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FACTFULLNESS


本書は、とても学びになった。
本書を読んだ当時の感想は、7日間ブックカバーチャレンジという企画で以下の文書にしたためた。
その時から一年数カ月が経ったが、今も同じ感想を抱いている。

Day1で取り上げるのは「FACTFULLNESS」です。昨年、ベストセラーになりましたよね。

今、コロナを巡っては連日、さまざまな投稿が花を咲かせています。その中には怪しげな療法も含まれていましたし、私利私欲がモロ見えな転売屋による投稿もありました。また、陰謀論のたぐいが盛んにさえずられているのは皆様もご存じの通りです。

私はFacebookでもTwitterでも、そうした情報を安易にシェアしたりリツイートすることを厳に謹んでいます。なぜなら、自分がその道に疎いことを分かっているからです。
ですが、四十も半ばになった今、自分には知識がある、と思い込んでしまう誘惑があることも否めません。
私のように会社を経営し、上司がいない身であればなおさらです。
独りよがりになり、チェックもされないままの誤った情報を発信してしまう愚は避けたいものです。

本書は、私に自分の無知を教えてくれました。私が世界の何物をも知らない事を。

冒頭に13問の三択クイズがあります。私はこのうち12問を間違えました。
著者は世界各地で開かれる著名な会議でも、出席者に対して同様の問いを出しているそうです。いずれも、正答率は低いのだそうです。

本書の問いが重要なこと。それは、経歴や学歴に関係なく、皆が思い込みで誤った答えを出してしまうことです。
著者によれば、全ては思い込みであり、小中高で学んだ知識をその後の人生でアップデートしていないからだそうです。
つまり真面目に学んだ人ほど、間違いを起こしやすい、ということを意味しています。

また著者は、人の思考の癖には思い込ませる作用があり、その本能を拭い去るのはたやすくないとも説いています。

本書で説いているのは、本能によって誤りに陥りやすい癖を知り、元となるデータに当たることの重要性です。
また、著者の意図の要点は、考えが誤りやすいからといって、世の中に対して無関心になるなかれ、という点にも置かれています。

本書はとても学びになる本です。少しでも多くの人に本書を読んでほしいと思います。
コロナで逼塞を余儀なくされている今だからこそ。
陰謀論を始め、怪しげな言説に惑わされないためにも。

正直にいうと、私はいまだに偏見の霧に惑わされている。
というか、偏見に惑わされないと思うあまり、判断を控えている。
コロナの中でオリンピック・パラリンピックを開催し、その後、急に感染者数が減った事。私はこの時、なんの判断も示さなかった。
専門家でないことはもちろんだが、私の中で下手な判断をくだせば逆効果になると思ったからだ。
こればかりはFACTFULNESSを読んでも実践できなかった点だ。

「世界は分断されている」「世界がどんどん悪くなっている」「世界の人口はひたすら増える」「危険でないことを恐ろしいと考えてしまう」「目の前の数字がいちばん重要」「ひとつの例にすべてがあてはまる」「すべてはあらかじめ決まっている」「世界はひとつの切り口で理解できる」「だれかを責めれば物事は解決する」「いますぐ手を打たないと大変なことになる」
これらは本書が説く思い込みの例だ。

コロナは世界中でワクチンの争奪戦を呼び起こした。
その時、先進国ではいち早くワクチンが行き渡ったが、発展途上国ではいまだにワクチンが出回っていないという話も聞いた。
この情報は、果たして正しい情報なのか。
上記に書いた思い込みではないのだろうか。
私はこれもまだきちんと調べられていない。

FACTFULLNESSは怪しげなニュースソースに乗っかって言説を吐くことを諫めてくれた。
だが、このように一大事の際に何をみれば正しい情報を得るのか、という点については、一人一人が探していくしかない。
例えばテレビ番組では連日コロナ関連の報道がなされていたが、ああした番組をただ見比べて自分で判断していく以外に道が見つけられなかった。
テレビ局ごとに別の専門家が意見をいい、それを比較するのが精いっぱい。

