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人魚の眠る家


本書はミステリというよりも、医学的なテーマについて考えさせられる小説だ。
ここでいう医学的なテーマとは、脳死とは何か、果たして人間の意識とは何かを意味する。本書にはそれらのテーマが取り上げられている。

人の意識とは何か。この問題に対して容易に答えを出すのは難しい。
今、考えていること自体が意識なのか。考えていることを指の動きまで伝達するまでの全ての営みが意識なのか。この意識とは、私の自由意志であるとみなしてもよいのか。
脳波を調べると、情報の伝達からそれに基づいた選択が行われるよりも前に脳のどこかで反応が生じるという。つまり、私たちが判断を行っているという意識よりも上位の何かが命令を発している論議さえまことしやかに交わされている。

そもそも、私たちの意思とはあらかじめプログラムされた命令の発動でしかないという説すらある。
そうした意識について人々が思索できるのも、私たちが今まさに活動し、外界に向けてアウトプットをしているからだ。私が笑ったり声を出したり動いたりするからこそ、私以外の人は私に意識があると判断する。
では、不慮の事故で外界に反応しなくなった場合、意識はないとみなしてよいのか。
生存に必要な生体反応や生理反応は生じるが、まったく外界に向けて反応がない場合、その人は生きているといえるのか。

ここに挙げた問題は容易には答えが出せない。
現代の医学でも、こうした問題については脳波やその他の反応を確認して意識の有無、つまりは脳死の有無を判断するしかないのが現状だ。本当に脳が死んでいるのか生きているのかは、あくまで脳波などの客観的な要素でしか判断できないのだ。

では、客観的に脳波があっても、外部への反応が確認できない場合、脳死と判断することは可能なのだろうか。
それが自分の子どもであれば、なおさらそのような判断を下すことは困難だ。呼吸はしているし、ただ寝てだけのように思えるわが子に死の宣告を下す。そして、死に至らしめる。
それは子を持つ親にとってあまりにも過酷な判断である。不可能といっても過言ではない。

はたして、親は眠ったままのわが子に脳死の判断を下せるのか。また、下すべきなのか。

著者はそれらの問いを登場人物に突き付ける。もちろん、読者にも。

本書の中で脳死になるのは瑞穂だ。播磨和昌と薫子の間に生まれた娘だ。
この二人が瑞穂に起こったアクシデントを聞かされたのは、和昌の浮気が原因で離婚の話し合いをしている時だった。
プールでおぼれて脳死状態になった瑞穂をいったんはあきらめ、臓器移植の意思表示をした二人。だが、最終的にその意思を示す直前で瑞穂の手から反応が返ってきたことで、二人は延命に望みをつなぐ。

和昌が経営する会社では、ちょうど人間に接続したデバイスを脳から動作させる研究が進展していた。
その研究が娘の意識を取り戻すための助けになるなら、そして妻が望みを持ち続けられるなら、と離婚を取りやめた和昌は、娘の体を機械で操作する研究に手を染め始める。
その和昌による研究は進展し、研究の成果によって薫子は瑞穂を生きている時と変わらないように動かせるまでになる。
起きることのないわが娘を、さも生きているかのようにふるまわせる薫子は、次第に周囲から疎んじられるようになる。

狂気すら感じられるわが子への愛は、どのような結末を迎えるのか。そんな興味に読者は引っ張られていく。

法的には生かされているだけの脳死状態の人。
私たちは脳死という問題についてあまりにも無知だ。医者が脳死判定を下す基準は何か。脳死状態の人が再び意識を取り戻すことはありえるのか。脳死状態の人の法的な地位はどうなるのか。意識はなくとも肉体は成長する場合、その人の年齢や教育はどう考えるべきなのか。
また、脳死状態にある人の臓器を移植したい場合、誰の意思が必要なのか。その時に必要な手続きは何なのか。
当事者にならない限り、私たちはそうした問題に対してあまりにも無知だ。

私は常々、今の世の中の全ての出来事に対して当事者であり続けることは不可能だと思っている。
当事者でない限り、深くその問題にコミットはできない。そして、説得力のある意見を述べることもできない。だから私はあまり他人の問題に言及しないし、ましてや非難もしない。
さらにいうと、当事者でもない政治家や官僚があらゆる問題を決める仕組みはもはや存族不能だと考えている。
日々の暮らしに起こりうる可能性の高い出来事についてすら、いざ事故が起きてみないと当事者にはなれないのが現実だから。

