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ファインダーズ・キーパーズ 下


上巻を使って、ベラミーの凶行の動機がどうやって生まれたのか、そしてベラミーの狂気がピートとアンディにどういう運命をもたらそうとするかを描いた著者。

ピートとその家族に害を成すベラミーに対するは、前作と同じくビル・ホッジズの役目だ。上巻のレビューで、本作を読むまえに前作『ミスター・メルセデス』は読んだほうが良いと書いた。それは『ミスター・メルセデス』で果たしたホッジズの役割が何度も言及されるからだ。本書の肝はベラミーがロススティーンの残した未発表原稿への執着に尽きる。そのため、上巻の多くはロススティーンに対するベラミーの殺害の一部始終と、ピートが未発表原稿を見つけ、なぜそれをアンディーが営む稀覯本の店に持ち込もうとしたかの理由を描くことに費やされている。

そのため、上巻では探偵役であるホッジズは多く登場しない。そのかわり『ミスター・メルセデス』のエピソードを何度もはさむことで、ホッジズの人となりを描いている。著者はホッジズのことは『ミスター・メルセデス』を読んで理解してほしい。あらためて本書で紹介するには及ばない、と考えているのだろう。

下巻では、ホッジズに相談が寄せられるシーンで始まる。相談を持ちかけたのは、ピートの妹ティナ。ティナの友人が『ミスター・メルセデス』で重要な役割を果たし、ホッジズの友人であるジェロームの妹のバーバラだ。兄の不審なふるまいに不安を覚えたティナがバーバラに相談し、二人でホッジズのもとへ訪ねて来る。そこからホッジズはこの事件に関わってゆく。ここにきて『ミスター・メルセデス』で登場した主要な人物が顔をそろえ、物語が動き始める。このあたりの人物描写は『ミスター・メルセデス』を読んでいないと理解できないと思われる。なので、前作は読んでおいた方が良い。

上巻のレビューにも書いた通り、ベラミーの凶行がアンディーの稀覯本屋で繰り広げられる。そこにやってきたのがピート。当初、未発表原稿をアンディーの店に持ち込んだところ、盗んだ品ではないかと逆に脅される。それに対し、精一杯虚勢を張ろうとしていたピートが見たのは酸鼻に満ちた店内。ベラミーに遭遇したピートは、かろうじて惨劇の場から逃げ出すことに成功する。だが、ベラミーはピートがかつて自分が住んでいた住まいの今の住人であることを知る。やがてその家はベラミーに蹂躙される。さらに、万が一に備えてピートが未発表原稿を隠しておいた娯楽センターを舞台に、ベラミーの未発表原稿への執念は燃え盛る。

なお、本書のエピローグでは、『ミスター・メルセデス』その人が登場する。ホリーによってすんでのところで凶行を邪魔され、逆に脳が壊れるほどのダメージを負わされたブレイディ・ハーツフィールド。彼の登場は唐突なので、このエピローグは前作を読んでいないと全く理解できないはずだ。上巻のレビューで本書には細かな傷が見受けられると書いたが、これもその一つ。今までの著者の作品はキャッスル・ロックやデリーといった架空の地を舞台とし、世界はつながっていた。だが、ここまであからさまにシリーズを意識した書き方はしていなかったように思う。本書はシリーズを同士の繋がりが特に強い。だから前作『ミスター・メルセデス』を読まねば本書のいくつものエピソードは理解できないように書かれている。これはささいだが本作の傷だと思う。

だがその傷を含め、著者はどうやったら本書をミステリーとして成り立たせるかについて苦心したようだ。少なくとも私にはそう感じられた。どのようにしてそれぞれの作品のエピソードをつなぐのか。どうやってベラミーやピートの内面をストーリーに添わせるのか。本書ではそういった著者の手腕が堪能できるし、参考にもなる。

