Articles tagged with: 宗教

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版


Amazon

本書はその重厚な分厚さと、壇上にあぐらをかいて語る著者の風貌が目につく。本屋や書評でも見かけ、読みたいと思っていた。
そこで47歳の誕生日の自分へのプレゼントとして妻に買ってもらった。

47歳。あと3年で50歳を迎える。いわゆるアラフィフだ。人生の後半戦であり、その後にやってくる死が意識の端にのぼり始める。

永遠に続くはずと思い込んでいた日々。そのはるか先に暗闇、つまり無が口を開けている。無が私たちの前途を黒く塗りつぶす光景は、想像の難しい領域だ。だが、誰にも必ずその終わりは来る。それに備えておかなければ。
本書のテーマである「死」は、私にとって知っておかねばならないテーマだった。

本書はイエール大学で23年間続いたという講義の内容をもとにしている。
とはいえ、本書は死についての本質を明快に語ってくれるわけではない。世に多くある哲学書と同じく、本書は死の概念の周囲を歩き回りながら、さまざまな視点と切り口から死の本質を覗き込もうとしている。
死は著者の慧眼を持ってしても一言で言い表せる類の概念ではない。そのため、本書は決して読みやすいとは言えない。

だが、ありとあらゆる切り口と視点から死と生を語る本書は、私たちにその概念を考えるきっかけを与えてくれる。

自己の同一性や時間の概念。魂の存在や死後の世界。そして自殺は倫理的に正しいのかについての考察。

以前もどこかで書いたように思うが、子供の頃の私は死を恐れていた。
死んだらどうなるのか。自分が死んだ後、世の中は何も変わらず続くのに、世界でたった一つの自我は無に消える。そのことが耐え難く恐ろしく、心の底から死に慄いていた。
頭では、ほぼ全ての人間が自我を持っていることは分かっている。だが、自分の主観から見た世界は、他人の客観から見た世界の間には絶対的な違いがある。唯一無二の自我。それがどうにも理解できないでいた。

それから40年以上が経過した今、私は日々の仕事の忙しさを乗りこなすのに精一杯だ。死や虚無を恐れる暇がない。
私にとって仕事とは、死の恐怖を忘れるために人類が発明した営みだと思っている。
でなければ仕事のための仕事や、管理のための管理がまかり通っている理由がない。

だが、無我夢中で仕事と戦っていた時期に終わりが見え、ある程度乗りこなせるようになってきた。子育ても娘の卒業が見えた今、関わる必要が薄れてきた。

そうなると、次に考えるのは自分の死にざまだ。後半生では、死に向かうだけの自分の生きかたを考えなければ。

だが、今の私には死それ自体や、死の後に来るはずの虚無よりも恐ろている事がある。それは、残りの時間に自分がやりたいことがやれない未練だ。死の瞬間、私は自分のしたいことができずに死んでいく無念を全霊で悲しむだろう。

そうした迷いの数々を振り切りたくて、本書を手に取った。

著者はまず自らの死生観を明らかにする。そこで明言するのは、死後の魂を否定することだ。来世や輪廻、天国を否定する著者の口調に一切の迷いはない。死ねばそれで終わり。救いもなければ、やり直す機会もない。そもそも著者にとって死は悪いものですらない。

死は悪くない。その考えは果たしてどこから来るのか。死とはいったい何にとって悪いのだろうか。死を残念がるのは、死する主体、つまり魂なのか。その時に死ぬのは肉体だけで、魂は別と主張する人もいる。
では、肉体と魂は別々の存在なのだろうか。肉体が死んでも魂が別ならば、死を恐れる必要がない。魂があるなら死後の世界も生まれ変わりもあるだろう。天国すら存在するかもしれない。
だが、それを実証する術は私たちにはない。著者は魂の不在を主張する。だが、ないことを証明できない以上、魂が存在しないとも断言しない。

魂や意識は今の科学でも説明ができない。物質主義に寄った立場を隠そうとしない著者も、魂の存在については両者が引き分けと言っている。

著者は物質主義を貫くが、性急に結論を出さない。デカルトやプラトンの見解を援用し、詳細に彼らの哲学を検討し、本当に魂は存在しないのかについての綿密な論考を重ねてゆく。

私たちが魂を信じる理由は、自己の一貫性があるからだ。夜に寝て朝に起きた時、前の日の私と今の私は同一人物だ。私たちはそれを当たり前のこととして受け入れている。だが本来、それは証明ができない。同一に見えるのは外見だけ。もし精神に変調をきたした場合、前の日と次の日の自分は同じなのだろうか。それを証明する手段はない。だが、私たちはその同一性を当たり前のようにして日々を生きている。

著者はこの同一性を魂ではなく人格だと説く。記憶、肉体、魂で歯なく人格。
著者は人格こそが人の本質であることをほのめかす。この自己同一性があるからこそ、私たちは自分の人格を信じる。同一性が大切なことは、時間と空間を隔てても保持できることからも分かる。肉体と魂は別ではく、肉体の一機能である脳機能の発現こそ人格。

ここまで、本書の400ページ弱が費やされている。まだ半分だ。死とはまず何の主体に対しての死なのか。それをきちんと定義しておく。それが著者のアプローチだ。

ここまで論を深めた上で、著者はようやく死とは何かについて語る。意識の不在が死であるなら、睡眠もまた死と言えるはずだ。だが、睡眠が死とは違うことは誰もがわかっている。
そもそも本人にとって悪い事とは何か。悪い事と意識が認識して初めて、それが悪い事になる。意識とは生きている。悪い事を認識するには生きていることが必要だ。
では、意識が虚無である死のなかで、死は本人にとって悪い事なのだろうか。

さらに、意識のない状態が悪ならば、生まれてくる前の状態は本人にとってどういう状態なのか。生とは無限の時間の中で一瞬だけの間の話なのだろうか。

死が人間にとって悪くないとすれば、生きている間は人にとってどのような状態なのか。それが永遠に続く、いわゆる不死の状態は人にとって果たしてあるべき姿なのか。それは悪いことではないのか。

上に出てきた自己同一性の問題も不死が必要なのかについて考える題材になる。不死の体現者となった時、人は何百年、何万年と生きるだろう。その時、膨大な時を隔ててもその人は果たして同じ人物と言えるのだろうか。
10,000年前の自分が考えていたことを完全に覚えていない場合、自分は10,000年前の自分と同じ人物と言えるだろうか。
不死も同じ理由だ。しかも、不死と言っても常に成長を続けることはできない。どこかで衰えや飽きに苛ませられる。その時、不死は人にとって良いことではなくなる。むしろ、身の毛のよだつと言う表現まで使って著者は不死を拒否する。
そのように突き詰めて考えると、死は悪いことでない。

その上で著者は人生の価値、人生の良し悪しが何かについて述べる。
結局、人は死によってその生を中断させられる。来世も転生もなく。限られているからこそ、生を輝かせようとする。

著者は本書において明確な生の本質を語らない。むしろ、著者自身も自らの考えをまとめながら死を考えているように思う。
だが、著者による回りくどくも精緻な分析は、私たちが普段、考えずにやり過ごしている己の生を考えさせてくれる。本書から明確な死の定義を求めようとしても無駄だ。
だが、宗教が形骸化し、元となった仏典や経典が顧みられなくなった今、現代の人が死を考え直さねばならない現実を本書は教えてくれる。

正直に言うと、私は本書を読んでもなお、膨大な時間を求めている。数万年の生を。だが、いざ不死が自分の身に訪れた時、一億年もの間、衰えや飽きを知らずに生きていけるだろうか。
それを考えるためにも折に触れ、本書を読みなおしてみようと思う。

2020/9/2-2020/9/25


R帝国


著者による『教団X』は凄まじい作品だった。宗教や科学や哲学までを含めた深い考察に満ちており、読書の喜びと小説の妙味を感じさせてくれた。

本書はタイトルこそ『教団X』に似ているが、中身は大きく違っている。本書は政治や統治や支配の本質に切り込んでいる。

「朝、目が覚めると戦争が始まっていた。」で始まる本書は、近未来の仮想的な某国を舞台にしている。
本書は日本語で書かれており、セリフも日本語。そして登場人物の名前も日本人の名前だ。

それなのに本書の舞台は日本ではない。日本に限りなく近い設定だが、日本とは違う別の国「R帝国」についての小説だ。

本書を読み進めると、R帝国に隣り合う国が登場する。それらの国は、中国らしき国、北朝鮮らしき国、韓国らしき国、ロシアらしき国、アメリカらしき国を思わせる描写だ。
だが本書の中ではR帝国が日本ではないように、それらの国は違う名前に置き換えられている。Y宗国、W国、ヨマ教徒、C帝国といった具合に。

一方、本書内にはある小説が登場する。その小説に登場する国の名前は”日本”と示されているからややこしい。
その小説では、日本の沖縄戦が取り上げられている。

なぜ沖縄戦が起きたのか。それは当時の大本営の作戦指導によって、日本の敗戦を少しでも遅らせるための時間稼ぎとして、沖縄が選ばれたからだ。それによって多くの県民が犠牲となった。
沖縄県庁の機能は戦場での県政へと強いられ、全てが軍の指導の下に進められた。その描写を通し、著者は戦いにおいて民意を一切顧みずに戦争に人々を駆りる政治の本質に非道があることを訴えている。

作中の小説では日本を取り上げながら、本書には日本は登場せず、R帝国と呼ぶ仮の存在でしかない。
おそらく著者は、本書で非難する対象を日本であるとじかに示さないことによって、左右からの煩わしい批判をかわそうとしたのかもしれない。

政治やそれをつかさどる政府への著者の態度は不信に満ちている。もちろんそこに今の日本の政治が念頭にあることは言うまでもない。
著者の歴史観は明らかであり、その考えをR帝国として描いたのが本書であると思う。
本書には政府がたくらむ陰謀が横行している様子が書かれる。民が求める統治ではなく、政府の都合を実現するための陰謀に沿った統治。統治がそもそも民にとっては無意味であり、有害であることを訴えたいのだろう。
その考えの背後には、合法的な政権奪取までのプロセスの背後にジェノサイドの意図を隠し持っていたナチスドイツとそれを率いるヒトラーを想定しているはずだ。

こうした本書の背後の考えは普通、陰謀論と位置付けられるのだろう。
だが、私は歴史については、もはや陰謀があったかどうかを証明することが不可能だと思っている。そのため陰謀論にはあまり関わらず、あくまで想像力の楽しみの中で取り扱うように心がけている。
あると信じれば陰謀はあるのだろう。政府がより深い問題から目をそらさせるためにわざと陰謀論を黙認していると言われれば、そうかもしれないとも思う。

本書は、陰謀論を好む向きには好評だろう。だが、私のように陰謀論から一定の距離を置きたいと考える読者には、物足りなく思える。
少なくとも、私にとって著者の『教団X』に比べると本書は共感できなかった。

批判的に本書を読んだが、本書には良い点もある。全体よりもディテールで著者が語る部分に。

「歴史的に、全ての戦争は自衛のためという理由で行われている。小説『ナチ』のヒトラーですら、一連の侵略を自衛のためと言っている。もしあの戦争でナチが勝利していれば、歴史にはそう書かれただろう。
相手に先に攻撃させる。国民を開戦に納得させるための、現代戦争の鉄則の一つ。
あまりにも大胆なこういう行為は、逆に疑われない。なぜなら、まさか自分達の国が、そんなことをするとは思えないから。それを信じてしまえば、自分達の国が、いや、自分達が住むこの世界が、信じられなくなって不安だから。無意識のうちに、不安を消したい思いが人々の中に湧き上がる。その心理を“党“は利用する。
無意識下で動揺している人ほど、こういう「陰謀論」に感情的に反論する。そうやって自分の中の無意識の思いを抑圧し消そうとする。上から目線で大人風に反論し安心する人達もいる。そもそも歴史上、一点の汚点・悪もない先進国など存在しないから、国の行為全てを信じられること自体奇妙だがそういう人はいる。」(239ページ)

私も、ここに書かれた内容と同じ考えを持っている。
先進国のすべてに歴史上の悪行はあると考えているし、そのことに対して感情的に反応する人を見ると冷めた気分になる。
そもそも国とは本来、定義があいまいなものだ。集団が組織となり、それが集まって国となる。同じ民族・人種・言葉・文化を共通項として。国とはそれだけの存在にすぎない。
そのようなあいまいな国を存続させるには、民に対してもある幻想を与える必要がある。
その幻想を統治する根拠を文化や宗教や民族や経済や福祉といったものに置き、最大多数の最大幸福の原理を持ち出して全体の利益を奉る。