本書を読むと、まさに脳死の問題とは、当事者にならなければ深く考えることもできない事実を突きつけられる。

では、死に対してはどうだろう。または、意識に対しては。
これらについても当事者にならなければ深く考えることはできないのだろうか。
ここで冒頭の問いに回帰してゆくのだ。
果たして意識とは何だろうか。

そう考えたとき、本書から得られる教訓は当事者意識の問題だけでないことに気づかされる。
私たちは普段、自らの意識を意識して生きているのか、という問いだ。つまり、私たちは自分の意識について当事者意識を持っているのだろうか。
冒頭に書いたような問いを繰り返す時に気づく。私たちは普段、自らの意識を意識して生きていないことに。

例えば呼吸だ。無意識に吸って吐いての動作を繰り返す呼吸を私たちが意識して行うことはない。
だが、ヨガ行者や優れたスポーツ選手は呼吸を意識し、コントロールすることによって超人的な能力を発揮するという。
また、大ブームになった『鬼滅の刃』にも全集中の呼吸がキーワードになっている。

呼吸だけでなく、歩き方や話し方、思考の流れを意識する。そうすることで、私たちは普段の力よりも高い次元に移り行くことができる。

脳死の問題について私たちが当事者になる機会はないし、そうならないことが望ましい。
だからといって、本書から得られることはある。
本書は、そうした意識の大切さと意識に対して目を向けることに気づかせてくれる小説だといえる。

2020/12/12-2020/12/15


憂鬱な10か月


本書はまた、奇抜な一冊だ。
私は今まで本書のような語り手に出会ったことがない。作家は数多く、今までに無数の小説が書かれてきたにもかかわらず、今までなどの小説も本書のような視点を持っていなかったのではないか。その事に思わず膝を打ちたくなった。
実に痛快だ。

本書の語り手は胎児。母の胎内にいる胎児が、意思と知能、そして該博な知識を操りながら、母の体内から聞こえる音やわずかな光をもとに、自らが生み出されようとしている世界に想いを馳せる。本書はそのような作品だ。

そんな「わたし」を守っている母、トゥルーディは、妊娠中でありながら深刻な問題を抱えている。夫であり「わたし」の種をまいてくれたジョンとは愛情も冷め、別居中だ。その代わり、母は夫の弟である粗野で教養のないクロードと付き合っている。
夜毎、性欲に任せて母の体内に侵入するクロード。その度に「わたし」はクロードの一物によって凌辱され、眠りを妨げられている。

そんな二人はあらぬ陰謀をたくらんでいる。それはジョンを亡き者にし、婚姻を解消すること。その狙いは兄の遺産を手中にすることにある。

だが、そんな二人の陰謀はジョンによって見抜かれる。ある日、家にやってきたジョンが同伴してきたのはエロディ。恋人なのか友人なのか、あいまいな関係の女性が現れたことにトゥルーディは逆上する。そして、衝動的にジョンを殺すことを決意する。

詩の出版社を経営し、自ら詩人としても活動しているジョン。詩人として二流に甘んじている上に、手の疥癬が悪化した事で自信を失っている。

「わたし」にとってはそのような頼りない父でも実の父だ。その父が殺されてしまう。そのような大ごとを知っているにもかかわらず、胎内にいる「わたし」には何の手も打てない。胎児という絶妙な語り手の立場こそが、本書のもっともユニークな点だ。

当然ながら、胎児が意思を持つことは普通、あり得ない。荒唐無稽な設定だと片付けることも可能だろう。
だが、本書の冒頭で曖昧に、そして巧みに「わたし」の意思の由来が語られている。
そもそも本書の内容にとって、そうした科学的な裏付けなど全く無意味である。
今までの小説は、あらゆるものを語り手としている。だから、胎児が語り手であっても全く問題ない。
むしろ、そうした語り手であるゆえの制約がこの小説を面白くしているのだから。

語り手の知能が冴えているにもかかわらず、大人の二人の愚かさが本書にユーモラスな味わいを加えている。
感情に揺さぶられ、いっときの欲情に身をまかせる。将来の展望など何も待たずに、彼らの世界は身の回りだけで閉じてしまっている。胎内で「わたし」がワインの銘柄や哲学の深遠な世界に思考を巡らせ、世界のあらゆる可能性に希望を見いだしているのに。二人の大人が狭い世界でジタバタしている愚かさ。
その対比が本書のユーモアを際立たせている。