もう一つ、本書から感じられることがある。それは、著者が持つ純文学への憧れだ。ここ近年の著者の作品には純文学作家への言及が増えてきたように思う。たとえばサマセット・モーム。ジョン・アーヴィングを意識したと思える描写にも時折出くわす。本書もそうだ。ロススティーンという純文学の大家とその代表作。そしてその遺稿。ロススティーンの代表作とされるジミー・ゴールドの粗筋を本書の随所に挟みこむことによって、著者は読者が真に読みたがる純文学とは何かを問うているように思える。

本書を読んでいて、いつか著者が作家としての集大成として純文学を発表するのではないかと思わされた。今までの著者の作品の中で、私があまり感心しなかったのが『アトランティスの心』だ。これは純文学のアプローチを著者が試し、うまくいかなかった例だと思う。だが、本書を読んだ結果、ホラー、そしてミステリーと範囲を広げてきた著者が、最後に向かうのは純文学ではないかと思うようになった。

著者はきっと成し遂げてくれるはず。読者を感動の渦に巻き込み、人間とは、世界とは何かを十分に感じさせてくれる作品だってものにしてくれるはずだ。ここまで読者を恐怖に叩き込み、読者を寝不足にさせる作家は古今東西を見回してもそうそういない。これだけの筆力を持つ著者であるからには、素晴らしい純文学の作品を発表してくれると信じている。著者は今までの作品でアメリカの人種差別にも触れてきている。その現実と融和も描こうと苦心している。例えば著者が現代アメリカの闇とその融和に苦しむ現実を世界のモデルケースとして描いたら、ノーベル文学賞だって夢ではないと思う。

私はぜひ、著者の純文学作品を読んでみたい。そしてもし、著者の未発表作品が手元に舞い込んできたら何をおいても読みたいと願い、狂奔することだろう。ちょうど本書のベラミーやピートやアンディーのように。本当に優れた本にはそれだけの魔力がある。著者はそれがわかっているし、そういう作品を世に問いたいと願っているはずだ。本書はそうしたことを意識して書かれているように思う。

今まで著者は読者を驚かせ、怖がらせるために読者の視点を大切にしてきたと思う。そして今は、読者の視点から純文学の構想を練っているのではないか。その視点を生かしたまま、著者の熟練のスキルが純文学で発揮されたら果たしてどんな傑作が生まれるのか。期待したい。

‘2018/07/01-2018/07/04


ファインダーズ・キーパーズ 上


『ミスター・メルセデス』は、ホラーの巨匠がミステリ作家としても一流である事を証明した。とても面白かった。

本書はその続編にあたる。だから、本書を読むのはなるべく『ミスター・メルセデス』を読んでからの方がいい。なぜなら本書は『ミスター・メルセデス』のエピソードに頻繁に触れるからだ。もちろん、知らなくても本書の面白さは折り紙が付けられる。でも、読んでおいた方がさらに面白くなるはずだ。

私は著者の作品のほとんどを読んでいる。そして、あまりハズレを引いた経験がない。著書がストーリー・テラーとして信頼できる作家であることに間違いはない。そう思っている。私は本書を読みながら、その面白さがどこから来るのか確かめたいと思った。本書はミステリ小説として書かれている。つまり、超常現象には頼れない。また、読者に対してフェアな書き方が求められる。本書を読み込めば、著者のストーリーテリングの肝が会得できるのでは、と思った。

そんな意気込みで読み始めたが、面白さに負けて一気に読んでしまった。さすがの安定感だ。

本作の粗筋はこうだ。現代アメリカ文学の大家として名声を得たロススティーン。最後に作品を発表してから10数年が過ぎ、世間からは引退したと思われている。そんな田舎に隠棲したままの大家のすみかに三人の強盗が押し入る。強盗のボス格ベラミーが狙っていたのは金だけではなく、ロススティーンが書き溜めているとうわさされていたジミー・ゴールド・シリーズの未発表原稿。ジミー・ゴールドに心酔していたベラミーは、ロススティーンがシリーズの最終作でジミー・ゴールドを平穏な小市民として終わらせたことに納得がいかない。押し入ったその場でロススティーンにそのことを問いただし、激怒のあまり撃ち殺してしまう。