そのため、政府とは個人の自由を制限する装置として作動し、全体の利益を追求する。個人とは本質的に相いれない。

人は生きているだけで、他の人に影響を与える生き物だ。生きている以上、その宿命からは逃れようがない。生きているだけで環境は消費され、人口密度が増すのだから。
そうすると行き着くところは個人的な内面の自由だ。

とはいえ、私は陰謀論の信者になろうとは思わない。国による陰謀を信じようと信じまいと、現状は何も変わらないからだ。
自由意志を信じる私の考えでは、政府による統治や統治の介入をなくし、自分の生を全うするためには自分のスキルや考えを研ぎ澄ませていくしかない。
「僕は自分のままで、……自分の信念のままで、大切な記憶を抱えながら生涯を終えます。それが僕の……プライドです」
私は本書とそのように向き合った。

ところが、宗教は内面の自由までも支配下におこうとする。一人もしくは複数の神の下、崇高な目的との縛りで。

本書にもある教祖が登場する。その教義も列挙される。
おそらく、『教団X』にも書かれた宗教と科学の問題に人の抱える課題は集約されていくはずだ。だが、その日が来るのは永遠に近い日数がかかると思う。

「人間は結局素粒子の集合でできている。生物も結局は化学反応に過ぎないとすれば、この戦争も罰も、ただ人間にはそう見えるだけで、実は物理学的なしかるべき流れ、運動に過ぎないと言う風に。…その運動を俯瞰して眺める時、私はそこに、温度のない冷酷さしか感じない。見た目は激痛を伴う戦争であるのに、ただの無意味な素粒子達の流れ、運動である可能性が高いのだ。この奇妙な感覚に耐えるためかのようにね、私もどんどんと人間でなくなっていくように思うのだよ。もし私が戦争で莫大な数の人間を殺し、R帝国を破産させ、これまでの支配層の国々に飛び火させ、それで得た天文学的な資産で今度は貧国を助けるつもりだとしたらどうだ? 私がというより、何かの意志がそのつもりだったとすれば、結果的にお前は将来の善の実現を阻むことになる。」(362ページ)

あとがきに著者が書いているとおり、私たちが持つべき態度は「希望は捨てないように」に尽きる。

‘2020/08/16-2020/08/17


一生に一度の月


小松左京展を見に行ってから、著者に興味を持った私。集中して著者の作品を読んだ。本書はその最後の一冊だ。

本書はショート・ショート傑作選と銘打たれている。
ショート・ショートといえば、第一人者として知られるのが星新一氏。星新一氏といえば、著者や筒井康隆氏と並び称されるSFの三巨頭の一人として著名だ。

三巨頭といってもそれぞれに得意分野がある。
著者の場合、あまりショート・ショートは発表していない印象がある。私は今まで著者のショート・ショートを読んだことがなかった。

本書は著者が1960年代から70年代中期にわたっていろいろな雑誌に発表したショート・ショートが収められている。
いろいろな、といっても本書に収められているのは雑多なショート・ショートではない。構成として五部のカテゴリーに分けられている。

例えば第一部「向かい同士」に収められた八編。それらは、「団地ジャーナル」が初出展だそうだ。
雑誌名から想像できる通り、八編は全て団地をテーマにしたショート・ショートだ。団地という濃縮された人間関係の中で起こり得る出来事をタネにアイデアを膨らませたこれら。ショート・ショートとしても傑作に仕上がりだと思う。

団地から想像されるのは、サラリーマンと核家族の集まり。そして、そうした世帯に付き物の小市民そのものの出来事。
著者はそれらから話を膨らませ、簡潔でしかもオチのあるショート・ショートにまとめている。
団地の上も下も筒井という名字の家族が住んでいたり、ゴールデンウィークと仕事人間を風刺したり、不倫に忙しい二組の夫婦を描いたり、団地への憧れを逆手にとったり、酔った亭主が最上階の家へと昇ったり、訪問販売員への風刺をしてみたり。

第二部「歌う空間」の四編は「新刊ニュース」が初出展のようだ。四編のどれもがSFの彩りを備えた作品だ。
宗教を風刺してみせたかと思えば、コミュニケーションの脆弱な本質を暴いてみせ、コンピューターに依存する人類の未来を予言したかと思えば、意識と肉体の実存について鋭くついてみせる。

ここで取り上げられた四編のどれもがショート・ショートというには長い気がする。原稿用紙に換算して二枚近くに及ぶような。
また、内容も、現代から見るといささか発想に古さを感じる。だが、これらのショート・ショートが発表されたのが、EXPO’70が開催された頃だと考えれば、どれもが未来への深い洞察を感じさせる。

第三部「一生に一度の月」は、毎日新聞で発表された一編だ。アポロ13号の月面着陸に湧く世間をよそに、一番盛り上がるはずのSF作家の生態を描いていて面白い。月面着陸を中継するテレビ番組をしり目に、マージャンに興じるSF作家というのがたまらない。まさに逆説そのものだ。

その時の感慨を表すのにふさわしく、著者はマージャンパイを月に向けて投げ、これが現代だと喝破する。なんとも本質をついているようで面白い。
テレビ中継で月の様子が見られる。そのイベントは当時よりもさらに技術が発達し、ネット社会になった今、考えてもすごいことではないだろうか。
ましてや当時の技術力ではとてつもない出来事で、一生に一度の月だったはず。

SF作家の矜持として、その様子をテレビにかじりつくことをよしとせず、あえてマージャンに身をやつし、無視して見せることで逆に技術の到達を体験した。その逆説的な態度がとても印象に残った。

第四部「廃虚の星にて」に収められた十三編は、朝日新聞が初出展とある。全てが環境問題に着想の源をもとめたブラックな内容になっている。

これらもまた、環境問題がしきりに起こっていた当時の世相を表している。ましてや当時はオイル・ショックによって高度経済成長が止まる前に書かれた話。だからどの編も明るそうに見える前半とそれが環境問題としてはね返ってくる後半の対比になっており、SF作家が鳴らす未来への警鐘としてもてはやされたのだろうなと思わせる。

それと同時に、不思議なことにこれらのショート・ショートが現代でも通じるのではないかという相反する思いすら感じた。
つまり、高度経済成長やバブル景気の破綻を経験した今の日本と、当時、未来を予見していた著者の立場が同じだったのではないか、ということだ。それが著者の尋常ではない学識を表していたとも言える。すでにある程度の経済レベルや技術力や文明の高みを達成したという意味で、著者と今の私たちはそう変わらないと思う。

第五部「人生旅行エージェント」に収められた十一編は、媒体もまちまちだ。雑誌名からはそれが何をテーマとしたものか判然としない。例えば原子力についての雑誌であれば、それに沿ったテーマのショート・ショートなので納得できるが、何を表しているのか定かではない出展もとも記されている。

それぞれのショート・ショートが指折りの内容なのはもちろんだ。それにも増して感心させられるのは、その雑誌に合わせてテーマをかき分ける著者の筆力だ。
もちろん著者の博学の広さと深さゆえであるのは今ら言うまでもない。

『日本沈没』のような一つのテーマに知識量を詰め込めるタイプの小説とは違い、ショート・ショートはテーマに沿った気の利いたオチがもとめられる。
だからかえって書くのは難しいように思う。
それをさまざまな媒体に描き分けた著者の筆力とアイデアに感服する。

本書のあちこちには、著者が人間を根本的な部分で信頼しておらず、むしろ愛すべき愚かな存在として慈しむ様子が感じられる。一方で自然や科学が必ずしも人間にとって有益ではないという哲学も見られる。
だからこそ、著者はSFをテーマに作品を書き続けたのだろう。

著者のSF史における立ち位置や、ショート・ショートの歴史などについては、本書の解説で最相葉月氏が触れている。『星新一』という評伝を発表した氏。著者についても評伝を手掛けてほしいものだ。

‘2020/01/04-2020/01/05


八日目の蝉


著者の小説は初めて読んだが、本書からは複雑な読後感を感じた。
もちろん、小説自体は面白い。すいすい読める。
だが、本書が取り上げる内容は、考えれば考えるほど重い。

家族。そして、生まれた環境の重要性。
本書のとりあげるテーマは、エンターテインメントだからと軽々に読み飛ばせない重みを持っている。母性が人の心をどこまで狂わせるのか、というテーマ。
子を育てたいという女性の本能は、はたして誘拐を正当化するのか。
誘拐犯である野々宮希和子の視点で語られる第一部は、本来ならば母親として望ましいはずの母性が、人の日常や一生を破壊する様を描く。

そして、禁じられた母性の暴走が行き着く果ては、逃亡でしかない事実。
勝手に「薫」と名付けたわが子を思うゆえ、少しでもこの生活を守りたい。
そんな希和子の望みは、薫の本来の親からすると、唾棄すべき自分勝手な論理でしかない。
だが、切羽詰まった希和子の内面に渦巻く想いは、母性のあるべき姿を描く。それゆえに、読者をグイグイと作品の世界に引きずり込んでゆく。

そして薫。
物心もつかない乳児のうちに誘拐された薫のいたいけな心は、母を頼るしかない。
母が母性を発揮して自分を守ろうとしているからこそ、薫は母を信じてついて行く。たとえそれが自分を誘拐した人であっても。
薫の眼にうつる母は一人しかいないのだから。

環境が劣悪な逃亡生活は、真っ当な成長を遂げるべき子どもにとって何をもたらすのか。
そのような現実に子どもが置かれる事は普通ならまずない。
ところが、無垢な薫の心は、そもそも自らの境遇を他と比較する術がない。自分に与えられた環境の中で素直に成長して行くのみだ。
母性を注いでくれる母。母の周りの大人たち。その土地の子供達。
環境に依存するしかない子どもにとって、善悪はなく、価値観の判断もつけられない。

本書は、母娘の関係が母性と依存によって成立してしまう残酷を描く。
もちろん、本来はそこに父親がいるべきはず。父のいない欠落は、薫も敏感に感じている。それが逆に薫に母に気遣いを見せる思いやりの心を与えているのが、本書の第一部で読者の胸をうつ。
ここで描かれる薫は、単なる無垢で無知な子だけでない。幼いながらに考える人として、薫をまっとうに描いている。薫の仕草や細かい心の動きまで描いているため、作り事でない血の通った子どもとして、薫が読者の心をつかむ。
著者の腕前は確かだ。

ここで考えさせられるのは、子供の成長にとって何が最優先なのか、という問いだ。
読者に突きつけられたこの問いは、がらりと時代をへた第二部では、違う意味をはらんで戻ってくる。

第二部は大人になった恵理菜が登場する。薫から本名である名前を取り戻して。
恵理菜の視点で描かれる第二部は、幼い頃に普通とは違う経験をした恵理菜の内面から描かれる世界の苦しさと可能性を描く。
恵理菜にとって、幼い頃の経験と、長じてからの実の親との折り合いは、まさしく苦難だった。それを乗り越えつつ、どうやって世の中になじんで行くか、という恵理菜の心の動きが丹念に描かれる。

生みの親、秋山夫妻のもとに返された恵理菜は、親と呼ぶには頼りない両親の元、いびつな成長を遂げる。
そんな関係に疲れ、大学進学を口実に一人暮らしを始めた恵理菜。彼女のもとに、希和子との逃亡生活中にエンジェルホームでともに暮らしていた安藤千草が現れる。

エンジェルホームは、現世の社会・経済体制を否定したコミュニティだ。宗教と紙一重の微妙な団体。
そこでの隔絶された生活は、希和子の目を通して第一部で描かれる。
特殊な団体であるため、世間からの風当たりも強い。その団体に入信する若者を取り返そうとした親が現れ、その親をマスコミが取り上げたことから始まる混乱にまぎれ、希和子は薫を連れ脱出した。
同時期に親とともにそこにいた千草は、自分が体験したことの意味を追い求めるため、取材を重ね、本にする。その取材の一環として、千草は恵理菜のもとを訪れる。

