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「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版


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本書はその重厚な分厚さと、壇上にあぐらをかいて語る著者の風貌が目につく。本屋や書評でも見かけ、読みたいと思っていた。
そこで47歳の誕生日の自分へのプレゼントとして妻に買ってもらった。

47歳。あと3年で50歳を迎える。いわゆるアラフィフだ。人生の後半戦であり、その後にやってくる死が意識の端にのぼり始める。

永遠に続くはずと思い込んでいた日々。そのはるか先に暗闇、つまり無が口を開けている。無が私たちの前途を黒く塗りつぶす光景は、想像の難しい領域だ。だが、誰にも必ずその終わりは来る。それに備えておかなければ。
本書のテーマである「死」は、私にとって知っておかねばならないテーマだった。

本書はイエール大学で23年間続いたという講義の内容をもとにしている。
とはいえ、本書は死についての本質を明快に語ってくれるわけではない。世に多くある哲学書と同じく、本書は死の概念の周囲を歩き回りながら、さまざまな視点と切り口から死の本質を覗き込もうとしている。
死は著者の慧眼を持ってしても一言で言い表せる類の概念ではない。そのため、本書は決して読みやすいとは言えない。

だが、ありとあらゆる切り口と視点から死と生を語る本書は、私たちにその概念を考えるきっかけを与えてくれる。

自己の同一性や時間の概念。魂の存在や死後の世界。そして自殺は倫理的に正しいのかについての考察。

以前もどこかで書いたように思うが、子供の頃の私は死を恐れていた。
死んだらどうなるのか。自分が死んだ後、世の中は何も変わらず続くのに、世界でたった一つの自我は無に消える。そのことが耐え難く恐ろしく、心の底から死に慄いていた。
頭では、ほぼ全ての人間が自我を持っていることは分かっている。だが、自分の主観から見た世界は、他人の客観から見た世界の間には絶対的な違いがある。唯一無二の自我。それがどうにも理解できないでいた。

それから40年以上が経過した今、私は日々の仕事の忙しさを乗りこなすのに精一杯だ。死や虚無を恐れる暇がない。
私にとって仕事とは、死の恐怖を忘れるために人類が発明した営みだと思っている。
でなければ仕事のための仕事や、管理のための管理がまかり通っている理由がない。

だが、無我夢中で仕事と戦っていた時期に終わりが見え、ある程度乗りこなせるようになってきた。子育ても娘の卒業が見えた今、関わる必要が薄れてきた。

そうなると、次に考えるのは自分の死にざまだ。後半生では、死に向かうだけの自分の生きかたを考えなければ。

だが、今の私には死それ自体や、死の後に来るはずの虚無よりも恐ろている事がある。それは、残りの時間に自分がやりたいことがやれない未練だ。死の瞬間、私は自分のしたいことができずに死んでいく無念を全霊で悲しむだろう。

そうした迷いの数々を振り切りたくて、本書を手に取った。

著者はまず自らの死生観を明らかにする。そこで明言するのは、死後の魂を否定することだ。来世や輪廻、天国を否定する著者の口調に一切の迷いはない。死ねばそれで終わり。救いもなければ、やり直す機会もない。そもそも著者にとって死は悪いものですらない。

死は悪くない。その考えは果たしてどこから来るのか。死とはいったい何にとって悪いのだろうか。死を残念がるのは、死する主体、つまり魂なのか。その時に死ぬのは肉体だけで、魂は別と主張する人もいる。
では、肉体と魂は別々の存在なのだろうか。肉体が死んでも魂が別ならば、死を恐れる必要がない。魂があるなら死後の世界も生まれ変わりもあるだろう。天国すら存在するかもしれない。
だが、それを実証する術は私たちにはない。著者は魂の不在を主張する。だが、ないことを証明できない以上、魂が存在しないとも断言しない。

