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昭和史のかたち


毎年この時期になると、昭和史に関する本を読むようにしている。
その中でも著者については、そのバランスのとれた史観を信頼している。
当ブログでも著者の作品は何回もとり上げてきた。

ただ、著者は昭和史を概観するテーマでいくつも本を出している。私もそのいくつ下には目を通している。概要を論じる本からは、さすがにこれ以上斬新な知見には出会えないように思う。私はそう思い、本書の新鮮さについてはあまり期待せずに読み始めた。

本書は、昭和史を概観しながら、時代の仕組みや流れを数学の図形になぞらえ、その構造がなぜ生まれたのか、その構造のどこがいびつだったのかを解き明かす試みだ。
つまり、文章だけだと理解しにくい日本の近代史と社会の構造を、数学の図形という媒体を使って、読者にわかりやすく示そうとする狙いがある。
図形を媒体として取り扱うことによって、読者は脳内に論旨をイメージしやすくなる。そして、著者を含めた数多くの識者が今まで語ってきた昭和の歪みがなぜ生じたのかの理解が促される。

図形に変換する試みは、私たちが事象を理解するためには有用だと思う。
そもそも、私たちは文章を読むと同時に頭の中でいろんな手段を用いて理解する。人によっては無意識に図形を思い浮かべ、それに文章から得たイメージを投影したほうが理解しやすいこともあるだろう。本書はそのイメージを最初から文章内に記すことによって、読者の理解を促そうという狙いがある。

私たちは昭和の教訓から、何を読み取ればいいのか。それを図形を通して頭に刻み込むことで、現代にも活かすことができるはずだ。

例えば第一章は、三角錐を使っている。
著者は昭和史を三期に分け、それぞれの時期の特色を三角錐の側面の三辺に当てはめる。
その三角錐の一面には戦前が、もう一面は占領期、残りの一面は高度経済成長の日本が当てはめられる。そして、それぞれの面を代表する政治家として、戦前は東條英機、占領期は吉田茂、高度経済成長期に田中角栄を置く。

ここに挙げられた三人に共通する要素は何か。
それは、アメリカとの関係が経歴の多くを占めていることだ。東條英機はアメリカと戦い、吉田茂は占領国であるアメリカとの折衝に奔走し、田中角栄はアメリカが絡んだロッキード事件の当事者。

三角錐である以上、底面を形作る三角形も忘れてはならない。ここにアメリカもしくは天皇を置くことで、昭和と言う激動の時代の共通項として浮かび上がってくる。
図形で考えてみると確かに面白い。
三角錐の底辺に共通項を置くことで、読者は昭和史の特徴がより具体的に理解できるのだ。
本書の狙いが見えてきた。

続いて著者は正方形を取り上げる。
具体的には、ファシズムが国民への圧迫を行う手法を、四つの柱に置き換える。
四つの柱がそれぞれ情報の一元化(大本営発表)、教育の国家主義化(軍人勅諭・戦陣訓)、弾圧立法の制定と拡大解釈(戦時下の時限立法)、官民あげての暴力(懲罰招集)に擬せられ、正方形をなすと仮定する。
その四つの辺によって国民を囲い、ファシズムに都合の良い統治を行う。
反ファシズムとは正方形の一辺を破る行為であり、それに対するファシズムを行う側は、正方形を小さく縮めて国民を圧してゆく。
当然のことながら、檻の中に飼われたい国民などいるはずもない。正方形の怖さを著者は訴える。今の右傾化する世相を憂いつつ。

続いては直線だ。
著者はイギリスの歴史家・評論家のポール・ジョンソンの評を引用する。著者が引用したそのさらに一部を引用する。
「発展を線的にとらえる意識はほとんど西洋的といってよく、点から点へ全速力で移動する。日本人は時間とその切迫性を意識しているが、これは西洋以外の文化ではほとんど例を見ないもので、このため日本の社会では活力が重視される」
著者は戦前の軍国化の流れと、池田勇人内閣による所得倍増政策と、戦後初のマイナス成長までの間を、一直線に邁進した日本として例える。まさに的を射た比喩だと思う。