千草との出会いは、恵理菜自身にも幼い頃の体験を考えなおすきっかけを与える。
自分が巻き込まれた事件の記事を読み返し、客観的に事件を理解していく恵理菜。
母性をたっぷり注がれたはずの幼い頃の思い出は記憶から霞んでいる。
だが、客観的に見ても母と偽って自分を連れ回した人との日々、自然の豊かな幸せな日々として嫌な思い出のない日々からは嫌な思い出が浮かび上がってこない。

むしろ、実の親との関係に疲れている今では、幼き頃の思い出は逆に美化されている。
三つ子の魂百まで、とはよくいったものだ。
無意識の中に埋もれる、三歳までの記憶。それは、その人の今後を間違いなく左右するのだろう。

実際、恵理菜は自分の父親を投影したと思われる、頼りない男性の思うままに体を許し、妊娠してしまう。
そればかりか、妊娠した子を堕ろさずに自分の手で育てようと決意する。
それは、自分を誘拐した「あの人」がたどった誤った道でもある。
それを自覚してもなお、産もうとする恵理菜の心のうちには、かつての母性に包まれた日々が真実だったのかを確かめたい、という動機が潜んでいるように思える。
自分が母性の当事者となって子を守り、かつての幻になりそうな日々を再現する。

恵理菜にとって美化された幼き頃の思い出が、記事によって悪の犠牲者と決めつけられている。
だからこそ、恵理菜は、自らの中の母性を確かめたくて、子を産もうとする。その動機は切実だ。
なにせ美化された思い出の中の自分は、記事の中ではあわれな犠牲者として片づけられているのだから。

そうした心の底に沈む無意識の矛盾を解決するため、恵理菜はかつての自分に何がおこったのかを調べてゆく。そしてかつて、偽の母に連れまわされた地を巡る。
自らの生まれた環境と、その環境の呪縛から逃れて飛び立つために。
俗説でいう一週間しか生きられない蝉ではなく、その後の人生を求めて。

母性と育児を母の立場と子の立場から描く本書は、かつて育てられた子として、そして子を育てた親としても深く思うところがある小説だ。
とても読みごたえがあるとともに、余韻も深く残った。

‘2019/7/30-2019/7/31


心のふるさと


今までも何度かブログで触れたが、私は著者に対して一方的な親しみを持っている。
それは西宮で育ち、町田で脂の乗った時期を過ごした共通点があるからだ。
また、エッセイで見せる著者の力の抜けた人柄は、とかく肩に力の入りがちだった私に貴重な教えをくれた。同士というか先生というか。

タイトル通り、本書で著者は昔を振り返っている。
すでに大家として悠々自適な地位にある著者が、自らの活動を振り返り、思い出をつづる。その内容も力が抜けていて、老いの快適さを読者に教えてくれる。

冒頭から著者は自らのルーツに迫る。
著者のルーツは岡山の竹井氏だそうだ。竹井氏にゆかりのある地を訪ね、自身のルーツに思いを馳せる内容は、まさに紀行文そのものだ。

続いて著者は、若き日の思い出を章に分けて振り返る。
著者がクリスチャンであることはよく知られている。そして、当社が幼い頃に西宮に住んでいたことも。
西宮には夙川と言う地がある。そこの夙川教会は著者が洗礼を浴びた場所であり、著者にとって思い出の深い教会であるようだ。
そこの神父のことを著者は懐かしそうに語る。そして著者が手のつけられない悪童として、教会を舞台にしでかした悪行の数々と、神父を手こずらせたゴンタな日々が懐かしそうに語られる。

また、著者が慶応で学ぶなか、文学に染まっていった頃の事も語られる。同時に、著者が作家見習いとして薫陶を受けてきた先生がたのことも語られていく。
その中には、著者が親交を結んだ作家とのエピソードや、他の分野で一流の人物となった人々との若き日の交流がつぶさに語られていく。

「マドンナ愛子と灘中生・楠本」
本書に登場する人物は、著者も含めてほとんどが物故者である。
だが、唯一存命な方がいる。それは作家の佐藤愛子氏だ。
90歳を過ぎてなお、ベストセラー作家として名高い佐藤愛子氏だが、学生時代の美貌は多くの写真に残されている。
この章では、学生の頃の佐藤愛子氏が電車の中で目を引く存在だったことや、同じ時期に灘中の学生だった著者らから憧れの目で見られていたこと。また佐藤愛子氏が霊感の強い人で、北海道の別荘のポルターガイスト現象に悩んでいたことなど、佐藤愛子氏のエッセイにも登場するエピソードが、著者の視点から語られる。

「消えた文学の原点」と名付けられた章では、著者は西宮の各地を語っている。書かれたのは、阪神・淡路大震災の直後と思われる。
著者のなじみの地である仁川や夙川は、阪神・淡路大震災では甚大な被害を被った。
著者にとって子供の時代を過ごした懐かしい時が、地震によってその様相をがらりと変えてしまったことへの悲しみ。これは、同じ地を故郷とする私にとって強い共感が持てる思いだ。
本編もまた、私に著者を親しみをもって感じさせてくれる。

本書を読んでいて思うのが、著者の交流範囲の広さだ。その華やかな交流には驚かされる。
さらに言えば、著者の師匠から受けた影響の大きさにも見るべき点が多々ある。
私自身、自らの人生を振り返って思い返すに、そうした師匠にあたる人物を持たずにここまで生きてきた。目標とする人はいたし、短期間、技術を盗ませてもらった恩人もいる。だが、手取り足取り教えてもらった師匠を持たずに生きてきた。それは、私にとって悔いとして残っている。

別の章「アルバイトのことなど」では、著者が戦後すぐにアルバイトをしていた経験や、フランスのリヨンで留学し、アルバイトをしていたことなど、懐かしい思い出が生き生きと描かれている。かつて美しかった女性が、送られてきた写真では、おばあさんになってしまったことなど、老境に入った思い出の無残が、さりげなく描かれているのも本書にユーモアと同時に悲しみをもたらしている。

また別の章「幽霊の思い出」では、怪談が好きな著者が体験した怪談話が記されている。好奇心が旺盛なことは著者の代名詞でもある。だから、そんな好奇心のしっぺ返しを食うこともあったようだ。
私に霊感は全くない。ただ、好奇心だけはいまだに持ち続けている。こうした体験を数多くしてきた著者は羨ましいし、うらやましがるだけでなく、私自身も好奇心だけは老境に入っても絶対に失いたくないと強く思う。

他の章には、エッセイが七つほどちりばめられている。

「風立ちぬ」で知られる堀辰雄のエッセイの文体から、「テレーズ・デスケルウ」との共通点を語り、後者が著者にとって生涯の愛読書となったことや、堀辰雄やモウリヤックの作品から、宗教と無意識、無意識による罪のテーマを見いだし、それが著者の生涯の執筆テーマとなったことなど、著者の愛読者にとっては読み流せない記述が続く。

また、本書は著者の創作日記や小説技術についての短いエッセイも載っている。
著者のユーモリストとしての側面を見ているだけでも楽しいが、著者の本分は文学にある。
その著者がどのようにして創作してきたのかについての内容には興味を惹かれる。
特に創作日記をつける営みは、作家の中でどのようにアイデアが生まれ育っていくかを知る上で作家への志望者には参考になるはずだ。

著者は、他の作家の日記を読む事も好んでいたようだ。作家の日々の暮らしや、観察眼がどのように創作物として昇華されたのかなどに興味を惹かれるそうだ。
それは私たち読者が本書に対して感じることと同じ。
本書に収められた著者のエッセイを読んでいると、一人の人間の日常と創作のバランスが伺える。本書を読み、ますます著書に親しみを持った。

‘2019/7/21-2019/7/21


心霊電流 下


二人のなれ初めから、約二十年の間、離ればなれになっていたジェイミーとジェイコブズ師の数奇な縁。
一度は身を持ち崩しかけていたジェイミーは、再会したジェイコブズ師から手を差し伸べられる事で身を持ち直す。そして、それを機に二人の縁は再び離れる。

ジェイミーは、ジェイコブズ師から紹介を受けた音楽業界の重鎮のもとで職を得て、真っ当な生活を歩み始める。そして数年が経過する。
ジェイミーが次にジェイコブズ師の名を目にした時、ジェイコブズ師の肩書は、見せ物師から新興宗教の教祖へと変わっていた。電気を使った奇跡を売り物にした人物として。

かつて信仰に裏切られたジェイコブズ師が、今度は自ら信仰の創造主となる。その動機には何やら不穏なものを感じさせる。
それどころか、ジェイコブス師の弁舌に魅せられたコミュニティまでできている。太陽教団やマンソンが率いた教団のような。
ジェイミーは、ジェイコブズ師との数十年にもわたる因縁に決着をつけるため、再び会いにゆく。

老いたジェイコブズ師は、自らの研究の集大成として、ジェイミーをとある場所へと誘う。
そこは、彼らが最初に出会った街の近くにある、雷を集める自然の避雷針スカイトップ。
ひっきりなしに雷が落ちるこの場所を舞台に、ジェイコブズ師は最後の忌まわしい実験に乗り出す。
それはまさに、神も恐れぬ冒涜。おぞましく不吉な結末が予感できる。

この結末は、著者が今までの傑作の中で描いてきたカタストロフィーと比べても遜色ないっq。

ただ、今までのカタストロフィーは、壮健な人々によって演じられてきた。
それに比べて、本書では老いてゆくジェイコブズ師によって成されてゆく。そのため、演者としての迫力は弱い。
ただ、本書で展開される世界の秘密のおぞましさ。そこにホラーの帝王である著者の本領が発揮されている。

ジェイコブズが呼び出したおぞましき世界。そこでは、神の冒涜を主題とした本書のテーマを如実に体現した、究極の終末とも言える世界だ。
神の救い、神の恩寵、神の御手。それはどこにもない。ひたすらに救いようのない世界。
私たちが信ずる来世のおぞましさ。
今まで、神の名において未来への希望を掲げていた教団は、神の名を借りて、人々をたぶらかしてきた。

われわれは何のために生き、そして何のために死んでいくのか。
本書の結末は、そのような問いをはねつけ、絶望に満ちている。
果たして、ジェイコブズ師が一生をかけて神に背き続けた復讐は、この世界を呼び出す事によって成就したのだろうか。
なぜ、私の妻子は無残に死ななければならなかったのか。なぜ私はそれほどまでの仕打ちをくだされなければならないのか。私が神に何をしたというのか。
絶望と呪いに満ちたジェイコブズ師による実験。
その目的が残酷な現実とは違う、理想の世界を見ることにあったとすれば、神の虚飾の裏にあるおぞましい世界を呼び出した事は、牧師の人生にとって最後のとどめとなったはずだ。

本書は、あくまでも神の不在と神への冒涜が主題となっている。
もちろん、本書で描かれた世界が真実とは限らない。来世は誰にも見えない。
だが、神なき世界の真実とは、案外、このようなものなのかもしれない。

本書のカタストロフィーは、それを主宰するジェイコブ師が老いているため、迫力に欠ける事は否めない。
だが、現れた世界の圧倒的な欠乏感。そこに、今までの著者の作品にはない恐ろしさを感じる。

それは、上巻のレビューにも書いた通り、ホラー作家として突き抜けた極みだ。
神の徹底的な否定。そして、私たちが真実と信じているはずの科学技術、つまり電気が引き起こす奇跡の先に何が待っているのか。
本書は著者による不気味な予言ではないだろうか。

あわれなジェイコブズ師がまだ敬虔な牧師だった頃、ジェイミーたちに示した電気じかけのキリスト。
それはまさに、今の世の中に氾濫する価値観の象徴である。
私たちは一体、何を頼りにこれからの世界を生きていれば良いのだろうか。
宗教もだめ、科学技術もだめ。では何が。

そんな戸惑いを尻目に、時間は私たちを等しく老いへと追いやる。
下巻では、上巻でジェイミーの初体験の相手となったアストリッドが老いて死に瀕した姿で登場する。
その残酷な現実は、まさに本書のテーマそのものだ。
人は誰もが老い、そして誰もが取り返しのつかない人生を悔やむ。誰もその生と時間を取り戻すことは不可能だ。

結局、人間にとって唯一の真理とは、時間が人を死に追いやってゆく事に尽きるのかもしれない。
だが、人はその事実を認めようとせず、欲望や見栄や見かけの栄華を追い求める。ある人は神や宗教を奉じ、自ら信じたものを信じて時間を費やす。