ベラミーは、未発表原稿の束や現金とともに現場から逃亡する。そして、一緒に逃亡する仲間を途中で殺し、身をひそめるため故郷に帰ってくる。故郷で身を隠しつつ、ゆっくりとジミー・ゴールド・シリーズの最新作を読もうと思っていた。自らの望むジミー・ゴールドのその後が知りたくて。ところがロススティーン殺害のニュースは故郷にも届いており、かねてからロススティーンへのベラミーの偏執をしっていた友人のアンディーは、ベラミーに未発表原稿や金の詰まったトランクを隠すよう忠告する。その忠告に従ったベラミーはトランクを隠した後、酒を飲みにバーにしけこむ。そして強姦事件を起こす。それがもとで36年間の長きにわたって投獄されてしまう。

36年後、ベラミーが住んでいた家にはソウバーズ一家が住んでいた。そして、ソウバーズ家は、家長が職を失ってしまう困窮の中にあった。『ミスター・メルセデス』がひき起こした大量ひき逃げ暴走事件によって体にダメージを負ったからだ。そんな中、13歳の長男ピートは、偶然にもかつてベラミーが埋めたトランクを見つけ出す。そして一家の困窮を救うために、トランクに詰まっていた金を匿名で自分自身の家に送る。さらに、その中に隠された未発表原稿を読み、文学に目覚める。ところが、一家の経済状況は一息ついたとはいえ、妹のティナの進学費用が工面できない。そこでピートはロススティーンの未発表原稿をアンディーの経営する稀覯本の店に持ち込む。そして足元を見られたアンディーに逆に脅される。ベラミーが仮釈放を勝ち取ったのは、ちょうどその時。仮釈放で保護観察中の身でありながら、さっそく36年前に隠したトランクを掘り出したベラミーは、その中が空になっていることを知る。36年の月日が彼の未発表原稿への狂気を熟成させ、それが盗まれたとしったベラミーの理性は沸騰し、その刃はかつての旧友アンディーに向けられる。

今回、私は本書を分析的な眼で読もうとした。それだからだろうか、一つの大きな傷を見つけた。

まず、ストーリーの構成だ。事件が起こるタイミングに作者の意思が見え隠れする。それはつまり、作者のストーリー展開の都合に合わせて登場人物が動かされていることを示す。登場人物が、著者の組み立てたプロットの上で動かされる。その感覚は本当に優れている小説を読むと感じないものだ。だが、本書からはその感覚が感じられた。著者の今までの優れた傑作群には見られなかったように思う。

もちろん、今までの著者の作品にも著者の作為は見受けられた。著者の作品では多くの登場人物が交わり合い、感情をぶつけ合う。その中には、著者によって仕組まれた偶然の出会いや偶然の産物から生まれた悲喜劇も含まれる。それは当然のことだ。たくさんの人々を自在に操る手腕こそが著者を巨匠の高みに押し上げたのだから。そもそも小説である以上、全てが著者の作為の結果でしかない。だからこそ、それをいかにして自然に見せるが作家の腕の見せ所なのだ。それを巧みに紡ぐ筆力こそ、ベストセラー作家とその他の作家を分ける違いではないだろうか。

本書は、著者の作為がうまくストーリーの中に隠し切れていない。「神の手=著者の筆」が随所に見えてしまっている。むろん、登場人物の動きは可能な限り自然に描かれていた。だが、出獄したベラミーが、自らが過去に埋めたトランクの中身がからになっていることに気づくタイミングと、ピートがその中身を稀覯書店主のアンディに持ち込み、逆に脅されるタイミングの一致。それは、ミステリーとしての整合性を優先させるため、著者が仕組んだ都合の良さに思えた。今までの著者の作品には、人物が著者の都合に合わせることが感じられなかった。多分、多数の登場人物が入り乱れる中、そこまで気にしなかったのだろう。だが、本作は、ピートとベラミーとアンディの動きが胆となる。だから、この三人の動きがクローズアップされ、その行動があまりにも筋書きにはまっていると不自然に感じてしまうのだ。

