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真田三代 下


下巻では第一次上田合戦から始まる。
上田の城下町の全てを戦場と化し、徳川軍を誘い込んで一網打尽にする。それが昌幸の立てた戦略だ。
それには領民の協力が欠かせない。なぜ領民が表裏比興の者と呼ばれた昌幸の命に諾々と従ったのか。

「昌幸にはひとつの信条があった。
「戦いにおいては詐略を用い、非情の決断もする。だが、おのが領民と交わした約束は、信義をもってこれを守り、情けをかけて味方につけねばならぬ」」(86-87ページ)

周到に準備しておいた昌幸の策が功を奏し、徳川軍を撃退した真田軍。諸国の武将に真田家の武名がとどろく。

だが、昌幸の智謀がすごみを増す一方で、次男の幸村には父とは違う人格が生まれ始めていた。それは義の道。
幸村は、人質として過ごす上杉家の家風である義の心に感化される。
軍神と称えられた先代の不識庵謙信はすでに世にない。だが、主の景勝とその股肱の臣である直江兼続が差配する上杉家は、先代の義に篤い気風を受け継いでいた。
そこで幸村は策に走る父への疑問を抱く。生き残ることを優先すべきなのか、はたまた義を貫くべきか。

「おのれの利を追うことのみに汲々とするのではなく、さらに大局に立ち、おおやけのため、民のため、弱き者のために行動するのが、
「わしの考える義だ」
と、兼続は言った。」(128ページ)

これは私も常々感じている。利を追ってゆくだけでよいのなら、どれだけ楽か。金を稼ぐ苦労はあっても、それだけにまい進すればよいのだから。
従業員の人件費を削り、精一杯働かせる。顧客には高めの金額を提示し、その差額を利潤として懐に貯めこむ。
それができない私だから、飛躍も出来ないでいる。自分に恥じないような経営をしようと思うと、従業員を使い捨てにするマネはできない。見合った金額を支払い、顧客には高い金額を提示できない。これだと飛躍ができない。
私の根本の経営能力に問題があることもそうだが、こうした理念は卓越した努力と才能を伸ばした結果が伴わなければ倒れてしまう。悩んだことも数知れずだ。

ビジネスマンの愛読書は歴史小説だという俗説がある。歴史小説から教訓を読み取り、それをビジネスに生かそうとする人が多いからだろう。
それが本当かどうかはわからない。だが、私にとっては歴史を取り扱った小説から得られる教訓は多い。
本書を読んでいると、未熟な自分の目指すべき道の遠さとやるべきことの多さにめまいがする。

義を貫きたい幸村の志。それに頓着せず、昌幸は上杉家に人質としている幸村に信幸を接触させる。そして信幸を通し、上杉家を出て豊臣家への人質として大坂へ赴くように命ずる。
義のなんたるかを教えてくれた人物を不本意ながら裏切る羽目に陥った幸村の苦悩。

昌幸の視点には、天下の趨勢が豊臣に傾いていることが見えたのだろう。幸村を豊臣家の人質として送り込むこともまた、真田家を生き延びさせるための一手だった。昌幸の読みは当たり、秀吉は着々と天下を統一していく。
その過程に真田の名胡桃城をめぐる攻防があったことは言うまでもない。

ところが豊太閤の天下も秀吉の死によって瓦解を始める。それから関ヶ原の戦いに至るまで、石田三成と徳川家康、さらには上杉や諸武将の思惑が入り乱れる。
真田の場合、兄信幸が徳川四天王の本田忠勝の娘小松姫を娶っていた。幸村は石田三成についた大谷吉継を義父としている。
二人の境遇が真田家を大きく二つに割った犬伏の別れの伏線となる。

「澄んだ秋の夜空に、星が散っている。そのなかで、ひときわあざやかに輝く六つの星のつらなりがあった。
真田家の六連銭の旗の由来ともなった、
━━すばる
である。
「わしは若いころより、つねに心に誓ってきた。あのすばるのごとく、あまたの星のなかでも群れのなかに埋没せぬ、凛然たる光を放つ存在でありたいとな」
星を見つめながら昌幸は言った。
「徳川内府につけば、わしは有象無象の星の群れのひとつに過ぎなくなる。だが、男としてこの世に生を受けた以上、一度は天上のすばるを目指さねばならぬ。いまこそがその時だ」」(344-345ページ)