そのような人生観にあっては、死さえも救いとなりうる。本書には何度か、このような文句が登場する。
「永遠に横たわっていられるなら、それは死者ではない。異様に長い時の中では、死でさえも死を迎えうる」(263ページ)

それに比べ、ジェイコブス姿が呼び出した世界の寒々としたあり様。それはまさに無限の生。無限に苦しみの続く生なのだ。死してのちも続く無残な生。

おそらく著者は、老境に入った自らの人生を顧み、本書のような福音のない世界を著したのだろう。
そして、その事実に気づくのはたいていが老年に入ってからだ。
私はまたその年齢に達しておらず、自分の人生を充実したものにしようと、一生懸命、日々をジタバタと生きている。
私の考えが正しいのか、それとも間違っているのか。それは死んでからの裁きによって決まるはずだ。そもそも永遠の無が待っているだけかもしれないし。

本書に唯一の救いがあるとすれば、救われない未来が待っていたとしても、本書によってある程度は免疫が得られる事だろうか。
でも、著者は神の背後に覆い隠されていた言いにくいことをズバリと書いた。本書は、ホラー作家としての著者の畢生の作品だと思う。
著者にとって、もはや思い残すところがない。そう思う。

‘2019/5/19-2019/5/20


心霊電流 上


ミステリに寄った三部作を出していた著者が、再びホラーに戻ってきたことでファンを喜ばせたのが本書だ。
数年ぶりに出された本書は、ホラーの王道を行く作品となった。

本書の凄まじさ。それは、ついに著者が神の問題に真っ向うから取り組んだことだ。
これまでにも著者は、さまざまの怪奇現象や超常現象を作品で登場させてきた。超常現象を体験する人物には牧師もいたし、教会を舞台とした怪奇現象も描かれていた。
そう考えると、惨劇を牧師や教会と結び付けること自体が神への冒涜だったのかもしれない。
だが、それを差し引いても、今までの著者は正面切って神を否定してはいなかったように思う。

神はあまねく世界を統べる。だが、神のみわざと関係なく怪異は起き、悪霊ははびこる。
神は全能だが、その関知しない領域は確かにある。そうした隙間に悪は入り込み、怪奇を起こす。
それが今までの著者のスタンスだったように思う。
もちろん、ホラー自体が敬虔なクリスチャンに受け入れられるかは、別の問題とした上で。

だが、本書において著者は神を真っ向から否定しにかかっている。
私たち日本人にとっては、神を否定することへの心理上の抵抗は西洋ほどはない。
日本が多神教をベースとしている以上、一人の神を否定することに抵抗は感じにくいのだ。それが良くも悪くも絶対的な信仰を持たない日本の特徴だとも言える。

だが、いまだに天動説を信じる人が多いというアメリカでは、宗教についての保守的な風潮がまだ根強いと聞く。
安易に神を否定することへの心情は、日本とは段違いだ。私はそう認識している。

つまり、著者が本書で、これほどまでに神を否定し切って見せたことは、私たちが思う以上にすごいことなのではないだろうか。
神の忠実な僕であるはずの牧師の口から、かくも激烈な神を冒涜したセリフを吐かせる。
それは作家として突き詰めるべき極点だ。と同時に触れてはならないタブーだと思う。だが、ホラーを扱う以上、いつかは越えねばならないリミットなのかもしれない。

初老を迎えたジェイミー・モートンが本書の主人公であり、語り手だ。
ジェイミーが六歳の時、街の牧師として着任してきたチャールズ・ジェイコブズ師。電気が好きで、説教に電気の仕掛けを使った見せ物を扱う風変わりな人物だ。
ジェイコブズ師に気に入られたジェイミーは、キリスト教の手ほどきとともに、電気で動く奇跡の魅力と、ジェイコブズ師の若々しい活力に育まれて少年期を過ごす。

ジェイコブズ師は牧師であり、敬虔なキリスト教徒でもある。美しい妻と聡明で愛される息子。何一つ曇りのない明快な人生。
そんなジェイコブズ師の人生は、自動車事故によって妻子を失う悲劇によって一変する。それは牧師にとって神の不在を意味することに他ならない。
神はなにゆえ、忠実な神の使徒である自らにこのような悲劇を与えるのか。そこに神の試練という安易な解釈を当てはめ、片付けてしまってよいのだろうか。あまりにも無慈悲ではないか。ジェイコブズ師は悩み、煩悶する。
そして復帰した説教壇の上から聴衆に向け、神を否定するにも等しい激烈な説教をする。
そんなジェイコブズ師に背を向け、人々は教会から去ってゆく。そして後日、教区からジェイコブズ師は追放される。

私のように信仰心の薄い日本人には、神を万能で全能な存在とみなす考えは受け入れにくい。
というのも、今までキリスト教の名の下、数えきれないほどの不条理に満ちた死が人々を覆い尽くしてきた。
宗教戦争、教化と言う名の人種殲滅、宗教改革によって起きた虐殺。また、キリスト教国の中で二度の世界大戦の間におきたポグロムやジェノサイド、ホロコーストなど。
それらの出来事は、神の存在を掲げるキリスト教の教義をあざ笑っている。
と同時に私たち異教の者の眼には、神の不在を如実に表わす証拠に映る。

人の心にとって、神は確かに救いとなる存在だ。最善の発明だったとさえ思う。
人間が作り上げた頼れる対象。神とは言ってしまえばそうした存在だ。
むしろ、そうであるからこそ神は必要であり、多くの人々にとって神は存在しなければならない。私はそう考えている。

だが、今までに過ぎ去った広大な時間と空間の中で無数の人が宗教の名のもとに弑されてきたことも事実だ。宗教の名のもとに無限の悲劇が起こってきた事も間違いない。
それらの出来事に神が救いを差し伸べる事はなかった。だから、不運な出来事に遭遇してしまった人は、神の不在を呪うしかない。
ジェイコブズ師も同じだ。ジェイコブズ師が壇上から行う悲痛な説教に対し、聴衆からは非難の声が浴びせられる。神の試練を受け止められる気骨がない、と。
だが、人は弱い存在だ。私に言わせれば最愛の妻子を失いながら、神の試練を理由に平静でいられる方がむしろどうかしていると思う。

運命とは作為がなく、かつ無慈悲なもの。
不運に出会った人とは、神の存在に関係なく、無限に張り巡らされた運命の糸の中で、たまたま悪い糸に絡まってしまったにすぎない。それを運と人は呼ぶ。
私は運命や人生をそうとらえている。

ただし、運命の糸のどれをまとい、どれを避けるかによって人の一生は変わる。悪い結果をはらむ糸をくぐり抜け、より良い人生を生きるための糸を身にまとうことで、私たちの人生は好転する。そのためにこそ、私たちは勉学に励む。そして、スキルと能力を強化し、経験と鍛錬に勤しむのだ。
それでもなお、神の意思を言い募り、人の努力を無視する考えは、人の存在を軽視する事につながると思っている。
ジェイコブズ師が悲痛な説教の中で訴えた主旨もまさにそうだった。

神は無力であり、人間の作り上げた幻想に過ぎない。
そんな冷酷で救いのない事実を、著者はついに本書の形で小説の内容にぶちまけた。
ジェイコブズ師が出て行ったあとの誰もいない教会でジェイミーは叫ぶ。
「「おまえは偽物だ」と僕は叫んだ。「本物じゃない! ぺてんの寄せ集めだ! くだばれ、キリスト! くだばれ、キリスト! くたばれ、くたばれ、くたばれ、キリスト!」」(122ページ)

神の問題は、文筆をなりわいとする者としては見過ごしてはならないテーマだと思う。
そして、それをついに取り上げたことは、ホラー作家の巨匠としての著者の矜持だと思う。

多分、本書によって著者は保守的な層からの非難を受けたことだろう。
だが、今や老境にあり、十分な名声と財産を蓄える著者にとって、そうした非難は無意味なはずだ。失うものは何もない。
今まで著者は神を遠慮がちに描いてきた。
だが、ホラーの本質である、神の不在を書いてこそ、作家人生の締めくくりになる。
著者はそう思ったのではないか。

本書はジェイミーという一人の少年の成長を描いた青春小説でもある。
だが、それだけではない。本書は彼が信心の呪縛から逃れる様子を描く。
むしろ、それが本書の主題と言っても良いかもしれない。
子供の頃は大人に呪縛され、長じてからは宗教やその他の判断基準に染められる。
そこから逃げる術を見つけることはとても難しい。
われわれを取り巻く形の有無を問わないしがらみや同調せよと迫る圧力。
その事実はデジタルが幅を効かせる今も厳然として存在する。私たちの人生を見渡せばすぐにその事実は分かる。

ジェイミーは音楽に活路を求め、生計を立てて行く。それは放浪と無頼に満ちた日々だ。麻薬で死にそうになり、人々の信頼を失う。
そんなジェイミーの姿はは、宗教のくびきがとかれ、さまよう人の姿をまざまざと表している。
そんな廃人寸前のジェイミーが偶然にジェイコブズ師に出会う。電気じかけの見せ物師に身を落とし、宗教から足を洗った元牧師。
ジェイコブズ師に救われるジェイミーは、出会うべくしてジェイコブズ師に会ったのだろう。

もちろん、そうした描写は下巻への布石である。
本書のように複数の人数が交わり、複雑な人生模様をかき分けて行く物語において、著者の手腕に揺るぎはない。
だから、読者としては、著者の紡ぐ流麗な物語にただ乗っかって居れば良い。
ジェイミーとジェイコブズ師の間に織られてゆく数奇な運命はまだまだ続く。
下巻でのカタストロフィまで。

‘2019/5/15-2019/5/19


サラバ! 下


1995年1月17日。阪神・淡路大震災の日だ。被災者である私は、この地震のことを何度かブログには書いた。当時、大阪と兵庫で地震の被害に大きな差があった。私が住む兵庫では激甚だった被害も、少し離れた大阪ではさほどの被害を与えなかった。

大阪に暮らす今橋家にとってもそう。地震はさほどの影響を与えなかった。今橋家に影響を与えたのは、地震よりもむしろ、そのすぐ後に起きた3月20日の地下鉄サリン事件と、それに続いて起きたオウム真理教への捜査だ。なぜならそれによって、サトラコヲモンサマを崇める宗教が周りの白い目と糾弾に晒されたからだ。それにより、実質的な教祖である大家の矢田のおばさんにかなり帰依していた姉の貴子の寄る辺がうしなわれる。この時、宗教の本尊であるサトラコヲモンサマの名の由来も明かされる。

宗教をとりあげたこのエピソードによって著者は、宗教や信心がいかに不確かなものを基にしているか、その価値観の根拠がどれだけ曖昧であるかを示す。本書は下巻に至り、終盤になればなるほど、著者が本書に込めた真のテーマが明らかになってくる。それは、信ずる対象とは結局、自分自身だということ。他人の価値観や、社会の価値観はしょせん相対的なもの。だからこそ、自分自身の中に揺らぐことのない価値観を育てなければならない。

宗教という心のよりどころを失い、再び、貴子は部屋にこもりきりになる。そして、自分の部屋の天井や壁にウズマキの貝殻の模様を彫り刻み始める。エジプトを去るに当たり、父と離婚した母は、恋人を作っては別れを繰り返す。デートのたびにおしゃれで凛とした格好で飾り立て、独り身になると自堕落な生活と服装に戻る。父は、会社をやめ、出家を宣言する。いまや、家族はバラバラ。「圷家の、あるいは今橋家の、完全なる崩壊」と名付けられたこの章はタイトルが内容そのままだ。

そんな家族の中の傍観者を貫いていた歩。高校時代の最後の年が地震とオウムで締めくくられ、社会のゆらぎをモロに受ける。高校時代、歩が親友としてつるんでいた須玖は、地震がもたらした被害によって、人間の脆さと自らの無力さに押しつぶされ、引きこもってしまう。そして歩との交遊も絶ってしまう。

須玖の姿は私自身を思い出させる。私と須玖では立場が少し違うが、須玖が無力感にやられてしまった気持ちは理解できる。私の場合は被災者だったので鬱ではなく、躁状態に走った。私が須玖と同じように鬱に陥ったのは地震の一年半後だ。私は今まで、阪神・淡路大地震を直接、そして間接に描いてきた作品をいくつも読んで来た。が、須玖のような生き方そのものにかかわる精神的なダメージを受けた人物には初めて出会った。彼は私にとって、同じようなダメージを受けた同志としてとても共感できる。当時のわたしが陥った穴を違う形で須玖として投影してくれたことによって、私は本書に強い共感を覚えるようになった。私自身の若き日を描いた同時代の作品として。そしてそれを描いた著者自身にも。私より四つ年下の著者が経験した1995年。著者が地震とオウムの年である1995年をどのように受け止めたのかは知らない。だが、それを本書のように著したと考えると興味は尽きない。

