板が、この地域の特殊性を示します。

常磐道は何事もなく順調で、休憩した友部サービスエリアを経由して、私たちは表参道の駅前で降ろしてもらいました。K.Hさんはそこから柏のご自宅まで帰られるのだとか。二日間、運転をしてくださり、ありがとうございました。そういえば、帰りの車の中では「会津ファンクラブ」の存在を教えてもらい、その場で入会しました。

旅の終わりはいつもあっけないものですが、この二日間の旅もこうやって終わりました。あとは重いキャベツや丸ナス、そして数えきれない思い出を背負い、家に帰るだけです。折悪しくこの日、小田急は毎度おなじみの運転見合わせが起きており、会津の余韻も首都圏の日常がかき消しにかかってきていました。

四日後にはH.Jさんが東京の有楽町の交通会館に農産物を販売に来られると伺っていたので、妻を連れて伺いました。そして余蒔胡瓜や立川ごぼうといった会津野菜をたくさん購入しました。その二つとも妻や家族が美味しいと大変気に入ってくれまして、私が持って帰った丸ナスもキャベツもあっという間に品切れ。

会津野菜がわが家からなくなると時を同じくして、私は首都圏の日常に追われるようになってしまいました。そして気が付くと10ヶ月。今、ようやく会津の思い出をブログにまとめられました。でも、思い出してみると、二日間があっという間に鮮やかに思い出せました。それだけ素晴らしい旅だったという事でしょう。それにしても皆さま、本当にこの二日間、ありがとうございました。


会津の旅 2018/10/8


会津で農家さんの稲刈りのお手伝いに行きませんか?

こんな魅力的なお誘いをいただいたのは、今回の旅に先立つ事、二週間。9/22の事でした。農家さんのお手伝いをし、現地で民泊し、うまい酒を飲む。仕事をしながら会津を知り、会津に貢献する。実に魅力的ではありませんか。

私は会津とその周辺には特別な思いを持っています。話は2016年に遡ります。その年、私は郡山に二度お呼ばれしました。二回の訪問の間にセミナーに登壇すること二度、ユーザー会で登壇すること一度。また、二回の訪問の合間には、郡山とその周辺を訪れました。そこで触れた郡山の皆さんの思い。それが私の心を震わせました。

当時、あの原発事故から五年がたっていました。私が見聞きした郡山には異常な様子はありませんでした。過密なスケジュールの中、自転車で乙字ケ滝へ行き、車で猪苗代湖や銚子ケ滝、達沢不動滝を訪れました。たわわに実っていた田んぼの稲穂は、放射能の痕跡など微塵も感じさせず、猪苗代湖畔から眺めた磐梯山の雄大な姿は、原発事故の前から変わらぬ福島の風景を私に誇っていました。空は青く、稲穂は首を垂れ、凪いだ湖面に空が映る。ただただ美しいコントラスト。美しい風景に心を癒やされた私を、郡山の人々は温かく迎えてくれました。

それにも関わらず、郡山の皆さんはいまだにやまぬ風評被害に憤っていました。ユーザー会の後の懇親会では郡山の方から風評被害への憤りを聞きましたし、その翌日には郡山の駅前で放射能の危機を煽る街頭演説に行き当たり、私は憤りを抑えられませんでした。もちろん、乙字ケ滝への道中では汚染土の廃棄場の看板も見かけました。美しい自然の影に潜む福島の現実も知らされました。自然の美しさと、現実に直面する皆さんの危機意識。それにも関わらず私を歓待してくれた温かみ。二度の福島への訪問は、私の心に福島を支援したい気持ちを育みました。

弊社は、福島を応援します。(9/30版)
弊社は、福島を応援します。(10/01版)
弊社は、福島を応援します。(10/02版)

以来、二年。今回の会津へのお誘いは、私にとって再び福島県へ伺える良い機会です。断る方が難しい。私の場合、こうしたお誘いにもスケジュールを柔軟に調整できる強みがあります。

朝7:15。新宿のスバルビルの上で待ち合わせでした。私とご一緒するのは三人の方。お誘いくださったK.Cさん、運転手を買って出てくださったK.Hさん。そしてY.Mさん。K.Cさん以外のお二人とは初対面です。

K.Hさんは、普段から運転をよくしているそうです。秋田の観光に深く関わっていらっしゃるというK.Hさんは、普段から何度も秋田と東京を往復されており、運転に慣れていらっしゃる様子。全く疲れた様子を見せず、二日間にわたり数百キロの運転をこなしていただきました。結局この二日間、私は1度もハンドルを握ることがなく、ただK.Hさんの安定した運転を助手席でナビゲートするのみ。疲れを知らぬK.Hさんにはただただ感謝です。