胎児。これほどまでに、世界に希望を持った存在は稀有ではなかろうか。ましてや、「わたし」以外の胎児のほとんどは、丁重すぎる両親の保護を受け、壊れ物を扱うかのように大切に育てられているのだから。10カ月間。

ところが「わたし」の場合、夜ごとのクロードの侵入によってコツコツと子宮口を通じて頭を叩かれている。しかも、連夜の酒で酩酊する母の体の扇動や変化によって悪影響を受けつつある。そんな「わたし」でさえ、母を信頼し、ひと目会いたいと願い、世の中が良かれと希望を失わずにいる。

胎内で育まれた希望に比べ、現実の世の中のでたらめさと言ったら!

私たちのほとんどは、外の世界に出された後、世俗の垢にまみれ、世間の悪い風に染まっていく。
かつては胎内であれほど希望に満ちた誕生の瞬間を待っていたはずなのに。
その現実に、私たちは苦笑いを浮かべるしかない。

私も娘たちが生まれる前、胎内からのメッセージを受け取ったことがある。おなかを蹴る足の躍動として。
それは、胎内と外界をつなぐ希望のコミュニケーションであり、若い親だった私にとっては、不安と希望に満ちた誕生の兆しでしかなかった。
だが、よく考え直すと、実はあの足蹴には深い娘の意思がこもっていたのではなかったか。

そして、私たちは誕生だけでなく、その前の受胎や胎内で育まれる生命の奇跡に対し、世俗のイベントの一つとして冷淡に対応していないか。
いや、その当時は確かにその奇跡におののいていた。だが、娘が子を産める年まで育った今、その奇跡の本質を忘れてはいないか。
本書の卓抜な視点と語り手の意思からはそのような気づきが得られる。

本書のクライマックスでは誕生の瞬間が描かれる。不慣れな男女が処置を行う。
その生々しいシーンの描写は、かつて著者が得意としていた作風をほうふつとさせる。だが、グロテスクさが優っていた当時の作品に比べ、本書の誕生シーンには無限の優しさと、世界の美しさが感じられる。

トゥルーディとクロードのたくらみの行方はどうなっていくのか。壮大な喜劇と悲劇の要素を孕みながら、本書はクライマックスへと進む。

親子三人の運命にもかかわらず、「わたし」が初めて母の顔を見たシーンは、本書の肝である。世界は赤子にとってかくも美しく、そしてかくも残酷なものなのだ。

著者の作品はほぼ読んでいるし、本書を読む数カ月前にもTwitter上で著者のファンの方と交流したばかり。
本書のようなユニークで面白く、気づきにもなる作品を前にすると、これからの著者の作品も楽しみでならない。
本書はお薦めだ。

‘2020/07/03-2020/07/10


時生


たまに、著者はSFの設定に乗っかった作品を書く。本書もそのうちの一冊だ。
本書が面白いのは、SFの設定を支える技術をくだくだしく説明せずに、台詞だけで虚構の設定を読者に納得させていることだ。

その設定とは、タイムワープ。

自分の息子が過去の若い自分を助けに来る。
その設定を私たちはどこかで聞いたことがあるはずだ。ドラえもんで。そう、第一話でセワシが高曽祖父ののび太を助けに来たエピソードが頭に浮かぶ。

もちろん、本書は一筋縄のひねりでおしまいにしない。幾重にも設定や伏線を敷き、物語の世界がほころびないよう工夫を加えている。

本書を結構のある物語に仕立て上げ、著者が語ろうとしたメッセージとは何か。
私はそれを若さの無知と愚かさ、そして若さが持つ自由の可能性だと受け取った。

多くの人は若さの謳歌し、楽しんで過ごす。
その一方で、多くの若者はその自由を存分に味わうあまり、後に残そうとはしない。一瞬一瞬を衝動で生き、刹那の快楽として消費してしまう。
それは傍からみると、無知で愚かな行いにも思える。
だが、自由のただ中にいる当人にとっては、自らに与えられた一瞬こそが正義なのだ。
他人からしたり顔でどうこう言われたところで耳には入らないし、入れるつもりもない。

ところが普通の人は、年老いてもなお、若い気持ちを抱き続けることは出来ない。
どれほどハツラツとしたチョイワルオヤジであろうと、どこかが若い頃とは違うものだ。
体の張り、立ち居振る舞い、言葉に至るまで若い頃とは変わりつつある。経験を積み、老成し、体のどこかは確実に衰えてゆく。それが老いる宿命の残酷さなのだから。

