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息吹


私が書店でSFの新刊本を、しかもハードカバーで購入するのは初めてかもしれない。
本書はその中でお勧めされていたので購入した。
とてもよりすぐりの九編が続く本書は、二度読んだほうが良さそうだ。
特に、一度目を読むタイミングが集中できない環境にあった場合は。

私も本稿を書くにあたってざっと斜め読みした。
すると、本書の奥深さをより理解できた。

「商人と錬金術師の門」
本編を一言で表すとタイムワープものだ。
だが、その舞台は新鮮だ。アラビアン・ナイトの千夜一夜物語を思わせるような、バグダッドとカイロを舞台にした時空の旅。
とある小道具屋に立ち寄った主人公は、時間をさかのぼることができる不思議な門を店主のバシャラートに見せられる。右から入ると未来へ、左から潜ると過去へ進める。
この機構は論理的に現代物理学の範疇で可能らしい。
この門に関する複数のエピソードがバシャラートから語られ、それに魅入られた主人公は自らも旅を決意する。

ここで語っているのは、未来も過去も同じ人の運命という概念だ。今までのタイムワープもので定番になっていた設定は、過去を変えると未来が変わり、変わったことで新たな時間の線が続く。行為によって新たな時間線ができることによってストーリーの可能性が広がる。だから、登場人物は過去にさかのぼって未来を変えようとする。
だが、本編では未来は過去の延長にある。つまり、従来のタイムワープものの設定に乗っかっていない。それが逆に新鮮で印象に残る。

卵が先か、鶏が先か。わからない。だが、人は結局、宿命に縛られる。ある視点ではそのような閉塞感を感じる一編だ。
だが、その閉塞感は、自分の努力を否定するものではない。それもまた、人生を描く一つの視点だ。それが本編の余韻となっている。

「息吹」
並行宇宙。そして平衡状態になると終わるとされる宇宙。二つの「へいこう」をテーマにしているのが本編だ。
本編は、地球とはどこか別の場所、または時代が舞台だ。未知の存在の生命体、もしくは機械体が自らの存在する宇宙の終わりを予感する物語だ。
空気の流れが平衡状態になりつつあることにより、生命を駆動する動力が失われる。それを回避し、食い止めようと努力する語り手は人ではない。それどころか、現代のこの星の存在ですらない。

限られた紙数であるにもかかわらず、平衡に向かう宇宙のマクロと、自らを解剖する語り手のミクロな描写を平行で書くあたりが良かった。一つの短編の中でマクロとミクロを同時に書き記す離れ業。それが本編の凄さである。

「予期される未来」
わずかな紙数の本編。
未来を予測できる機械が行き渡ったことで、自由意志を否定されたと自らで動くことをやめた人々。そのようなディストピアの世界を描いている。

本編は、一年ちょっと先の未来からメッセージを送ってきた存在が語り手となっている。その存在は、決定論を受け入れた上で、嘘と自己欺瞞で乗り切れとアドバイスを送る。その冷徹な現実認識を決定論として認めなければならない。強烈なメッセージだ。

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」
本編を読んでいると、AIBOやファービー、またはたまごっちなどの育てゲームを思い出す。どれも数年でブームを終えている。

本編にはディジエントという人工知能を有したペットのような存在が登場する。それらは動物の代替のペットとして人々に受け入れられた。だが、育てるのは難しく、飼い主の手を煩わせる。人々は飼いならせなくなったティジェントを手放し、運営する会社は廃業する。
たが、一部の人々は、手元に残されたディジエントを育てようと努力する。同じ保護者同士でコミュニティを作り、ディジエントとの共生やディジエントの自立に向けて模索する。本編はディジエントの保護者である主人公の葛藤が描かれる。ディジエントを世の中に適応させるにはどうすればよいか。

保護者がディジエントに気をもむ様子は、通常の子育てやペットの飼い主とは違う。まるで障害を抱えた子供を持つ親のようにも思える。通常の子育てと違った難しさが、本書に人間やペットと違う何かを育てることの困難さを予言している。

ディジエントに法人格を持たせることや、ディジエント同士のセックスなど微妙な問題にまで話を膨らませている。
私たちもそのうち、高度なAIと共生することもあるだろう。その時、倫理的・感情的な問題とどう折り合うのだろう。予言に満ちた一編だ。

「デイシー式全自動ナニー」
20世紀初頭に発明されたとする当時の産物のナニー(ベビーシッター)。当時にあって新奇な技術が人々から見放されていく様子を研究論文の体裁をとって描いているのが本編だ。

全自動の存在に人の成長を委ねることのリスク。本編は、現代から考えると昔の技術を扱っている。だが、ここで書かれているのは間違いなく未来の技術信仰への疑問だ。
私たちは今、人工知能に人類のあらゆる判断を委ねようとしている。そこから考えられる著者のメッセージは明白だ。

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」
本編は人の生活のあらゆる面を記録するライフログがテーマだ。
私もライフログについては本のレビューを書いたこともあるし、自分なりの考えをブログにアップしたこともある。

人々は、自らの記憶があやふやであることに救われている。あやふやな記憶によって、人間関係はあいまいに成り立っている。そのあいまいさがある時は人を救い、ある時は人を悩ませる。
リメンという機械によって、ライフログが当たり前になった未来。人々は、リメンによって自分の過ちに気づく。本編の登場人物である親子の関係と二人の間にある記憶の食い違いが強制的に正されていく。

本編が優れているのは、もう一つ別の物語を並行で描いていることだ。ティブ族と言うどこかの部族が、口承で伝えられてきた部族の歴史が、文字や紙によってなり変わられていく痛みを書いている。古い文化から新しい文化へ。そこで起こる文化の変容。それは人類が新たなツールを発明してきた度に引き受けてきた痛みそのものだ。痛みとは、自分が誤っていたと気づくこと。自分が正しくなかったことではなく。

「大いなる沈黙」
本書の末尾には、著者自身による創作ノートのようなものが付されている。それによると本編は、もともと映像作品を補足するスクリプトとして表示していたテキストだったと言う。それを短編小説として独自に抜き出したものが本編だ。
フェルミのパラドックスとは、なぜ宇宙が静かなのかと言う謎への答えだ。宇宙に進出する前に絶滅してしまう種族が多いため、宇宙はこれだけ静かとのパラドックスだ。

「オムファロス」
進化論と考古学。
アメリカではいまだに、この世は創造主によって創造されたことを信じる人がいると言う。それもたくさん。

彼らにとっては人類こそが宇宙で唯一の存在なのだろう。彼らが仮定した創造主とは、私たちにとって絶対的な上位の存在だ。それは同時に、私たち自身が絶対的な存在だと仮定した前提がある。もちろん、この広大な宇宙の中で太陽系などほんの一握りですらない。チリよりも細かいミクロの存在だ。全体の中で人類の位置を客観的に示すことこそ、本編の目的だとも言える。