続いては三角形の重心だ。
三角形を構成する三点は、天皇、統帥権、統治権になぞらえられている。
このバランスが軍の暴走によって大きく崩れたのが戦前の日本とすれば、三角形を持ち出した著者の意図は明確だ。三点の動きによっていびつになる様子が理解できるからだ。
統帥権の名のもとに天皇を利用し、なおかつ統治権を無視して暴走したのが戦前の軍部であり、軍部の動きが著者の描く三角形の形を大きく崩してゆく。
天皇を三角形の頂点にし、左下の一点だったはずの頂点が上に移動し、天皇をも差し置いて高みに登ろうとしたのが戦前のわが国。著者はそもそも三角形の上の頂点が天皇ではなく統帥権にすり替わっていたのではないか、とすらいう。不敬罪が適用されるべき対象とは、あるいは戦前の軍部なのかもしれない。

続いて著者が取り上げるのは、三段跳びだ。ここにきて数学とは離れ、スポーツの概念が登場する。
ところが、著者は戦前の若手将校の超量が飛躍していく様を三段跳びと称し、増長に増長を重ねる動きを当てはめる。
そろそろ図形のネタが尽きてきたようにも思えるが、著者はさらに虚数の概念まで持ち出す。
そもそもの思想の根幹が虚があり、それゆえに数字を乗じようと掛けようと足そうと、何物も生まれない軍部の若手将校に痛烈な皮肉を浴びせている。三段跳びも踏み板が虚無であれば飛べないのだ。

続いては球。
完全無欠の球は、坂道を転がり始めると加速度がつく。これは物理学の初歩の初歩だ。
ここで言う加速度とは、魂の速度が無限に増える事象を示す。ちょうど戦争へ向けたわが国のように。著者のいう球は日本が突入していく戦争と破滅の道の上を走る。
著者は、「昭和という時代を詳細に見ていると、意外なほどに社会に波乱が少ない。」(85p)と言う。つまり、著者に言わせれば昭和とは、完全な球のような状態だったという。だからこそいちど弾みがついた球は誰にも止めようがなく、ひたすら破滅の淵に向かって突き進んでいったのだろう。

では、球に勢いをつけるためには、どういう成果があれば良いだろうか。それは派手な緒戦の大戦果だ。真珠湾攻撃はまさにそうして望まれた。
その決断は、わずか重職にある数人が知っていたにすぎない。この大戦果によって、国のムードは一気に最高潮になり普段は理性的なはずの文士ですら、われを忘れて喜びを連呼する。
その球の内部には、何があったのか。実は何もなかった。ただ目的もなく戦争を終わらせる見通しすらないまま、何かに向かって行動しようとしていた見栄だけがあった。

転げ落ちた球はどこかでぶつかり、大きく破壊される。まさにかつての日本がそうだったように。

S字曲線。
著者が次に持ち出すS字曲線は、言論を対象とする。
S字曲線と言えば、関数のややこしい式でおなじみだ。
縦横の座標軸で区切られた四つの領域を曲がりくねったS字曲線はうねる。そして時代の表と裏を進む。戦前のオモテから戦後のウラへと。戦前のウラから戦後のオモテへと。
敗戦をきっかけにがらりと変わったわが国の思想界。著者はそれを、オモテの言論とウラの言論と言い表す。
戦後になって太平洋戦争と呼ばれるようになったが、敗戦までは大東亜戦争と称していた。その言い方の違いは、国が、戦争の大義と言い方のレトリックに過ぎない。

著者は最近、右傾化が進むわが国を歴史修正主義という言葉を使って批判する。そうした思想の論じられ方一つで、歴史の表と裏が繰り返されると言いたいかのようだ。S字曲線のように。

著者が続いて取り上げるのは座標軸だ。
座標軸とは、戦争に参加した人々が自らの戦争体験を表す場合、どのような階級、どこの組織に所属していたかによって分布を見る際の基準となる。多くの人々によって多様な戦争の体験が語られているか。それを著者は分布図を使って分析する。
例えば、後方から戦術を立案する高級将校による体験記の記述の場合、そうした現場を知らない人々が語る言葉には、実際の戦争の姿が描かれていないと批判する。
それに比べ、最前線で戦った戦士の手記が世に出ることは驚くほど少ないと著者は指摘する。
そうした不公平さも、分布図に表すと一目瞭然だ。

