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マイケル・K


生きることの本質とは何か。人は一人で生きていけるのか。
本書が語っていることは、それに尽きる。
政治が不安定な上、頻繁に内戦のおこる南アフリカ。その過酷な自然は、人に試練を課す。
そうした不条理な現実を、主人公マイケル・Kは生きる。そして内戦で荒廃した国を歩く。

そこに生きる庶民は、毎日を生き抜く目的だけに費やしている。
文化や享楽を楽しむどころではない。娯楽など知らずに生きている。本書には余暇を楽しむ庶民の姿はほぼ見られない。
マイケル・Kもまた、娯楽を知らない。彼はただ日々を生きることに汲々としている。生の目的を、ただ生き抜くことだけにおいた人物として描かれる。

主人公マイケル・Kは組織になじめない。人とものコミュニケーションがうまく取れず、一人で生きる道を選ぶ。彼は孤独を友とし、世界を独力で生きようとする。
娯楽や文化とは、集団と組織にあって育まれるもの。それゆえ、孤独で生きるマイケル・Kが娯楽や文化に触れることはない。
マイケル・Kが主人公である本書に、生きる楽しみや生の謳歌を感じさせる要素は希薄だ。

マイケル・Kが孤独である象徴は名前に現れる。本書のなかで、保護されたマイケルを難民キャンプで見知っていた警官がマイケル・Kをマイケルズと呼ぶ下りがある。その警官は、難民キャンプではマイケル・Kがマイケルズと呼ばれていたこと、なのにここではマイケルと名乗っていることを指摘する。
その挿話は、マイケル・Kが組織ではなく個人で生きる人物であることを示している。
コミュニティのなかでは、娯楽や文化に触れる機会もあるだろう。だが、一人で生きるマイケル・Kが娯楽や文化を見いだすことは難しい。

マイケル・Kは個人で生きる道を選ぶ。そのことによって彼は仲間からの助けを得る機会を失った。
マイケル・Kは自給自足で生き抜くしかなくなる。そこでマイケル・Kは自分の力で道を切り開く。耕作し、収穫し、狩猟する。
その姿は、生の本質そのものだ。
平和を享受し、バーチャルな世界が現実を侵食しつつあるわが国では、生きることの本質がどこにあるのか見えにくい。

本書において、老いた母を手押し車に乗せ、当て所もなくさまようマイケル・Kの姿。彼にとって生きる目的は曖昧だ。それだけに、かえって生きる意味が明確になっている。
迫害からの自由。生存が脅かされているからこそ、生き延びたい。その姿は生の本能に忠実だ。
母を亡くした後、一人で生きていこうとするマイケル・Kの姿からは、生への渇望が強く感じられる。目的はただ生き抜くことのみ。

南アフリカのように内戦が国を覆い、あらゆる人に自由が制限されている場所。そうした場所では何のために生きるのか。
そこでは、生の意味は生き抜くことのみに絞られる。
むしろ、内戦によって生の価値が著しく損なわれたからこそ、当人にとっての生がより切実となる。
戦争や災害時には平時よりも自殺者が少なくなる、との通説はよく知られている。本書を読んでいるとその通説が正しいように思えてくる。

傍観者から見ると、戦争の際には生の価値は低いように思える。死は多くの死者数に埋もれ、統計となるからだ。

彼はまるで石だ。そもそも時というものが始まって以来、黙々と自分のことだけを心にかけてきた小石みたいだ。その小石がいま突然、拾い上げられ、でたらめに手から手へ放られていく。一個の固い小さな石。周囲のことなどほとんど気づかず、そのなかに、内部の生活に閉じこもっている。こんな施設もキャンプも病院も、どんなところも、石のようにやりすごす。戦争の内部を縫って。みずから生むこともなく、まだ生まれてもいない生き物(209P)。

「自分に中身をあたえてみろ、なあ、さもないときみはだれにも知られずにこの世からずり落ちてしまうことになるぞ。戦争が終わり、差を出すために巨大な数の引き算が行われるとき、きみはその数表を構成する数字の一単位にすぎなくなってしまうぞ。ただの死者の一人になりたくないだろ?生きていたいだろ?だったら、話すんだ、自分の声を人に聞かせろ、君の話を語れ!」(218P)