新宿から首都高に乗り東北自動車道へ。郡山ジャンクションからは磐越自動車道の猪苗代磐梯高原インターチェンジまで。久しぶりに見る福島の景色に私のテンションも上がります。車中では初対面であるからこそ楽しめる新鮮な会話で盛り上がりました。

インターチェンジを下り、早速、道の駅猪苗代で休憩を。まずは福島の空気に慣れたところで、最初の目的地「den*en cafe」へ。ここは、目の前に磐梯山がそびえる絶好のロケーションです。写真を何枚も撮っても飽きないほど秋晴れの磐梯山は雄大。私たちに山の偉大さを教えてくれました。「den*en cafe」さんの料理もおいしく、コーヒーも絶品。K.Cさんのチョイスはさすがです。自由に持って帰って良いと玄関の前に無造作に置かれる野菜たちがとても美味そうで、いくつか持ちかえり、車内で食べてしまいました。こうした何気ないおもてなしに会津の農業の可能性とゆとりをまざまざと感じます。

さて、一般道を会津若松まで走ります。すでに稲刈りを終えた田んぼには稲叢がならび、それが会津の秋の風情を見せてくれます。会津の稲叢は大きくせず小分けにしています。こういう風景を見るたび、旅情が心を満たします。

会津若松は、十数年以上前に友人と2人でやってきて以来。懐かしさを感じる間もなく、車はそのまま今回お世話になるH.Jさんのお宅へ。築100年以上はゆうにあるであろう昔ながらの農家。広間に上げていただき、H.Jさんにごあいさつを。私たちのためにH.Jさんのお母様が作っておいてくれた塩を振っただけの余蒔胡瓜(あいづよまききゅうり)がとてもおいしかった。

H.Jさんはこの余蒔胡瓜のような会津伝統野菜を復活させた立役者です。それと同時に、無農薬による米の栽培に挑まれています。無農薬である以上、人の手がどうしても必要。今回、私たちが呼ばれたのも、米の収穫に際し、除草やその他の作業をお手伝いするためでした。

早速、田んぼへと向かいました。見渡す限りの田んぼ。会津は盆地です。ところが盆地であることを忘れさせるぐらい、田んぼが広がっています。この広がりに会津の豊かさを感じます。

お借りした長靴を履き、田んぼの中へ。稲穂が実る田んぼは、人の手による収穫を待っています。ところがH.Jさんの田んぼは無農薬で栽培されているので、雑草もあちこちから顔を出しています。その中に、米と似た種をつけるクサネムが混じっていて、これを手で除去することが私たちのミッションです。なぜなら、米袋の中にクサネムの種が混じると、価値が著しく落ちてしまうから。しかもクサネムの種の除去は機械ではどうしてもできないそうです。今まではクサネムの除去はH.Jさんやボランティアで手伝いにきている会津大の学生さんたちや、近くの農家の方がされていたそうです。私たちも作業を教わりながらこなしていきます。

とはいえ、都会っ子には簡単ではありません。田んぼに入ると、稲を踏むのはご法度。稲を避ける足元は、ぬかるんだ土に深く沈みます。それを乗り越え、一歩一歩進まねばなりません。これが案外と大変でした。クサネムの株は成長が早く、何度となく皆さんの手によって除去されてきたはずが、すぐにまた生えてきます。その繰り返しです。私の前にも、今までに見逃されたクサネムが稲の間から自己を主張しようと、子孫を残そうと背丈を伸ばしはじめていました。それらを刈り取り、畝に積みあげておきます。

それにしても、無農薬で育った田んぼだけあって、稲の合間に住み着く虫や蛙の多いこと多いこと。アゲハの幼虫や、バッタ、カエル。彼らは私たち侵入者の歩みにつれ、ぴょこぴょこあたりを逃げ回ります。静かに収穫を待つ田んぼどころか、大騒ぎ。でも、これが田んぼのあるべき姿なのでしょう。そして、本来の農業のあるべき姿でもあるはずです。ところが、それが頭ではわかっていても、こうやって実際に作業に当たってみると、農家の方にとって無農薬栽培が簡単ではない事はすぐにわかります。作業とは、やってみることが大切。実際に田んぼに入って鎌を振り回すこの体験は、私にそのことを痛感させてくれました。

大勢でクサネムを探し回ったかいがあり、いよいよコンバインで稲刈りです。今まで無農薬で楽園のようだったバッタや蛙の住みかが、あっという間にコンバインで刈り取られ面積を減らしていきます。これもまた、農業の現実。理想はあくまでも刈り取ってこそ完成なのです。H.Jさんがコンバインを操り、みるみるうちに周囲から刈り取られる姿を見るにつけ、文明の力の偉大さと、農業の本質を垣間見た思いです。