まさに私もこの志を持って独立した。しびれる場面である。

昌幸は長男の信幸とたもとを分かち、上田城の戦いでは策略を駆使して徳川秀忠の軍を足止めさせる。その結果、関ヶ原の本戦で秀忠軍は遅参した。

だが、西軍は関ヶ原の本戦で敗れた。局所の戦いでは勝ちをおさめたが、昌幸と幸村の二人は高野山へ流罪の身となった。
以来十数年。昌幸はついに九度山で想いを遺しながら亡くなった。そして、徳川家康は、天下取りの最後の仕上げにとりかかる。残すのは豊臣家の滅亡。
豊臣方も対抗するため、大坂に浪人を集める。幸村も大坂からの誘いを受け、最後の死に花を咲かせるために九度山から脱出する。

「「人の世は、思うようにならぬことのほうが多い。まして、わが真田家は周囲を大勢力に囲まれ、つねにその狭間で翻弄されてきた。だが、宿命を嘆き、呪っているだけでは、何も生まれませぬ。苦しい状況のなかから、泥水を嘗めてでもあらんかぎりの知恵を使い、一筋の道を切り拓いてゆく。それがしのなかにも、そうやって生きてきた祖父幸隆や父昌幸と同じ血が流れているのでござろう」」(465-466ページ)

ここからはまさに幸村の一世一代の花道だ。戦国時代、いや、日本史上でも稀に見る華々しい死にざま。真田日本一の兵と徳川方から称賛された戦い。

「叔父上は、数ある信濃の小土豪のなかから、真田家がここまで生き残ってこれたのはなにゆえと思われます。それは、知恵を働かせて巧みに立ちまわったからだけではない。小なりとはいえ、独立した一族の誇りを失わず、ときに身の丈よりはるかに大きな敵にも、背筋を伸ばして堂々と渡り合う気概を持つ。それでこそ、わが一族は、亡き太閤殿下、大御所にも一目置かれる存在になったのではございますまいか」
「目先の餌に釣られ、世の理不尽にものを言う気概を捨て去っては、一族を興した祖父様や、表裏比興と言われながらも、おのが筋をつらぬいた父上に申しわけが立ちませぬ」(497-498ページ)

幸隆から昌幸、そして幸村と、戦国の過酷な現実を生き抜き、しかも自らを貫き通した。さらには、大名家の家名まで後世に伝えることに成功した。
男としてこれ以上の事があろうか。
真田家の三代の生きざまを読んでいると、何やら胸の内にたぎるものが湧いてくる。私もちょうど幸村が討死した年齢に差し掛かった。
あとどれぐらいの花が咲かせられるだろうか。

本書はビジネスマンに限らず、まだまだ枯れるにははやい中年に読んでほしい。

2020/10/2-2020/10/2


真田三代 上


大河ドラマ『真田丸』は私にとってワクワクする作品だった。結局、第十数話目以降は挫折し、最後まで通して見ることができなかった。だが、機会があれば、もう一度見直してみたいと思っている。

真田の物語の何に惹かれるのか。それは小さな勢力が大きな勢力の間で伍して生き抜く姿にある。その必死さは、私自身の境遇に似ている。
大企業に属さず、個人の力でどこまで経営が続けられるのか。それは私が日々実践している経営のスリルでもある。醍醐味とでもいおうか。
どうすれば大企業に呑み込まれず、自分の力で生きていけるのか。私はそのヒントが戦国時代の真田家にあると思っている。戦国時代を駆け抜けるにあたっての真田家の労苦。私はそこに共感している。

武田家や村上家。上杉家と北条家。織田家に徳川家。真田の郷は、そうそうたる戦国の群雄たちがしのぎを削る狭間の地にあった。ささやかな勢力。周りの国々の間で少しでも均衡が崩れれば、即座に自国に影響が生じる。その時、時代に飲み込まれてしまうのか、生き延びられるのか。それは当主の判断にかかっている。生き馬の目を抜くと称された戦国の日々の過酷さは現代とは比べ物にならない。

真田幸隆、昌幸、そして幸村こと信繁。本書はこの真田家の三代を担った男たちの姿を描く。その男たちに共通するのは、大きな組織に属さず、小さくても独立を貫こうとする誇りだ。

「幸隆は生きるためには詐術も使うが、その身のうちには熱い血潮が滔々と流れている。冷徹なようでいながら、どこまでも人間臭く、人間臭いようでいながら、いざとなれば情を切り捨てる冷たさを持っている。その落差の大きい二面性こそが幸隆の魅力であり、最大の武器でもあった。」(121ページ)