この事実は、若き日にどれだけ悟っていようと、老けてからどれだけ若々しく心がけようとも変わらない。
若い日の自分と老いた自分は絶対に違う。
ところが、自分が将来どうなって行くかなんて決して誰にもわからない。
未来から来た人以外には。

本書は、宮本拓実の成長の物語だ。
本書の冒頭は、拓実が妻の玲子と語る場面で始まる。
二人の間に授かった一人息子である時生が、遺伝性の病で死の床に伏し、余命もわずかしかない。
その時、拓実は、若い頃に経験した不思議な縁を麗子に語り始める。

コネも学歴も能力もない若い日の拓実。1970年代が終わろうとする頃だ。その日ぐらしの拓実の毎日に希望は見えない。
若い頃はやる気と無鉄砲な前のめりだけを武器として突き進む。拓実もそうだ。傲岸にもとれる言動と根拠のない自信だけで突っ走ってゆく。
そんな拓実の日々は根無し草のようで、展望はない。

そんな日々に現れたのが、トキオと名乗る少年。
少しだけ拓実より年下のトキオの不思議な言動は、拓実を苛立たせる。だが、トキオに導かれるように、拓実の人生は転機を迎える。
トキオのすべてを見通したような言動に拓実は振り回されつつ、徐々に導かれながら成長を遂げてゆく。

未熟と言う言葉がそのまま当てはまる拓実の言動に苛立ちながら、恋人を追う拓実と行動をともにするトキオ。
若い頃の実の父の体たらくに幻滅しながら。

子が時間をさかのぼって未熟な頃の親の様子を見る。普通はまずありえない。
逆に親としても、自分の若い頃の姿を子に見られることはまずない。
私自身、ジタバタともがいている若き日の姿を娘たちに見られたら、さぞや赤面するに違いない。

自分の可能性だけを信じて生きるのに必死の拓実には、自分の将来などわかるはずがない。
その時の衝動に任せ、生きたいように生きていくしかないのだ。
それこそが生きる営みの本質なのだから。

子が親の若い頃に介入する本書の設定は、生の営みの本質をあぶり出す。
拓実とトキオの親子は世代として連続している。
そして、世代が連綿と受け継がれているからこそ人という種は続く。

だが、同じ血を分けた肉親であっても、種が同じであっても、心を共有することは不可能だ。
たとえ顔やしぐさが似通っていたとしても、人は自分の内面しか見通せない。それが個人の本質だ。
他人からいくら助言されようと、生きるのはしょせん自分。

拓実は、東京から名古屋、大阪と恋人を求めて奔走する中、トキオの助言もあって成長してゆく。
そして、未来に関するヒントをトキオから少しだけ示され、それをもとに将来の足がかりをつかむ。

それは確かにトキオのおかげだ。
だが、そこに著者のメッセージが含まれている。
私たちは、生きている上で将来に活かせるヒントを毎日誰かからもらっている。
それを生かすも殺すも無視するも受け入れるも自分次第。
その積み重ねを大切にした人は、成功を手にする。その事は、今までの成功者たちが無数の文章として書き伝えてくれている。

そしてもう一つ、本書で見落としてはならないのは、拓実たちを助けてくれる数多くの協力者の存在だ。
タケミやジェシーといった、一期一会の縁だけで恋人を探す拓実たちに手を差し伸べる人たち。
それは、私たちが生きていく上で大切な、人と結ぶ無数の縁の重みを教えてくれる。
学校やバイト先、職場や地域で知り合った人々との出会い。そうした人々との触れ合いが私たちを次第に大人へと成長させてくれる。
常に生活をともにするパートナー程ではないにせよ、こうした一瞬一瞬を共有する人々からの助けに気づき、それに感謝できる人生と、そうでない人生の違いの大きさよ。

拓実は、トキオや仲間との経験を通して、やさぐれて投げやりだった自分を反省する。そして、成長のきっかけをつかんでゆく。

その姿は、私自身にとっても、自分の成長のいきさつを見ているようで恥ずかしくなる。
拓実ほど尖っていた訳ではないが、私の若い頃の行いも相当に馬鹿げていたと思う。
それが今や40代も半ばを過ぎ。経営者であり家長に収まっている。
でも、それはあくまで結果論でしかない。
私も若い頃は若い頃なりに一生懸命に生きようとしていた。