魂や意識は今の科学でも説明ができない。物質主義に寄った立場を隠そうとしない著者も、魂の存在については両者が引き分けと言っている。

著者は物質主義を貫くが、性急に結論を出さない。デカルトやプラトンの見解を援用し、詳細に彼らの哲学を検討し、本当に魂は存在しないのかについての綿密な論考を重ねてゆく。

私たちが魂を信じる理由は、自己の一貫性があるからだ。夜に寝て朝に起きた時、前の日の私と今の私は同一人物だ。私たちはそれを当たり前のこととして受け入れている。だが本来、それは証明ができない。同一に見えるのは外見だけ。もし精神に変調をきたした場合、前の日と次の日の自分は同じなのだろうか。それを証明する手段はない。だが、私たちはその同一性を当たり前のようにして日々を生きている。

著者はこの同一性を魂ではなく人格だと説く。記憶、肉体、魂で歯なく人格。
著者は人格こそが人の本質であることをほのめかす。この自己同一性があるからこそ、私たちは自分の人格を信じる。同一性が大切なことは、時間と空間を隔てても保持できることからも分かる。肉体と魂は別ではく、肉体の一機能である脳機能の発現こそ人格。

ここまで、本書の400ページ弱が費やされている。まだ半分だ。死とはまず何の主体に対しての死なのか。それをきちんと定義しておく。それが著者のアプローチだ。

ここまで論を深めた上で、著者はようやく死とは何かについて語る。意識の不在が死であるなら、睡眠もまた死と言えるはずだ。だが、睡眠が死とは違うことは誰もがわかっている。
そもそも本人にとって悪い事とは何か。悪い事と意識が認識して初めて、それが悪い事になる。意識とは生きている。悪い事を認識するには生きていることが必要だ。
では、意識が虚無である死のなかで、死は本人にとって悪い事なのだろうか。

さらに、意識のない状態が悪ならば、生まれてくる前の状態は本人にとってどういう状態なのか。生とは無限の時間の中で一瞬だけの間の話なのだろうか。

死が人間にとって悪くないとすれば、生きている間は人にとってどのような状態なのか。それが永遠に続く、いわゆる不死の状態は人にとって果たしてあるべき姿なのか。それは悪いことではないのか。

上に出てきた自己同一性の問題も不死が必要なのかについて考える題材になる。不死の体現者となった時、人は何百年、何万年と生きるだろう。その時、膨大な時を隔ててもその人は果たして同じ人物と言えるのだろうか。
10,000年前の自分が考えていたことを完全に覚えていない場合、自分は10,000年前の自分と同じ人物と言えるだろうか。
不死も同じ理由だ。しかも、不死と言っても常に成長を続けることはできない。どこかで衰えや飽きに苛ませられる。その時、不死は人にとって良いことではなくなる。むしろ、身の毛のよだつと言う表現まで使って著者は不死を拒否する。
そのように突き詰めて考えると、死は悪いことでない。

その上で著者は人生の価値、人生の良し悪しが何かについて述べる。
結局、人は死によってその生を中断させられる。来世も転生もなく。限られているからこそ、生を輝かせようとする。

著者は本書において明確な生の本質を語らない。むしろ、著者自身も自らの考えをまとめながら死を考えているように思う。
だが、著者による回りくどくも精緻な分析は、私たちが普段、考えずにやり過ごしている己の生を考えさせてくれる。本書から明確な死の定義を求めようとしても無駄だ。
だが、宗教が形骸化し、元となった仏典や経典が顧みられなくなった今、現代の人が死を考え直さねばならない現実を本書は教えてくれる。

正直に言うと、私は本書を読んでもなお、膨大な時間を求めている。数万年の生を。だが、いざ不死が自分の身に訪れた時、一億年もの間、衰えや飽きを知らずに生きていけるだろうか。
それを考えるためにも折に触れ、本書を読みなおしてみようと思う。