「不安は自由のめまい」
プリズムと言う機械を起動する。その時点から時間軸は二つに分岐する。分岐した側の世界と量子レベルで通信ができるようになった世界。本編はそのような設定だ。
別の可能性の自分と通信ができる。このような斬新なアイディアによって書かれた本編はとても興味深い。周りを見渡して自分の人生に後悔がない人などいるだろうか。自分が失ったであろう可能性と話す。それはある人によっては麻薬にも等しい効果がある。常に後悔の中に生きる人間の弱さとそこにつけ込む技術。考えさせられる。

‘2020/06/08-2020/06/13


七日間ブックカバーチャレンジ-FACTFULLNESS


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day1 「FACTFULLNESS」

情報親方こと、PolarisInfotech社の東野誠( @hmakkoh )さんからバトンを預かり、本日から「7日間ブックカバーチャレンジ」に参加させていただきます。
よろしくお願いします。 ※Facebookに記載した投稿をこちらに転載しています。

情報親方が最終日に挙げてくださった「kintone導入ガイドブック」は、表現の妙味が詰まった素晴らしい一冊です。
私はkintoneエバンジェリストを5年近く拝命しております。どの案件でも最初の打ち合わせで、kintoneの概要を説明する際には力を入れています。ここがずれていると、そのプロジェクトは頓挫するからです。
この導入ガイドブックはお互いの認識を一致させる上で助けになる一冊です。

私もゆくゆくは、こうした紙の出版物で自分の生きた証を世に問わねばならないと考えています。
そもそも、私は外出時に必ず一冊以上の本を携えないと、落ち着かない人です。書痴という言葉がふさわしいぐらいに。
弊社ブログに本のレビューをアップしていることも、私の生きた証を残さんとする活動の一環です。
そんなわけで、好きな本は七冊ではとても収まりません。なので、ジャンルごとに一冊ずつあげていこうと思っています。

Day1で取り上げるのは「FACTFULLNESS」です。昨年、ベストセラーになりましたよね。

今、コロナを巡っては連日、さまざまな投稿が花を咲かせています。
その中には怪しげな療法も含まれていましたし、私利私欲がモロ見えな転売屋による投稿もありました。
また、陰謀論のたぐいが盛んにさえずられているのは皆様もご存じの通りです。

私はFacebookでもTwitterでも、そうした情報を安易にシェアしたりリツイートすることを厳に謹んでいます。なぜなら、自分がその道に疎いからです。
それにもかかわらず、四十も半ばになった今、自分には知識がある、と思い込んでしまう誘惑に負けそうになります。
それは、私のように会社を経営し、上司がいない身であればなおさらです。
独りよがりになり、チェックもされないままの誤った情報を発信してしまう愚は避けたいものです。

本書は、私に自分の無知を教えてくれました。私が世界の何物をも知らない事を。

著者は冒頭で読者に向けて13問の三択クイズを出します。私はこのうち12問を間違えました。
著者は世界各地で開かれる著名な会議でも、出席者に対して同様の問いを出しているそうです。いずれも、正答率は低いそうです。

本書の問いが教えてくれる重要なこと。それは、経歴や学歴に関係なく、思い込みで誤った答えを出してしまうことです。
著者によれば、全ては思い込みの産物であり、小中高で学んだ知識をその後の人生でアップデートしていないからだそうです。
つまり学校で真面目に学んだ人ほど、間違いを起こしやすい、ということを意味しています。(私が真面目だったかはさておき😅)

また著者は、人の思考には思い込ませる癖があり、その本能を拭い去るのは難しいとも説いています。

本書で説いているのは、本能によって誤りに陥りやすい癖を知り、元となるデータに当たることの重要性です。
同時に著者の主張からは、考えが誤りやすいからといって、世の中に対して無関心になるなかれ、という点も読み取れます。

本書はとても学びになる本です。少しでも多くの人に本書を読んでほしいと思います。
コロナで逼塞を余儀なくされている今だからこそ。
陰謀論を始め、怪しげな言説に惑わされないためにも。

それでは皆さんまた明日!
※毎日バトンを渡すこともあるようですが、私は適当に渡すつもりです。事前に了解を取ったうえで。
なお、私は今までこうしたチャレンジには距離を置いていました。ですが、このチャレンジは参加する意義があると感じたので、参加させていただいております。
もしご興味がある方はDMをもらえればバトンをお渡しします。

「FACTFULLNESS」
単行本
日本語版(ソフトカバー): 400ページ
ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド (著)、上杉周作、関美和 (訳)、日経BP社 (2019/1/15出版)
ISBN978-4-8222-8960-7

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「?」
Day3 「?」
Day4 「?」
Day5 「?」
Day6 「?」
Day7 「?」

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする
#7日間ブックカバーチャレンジ #FACTFULLNESS


球体の蛇


17歳と言えば、男にとってはいろいろな悩み多き年だ。
性の問題もそう。これからの人生をどう生きるかということもそう。

本書は、17歳の迷いに満ちた友彦の物語だ。
友彦は、若さゆえの過ちと勘違いからさまざまな人々に取り返しのつかない事をしてしまう。
その過ちとは、人の密やかな営みを覗き見る衝動である。その勘違いとは、人の心を傷つける言動のことだ。
軽率な思い込みが、どのような運命を人々に与えるのか。そしてその勘違いと苦しみに人はどれぐらいの期間、引きずられていくのか。
過去の過ちをその後の人生に活かす人もいれば、一生を棒に振ってしまう人もいる。

本書はそのような友彦の過ちと勘違いを描いている。

本書には、家族に対する歪んだ前提がある。
友彦の母は、父が極度に家庭に対して無関心な態度に嫌気が差し、家を出る。
しかも父は主人公に対しても愛情を注がない。
父は東京に転勤になったことをきっかけに、友彦にも東京に来ないかと誘う。だが、父の誘いが上辺だけに過ぎないと見切った友彦はその誘いを拒む。
その結果、友彦が居候することになったのが、シロアリ防除をなりわいとする乙太郎の家だ。その家には乙太郎と娘のナオが住んでいた。

その乙太郎の一家はかつての過ちである、とある事件が原因となって母の逸子さんと姉のサヨをなくしている。
姉のサヨは幼い頃から友彦にとって憧れの対象だった。そして、心の底で何を考えているか伺い知れない人物だった。
幼い頃からサヨのずる賢い心根を知ってしまった友彦には、サヨの裏の顔もまた、怖さであり魅力でもあった。
そんな乙太郎の家族の悲劇の出来事に、友彦は深く関わっている。ただし、姉のサヨが抱えていた秘密は友彦しか知らない。

友彦は居候のまま、乙太郎のシロアリ防除の仕事をアルバイトで手伝っている。
シロアリ防蟻の仕事はシロアリを見つけ、訪問して駆除する作業が主だ。街でもひときわ目立つ大きな家に訪問した際、友彦は亡くなったはずのサヨにそっくりの女性を見かける。