本書の説く内容に従うならば、私たちはよりおおもとのニュースソースにあたり、加工・脚色された情報を見極めなければならない。
だが、コロナは遠くの国の出来事ではなく、自らに降りかかった災厄だ。しかも何が正しいのか専門家すらわかっていない現在進行形の出来事。
そうなると冷静に判断することも難しい。
それがコロナの混乱の本質だったように思う。

気を付けなければならないのは、これがコロナに限らないことだ。これから起こるはずのさまざまな事件や災厄についても同じ。
マスコミも私たちも等しく、コロナから学ばなければならないことは多いはず。反省点は多い。
「大半の人がどこにいるのかを探そう「悪いニュースのほうが広まりやすいと覚えておこう」「直線はいつかは曲がることを知ろう」「リスクを計算しよう」「数字を比較しよう」「分類を疑おう」「ゆっくりとした変化でも変化していることを心に留めよう」「ひとつの知識がすべてに応用できないことを覚えておこう」「誰かを責めても問題は解決しないと肝に銘じよう」「小さな一歩を重ねよう」
まずは、これらの提言を実践するしかない。

ただ、本書を読んだ後、私が実践し続けようと心がけていることはある。
それは謙譲の心だ。
上の7日間ブックカバーチャレンジの後、弊社は人を雇う決断をした。そして人を雇った。
それが今年だ。
人を雇うことによって、今までの一人親方として営業と開発と総務経理を兼ねる立場から指導する立場へと役割を変えた。

そうなると指導する前提で話をしなければならない。指導ということはあらゆることに秀でている必要があるのだろうか。
否。そんなことはない。
確かに開発にあたっては、知識が必要だ。
だが、本当に経営者は開発の知識において従業員を上回っていないとだめなのだろうか。
違うと思う。
その時に私の心に去来するのは、謙譲の心だ。決して自分が正しいと思わない。
これは本書から得た学びだ。13問のうち12問を間違えた自分が正しいはずがないのだから。

‘2020/04/20-2020/04/28


精神論抜きの電力入門


貧しい資源の上に危うく乗っかった日本の繁栄。福島第一原発の事故によって、改めて我々にはその事実が突き付けられた。資源に乏しい我が国が、今の繁栄をどのように維持するのか。多くの人々が忘れ去ってしまったこの問いは、実は全く解決されていない。問題は棚上げされ、事故から4年以上の時が過ぎている。本書は、この問いに答える上で、重要な資料となるかもしれない。一読してそんな感想を抱いた。

著者は経済産業省で資源エネルギー政策の課長などを歴任した人物である。原発推進を国策とした経緯に当事者として関わり、政策の立案者として貢献してきた。いわば我が国原発推進の中心人物であり、その主張は原発推進の立場に依っている。

なぜ日本が原発に頼らざるをえないのか、どうして即時原発廃止が現実的でないのか。クリーンエネルギーが主流にならないのは何が問題か。そういった疑問に対し、本書では精神論に頼った議論を切り捨て、実務の立場からの解説に終始している。本書の題には「精神論ぬき」という言葉が含まれている。なぜそのような言葉を入れる必要があったのだろうか。それは、原発事故の後、精神論で今の電力危機を乗り切ろうとする風潮への警告なのだろう。

私も実は、当時精神論寄りの意見を吐いた一人だ。ただし、単純な精神論だけを唱えていた訳ではない。「電気が無ければただの箱」であるIT技術に生活の糧を得る者として、電力の安定的な供給=原発は必須と考えていた。そのため、原発の即時廃止についても慎重論に立っていたように覚えている。そして、原発は将来的には廃止の方向で考えるべきだが、代替エネルギーの無い現状では稼働せざるをえず、稼働させ続けた上で電力使用量を減らして徐々に原発から脱却すべきという意見を述べた。その意見は今も変わっていない。