戦争はあまりにも膨大な死者を生み出すため、外から見ると一人一人の死に思いが至らなくなる。ところが戦争に巻き込まれた当人にとっては、死に直面したことで生きる意味が迫ってくる。生き抜く。
死を間近にしてはじめて、人ははじめて生きることに執心する。もしそのような相反する関係が成立するのだとすれば、生とはなんと矛盾に満ちた営みだろうか。

本書が書かれた当時の南アフリカでは、アパルトヘイトがまかり通っていた。
漫然と生きることが許されないばかりか、強制的に分別され、差別と選別が当たり前の現実。
その現実において、一人で生きることを選ぶマイケル・Kのような生き方は異質だ。

戦争は一人の個性を全体に埋もれさせる。または、埋もれることを強いる。兵士は軍隊に同化することを強制され、住民は銃後の名のもとに国への奉仕に組み込まれる。そして死ねば巨大な統計の数字となる。なんという不条理なことだろう。

本書は、マイケル・Kという一人の男に焦点を当てる。独力で生きようとする男に焦点を当てる。彼の内面から、または外からの視点から。
マイケル・Kを通して描かれるのは、戦争という巨大な悲劇で生きることの意味だ。
生きることの本質とは何か。人は一人で生きていけるのか。それを追求した本書は偉大だ。

‘2019/10/24-2019/10/28


土の中の子供


人はなにから生まれるのか。
もちろん、母の胎内からに決まっている。

だが、生まれる環境をえらぶことはどの子供にも出来ない。
それがどれほど過酷な環境であろうとも。

『土の中の子供』の主人公「私」は、凄絶な虐待を受けた幼少期を抱えながら、社会活動を営んでいる。
なんとなく知り合った白湯子との同棲を続け、不感症の白湯子とセックスし、人の温もりに触れる日々。白湯子もまた、幼い頃に受けた傷を抱え、人の世と闇に怯えている。
二人とも、誰かを傷つけて生きようとは思わず、真っ当に、ただ平穏に生きたいだけ。なのに、それすらも難しいのが世間だ。

タクシードライバーにはしがらみがなく、ある程度は自由だ。そのかわり、理不尽な乗客に襲われるリスクがある。
襲われる危険は、街中を歩くだけでも逃れられない。襲いかかるような連中は、闇を抱えるものを目ざとく見つけ、因縁をつけてくる。生きるとは、理不尽な暴力に満ちた試練だ。

人によっては、たわいなく生きられる日常。それが、ある人にとってはつらい試練の連続となる。
著者はそのような生の有り様を深く見つめて本書に著した。

何かの拍子に過去の体験がフラッシュバックし、パニックにに陥る私。生きることだけで、息をするだけでも平穏とはいかない毎日。
いきらず、気負わず、目立たず。生きるために仕事をする毎日。

本書の読後感が良いのは、虐待を受けた過去を持っている人間を一括りに扱わないところだ。心に傷を受けていても、その全てが救い難い人間ではない。

器用に世渡りも出来ないし、要領よく人と付き合うことも難しい。時折過去のつらい経験から来るパニックにも襲われる。
そんな境遇にありながら、「私」は自分に閉じこもったりせず、ことさら悲劇を嘆かない。
生まれた環境が恵まれていなくても、生きよう、前に進もうとする意思。それが暗くなりがちな本書のテーマの光だ。
そのテーマをしっかりと書いている事が、本書の余韻に清々しさを与えている。

「私」をありきたりな境遇に甘えた人物でなく、生きる意志を見せる人物として設定したこと。
それによって、本書を読んでいる間、澱んだ雰囲気にげんなりせずにすんだ。重いテーマでありながら、そのテーマに絡め取られず、しかも味わいながら軽やかな余韻を感じることができた。

なぜ「私」が悲劇に沈まずに済んだか。それは、「私」が施設で育てられた事も影響がある。
施設の運営者であるヤマネさんの人柄に救われ、社会のぬかるみで溺れずに済んだ「私」。
そこで施設を詳しく書かない事も本書の良さだ。
本書のテーマはあくまでも生きる意思なのだから。そこに施設の存在が大きかったとはいえ、施設を描くとテーマが社会に拡がり、薄まってしまう。