続いて自然数。
ここでいう自然数とは正の整数の中で、1と素数と合成数からなる数だ。
1は自分自身しか約数がない。素数は自分と1以外に約数のない数だ。合成数は約数が3つ以上からなる数だ。
つまり数を構成する要素がどれだけあるかによって、その対象を分析しようという試みだ。
多彩な要素が組み合わさった複雑な要素、つまり約数が多くあればあるほど、その要素となった数の要素は色濃く現れる。例えば、素数のように約数が少ない関係は、二国間の国民間の友好的交流がない状態と例える。逆に合成数が多い場合、二国間の国民間には、さまざまな場面での交流がある状態と例える。

多彩な交流があればあるほど、二国間の友好度は盤石なものとみなせる。
だが、素数のように要素となる数が少なければ少ないほど、政府間の交渉が決裂した途端、他に交流をつなぎ留めるものもなくなる。つまり、国交断絶状態だ。
かつての日本とアメリカの関係は、戦争の直前には素数に近い状態になっていた。今の日本と中国、日本と韓国、日本と北朝鮮の関係もそう。
この分析は、なかなか面白いと思った。
本書のほかでは見かけたことのない考えだ。ここに至って、著者の試みる国際関係や歴史を数学の概念で表す試みは、成功したと言える。

最終章は、平面座標。
ここで著者は、昭和天皇の戦争責任を題材に取り、天皇が法律的・政治的・歴史的・道義的・社会的に、どのフェーズにおいて責任があるかをマトリックスにして分析する。
責任のフェーズとは、臣民の生命を危機に陥れた、臣民に犠牲を強いた、終戦、敗戦、継戦、開戦のそれぞれを指す。
著者のこの分析は、著者の他の本でも見かけたことがある。

昭和天皇が考えていたと思われる戦争責任
法律的 政治的 歴史的 道義的 社会的
臣民の生命を危機に陥れた
臣民に犠牲を強いた
終戦
敗戦
継戦
開戦

昭和天皇が考えていたと思われる戦争責任(保阪案)
法律的 政治的 歴史的 道義的 社会的
臣民の生命を危機に陥れた
臣民に犠牲を強いた
終戦
敗戦
継戦
開戦

上記の表の通り、著者は昭和天皇に相当多くの戦争の責任があった、と考えている。
ただし、この図を見る限りでは厳しく思えるが、当初は戦争に反対していた天皇の心情はこの章の中で、著者は十分に汲み取っているのではないか。

私は個人的には昭和天皇には戦争責任はあると思う立場だ。それはもちろん直接的にではなく、道義的にだ。
もちろん、昭和天皇自身が戦争を回避したがっていた事や、消極的な立場だったことは、あまたの資料からも明らかだろう。
そこから考えると、私が思う天皇の政治責任は天皇自身が考えていたようなマトリックス、つまり上の図に近い。

読者一人一人が自らの考えを分析し、整理できるのも、本書の良さだと言える。

‘2019/9/1-2019/9/4


白洲次郎 占領を背負った男


私は常々、政治信条や人生観に対してはバランス感覚を大切にしたいと考えている。それは読書についても同様である。

本書の前に読んだ「白洲次郎の嘘」(以下前読書)は、白洲次郎という人物を量る上で、バランスに傾きがあると思わざるを得ない論旨であった。

このような時、私は対極にある立場から書かれた本を読むようにする。前読書でさんざん白洲ヨイショ本と揶揄された本書こそ、その任に相応しい。そんなわけで蔵書には加えていたが、まだ読む順番に達していなかった本書の出番となった。

著者の作品は、吉田茂元首相を題材とした「吉田茂の見た夢」を読んでいる。2年半前の読後感でも、バランスの取れた書き方をする方という印象を持った。激辛でしびれた口を癒すには、対極となる甘口のデザートよりも、平衡感覚のとれた一杯の水こそが甘露となる。

本書は激物で麻痺しかかっていた私の白洲次郎観を修正してくれた。その功績や大である。本書が単なる甘口のヨイショ本では、このしびれは元には戻らない。著者の私情に左右されない筆致は安心できる。また、本書では前読書では取り上げられなかった様々な事実が述べられている。それらの事実こそが、前読書の著者が導いた結論を次々と覆してくれた。

前読書では、白洲次郎の容貌や関係者の遺した文章を基に、白洲次郎を白洲家にあってユダヤの血が入った者としてほぼ断定し、その前提で話を進めている。また、白洲家の親族に対する白洲次郎の言及がほぼないことを根拠に、血縁の薄さを物語るとして書かれていた。

しかし、本書では、白洲家一同の写真が冒頭に掲載されている。その容貌たるや兄弟と似ているではないか。また、白洲次郎の生涯を語る上で、兄弟姉妹への言及があることも記載されている。