そんな風に物思いにふけっていたところ、H.Jさんのご厚意で、私たちにもコンバインを運転させてもらえることになりました。私もせっかくなので操縦をさせてもらいました。前後左右に加え上下なども加わり、なかなか難しい。でもとても楽しい。収穫している実感がわきます。

実は田んぼに入る前の私には、腰の不安がありました。腰痛持ちの私にとって、かがんで作業することは禁忌。稲刈りの作業にどこまで耐えられるのか。そんな不安がありました。ところがコンバインだとかがむ間もなく、効率的に稲穂はコンバインの胃袋に収まってゆくのです。こうした効率化によって、お米がさほど手間をかけずに刈り取られ、私たちの食卓に並ぶようになったのです。胃に収まったお米をトラックに移し替える作業もオーガと呼ばれる可動式のパイプを通し、人の手は不要。文明の力の偉大さを感じます。無農薬栽培とは言え、こうした作業はどんどん文明の力を借りていくべきでしょう。使うべきところには文明を使い、農作物の本質を追求するべきところには農薬は使わない。すべてはメリハリ。抑揚の妙です。
稲を刈る 我らに天の はしごかな

トラックに米が移される中、畝に集められたクサネムの株はガソリンをかけられ、煙と化していきます。地方で高速を走っていると、よく田んぼで野焼きしている光景に出会いますが、こうした作業だったことに得心しました。あらゆる一瞬が知識となり、身についていくようです。
刈の終 ねむ焼く匂い 語りけり

H.Jさんはそうした作業をこなしながら、近くのアイス屋さんのブルーベリーアイスを差し入れる手配までしてくださいました。私たちの手伝いなど、H.Jさんが普段されている作業の大変さとは比べ物にならないはず。それでもこうしたねぎらいを怠らないところはさすがです。実際、無農薬栽培を実践されているH.Jさんの苦労は、並大抵のものではないはずです。年齢は私とそう変わらないはずですが尊敬できます。見習わなければ、と思いつつ、アイスのおいしさに顔がほころぶ私。

トラックに米が全て移ったところで、田んぼでの作業は終わり。夕日があたりを照らす中、私たちは田んぼを後にしました。H.Jさんの家へ寄った後、会津若松駅のそばにある「富士の湯」に寄っていただきました。汗まみれの体に温泉が実に心地よかった。ついで私たちが向かったのは今日の宿。今回の旅で泊まるのは、古民家をリノベーションし、民泊の形式で提供している「隠れ家ゲストハウス」さん。私たちが通されたのは、和室の一部屋。二段ベッドが二つ設えられ、学生の頃にとまった木賃宿を思い出しました。そもそも民泊は初めてなので、とても楽しみです。

荷物を解いたところで食事へ。夜の懇親会に予約を取っていただいたのは「酒家 盃爛処」というお店。会津でも有名なお店らしく、なかなか予約が取れないそう。しかも、隠れ家さんには駐車場がないことから、こちらの駐車場にご厚意で車を一晩おかせてもらえることになりました。そうしたお心遣いの一つ一つが身に沁みます。

会津の街並みを今に伝えるかのような「酒家 盃爛処」の店内は、おいしい料理の数々と、会津地区を中心とした酒蔵の銘酒でにぎわっていました。H.Jさんや田んぼでご一緒だった会津大学のボランティアの学生さんたちも交え、とても楽しい時間を過ごしました。会津の食事(こづゆ、ニシンの山椒漬けなど)や酒(春泥、風が吹くなど)のうまさはただ事ではありません。おもてなしと食事と酒に酔いしれながら過ごす一夜。旅の喜びはまさにここにあり。会津の皆さまの旅人をもてなそうという心意気に打たれました。郡山で感じた福島への愛着が、午後から夜までの会津での体験でさらに深まる思いです。

「隠れ家ゲストハウス」さんに戻ります。すると、五、六名の宿泊者やオーナーの皆さんが、集まってお酒を飲んでいるではありませんか。一緒にきた三人さんは、お部屋に戻って就寝したのですが、私は、せっかくなのでその場に一人だけ混じりました。

この語らいの時間もまた、今回の会津の二日間の良き思い出となりました。旅先でその場の縁を結ぶ。旅の醍醐味とは、まさにこうした一期一会の瞬間にある。私はそう思っています。オーナーのSさんもまさに、その喜びを味わいたくてこの隠れ家をオープンしたとの事。皆さんとの語らいは、とても刺激的でした。会津の歴史や風土についていろいろなお話をことができました。戊辰戦争での、長州藩との凄絶な戦いや白虎隊の悲劇。会津の街並みの秘密や、今に至る街並みの変遷。とてもここには書ききれません。一部を以下に抜粋してみます。