急激に力を伸ばしてきた武田晴信は、信濃を手中におさめんとしていた。それに対し、信濃を勢力下に収める村上義清は武田家の侵攻に備える。武田家と村上家の勢力図が刻々と変化する中、真田の郷と一族を守るためにあらん限りの知恵を振り絞る幸隆。真田が後世に伝わったのもこの人物のおかげだろう。
その時々の時流を読みながら、武田家と村上家の間を往復し、勢力図に応じて臣従する相手を変える。だが、心底から服従したわけではない。あくまでも幸隆の行動原理は真田一門のため。そのためなら上辺で協力することも厭わない。冷徹な計算を働かせながら、より大きな勢力に恩を売る。

本書が面白いのは、祢津のノノウの歩き巫女だ。巫女として諸国を巡るノノウは、真田が持つ情報源だ。この時代、各大名は乱破、素破、草の者と呼ばれた忍びの者を活用して情報を収集していた。真田の場合、諸国を行脚して回るノノウを自国に抱えていたことが有利だった。ノノウたちの持ち帰る情報は、忍びから得られる情報とは質が違う。
昔も今も情報を制するものが時代を制する。むしろ、情報伝達の量が貧弱だった戦国期だからこそ、情報の重みが今とは比べ物にならないほど大きかったはずだ。
数年前に友人たちと祢津のノノウの郷を訪れた事がある。ひなびた集落に無縁仏が立ち並び、質素な雰囲気を今に残していた。だが、かつてこの地は情報の集積地だったのだろう。どことなく巨大な渦を残滓を辺りに感じた。

幸隆は、真田家の将来を思い、信綱、昌輝、昌幸を武田家の中枢に送り込む。武田晴信の薫陶を受けさせる事が、真田家のこれからにつながると信じて。
幸隆はさらに昌幸の子どもにも目を配ることを忘れない。

「われらのごとき弱小の一族は、人の欲望のありかを冷静に見定め、それを利用して人を動かし、戦いに勝つしか、生き残る術はない。」(353ページ)
これは幸隆から源三郎と源次郎に伝えた言葉だ。

だが、戦国の世を生き抜くには智謀を尽くすだけではどうにもならない。戦国最強と言われた武田家も、晴信をあらため信玄がいよいよ京に攻め上ろうとする時に信玄の病によって野望がくじかれてしまう。
後を継いだ勝頼は、偉大な父を超えようと焦るあまり、かえって武田家を滅亡へと追いやってしまう。

長篠合戦では三兄弟が事前に得ていた情報によって不利な状況が分かっていながら、面目にこだわって戦いを強行した勝頼。その戦いの中、信綱と昌輝は銃弾に命を散らす。
昌幸は父によって兄二人とは違う役割を与えられていた。それによって反発した昌幸は、腐らずに智謀と知見を磨く。
二人の兄がいなくなったことで真田家を継いだ昌幸は、より一層、冷徹な智謀を突き詰めようとする。父をもしのぐほどに。

だが、昌幸は苦労を重ねただけあり、単なる冷酷な知恵だけの人間ではない。
「たしかに信義の二文字は、上辺だけのきれいごとに過ぎぬ。人は信義ではなく、利欲によって動くというのがこの世の真実だ。しかし、目先の小さな利に踊らされ、右往左往していては、われらは心根の卑しい弱小勢力とあなどられるだけだ。ときに小利を捨て、真田ここにありと気骨をしめさねばならぬときもある」(500ページ)

これは、本能寺の変によって織田信長が死んだ後、上州で戦っていた滝川一益が孤立した際の昌幸の言葉だ。この言葉に沿って正幸は滝川一益を助ける。

単に冷徹なだけでは人は動かない。ここぞと言う時に情を発揮してこそ人は動く。そして世に何がしかの爪痕を残すことができる。

人の心をつかみ、利用するだけでなく後々のために生かす。その抑揚と硬軟を取り混ぜた考えこそ、まさに真田昌幸の真骨頂だ。
表裏比興の者と呼ばれた人物だが、私は、その言葉こそが戦国を必死に生き抜こうとした昌幸への誉め言葉だと思う。やるべきことをやり尽くした昌幸だからこそその称号を得たのだと評価したい。
情に流されない強さと冷静さ。周りの評価に動かされない確とした自ら。どれもあやかりたいものだ。

