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楽園のカンヴァス


本書は実に素晴らしい。あらゆる意味で端正にまとまっている。
小説としての結構がしっかりしている印象を受けた。

本書の主人公、織絵は、美術館の監視員というどちらかといえば裏方の役割を引き受けている。母と娘と共に暮らし、配偶者は登場しない。

ところがある日、織絵にオファーが届く。
そのオファーとは、アンリ・ルソーの作品を日本に貸し出すにあたり、日本側の交渉担当として織絵を指定していた。
オファーを出してきたのは、ニューヨーク近代美術館のチーフ・キュレーターであるティム・ブラウン。
キュレーターとして花形の地位にあり、地味に描かれている織絵の境遇とは似つかわしくない。

娘の真絵との関係を修復できぬまま、生活に思い悩むように描かれる織絵。
そんな彼女の過去に何があるのだろうか。冒頭から読者の興味を惹いてやまない。
そして、舞台は十六年前へ。

ここから、本書の視点は十六年前のティム・ブラウンに変わる。
ティム・ブラウンは、ニューヨーク近代美術館のアシスタント・キュレーターとして、上司のトム・ブラウンのもとで働いていた。
上司のトム・ブラウンだけでなく、ティムのもとへも何通ものダイレクトメールが届く。
その中に混ざっていた一通こそ、スイス・バーゼルからの招待状だった。招待の主はコンラート・バイラー。伝説の絵画コレクターであり、有名でありながら、誰も顔を見たことのない謎に満ちた人物。
てっきり上司に届くべき招待状の宛名が誤って自分に届いたことをチャンスとみたティムは、誤っていたことを明かさずに招待を受ける。

バーゼルに飛んだティムは、そこでバイラーの膨大なコレクションのうちの一つ、アンリ・ルソーが描いた絵画の真贋の鑑定を依頼される。
アンリ・ルソーの代表作『夢』に瓜二つの『夢をみた』。果たしてこれが真作なのか偽作なのか。
その依頼を受けたのはティムだけではない。もう一人の鑑定人も呼ばれていた。
バイラ―の依頼は、二人の鑑定人がそれぞれ『夢をみた』を鑑定し、より説得力のある鑑定を行った方に『夢をみた』の権利を譲るというもの。
ティムともう一人の鑑定人は早川織絵。新進気鋭のルソー研究家として注目されていた彼女こそ、ティムが競うべき相手だった。

二人は、七日の間、毎日一章ずつ提示される文章を読まされる。
そこにはルソーの慎ましく貧しい日々が活写されていた。
その文章には何が隠されているのか。果たして『夢をみた』は真筆なのか。
さらに、織江とティムの背後に暗躍する人物たちも現れる。その正体は何者なのか。
七日間、緊迫した日々が描かれる。

本書を読むまで、私は恥ずかしいことにアンリ・ルソーという画家を全く知らなかった。
本書の表紙にも代表作『夢』が掲げられている。
そのタッチは平面的でありながら、現代のよくできたイラストレーターの作品を思わせる魅力がある。
色使いや造形がくっきりしていて、写実的ではないけれど、リアルな質感を持って迫ってくる。

ルソーは正規の画家教育を受けず、40歳を過ぎるまで公務員として働いていたという。
独学で趣味の延長として始めた画業だったためか、平面的で遠近感もない画風は、当時の画壇でも少し嘲笑されて受け取られていたらしい。
だが、パブロ・ピカソだけはルソーの真価を見抜いていた。そればかりか、後年のピカソの画風に大きく影響を与えたのがルソーだという。

私は本書を読んだ後、アンリ・ルソーの作品をウェブで観覧した。どれもがとても魅力的だ。
決して私にとって好きなタッチではない。だが、色使いや構図は、私の夢の内容をそのまま見せられているよう。
夢というよりも、自分の無意識をとても生々しく見せられているように思えるのだ。
本書のある登場人物が『夢』について言うセリフがある。「なんか・・生きてる、って感じ」(290p)。まさにその通りだ。