・会津若松の遊郭は現存する一軒しかない。そして理容室が多い。それは、赤線が引かれる前はチョンの間だったという噂。
・街中にズレた十字路が多いのは、猪苗代湖からの水を街中に行き渡らせるための工夫。
・街中には戊辰戦争以前からの古い建物がほとんどない。今に残る古い建物は、当時、長州藩の兵士が占領した家ばかり。なので、会津の人にとっては古い建物を見ると複雑な気分になる。
・戊辰戦争時、会津藩側の多数の死者を埋葬する事を禁じられた。それが会津の人々の長州への恨みを深くした原因。当時の戦いでなくなった、浮かばれなかった死者の霊があたりを漂っており、飯盛山はスピリチュアルな方には鬼門。
・会津の幼稚園のお遊戯では白虎隊の悲劇を題材にしたものが多く、その内容には切腹して死ぬ結末のシーンまで含まれている。

オーナーのSさんは各地のゲストハウスも訪ね歩かれたそうで、会津を振興することへも並々ならぬ思いを持っておられました。会津がITに力を入れている事は、2年前の郡山への訪問の際に感じていました。Sさんは会津大のご縁の中で、IT関係への支援も活動の一つに含めているとか。また、一緒に語っていたOさんは、島根からの旅行者で、各地のゲストハウスを巡っているとか。こうしたご縁がその場の空気と料理と酒をおいしくします。

Sさんから伺ったお話で、印象に残った事を書き留めておきました。以下に抜粋してみます。
・みそ汁理論。熱いうちは対流して均一に汁の色が行き渡るが、冷えると一カ所にかたまる。箱物行政はお金があれば無理やり流れを作れるが、お金が尽きれば流れも止まる。誰かが対流を起こし続けなければならない。

実に濃い内容のトークを交え、かなり遅くまで私は皆さんと語らいを楽しみました。

たった一日なのに、もう何日も会津にいたような気がする。そう思わせるほど濃密な一日。お誘いいただいたK.Cさん、運転してくださったK.Hさん、一緒に鎌を振り回したY.Mさん。H.Jさんのおもてなしの数々、ボランティアの学生の皆さん、「酒家 盃爛処」の皆さん、隠れ家のオーナーSさん、旅のご縁で結ばれたOさん、その場で会話を楽しんだ皆さん。感謝の言葉は尽きません。


相撲の歴史


2016年ごろから両国に行く機会が増えた。仕事では十数回。プライベートでも数回。そのうち、プライベートで訪れた一回には相撲博物館も訪れた。

2018年になってからは、伊勢ヶ濱部屋とのご縁もいただくようになった。ちゃんこ会にお呼ばれし、初場所の打ち上げ会にもお招きいただいた。

私の中で相撲とのご縁が増してきたこともあり、相撲そのものをより知ってみたいと思った。それが本書を手に取った理由だ。

今までの私は正直なところ、相撲にはあまり興味を持っていなかった。私がスポーツをよく観ていた小学生の頃は、千代の富士関が全盛期。スポーツニュースでも大相撲の取り組みがかならず放映されていた。小学生の頃から野球史には興味津々だった私なのに、なぜ相撲にはあまり興味を持てずにいたのか。わからない。

だが、年齢を重ねてくるにつれ、日本文化の深層や成り立ちに興味が湧いてきた。それはつまり、民俗学への興味にもつながる。友人たちと何度もミシャクヂや神社巡りをし、今の私たちの生活に民俗学や、日本の歴史が根付いているのを知るにつけ、民俗学が日常のあれこれに痕跡を残していることがわかる。なので民俗学も深く学びたいと思うようになってきた。

本書を読んで知ったこと。それは相撲が成り立ちの時点から日本の民俗学と深くつながっていることだ。両国の辺りを歩けば野見宿禰神社が目に入る。境内には二基の顕彰碑が立っている。顕彰碑には歴代の横綱の名が刻まれており、歴史を感じる。その神社にも名を残す野見宿禰とは、当麻蹴速との相撲対決で今に名を残す人物だ。私は本書を読むまで、相撲の由来についての知識はそれぐらいしか持っていなかった。

本書ではより深い観点で相撲が語られる。そもそも「スモウ」は「すまう」からきていること。それは格闘技の総称であることなど。各国の相撲をモンゴル相撲(ボフ)、韓国相撲(シルム)、セネガル相撲(ブレ)と呼ぶのは、それらが格闘技という共通のフォーマットで認識しているためだ。相撲とは特殊な格闘技を指すのではなく、格闘技のそのものを指す。我が国のいわゆる相撲は、我が国で発展した格闘技に過ぎないのだ。「序章 相撲の起源」で語られる内容がすでに知識と発見に満ちている。