その女性は、その家に住んでいないようだ。おそらく、その家の主人に囲われた、人目を忍ぶ立場にあるらしい。
それを知った友彦は、あろうことかシロアリ防除の営業で訪れた際に知った床下のルートをたどり、夜中に忍び込む。そして、床下から二人の秘め事を息をひそめて聴き入る悪癖に手を染めてしまう。
17歳の性の好奇心は、友彦から理性を奪ってしまう。

友彦の耳に飛び込んで来るのは、行為の終わった後に女性から漏れてくる忍び泣き。
好奇心が募り、女性にも並々ならぬ関心を抱く友彦。
ところがある日、友彦が床下に忍んでいるタイミングでその家から不審火がおこり、家が全焼する。そして主人が焼死体で見つかる。
その火事は女性にとっても友彦にとっても晴天のへきれきだったはず。

火事からしばらく後、友彦はその女性智子と街の中で出会う。
その出会いからさらに運命の糸がもつれ合ってゆく。
体の関係はないにもかかわらず、智子の家に通う友彦。ところがその智子はほかにも秘密を持っているらしい。
そもそも火事の原因は何なのか。そうした秘密が二人の間に無言で横たわっている。その事を智子に問いただせないまま、友彦は疑いを抱き続ける。

そうした友彦のただれたように見える関係がナオにとっては許せない。
乙太郎の家でも緊張が徐々に高まりを見せていく。
さらに、母の逸子さんと姉のサヨさんが亡くなった過去が蘇ってくる。
友彦は煩悶し、結局、高校を卒業したことを機会に上京し、乙太郎の家を離れる。そして大学の近くで下宿生活を始める。
上京によって友彦は新たな環境になじみ、それなりの生活を始める。
ところが過去の思い出は友彦を運命へと導いていく。過去に苦しみ、それがさらなる運命へと友彦を追いやる。

過去の謎と火事の謎。それらは全て勘違いとすれ違いの産物だった。
一体、何が起こったのか。乙太郎の家と友彦の家。
あらゆる過去の出来事がしがらみとなって友彦を縛る。

人は神ではない。すべての事情を知ることは不可能だ。相手の心を推し量ることも出来ない。
しかし、刹那の衝動から起こった人の行動は、取り返しの付かない結果を巻き起こす。
相手の心がわからない。それがすれ違いを生み、そのすれ違いが事態をますます混乱させてゆく。人の生死を左右するまで。
人の振る舞いはその時の状態とタイミングによって、取り返しのつかない傷を相手に与えることができる。

過去の誤りにも関わらず、人生は続く。
その過ちを時間がどうやって癒やすのか。そもそも、人は過去の過ちをいつまで引きずらねばならないのか。
若さゆえの罪が、将来の人生において足かせでなくなるのはいつか。

これを書く私自身、取り返しのつかないミスを今までに何度もしでかした。
多分、敏感な心の持ち主にとっては、日夜苛まれるレベルのミスだろう。
主人公と同じような苦しみに染まってしまったこともあった。鬱に落ちたこともあった。
だからこそ本書で描かれる世界は、私にとって切実だった。

それは私だけでない。すべての青年期を潜り抜けた人にとって、本書で描かれるテーマは切実な問題だったはずだ。
だから、本書を読むと重苦しい思いにとらわれる。
だが、ある程度の人生をへた人にとっては、そうした苦さこそが人生に濃淡や深みを与えることも理解しているだろう。
さらに若い人にとっては、今の自分がまきこまれている人生の難しさが、将来には糧となるはず、と本書を読むことで救いなるかもしれない。
喜怒哀楽がすべてない交ぜになった人生が球であり、抗いきれない衝動が時折、蛇となって人生を操ってしまう。生きることとは、そうした営みなのだ。

本書の結末は、それまでの嵐のような展開が落ち着くべきところに落ち着いておわる。
だがそれは、ある意味では怖い結末でもある。
この結末をハッピーエンドと見るか、それとも人生という救い難い苦行の象徴とみるか。
人生とは希望にも満ちたものである一方、苦悩の連続でもある。

‘2019/02/26-2019/02/27


僕が本当に若かった頃


老境に入った著者が過去の自分を思い返しつつ、そこから生まれた随想を文章にしたためる。
本書を一言で言い表すとこのようになる。

本書に収められた十の短編をレビューにまとめることは、正直言ってなかなか難解だ。

なぜなら、本編には、著者自身の人生を彩った出来事が登場し、著者の親族も登場し、そして著者が今までに発表した作品の登場人物が登場するからだ。

著者の代表作である『同時代ゲーム』はよく知られている。その世界観が著者が生まれ育った四国の山奥の村をモチーフとされていることも。
そうした作品に登場する人物は、著者の人生にも登場する人物でもある。そうした人物が本書にはあちこちで登場する。だから、著者の作品を読んでいないと読者には何のことか分からなくなってしまうのだ。

「火をめぐらす鳥」
この一編は、著者の生涯を持って生まれた息子との日々を描いている。
今や作曲家として著名な光氏と過ごした時間は、著者にどのような影響を与えたのか。
その一端が描かれる本編からは、光氏の存在が著者の作家活動に大きな影響を与えたことが見て取れる。

「「涙を流す人」の楡」
華やかな外交官との交流を語る内容が一転して、著者の育った四国の山奥の谷間の村の描写へと変わる。
その二者を繋ぐイメージがニレの木だ。楡を通して結びついた二つの世界。

その二つの世界の主人公である著者は時間によって隔てられている。
百戦錬磨の外交官との談論ができるようになった、と著者が感慨をもつ今。そして、四国の谷間の村の幼い頃の経験。
著者の育った谷間の村の狭いけれど豊かな世界が授けてくれたことは、著者の今と確かにつながっている。
その谷間の村の経験は、著者の作家活動にも大きな恵みをもたらしてくれた。そう著者は振り返る。

そしてそうした自分にさらなる成熟がもたらされたのも、外交官との交流があったからだと著者は述べる。
N大使の逝去に際して書かれたと思われる本編で、著者は今の自分の心で過去を再構成する。

それにしても著者の文章の読みにくさといったら!