もう一つ、本書に共感できたこと。それは一気に自由をあたえられ、羽目を外して行く歩の姿だ。東京の大学に入ったことで、目の前に開けた自由の広がり。そのあまりの自由さに統制が取れなくなり、日々が膨張し、その分、現実感が希薄になって行く歩の様子。それは、私自身にも思い当たる節がある。歩の東京での日々を私の関大前の日々に変えるだけで、歩の日々は私の大学時代のそれに置き換わる。そういえば歩がバイトしていたレンタルレコード屋は、チェーン展開している設定だ。まちがいなく関大前にあったK2レコードがモデルとなっているはずだ。著者も利用したのだろう。K2レコードは今も健在なのだろうか。

大学で歩はサブカルチャー系のサークルに入り、自由な日々と刺激的な情報に囲まれる。女の子は取っ替え引っ替え、ホテルに連れ込み放題。全てが無頼。全てが無双。容姿に自信のあった歩は、東京での一人暮らしをこれ以上望めないほど満喫する。鴻上というサークルの後輩の女の子は、サセ子と言われるほど性に奔放。歩はそんな彼女との間に男女を超えたプラトニックな関係を築く。大学生活の開放感と全能感がこれでもかと書かれるのがこの章だ。

続いての章は「残酷な未来」という題だ。この題が指しているのは歩自身。レンタルレコード店の店内のポップやフリーペーパーの原稿を書き始めた歩。そこから短文を書く楽しさに目覚める。そして大学を出てからもそのままライターとして活動を続ける。次第に周りに認められ、商業雑誌にも寄稿し、執筆の依頼を受けるまで、ライターとしての地位を築いてゆく。海外にも取材に出かけ、著名なミュージシャンとも知り合いになる。

貴子は貴子で、東京で謎のアーチストとして、路上に置いた渦巻きのオブジェにこもる、というパフォーマンスで有名になっていた。ところが歩の彼女がひょんな事でウズマキが歩の姉である事を知る。さらに歩に姉とインタビューをさせてほしいと迫る。渋る歩を出しぬき、強引にインタビューを敢行する彼女。それがもとで歩は彼女を失い、姉はマスメディアでたたかれる。

さらに歩には落とし穴が待ち受ける。それは髪。急激に頭髪が抜け始め、モテまくっていた今までの自分のイメージが急激に崩れた事で、歩は人と会うのを避けるように。すると自然に原稿依頼も減る。ついにはかつての姉のように引きこもってしまう。今まで中学、高校、大学、若手、と人生を謳歌していた自分はどこへ行ったのか。ここで描かれる歩の挫折もまた、大学卒業後にちゅうぶらりんとなった私自身の苦しい日々を思い出させる。

そんな歩はある日、須玖に再会する。高校時代の親友は長い引き込もりの期間をへて、売れないピン芸人になっていた。傷を舐め合うようにかつての交流を取り戻した二人。そこに鴻上も加わり、二人との交流だけが世の中への唯一の縁となり下がった歩。そんな歩に須玖と鴻上が付き合い始める一撃が。さらに歩は付き合っていた相手からも別れを告げられる。とうとう全てを失った歩。

本書はそれ以降もまだまだ続く。本書は、私のように同時代を生き、同じような挫折を経験したものにとっては興味深い。だが、読む人によっては単なる栄光と転落の物語に映るかもしれない。だが、そこから本書は次なる展開にうつる。

今までに本書が描いて来た個人と社会の価値観の相克。それに正面から挑み続け、跳ね返され続けてきたのが貴子であり、うまくよけようと立ち回ってきた結果、孤独に陥ってしまったのが歩。本書とは言ってしまえば、二人の世の中との価値観の折り合いの付け方の物語だ。

「「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」」という、貴子からの言葉が歩に行動を起こさせる。ようやく自分を理解してくれる伴侶を得た貴子がようやく手に入れた境地。自分の中にある幹を自覚し、それに誠実であること。そのことを歩に伝える貴子の変わりようは、歩に次なる行動を起こさせる。

歩は現状を打破するため、エジプトへと向かう。かつて自分が育ち、圷家がまだ平和だったころを知るエジプト。エジプトで両親に何がおこったのか、自分はエジプトで何を学んだのか。それらを知るため旅に出る。圷家と今橋家の過去の出来事の謎が明かされ、物語はまとまってゆく。読者はその時、著者が本書を通して何を訴えようとしてきたのかを理解できるだろう。

親友のヤコブはコプト教徒だった。イスラム教のイメージが強いエジプトで、コプト教を信じ続けることの困難さ。コプト教とはキリスト教の一派で、コプトとはエジプトを意味する語。マイノリティであり続ける覚悟と、それを引き受けて信仰し続ける人間の強さ。

本書には著者に影響を与えた複数の作品が登場する。ニーナ・シモンのFeeling Goodや、ジョン・アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」だ。
前者は、
It’s a new dawn
It’s a new day
It’s a new life
For me
And I’m feeling good の歌詞とともに。全ては受け入れ、全てをよしとすることから始まる。物事はあるがままに無数の可能性とともにある。それをどう感じ、どう生かすかは自分。全ては自分の価値観によって多様な姿を見せる。

育んだ価値観に自信が持てれば、あとはそれを受け入れてくれる誰かを探すのみ。歩は誰かを探す旅に踏みだす。その時、SNSには頼らない。SNSは人との関係を便利にするツールではあるが、自分の中の価値観を強くするためのツールではない。自分の価値観で歩み、SNSに頼らず生身の関係を重んじる。主人公の名のように。

歩も著者も1977年生まれ。私の四つ年下だ。ほぼ同じ年といってよいはず。私も今、自分の人生の幹を確かなものにし、「「自分が信じるものを、誰かに決めさせないため」」に歩み続けている。自らの価値観に忠実であることを肝に銘じつつ。

上巻のレビューで本書が傑作であると書いたのは、本書が読者を励まし、勇気付けてくれるからだ。今どき、教養小説という存在は死に絶えた。だが本書は、奇妙なエピソードを楽しめるエンタメ小説の顔を見せながら、青少年が読んで糧となりうる描写も多い。まさに現代の教養小説といってもよい読むべき一冊だ。

‘2018/08/14-2018/08/16


サラバ! 上


私は本書のことを、電車の扉に貼られたステッカーで知った。そのステッカーに書かれていた、本書が傑作であるとうたうコピー。それが本書を手に取った理由だ。その他の本書についての予備知識は乏しく、それほど過度な期待を持たずに読み始めた。迂闊なことに、帯に書かれていた本書が直木賞受賞作であることも気づかずに。

だが、それが良かったのかもしれない。本書は私にとって予期しない読書の喜びを与えてくれた。上質の物語を読み終えた時の満足感と余韻に浸る。本読みにとっての幸せの一瞬だ。本書はすばらしい余韻を私にもたらしてくれた。

本書の内容は、いわゆる大河小説と言ってもよいだろう。ある家族の歴史と運命を時系列で描いた物語。一般的に大河小説とは、長いがゆえに、読者をひきつけるエピソードが求められる。内容が単調だと冗長に感じ、読者は退屈を催す。だから最近の小説で大河小説を見かける事はあまりない。ところが、本書は大河小説の形式で、読者に楽しみを提供している。本書には読者を退屈させる展開とは無縁だ。奇をてらわずに、読者の印象エピソードを残しつつ、ぐいぐいと読ませる。

本書に登場するのは、ある個性的な家族、圷家。主人公で語り手である歩は、そんな家族の長男として左足からこの世に生まれる。つまり逆子だ。歩が産まれたのはイランのテヘラン。革命前の1977年のことだ。普通の日本人とは違う。生まれが人と違う。ところが本人はいたって普通の人間であろうとする。そればかりか自ら目立たぬように心がけさえする。エキセントリックな姉の陰に隠れるように。

体中で疳の虫が這いずり回っているような姉の貴子。自分が認められたい、注目されたい。そんな姉は産まれてきた唯一の理由が母を困らせること、であるかのように盛大に泣く。欲求が満たされるまで泣く。決して満たされずに泣く。自己主張の権化。ホメイニによるイラン革命の余波を受け、一家が日本に帰国してからも、姉の振る舞いに歯止めはかからない。ますますおさまりがつかなくなる。

よく、次男や次女は要領よく振る舞うという。本書の歩も同じ。長男ではあるが、男勝りの姉の下では次男のようなもの。姉と母の戦いを普段から眺める歩は、自らの身の処し方を幼いうちから会得してしまう。そして要領よく、一歩引いた立場で傍観する術を身につける。

幼稚園にはいった歩は社会を知り、歩なりに社会と折り合いをつけてゆく。ところが、社会よりもやっかいなのが姉の奇矯な言動だ。貴子の扱いに悩む母。「猟奇的な姉と、僕の幼少時代」と名付けられたはじめの章は、まさにタイトル通りの内容だ。猟奇的な姉の陰に隠れ、歩は自らのそんざを慎むことを習い性とする。それに比べて貴子は自らを囲むすべてに敵意と疑いの目を向け続ける。すでにこの時点で本書の大きなテーマが提示されている。人は社会にどう関わってゆくのか、という表向きの大きなテーマとして。

本書は歩の視点で圷家の歴史を語ってゆく。歩の幼稚園時代の記憶も克明に描きつつ。園児の間にクレヨンを交換する習慣。一読するとこのエピソードはさほど重要ではないように思える。だが、このエピソードは本書を通して見逃せない。なぜなら、歩がどういう立場で社会に関わっていくかが記されるからだ。そして、このエピソードは、本書に流れる別のテーマを示唆している。人気がある色を好意を持つ相手にあげるのではなく、自分が好きな色を相手にあげる行い。人気があるから選ぶのではなく、自分の価値観に沿っているから選ぶ。そこには自分しか持ち得ない価値観の芽生えがある。歩がひそかに好意を持つ「みやかわさき」も、皆に人気の色には目もくれず、自分の望む色を集めることに執心する。

続いての章は「エジプト、カイロ、ザマレク」。一家は再びエジプトに旅立つ。歩は7歳。つまり歩は小学校の多感な時期の学びを全てエジプトで得る。日本の教育と違ったエジプトの教育。現地の日本人学校には妙な階級意識やいじめとは無縁だ。なぜならエジプトの中で日本人同士、助け合わなければならないから。そんな学校で歩は親友を作り、その親友と疎遠になる。そして、エジプト人でコプト教徒のヤコブと親友になる。

この章で描かれたエジプトは妙にリアル。これは著者のプロフィールによると実際に住んだことがあるからのようだ。アラブの文化が日本のそれとかなり離れており、幼い時期に異文化をたっぷり浴びた経験が、歩と貴子のそれからに多大な影響を与えたことは想像に難くない。

ダイバーシティや多様性の大切さは最近よく言われるようになって来た。だが、それを言い募る人は、本当の意味の多様性を理解しているのだろうか。少なくともわたしは自信がない。せいぜい数カ所の、それも一、二週間程度、海外に渡航した程度では、何もわからないはず。せいぜいが日本の各地の県民性を多様性というぐらいが精一杯だろう。少なくとも本書で描かれるエジプトの生活は、日本人が知る生活や文化とは大きく違っていて、それが本書に大きな影響を与えているのは明らかだ。

さて、本書の主人公である歩は男性、そして著者は女性だ。ずっとわたしは本書を読む間、著者自身が投影されていたのはどちらだろう、と考えていた。歩なのか、貴子なのか。多分、私が思うに、著者が自身を投影していたのは、貴子であり、歩が幼稚園で気にかけていたミヤガワアイなのだろう。そして、彼女たちの姿が歩の視点から描かれている、ということはつまり、本書は著者が自分自身を歩の視点から客観的に描いたとも取れる。本書がもし、著者の自伝的な要素を濃く含んでいて、それがわたしの推測通り、主人公の周囲の人物に投影されていたとすれば、本書がすごいのは自分自身を徹底して客観化させたことではないか。もちろん、本書で描かれた貴子やミヤガワアイと同じ行いを著者がしたはずはない。だが、彼女たちの奇矯な行動は、著者が自分の中に眠る可能性を最大限に飛躍させた先にある、と考えると、著者のすごさが分かる気がする。