生きる意思は、対極にある体験を通す事で、よりくっきりと意識される。実の親に放置され、いくつもの里親のもとを転々とした経験。中には始終虐待を加えた親もいた。
その挙句、どこかの山中に生きたままで埋められる。
そんな「私」の体験が強烈な印象を与える。
施設に保護された当初は、呆然とし、現実を認識できずにいた「私」。
恐怖を催す対象でしかなかった現実と徐々に向き合おうとする「私」の回復。生まれてから十数年、現実を知らなかった「私」の発見。

「私」が救われたのはヤマネさんの力が大きい。「私」がヤマネさんにあらためたお礼を伝えるシーンは、素直な言葉がつづられ、読んでいて気持ちが良くなる。
言葉を費やし、人に対してお礼を伝える。それは、人が社会に交わるための第一歩だ。

世間には恐怖も待ち受けているが、コミュニケーションを図って自ら歩み寄る人に世間は開かれる。そこに人の生の可能性を感じさせるのが素晴らしい。

ヤマネさんの手引きで実の父に会える機会を得た「私」は、直前で父に背を向ける。「僕は、土の中から生まれたんですよ」と言い、今までは恐怖でしかなかった雑踏に向けて一歩を踏み出す。

生まれた環境は赤ん坊には一方的に与えられ、変えられない。だが、育ってからの環境を選び取れるのは自分。そんなメッセージを込めた見事な終わりだ。

本書にはもう一編、収められている。
『蜘蛛の声』

本編の主人公は徹頭徹尾、現実から逃避し続ける。
仕事から逃げ、暮らしから逃げ、日常から逃げる。
逃げた先は橋の下。

橋の下で暮らしながら、あらゆる苦しみから目を背ける。仕事も家も捨て、名前も捨てる。

ついには現実から逃げた主人公は、空想の世界に遊ぶ。

折しも、現実では通り魔が横行しており、警ら中の警察官に職務質問される主人公。
現実からは逃げきれるものではない。

いや、逃げることは、現実から目を覆うことではない。現実を自分の都合の良いイメージで塗り替えてしまえばよいのだ。主人公はそうやって生きる道を選ぶ。

その、どこまでも後ろ向きなテーマの追求は、表題作には見られないものだ。

蜘蛛の糸は、地獄からカンダタを救うために垂らされるが、本編で主人公に届く蜘蛛の声は、何も救いにはならない。
本編の読後感も救いにはならない。
だが、二編をあわせて比較すると、そこに一つのメッセージが読める。

‘2019/7/21-2019/7/21


生きるぼくら


著者の名前は最近よく目にする。
おそらく今、乗りに乗っている作家の一人だからだろう。
私は著者の作品を今まで読んだことがなく、知識がなかったので図書館で並ぶ著者の作品の中からタイトルだけで本書を手に取った。

本書の内容は地方創生ものだ。
都会で生活を見失った若者が田舎で生きがいを見いだす。内容は一言で書くとそうなる。
2017年に読んだ「地方創生株式会社」「続地方創生株式会社」とテーマはかぶっている。

だが、上に挙げた二冊と本書の間には、違いがある。
それは上に挙げた二冊が具体的な地方創生の施策にまで踏み込んでかかれていたが、本書にはそれがないことだ。
本書はマクロの地方創生ではなく、より地に足のついた農作業そのものに焦点をあてている。だから本書には都会と田舎を対比する切り口は登場しない。そして、田舎が蘇るため実効性のある処方も書いていない。そもそも、本書はそうした視点には立っていない。

本書は、田舎で置き去りにされる年配者の現実と、その介護の現実を描いている。そこには生きることの実感が溢れている。
生きる実感。本書の主人公である麻生人生の日常からは、それが全く失われてしまっている。
小学生の時に父が出て行ってしまい、母子家庭に。その頃からひどいいじめにさらされ、ついには不登校になってしまう。高校を中退し、働き始めても人との距離感をうまくつかめずに苦しむ日々。そしてついには引きこもってしまう。