今もなお、私は自分の人生を後悔しないように生きているつもりだ。
本書はそうした私の姿勢を後押ししてくれる本だ。
生きることとは、自分自身を全力で生きること。
それを雄弁に語っている。

その真理を、SF風の設定に仕立て、エンターテインメントとしても楽しめるように仕上げている。

本書はところどころに、1980年代を迎えようとする頃の世相を表す工夫が施されている。細かい所を探すと面白いかもしれない。
本書の舞台は私が6歳の頃であり、私にとっても何か懐かしい匂いがする。

1979年に実際に起こった日本坂トンネルの事故は本書の重要なモチーフとなっているが、おそらくこれからも東名道を車で通るたび、本書のことを思い出すに違いない。

‘2019/3/29-2019/3/29


蜩ノ記



人はいつか死ぬ。それは真理だ。

大人になるにつれ、誰もがその事実を理屈では理解する。そして、死への恐れを心に抱えたまま日々を過ごす。
だが、死への向き合い方は人それぞれだ。
ある人は、死の現実を気づかぬふりをする。ある人は死の決定に思いが至らない。ある人は死に意識が及ばぬよう、目の前の仕事に邁進する。

では、死の到来があらかじめ日時まで定められているとしたら?

本書は、あらためて人の死を読者に突きつける。
死ぬ日が定められた人は、いかに端座し、その日を迎えるべきなのか。

本書は江戸時代の豊後の羽根藩が舞台だ。まず、江戸時代という時代の設定がいい。
戦国の世の刹那的な生と死の観念を色濃く残す時代。
それでいながら、合戦がなく平穏な時代。
死ぬ覚悟を常に懐に抱えているはずの武士も、気を緩めると保身への誘惑に屈してしまう。江戸時代とは、武士にとって自らの存在意義が試される時代でもあった。

そんな時代を生きながら、自らに下された死を受け入れ、決められた死までの日々を屹然と受け入れる男がいる。
その男の名は戸田秋谷。
秋谷が死を下された理由。そこに秋谷の咎はない。
にも関わらず、秋谷は決然として生きる。死を嘆いたり、運命にあらがったりしない。
藩から命じられた家譜編纂の仕事を粛々とこなしながら、妻子を養っている。
その凛とした姿は、近隣の民からは尊敬の念を向けられている。

秋谷の家譜編纂の手伝いを命じられたのが壇野庄三郎。
彼は、藩内で誤解から生じた刃傷沙汰を起こし、藩から謹慎を命じられる身だ。
庄三郎は戸田秋谷の家に住み込み、生活をともにしながら仕事を手伝う。手伝いを名目に掲げているが、庄三郎が言外に受けた命とは、実際には秋谷の監視役を兼ねていることは明らか。
藩からの命には、編纂する家譜の内容を監視する役目もあった。
秋谷が死罪を命ぜられるに至った事件のあらましを、秋谷自身が自分に有利なように改ざんせぬよう監視する役目。そこには、藩の思惑を感じさせる。

秋谷の一家は、秋谷の病弱の妻織江や、娘の薫、息子の郁太郎からなる。秋谷の一家と暮らすうち、庄三郎は秋谷の人物に惹かれてゆく。
秋谷が死に値する軽挙を犯すような人物にはとても思えない。秋谷の人物の深みからは、そうした軽々しさが微塵も感じられない。
藩から命に何かの思惑が潜んでいるのではないか。それは藩の歴史に関する何かの秘密に関するのでは。藩への忠誠が薄らぎだすとともに、藩からの任務と戸田家への思いの間で庄三郎が板挟みになる。

他の諸藩と同じく、羽根藩にも問題がある。それは代官による収奪や、それに抗する百姓の反抗として現れていた。
ところが、秋谷の治めた地ではそうした騒ぎが起きない。それは秋谷の人物に民が畏敬の念を持っていたからだ。
秋谷の薫陶を受けて育った郁太郎も村の少年と分け隔てなく交わる。秋谷自身に身分で人を判断せず、公平に接する考えがあり、それが一層、民の心を惹きつけていたのだろう。