私は下巻まで一気に読み終えた後、著者にとても興味を持った。そして面白い事実を知った。それは著者が1977年生まれで大阪育ち、という事だ。私と4つしか違わない。しかも、出身は私と同じ関西大学。法学部だという。ひょっとしたら私は著者と学内ですれ違っていたかもしれない。それどころか政治学研究部にいた私は、法学部に何人もの後輩がいたので、著者を間接的に知ってい他のかもしれない。そんな妄想まで湧いてしまう。

歩の両親に深刻な亀裂ができ、その結果、両親は離婚する。父を残して圷家は日本に引き上げる。歩はヤコブに「サラバ!」と言い残し、エジプトを離れる。なぜ両親は離婚したのか。その事実は歩に知らされない。そして、垰歩から今橋歩に名が変わり、中学、高校と育ちゆく歩。サッカー部に属し、クールでイケてる男子のイメージを築き上げることに成功する。彼女ができ、初めてのキスと初体験。

そんな今橋家の周りを侵食する宗教団体。いつの間にか発生したが宗教団体は、サトラコヲモンサマなる御神体を崇める。教義もなく、自然に発生し、自然に信者が増えたその宗教団体。人望のあった大家の矢田のおばさんの下、集った人々が中心となったこの奇妙な集まりは、無欲だった事が功を奏したのか、歩の周囲を巻き込み、巨大になってゆく。姉貴子も矢田のおばさんの元に熱心に通い詰め、自然と教祖の側近のような立場で見られるようになる。幼い頃から自分を託せる存在を求め続けた貴子がようやく見つけた存在。それが信心だった事は、本作にも大きな意味を与える。「サトラコヲモンサマ誕生」と名のついたこの章は、本書の大きな転換点となる。

そんな周りの騒がしさをモノともせず、青春を謳歌し続ける歩。一見すると順風満帆に見える日々だが、周りに合わせ、目立たぬような生き方という意味では本質はぶれていない。流れに合わせることで、角を立てずに生きる。そんな歩の生き方は、私自身が中学、高校をやり過ごした方法と通じるところがある。ある意味、思春期をやり過ごす一つのテクニックである事は確かだ。だが、その生き方は大人になってから失敗の原因にもなりかねない。今の私にはそのことがよくわかる。

結局、ここまで書かれてきた歩と貴子の危うさとは、同じ道を通ってきた大人の読者にしかわからないと思う。若い時分の危機を乗り越えてきた大人と、若い読者。ともにやきもきさせながら、歩と貴子の二人の人生は、強い引力と放ち、読者をひきつける。そして結末まで決して読者を離さない。なぜならば、読者の誰もが通って来た道だから。そして、たどろうとする道だから。個性のかたまりに見える歩と貴子だが、誰もが心のどこかに二人のような危うさを抱えていたはず。

‘2018/08/13-2018/08/13


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


未成年


好きな海外の作家を五人挙げろと言われれば、私はそのうちの一人に著者の名を挙げる。本邦で翻訳された著者の作品はほとんど読んでいるはず。だが、私が読読ブログで著者を取り上げるのは実は初めて。というのも本作より前に出版された著者の作品は、本ブログを始める前に読んでしまっていたからだ。ちなみに、あとの四人はStephen King、John Irving、Gabriel García Márquez、Mario Vargas Llosaだ。

久々に読んだ著者の作品は、これぞ小説の見本といえる読み応えがあった。簡潔な文体でありながら内容は深く、そして展開も飽きさせない。

まず文体。簡潔でありながら、描写は怠りない。主人公のフィオーナ・メイの視点だけでなく、彼女の心のうちもきっちりと描く。ただ、心理を描くことは大切だが、凝りすぎるのもよくないと思う。特に今の文学は、心理に深入りした描写が主流ではないと思う。しかし、時には心理を描くことも必要だ。特に本書の場合はそう思う。なぜならフィオーナの職業は高等法院の裁判官だから。

本書は詳しくフィオーナの心の動きを描く。心理に深入りしているようであるが、さほど気にならなかった。むしろ必要な描写だと思う。言うまでもなく、裁判官とは人を裁く公正さが求められる。天秤のイメージでもおなじみの職業だ。原告と被告。弁護人と検事。真実と嘘。裁判官には法の深い理解と経験、そして絶妙な公平さが不可欠だ。法的には慎重な判断で定評を得た彼女。だが、私生活では判断を慎重にしすぎるあまり、ジャックとの結婚生活で子どもを作る機会を逃してしまう。

子供を持つことを犠牲にしてフィオーナが得た経験。つまり司法の徒としての経験もまた得難いものだ。例えばフィオーナが判決を下した事件はとても複雑で難しい。たとえばシャム双生児のように融合した双子のどちらを救うかの判断。宗教と倫理の間で慎重な判断が求められる中、彼女の判断は法的に適法であり、かつ倫理的にも人を納得させるものだ。著者はそれらのいきさつを冗長でなく簡潔に、それでいて納得させて描く。お見事だ。

そして本書のメインプロットだ。この内容がとても深い。シャム双生児の一件はフィオーナの賢明さを紹介するためのエピソードに過ぎない。だが、エホバの証人の信仰を法的にどうやって解釈するか。その問題はさらに深い。フィオーナが判断を下す対象は、未成年のアダム・ヘンリ。敬虔なエホバの証人の信者である両親のもと生まれた彼は、自らの信仰のもと輸血を拒否し、死を選ぶ。ただ、問題なのはその判断は未成年ゆえに法的には無効だ。彼が成人を迎えるまでには2,3カ月の時間が必要だ。そのため、信仰のもとに死を選ぶ彼の判断よりも両親の判断が優先される。さらに、医師の立場では両親の判断を差し置いても優先すべきはアダムの命だ。エホバの証人といえばその宗教的信念の強さは日本の私たちもよく知っている。そして信教の自由は保証されることが必須だ。少年の生命と信教の自由をどう判断するか。その判断はフィオーナだけでなく、読者の私たちにも信仰と法解釈の問題として迫ってくる。

現代とは、複雑な利害が絡み合う時代だ。それをジャッジする裁判官の苦労はとうてい素人には計り知れない。中でも法は社会の基盤であり最後の砦だといえる。その一方で、個人の基盤として最後の砦は信仰だ。その感覚は日本よりも欧米の方が切実なのだろう。そのような公と私の対立を、著者は簡潔な文体で、しかも説得力ある描写を交えて読者に提示する。著者は問題をよく理解し、深くかみ砕いて文章に抽出している。なので、私のような日本人にもその問題の奥深さとエッセンスがしっくりと染み込んでくる。ただ、理解できるが結論はつけられないだけで。だからこそ、フィオーナの下す判決が何なのかに興味を持って読み進められるのだ。内容に深みを持ちながら、読者を置き去りにせずしっかりと読ませる。しかも面白く読ませる。それはただ事ではない。それが本書が傑作である理由だ。

本書はまず、フィオーナとジャックの何十年目かの結婚生活に亀裂が入るところから始まる。そんなスリリングな出来事に動揺しながら、フィオーナはシャム双生児の件やその他の裁判の一切を遅滞なく進めていく。そしてジャックは愛人のもとへと行ってしまう。裁判官としての務めを全うしながら、一人きりの生活を過ごすフィオーナ。そんなところにアダム・ヘンリの審理を抱え込んでしまう。アダム・ヘンリの審理に時間の余裕はなく、審理を中断してフィオーナ自身が入院中のアダム・ヘンリのもとへと赴く。

親子以上に、場合によっては孫と祖母ほどに年の離れた二人。アダムはフィオーナの訪問によって心を動かされる。法的な立場を守りながら、法の型にはまらないフィオーナの判断にいたる心の動きが丹念につづられてゆく。実に読み応えのあるシーンだ。生命は信仰にまつわる尊厳より優先されるという彼女の判決と、その判決に至る文章。それは本書の最初のクライマックスを作り上げる。そのシーンは法に携わる人々がどのような思いで日々の職務を全うし、法を解釈しているのかを私たちのような一般人が知る上でとても参考になるはずだ。全ての裁判が公正・無私に行われているのかどうかはわからない。でも、多くの判決はフィオーナのような厳密かつ公正に検討された判断のもと、くだされているのではないだろうか。

しかし、本書はまだ終わらない。裁判は次々と続き、フィオーナの人生にはいろいろな起伏がやってくる。ジャックとの結婚生活。裁判官としての日々。そしてアダムとのかかわり。本稿を読んでくださった方の興を削ぐことになるのでこれ以上の展開は書かない。だが、本書の余韻は、とても深く永く響いたことは書いておかねば。とくに私の場合は親だ。しかもまだ未成年の娘の。親としてこれから大人になる子供をどう導くのか。どこまでが過保護でどこからが放任なのか。その判断はとても難しい。そして法の最後の判定者であるフィオーナであっても、完全な過ちなく下せる判断ではないのだ。

思えば、生きるということは絶え間ない判断、そして判決の繰り返しなのだろう。仕事として判決を下すフィオーナだけでない。私たち、一般人にしても、毎日が判決と判断を迫られつつ生きている。そして、そのことに責任を担わされているのが大人だと思う。つまり、本書のタイトルである『未成年』とは、その判断の重さが段違いに変わる境目でもあるのだ。最近でこそ成人式とはやんちゃな新成人の自己主張の場になりつつある。そんな中、成年の年齢も18歳に引き下げられるとか。しかし他の民族では通過儀礼をへなければ成人として認められなかったという。我が国にも古くから元服という儀式があった。それだけに成人になることは、ある儀式を通過したものだけが許された境目でもあるのだ。成人になって初めてその判断は尊重され、大人として認められる。

本書を読むと、私たちは成人の意味についてなにか取り返しのつかない見当違いをしつつあるのでは。本書を読んでそんな印象を受けた。

傑作である。

‘2018/01/28-2018/02/05


モナドの領域


本書の帯にはこう書かれている。「我が最高傑作にしておそらく最後の長編」

本書が著者の最高傑作かどうかは、書き手と読み手の主観の問題だ。私にとって著者の傑作短篇はいくつも脳裏に浮かぶ。が、長編の最高傑作と言われてもすぐには選べない。だが一つだけ確かにいえるのは、本書が著者の思索の到達点であることだ。

作品の舞台を全くの異世界に置き、異世界を訪れた人類が認識のギャップに右往左往する様を描いたSF的手法から始まった著者の作家生活。著者の文学的冒険は、読み手と書き手の世界を客観的に描写するメタ手法へと進む。さらに認識や現象の本質に迫る哲学的な作品まで。著者の扱うテーマはどんどんと進化を遂げてきた。

そして本書だ。

本書で著者は、あらゆる存在の創造主を登場させる。地球や地球の属する宇宙よりもさらに上のレベルの枠組みを創造した存在。人間が思い浮かべる神よりももっと先の超越した「それ」。「それ」が本書に出てくる創造者だ。

ある目的があって人間の体を借りた創造者は、人々の過去や正体をこともなげに当ててゆく。おりしも、街には片腕と片足だけが突如現れる事件が起こり、物騒な雰囲気が漂っている。創造者はあえて自分を公衆の目に晒す。創造主の目的は、本稿では書かない。だが、本書を掌る役目なのは創造者だ。そして創造者は著者の分身となって物語を自在に進行させる。

本書で圧巻なのは創造者と人々の対話シーンだろう。いや、対話とは言いすぎか。人々と創造者が対等なはずがないからだ。そのシーンでは人々が創造者に問い掛け、創造者がそれに答える。その様子は師と弟子の問答のよう。人々が創造者に問いたいことは様々だ。検事が、クリスチャンが、哲学者が、サラリーマンが、弁護士が、科学評論家が、経営者が、政治評論家が、それぞれの悩みを創造者に問う。