ティムと織江も、正統派の画壇からは軽んじられているルソーを正しく評価し、その魅力を正しく世に伝えようとする人物だ。
だからこそ、バイラーも二人をここに呼んだ。

そんな二人に毎日提示される文章。
そこには、当時の大きく変わろうとする美術界の様子が描かれていた。
素朴で野心もない中、ひたむきに芸術に打ち込むルソー。
美術には全く門外漢だったのに、ルソーの作品に惹かれ、日がな一日、憑かれたように絵を眺め、それが生きがいとなってゆく登場人物たち。

本書には、権威主義にまみれ、利権の匂いが濃厚な美術界も描かれる。
もう一方では、芸術の生まれる現場の純粋な熱量と情熱が描かれる。

本来、芸術とは内なる衝動から生まれるべきもののはず。
そして、芸術を真に愛する人とは、名画の前でひたすら絵を鑑賞し続けられる人の事をいう。本来はそうした人だけが芸術に触れ、芸術を味わうべき人なのだろう。
ところがその間に画商が割って入る。美術館と美術展を主催するメディアが幅を利かせる。ブローカーが暗躍し、芸術とは関係のない場所で札束が積まれて行く。

本書にはそうした芸術を巡る聖と俗の両方が描かれる。
俗な心は人間に欲がある限り、なくならないだろう。
むしろ、純粋な芸術だからこそ、俗な人々の心を打つのかもしれない。

百歩譲って、名画をより多くの目に触れさせるべきという考えもある。美術館は、その名分を基に建てられているはずだ。
そのような美術館の監視員は、コレクターよりもさらに名画に触れられる仕事だ、という本書で言われるセリフがある。まさに真実だと思う。
著者の経歴通り、本書は美術の世界を知った著者による完全なる物語だ。

小説もまた芸術の一つ。
だとしたら、本書はまさに芸術と呼ぶべき完成度に達していると思う。

‘2019/4/21-2019/4/22


DINER


小説や漫画など、原作がある作品を映像化する時、よく“映像化不可能“という表現が使われる。原作の世界観が特異であればあるほど、映像化が難しくなる。さしずめ本作などそういうキャッチコピーがついていそうだと思い、予告編サイトをみたら案の定そのような表現が使われていた。

原作を読むと“映像化不可能“と思わせる特異な世界観を持っている。映像化されることを全身でこばんでいるかのような世界観。私にとっても、原作を映像で観たいと願うと自体が発想になかった。(原作のレビュー

レビューにも書いたが、原作にはかなりのインパクトを受けた。人体の尊厳などどこ吹く風。イカレた描写にあふれた世界観は、脳内に巣くう常識をことごとくかき乱してくれる。小説である以上、本来は字面だけの世界である。ところが、あまりにもキテレツな世界観と強烈な描写が、勝手に私の中で作品世界のイメージを形作ってくれる。原作を読んだ後の私の脳裏には、店の内装や登場人物たちのイメージがおぼろげながら湧いていた。イメージに起こすのが苦手な私ですらそうなのだから、他の読者にはより多彩なイメージが花開いたはずだ。

原作が読者のイメージを喚起するものだから、逆に映像化が難しい。原作を読んだあらゆる読者が脳内に育てた世界観を裏切ることもいとわず、一つの映像イメージとして提示するほかないからだ。

監督は最近よくメディアでもお見掛けする蜷川実花氏。カメラマンが持つ独特の感性が光っている印象を受けている。本作は、監督なりのイメージの提示には成功したのではないだろうか。原色を基調とした毒々しい色合いの店内に、おいしそうな料理の数々。原色を多用しながらも、色の配置には工夫しているように見受けられた。けばけばしいけれども、店のオーナーであるBOMBEROの美意識に統一された店内。無秩序と秩序がぎりぎりのところで調和をとっている美術。そんな印象を受けた。少なくとも、店内や料理のビジュアルは、私の思っていた以上に違和感なく受け入れられた。そこに大沢伸一さんが手掛ける音楽がいい感じで鳴り響き、耳でも本作の雰囲気を高めてくれる。