2020/9/2-2020/9/25


アジャストメント


フィリップ・K・ディックといえば、SF作家の巨匠として知られる。

映画化された作品は数多い。だが、著者はとうの昔に世を去っている。没年が1982年というから亡くなって30年以上経つ。それなのに2010年代になってもなお映像化された作品がスクリーンを賑わしている。こんなSF作家は著者だけかもしれない。

本書に収められた短編のうち最近のものは「凍った旅」だ。この作品は1980年に発表されている。1980年といえばインターネットどころか、マッキントッシュやウィンドウズが生まれたての頃だ。インターネットはまだ軍事用の連絡手段としてごくごく一部の人間にしか開放されていなかった時期。ネットライフなど、SF作家の脳内にも存在したか怪しい。著者が脂に乗っていた世代はさらに二世代ほど遡る。本書に収められた作品の多くはそのような時代に着想された。

そんな古き良き時代に産み出された著者の作品が、現代でもなお映像化されるのは何故だろう。

本書に収められた短編にはその疑問を解き明かす鍵が隠れている。

それは人の心を描いている、ということではないか。人の心の作用は、技術が発達した今もまだ闇の中だ。人工知能が当たり前となった現代にあっても、人の心の深淵は未知。精神医学も脳神経学も、脳波や言動といった表面に聴診器を当てて心の動きを推し量っているにすぎない。

つまり、著者の扱うSF的な主題は、今なおSFとして通用するのだ。たとえ道具立てが古びていようとも。そんなものは映像に表現する際に最新の意匠を当てはめれば済む。それだけの話だ。ここにこそ今なお著者の作品が映像化される理由が隠れていると思う。

その点を以下に示してみよう。

「アジャストメント」
2011年にマット・デイモン主演で映画化された。本編では、環境が人の心が作り出したものか、それとも環境があってその中に人の意識が作動するか、いわゆる唯物論と唯識論が取り上げられている。

「ルーグ」
犬と人間の交流の断絶を描いている。つまり、犬の心と人間の心は吠え声を通してしか繋がり得ないという事だ。犬が絶望的にいくら泣き喚こうが、人間にはただのうるさい無駄吠えとしか聞こえない事実。

「ウーブ身重く横たわる」
心のタブーの産まれる所に切り込んだ著者のデビュー作。何がタブーを作り出すのかがとても鮮やかに描かれる。

「にせもの」
ぼくがぼくだということを示す方法。記憶も自我もコピーされたとして、果たして自分が自分であることをどうやって証明すればよいか。自我のあり方について鋭くえぐった一編だ。

「くずれてしまえ」
本編は、心が陥る怠惰の罠を書いている。もしくは想像力の涸渇と言い換えてもよい。なんでもコピー自在な異種生物によって支えられた世界。それが崩壊して行く様。なにやら技術に依存しきった人類の未来を描いているようで不気味な一編。

「消耗員」
この一編は心とはあまり関係なさそうだ。いわゆる異種=虫とのファンタジー。

「おお! ブローベルとなりて」
本編は、同族以外のものを排除しようとする差別意識をテーマとしている。

「ぶざまなオルフェウス」
本編は、芸術家や歴史に名を残す人物に降り立つ霊感を扱っている。いわゆるひらめき。著者自身が登場するのも笑える。歴史改変ものでタイム・パラドックスに無頓着なのはご愛嬌だ。

「父祖の信仰」
信仰と忠誠の話だ。もしくは個人と組織の対立と言い換えてよいかもしれない。薬が登場するが、それは信仰や忠誠の媒介を象徴しているのだろう。そういった媒介物があって初めて、信仰や忠誠は成り立つのかもしれない。むしろ、成り立たないのだろう。