ただし、かつて殺した大作家の遺稿を隠した後、長年にわたって別件で投獄されていたベラミーが原稿を読みたいという動機については納得できる。著者は作品の中で、小説作品や作家を題材にすることがある。本書でもそれが存分に発揮されていたと思う。なぜベラミーはそれほどまでにロススティーンの遺稿に執着するのか。なぜベラミーはロススティーンを撃たねばならなかったのか。本書は事件の発端を描くことに紙数を費やし、ベラミーの動機を詳細に描いている。そうしないと本書の構成そのものが乱れてしまうからだ。著者はその動機を丁寧に描いている。おそらくは著者にとって最も苦労したのではないだろうか。

ところが、動機に多くの労力を割いて丁寧に描いた割に、ベラミーの出獄とピートの行動、そしてピートがアンディと交渉するタイミングがあまりにも近すぎる。保護観察中のベラミーの狂気がアンディーに向かい、その場にピートを引き寄せてしまう。もちろん、ストーリーの展開上、行動人物の動きを同じ時期に合わせなければならないのは分かる。だが、登場人物の動かし方に、あと少しの工夫があっても良かったと思う。著者の今までの作品には、その工夫が絶妙に施されていたような気がする。

本作は、動機をきちんと説明していたのに、イベントのリンクの繋げかたを少々焦りすぎたような気がする。

‘2018/06/30-2018/06/30


UNDER THE DOOM 下


バービーの逮捕で幕を閉じた上巻。米軍によるドーム破壊の試みはすべて失敗し、チェスターズミルの解放にめどがつかない。外界から遮断されたチェスターズミルで、このままレニー親子の独裁体制は盤石になってしまうのか。

上巻で著者が丹念に織り上げた59人の登場人物によるチェスターズミルの模様。閉鎖され逃げ場のない空間の中で圧力は密度を増し、ドーム内の空気は刻一刻と汚染されてゆく。

本書で著者が試みたのは、アメリカの一般的な町を閉鎖し、生活の営みを閉鎖された町に限るとどうなるか、という壮大な実験だ。

私はアメリカのコミュニティについてはよく知らない。そして、本書に描かれるチェスターズミルがアメリカの田舎の縮図なのかどうかについても判断できない。その前提で、本書に登場する組織について考えてみようと思う。

本書の舞台、チェスターズミルには自治体に相当する組織が登場しない。三人の町政委員以外に自治体としての行政サービスの担い手があらわれないのだ。あるいは、隣接するキャッスルロックには自治体があるのだろうか。となると、第一から第三まで三人もの町政委員がいるのはどういうことなのだろう。町政委員とは町議会議員のようなものなのだろうか。日本でいう自治会のような組織はアメリカにはないと聞く。たとえば町政委員を自治会長のような存在と仮定すれば、町政委員という仕組みを自治会とみなしてよいかもしれない。

そう考えれば、本書に登場する町の組織は以下の通りとなる。行政(自治会)、警察、マスメディア、医療、小売、宗教。他に一般的な町にあるべき組織とはなんだろう。消防、軍隊、教育だろうか。消防は住民たちが自助組織を結成している。軍隊はドーム内には存在せず、ドームの外で手をこまねいているだけ。教育については、本書にはほとんど出てこない。つまり、行政、警察、マスメディア、医療、小売、宗教の組織があればコミュニティはかろうじて成り立つということだ。もちろんそれは実際の生活ではなく、あくまで本書のストーリーを進めるためだ。ただ、著者の考えでは、町の営みもこれだけあればどうにかなるのだろう。