一方、原作に登場する強烈なキャラクターたち。あそこまでの強烈さを映像化することはとてもできないのでは、と思っていた。実際、キャラクターのビジュアル面は、私の期待をいい意味で裏切ることはなかった。もともと期待していなかったので、納得といえようか。たとえばSKINのビジュアルは原作だともっとグロテスクで、より人体の禍々しさを外にさらけ出したような描写だったはず。ところが、本作で窪田さんが演じたSKINのビジュアルは、何本もの傷跡が皮膚の上を走るだけ。これは私にとってはいささか残念だった。もっと破滅的で冒涜的なビジュアルであって欲しかった。もっとも、スキンのスフレを完食した事により狂気へ走るSKINを演じる窪田正孝さんはさすがだったが。

原作にはもっと危険で強烈なキャラクターが多数出ていた。だが、その多くは本作では割愛されていた。甘いものしか食わない大男のジェロ。傾城の美女でありながら毒使いの炎眉。そして妊婦を装い、腹に劇物を隠すミコト。特にミコトの奇想天外な人体の使い方は原作者の奇想の真骨頂。だからこそ、本作に登場しなかったのが残念でならない。

ただ、キャラクターが弱くなったことには同情すべき点もある。なにしろ本作には年齢制限が一切ついていない。子供でも見られる内容なのだ。それはプロデューサーの意向だという。だから本作では、かき切られた頸動脈の傷口から血が噴き出ない。人が解体される描写も、肉片と化す描写も省かれている。そうした描写を取り込んだ瞬間、本作にはR20のレッテルが貼られてしまうだろう。そう考えると、むしろ原作の異常な世界観を年齢制限をかけずにここまで映像化し脚本化したことをほめるべきではないか。脚本家を担当した後藤ひろひと氏にとっては、パンフレットで告白していたとおり、やりがいのあるチャレンジだったと思う。

ただ、キャラクターで私のイメージに唯一合致した人物がいる。それはKIDだ。私が原作のKIDに持っていたイメージを、本作のKIDはかなり再現してくれていた。KIDの無邪気さを装った裏に渦巻く救いようのない狂気を巧みに演じており、瞠目した。 本郷奏多さんは本作で初めて演技を見たが、久しぶりに注目すべき役者さんに出会えた気がする。

もう一つ、原作にはあまり重きが置かれなかったデルモニコなどのラスボス達。本作ではジェロや炎眉やミコトを省いたかわりにラスボスを描き、映像化できるレベルに話をまとめたように思う。それは、本作を表舞台に出すため、仕方がなかったと受け入れたい。

原作の持つまがまがしい世界観を忠実に再現するかわり、カナコの成長に重きを置く描写が、本作ではより強調されていたように思う。それは私が原作で感じた重要なテーマでもある。本作は、カナコの幼少期からの不幸や、今のカナコが抱える閉塞感を表現する演出に力を注いでいたように思う。その一つとして、カナコの内面を舞台の上の出来事として映像化した演出が印象に残る。ただ、原作ではBOMBEROとカナコの間に芽生える絆をもう少し細かいエピソードにして描いており、本作がカナコの成長に重きを置くのなら、そうしたエピソードをもう少し混ぜても良かったかもしれない。

それにしても、本作で初めて見た玉城ティナさんは眼の力に印象を受けた。おどおどした無気力な冒頭の演技から、話が進むにつれたくましさを身に付けていくカナコをよく演じていたと思う。

そして、主演の藤原竜也さんだ。そもそも本作を見たきっかけは、藤原竜也さんのファンである妻の希望による。妻の期待に違わず、藤原さんはBOMBEROをよく演じていたと思う。原作のBOMBEROは、狂気に満ちた登場人物たちを統べることができるまともなキャラクターとして描かれている。原作のBOMBEROにもエキセントリックさはあまり与えられていない。本作で藤原さんがBOMBEROに余計な狂気を与えず、むしろ抑えめに演じていたことが良かったのではないだろうか。