ところが藩から民に対する圧力は増し、藩の暗躍も盛んになるばかり。
民と藩の緊張が高まる中、秋谷はどう身を処するのか。
秋谷と庄三郎の共同による編纂作業は進み、藩の過去に潜む事情も明らかとなる。そして、その作業は、秋谷の死罪が無実である確証も明らかにした。
だが、調査が進むにつれ、秋谷の死の期日も刻一刻と近づいてゆく。

本書で描かれるのは、もののふの姿だ。秋谷という一人の男の。
合戦はなくなり、武士が統治する立場を利して薄汚れた利権を漁るようになって長い。
そのような風潮の世にあって、秋谷が自分を律する態度の気高さ。

冒頭で本書の舞台は江戸時代であり、生と死の観念が戦国の余韻を残すと書いた。
ところが、本書の舞台となる時期は、十九世紀に入ってすぐの頃だ。大坂の役からは百八十年、島原の乱から数えても百六十年は経過している。
実は本書の登場人物たちが生きる時代は、現代の私たちが最後の戦い(太平洋戦争)を体験した時間より百年ほど長く太平の時代に生きている。
私たちが最後に戦争の廃虚を目にしたのは七十年前に過ぎないというのに。

その事実に思い至った時、死を達観しているように見える秋谷の態度を時代が違うからと片付けるのは乱暴に思える。
秋谷の生き方と対立する、利権と保身に凝り固まった藩の重鎮たちも、私たちは心から軽蔑できるのだろうか。
著者はそうした問いかけも含めて本書を記していることだろう。
現代人の死生観が急速に変質してしまった事。今の日本人が失ってしまった厳しい生と死の観念。
それらを秋谷の生きざまを通して描いているのが本書だ。

もう一つ、本書が描くのは親から子への生きざまの伝え方だ。
本書が最も感動を与えるのがこの部分だ。
親の責任。それは時代が違っても変わらない。
親として子に何をか伝え、何をか教えるべきか。それはどういう方法が適切なのか。
現代の親もぶち当たる悩みだ。もちろん私も親として試行錯誤した。親としての振る舞いは難しい。

親としてのあり方を秋谷は示す。
本書も終盤に差し掛かる中、秋谷の親としての本領は発揮される。息子に、そして娘に。最も心を動かされる場面だ。
そこから読み取れるのは、たとえ時代が違っても、親と子の関係は普遍である事だ。
将来、社会のあり方がどう変わろうとも、親と子の生物としての関係は維持されるはず。
その時も親と子の中で受け継がれるべき本質は変わらないはず。その本質を本書は教えてくれる。

私も娘二人の子育てが終盤に近づきつつある。
ひょっとしたら娘たちはそれぞれの伴侶を得、私にとって義理の息子ができるかもしれない。そうなった時、息子を育てたことがない私にとっては、新たな試行錯誤の日々が始まることだろう。
本書から得られるものは多い。

名作として心に刻んでおきたい一冊だ。

‘2019/3/9-2019/3/10


継母礼讚


先日、「官能の夢ードン・リゴベルトの手帖」についてのレビューを書いた。本書は、その前編にあたる。続編を先に読んでしまったため、なるべく早く本書を読みたいと思っていた。

本書を読んで思ったこと。それは「官能の夢〜」が本書の続編ではなく、逆に本書が「官能の夢〜」のプロローグなのでは、という気づきだ。「官能の夢〜」に比べると本書のページ数はかなり少ない。本書で著者が挑んだエロスや性愛への探求。それは本書としていったん結実した。しかし、著者にとって本書は探求へのきっかけでしかなかった。本書で取り掛かったエロスや性愛への探求を、続編である「官能の夢〜」でより深く掘り下げた。そうではなかろうか。だからこそ本書は「官能の夢〜」のプロローグだという印象を受けた。

継子の少年フォンチートの小悪魔のごとき誘惑におぼれ、ルクレシアは一線を越えてしまう。「継母礼讚」とは、無邪気なフォンチートが父に読ませた、あまりに罪深い手記のタイトルだ。本書には、義理の母子の間におきた過ちの一部始終が描かれている。エロスや性愛を描くという著者の狙いは、ストレートだ。

「官能の夢〜」は、フェティシズムの観念的な思索に費やしていた。ドン・リゴベルトの手帖に記された手記の形をとって。本作は、エロスや性愛の身体感覚の描写が主となっている。その描写は執拗だが、エロスや性愛の表面的な描写にとどまっている。エロスの観念的なところまでは降りていないのだ。だが、性愛とはつまるところ身体感覚の共有であり、その一体感にある。