2020/10/1-2020/10/2


島津は屈せず


本書を読んだときと本稿を書く今では、一年と二カ月の期間を挟んでいる。
その間に、私にとって島津氏に対する興味の度合いが大きく違った。
はじめに本書を読んだとき、私にとっての島津家とは、関ヶ原の戦いで見事な退却戦を遂行したことへの興味が多くを占めていた。
当ブログを始めた当初にもこの本のブログをアップしている。
それ以外には幕末の史跡を除くと、島津家の戦跡には行く機会がないままだった。

だが、それから一年以上の時をへて、私が島津家に興味を抱くきっかけが多々あった。九州に仕事で行く機会が二度あったからだ。
訪問したお客様が歴史がお好きで、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂のファンであり、歴史談義に興じる機会があった。
また、出張の合間に大分の島津軍と豊臣・大友軍が激闘を繰り広げた戸次河原の合戦場にも訪れることもできた。

本書は、その戸次河原合戦からさらに数年下った、島津軍が大友・豊臣軍に敗れた根城坂の合戦の後から始まる。

根城坂の敗戦は局地の敗戦に過ぎず、豊臣家に膝を屈することはない、と徹底抗戦をとなえる義珍あらため、義弘。その反対に、藩主の立場から他の家臣の意見を聞き、現実的な判断を下そうとする義久。
当時の島津家を率いる二人の武将の考えには、現実と理想に対する点で違いがある。

ただ義弘は、自らの考えを兄の地位を奪ってまで成し遂げようとはしない。あくまでも兄を立てる。そして、統治は兄に任せ、自らは武において与えられた役割を全うしようとする。
本書は、義久ではなく、義弘を主人公とし、安土桃山から江戸に至るまでの激動の時代を乗り切った島津家の物語である。

豊臣家の傘下に組み込まれ、太閤検地を乗り切った後は、朝鮮への出陣でが始まる。
秀吉の野望に付き合わされた島津家も半島へと渡り、そこで鬼石蔓子と敵兵から呼ばれるほどの戦闘力を発揮し、大戦果を上げる。
大義が見えない戦いであっても、一度膝を屈した主君の命とあらば抗えないのが戦国の世の習い。その辺りの葛藤を抱えながらも、武の本分を発揮する義弘。

日本に戻ってからも領内で内乱が起き、島津家になかなか落ち着きが見えない。
そうしているうちに、秀吉の死後の権力争いは、島津家に次の試練を与える。
日本が東軍と西軍に割れた関ヶ原の戦いだ。
各大名家がさまざまな思惑に沿って行動する中、遠方の島津家は行動する意味もなく、藩主の義久は静観の構えを崩さない。内乱で疲弊した領内をまとめることを優先し。
だが、義弘はわずかな手勢を連れて東上しし、東軍へ馳せ参じようとする。
ところが、時勢は島津家をさらに複雑な立場に追いやる。
東軍に参加しようと訪れた伏見城で、連絡の不行き届きと誤解から、東軍の鳥居本忠から追い出されてしまう。

それによって西軍へと旗色を変えた義弘主従。
ところが、西軍の軍勢は兵の数こそ多いが、その内情はまとまっているとは言いがたく、義弘も本戦では静観に徹する。

関ヶ原の戦いは、布陣だけを見れば西軍が有利であり、西軍が負ける事はあり得ないはずだった。
ところが、西軍の名だたる将のうち、実際に戦った隊はわずか。
島津軍もそう。

私も三回、関ヶ原の古戦場を巡った。そして、武将たちの遺風が残っているようなさまざまな陣を見て回った。
島津軍の陣地は、林の中に隠れたような場所だった。だが、激戦地からはそう離れていない場所であり、当日は騒がしかったことと思う。
そんな中、微妙な立場に置かれた義弘は何を感じていたのか。
島津家が一枚岩で五千の軍勢を引き連れていれば、島津家だけでも西軍を勝利に導けたものを。

本書では、義弘の心中や家臣たちの様子を描く。
夜襲を提案しても、戦に慣れていない大将の石田治部は体面を前に立てられはねつけられる始末。
義弘の心中は本書にも描かれている。

そして、小笠原秀秋の寝返りから一気に変わった戦局と、その中で刻々と変わるあたりの様子の中、徳川家に島津の武威を見せつけようとする。
そして、美濃から薩摩へと戦史に残る遠距離の退却戦に突入する。