「宇宙大の「雨の木」」
時間と空間をつらぬいて遍在する「不死の人」。
不死の人を小説に書きたいと願う著者が、文学の影響や好みを自由自在に語る。
三島由紀夫を批判し、フォークナーの作品世界を好む著者。
著者の探し求めるイメージの断片がさまざまに現れる。

“雨の木”は著者の作品でも登場する。
著者が想起する多様なシンボルが本編のように混交して現れることで、著者の小説の基本的なイメージが形をなしてゆく様子をうかがうことができる。

「夢の師匠」
谷間の村の「夢を読む人」と「夢を見る人」を見て育った著者の子供の頃の記憶。
彼らが戦争によって境遇を変えられてしまう様子は、著者に強い印象を刻む。
そのイメージを通し、続いての「治療塔」の構想へとまとまってゆくいきさつを記した一編だ。

平田篤胤全集の「仙童寅吉」の話と、ゲルショム・ショーレムの「ユダヤ神秘主義」に書かれた中世ヨーロッパの祈禱神秘主義をめぐる引用。
それらに刺激を受けたという著者がそれらを引用しつつ、SFへとイメージを広げてゆく。

「治療塔」
著者にとって珍しいと思われるSF作品。
筒井康隆氏と著者の交流は知られているが、本編は筒井氏の影響から生まれたのだろうか。
古い地球を見捨てる人類と、古い地球に留まり続ける人類。
新しい人類にならんとする人々は、治療塔で癒やされる。
著者にとって、人類や地球は理想の姿ではないだろう。ところが治療塔の概念は、人類が自ら根本的に成長を遂げることを諦めてしまっているかのようだ。
それは著者自身の諦めの表れなのだろうか。『治療塔』はまだ読んでいないので、機会があれば読んでみたいと思う。

「ベラックワの十年」
ダンテの「神曲」をモチーフにした著者の作品『懐かしい年への手紙』に登場させなかった道化者のべラックワ。

その姿を振り返りながら、自らの中の道化の部分や放埒さを思い起こそうとする一編だ。
本書の中では読みやすい部類に入る。

ノーベル賞を受賞し、難解と言われる作風のため、著者に近づきがたい印象を受けているのなら、本編で書かれた著者の姿から印象が変わるかもしれない。

「マルゴ公妃のかくしつきスカート」
性的に放縦だったとされるマルゴ公妃の生涯を振り返るテレビ番組をきっかけに、ある人物の放縦と性的な自由さを探ってゆく一編。

著者の思索の対象はマルゴ公妃だけではない。テレビ局のスタッフである篠君の言動も著者の興味を引く。その二人を通して、著者は人の自由さとは何かについて考えを深めてゆく。

著者にとって冒険とは文学的なそれに等しいと思う。だが、著者は自由で羽目を外した行いをする人物には見えない。きっと堅実だったと思う。動くよりも見る側の人。
その証拠に以下のような文章が登場する。
「事実、小説家は志賀、井伏といった例外的な「眼の人」をのぞいて、見る瞬間にではなく、文章を書き、書きなおしつつ、かつて見たものをなぞる過程でしだいに独特なものを作ってゆくのだ。」(202p)

「僕が本当に若かった頃」
著者が20歳の頃、家庭教師をしていた繁君。ひょんなことで繁君の消息がわかったことから、著者が当時のことを思い出し、つづってゆく一編。
まさに著者が若かった頃の話だ。

かつて著者の前から消息を絶った繁君に何が起こったのか。繁君はその理由を長文の手紙で知らせてくる。
本編に載っているその手紙は果たして著者の創作なのか。それとも繁くんの実際の手紙なのか。私にはわからない。

繁君の秘密が明かされてゆく様は本編は、ミステリーを読んでいる気分になる。

「茱萸の木の教え・序」
著者の故郷の四国から、孝子ことタカチャンの残した文書やその他の事績をまとめる段ボールが送られてきたことから始まる一編。
孝子とは、著者の従妹にあたる。起伏の多い人生を送った末、亡くなった。
著者の伯父がその一生をまとめたいと、作家である著者に託す意図で送ってきた資料の数々。

著者はタカチャンの思い出を振り返る。その中で著者は故郷で繁っていた茱萸の木に着目する。タカチャンの残した文の中でもいく度か取り上げられる茱萸の木。
伐採されてしまった茱萸の木に語りかけていたタカチャンの思いは何か。それを探りながら著者はタカチャンの一生をつづってゆく。

そうすることで著者なりに同時代を生きたタカチャンの鎮魂を果たそうとするかのように。

「著者から読者へ」
これは本書に収められた「僕が本当に若かった頃」を書いた著者から読者に向けての手紙の体裁をとっている。
著者にとっては「僕が本当に若かった頃」は、旅の疲れを癒やす作品でもあったようだ。

解説の井口時男氏の文章は、大江健三郎という巨大な作家の著作群の中で、本書が占める意味を克明に記している。
その中で本書のいくつかで登場した若い頃の著者=僕の出来事は、徹底的に言語化された「僕」というテキストになっていることが示される。つまり、本書は私小説ではないし、エッセイもどきの小説でもない。
本書は著者がその小説技法を存分に生かした巧妙な短編群なのだ。

‘2018/11/20-2018/11/28


74回目の終戦記念日に思う


74回目の8/15である今日は、今上天皇になって初めての終戦記念日です。令和から見たあの夏はさらに遠ざかっていきつつあります。一世一元の制が定められた今、昭和との間に平成が挟まったことで、74年という数字以上に隔世の感が増したように思います。

ところが、それだけの年月を隔てた今、お隣の韓国との関係は戦後の数十年で最悪の状況に陥っています。あの時に受けた仕打ちは決して忘れまい、恨みの火を絶やすなかれ、と燃料をくべるように文大統領は反日の姿勢を明確にし続けています。とても残念であり、強いもどかしさを感じます。

私は外交の専門家でも国際法の専門家でもありません。ましてや歴史の専門家でもありません。今の日韓関係について、あまたのオピニオン誌や新聞やブログで専門家たちが語っている内容に比べると、素人である私が以下に書く内容は、吹けば飛ぶような塵にすぎません。

私の知識は足りない。それを認めた上でもなお、一市民に過ぎない私の想いと姿勢は世の中に書いておきたい。そう思ってこの文章をしたためます。

私が言いたいことは大きく分けて三つです。
1.フェイクニュースに振り回されないよう、歴史を学ぶ。
2.人間は過ちを犯す生き物だと達観する。
3.以徳報怨の精神を持つ。

歴史を学ぶ、とはどういうことか。とにかくたくさんの事実を知ることです。もちろん世の中にはプロパガンダを目的とした書がたくさん出回っています。フェイクニュースは言うまでもなく。ですから、なるべく論調の違う出版社や新聞を読むとよいのではないでしょうか。産経新聞、朝日新聞、岩波書店、NHKだけでなく、韓国、中国の各紙の日本版ニュースや、TimesやNewsweekといった諸国の雑誌まで。時にはWikipediaも参照しつつ。

完璧なバランスを保った知識というのはありえません。ですが、あるニュースを見たら、反対側の意見も参照してみる。それだけで、自分の心が盲信に陥る危険からある程度は逃れられるはずです。時代と場所と立場が違えば、考えも違う。加害者には決して被害者の心は分からないし、逆もまたしかり。論壇で生計を立てる方は自分の旗幟を鮮明にしないと飯が食えませんから、一度主張した意見はそうそう収められません。それを踏まえて識者の意見を読んでいけば、バランスの取れた意見が自分の中に保てると思います。