本作は、いくつかの原作にないシーンや設定が付け加えられている。その多くはカナコに関する部分だ。私はその多くに賛成する。ただし、本作の結末は良しとしない。原作を読んで感じた余韻。それを本作でも踏襲して欲しかった。

そうしたあれこれの不満もある。だが、それらを打ち消すほど、私が本作を評価する理由が一つある。それは、本作をとても気にいった娘が、本が嫌いであるにもかかわらず原作を読みたいと言ったことだ。実際、本作を観た翌日に原作を文庫本で購入した。完成されたイメージとして提示された映像作品も良いが、読者の想像力を無限に羽ばたかせることのできる小説の妙味をぜひ味わってほしいと思う。グロデスクな表現の好きな娘だからこそ、原作から無限の世界観を受け止め、イラストレーションに投影させてくれるはずだから。

‘2019/08/11 イオンシネマ新百合ヶ丘


生首に聞いてみろ


著者の推理小説にはゆとりがある。そのゆとりが何から来るかというと、著者の作風にあると思う。著者の作風から感じられるのは、どことなく浮世離れした古き良き時代の推理小説を思わせるおおらかさだ。たとえば著者の小説のほとんどに登場する探偵法月綸太郎。著者の名前と同じ探偵を登場させるあたり、エラリー・クイーンの影響が伺える。法月探偵の行う捜査は移動についても経由した場所が逐一書き込まれる。そこまで書き込みながら、警察による人海捜査の様子は大胆に省かれている。それ以外にも著者の作品からゆとりを感じる理由がある。それは、ペダンティックな題材の取り扱い方だ。ペダンティックとは、衒学の雰囲気、高踏なイメージなこと。要は浮き世離れしているのだ。

本書は彫像作家とその作品が重要なモチーフとなっている。その作家川島伊作の作風は、女人の肌に石膏を沁ませた布を貼りつけ型取りし、精巧な女人裸像を石膏で再現することにある。死期を間近にした川島が畢生の作品として実の娘江知佳をモデルに作りあげた彫像。その作品の存在は限られた関係者にしか知らされず、一般的には秘匿されている。それが川島の死後、何者かによって頭部だけ切り取られた状態で発見される。娘をモチーフにした作品であれば頭部を抜きに作ることはありえない。なぜならば顔の型をとり、精巧に容貌を再現することこそが川島の作品の真骨頂だからだ。なのになぜ頭部だけが持ち去られたのか。動機とその後の展開が読めぬまま物語は進む。

彫像が芸術であることは間違いない。前衛の、抽象にかたどられた作品でもない限り、素人にも理解できる余地はある。だが、逆を言えば、何事も解釈次第、ものは言いようの世界でもある。本作には川島の作品に心酔する美術評論家の宇佐見彰甚が登場する。彼が開陳する美学に満ちた解釈は、間違いなく本書に浮き世離れした視点を与えている。川島の作品は、生身に布を貼ってかたどる制作過程が欠かせない。そのため、目が開いたままの彫像はあり得ない。目を閉じた川島の彫像作品を意味論の視点から解説する宇佐見の解釈は、難解というよりもはやスノビズムに近いものがある。解釈をもてあそぶ、とでも言えば良いような。それがまた本書に一段と浮き世離れした風合いを与えている。

ただ、本書は衒学と韜晦だけの作品ではない。「このミステリかすごい」で一位に輝いたのはだてではないのだ。本書には高尚な描写が混じっているものの、その煙の巻き方は読者の読む気を失わせるほどではない。たしかに彫像の解釈を巡って高尚な議論が戦わされる。しかし、法月探偵が謎に迫りゆく過程は、細かく迂回しているかのように見せかけつつ、地に足がついたものだ。