生計を維持するため、夜も昼も働く母とは生活リズムも違う。だから顔を合わせることもない。母が買いだめたカップラーメンやおにぎりを食べ、スマホに没頭する。そんな「人生」の毎日。
だがある日、全てを投げ出した母は、置き手紙を残して失踪してしまう。

一人で放りだされた「人生」。
「人生」は、母の置き手紙に書かれていたわずかな年賀状の束から、蓼科に住む失踪した父の母、つまり真麻おばあちゃんから届いた達筆で書かれた年賀状を見つける。
マーサおばあちゃんからの年賀状には「人生」のことを案じる文章とともに、自らの余命のことが書かれていた。
蓼科で過ごした少年の頃の楽しかった思い出。それを思い出した「人生」は、なけなしの金を持って蓼科へと向かう。
蓼科で「人生」はさまざまな人に出会う。例えばつぼみ。
マーサおばあちゃんの孫だと名乗るつぼみは、「人生」よりも少し年下に見える。それなのにつぼみは、「人生」に敵意を持って接してくる。

つぼみもまた社会で生きるのに疲れた少女だ。しかもつぼみは、立て続けに両親を亡くしている。
「人生」の父が家を出て行った後、再婚した相手の実子だったつぼみは、「人生」の父が亡くなり、それに動転した母が事故で死んだことで、身寄りを失って蓼科にやってきたという。

「人生」とつぼみが蓼科で過ごす時間。それはマーサおばあちゃんの田んぼで米作りに励みながら、人々と交流する日々でもある。
その日々は、人として自立できている感触と、生きることの実感を与えてくれる。そうした毎日の中で人生の意味を掴み取ってゆく「人生」とつぼみ。

本書にはスマホが重要な小道具として登場する。
先に本書は田舎と都会を比べていない、と書いた。確かに本書に都会は描かれないが、著者がスマホに投影するのは都会の貧しさだ。
生活の実感を軸にして、蓼科の豊かな生活とスマホに象徴される都会の貧しさが比較されている。
都会が悪いのではない。スマホに没頭しさえすれば、毎日が過ごせてしまう状況こそが悪い。
一見すると人間関係の煩わしさから自由になったと錯覚できるスマホ。ところがそれこそが若者の閉塞感を加速させている事を著者はほのめかしている。

「人生」がかつて手放せなかったスマホ。それは、毎日の畑仕事の中で次第に使われなくなってゆく。
そしてある日、おばあちゃんが誤ってスマホを池に水没させてしまう。当初、「人生」は自らの生きるよすがであるスマホが失われたことに激しいショックを受ける。
だが、それをきっかけに「人生」はスマホと決別する。そして、「人生」は自らの人生と初めて向き合う。

田舎とは人が生きる意味を生の感覚で感じられる場所だ。
本書に登場する蓼科の人々はとにかく人が良い。
ただし、田舎の人はすべて好人物として登場することが多い。実際は、それほど単純ではない。実際、田舎の閉鎖性が都会からやってきた若者を拒絶する事例も耳にする。すべての田舎が本書に描かれたような温かみに満ちた場所とは考えない方がよい。
本書で描かれる例はあくまで小説としての一例でしかない。そう受け取った方がよいだろう。
結局、都会にも良い人と悪い人がいるように、田舎にだって良い人や悪い人はいるのだから。
そして、都会で疲れた若者も同じく十把一絡げで扱うべきではない。田舎に合う人、合わない人は人によってそれぞれであり、田舎に住んでいる人もそれぞれ。

「人生」とつぼみはマーサおばあちゃんという共通の係累がいた事で、受け入れられた。彼らのおかれた条件は、ある意味で恵まれており、それが全ての若者に当てはまるわけではない。その事を忘れてはならない。
そうした条件を無視していきなり田舎に向かい、そこで受け入れられようとする甘い考えは慎んだ方がよいし、受け入れられないからと言って諦めたり、不満をSNSで発信するような軽挙は戒めた方が良いだろう。