義弘主従は、大阪で人質の太守の家族を救い、薩摩に帰り着くことに成功する。
しかも、強硬な意思を貫き、本領の安堵を勝ち取ることに成功する。

関ヶ原の戦いで西軍に与し、本領の安堵を勝ち取った大名は、全国を見渡してもほぼいない。ましてや、関ヶ原の本戦に西軍として参加した大名に限れば、島津氏が唯一と言っても良い。

本書では家康が悔いる様子が描かれる。毛利と島津をそのままにしておくことが将来の徳川家の災いになるのではないかと。

著者は、本書の姉妹編として「毛利は残った」と言う小説を出している。

毛利家と島津家。ともに、関ヶ原の合戦によって敗戦側となった。
そして関ヶ原の合戦から260年の後に、ついに政権から徳川家を追いやった時もこの二家が中心となった。

戦国の過酷な世を勝ち続け、徳川家にも勝てる自信を持ちながら、戦国の世の義理の中でと主家を立て通した義弘。

その無念は、島津家に安穏とは無縁の家風を養わせた。260年の間、平和に慣れて保身に汲々とするのではなく、国を富ませ、鍛錬を怠らない。
そのたゆまぬ努力がついに徳川家に一矢を報いさせた。

本書は、その原動力となった挫折と雌伏を描いている。
本書を読むと、人の人生など短く思える。
私は島津家の尚武の気風を学ぶためにも、また機会を見て薩摩軍の戦跡を訪れたいと思っている。今、九州にご縁ができ、私の中で島津家への興味が増した今だからこそ。

‘2019/7/26-2019/7/29


戦国大名北条氏 -合戦・外交・領国支配の実像


本書は手に入れた経緯がはっきりと思い出せる一冊だ。買った場所も思い出せるし、2015/1/31の昼はどこに行き、どういう行動をとったかも思い出せる。

その日、友人に誘われて小田原で開かれた嚶鳴フォーラムに参加した。
小田原といえば二宮尊徳翁がよく知られている。だが、二宮尊徳翁と同じ江戸期に活躍し、今に名を残す賢人たちは各地にいる。例えば上杉鷹山や細井平洲など。
そうした地域が産んだ賢人を顕彰しあい、勉強しあうのが嚶鳴フォーラムだ。

嚶鳴フォーラムが始まる前、私と友人は小田原城を訪れた。
というのも、フォーラムでは城下町としての小田原が整備されるにあたり、北条氏が果たした役割を振り返る講演があったためだ。講師である作家の伊東潤氏は、北条氏の五代の当主がなした治世を振り返り、その治が善政であったことを強調しておられた。

フォーラムで刺激を受けた帰り、小田原の観光案内所に立ち寄った。
そこで出会ったのが武将の出で立ちに身を包んだ男性。その方は学生で、その合間を縫って観光ガイドを勤めてらした。そしてとても歴史に造詣が深い方だった。
小田原に住み、北条氏を熱く語るその方からは、小田原における北条氏がどのようにとらえられているかを学ぶことができた。彼の熱い思いはわたしにもたくさん伝わったし、私の思う以上に小田原には北条氏の存在が強く刻まれていることも感じられた。
その彼の熱意に打たれ、案内所で購入したのが本書だ。

兵庫の西宮で育った私にとって、地元が誇る大名への思いをストレートに語れる彼はある意味でうらやましい。というのも、西宮に武将の影は薄いからだ。
西宮戎神社を擁する門前町であったためか、江戸時代の大部分を通して西宮は幕府の天領だった。
戸田氏や青山氏が一時期、西宮を領有したこともあったらしいし、さらにその前には池田氏や瓦林氏が統治していた時期もあったようだ。
だが、西宮で育った私には故郷の武将で思い浮かぶ人物はいない。

今、私は町田に20年近く住んでいる。そして、故郷にはいなかった武将の面影を求め、ここ数年、北条氏や小山田氏にゆかりのある地を訪れている。小机城や玉縄城、滝山城、関宿城など。もちろん小田原城や山中城も。
そうした城は今もよく遺構を伝えている。それはおそらく、北条氏が滅亡した後、関東を治めた徳川家が領民を慰撫するために北条氏の遺徳を否定しなかったためだろう。