前読書のレビューで批判点として挙げた、著者が取材もせずに批難するのはどうか、という点。本書の著者がケンブリッジまで取材に出かけたかどうかは知らない。ただ、罵言を避け、あきらかな追従からは一線を引く端正な文章からは、そうした私情は一切立ち上ってこない。現地取材もせずに批判することとの大きな違いである。

もちろん、前読書のレビューにも書いたように、白洲次郎の裏の顔を知りたい、という欲求はある。そして、本書の筆はそこまでは及んでいない。おそらくそれは白洲次郎が生前に語っていたように、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」という事なのだろう。

武相荘の館内にも数年訪れていない。購読している武相荘だよりというメルマガによると、今春の庭はとても賑やかになりそうだとか。家の主人がどのような営みをしようと、庭の花々は季節の移ろいを正直に映し出す。白洲次郎の未だ知られていない謎解きは、これからの歴史家に委ねるとして、彼という一人の男が丹精込めて作り上げた庭は、彼の人生を物語ってくれるはずである。

’14/3/8-’14/3/9


白洲次郎の嘘 日本の属国化を背負った「売国者ジョン」


普段、あまり新刊本を購入しない私だが、前のレビューの「横浜の戦国武士たち」と本書、そして2つ後にレビューする予定の本については、珍しく3冊まとめて購入した。

なぜ3冊もまとめて買ったかというと、本書の題名に惹きつけられ、残りの2冊もその勢いで、というのがホントウのところである。

阪神間で育ち、町田市に住まう私。著名人で同様な転居をした方となると、遠藤周作氏と白洲次郎氏が挙げられる。同郷の士として親しみを感じていた私は、数年前、白洲次郎氏の名前が脚光を浴び始めた頃、自宅近くにある武相荘に足を運んでみたことがある。武相荘には、白洲次郎氏の辣腕ぶりを示す資料はそれほど残っておらず、どちらかというと文化人としての白洲正子氏や次郎氏の粋を集めた、静かな余生の場、という印象が強い。

吉田元首相の懐刀としてGHQと丁々発止と渡り合ったエピソードの数々。政治の世界から一線を引いて以後の、プリンシプルを大事にした多様な逸話。だが、私は美化された聖人の伝記よりも、清濁併せ持った人間像に惹かれる者である。あれだけの存在感を見せつけたにも関わらず、経済人としての白洲氏からは、余生としての人生しか感じられない。理事長や会長といった名誉職を渡り歩く経歴からは、前半生の勢いはどこへやらといった、枯れた諦念すら見え隠れする。果たして、それが新憲法制定に際してGHQとの折衝で燃え尽きた結果なのか、それとも、なにか裏の顔があったのか。その興味が本書の題名と結びつき、購入を決断させた。

著者については初めて耳にする。その筆致も持論も知らない。なのでサブタイトルの「日本の属国化を背負った「売国者ジョン」」。帯にある「「日本のプリンシプル」の虚言と我欲に塗れた実像」「誰がどんな思惑で、このウソツキ野郎を礼賛するのか」。そんなドギツイ文句が、果たして能書きだけなのかどうか知らぬままにページを繰った。

結論からいうと、能書き通りであった。序文で著者はこう述べている。「白洲次郎を書きながら、申し訳ないと思いつつ乱暴な表現を繰り返してきた。これは、ただ、ただ、歴史の真実を知りたいためであり、他意はない」。私は序文のこの言葉を信じて本文に入った。

しかし、残念ながら、序文の言葉を知った上でも、そうとは思えない部分が多々あった。

批判的な伝記を書く際は猶更のことだが、徹底した調査と、その証拠の開示は最低限必要である。しかし、本書からは、既存の書籍からの引用から、著者の膨らませた想像に基づいた断定があまりにも多い。しかもその書籍は本書では「白洲ヨイショ本」という名前で何度も紹介されている。例え良い面しか見ていないとしても、先人の調査結果に基づいた批判を行う以上は、引用元には最低限の敬意を払うべきではないだろうか。

批判に正当性を持たせようとするのであれば、猶の事、証拠を積み重ね、文体や表現に頼らずに証拠で以って対象者を批判すべきである。それ反し、本書は表現に頼りすぎているきらいがある。残念でならない。