夜間に煌々と明かりをつける住宅展示場や、繁華街の過剰にまぶしい光。これらをもう少し抑えるだけで、夜間電力量は減らせるのではないか。重要なのは昼夜の電力使用量の節約云々ではなく、万が一に備えて普段から節約(MOTTAINAI)の精神に慣れておくこと。それが資源貧国の民としてあるべきではないか、というのが私の思いだったように思う。今思い返しても、一歩間違えると精神論の罠に落ち込みかねない意見だ。しかし間違った意見だとは今でも思っていない。間違っていないが、私がその意見を述べるにあたり、裏付けとなる確かなデータや知識を持っていた訳ではないことは率直に認めたい。だが、本書は意見を述べるためのデータや知識を持つ、実務の第一線の著者が描いた本である。

著者の論考は、徹底して実務の立場に立っている。そこには一切の希望的観測は含まれない。理想論や希望論を排する姿勢は清々しいほどだ。冷徹な立場に徹して電力事情について解説された本書には、精神論の入り込む隙間もない。それでいて、本書が原発バラ色未来だけを描いた本かというと、そうでもない。原発利権や電力会社の構造問題にもきっちりとメスを入れている。著者の視線は常に原発の存在について、理想論や希望論を抜きにした、精神論からは遠く離れた場所に留まっている。著者の立場からいえば難しい、単純な原発擁護論とは一線を画しているのが本書の素晴らしい点の一つといえる。

第1章 電力不足の打撃と損失
第2章 原発依存にかたむいた事情
第3章 エネルギー政策の基礎とルール
第4章 再生可能エネルギーの不都合な真実
第5章 原子力をめぐる不毛な論争
第6章 賠償を抱えた東電の行く末
第7章 電力自由化の空論と誤解
第8章 「東日本卸電力」という発想の転換

ここに各章の表題を挙げたが、論じるべき点は全て論じきっているといえる。日本の電力を考える上で、本書で提示された現状を出発点とすることは重要ではないかと思う。

ただし、事故当時、精神論を唱えた私としては、まだ理想論や精神論は捨て去りたくない気持ちもある。精神論を排した本書には一矢でも報いておきたいところである。例えば、本書の第一章、第二章。電力使用量を下げねばならないという市井からの主張に対して、著者は現実的でないと一刀の元に切り捨てている。ここは少し納得が行かない。著者の唱えるすべての施策が実現しても尚、また、仮に原発事故が起こらなかったとしても尚、電力を無尽蔵に消費し尽す今のライフスタイルは見直さねばならないのではないか。これは電力問題にとどまらず、日本の将来を考える上で重要な論点ではないだろうか。

もう一点、本書ではクリーンエネルギーについても国内外の事情を紹介した上で、現時点では質量ともに代替電力としては期待できないと結論付けている。この結論は現時点では認めざるをえない。だが、著者は決してクリーンエネルギーの将来を見捨てている訳ではない。それは本書を読んでも明らかである。本書を読んだクリーンエネルギー開発の技術者の方は、是非とも本書を読み、発奮してクリーンエネルギーを開発して頂きたい。精神論にも似非科学にも無縁の、文句のつけようのないクリーンエネルギーを。その点は、私も著者も思いは一緒だと思う。

最後に、本稿を書く段になって、著者のブログhttps://ieei.or.jp/2015/06/sawa-akihiro-blog150623/ を読む機会があった。そこには、原発推進派としての著者からの贖罪にも似た言葉が綴られていた。本書ではそういった贖罪の言葉は見られない。おそらくはあえて外したのだろう。だが、このブログからは著者の真摯な態度が伝わってくる。本書を読んで、所詮は原発推進派の都合にそったことしか書かれていないんでしょ、と思う向きは、このブログを読まれることをお勧めする。クリーンエネルギーを望む声が高まってもなお、原発を推進せざるをえない日本の貧しい資源事情について、思いを致すこと間違いない。