また、序章では日本書紀のあちこちに相撲が登場していることも教えてくれる。例えば、アマテラスがスサノオの乱暴に悲しみ天岩戸に閉じこもった挿話はよく知られている。アマテラスを外に出すため、天岩戸の外でアメノウズメが舞い踊り、それに興味を持ったアマテラスがほんの少し戸を開けて様子を見る。そのすき間を逃さず広げたのはタヂカラヲ。彼は剛力の者だ。国譲り神話の中でタケミナカタとタケミカヅチの戦いにも相撲が登場する。彼らは一対一で力比べをするが、この争いの形こそ相撲の原型だ。この戦いに敗れたタケミナカタが諏訪に逃げ、そこで諏訪大社の祭神となったことはよく知られている。もう一つは先にも書いた野見宿禰と当麻蹴速の争いだ。私は今まで神々たちの争いを漠然とした争いや野の決闘のような物と捉えていた。しかしその争いこそが相撲の源流に他ならないのだ。だからこそ今も相撲のあちこちに、現代日本にない古代文化の痕跡が残っているのだ。

もちろんその装いやしきたりの全てが神話の時代に定まったわけはない。それぞれの時代に採られたしきたりを後の世の人が取捨選択して伝えてきたのが現代の相撲なのだから。

続いての第一章は「神事と相撲」と題して、相撲が民衆の生活にどう取り入れられたかが詳述されている。当時は今とは比べものにならないほど、農耕が生活に直接結びついていた。そして祭りやしきたりが今とは比べ物にならないほど日常で重んじられていた。それは、季節のめぐりが農作物の出来を深刻に左右していたからだ。そしてしきたりや祭りの主役として、神事や奉納物の一つとして相撲が発展する。本章では、なぜ俳句の季語で「相撲」が秋に設定されているかについても教えてくれる。そこには相撲と七夕の密なつながりがあり、七夕は秋に属するから。本章だけでも得られる知識が多すぎて満足。だがまだ第一章に過ぎないのだ。

第二章は「相撲節」と題し、八世紀から十二世紀まで朝廷の年中行事だった相撲節を採り上げる。著者はこの相撲節が今の相撲の様式に大きな影響を与えた事を指摘する。私は本書を読むまで相撲節の存在すら知らなかった。服属儀礼と農耕儀礼の2つの性格を持つという相撲節。本章は相撲節の内容を詳しく紹介しつつ、服属儀礼としての相撲に着目する。それによると、相撲節の起源には、大和朝廷の創成期にあった隼人族との争いで隼人族を服属させたことの象徴、つまり「地方の服属種族による相撲奉仕と、王族臣下による行事奉仕という、二重の奉仕関係があらわされている」(90P)という。

また、相撲節で相撲を披露する当時の様子が紹介される中で、相撲人がどのように専門化されたかについても語る。専門化されていく中で、相撲自体が力比べから技芸の1つへと次第に様式化していった様子が本書からうかがえる。儀式としての戦いだけでなく、鑑賞の対象へ。相撲節が今の相撲に与えた影響の大きさ。本章で初めて知った知識であり、本書でも肝となる部分だと思う。

そんな相撲人が徐々に専門化されるまでに至る経緯を描いたのが第三章「祭礼と相撲」。本章では、京の都に呼び集められた相撲人が、地方に帰らず京都で相撲を芸として糧を得ていく姿が描かれる。寺社や村落で開かれる祭礼で相撲人は奉納相撲を披露し、それによって相撲節が廃れてしまっても相撲人が生計を立てていける道筋ができた。

第四章の「武家と相撲」では、鎌倉、室町、安土桃山の各時代を通して、相撲人が武家に抱えられ、剛力と武芸で活躍する様子が描かれる。特に権力者、源頼朝や織田信長、豊臣秀吉といった武士たちが相撲を好んだ事は象徴的だ。相撲という格闘技を好み、なおかつ、武士自身は相撲を取らずに専門の相撲人を抱えた事実。それは高度に組織化されつつあった武家社会のあり方として印象に残る。そして、相撲人だけが抱えられた存在であったことこそ、なぜ相撲だけが柔道、剣道、弓道などと違って、職業化や興行化が進んだのかの答えとなる。その事情について著者は細かく考察を加える。

第五章「職業相撲の萌芽」は、職としての相撲人の成立を勧進相撲の成立に絡めて描く。他の分野の芸能でも興行による発展が見られた中世だが、相撲も当初は寺社の費用調達のための勧進相撲から始まったという。さらに、興行形態や行司の成立など、さまざまな点で相撲が今の私たちが知る相撲に近づいていく。