歴史を学んでいくと、人間の犯した過ちが見えてきます。南京大虐殺の犠牲者数の多寡はともかく、旧日本軍が南京で数万人を虐殺したことは否定しにくいでしょう。一方で陸海軍に限らず、異国の民衆を助けようとした日本の軍人がいたことも史実に残されています。国民党軍、共産党軍が、民衆が、ソビエト軍が日本の民衆を虐殺した史実も否定できません。ドレスデンの空襲ではドイツの民衆が何万人も死に、カティンの森では一方的にポーランドの人々が虐殺され、ホロコーストではさらに無数の死がユダヤの民を覆いました。ヒロシマ・ナガサキの原爆で被爆した方々、日本各地の空襲で犠牲になった方の無念はいうまでもありません。中国の方や朝鮮の方、アメリカやソ連の人々の中には人道的な行いをした方もいたし、日本軍の行いによって一生消えない傷を負った方もたくさんいたはず。

歴史を学ぶとは、人類の愚かさと殺戮の歴史を学ぶことです。近代史をひもとくまでもなく、古来からジェノサイドは絶えませんでした。宗教の名の下に人は殺し合いを重ね、無慈悲な君主のさじ加減一つで国や村はいとも簡単に消滅してきました。その都度、数万から数百万の命が不条理に絶たれてきたのです。全ては、人間の愚かさ。そして争いの中で起きた狂気の振る舞いの結果です。こう書いている私だっていざ戦争となり徴兵されれば、軍隊の規律の中で引き金を引くことでしょう。自分の死を逃れるためには、本能で相手を殺すことも躊躇しないかもしれません。私を含め、人間とはしょせん愚かな生き物にすぎないのですから。その刹那の立場に応じて誰がどのように振舞うかなど、制御のしようがありません。いわんや、過去のどの民族だけが良い悪いといったところで、何も解決しません。

それを踏まえると、蒋介石が戦後の日本に対して語ったとされる「以徳報怨 」の精神を顧みることの重みが見えてきます。

「怨みに報いるに徳を以てす」という老子の一節から取られたとされるこの言葉。先日も横浜の伊勢山皇大神宮で蒋介石の顕彰碑に刻まれているのを見ました。一説では、蒋介石が語ったとされるこの言葉も、台湾に追い込まれた国民党が日本を味方につけるために流布されたということです。実際、私が戦後50年目の節目に訪れた台湾では、日本軍の向井少尉と野田少尉が百人斬りを競った有名な新聞記事が掲げられていました。台湾を一周した先々で、人々が示す日本への親しみに触れていただけに、国の姿勢のどこかに戦時中の恨みが脈々と受け継がれていることに、寒々とした矛盾を感じたものです。先日訪れた台湾では、中正紀念堂で蒋介石を顕彰する展示を見学しましたが、そうした矛盾はきれいに拭い去られていました。

でも、出所がどうであれ、「以徳報怨」の言葉が示す精神は、有効だと思うのです。この言葉こそが、今の混沌とした日韓関係を正してくれるのではないでしょうか。人間である以上、お互いが過ちを犯す。日本もかつて韓国に対し、過ちを犯した。一方で韓国も今、ベトナム戦争時に起こしたとされるライダイハン問題が蒸し返され、矛盾を諸外国から指摘されています。結局、恨むだけでは何も解決しない。相手に対してどこまでも謝罪を求め続けても、何度謝られても、個人が被った恨みは永遠に消えないと思うのです。

外交や国際法の観点から、韓国の大法院が下した徴用工判決が妥当なのかどうか、私にはわかりません。でも、日韓基本条約は、当時の朴正熙大統領が下した国と国の判断であったはず。蒋介石と同じく朴正熙も日本への留学経験があり、おそらく「以徳報怨」の精神も持っていたのではないでしょうか。それなのに、未来を向くべき韓国のトップが過去を振り返って全てをぶち壊そうとすることが残念でなりません。そこに北朝鮮の思惑があろうとなかろうと。

戦争で犠牲を強いられた方々の気持ちは尊重すべきですが、国と国の関係においては、もう徳を以て未来を向くべきではないかと思うのです。来年には75年目の終戦記念日を控えています。今年の春に発表された世界保健機関の記事によると女性の平均寿命は74.2年といいます。つまり75年とは、男性だけでなく女性の平均寿命を上回る年数なのです。もうそろそろ、怨みは忘れ、人は過ちを犯す生き物であることを踏まえて、未来へ向くべき時期ではないでしょうか。

一市民の切なる願いです。


今は昔のこんなこと


「血脈」を読んで以来、著者に注目している。そんな中、著者の本「九十歳。何がめでたい」がベストセラーになった。93歳にしてすごいことだと思う。

「血脈」は波乱に満ちた佐藤一族を描いており、その舞台の一つは昭和初期の甲子園だ。私が「血脈」を読み始めたのも、私の実家から歩いてすぐの場所に著者の実家があったからだ。ところがまだ著者のエッセイは読んだことがなかった。初めて著者のエッセイを手に取るにあたり、タイトルで選んだのが本書。それは、著者がその頃の甲子園の風俗を知っているはず、というもくろみもあった。私が生まれ育った地の昔が、本書から少しでも感じられたら、と思って本書を読み始めた。

本書は今の時代から消え去った当時の文物を章ごとに取り上げている。そのどれもが私にとって博物館でしかみたことのない品であり、小説の中でしか出会ったことのない言葉だ。本書に登場する風物や風俗は、現代では日々の生活に登場することはまずない。これほど多くの品々が時代の流れに抗えず消えてしまった。そのことに今更ながらに感慨を受ける。

著者はそうした物たちが当時どのように使われていたかを紹介する。そして、著者の記憶に残るそれらが、今どうなったかをエッセイ風に書く。そこには著者の持つユーモアがあふれている。かつての物が失われたことを諦めつつ、それは時の流れゆえ、仕方がないと達観する潔さ。孫娘に過去を説いても無駄だとあきらめながらもつい昔語りをしたくなる性。そうしたユーモアが感じられるのが本書を読ませる内容にしている。

本書で取り上げられる習俗には、いわゆる下ネタに属するものもある。夜這いとか腎虚とか花柳病とか。そうしたネタを扱うことも著者にとってはお手の物。そうした感傷からは突き抜けた境地に達しているのだろう。佐藤一族の無頼と放蕩を見聞きしてきた著者には。

むしろ、そういう営みこそ人間の生を如実に表していると考えている節がある。多分、著者にとって現代の世の営みとは、不愛想で血が通っていない。そのように考えているのではないだろうか。昔への愛着と今の世にあふれる品々への物足りなさ。そうした愛憎も込めて、著者は昔のモノを取り上げたのだと思う。

あらゆるものが一新され、時の流れに消えていく今。「モッタイナイ」という美徳が言われる一方で、ダイソーやセリアやキャン・ドゥには安価で便利でカラフルで清潔そうな製品が並ぶ。だが、一つ一つの品の耐用年数は少なく、愛着をおぼえる暇もない。