嚶鳴フォーラムをきっかけとした今回の小田原訪問により、私は北条家の統治についてより強い関心を抱いた。

ところが、本書はなかなか読む機会がなかった。
購入した二年半後には次女と二人で小田原城を登り、博物館で北条家の治世に再び触れたというのに。
本書を手に取ったのは、それからさらに一年四カ月もたってから。
結局、買ってから三年半も積んだままに放置してしまった。

さて、本書は北条氏五代の治世を概観している。
初代早雲から、氏綱、氏康、氏政、氏直と続き、秀吉の小田原攻めで滅亡するまでの百年が描かれている。百年の歴史は、過酷な戦国時代を大名が生き延び、勢力を伸ばそうとする努力そのものだ。

関東に住んでいると、関東平野の広大さが体感できる。
広大な土地に点在する城を一つ一つ切り崩してゆきながら、領内の民衆を統治するために内政にも力を注ぐ北条家。その一方で武田家、上杉家、真田家、結城家、佐竹家、里見家と小競り合いを続け、少しずつ領土を広げていった。
その百年の統治は困難で安易には捨てられない努力がなくては語れないはず。だからこそ、北条氏は容易に秀吉の足下に屈しようとしなかったのだろう。その気持ちも理解できる。

歴史が好きな向きには、北条家が関東で成した合戦がいくつか思い浮かぶだろう。
小田原城奪取、八王子城攻防戦、河越夜戦、二回にわたって繰り広げられた国分台合戦など。
「のぼうの城」で知られる忍城の水攻めも忘れてはならないし、滝山城から多摩川を見下ろしながら、攻め寄せる上杉謙信の残像に思いをはせるのも良い。信玄の旗が掛けられた松の跡から見る三増峠の戦場も趣がある。落城間近の小田原城に思いを漂わせながら、秀吉の一夜城を想像すると時間はすぐに過ぎてゆく。
だが、本書は物語ではない。なのでそうした合戦をドラマティックに書くことはない。むしろ学術的な立ち位置を失わぬようにコンパクトな著述を心がけている。

ただ、史実を時系列に描くだけでは読者が退屈してしまう。そこで本書は、全五章の中で北条氏と周辺の大名との関係を軸に進める。

第一章は「北条早雲・氏綱の相模国平定」として基礎作りの時期を描いている。
今川氏の家臣の立場から伊豆を攻めとり、そこから相模へと侵攻して行く流れ。大森氏から小田原城を奪取し、小田原を拠点に三浦氏との抗争の果て、相模を統一するまでの日々や、武蔵への勢力拡張に進むまでを。

第二章では「北条氏康と上杉謙信」として両上杉氏の抗争の中、関東管領に就いた上杉謙信が数たび関東へ来襲し、それに対抗した北条氏康の統治が描かれる。
北条氏の関東支配はいく度も危機にさらされている。が、滝山城の攻防や小田原城包囲など上杉謙信が関東を蹂躙したこの時期がもっとも危機に瀕していたといえる。

第三章では「北条氏政と武田信玄」として武田信玄が小田原城を攻めた時期を取り上げている。
上杉謙信もいくどか関東への出兵を企てていたこの時期。北条家がもっとも戦に明け暮れた時期だといえる。農民からも徴兵しなければならないほどに。その分、内政にも力を入れた時期だと思われる。そして今川家、上杉家、武田家とは何度も同盟を結んでは破棄する外交の繰り返し。

第四章では「北条氏直と徳川家康・豊臣秀吉」として天下の大勢が定まりつつあった中、関東の雄として存在感を見せていた北条家に圧迫が加えられていく様子が描かれる。
名胡桃城をめぐる真田昌幸との抗争や、佐竹・結城氏との闘い。天下をほぼ手中におさめた豊臣秀吉にとって、落ち着く様子がない関東平野は目立っていたに違いない。何らかの手段で統治せねばならないことや、そのためにはその地を治める北条家と一戦を交えなければならないことも。

終章は「小田原合戦への道」と籠城を選択した北条氏が圧倒的な豊臣連合軍の前に降伏していくさまが描かれる。
敗戦の結果、氏政は切腹、氏直は高野山へ追放されるなど、各地に散り散りとなった北条家。
北条家を滅亡に追いやった小田原合戦こそ、戦国の最後を締めくくる戦いと呼んでもいいのではないか。
もちろん、戦国時代は大坂の役をもって終焉したことに異論はない。ただ、全国統一という道にあっては、小田原の戦いが一つの大きな道程になったことは間違いないと考えている。