著者とて、決して手放しで原発が最適解と考えている訳ではないのだ。著者一人にその重荷を背負わせるのではなく、我々市民として電力の節約を唱えることは、決して精神論ではないと思うのだが。本書とブログを読み、著者の真摯な姿勢に感銘を受けても尚、私が抱く電力節約についての想いだけは変わることはなかった。

という内容を書いたまま、8か月近く本稿を眠らせていた。読んだ順に読読ブログをアップするという方針のため、他のレビューを待っていたのだ。今日、本稿をアップするわけだが、結果として本書を読み終えて一年以上が経ってしまった。しかも、あろうことかその間に著者は病魔に侵され、この世から去ってしまった。今年の1月16日のことである。著者と面識があった訳ではないけれど、ブログから著者の想いに触れていただけに衝撃を受けた。当ブログが存命中の著者の目に触れることはなかっただろうことは分かっている。だが、著者の存命中に本稿をアップしたかった。アップが著者の死後になってしまったことは慙愧に堪えない。

私が偉そうなことは言えないことは重々承知だ。IT業界に生きるものとして、電気に縛り付けられた一人にすぎない。プライベートでも電気の点けっぱなしは始終やらかす。著者からみれば私もまた電気を湯水のように使い倒す大衆の一人なのだろう。それは分かっている。だからこそせめて、こういった文章をものし、著者の想いに少しでも報いたかったと思うのだ。

著者亡き今、東京は都知事が辞任するという体たらく。それでいて2020年のオリンピックは着々と迫っている。電力問題など真面目に考えている人などほんのわずかしかいないに違いない。さぞ無念だったことだろう。本書や著者の遺したブログが少しでも多くの方の目に触れることを望みたい。

‘2015/6/20-2015/6/24


里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く


今の社会はこのままでよい。そう思っている人はどれくらいいるのだろう。大方の人々は、今の社会や経済の在り方になんとなく危うさを感じているのではないか。本書は、そんな社会の在り方に疑問と危機感を抱いたテレビディレクターが、ドキュメンタリーとして放映した番組を書籍化したものである。

今の日本社会は資本主義に基づいている。右肩上がりに成長することが前提の社会。その成長の前提が、限りある資源をエネルギーとして消費することで成り立っていることは言うまでもない。

しかし、便利さに身を委ねているとその事に気付くことはない。私も含め、いつかはなくなる資源の上にあぐらをかき、依存する日常。

昔からこの事に気付き警鐘を鳴らしてきた人々は多数いた。しかし、大多数の文明のぬるま湯に浸かる人々の心には響かぬままだった。しかしここに来て、少しずつ未来を憂える意見が注目され始めている。このままでは人類に未来はない、との危機感が少しずつ実感を持って浸透している。

とはいえ、人々に染み付いた文明の快さは容易には拭い去れない。資源を消費し信用貨幣を流通させる今の経済の仕組みを転換することは難しい。それでもなお、違う未来を切り開くための努力は世界のそこかしこで続けられ、それを紹介する映像や文章は求められ続ける。本書は、その一角を占めるに相応しい一冊である。

本書は、NHK広島支局の取材班による特番放送を基にしている。当初は中国山地の山間にある庄原市に住む和田芳治さんの取り組みからこの企画が持ち上がったという。本書も和田さんの取り組みの紹介から始まる。その取り組みとは、エコストーブである。

エコストーブとは一言でいえばリサイクルである。先に、今の経済の仕組みは資源の消費を前提にしていると書いた。遠方のどこかで産出された原油やガス、またはウランから取り出されたエネルギー。これが津々浦々に張り巡らされた送電網を通じて送られる。今の日本の繁栄は、それなくしては成り立たない。和田さんはその仕組み自体は否定しない。否定はしないが、依存もしない。依存せずに済ませられる方法を前向きに探す。その行き着いた結論の一つとして、裏山にいくらでもある枯れ枝を燃やす。それだけで、ガスや電気の替わりとなる。