私は旅が大好きだ。
だが私は、今のところ田舎に引っ越す予定はない。
なぜなら生来の不器用さが妨げとなり、私が農業で食っていく事は難しいからだ。多分、本書で描かれたようなケースは私には当てはまらないだろう。
一方で、今の技術の進化はリモートワークやテレワークを可能にしており、田舎に住みながら都会の仕事をこなす事が可能になりつつある。私でも田舎で暮らせる状況が整っているのだ。

そうした状況を踏まえた上で、田舎であろうと都会であろうと無関係に老いて呆けた時、都会に比べて田舎は不便である事も想定しておくべきだ。
本書で描かれる田舎が理想的であればあるほど、私はそのような感想を持った。

間違いなく、これからも都会は若者を魅了し続けることだろう。そして傷ついた若者を消耗させてゆくだろう。
そんな都会で傷ついた「人生」やつぼみのような若者を受け入れ、癒やしてくれる場所でありうるのが田舎だ。
田舎の全てが楽園ではない。だが、都会にない良さがある事もまた確か。
私はそうした魅力にとらわれて田舎を旅している。おそらくこれからも旅することだろう。

都会が適正な人口密度に落ち着く日はまだ遠い先だろう。
しばらくは田舎が都会に住む人々にとって、癒やしの場所であり続けるだろう。だが、私は少しずつでもよいから都市から田舎への移動を促していきたいと思う。
そうした事を踏まえて本書は都会に疲れた人にこそお勧めしたい。

‘2019/01/20-2019/01/20


永遠の0


もったいないなあ、と思っていた。本書のような傑作をものにしながらの作家引退宣言に。某ロッカーや某プロレスラーのように引退撤回を望みたいと思っていた。一連の右寄り発言や故やしきたかじんさんについて書いた「殉愛」の内容。これによって著者はマスコミに叩かれ、その結果著者が出した回答が作家引退。実にもったいないと思っていた。

結果として、引退宣言撤回発言があり、引き続き小説家としての著者の作品が読めることになった。歓迎したい。

私は「殉愛」は読んでいないし、おそらく今後も読む可能性は低い。なので「殉愛」の内容についてはどうこう言うつもりはない。が、一連の右寄り発言については、場の雰囲気やインタビュワーにうまく乗せられたように感じる。マスコミが望むがままにリップサービスを振る舞ううちに、口が滑ったというのが実際のところではないかと。

本音と建前の使い分けが、我が国の大人に求められるのは事実。本音を漏らすと叩かれるのも事実。なので、我が国では建前を評価する文化が根付いている。私の意見では、建前も捨てたものではないと思う。本音の欠点が他人を顧みず自己中心の意見にあるならば、建前の美点とは周囲や他人の事を慮った意見と云える。つまり建前とは上っ面の空々しい意見ではないという見方も出来るはずだ。

著者の本音はともかく、建前として著者が訴えかけたい点は、本書に余さずこめられているのではないか。つまり、本書とは翼の左右を超え、反戦も八絋一宇も包み込むような視野に立って書かれたのではないか。

実は本書を読む前、私には不安があった。私が本書を読んだのは、上に書いた引退宣言の後。さんざん著者の右寄り発言がマスコミをにぎわしていた頃だ。本書を読むまでは、著者が撒いた放言が頭の片隅にあり、どんな神掛かった内容が書かれているのか不安を覚えていた。

しかし、それは杞憂であった。本書の内容からは、零戦の搭乗員を神格化するような意図は感じられない。零戦の搭乗員は、一人の人間として描かれていた。私はそのことに安堵した。

靖国神社では、戊辰戦争以降の近代日本で戦死した方のほとんどが祭神として祀られている。国を近代化する過程で、戦の中で命を落とした方々の魂を祀る場所が靖国神社。戦の中で何を為したかは問わず、等しく祭神として祀られている。零戦の搭乗員ももちろん戦死者の一人として祭神となっている。一方で、靖国神社にはガダルカナルで餓えて亡くなられた方も、インパールの川でワニに喰われた方も、報復裁判でデスバイハンギングを宣告された方も、等しく神となっている。零戦の搭乗員だけが祭神となっている訳ではない。それでいいと思う。自ら敵に突っ込んだ勇気には心からの敬意を払わせて頂くが、靖国神社で零戦の搭乗員だけを特別視することには賛成できない。