第六章では「三都相撲集団の成立」と題し、江戸、京都、大坂の三都の相撲興行の盛衰を取り上げる。なぜ三都で盛んになったのか。その理由は戦国が終わり、徳川幕府による統一がなされたことがある大きい。統治と治安維持が為政者にとって重要な仕事になる中、民衆のはけ口の1つとして相撲が利用されるようになった。そしてそれは公許相撲の成立にもつながった。ここまでくると、もはや一時の稼業として相撲に取り組むのではなく、生涯をかけて相撲で糧を得られる人も現れる。それによって、本章で紹介される年寄制度や、土俵による勝敗の明確化など、今の相撲の興行にさらに近づいていく。

相撲が職業として成立した事で、有力な相撲取りは何年も続けて興行に参加することで名を売れるようになる。次第に興行元が寺社ではなく、相撲取り自身が行う流れが主になる。そして、それとともに各地から相撲取りが参加し、今の相撲にも見られる〇〇県出身と出身地をことさらに強調するしきたりにつながる。また、重要なことは京都で開催された場合は京坂出身の力士は善で江戸出身の力士は悪、逆に江戸で開催された場合は江戸出身の力士が善となるような地域ごとにひいきされる力士が生まれ、それが興行を栄えさせたことだ。それは八百長ではなく、単に力と力の勝負だけでない色合いを相撲に帯びさせる。こういう相撲の由来を知ることができるのが本章だ。

ところが、三都による相撲興行の拮抗は、次第に京坂が衰退していくにつれ、江戸に中心が移ってゆく。それは幕府が江戸にあったためという理由も大きいはずだ。江戸に相撲の中心が移った後の相撲の隆盛を描くのが第七章「江戸相撲の隆盛」だ。この章もまた本書の中では核となる。なぜなら今の相撲興行の制度がほぼ整ったのがこの時期だからだ。そしてその時に権力の庇護を得て相撲興行を盤石のものにしようとした当時の人々の努力を感じるのも本章だ。そこにはエタの人々を相撲観覧から排除したことや、相撲の有職故実をことさらに強調するような方向性も含まれる。その方向性は天覧相撲をへて相撲の権威が確立した後もやまない。当時の相撲はまだ卑しめられる風潮があり、その払拭に当時の相撲関係者が躍起になっていたことが事情がうかがえる。それが、相撲の精神性や伝統性に権威付けしようとしたさまざまの取り組みにつながる。本章にはそうした事情が書かれる。

精神性を強調したがる風潮が引き起こす相撲にまつわる騒動。それは現代でも相変わらずだ。昨今の貴乃花親方と相撲協会のいざこざもそう。大相撲舞鶴場所の土俵であいさつした舞鶴市長が倒れた際、女性が土俵に上がって心臓マッサージを行ったことから騒ぎになった女人禁制についての論議もそう。

女人禁制が問題となった際、相撲協会は「相撲は神事が起源」「大相撲の伝統文化を守りたい」「大相撲の土俵は男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場」の三つを挙げたという。これは本章の232-233Pにある「相撲は武道である」「朝廷の相撲節の故実を伝える」「相撲取は力士つまり武士である」の記述に対応している。

それらについて、232-235Pにかけて著者が分析した結果と主張は見逃せない。それを引用する。
「精神性を過度に強調したり、「見世物」をおとしめる必要が、どこにあろう。楽しむべき娯楽、鍛えあげられた肉体と技量を誇る「見世物」の最高峰としての矜恃で、何が悪いというのだろうか。相撲こそは、興行としての長い伝統を持ち、高度に完成された技術と美しい様式を誇る、すばらしい「見世物」なのである。「見世物」を卑下し「武道」にすりよろうとするなどは、歴史を誤り、「相撲」そのものの価値をおとしめることにしかならない。」

第八章は「相撲故実と吉田司家」とし、相撲の様式美や伝統を推し進める一連の動きを追う。相撲の伝統には、相撲節から始まる伝統を古来から伝えてきた家があるという。その家こそが吉田司家。吉田司家こそが相撲の正しい姿を伝えてきた、とする主張だ。南部家や五条家など並みいるライバルを退けつつ、吉田司家が権威として成り立ってきた。その権威は横綱免許の交付においてより世間一般に示される。横綱はそもそも相撲の番付において、新しい格付だ。大関の上にさらに格付けを与える。その権限を持つ家こそが吉田司家であるとの主張。さしずめ当代で言うところの横綱審議委員会といえば良いだろうか。本章では「横綱」の名の由来についても各論併記で紹介しており、とても興味深い。