和田さんは、消費経済から発想を転換するため、言葉も自在に操る。「廃棄物」→「副産物」。「高齢者」→「光齢者」。「省エネ」→「笑エネ」。「市民」→「志民」。本書59ページには和田さんの哲学が凝縮された言葉も紹介されている。「なぜ楽しさばかり言うかというと、楽しくなければ定住してもらえないだろうと思っているからです。金を稼ぐという話になると、どうしても都会には勝てない。でも、金を使わなくても豊かな暮らしができるとなると、里山のほうが、地方のほうが面白いのではないかと私たちは思っています」

たかが言葉も前向きな言葉に変えるだけで印象が変わる。人の心はかように不安定なもの。今の社会を形作る貨幣経済への思い込みもまた同じ。そこからの脱却は、思い込みを外すだけで簡単に実現できる。和田さんの姿勢からはそのようなメッセージが滲み出ている。第一章では庄原市の和田さんの他に面白い取り組みが紹介されている。同じ中国山地にある真庭市の銘建工業の中島さん。製材の過程で出る木屑をペレット状に加工し冷暖房の燃料に利用する。これによって真庭市全体で自然エネルギーの利用率は11%と、日本の平均1%を大幅に上回っている。一般にバイオマスエネルギーには否定的な論調を目にすることが多い。例えばアメリカではとうもろこしをバイオマスエネルギーの原料として使うが、それによって本来食糧として作付けされるべきとうもろこしがバイオマス原料として作付けされ、供給量や市場価格に影響を与える云々。

しかし、製材の木屑や枯れ枝利用であれば、そういった批判は封じ込められるのではないか。原子力や火力発電に成り代わることはないだろうが、風力や地熱や潮汐力発電の替わりにはなり得る。なおかつ、日本の国際収支を悪化させる火力発電用の燃料輸入費用を少しでも減らせるとすれば、普及させる価値はある。

第二章では、国ぐるみで木屑をバイオマス燃料として推進利用しているオーストリアの事例を紹介する。

数年前のユーロ危機において影響を最小限に止め、その経済状態は良好であるオーストリア。その秘密が林業とそこから産み出されるエネルギーにあることが明かされる。国ぐるみで林業を育成し、林業で利益をあげ、林業でグローバル経済から一線を引いた独自の経済圏を築く。本書によると、オーストリアでは再生可能エネルギーが28.5%にも上るのだとか。

ゆくゆくは、原発由来の電力すら完全に排除することも視野に入れているとのこと。国民投票により脱原子力を決議したが、それを実践しているのがオーストリアである。

本書ではオーストリアの代表的な街として、ギュッシングが紹介されている。木材から出る木屑をペレットにし、それを街ぐるみで発電する。外部から購入するエネルギーはゼロ。逆に売電を行い、安定した余剰電力を求める企業の誘致にも成果をあげているという。

バダシュ市長による言葉が本書の100ページに出ている。「大事なのは、住民の決断と政治のリーダーシップだ」

さらに本書は、オーストリアで出ているCLTという木造高層建築も紹介する。鉄とコンクリートいらずで、同じような強度を持つのだとか。耐震性・耐火性も備えており、日本の耐震実験施設で七階建のCLTが震度七の揺れに耐えたのだという。

先にあげた中島さんは、日本へのCLT導入へ意気込んでおられた。すでに日本CLT協会の設立も済ませ、法改正にむけた訴えもされているとか。その後CLTはどうなったであろうか。調べてみようと思う。

本書はここで、中間総括「里山資本主義」の極意と題し、著者に名を連ねる藻谷氏による中間総括を挟む。

中間総括は、一章と二章で取り上げられた内容のまとめだが、それだけには止まらない。かなりの分析が加えられ、中間総括だけで十分書籍として成り立つ内容になっている。特に138ページにある一文は重要である。「われわれの考える「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、お金に依存しないサブシステムも再構築しておこうというものだ」