本書に登場する言葉。それらの言葉を取り巻く時間の歩みは遅い。それとは逆に、今の時代は急流のように時間が過ぎ去ってゆく。流れる時間は皆に等しいはずなのに、主観だけで考えると時間の進み方が違うような錯覚を抱いてしまう。それは時代のせいではなく、読者の私が年をとっただけなのは確実なのだが。

私もあと30年ほどすれば、ダイヤル式の電話や、テレホンカード、竹馬やコマを題材にエッセイを書くかもしれない。多分、その時に感ずる懐かしさは著者の比ではないだろう。なぜなら、遠からず私たちはアナログからデジタルへの移行よりもっと凄まじい変革を潜り抜けているはずだからだ。

その時、情報量の増加率は今とは比べ物にならないだろう。本書で取り上げられる文物が現役だった昭和初期に比べると、今の情報量はレベルが違う。だが、近い将来に見込まれる情報量の爆発は、今をはるかに凌駕するに違いない。その時、私たちの世界はもっと顕著に変わっていることが予想される。その時、今の風俗の多くは情報の海の底に埋もれてしまっている。だからこそ私たちの世代、インターネットが勃興した時期と社会人になったのが同じ世代の私たちが、未来に向けて風俗や事物を書き残さなければならないのだろう。著者のように。

だが、私には記憶力がない。著者は作家を父に持つだけに、エピソードや使われ方の大まかをつかみ、それを記憶している。さらにはそれを文筆に表す力を持っている。実にうらやましい。

私は常々、エッセイとブログの違いは微妙にあると考えている。その違いは物の本質を把握し、印象的な言葉で読者に提示できる力の差だと思っている。エッセイとは、その微妙な差によって今の世相を映し出す記録として残されるべきだと思っている。たとえ、後世の研究者にしか読まれないとしても。その微妙な時代の空気を文章に残すからこそ、プロの作家たるゆえんがあるのだろう。

‘2018/03/14-2018/03/14


ペドロ・パラモ


本書の存在は、昨年読んだ『魔術的リアリズム』によって教えられた。『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾隆吉氏は本書の紹介にかなりのページを割き、ラテンアメリカ文学の歴史においてなぜ本書が重要かを力説していた。それだけ本書がラテンアメリカ文学を語る上で外せない作品なのだろう。それまで私は本書の存在すら知らなかった。なので、本書の和訳があればぜひ読みたいと思っていた。そこまで激賞される本書とはいかなる本なのか。そんな私の願いはすぐに叶うことになる。多摩センターの丸善で本書を見つけたのだ。しかも岩波文庫の棚だから値段も控えめ。その場で購入したことは言うまでもない。

そして本書は、2017年の冒頭を飾る一冊として私の読書履歴に加わることになった。ここ数年、新年の最初に読む本は世界文学全集が続いていた。ゆっくりと読書の時間がとれるのは新年しかないので。ところが2017年は年頭から忙しくなりそうな感じ。そのため比較的ページ数が少ない本書を選んだ。

本書は、ラテンアメリカ文学史に残る傑作とされている。だが、一度読んで理解できる小説ではない。二度、三度と読まねば理解はおぼつかないはずだ。すくなくとも私には一度目の読破では理解できなかった。

なぜなら、本書は場所と時代が頻繁に入れ替わるからだ。本書はたくさんの断章の積み重ねでできあがっている。訳者によるあとがきの解説によると七十の断章からなっているとか。そして各章のそれぞれで時代と場所を変えている。さらには話者も変わるのだ。各章が続けて同じ時代、同じ場所を語ることもあれば、ばらばらになることもある。それらは、章の冒頭で断られる事なく切り替わる。そもそも章番号すら振られていない。つまり、それぞれの章の内容や登場人物を丹念に把握しないとその断章がどの時代と場所を語っているのか迷ってしまうのだ。そのため本書を読み通すだけでも少し苦労が求められる。

読者は本書の冒頭の文で本書のタイトル『ペドロ・パラモ』の意味を知る。それはフアン・プレシアドが会おうとする自らの父の名前である。ところがすぐに読者は「ペドロ・パラモはとっくの昔に死んでるのさ」というセリフがファン・プレシアドに投げかけられる(14P)ことで困惑する。タイトルになった人物が死んでいるとはどういうことだろう、と。さらには、冒頭の断章がフアン・プレシアドの視点になっているはずなのに、フアン・プレシアドと会話している相手が、たった数ページの間に二転三転するのだ。そもそもフアン・プレシアドは誰と話しているのか。フアン・プレシアドに話しかけているのは誰なのか。読者は見失うことになる。そしてファン・プレシアドはいくつかの断章でいなくなり、別の人物の視点に物語は切り替わる。さらに、主人公であるはずのペドロ・パラモは死んでいる。その時点で誰が本書の主人公なのかわからなくなる。多分、死んでいるペドロ・パラモは主人公ではなりえない。と思ったら終盤では過去の世界の住人としてペドロ・パラモが登場する。そして、それまでの断章でも語り手が次々と切り替わるのだ。どの時代、どの場所の人物の視点で物語が語られているのか、わからなくなる。もはや誰が主人公なのか、読者は著者の仕掛けた世界に惑わされてゆくばかりだ。

本書が読みにくい理由はその外にもある。それぞれの場所や時代ごとに目を引くような比喩や表現による書き分けがないのだ。印象に残るエピソードが現れないので、記憶に残りにくい。それぞれの場所と時間ごとのエピソードに関係が付けにくいのだ。そして、全体的なトーンは暗めだ。前向きな展開でもない。その上、登場人物たちの発するセリフは微妙に食い違う。それらは読者に釈然としない感じを抱かせる。誰が誰に語っているのかもはっきりしないセリフが次々と積み重なり、読者の脳に処理されずに溜まってゆく。明らかに過去からの亡霊と思われるセリフが違う書体で随所に挟まれる。セリフとセリフの間には、話者の間にコミュニケーションがなりたっている。が、それはある瞬間でブツリと途切れてしまうのだ。そして何事もなかったかのように次の断章に繋がってゆく。本書を読むだけでもとても難儀するはずだ。

だが、そういったもやもやは、本書を読み終えた時点でかなり解消されるだろう。なぜこれほどまでに曖昧な印象を受けるのか。その理由を読者が知るのは、本書を読み終え、本書の構造を理解してからとなる。その時、読者は知る。なぜ、本書の登場人物の話す言葉や視線がぼやけているのか。なぜ、頻繁に死を示すことばや比喩が登場するのかを。

本書が込み入っているのは時間と場所だけではない。生者と死者の関係も同じように込み入っているのだ。普通に話している相手が実は死者であり、さらには断章の主人公さえも死者である物語。死者と生者が混在する世界。死者ゆえに時間を超越する。死者故に空間を飛び越えて遍在できる。そのため、本書は複雑なのだ。何次元もの層が複雑に折り重なっている。そしてわかりにくい。