だからといって特攻を犬死行為として、彼らを加害者にさえ見立てるような論調には断固反対だ。当時の人々を弾劾できるのは、当時の人々だけに許されるべきこと。ましてや、戦争という異常な状況の中で追い詰められ、または祭り上げられ、国や家族を思いつつ、または悔やみつつ散華した特攻隊員の方々を平和な時代の我々が一方的に非難することがフェアでないのはいうまでもない。

弾幕をかいくぐり、敵軍艦目掛けて突っ込むという行為には、それぞれの搭乗員の人生や人格の積み重ねがある。零戦の搭乗員たちは、色んな想いや思想を抱いた普通の青年だった。平凡な人間に過ぎないと言い切ってもいい。だが、産まれた時代や場所の巡り合わせで、極限状態に置かれてしまった。そういう一般の人こそが、零戦搭乗員だったと思う。

全ての搭乗員が天皇陛下万歳と叫びつつ飛散したわけではないだろう。全てのゼロファイターがおかあさーんと別れを告げたわけでもないだろう。中には号泣しながら、戦争を呪いながら未練と呪詛にまみれつつ、海面に突っ込んだ人もいたはずだ。

だが、平和な時代の我々は、彼らを決して非難できないし、断罪する資格もない。同情する余地すら与えられていない。自らが積み重ねてきた生き様、これから積み重ねられたはずの人生が一瞬で灰になると知りながら、それでもやらねばならない状況に追い込まれたのが特攻。だとすれば、その場に臨む方にしか、特攻を語り得ないのは当然だ。

しかし、誰かが彼らの声を伝えねば。それは誰が伝えるのか。または、誰ならば伝える資格を持つのか。戦中の異常ともいえる戦意高揚の、戦争に異を唱えれば非国民扱いされ村八分にされる空気感。本来ならばその空気感を知る人でないと、伝えたところで理解されることはないだろう。しかもその空気感は、私のような第二次ベビーブーマーズが決して知ることのない空気感だ。

それをいいことに、零戦の搭乗員を悪者扱いし、加害者呼ばわりする意見が一部ある。死人に口なし。著者は、そういった風潮に我慢がならず、本書を著したのではないだろうか。

本書では平成の青年健太郎が、フリーライターの姉の慶子の助手として祖父の足跡をたどることになる。二人が知る存命の祖父ではなく、祖母の前夫であり、二人にとって血のつながった祖父である宮部久蔵について。その祖父宮部久蔵の人生を調べる中、零戦の搭乗員たちの何人かにインタビューする必要が生じ、相対して聞き取りを行う。その渦中で、何が零戦の搭乗員たちを死地に追いやったのかを探るのが本書の粗筋だ。

健太郎が話を聞いた中には、軍隊の理不尽さを語るものもいれば、当時の開き直った透徹な心持ちを語るものもいた。昭和天皇に対し、今も複雑な思いを抱き続けるものもいた。真っ当に戦後を過ごした人もいれば、やさぐれた世界に身を置き、鎬を削って命を生きながらえさせた人もいた。零戦の搭乗員として一くくりにするのではなく、様々な人生の中、ある期間零銭の搭乗員として過ごした普通の人間として。

だが、健太郎と慶子は話を聞き続けていくうちに、彼らの追い求める祖父宮部久蔵が普通の人間でないことを知る。志願兵でありながら、戦闘を回避し続けた男。それでいて操縦技術や空戦の勘が抜群に優れていたこと。祖父は何故、そこまで戦闘を回避しようとしたのか。生きて虜囚の辱を受けず、という言葉が軍人だけでなく銃後の人々をも縛っていた当時、生きるという信念を戦場に於いても頑なに守ろうとした祖父は、何を守りたかったのか。