第九章は「近代社会と相撲」と題されている。明治維新の動乱は、江戸で繁栄していた相撲興行をも揺るがした。そして社会が近代化に向けて進む中、封建性の香りを色濃く残す相撲興行がそれにどう対処したかが紹介される。

まずは国技館。国技館の名は板垣退助が命名したとの話が流布しているが、本書では違う説が採られている。また、いったんは維新によって大阪に流れた相撲興行も、国技館の落成が決定的となって東京が名実共に唯一の本拠地になる。

明治から昭和に掛けての我が国が富国強兵をもっぱらとし、その国策に利用されるように相撲も取り込まれていく。そこで著者が着目するのが双葉山だ。六十九連勝は今も歴代の最多として残っている。そしてその偉業は双葉山の神格化につながった。言うまでもなくそこには世間の雰囲気を国策に合わせ醸成させようとする思惑があった。著者はそう評価した上で糾弾する。
「双葉山が偉大な強豪力士であったことは疑いない。だが、双葉山の偉大さがその精神性のゆえをもって語られ、それを尺度として他の力士をも評価しようという傾向が、いまなお跡を絶たないことほ、相撲にとって、また双葉山自身にとっても、むしろ不幸なことであると思う。
~中略~
戦前の国家御用達の日本精神論を丸のみにしたような空論をふりかざすのは、益あることとは思われない。そんなあやしげな粉飾を凝らすまでもなく、双葉山は、史上にに稀なすぐれた力量と技術をもって昭和初期の土俵に君臨した、偉大な力士なのである。」(298P)

第十章は「アマチュア相撲の変貌」と題されている。これまでは職業相撲の発展を描いてきた。が、相撲の歴史にとって文士相撲や学生相撲を見逃すわけにいかない。著書は東大相撲部の監督であるからなおさらだろう。ただ、著書は本章でアマチュア相撲の危機を訴える。
「学生相撲からは大相撲の人気力士がつぎつぎと生まれており、技術的なレベルも高く、隆盛を誇っているかのように見えなくもなかろうが、ひとたび内部に分けいってみると、学生相撲は相当に深刻な危機に直面している。」(314P)

アマチュア相撲の層の薄さは私たちにも想像がたやすい。とくに小学生のわんぱく相撲体験者は多数いるのに、中学生の思春期の恥じらいや学校体育の構造で、相撲体験が途切れてしまうことに問題があるというちょしゃの指摘は核心をついていると思う。そしてスポーツとしての、世界競技としての相撲にも当然、著書の視線は及んでいる。さらに柔道がオリンピックの正式競技になるいきさつと、どのように国際的な認知を得るに至ったかにも触れている。

終章は「現代の相撲」と題されている。興行の観点。マスコミと力士の観点。そしてスポーツと相撲のギャップをファンや好角家がどう見るかの観点。さらに世界における相撲の広まり。ここでは多様な視点から相撲を見る著者の視野の広さが感じられる。もちろん外国人力士の問題にも多少触れている。

とくに「二十一世紀の相撲「学術文庫版あとがき」にかえて」では、力士の品格の問題や、国際化する力士のアマチュアリズムとプロフェッショナルの観点、そしてますます国際化する相撲についても取り上げており興味深い。本編ではまったく触れられなかった女子相撲についてもここで触れている。土俵の女人禁制については、先にも触れたとおりだ。しばらく相撲の興行について回る問題だろう。ただ、私が読んだ限りでは神事の観点からの女人禁制には本書は触れていない。

私としては女人禁制は今回のような緊急時には認めるとしても、神事を装飾とする限り、相撲の興行からはなくならないと思う。多分相撲と神事の結びつきは、相撲が国際化されるタイミングて髷やまわし、土俵や塩などと一緒に撤廃されるはず。その時に合わせて女人禁制も解けていくことだろう。

そしてそのタイミングで競技としての相撲と、神事としての相撲は分かれていくはずだ。競技としての相撲は国や民族、性別を超えた様式に収まっていき、神事としての相撲は神事の様式や女人禁制を残していくのではないか。

著書は法制史の専門家らしい。だが、本書は私のような相撲の素人にも興味深く、それでいて相撲を網羅している。まさに素晴らしい一冊だと思う。興行相撲だけでなく、文化や民俗の地点から相撲を語り切ったことで、本書は相撲史の決定版として読み継がれていくはずだ。

‘2018/02/13-2018/03/02


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


神様のパズル


人生で最後のモラトリアム。扶養される立場を享受する日々。もはや取り戻せない貴重な時間。懐かしく愛おしい。本書を読んでそんな自分の大学四回生の日々を思い出した。

私の四回生の日々は、今思うと躁状態すれすれな日々だった。一月の阪神・淡路大震災の影響も甚大な上に、オウム真理教によるサリン事件の衝撃もある中で始まった就活の日々。デタラメな就活をとっとと切り上げ旅行三昧の夏をへて、内定なしのまま卒論を出して卒業。将来のことなど何も考えていなかった。とても懐かしい。