また、もう一つ。本書を分かりにくくしている要素がある。それは構造だ。本書が70の断章で成り立っていることは上に書いたが、全体の行動がループしているのだ。それも本書をわかりにくくしている。本書の終わりが本書のはじまりにつながるのだ。つまり、終わりまで読んでようやく本書の始まりの意味に気づく仕掛けになっている。上に書いたとおり本書を2度、3度読まねば理解したといえない理由はここにある。

『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾氏は本書の円環構造を、このように書いている。
「円環構造の真の意義は作品の基調となる非日常的視点を内部に自己生産するところにある」(92P)、と。

ここでいう自己生産とは登場人物による会話が、次の展開を呼ぶことを意味する。先にも書いたとおり、本書は断章のセリフが次の断章を呼び出している。だから本書の主人公は誰でもよいのだ。死者でもよいし、過去の住人でもよい。会話だけが主人公のいない本書に一貫して流れ続ける。そう考えると『ペドロ・パラモ』とは主人公をさすタイトルではない。どんな呼び方でも構わないと思える。ところが本書のあとがきの訳者の解説ではペドロ・パラモにも意味があることを教えられるのだ。ペドロが石、パラモは荒れ地。ということはペドロ・パラモを求める意図とは、「荒れ地の石」をもとめる旅にもつながる。だからこそ本書はつかみどころがない。登場する人々は死に、あらゆるものが読者にあいまいな世界。目的が荒れ地の石なのだから当然だ。その意味ではペドロ・パラモは主人公ではなく、本書の存在そのものかもしれない。

本書が荒れ地の石なのであれば、読者はそもそも何を求めて本書を読めばよいのだろう。それは読者もまた死ぬという絶対的な真実を突きつけるためなのか。もしそうだとすれば、個人にとって救いがない。だが、本書はもう一つ世のならいとは堂々めぐりにあることも示している。それは種族としての希望として考えられないだろうか。たとえ個人の営みはむなしく虚になることがわかっていても、種族は未来に向けて延々と円を描き続けていく。そこに読者は希望を見いだせないだろうか。本書を読む意味とは円環の仕組みにこそあるのかもしれない。

訳者はこう書いている。「断片と断片をつなぐ伏線の中に、うっかりして見落としてしまいそうなものもたくさんある。読み返して、ふと気づいたりするのだが、こんな目立たぬところにもこういう仕掛けがあったのかと驚くと同時に、作品の隅々にいたるまでの精緻な構築にあらためて感嘆の声をあげてしまいそうになる。」(217P)

原書と日本語訳を何度も読み返したはずの訳者にしてこのような感慨を持つぐらいだ。私など本書の仕掛けのほんの一部しか知らないに違いない。なにしろまだ一度しか読んでいないのだから。だからこそ必ずや本書は読み直し、理解できるように努めたいと思う。

‘2017/01/01-2017/01/09


虚ろな十字架


大切な人が殺される。その時、私はどういう気持ちになるのだろう。想像もつかない。取り乱すのか、それとも冷静に受け止めるのか。もしくは冷静を装いつつ、脳内を真っ白にして固まるのか。自分がどうなるのか分からない。何しろ私にはまだ大切な人が殺された経験がなく、想像するしかないから。

その時、大切な人を殺した犯人にどういう感情を抱くのか。激高して殺したいと思うのか。犯人もまた不幸な生い立ちの被害者と憎しみを理性で抑え込むのか。それとも即刻の死刑を望むのか、刑務所で贖罪の余生を送ってほしいと願うのか。自分がどう思うのか分からない。まだ犯人を目の前にした経験がないから。

でも、現実に殺人犯によって悲嘆の底に落とされた遺族はいる。私も分からないなどと言っている場合ではない。私だって遺族になる可能性はあるのだから。いざ、その立場に立たされてからでは遅い。本来ならば、自分がその立場に立つ前に考えておくべきなのだろう。死刑に賛成するかしないかの判断を。

だが、そうはいっても遺族の気持ちになり切るのはなかなかハードルの高い課題だ。当事者でもないのに、遺族に感情移入する事はそうそうできない。そんな時、本書は少しは考えをまとめる助けとなるかもしれない。

本書の主人公中原道正は、二度も大切な人を殺された設定となっている。最初は愛娘が殺されてしまう。その事で妻との間柄が気まずくなり、離婚。すると娘が殺されて11年後に離婚した元妻までも殺されてしまう。離婚した妻とは疎遠だったので知らなかったが、殺された妻は娘が殺された後もずっと死刑に関する意見を発信し続けていたことを知る。自分はすでにその活動から身を引いたというのに。

それがきっかけで道正はもう一度遺族の立場で死刑に向き合おうとする。一度逃げた活動から。なぜ逃げたのかといえば、死刑判決が遺族の心を決して癒やしてくれないことを知ってしまったからだ。犯人が逮捕され、死刑判決はくだった。でも、娘は帰ってこない。死刑判決は単なる通過点(137ページ)に過ぎないのだから。死刑は無力(145ぺージ)なのだから。犯人に判決が下ろうと死刑が行われようと、現実は常に現実のまま、残酷に冷静に過ぎて行く。道正はその事実に打ちのめされ、妻と離婚した後はその問題から目を背けていた。でも、妻の残した文章を読むにつけ、これでは娘の死も妻の死も無駄になることに気づく。

道正は、元妻の母と連絡を取り、殺人犯たちの背後を調べ直そうとする。特に元妻を殺した犯人は、遺族からも丁重な詫び状が届いたという。彼らが殺人に手を染めたのは何が原因か。身の上を知ったところで、娘や妻を殺した犯人を赦すことはできるのか。道正の葛藤とともに、物語は進んで行く。

犯罪に至る過程を追う事は、過去にさかのぼる事。過去に原因を求めずして、どんな犯罪が防げるというのか。本書で著者が言いたいのはそういう事だと思う。みずみずしい今は次の瞬間、取り返せない過去になる。今を大切に生きない者は、その行いが将来、取り返せない過去となって苦しめられるのだ。

本書は過去を美化する意図もなければ、過去にしがみつくことを勧めてもいない。むしろ、今の大切さを強く勧める。過去は殺された娘と同じく戻ってこないのだから。一瞬の判断に引きずられたことで人生が台無しにならないように。でも、そんな底の浅い教訓だけで済むはずがない。では、本書で著者は何を言おうとしているのか。

本書で著者がしたかったのは、読者への問題提起だと思う。死刑についてどう考えますか、という。そして著者は306-307ページで一つの答えを出している。「人を殺した者は、どう償うべきか。この問いに、たぶん模範解答はないと思います」と道正に語らせる事で。また、最終の326ページで、「人間なんぞに完璧な審判は不可能」と刑事に語らせることで。