司法試験を何度も落第して自棄になりかかっていた健太郎と、ライターの仕事と引き換えに結婚の話が持ち上がっていた慶子。彼ら二人が調査に取り掛かった当初、特攻隊はテロリストとの認識しか持っていなかった。だが、本書の終末で祖父宮部久蔵が何を守りたかったのか、そして祖母と今の祖父に何があったのかを知るにあたり、健太郎と慶子は人として生きることの気高さを知る。それは決して戦争賛美でも神格化でもない。ただ与えられた時代の中、人が人として生きぬくという意思の気高さ。

本書の結末は私にとっては涙なしでは読めない。読んだ当時も泣いたし、本稿を書くにあたって最終章を読みなおしても泣いた。多分、私にとって今まで読んだすべての本で、最も泣かされたのが本書だろう。

エピローグもまた素晴らしい。敵は敵を知る、というのだろうか。宮部久蔵の見事な死に様と、死を扱うに見事なアメリカ軍人の態度は、本書を締めくくるに相応しい。

本稿冒頭に書いた著者の右寄り発言。それが本音か建前かはどちらでもいい。著者は本書、そしてエピローグで答えを示してくれたのだから。

‘2015/07/30-2015/08/01


食堂かたつむり


本書は実際に読んだほうがいい。読んで、じっくりと味わったほうがいい。そして、食べることの意味をかみしめた方がいい。本書はそんな小説だ。

インド人の彼氏にある日突然捨てられた倫子。ふるさとに帰り、私生児として産んでくれたものの、心が全く通わない母の家で居候し、食堂をオープンする。

その食堂の名は、食堂かたつむり。

振られたショックで話せなくなった彼女は、母の愛豚エルメスの飼育をしながら、豊富な食材と素朴で温かみのある里の人々に支えられ、一日一組限定で心のこもった料理を作る。それこそ全身全霊を掛けて。ずっと守り続けていた祖母からの糠床を基本に、メニューもないまま、その日の食材によって料理を変える。おもてなしは素朴だが、食べものへの感謝の気持ちが詰まった料理はやがて評判を呼び・・・という内容だ。

料理を作ること。料理を食べること。人が生きるということは突き詰めて行けばそれしかない。情報だ、地位だ、名誉だという前に、人はまず物を食べる。それによって人は生きる。あるいは生かされる。生きるためには限りある命を奪い食材とする。それを人は原罪と呼ぶのだが、本書は現在という重いテーマを問う前に、何よりもまず生きるということの根源を見つめる。生きるとは活きるに通じ、生かされるとは活かされるに通じる。

単なるグルメに堕さず、料理が人を幸せにするということの意味、料理を食べるという営みにはこんなに素晴らしいストーリーが流れているのだよ、という著者の想いが伝わってくる。

だが、そんなじっくりとした歩みは、終盤から結末へ掛けて急展開を見せる。怒涛のような勢いで進んでゆく筋。急ぎ足になるあまり、お涙ちょうだい的な作りになってしまったことは否めない。こういう展開もはまる人にははまるのだろう。だが、折角ここまでじっくり弱火でトロトロと煮込みつつ育ててきた物語は、結末に至るまでじっくりと料理して欲しかった。とろとろと煮込んだ料理を最後の最後になって強火で油を注ぎ、フランベしたら焦げが付いてしまった。私にとってはそういう読後感だった。途中までが良い感じだったので、そこが残念。

ただ、救いなのは急展開の中にあっても、語り口はあくまでスローな風味を失わなかった。前半のゆっくりじっくりとした語り口に浸れるものならいつまでも浸っていたい。そう思わせる魅力が本書にはある。そのゆるりとした流れの中で、じっくりと自らの人生の意味に思いを馳せたい、と思わせるだけの魅力が。そして、本書からは今自分が生きていられることの喜びを感じ、生かされていることの意味を知りたい、とまで思わせられる。

生きるということは綺麗ごとだけでない。残酷さや汚さや不条理もある。しかし、それでもなお人は物を食べる。食べて生きる。本書は決してメルヘンチックなほのぼの物語ではない。が、生きるだけではなく活かしたい。生かされるだけでなく活きたい、というメッセージが込められている。それが本書である。

できれば、結末の急展開を終えた後は、もう一度最初から読みなおすことをお勧めしたい。

‘2015/6/8-2015/6/11