また、マネー資本主義へのアンチテーゼとして三点が挙げられている。
1 「貨幣換算できない物々交換」の復権
2 規模の利益への抵抗
3 分業の原理への異議申し立て

一章、二章とこの中間報告は今の日本とこれからにとって良き指標となるかもしれない。そのくらいよくまとまり、なおかつ既存概念をうち壊すだけの破壊力も備えている。

三章は、瀬戸内海に浮かぶ周防大島でジャムを作る松嶋さんが主人公だ。新婚旅行で訪れたパリのジャム屋に触発され、大手電力会社の職を捨ててまでIターンした経緯や、そのあとの開業への取り組みなど、サラリーマンに疲弊している方には参考にも刺激にもなるに違いない。まずは都会の常識を取っ払う。さらには、田舎の常識をも取っ払う。ここに松嶋さんの成功の鍵があるように思える。都会の発想では仕入れは安く、製造工程は効率化するのがセオリーだ。田舎の発想では、なるべく店舗は繁華街に、人の集まる場所に構える。しかし、松嶋さんはそのどれも採らない。原料は高く買い、人手を掛けて作り、人家のあまりない海辺の一軒家に店をだす。

ここで、本書は重要な概念を提示する。ニューノーマル。震災以降の若者たちの新たな消費動向のこと。要は本書が目指すライフスタイルであり、グローバル経済、消費前提、マネー資本主義とは対極の消費動向のこと。成長が前提の経済とは対極の生き方を選ぶ若者が、今増えているという。

第四章は、”無縁社会”の克服と題し、里山での人々のつながりを豊かにする取り組みに焦点を当てる。持ちつ持たれつという日本的な近所付き合いへの回帰。これもまた、金銭換算しない里山資本主義の利点。

第五章は、「マッチョな二〇世紀から「しなやかな二一世紀」へ、と題した次世代社会システムの提言だ。とはいえ、その概念のパイオニアは本書ではない。すでにスマートシティという言葉が産まれている。スマートシティプロジェクトという公民学産の連合体が結成され、その中で議論がなされている。それも日本有数の企業メンバーによって。スマートシティとは本書によれば、巨大発電所の生み出す膨大な量の電気を一方的に分配するという20世紀型のエネルギーシステムを転換し、街中あるいはすぐ近くで作り出す小口の電力を地域の中で効率的に消費し、自立する二一世紀型の新システムのこと。

スマートシティの精神と里山資本主義には、さまざまな符合があることが本章で指摘される。今の疲れきった都会のインフラやそこで働く人々。それに対し、スマートシティまたは里山資本主義の考えが広く行き渡った暁には、日本は持続性のある社会として住みよい国となる。本書が一貫して訴えてきたのも、都会中心の生活からの脱却なのは自明だ。私が強く賛成したいのもこの点だ。

最終総括として、今の日本に対する楽観的な提言がなされる。曰く、日本はまだ可能性も潜在力も秘めており衰退などしないという。さまざまな経済指標が掲示され、さまざまな角度から日本の力が残っていることが示される。「日本経済ダメダメ論」の誤りとして三節に渡って日本経済悲観論者へのダメ出しを行うこの章もまた、本書において読むべき章だろう。特に日本の大問題とも言える少子化問題についてもそのプラス効果が謳われている。ただし、それにはマネー資本主義からの脱却が必要と著者は指摘する。そして2060年。人口の減った日本からは様々な問題が去っていることを予言している。

今の日本は灰色の悲観論が覆っている。私は悲観論には与したくない。だからといって、今の日本がこのままでいいとは全く思わない。要は行動あるのみ。今の経済社会のあり方は早晩崩壊するだろう。それは私の死んだ後のことかもしれない。しかし、今動けば崩壊を回避できるかもしれない。キリバスが海面下に没するのは遠い異国の話ではない。同じ目に日本が遭わないとは限らない。いや、津波という形で間違いなく被害に遭うだろう。しかし、本書を読む限り日本にはまだ望みがある。私に今すぐ出来ることは、本書で取り上げられた取り組みを少しでも広めること。そう思って本稿を書いた。