探偵法月の捜査が端緒についてすぐ、川島の娘江知佳が行方不明になる。そして宇佐見が川島の回顧展の打ち合わせに名古屋の美術館に赴いたところ、そこに宇佐見宛に宅配便が届く。そこに収まっていたのは江知佳の生首。自体は急展開を迎える。いったい誰が何の目的で、と読者は引き込まれてゆくはずだ。

本書が私にとって印象深い理由がもう一つある。それは私にとってなじみの町田が舞台となっているからだ。例えば川島の葬儀は町田の小山にある葬祭場で営まれる。川島のアトリエは町田の高が坂にある。川島の内縁の妻が住むのは成瀬で、川島家のお手伝いの女性が住んでいるのは鶴川団地。さらに生首入りの宅配便が発送されたのは町田の金井にある宅配便の営業所で、私も何度か利用したヤマト運輸の営業所に違いない。

さらに川島の過去に迫ろうとする法月探偵は、府中の分倍河原を訪れる。ここで法月探偵の捜査は産婦人科医の施術にも踏み込む。読者は彫像の議論に加え、会陰切開などの産婦人科用語にも出くわすのだ。いったいどこまで迷ってゆくのか。本書は著者の魔術に完全に魅入られる。

そして、謎が明らかになった時、読者は悟る。彫像の解釈や産婦人科の施術など、本筋にとって余分な蘊蓄でしかなかったはずの描写が全て本書には欠かせないことを。それらが著者によって編みあげられた謎を構成する上で欠かせない要素であることを。ここまでゆとりをひけらかしておきながら、実はその中に本質を潜ませておく手腕。それこそが、本書の真骨頂なのだ。

‘2017/01/12-2017/01/15


継母礼讚


先日、「官能の夢ードン・リゴベルトの手帖」についてのレビューを書いた。本書は、その前編にあたる。続編を先に読んでしまったため、なるべく早く本書を読みたいと思っていた。

本書を読んで思ったこと。それは「官能の夢〜」が本書の続編ではなく、逆に本書が「官能の夢〜」のプロローグなのでは、という気づきだ。「官能の夢〜」に比べると本書のページ数はかなり少ない。本書で著者が挑んだエロスや性愛への探求。それは本書としていったん結実した。しかし、著者にとって本書は探求へのきっかけでしかなかった。本書で取り掛かったエロスや性愛への探求を、続編である「官能の夢〜」でより深く掘り下げた。そうではなかろうか。だからこそ本書は「官能の夢〜」のプロローグだという印象を受けた。

継子の少年フォンチートの小悪魔のごとき誘惑におぼれ、ルクレシアは一線を越えてしまう。「継母礼讚」とは、無邪気なフォンチートが父に読ませた、あまりに罪深い手記のタイトルだ。本書には、義理の母子の間におきた過ちの一部始終が描かれている。エロスや性愛を描くという著者の狙いは、ストレートだ。

「官能の夢〜」は、フェティシズムの観念的な思索に費やしていた。ドン・リゴベルトの手帖に記された手記の形をとって。本作は、エロスや性愛の身体感覚の描写が主となっている。その描写は執拗だが、エロスや性愛の表面的な描写にとどまっている。エロスの観念的なところまでは降りていないのだ。だが、性愛とはつまるところ身体感覚の共有であり、その一体感にある。

エロスが身体感覚である主張を補強するかのように、フォンチートとルクレシア、ドン・リゴベルトの危うい関係の合間に、本書ではリゴベルトやルクレシアやフォンチートや侍女のフスチニアーナが登場する異世界、異時代の挿話を挟んでいる。そこでの彼らは世俗と超越している。そして俗世のしがらみなど微塵も感じられない高尚で清らかな存在として登場する。異世界の彼らからは精神的なつながりは一切感じられない。思考の絡みはなく、肉体的な関係として彼らをつないでいる。といってもそこには性欲や性愛を思わせるような描写は注意深く除かれている。あくまでそこにあるのは肉体の持つ美しさだけだ。だから本書には性交をあからさまに描写して、読者の欲情を催させる箇所はない。本書が描く性愛やエロスとは、性欲の対象ではないのだ。