本書は四回生が所属するゼミが決まる三月末から幕を開ける。本書の主人公綿貫は大学の四回生。物理学部に在籍している。彼が入ることにした鳩村ゼミは素粒子物理研究室という名が付いている。鳩村ゼミを選んだのは、保積さんがそのゼミを選んだから。まったく脈がないのに思いだけを募らせている保積さんに告白する勇気も持てぬまま、ズルズルと四回生へ。ところが、物理学部に属しているわりに物理の素養がない綿貫は、何を見込まれたのか鳩村教授よりある頼み事をされる。それは早熟の天才美少女ともてはやされたのに最近学校に姿を見せない穂瑞をゼミに連れてくること。

穂瑞家に訪問するも、天才にありがちな穂瑞の剣もホロロな対応で追い返される綿貫。ところが、物理学部の名物聴講老人の橋詰から「宇宙が無から生まれたというのは本当か」という問いをぶつけられる。困った綿貫が橋詰老人を連れて穂瑞のもとに伺ったところ、老人の問いに何かを感じた穂瑞がゼミに訪れて、、、というのが序盤だ。

鳩村教授より卒論に加えて評価の材料にするから、と言われて付けた日記がそのまま本書になっている。この辺りの設定と展開の流れはとても自然だ。

素粒子物理研究室は、穂瑞の提案で宇宙は人間に作れるかというディベートを行う場となる。作れる側には綿貫と穂瑞。反対側には保積さん。ますます片思いが実る可能性は遠のいて行く。折しも鳩村教授は責任者である大型加速器「むげん」の稼働開始に向けて忙しい時。しかもむげんの稼働テストが思わしくなく、むげんの素のアイデアを提案した穂瑞の立場も危うい。

ループ状になっているむげんの中心部には棚田があり、そこには婆さんが独りでほそぼそと農家を営んでいる。むげんの設置でお世話になった事から、鳩村ゼミでは毎年農作業のボランティアをしている。綿貫は農作業にも駆り出される毎日を送っている。

本書は綿貫の日記の体を取っている。綿貫の日々の暮らしと心情がつづられていく日記には、ゼミのディベートの様子、保積さんに振り向いてもらえず話すことすらままならない切なさ、穂瑞がむげん問題でスケープゴートに祭りあげられてゆくさま、農作業の手伝いの大変さ、内定が決まらない焦り、そして卒論が書けない悩みが記される。

本書は主人公の日記の体をなっている。物理学部の学生でありながら物理を知らない綿貫の書く日記が本書にある効果を与えている。それは、穂瑞の考える難解な素粒子論を綿貫の脳内のフィルターを通し、グッとわかりやすく読者に伝えることだ。難解なテーマを扱いながらも、わかりやすく理論を読者に伝える。それはなかなか難しいことだ。物理学部の学生の日記の体を取ったのは絶妙な設定だと思う。

さらに本書は農作業をスパイスに配する事で、複数の対立軸を生み出している。深遠な宇宙と地道な農作業。天才美少女とぼくとつな農婆。就職活動と研究活動。それらは本書に天才たちが繰り広げる理論小説ではなく、生活と未来に悩む若者の青春小説の体を与えている。そこがいい。SFでありながら理論やロジックの世界ばかりを描いていたら、本書は全く別の色合いを帯びていただろう。しかし本書は青春の悩みという、論理とは対立するものを取り上げている。それが本書に単なるSFではない違う魅力を与えているのだ。

また、本書で見逃せないことはもう一つある。それは対人コミュニケーションによって小説の筋が進むことだ。技術者といえばコミュニケーション障害の人物の集まり。そんなステレオタイプの登場人物だったら私は本書を途中で放り投げていたかもしれない。もちろん本書にも研究に閉じこもる学生も登場する。実際の技術者にもコミュニケーションが不得手な方が多い。だが、そうでない人物もいる。技術者や物理屋にもコミュニケーションに長けた人は当然いる。本書は会話によって話が展開していくのだから。そして、本書がコミュニケーションを描いたとすれば、それはとにかくコミュニケーションに不足が取り沙汰される技術者にとって培うべきスキルのヒントとなる。なぜなら、研究も成果もコミュニケーションあってこそ世に出るものだから。

技術者の方には、庭いじりを趣味とする方もいるという。私もたまに行う。同じように宇宙論も物理学も全ては農作業から始まっている。私はそのつながりを本書から教えられた。そのつながりをわかりやすく小説に表現した本書は秀作だと思う。

‘2017/04/22-2017/04/23