彼らの問いは、彼ら自身にとっては切実なものだ。創造者はそれらの問いを造作なくさばいてゆく。創造者にとっては取るに足りない問いといわんばかりに。多分、82歳の著者にとってもそれらの問いの多くは取るに足りないものなのだと思う。そして、本書に登場する問いからは、著者の関心分野も読み取れて興味深い。ちなみに問いの中には宗教間の争いも、科学技術の行く末や、環境問題の解決法についても登場する。ところが、国際政治、特に日中韓の関係について問いかけようとする人物はいるが、その質問者はすぐに退場させられる。本書で取り上げられる他の問題に比べれば、国と国の間の関係はあまり大したことではない、という著者の考えが垣間見える。国際政治に関する著者のスタンスがうかがえて興味深い。

さらに本書を読んで感じたのは集合知の未熟だ。本書を読んでいると、ITがもたらしたはずの集合知が人々の切実な問いに答えられない事実を痛感する。知恵袋やOK waveといったQAサイトはあるが、それらのサイト内で人々の悩みに答えるのは他の回答者。つまり人力だ。哲学的な問題や科学技術の問題もそう。ITがそれらの問題に回答できる日が来るのはいつの日だろうか。今のITに期待される知恵とは、ビッグデータの集積から導き出される人工知能による回答をさす。だが、今のITに蓄積されつつある集合知とは、人間の知恵の延長線上にある。つまり今の段階ではITは神にはなり得ていないのだ。

そして著者はSF的な設定手法を本書に持ち込みつつも、技術論や科学論の袋小路に入り込んむ過ちを犯さない。しかもそれでいて難解な人間存在のあり方について分かりやすく説く。SFにはこういうアプローチもあるのだと感心させられた。

思索の内容といい、アプローチの手法といい、本書は著者の思索の到達点だ。その思索の成果を創造者の口を借りて語ったのが本書だ。だからこそ、著者をして最高傑作と言わせたのだろう。私も本書を著者の代表作の一つに推したい。ただ著者のファンとしては、ここまでの高みに登ってからの作家活動が気になる。可能ならばあと一編は著者の長編を読みたいものだ。そんな願いを抱きつつ、著者のブログ「偽文士日録」をチェックしよう。

‘2017/03/17-2017/03/17


親鸞-悪の思想


2014年の後半に読んだ「人はなぜ宗教を必要とするのか」。この本によって、浄土真宗の創始者である法然、親鸞に興味を持った。

念仏を唱えさえすれば善人だけでなく悪人も極楽浄土に往生できる、いわゆる悪人正機の教え。一切の自力による努力を虚しいものとする他力本願の教え。鎌倉時代に現れたこの二つの教えは、今の秩序ある競争社会の目には異質に映る。人の世の清濁や人間の営みを退けず、むしろ受け入れた上で宏大な包容力で包むような教義は、我々に自らの小ささを思い知らせる。さしずめ、勤め人の状況からなんとか逃れよう、日々が同じ日々にならぬよう、バタバタしている私もまた、小さき人の一人に過ぎないのだろう。

本書は新書ではある。しかし内容は実に濃い。新書の紙数を最大限に使い、親鸞の教えについて緻密な検証を繰り広げる。その緻密さは、難解さでもある。本書において著者は親鸞の教えとがっぷり四つに組んで格闘している。半可な私には、その高度な闘いのほんの一部分しか理解できなかった。親鸞の思想の深みを知れば知るほど、私などの手には届かぬ距離を感じた。よしんば触れえたとしてもそれを掴み上げることは今の私にはまだ無理である。しかし、努力は放棄したくない。今回本稿の形で改めてレビューに起こすにあたり、本書で繰り広げられる著者と親鸞の格闘を見届け、中継と解説を試みたいと思う。

序章 悪への視角
序章からして、深い。著者の筆致は端正であり、冷静だ。読者への媚びもない。序章から早くも、親鸞の思想への切り込み方が示される。

冒頭から歎異抄の有名な一説が提示される。

善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。

ここでいう悪人とはなにか。親鸞はどういう視角から、悪人を定義したのか。序章には「悪への視角」という題が付されている。その名にふさわしく、著者は悪への視角を追求する。

親鸞が起こした浄土真宗は、加賀の蓮如によって大いに栄えた。だが、蓮如は歎異抄を聖教の書としつつ、みだりに信者に読ませることを禁じたという。当時にあっても、この内容は誤解を招きかねないと思われていたのだろう。また、著者は親鸞の思想の深みに踏み入れる前に断りを入れる。それは、歎異抄が親鸞の教えを伝えている書かどうかについてである。歎異抄は、親鸞の弟子唯円によって書かれたが、親鸞が悪人正機の考えを持っていたことは確かであり、歎異抄の内容も親鸞の教えに相違ないという。実際、明治以降になって歎異抄については従来考えられていた論とは違う角度からの様々な論が提示されたという。そのような様々な論に対し、著者は次々と論破を試みる。その中には梅原猛氏や山折哲雄氏といった現代の碵学も含まれる。両氏もまた、歎異抄については疑問を述べ、独自の論を展開する。果たして唯円が表した歎異抄は、親鸞の思想を的確に伝えているか。著者は伝えていると考え、梅原、山折両氏は伝えていないとする。著者は両氏の論に真っ向から対論を挑み、序章からしてすでに濃密な論理が展開される。

また、返す刀で著者は思想研究のあり方についても論を進める。過去の思想を検証するにあたっては、現在の立ち位置から検証されなければならないと言う。客観的な親鸞像よりも、わたしたちにとっての親鸞像が重要という訳だ。

この視点はかなり私にとって重要だ。というのも、私は歴史問題を考える際は、時代背景が違う後世の人間が過去を断罪するなどおこがましいと考えているからだ。ただ、本書がいうように過去の研究が今に活かせないとすれば、それはただの骨董趣味という意見もその通り。上記の箇所を読み、私も今後、近代史や戦史について考える際は改めてその事を意識しなければと思った。

第一章 思想史のなかの親鸞
序章からして著者のペンの切っ先は鋭い。鋭く端正で、丁寧だ。翻って第一章では、その鋭さを一旦鞘に納め、著者は万葉集を例にとり、日本の無常をめぐる考えの移り変わりを説く。平安末期からの戦乱とそこにはびこった末法思想。その混乱の中で師法然がたどり着いた易行による救済。それらの時代背景を踏まえた上で親鸞の生涯が描かれ始める。天台宗の中で性欲に悩み、如意輪観音から啓示を得、法然の弟子となる経緯。浄土宗が弾圧され、流刑が解けた後も関東で布教を積んだ日々。20年後に京に戻るも、実子の善鸞が教えを曲げたとして義絶せざるを得なかった苦悩。孤独と苦悩のうちに90歳で亡くなった晩年。その中で親鸞自身が自分の中の欲望に悩み、「罪悪有力 善根無力」の法然の教えにすがる経緯や、それでいて、悪しき凡夫である自身から逃れられなかった苦しみに呻吟していたことなど、親鸞の生涯が簡潔になぞられていく。また、親鸞死後の浄土真宗の歩みを蓮如の時期まで概説し、蓮如の歎異抄にたいする考えを批判する。衆目に歎異抄を晒すことを禁じた蓮如は、悪人正機の一説を道徳・倫理の視点からでしか読み解かなかった。しかし、この一説は人間存在の根本に肉薄する重要な言説であること。

第二章 悪人正機の説
一章の最後で指摘した内容を受け、悪人正機説に切り込むのが本章だ。ここでは先に挙げた一節「善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。」と、それ以下に続く文章が引用される。その引用箇所では、他力本願の教えが明確に書かれている。つまり、一切を弥陀の本願に委ねきって他力の立場に立つ悪人こそが、まさしく救いにあずかるべき身である。したがって、善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は当然だ、と。これこそが他力本願の教えである。この引用文からは、悪人正機と他力本願の教えは歎異抄の中ですぐ隣に書かれていることがわかる。

ここで著者は悪人を道徳的・倫理的悪ではないとする。文字通りに読むと親鸞は悪人こそが往生できると述べた破戒僧になってしまう。だが、門人に対して悪行を諌める文書が残っているという。つまり、破戒を推奨した人物だったわけではないという。後世の暁烏敏による解釈では悪人と善人のそれぞれの意味は逆説的ではないかとあったが、それも違うと著者はいう。つまりは、悪を道徳的・倫理的悪と見るのではなく、存在論的悪とみることで、これらの疑問は解消されるという。

存在論的悪とは、何か。それは存在することとは、他人を殺すことによって生かされているということを意味する。仏教の考えでは生きとし生けるものは皆仏性を持つとある。つまり仏性を持つ他の生き物を殺さねば自分が生きられない。これこそが存在論的悪である著者は云う。

また、著者は存在論的悪の例をもう一つ上げる。それは私のような商売人にとって致命的ともいえる悪だ。つまり商売の悪である。商売とはつまるところ他人により自分を売り込むことであり、他人の損を自分の得につなげる営みである。商売とは、自らの利益を追う営みであることは否定しようがない。また、入学試験のように自らが入学できたことは、反対に落とされる人がいることも意味する。また、仮に皆で人助けをしたとしても、それすらも別の人に被害を及ぼす可能性は否めない。それらを著者は排除という言葉で表す。そこに存在することで例え悪意がなくとも他人に被害を及ぼしうる。まさに存在論的悪である。人が生きる限り避けられない悪。親鸞のいう悪人とは、存在論的悪をなす我々全てと見てよい、と著者はいう。

親鸞の自己への視線はあくまで客観的で、突き放している。我々煩悩に生きる人々にも、ふと物思いにふける瞬間がある。そんな時、自らの存在について、生きものを食べねばいきられない業について、利益を追う日々について自省することもある。しかし、私も含めたほとんどの方は、日々の多忙にかまけ、その様な考察を深めることをしない。またはしても忘れる。そもそも親鸞のように、四六時中、自らの存在や存在していることで生ずる悪業に考えを廻らすことなどできるはずもない。我々の精神は親鸞のようにそこまで頑丈ではないのだ。私は常に思うのだが、仕事という仕組みには、一面ではそういった思考に落ち込まないため、我々自身を多忙に追い込むために考えた仕組みではないかともいえる。

道徳的・倫理的意思に関わらず人は例外なく悪人である。親鸞の悪人正機説は、そこに基点を置く。だから、善人なおもって往生す、の善人とは「もし善人というものがありうるならば」との注釈が入るはずだ、というのが著者の解釈となる。

また、我々が悪を避けられないならば、全てを念仏に託し、念仏を通して阿弥陀の救いにすがる、という理屈も分かる。我々の存在がどうあっても悪でしかない以上、人間が善悪を云々するのもまた愚か、というわけだ。つまり、善人になろうと努力する人は在りもしない善を求め、悪を自覚できず存在の根本から誤っていることになる。親鸞のいう善人悪人について、著者はこう解釈している。つまり、悪人が自らの存在故に無力な悪人であるため、阿弥陀によって救済される、ここに親鸞の悪人正機説があると著者はいう。ただし、第四章で触れられるが、信心を持たず、悪業の限りを尽くす、道徳的・倫理的悪人が弥陀の本願として救われない存在であることはいうまでもない。

著者はその結論を携えて次章に移る前に、信仰の定義を確認しておくことを忘れない。その中で著者が訴えたいのは、科学的立場から、宗教を退けることの不毛さである。自然科学も根本まで突き詰めれば、この定理が正しいはずという「信仰」にすぎないと著者はいう。

この辺りの議論は、本書を読むきっかけとなった「人はなぜ宗教を必要とするのか」で展開された論理と同じである。

第三章 「信」の構造
ここでは、信仰の在り方について、親鸞の考えが述べられる。法然の忠実な弟子であった親鸞は、弟子を持っていなかったという。門人は多数いたが、仏門にあっては共に弥陀の弟子であり、弥陀の前では等しいと。信仰とは、弥陀から衆生に等しく一方向に与えられるもの。弥陀の前にはただ単独者として相対するだけ。単独者のはずなのに、別の単独者を弟子とすることは矛盾しているのではないか。親鸞はこう見ているのだという。しかし一方で、仏への理解には差があるため、親鸞は師弟関係は認めていたという。

ここからは、徹底的に仏の前にあっては皆無力であり、小賢しく徒党を組むことを拒むのが親鸞の思いであることが見てとれる。宗派の勢力争いなどもってのほか。また、親鸞は師法然の念仏という行の重要性も認めつつ、信、つまり思いこそを重視する。念が優先されるとするならば、言語が不自由な方は往生できなくなる。親鸞がこの事を認識していたこともまた、当時にあっては尊敬すべき点だと思う。