これは、街の危機に際してどういう組織が必要か、というテストケースとして興味深い。著者が考える危機管理の一例として、本書は参考になるかもしれない。当然ながら、著者のストーリー進行上の都合によって組織の入れ替えはあるだろうが、ここにあがった組織が危機管理上の要と考えて良さそうだ。

日本でも天災が村を孤立させる話はよく聞く。天災に備えてどのような組織が町に必要か。本書はそれを考えるきっかけになる気がする。

本書はアメリカが舞台なので、町々には教会が建てられている。そして、住民のコミュニティの場は普段は教会が担っている。そしてビッグ・ジムによる演説のシーンなど、全住民が集まるような時だけ、市民ホールのような場所に住民が集まる。一方のわが国では、神社に氏子が寄り合うコミュニティがすでにうしなわれてしまった。自治会も衰退の一途をたどっている。チェスターズミルに起こったような出来事が、仮に日本の地方都市で再現されればどうなるか。それもチェスターズミルのような庁舎のない地域で起こったら。多分、住民たちは自然にコミュニティを結成することだろう。そしてその担い手は、自治体の支所ではなく、寺社か自治会が担うような気がする。

本書を絵空事として片付けるのではなく、地域社会のあり方を考えるきっかけにしてもよいと思う。

また、本書は組織と個人の対立を描いている。組織とはビッグ・レニーに代表される警察力。個人とはバービーに代表される人々を指す。特に本書は、終盤に近づくにつれて個人の力が発揮される場面が頻繁になる。結末に触れることになるため、これ以上は書かないが、本書を一言で言い表すと組織の無力を描いた話、といっても差し支えないほどだ。

そんな余計な分析を加えてみたが、本書は本来、そんな分析など不要だ。思うがままに一気に読める。そして寝不足になる。それだけの魔力が本書には備わっている。本書の結末については賛否両論それぞれあるだろう。ただ、本書の魅力については誰にも否定できないはず。神が著者に与えた類まれなるすストーリーテリングを味わえるだけでも幸せなのだから。

聞くところによると、本書はドラマ化されているという。アメリカのTVドラマの質の高さはとみにきくところだ。観たことはほとんどないけれど。でも本書のドラマ化であれば、是非一度観てみたいと思う。

‘2016/12/07-2016/12/13


UNDER THE DOOM 上


あとがきで知ったのだが、本書は、著者の作品のなかで三番目に長いそうだ。著者のライフワークともいうべきダーク・タワーシリーズは別格として、『ザ・スタンド』、そして『IT』、続いて本書の順なのだとか。

小説はただ長ければいいというものじゃない。長さに比例して内容も間延びし、スカスカになっならそれこそお話にならない。しかし、そんなうがった見方は著者の作品に限っては無用だ。『ザ・スタンド』と『IT』は長さと面白さを兼ね備えていた。それらと同じく、本書も文句なしの傑作だった。

メイン州キャッスルロックといえば、世界で一番有名な架空の町。そういっても許されてしまうぐらい、著者の作品ではお馴染みの町だ。本書の舞台となるチェスターズ・ミルは、キャッスルロックの北隣に位置している。

そんな素朴な町がなんの前触れもなく、透明なドームに全方位を囲まれる。そんな出来事から本書ははじまる。

急に現れた見えない壁に衝突する飛行機やトラック、手首から先を壁に切り落とされ失血死する農婦。わずかな空気と電波以外は完全に外部から遮断された町。理由もわからないうちに閉鎖されたチェスターズ・ミル。閉鎖された空間では人間の本性もあらわになる。本性に応じて、階級や上下の序列の争いがあらわになる。人々の醸し出す空気がドームの中に不穏な圧力を高める。