著者の問いかけに答えないわけにもいくまい。死刑について私が考えた結論を述べてみたい。

死刑とは過去の清算、そして未来の抹殺だ。でも、それは殺人犯にとっての話でしかない。遺族にとっては、大切な人が殺された時点ですでに未来は抹殺されてしまっているのだ。もちろん殺された当人の未来も。未来が一人一人の主観の中にしかありえず、他人が共有できないのなら、そもそも死刑はなんの解決にもならないのだ。殺人犯の未来はしょせん殺人犯の未来にすぎない。死刑とは、遺族のためというよりも、これ以上、同じ境遇に悲しむ遺族を作らないための犯罪者の抑止策でしかないと思う。ただ、抑止策として死刑が有効である限りは、そして、凶行に及ぼうとする殺人者予備軍が思いとどまるのなら、死刑制度もありだと思う。

‘2016/12/13-2016/12/14


この六年を契機にSNSの過去投稿について思ったこと


今日で東日本大震災が発生して六年が経ちました。テレビやブログでも六年の日々が取り上げられているようですね。

今日の14:46を私は家で仕事しながら迎えました。六年前のその瞬間も同じ。あの時も家で仕事していました。違う事といえば、今日は直前に町田市の広域放送で黙祷を促されたことでしょうか。よい機会をもらえたと思い、しばし目を閉じ自分なりに物思いにふけります。

この六年を自分なりに振り返ろうかと思ったのですが、やめておきます。昨年秋に二回ほど郡山に仕事でお呼ばれしました。郡山の素敵な方々や産物や美しい風景の数々。地震が起きてから東北の方々に何も貢献できていなかった自分に少しは区切りはつけられました。でも私はいまだに浜通りや三陸を訪問できていません。私が東日本大地震を語るには時期が早いようです。
弊社は、福島を応援します。(まとめ版)
弊社は、福島を応援します。(9/30版)
弊社は、福島を応援します。(10/1版)
弊社は、福島を応援します。(10/2版)

ふと、3.11前後の日記を覗いてみたくなりました。その頃の日記には一体何を書いていたのか。そして何を思ったのか。当時の私はまだmixiを利用していました。今や全くログインすることのないmixi。今回の機会に久々に当時のmixi日記を覗いてみることにしました。

久々に訪れるmixiはユーザーインターフェースが刷新された以外は案外同じでした。六年前の3.11の前後に書いた日記にもすぐアクセスできました。時間軸ではなく、年と月でカテゴライズされたmixi日記へのアクセスはFacebookに慣れた身には逆に新鮮です。日記ごとにタイトルが付けられるのも、後から日記を見たいニーズには適しています。私のようにSNS利用のモチベーションが自己ログ保存にあるような人にはうってつけですね。

最近のSNSはタイムライン表示が全盛です。Facebook、Twitter、Instagram、Snapchat。どれもがタイムライン表示を採用しています。mixiも過去日記の閲覧が容易とはいえ、基本はタイムライン表示です。多分、膨大に飛び込んでくる情報量をさばくには、タイムライン表示が適しているのでしょう。Snapchatに至っては投稿してもすぐ自動消去され、それが絶大な支持を得ているのですから。

mixiのように後から投稿を容易に閲覧できる機能はもはや流行から外れているのでしょう。今を生きる若者にはそもそも、後日のために投稿を取っておくという発想すらないのかもしれません。私も二十歳前後の記録は友達と撮りまくった写真以外はほとんど残っていないし。

でも、3.11の時のような天災では、アーカイブされた記録が後になって大きな意味を持つと思うのです。つい先日にも膨大にアップされたYouTube動画を場所や時間でアーカイブし、検索できる仕組みが東北大学によって公開されたとか。動画でふりかえる3.11ー東日本大震災公開動画ファインダーー

各種SNSでは、システムAPIなどを使って一括アーカイブはできるはずですし、Facebookでは一般アカウント設定から過去投稿の一括ダウンロードもできます。ただ、それだけでは足りません。mixiのように、容易に利用者が過去のウォール投稿やツイートにカテゴリーツリー経由でアクセスできるようにしても良いと思うのですよ。システム実装はあまり難しくないと思いますし。学術的な投稿アーカイブだけでなく、利用者にとっても過去日記を閲覧できる機能はあってもよいと思うのですが。

今回、過去の日記を久々に読み返して、過去の自分に向き合うのも悪くないと思いました。仕事を多数抱え、過去の日記を読み返す暇などほとんど無い今だからこそなおさらに。

とはいえ、気恥ずかしい記述があるのも事実。地震前最後に書いた日記は2011/3/8のこと。長女と二人で風呂に入ったこと。学校で性教育の授業を受けたと教えてもらったことが書かれてました。うーむ、、、これは気恥ずかしい。さらに、実名が求められないmixiでは私の書く筆致が全体的にのびのびしている気がしました。これは今の自分の書きっぷりについて反省しないと。


1Q84 BOOK 2


BOOK 1 の最後の章で、青豆と天吾の世界に、現実からの脅威が押し寄せる。BOOK 2 である本書では、序破急の破らしく、一気に物語が展開する。徐々に現実感を喪失しつつあった世界に、現実が否応なしに押し寄せる。青豆は謎の信仰集団のトップの暗殺を柳屋敷の老婦人から依頼される。天吾には牛河なる人物が接触を図ってきて、代筆の事実を知っていることをそれとなく匂わせられる。ふかえりは天吾の元から失踪し、あゆみは謎の死を遂げる。

その一方で、1984年である世界は青豆には別の世界、つまり1Q84にその姿を変えつつあり、その速度は増すばかりである。

現実は幻想と共存できるのか。それとも所詮は別のもの、別々の道を歩むしかないのか。物語の行方がどこに向かおうとしているのか、BOOK 1に引き続き、読者をつかんで離さない展開はお見事としか言いようがない。

BOOK 1では現実からの疎外がテーマではないかと書いた。本書では果たして何がテーマなのだろうか。私には過去と現在の和解、というテーマが湧きあがってきた。

本書で、天吾は房総半島の某所の療養所にいるNHK集金人だった父と再会を果たす。答えない父に対し、自分の半生を滔々と話す。そして青豆は謎の宗教団体の教祖であり、ふかえりの父と目される人物を殺す直前、過去の出来事について教えを受ける。そしてNHK集金人の後について歩いた幼き日の天吾と、宗教団体の伝道者として親の伝道について歩いた青豆が、小学生時代に鮮烈で刹那的な交流を持っていたことが明かされる。現実は過去、幻想は今。過去と現在が和解する時、現実から疎外されていた幻想は受け入れられる。「空気さなぎ」の世界がますます現実を侵食する本書において、過去と現在の和解がテーマになっていることは避けては通れないポイントなのだろう。「空気さなぎ」の登場人物であるリトル・ピープルといった登場者は、現実と幻想を結び付けられるのか。教祖が世を去った今、誰がそれを成しうるのか。

青豆と天吾がお互いの存在を意識し合い、探し求めるようになり、本書は幕を閉じる。次はいよいよ序破急の急である。物語は大団円に向かって突き進む。

’14/06/01-‘14/06/03