エロスが身体感覚である主張を補強するかのように、フォンチートとルクレシア、ドン・リゴベルトの危うい関係の合間に、本書ではリゴベルトやルクレシアやフォンチートや侍女のフスチニアーナが登場する異世界、異時代の挿話を挟んでいる。そこでの彼らは世俗と超越している。そして俗世のしがらみなど微塵も感じられない高尚で清らかな存在として登場する。異世界の彼らからは精神的なつながりは一切感じられない。思考の絡みはなく、肉体的な関係として彼らをつないでいる。といってもそこには性欲や性愛を思わせるような描写は注意深く除かれている。あくまでそこにあるのは肉体の持つ美しさだけだ。だから本書には性交をあからさまに描写して、読者の欲情を催させる箇所はない。本書が描く性愛やエロスとは、性欲の対象ではないのだ。

そのイメージを補強するかのように、本書の表紙や冒頭に数枚の絵が掲げられている。いずれも裸体の女性と子供が描かれており、その姿はどこまでも妖艶だ。しかしそこにみだらさは感じられない。美的であり芸術的。それは本書の語る性愛やエロスにも通じる。

義理の母子に起きてしまった過ちは道徳の見地からみると罪なのだろう。しかし性愛そのものに罪はない。フォンチートとルクレシアの行いは、リゴベルトとルクレシアがそれぞれの身体感覚に忠実に営む行いと根源では等しいのだから。少なくともしがらみから解き放たれた本書の挿話や冒頭の絵画から感じられるメッセージとは、性愛自身に罪はないことを示している。

著者は、本書と「官能の夢〜」の二冊で、性愛とエロスから社会的通念や、ジェンダーの役割を取り除き、性愛それ自身を描くことに腐心しているようだ。その証拠に「官能の夢〜」では、リゴベルトに道化的な役割まで担わせ、男性としての権威まで剥奪しようとしている。

性愛とは極言すれば生物の本能でしかない。脳内の身体感覚や、脳内の嗜好-ちまりフェティシズムに還元されるものにすぎない。だが、著者の訴えたいエロティシズムとはそこまで還元し、立ち返らなければ掴めないのかも。

だからこそ、本書と続編である「官能の夢-ドン・リゴベルトの手帖」は対で読まなければならないのだ。

‘2016/10/27-2016/10/28


日本の親子二百年


年頭に立てた目標として、家族のあり方について考えてみようと思った。

仕事にかまけ、家族との時間が減っているこの二年であるが、果たして、そのあり方は家庭人として正しいのか。周知の通り、日本人は諸外国に比べ、働き過ぎと言われている。だが、それはどういう根拠によるものか。また、それは戦後の高度経済成長期故の一過性のものなのか、それとも日本古来文化として息づいてきたものなのか。そもそも、日本人にとって家庭とはどのような位置づけなのだろうか。

本書は明治以降の日本人が、どのように家庭の関わり合いを持って来たかを、当時の文化人による随筆、小説、論文、座談会の文章や、当時の新聞や雑誌の投稿欄に掲載された市井の人々の文章を広く紹介することで、家族に対する日本人の考え方の変化を読み取ろうとするものである。

著者による研究成果を文章で書き連ねるのも一つのやり方である。が、本書ではあえて当時の市井の人々の生の声を取り上げる。世相や空気といった微妙なニュアンスは、今に生きる著者による文章よりも、当時を生きた人々による文章にこそ宿る。その点からも、投書欄に目を付けたのは、著者の慧眼であり、本書の特筆すべき点である。日本人の家庭に対する考え方の変遷を追うには適していると思う。

本書で分析するのは明治の文明開化が始まった時期から、平成の現代まで。これは、新聞や雑誌というメディアが興ったのが明治からであるため、市井の人々の声を伝える場がなかったという理由もあろう。個人的には、明治維新を境として、日本人の文化の伝承にかなりの断絶があるように思う。そのため、江戸時代の日本人が持つ家族に対する考え方にも興味がある。機会があれば調べてみたいと思う。

なお、本書の冒頭の章では、明治期に日本を訪れた外国人の、日本の子育てに対する賞賛の声が多数紹介されている。交友範囲から考えると、サンプルに偏りがあるかもしれないが、西洋に比べると日本の子育ては実に行き届いているという。つまり、西洋でも近代的な家族の出現は18世紀になってからであり、それまでは早めに子供を徒弟として外に出してしまう慣習がまかり通っていたという事もある。当時の西洋の母親はあまり子供に関心を抱かなかったのだとか。ルソーの「エミール」を生み出した西洋にあって、この状態であるから、日本の家族についての思想が劣っている訳ではないというのが本書の姿勢である。