著者の創造した閉じた空間の中で、著者の筆はいつにも増して快調だ。細かな人間感情の機微を丁寧に描きつつ、エピソードをちりばめていくなど著者にとってはお手のもの。人物の配置にも抜かりはない。ごく自然に、閉鎖された町にトラブルの着火役を用意している。彼の名はジュニア・レニー。痴話げんかの余韻と脳内で芽を吹きはじめた腫瘍の影響で二人の若い女性を殺してしまう。そんな彼の父は第二町政委員として陰でこの街を牛耳るビッグ・ジム・レニー。ビッグ・レニーは狡猾に二番手の役割に甘んじ、その間に着々と街の財政に食い込む。そして甘い汁を吸う。さらには後ろ暗い事業に邁進する。表の顔である中古車屋の経営者を演じつつ。

不慮の事態を収拾するために動いた警察署長パーキンスは、不用意にドームに触れてしまったために体内のペースメーカーが爆発して死ぬ。そして副署長ランドルフはといえば、レニーに頭を押さえつけられている暗愚な男。治安維持のため警察力強化をもくろむレニーは、新署長ランドルフに街の愚連隊を臨時警官として雇う事を認めさせ、着実に独裁体制の地場を固めてゆく。

レニー親子に対するは、バーバラという女性のような姓をもつバービー。ジュニアとの痴話げんかを通して、憎悪を一身に集める彼は、流れ者のコック。もともとは、イラク戦争で米軍の特殊任務についていた経歴を持つ。そんな経歴から、バービーは町政委員を差し置いてアメリカ大統領直々にチェスターズ・ミルの最高責任者に任命される。ミサイルや化学薬品の塗布など、米軍によるドーム破壊に向けた努力は全て徒労に終わり、レニーは自らの後ろ暗い事業の清算と、ドーム内での己の絶対権力の確立を一挙に実現するため、バービー包囲網を着々と狭めていく。

果たしてバービーはレニー親子に陥れられてしまうのか、というスリルの構築は著者はならではの熟練の技。著者が巡らせる構図も、単なる善悪の二元でに終わるはずはない。レニー親子とバービーの周りには多彩な人物が登場する。本書の冒頭には登場人物の一覧が附されている。その数総勢59人。

あまりにも人数が多いので、いくつかのカテゴリーに分けられている。
【町政委員】
【食堂〈スイートブライアー・ローズ〉スタッフ】
【チェスターズミル警察】
【聖職者】
【医療関係者】
【町の子どもたち】
【主要な町の人々】
【よそ者たち】
【主要な犬たち】
【〈ドーム〉外側】

ここに出てくる59名の多くは物語に欠かせない。ほんの一瞬だけ登場するちょい役ではないのだ。物語の主要なキャストだけでも数えれば30人は下らないだろう。【主要な町の人々】カテゴリーに括られている人々だけでも、重要な人物は片手では足りない。地元新聞の発行者、百貨店店主、葬祭場経営者などなど。

著者の作品は毎回大勢の人物が登場するが、本作はいつにも増して一人一人の役割をきっちりと割り振り、特定の人物だけに描写が偏らないように入念に配慮されている。これだけの人数を操って、物語の序盤をだれることなく書き進められる著者の筆力には、今更ながら驚くばかりだ。

町の住人たちが織りなす複雑な運命の綾は、ビッグ・レニーの策謀によって一層複雑な模様を描いてゆく。スーパーマーケットへの閉鎖通告とそこで起こった暴動。ビッグ・レニーの周りには謀り事が渦巻く。それを隠蔽しようとしたビッグ・レニーも息子と同じく殺人に手を染めてしまう。ジュニアが隠し続ける二体の死体に加えて、親のレニーの作り出した死体もまとめてバービーのせいにしようと画策する親子。

そうして彼らの策謀の網は、ついにバービーをからめ捕ろうとする。盛り上がったところで上巻は幕を閉じる。かつて週刊少年ジャンプを読んで、次週号を待ち遠しく思った記憶。本書もまた、瞬時に下巻を手に取らせた。ストーリーテリングの神技である。著者と訳者が共同で紡ぎだす文章に迷いはない。

‘2016/12/03-2016/12/07