そのイメージを補強するかのように、本書の表紙や冒頭に数枚の絵が掲げられている。いずれも裸体の女性と子供が描かれており、その姿はどこまでも妖艶だ。しかしそこにみだらさは感じられない。美的であり芸術的。それは本書の語る性愛やエロスにも通じる。

義理の母子に起きてしまった過ちは道徳の見地からみると罪なのだろう。しかし性愛そのものに罪はない。フォンチートとルクレシアの行いは、リゴベルトとルクレシアがそれぞれの身体感覚に忠実に営む行いと根源では等しいのだから。少なくともしがらみから解き放たれた本書の挿話や冒頭の絵画から感じられるメッセージとは、性愛自身に罪はないことを示している。

著者は、本書と「官能の夢〜」の二冊で、性愛とエロスから社会的通念や、ジェンダーの役割を取り除き、性愛それ自身を描くことに腐心しているようだ。その証拠に「官能の夢〜」では、リゴベルトに道化的な役割まで担わせ、男性としての権威まで剥奪しようとしている。

性愛とは極言すれば生物の本能でしかない。脳内の身体感覚や、脳内の嗜好-ちまりフェティシズムに還元されるものにすぎない。だが、著者の訴えたいエロティシズムとはそこまで還元し、立ち返らなければ掴めないのかも。

だからこそ、本書と続編である「官能の夢-ドン・リゴベルトの手帖」は対で読まなければならないのだ。

‘2016/10/27-2016/10/28


写実絵画の魅力


本書を読む前の年、2015年の秋に妻とホキ美術館を訪問した。ホキ美術館とは千葉の土気にある写実絵画専門の美術館だ。

もともと私は写実絵画に関心を持っていた。そんなところに誘われたのが日向寺監督による映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」。私の友人が日向寺監督の友人と言うこともあってご招待頂いた。この映画からは期待を遥かに上回る感銘を受けた。(レビュー

2014年の夏に観たこの映画をきっかけに写実絵画にますます興味を持った私は、ホキ美術館の存在を知る。ホキ美術館は日本で唯一といってよい写実絵画専門の美術館だそうだ。それ以来、行きたいと願っていた。

そんなところに、妻がホキ美術館に行きたいと言い出した。テレビ番組でホキ美術館が取り上げられているのを観て行きたくなったらしい。これ幸いと、妻とともにホキ美術館に訪れた。本書は美術館の売店で図録代わりに購入した一冊だ。

ホキ美術館には、ホキ美術館創設者と館長のお眼鏡にかなった写実絵画が数百点飾られている。そのほとんどが我が国の写実画家による選りすぐりの作品だ。海外作家の作品はほとんどない。それでいてこれだけレベルの絵画が集められたこと。それは我が国の写実画家の裾野の広さとレベルの高さを表している。

実際、ホキ美術館に陳列されている作品にはただただ圧倒される。少し離れると写真と見まごうばかりの作品も、間近にみると筆跡が認められ、写真とは違う手仕事であることがわかる。「魂のリアリズム 画家 野田弘志」は、野生の鳥の巣とその中に産み落とされていた卵を写実的に再現した大作「聖なるものⅣ」の製作過程を中心に話が進む。スクリーンの中で映し出された製作過程からは、凄まじい根気と集中力が伝わってくる。野田氏による「聖なるものⅣ」はスクリーンで克明に観られる。とはいうものの、あくまで作品はスクリーン越しにしか観られない。そしてそれは撮影監督が向けるカメラの角度とタイミングによって切り取られる。観客が望む角度と時間で観られないのだ。ホキ美術館にはこの「聖なるものⅣ」が飾られている。もちろん好きなだけ観賞できる。しかもホキ美術館に陳列されている他の作品も「聖なるものⅣ」に匹敵するレベルの作品だ。が他にも多く陳列されている。そのレベルは、我が国の写実絵画の到達点を示しており、ひたすら圧倒されるばかりだ。