本書で書かれている白洲次郎陰謀論として、一番大きな前提として依っているのが、白洲次郎氏とユダヤ資本の結託、いわゆるユダヤ陰謀論の一種である。それも、白洲次郎氏が父・文平氏とユダヤ商人(ジャーディン・マセソン社の経営者ケズウィック氏)の一族の娘との子供ということをほぼ断定する。しかし、その証拠は過去書籍の引用の数々からの拾い集めである。容姿については日本人離れしていたとあるが、白洲家一同の写真を見る限りは次郎氏は他の兄弟に似ている。つまり兄弟全員がユダヤの血を引くことになるが、その点はどう説明するのであろうか。

その前提を元に、日本を第二次世界大戦で敗北へ導き、日本を支配しようとするユダヤ資本の操り人形として白洲次郎氏を書こうとしている。しかし、前提が弱いため、その後の論旨の展開にも
説得力が感じられなかった。

ケンブリッジを卒業したかどうかについても、先人の研究結果を引用しているが、ここは著者自らが現地に赴いた上で書くべき部分ではなかろうか。そのあたりの実地調査がもう少しされていて、表現に頼らず、積み重ねた証拠でもって白洲次郎氏を批判しているのであれば、まだ良かったのだが・・・

本書で批判される白洲次郎氏の経歴は幅広いものがある。また、吉田元首相を始め、義父である樺山愛輔氏、近衛元首相のブレーンであった牛場友彦氏など、本書で売国奴とされている方々は多い。昭和天皇でさえも。その取り上げられる範囲の広さは、本書の特筆すべき点かもしれない。白洲次郎氏が登場する歴史のエピソード全てに嘘の断定をしていくのだから、大したものである。

だが、反対から本書を捉えてみると、それだけ白洲次郎氏の活動範囲が広かったことを示している。それは本書の功績である。無論、白洲次郎氏が戦後の日本を救った英雄で、私心なく国に全てを捧げた清廉潔白の士、とは私も思わない。今までに出版された書籍にはダーティーな部分の調査が及ばず、書かれなかったことも多いと思われる。

しかし、美化してはならないが、証拠もなしに侮蔑するのは問題である。例えば白洲家の関係者の方は、白洲次郎氏のDNA鑑定なりなんなりを行い、謂われなき誹謗中傷であるなら、それに反駁して欲しいと思う。本書が挙げた問題提起に対する回答を怠り、無視するのはあまりよい解決策とは思われない。

序文には著者はこうも書いている。「あらゆる非難の声は真正面から受ける。決して逃げ隠れはしない」。私は本書で挙げられた論旨には反対するが、著者が私利を目的として本書を上梓したとは思わない。その読書量には敬意を表する。

’14/3/5-’14/3/7


昭和史七つの謎〈part2〉


歴史に対するバランス感覚を大切にする著者の歴史観を支持する私は、本書を読んでもその期待が裏切られないことに安心しつつページをめくった。

本書では「東条英機に利用されたゾルゲ事件」「明かされる「大本営発表」の歪みと嘘」「「陸軍中野学校」の真の姿をさぐる」「吉田茂が描いた国家像とは?」「昭和天皇に戦争責任はあるか」「「A級戦犯」は戦後なぜ復権したか」「田中角栄は自覚せざる社会主義者か」という魅力的な題材が並んでおり、各章のタイトルだけで興味が湧くのを抑えられなくなる。

特に「昭和天皇に戦争責任はあるか」については、昭和史を語る上で外せない論点で、ここでも著者のバランス感覚は冴えわたり、マトリクス状にして色んな角度から分析している事には感嘆。善悪二元論などとはすでに次元が違うその姿勢といい、著者のバランス感覚を保つ秘密を垣間見られた気がした。

他の章もそれぞれに魅力的なのだけど「「陸軍中野学校」の真の姿をさぐる」もよかった。情報戦に圧倒的な力で負かされたという思い込みがある第二次大戦の我が国だけれど、実は局地戦では健闘した人々がいてそれらが中野学校出身者というのが、実は一般社会よりも学歴偏重が強い軍の矛盾を表しているようで興味深かった。

「吉田茂が描いた国家像とは?」なども、今の政治の混迷を脱するヒントが隠れているようで興味深い。

こうやってそれぞれの章ごとに戦争やその当時の日本を描いているように見えても、実は日本人とは何かという一本の筋で貫かれているため、読んで考えるべき点の多い本である。

’12/1/19-’12/1/20