‘2015/04/01-2015/04/07


中東国家と日本の関係をエネルギーの観点から考える


ISISの残虐な所業から時間が経ち、議論が百出しています。 後藤さんの行動に対する失礼極まりない誹謗中傷から、ジャーナリズムの有り方についての意見まで。安部首相の行動から、外交の問題や自己責任論に踏み込む意見まで。

読むに耐えない意見も多い中、参考になる意見や、唸らされる卓見にも出会いました。でも、皆さんの議論にあまり出てこなかった観点があります。

それはエネルギー、資源からの観点です。

ISISは国際社会では無視されているとはいえ、国を名乗っています。国を名乗る以上、内部で経済が機能しているはずです。彼らの外貨獲得の手段として産油があります。しかし昨年、産油施設が奪回されました。そして産油施設をISISから奪回する試みは今も続き、効果を上げているとのことです。記事

産油施設を失ったことで経済的に困窮したISISが誘拐ビジネスを再び活発化させ、その刃が湯川さん後藤さんに及んだという憶測も成り立ちます。

また、お二人の殺害は、安部首相の中東での演説がトリガーとなったとの批判を目にします。1月16日からの安部首相によるエジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ自治政府への歴訪の目的は何だったのでしょうか。私は、産油国との関係強化を目指したものではなかったかと思っています。歴訪国は主要な産油国ではありません。また、演説でも石油について言及した訳でもありません。それでも、中東各国と日本のパイプを深め、産油国との関係強化に結び付ける。そのような目的があったのではないかと思います。演説の中でISISと戦う諸国へ資金を提供する意思を示したのも、中東での日本の存在感を明らかにするため、旗幟を鮮明にする意図があったのではないでしょうか。

先の東日本大震災で、我が国の原子力発電は致命的なダメージを蒙りました。もはや原発推進派の挽回の努力は実ることはないでしょう。そのぐらい、深刻なダメージでした。その一方、地震直後に計画停電が実施された際は節電の機運が高まりましたが、それもいつしか喉元を過ぎ、街中では煌々と明かりが照っています。そして日本の燃料輸入費は高騰を続け、ただでさえ赤字の日本経済に大きな影響を与えています。記事

依然として原子力・火力に変わる大規模な効率的な発電方法の実用化の目途は立っていません。次世代の有力なエネルギー源として脚光を浴びたシェールガスも年初にアメリカの大手企業が倒産(記事)するなど安定しません。そのような現状を考えると、我が国としては中東との関係を太くせねばなりません。安部首相の中東歴訪と演説にはこのような意図が込められていたのではないかと思います。そしてISISとの関係もエネルギー資源の状況によって揺れ動きます。資源貧国である我が国にとって、中東の国家との関係はいまや無視できないものとなっています。

中東との関係に関して、政治や外交、貿易の現場を知らない我々が出来ることはあまりありません。しかし2つほど挙げることはできます。1つ目は中東諸国の文化を理解することです。先日、イスラム教に対する理解を深めなければという意見を書きました。2つ目は、エネルギー依存を抑えるために、東日本大震災直後のように一過性のものでなく、長期的な節電の意識を高めることです。日本の夜は明るすぎます。街中の煌めく明りを何とかするだけで、我々が国に対して貢献できることは多いのではないかと思います。もうちょっと光量を抑えてもなんとかなる。そのことを東日本大震災後の日々で学んだはずです。今の街を照らす光は明らかに過剰です。

安部首相の行動を批判する前に、ISISに対して批難を行う前に、後藤さんのご遺族に対して中傷を加える前に、こういった少しの努力が必要ではないかと思いました。もちろんそれはITで生活の糧を得る私自身にも言えることです。