小田原の戦いで敗れたことで関東の盟主が徳川家に移った。それなのに小田原においては徳川の名を聞くことはない。
400年たった今も、小田原の人々は北条家の統治に懐かしさを覚えているかのようだ。よほど優れた内政が行われていたのだろう。
この度、小田原の人々から北条家についての思いを伺ったことで、私は北条家の各城を巡ってみようとの思いを強くした。
もちろん本書を携えて。

‘2018/11/10-2018/11/12


黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原


昨年の大河ドラマは軍師官兵衛であった。私も放映開始直前の秋、姫路城を訪問し、大修理中の天守閣を見学できる「天空の白鷺」から間近で天守を眺めることができた。街中に官兵衛の幟がはためき、姫路の街は官兵衛景気に沸いていた。

しかし、昨年一年間、とうとう一度も放映を見ることがなかった。興味がなかったわけではない。今でも総集編でもよいから機会があれば観てみたいと思う。あれだけの姫路の街の盛り上がりを目にしながら、放映を見逃したことに忸怩たる思いである。なにせ、私はテレビをほとんど観ない。日曜の放映時間に家にいることがなく、再放映のタイミングにもテレビの前に居合わせることがほとんどない。番組を録画するための機器も持ち合わせておらず、これでは放映を観ようがない。

放映開始から半年以上優にすぎてしまった時期になり、大河ドラマに追い付くのは諦めた。せめて書物からおさらいしようと思い、手に取ったのが本書である。

黒田官兵衛と云えば秀吉旗下の軍師として余りにも高名である。頭脳の切れもさることながら、野心家としてのエピソードが多数、巷間に伝わっている。

果たしてそれは講談や歴史小説の中で膨らまされた虚像なのか、それとも実像の黒田官兵衛、またの名を如水、または孝高は、天下を狙って爪を研ぐもののふだったのか。

本書は、本能寺の変後から関ヶ原合戦までの期間を通し、黒田官兵衛と子の長政の行動を史実から概観し、父子の実像を浮き彫りにせんとした作品である。

実像を描き出すため、本書は書状や由来の確かな史書を引用する。黒田父子の発給した書状はかなりの数が今に伝わっている。本書でもかなりの数が紹介されている。それらを丹念に追っていくことで、戦国の世を知略武略で生き延びた黒田父子の生きざまが浮かび上がる。

三木城攻めや、有岡城幽閉、備中高松城の水攻め、朝鮮出兵など、黒田官兵衛に纏わるエピソードは幾つもある。が、本書で一番印象に残ったのは、関ヶ原合戦直前まで繰り広げられた情報戦である。

関ヶ原の合戦で、吉川広家が陣から動かず、そのため後続に着陣していた毛利秀元や安国寺恵瓊軍が戦端に加われなかったのは有名な話だが、その陰には、徳川家康とよしみを通じ、その意を体して、吉川広家抱き込み工作を遂行した黒田親子の貢献があった。このことは本書を読むことではっきりと意識した事実である。本書でも多数の書状が黒田父子から吉川広家に届けられたことが示されている。その書状の筆跡からは、当時の情報戦の鍔競り合う様子が伝わってくるかのようである。そのことから、野心家としてのイメージはともかく、策略家としては間違いなく当代一級の人物であったことが理解できる。

後世、野心家のイメージを持たれる端緒となった、九州での関ヶ原合戦の数々。その際の書状も紹介されていたが、そこからは、千載一遇の機会があれば、天下取りへ名乗りを挙げていたかも知れぬ、黒田父子の意志が感じられるようである。とはいえ、明らかな野心を示す書状は示されていなかった。

むしろ黒田官兵衛の生涯を読み込むと、行間から立ち上ってくるのは信心が豊かで、折り目正しい人格者としての姿である。本書はそこまでのエピソードは紹介せず、あくまで書状からわかる実像の推測でしかない。少々煽るようなタイトルがついているが、それは発行者の営業戦略であり、著者の想いはそこには無かったのだろう。しかし、それでよい。挿話や伝説・伝承だけが独り歩きする歴史上の人物に対し、本書のようなアプローチをとる書籍が、いかに貴重か。歴史ロマンはロマンとして面白いものだ。だが、それは確かな史実の裏打ちがあってのロマンであってほしい。

大河ドラマで見直されたことをきっかけに、本書もまた読まれ続けていくことを望みたい。

‘2014/9/3-2014/9/4