「聖なるものⅣ」が飾られているのはホキ美術館のギャラリー8。ここには、我が国の著名な写実画家十五人の代表作が一点ずつ飾られている。

本書には、ギャラリー8に代表作を展示する十五人のうち十四人による写実絵画についての考えや哲学、技法について語ったインタビューを軸に構成されている。

始めて写実絵画に触れた方が思うのは、このような事ではないだろうか。
「で、写真とどう違うの?」
白状すると、「魂のリアリズム 画家 野田弘志」を観る前の私の心にもそんな疑問があった。写実絵画の技術的な素晴らしさは理解できても、その芸術性についてはよくわかっていなかったのだ。しかしその疑問は、「魂のリアリズム 画家 野田弘志」で製作の現場を見聞きし、ホキ美術館で現物を目にし、そして本書で他の写実画家たちの肉声を通じて払拭される。

実際のところ、作家によっては現物をみてキャンバスに写し取る方だけではなく、写真をモチーフとして写実絵画を書く方もいらっしゃるようだ。「魂のリアリズム 画家 野田弘志」でもそう。野田弘志氏からして、写真を補助素材として使用しているのだから。「魂のリアリズム 画家 野田弘志」では鳥の巣の卵の写真を基に「聖なるものⅣ」を描き進める野田氏の姿が映っている。

そうなると、写実絵画と写真の違いはますます不明確になってゆくばかりだ。

その疑問を払拭する考えを本書の中で幾人もの画家が述べている。彼らによると、写真に現れた風景を素材としても、写真にはないマチエール(素材感)を出せるのが写実絵画の魅力だという。確かに質感や遠近感、陰影など、平板な写真には出すことのできない画家としての味わいが写実絵画にはある。

それは、ホキ美術館で写実絵画を間近で観ると良く分かる。写実絵画をごく近くで観ると、そこには明らかに画家の作為の跡がある。筆遣いや塗りムラ、筆圧や絵具の盛りなど。こういった細部で見ると明らかに絵であるのに、少し離れるとそれは写真と遜色のない風景が再現されているのだ。しかも写真に写し取られた平板な現実ではなく、画家の目を通した立体的な現実がある。カメラのレンズと画家の目の立体感の違いについては、本書でも幾人の画家が言及していた。

結局のところ、鑑賞者にとってもっとも安心できる写実とは、自分の目に映る現実に近い像なのだ。そして、どれだけ写真の解像度が上がろうとも、写真とは所詮は細かいドットの集合に過ぎない。つまり、自分の目に映る現実の代替としては、写真は究極のところで成り得ないのだ。写真の技術がどれだけ精細を究めようとも越えられない一線がそこにはある。

写実画家とは、越えられない一線には最初から挑まない。それよりも他のアプローチで現実に迫ろうとする。人間の目と脳の認識に忠実であろうとした写実絵画は、技術主体ではなく人間主体の芸術を目指していると思う。本書に載っている写実画家の方々の言葉から、そのような哲学を感じ取った。

私はダリの絵には感銘を受けたが、一方でピカソの抽象画にはゲルニカを除けばあまり感銘を受けない。抽象画とは、目に映らない意識の世界だ。あえてデッサンを狂わせた抽象画は、目に映る景色をスキップして脳の混沌とした無意識に直接訴えかける。一方の写実絵画は目に映る景色をそのまま受け止める。だが、目から意識への伝達や技法も含めた部分で勝負する。一見すると目に映る景色を題材としているがために、視覚と質感に画家の技術や感性が映し出された作品は、鑑賞者を安心させる。だが、安心を与えながらも技術とセンスによってフィルタされた作品は、目に映る景色の中の質感を確かに伝えてくれる。つまり、逆の意味で脳内の視覚を司る部分に訴えかけるのが写実絵画なのだと思う。

「魂のリアリズム 画家 野田弘志」とホキ美術館と本書は、3セットで観て頂きたいと思う。どれもが写実絵画を理解するためのよい教材だ。

‘2016/04/07-2016/04/08