ただし、明治から大正に移るにつれ、当初の儒教的な、国学的な要素から、徐々に西洋の家族をモデルとして取り上げるべきではないか、との意見が多数紹介されるようになっている。そのころには、日本が文明開化以降、教育の面で西洋に比べて遅れているという理解が一般にも広がっていたということであろう。

大正デモクラシーから、昭和の暗い世相、軍国調に染まった世の中、と家族の考え方の変遷がこれほどにも移り変わっていることに興味を持つとともに、核家族化、情報化が進展した今では考えられないような意見の対立も紙上で繰り広げられた様など、生き生きとした家族への意見の揺らぎが非常に興味深い。

終戦から、高度成長期、そして現代まで。本書の分析は時代の流れに沿う。それにつれ、日本人の家庭に対する考え方も移り変わる。姑が優位な大家族から、嫁の優位な核家族へ。家族の為に汗水たらす偉いお父さんから、仕事に疲れ家族内での居場所もなくすパパへ。姑にいびられる嫁から、自己実現の機会を家庭以外に求める女性へ。文明開化から200年を経たに過ぎないのに、これほどまでに変遷を重ねてきたのが日本の家族である。

本書の主旨は親子関係を200年に亘って分析することである。しかし、親子関係だけでなく、教育や社会論など、本書を読んで得られる知見は大きい。

私自身としても、家庭を顧みず仕事に没頭せざるを得ない今の自分の現状を非とする考えは、本書を読んだ後でも変わらない。ただ、その考えすらも社会の動きや文化の動きに影響されていることを理解できたのは大きい。おそらくはそれぞれの親子が社会の中でどのように生きていくべきなのかは、個々の親子が関係を持ちながら実践していくほかはないということであろう。

本書の中ではモーレツ社員と仕事至上主義が子供へ与える影響という観点では論じられていない。ただ、非行や親離れ出来ない子供、子離れ出来ない親などの理由が述べられる中、本書で指摘されているのが、今の父親が自信を失っているということである。おそらくは家族との関係や実践など持てないほどの仕事の中、家族の中での存在感を薄れさせてきたということなのであろう。

これは今の日本が自信を失っていることにもつながる部分であり、家庭という視点から、今後の日本を占う上でも本書は有用ではないかと考える。

私自身もどうやって自分の仕事に誇りを持ち、陰口やねたみと無縁の自分を確立するか。それが成ったとき、子供たちとの関係も盤石なものに出来る気がする。

’14/03/15-’14/03/27


あなたが子どもだったころ―こころの原風景


氏の本は20代中ごろによく読んだ。心理学という学問に興味がわいたそのころ、色んな心理学の本を読んでいたけれど、一番読んだのは河合氏の本だったように思う。対談の名手として氏の対談集も色々と読んだけれど、仕事が忙しくなるにつれ、氏の本からも心理学の本からも遠ざかってしまった。亡くなられたのも2年ほどして初めてしったほど、疎遠になってしまっていた。

ところが私の娘たちはすくすく育っていく一方で、少しずつ人との距離感の取り方に試行錯誤する時期に差し掛かってきていて、私にも色んな悩み事をぶつけてくるようになりつつある。そんなとき、以前購入したまま積ん読になってしまっていたこの本を手にとってみた次第。

当代一流の各分野の著名人との対談形式で、皆さんの主に子供時代のことを語ってもらうという趣向で、河合氏と比較的同年代の方々から話を伺っていくスタイル。皆さんそれぞれに人間関係の距離に試行錯誤をくりかえし、もまれて削られて、その切磋琢磨によって今の名声があることが河合氏の絶妙の話によって引き出されていく。

干渉しないようにしようしようと思いつつも、子供からみると干渉してくる鬱陶しい親になりつつある自分に改めて自戒。私の場合は本読め本読めと娘たちにせっつくことを自覚しているだけに、本だけは読め読めというまい、と肝に銘じた。

もっともこの本を読み終えた2日後に次女がもっと分厚い本が読みたいと言いだしたことに喜び勇んでしまう自分がいたわけだけど。

’11/11/16-’11/11/18