ここで著者はアウグスティヌスを引き合いに出す。神から一方的に与えられる信仰。そしてキリスト教に知られる原罪の考え。著者は敢えて書かないが、キリスト教への真摯な宗教心と、親鸞の意図した信には共通点があると言いたいのではないか。そして著者は、徹底した受動性が信であるとするならば、不信心者が自らの不信心を述べることについても、その基盤が不徹底であればそもそも不信心とすら云えないと喝破する。この点も「人はなぜ宗教を必要とするのか」に書かれていた。

第四章 悲憐
前章では、受動性が説かれた。では我々にできることはないのか。親鸞は何も行わず、誰にも与えようとしなかったのか。本章ではこの点に詳しく触れる。

まず、往相廻向と還相廻向の考えが示される。前者は、人間が自分の力に基づいて自己を弥陀に駆り立てることではなく、弥陀が人間を弥陀自身にむかって駆り立てる(往生させる)ことだという。後者は、浄土に往生した者が現生に帰ってくることと同義だという。その上で親鸞は、まず往相廻向によって人は弥陀によって導かれ、そして往生後、還相廻向によってこの世に現れ、人々を弥陀道へと導くという。そして還相廻向の営みおいては、悲憐の情を伴うべきという。つまり往相廻向が受動性であるならば、人々に弥陀の悲憐を差し向ける営みこそが能動性、還相廻向であると著者はいう。それはまた、共に悲しむ共悲にも通ずるものだろう。

思うに、往相廻向と還相廻向の違いとは、仏教の成り立ちからついて回る小乗仏教と大乗仏教との違いに当てはまるのではないか。自己の研鑽とそれによる成仏が小乗仏教とすれば、民に等しく仏の慈悲を広めるのが大乗仏教であると。こう考えると、仏教とは、大きな二つの考えの間を揺れなから育ってきた宗教だと思える。(これを書くにあたって調べた所、現在は小乗仏教という言葉は差別的な意味を含むため使われなくなっているらしい。)

ここで、著者は歎異抄のそもそもの成り立ちに読者の注意を向ける。歎異抄は唯円が親鸞の教えと異なる教えが横行することの歎きを書いたものという。そして、歎異抄について唯円は、親鸞の教えから逸脱した教えを信ずる人々を非難せず、共悲の心をもって歎異抄を編んでいるはずだと著者はいう。そして、その姿勢にこそ、歎異抄が親鸞の教えを正統に受け継いでいる所以ではないかと。

結章 悪の比較論
ここでは、まとめに入る。まとめではアウグスティヌスが再び登場し、親鸞のいう悪とアウグスティヌスのいう原罪について、精緻な比較がなされる。そこでは存在論的悪こそが神に救われ、高ぶるものや傲慢といった道徳的・倫理的悪は神に見出されることすらない。このあたりの論理はアウグスティヌスと親鸞に共通していると思う。

アウグスティヌスは、マニ教とキリスト教のどちらを選ぶか悩んでいたことが示される。マニ教。高校の世界史で出てきたことは覚えているが、私にとってほぼノーマークの存在。マニ教は、キリスト教にとある問いを突きつけたという。

  悪はどこから来るのか

つまり、全知全能な神が作り上げた善なる世界において、現実に悪は存在する。その悪とはどこから来るのか、という問いだ。そこでアウグスティヌスは、自らの放蕩の過去も踏まえ、悪の一切を拒絶したマニ教でなく、罪びとをも包容する力を持ったキリスト教を選んだ。だが、悪はどこから来るのかという問いは解消されぬままであり、アウグスティヌスは答えを出す必要があった。

その結果、善の欠如が悪であり、悪は神にかかわるものでなく人間の自由意思に生ずるとアウグスティヌスは考えた。

そして、理性を持つかどうかによって、下位の動物に対する生殺与奪の権利を持つと規定し、原罪の考えを解決しようと試みた。それは現代にも通ずる科学中心、人間中心の考えに繋がる、西洋式の考えに繋がるはずだ。著者もその点には気づいており、そこにアウグスティヌスの限界があったとしている。

一方で親鸞はそうした逃げを打たなかったとする。人間が存在する限り逃れられない悪。アウグスティヌスや他の思索者が道徳的・倫理的悪で思索を止めてしまったのに対し、親鸞はその先を行った。が、著者は親鸞ですら矛盾を完全に超克したわけではないと補足する。つまり、すべての存在が仏性を持つはずなのに、なぜ存在論的悪が存在するのか、との理屈だ。

著者は結びとしてこう提言する。存在論的悪を受け入れ、そのことを有り難く、申し訳ないと思うことが、他人への配慮に繋がる。そして、その謙虚さは、自らの存在を無反省に認識すべきではなく、自らの存在論的悪を見続けてこそ、新たな変貌を遂げられるはずだ。そこに、親鸞の思想が現代にも通ずる余地がある。このような結論で本書を締める。

私の理解は親鸞の思想の深淵には程遠いが、著者の闘いの跡だけはかろうじて追えたのではないかとおもっている。

‘2015/02/17-2015/02/26


川の名前で読み解く日本史


私の関心対象のひとつに川がある。川は面白い。上流部の岩場や滝は荒々しく。中流部の草生い茂る川面と緑豊かな土手はのどかに。清濁合わせ呑んだ下流部の拡がりは悠々自適。川を人の一生に例えることは昔から行われてきたが、その気持ちもわかる。

私は、未熟で無鉄砲な上流部が好きだ。生まれたての雫が人跡未踏の沢を下り、木々の間を自由にすり抜けるかと思えば、断崖を急落下する。思うままの独り旅。憧れる。

しかし、人間と川の歴史を語るのであれば、それは中下流部だろう。水在るところ人々は集い、歴史を作ってきた。

本書は、4章にわたって日本各地の川と人々の関わってきた歴史を紹介する。本書に登場するのは本邦の有名河川たち。多々良川以外は全て一級河川である。それらが4章のそれぞれの切り口から取り上げられている。

第一章 名前で読み解く川の歴史
淀川・九頭竜川・球磨川・利根川・筑後川・多々良川
第二章 合戦のゆくえを知る川
千曲川・姉川・手取川・長良川
第三章 川の恵みに育まれた信仰
四万十川・信濃川・吉野川・富士川・天竜川
第四章 アイヌ語に秘められた川の由来
最上川・北上川・石狩川・日本各地の「金」の川

第一章は、それぞれの川の名前から、その地域の歴史や風土を絡めて紹介する。第二章は、合戦の舞台として著名な川である。なお、千曲川の合戦という合戦はないが、川中島の舞台といえばお分かりだろうか。

本書は紙数の限界もあって有名な川のみの紹介にとどまっているが、まだまだ我が国には見るべき河川が多数ある。小さな川まで数えれば、河川の数だけ故郷があるといっても過言ではあるまい。私にとっても武庫川・久寿川・猪名川・芦屋川といった河川には愛着があるし、ほぼ毎朝晩に渡河している多摩川・鶴見川も捨てがたいものがある。本書を通して川に興味が湧き、少しでも美化意識が高まることを願ってやまない。

‘2014/10/26-10/31


1Q84 BOOK 1


本稿を書き始める数日前、今年度のノーベル文学賞受賞者が発表された。有力候補とみなされていた村上春樹氏は、残念ながら受賞を逃した。毎年のように候補者に名が挙がる氏であるが、本人は同賞に対しそれほどの拘りはないように思える。私の思い込みであるが、今までに読んだ氏の著作からはそういった色気があまり感じられなかったためである。茫洋としてつかみどころのない、見えないもの。現実の色に塗れず、むしろそこから遠ざかり零れ落ちる。そんな世界観を抱く氏の著作からは、ノーベル賞といった世俗の栄誉は縁遠いように思えた。今までは。

本作は、今までの著者の作品とは現実との関わり方が違うように思える。より近寄っていると言っても良い。その近寄り方は、現実にすり寄り媚を売るのとは少し違う。本作のテーマを際立たせるため、あえて現実に近寄って描写した。そんな感じである。テーマを浮かび上がらせるため、背景となる現実を彫っては捨て、削っては捨てる。そうすることで、提示されるテーマはより鮮明になる。

BOOK 1<4月-6月>と名付けられた本書は、芸事にいう序破急の序にあたる。青豆なる殺し屋稼業の女性と、川奈天吾なる小説家志望の塾講師。この二人が本書全体の主人公となる。何も関わりの無いように思える二人の日常が交互に章立てされて物語は進む。序といっても退屈な状況説明が続くわけではない。のっけから読者を引きつける展開が待っている。青豆は、首都高の上でタクシーを降り、非情出口まで歩いてそこから降りていくといったような。目的地のホテルで鮮やかな手技で男の命を奪うといったような。天吾の方は、天才少女作家の応募作を改作し、添削して世に出すといったような。

二人が過ごす、彼らなりに穏やかな日常。そのような日常を転換すべく訪れた展開。そんな中、二人の考えや生い立ちが徐々に語られていく。物語の行く末に興味を持たせ続けながら序の状況説明や人物説明まできっちり行ってしまうあたり、さすがの熟練の技である
先に、本書は今までの著者の作品よりも現実に近づいた描写が目立つと書いた。しかし、近づいたといっても近づきすぎず、現実の瑣末なディテールには踏み込まない。現実の描写とは、あくまで二人の人物像を際立たせるための小道具である。青豆の殺人者としての技量は殊更に誇張しない。性欲が溜まると男をあさりに行く程度の日常。そこには現実のディテールは不要で、その少々危険な香りのする日常を追うだけで読者は次の展開が待ち遠しくなる。一方、危うい行動とは無縁に思える天吾の日常も同じである。塾講師としての日常の雑務にはあまり触れない。小説の応募や選考や出版といった祭り事からも距離を置く。天才少女作家である「ふかえり」を配し、そのエキセントリックでマイペースな行動が天吾を振り回すだけで、読者はますます目が離せなくなる。

話は天吾の代筆した「空気さなぎ」の爆発的なヒットと、仲介した編集者である小松の存在、さらには「ふかえり」の幼少期から、謎の信仰集団が登場するに至って、天吾の日常は破天荒なそれへと変わっていく。柳屋敷に住む謎の老婦人からの青豆への依頼と、柳屋敷の謎めいた執事タマルとの関わりを通し、青豆の世界も大きく動く素振りを見せる。彼女を取り巻く日常がいつの間にか別のものにすり替わり、少しずつ現実が幻想的な色を帯び始める。

ここまで読んでいて、私はテーマと思われるものが浮かび上がっていることに気付いた。それは現実からの疎外である。謎の信仰集団は、当初は現実に背を向けて自給自足を営むだけの集団だったが、急速に閉鎖的になっていく。天吾の幼少期、NHKの集金人である父に休日ごとに集金に連れまわされ、学校ではNHKというあだ名で呼ばれ疎外される。「空気さなぎ」があまりにも大ヒットし、代筆がばれないよう、喧騒から逃れるように世間から疎外された日常をふかえりと過ごす。青豆はあゆみという婦人警官と世界との疎外感を埋めるために、性の逸脱に精を出す。

謎の信仰集団の成立過程、NHK集金人、あゆみを通した婦人警官の描写。ここにきて、著者の筆は精緻を描き、詳細を語る。今までの著者の小説にはない描きっぷりである。その結果、浮かび上がってきたのが世界からの疎外感である。私などは、疎外感が本書の唯一のテーマである、と序の時点で早合点してしまったほどである。

’14/05/27-‘14/06/01


チャイナ・レイク


スティーブン・キングをはじめとして、アメリカのエンターテインメント小説の書き手には優れた方が多数いるけれど、読む本全てがハリウッド映画のようなスピード感とスリルに満ち溢れた一品かというとそうでもなくがっかりさせられることもある。ところが、本書はがっかりどころか、一気に物語の結末にたどり着かせる、いわゆる寝不足本の類である。

カルト教団に対決するヒロインというとありきたりのプロットが想像されるかもしれないけれど、二重三重にも伏線が貼ってあり人物造形も豊かなので、著者に振り回されるままに物語世界に嵌っている間に、ラストまで引っ張られるという読後感である。

本書のヒロインがSF作家という設定なのだけれど、SF作家の機械的なイメージが、本書の大半で舞台となる荒涼とした砂漠のイメージとの落差を生み、読後も作品世界に妙な後味を覚える。シリーズの続きがあるとのことだが、また読んでみたいと思える作品。

’12/1/31-’12/2/3