「電気蟻」
本編はロボットの自我の話だ。自我に気づいたロボットが自殺する話。これは、心の自律性を風刺していると思われる。

「凍った旅」
本編は、記憶や幼き日のトラウマの深刻さを描いている。長期睡眠者の意識だけが目覚めた中、宇宙船の統御コンピュータが、長期睡眠者の精神ケアのため、時間稼ぎに幼い日々の記憶を蘇らせる話だ。全てを暗く自虐的に受け取ってしまう長期睡眠者の心の闇が、ケアされていく様子が描かれている。

「さよなら、ヴィンセント」
これはリンダ人形のモデルのリンダについての物語だ。何かせずには自分のありようを確かめられない。そんな心の弱さが簡潔に記されている。

「人間とアンドロイドと機械」
これは著者のエッセイだ。内容や主旨がかなり回りくどく説明されており、全貌を把握することは難しい。私が受け取った著者のメッセージは、人間とアンドロイドと機械を厳密に区別する術はないということだ。自我よりも行動様式、もしくは存在論にまで話は及ぶ。その該博なエッセイの中で著者の結論を見出すのは難しい。結局は人間的な属性などどこにもない、という結論だと思ったが、どうだろうか。

‘2016/04/14-2016/04/20


後藤さんのこと


実験的といおうか、前衛的といおうか。
著者の作品は唯一無二の立場を確立している。

あまたの小説群が山々を成す中、孤峰として独立しているのが著者とその作品群だ。

冒頭の表題作からして、すでに独自世界が惜しげもなく披露される。森羅万象、古今東西に宿る後藤さん一般を、縦横無尽に論じ尽くすこちら。赤字、青字、緑字。黒地、赤地、緑地。そして白地に白字。カラフルな後藤さんが主語となり目的語となり述語となって本編を彩る。本編は壮大かつミニマムな後藤さんの存在論でもある。そして主語とは何かについて果敢に挑んだ記号論の極北でもある。

形而上であり、形而下。ペダンチックであり、ドメスチック。本編で著者は大上段に振りかぶり、大真面目な顔であらゆる角度から後藤さんを斬りまくる。かつて小中学生の頃われわれを悩ませた算数の証明問題。本編は、後藤さん一般を証明するために著者が仕掛けた壮大な問答の成果と言い換えてもよい。

本編から読者は何を得るのか。
その生真面目なユーモアを堪能することも楽しみ方の一つだ。それだけでも本書はじゅうぶんに楽しめる。

だが私は、本編は著者による実験だと思いたい。事物について、物事について語る事を突き詰めたらどうなるか。それが本編なのだ。一つの物事を極めるためには多面的かつ多層的にあらゆる角度からその事物を分析せねばなるまい。そして語れば語るほど、物事を表す語句は重なり合い、ハレーションを起こす。物事を表す語句はゲシュタルト崩壊を起こし、脳内で溶解してゆく。結果、語句は記号でしかなくなる。紙に印刷された後藤さん一般は、フォントの色と地の色によって眼に映るクオリアとしてしか認識できなくなる。本編で著者が仕掛けるのは、記号の本質論であり存在論に違いない。

続いて収められた一編は「さかしま」。「さかしま」とは「道理に反する」といった意味がある。

慇懃な文体でつづられた本編は、お役所が発行する文章のようだ。それが延々と続く。遠い未来の人類にまだお役所というものが残っているとすれば、その機関はこういう文書を発行するのだろう。その未来のお役所は、読者こと帰還者に向けてこの文章をつづり続ける。帰還者は、テラが人類の発祥の地であり、テラはすなわち凍結された領域ウルと等しいとする伝説を信じて帰還してきた人物だ。

宇宙は複数の泡宇宙が並行している。最新の宇宙論にはよく登場する議論だ。本書ではウルが存在する空間とは、時間次元が存在する特異な空間のこと記されている。つまり語り手のお役所と読者こと帰還者の時間の概念は食い違っているのだ。食い違っているというよりは、語り手のお役所には時間自体の認識がないと思われる。論理のみで構成された次元宇宙に存在する語り手のお役所は、時間という異質な次元に絡め取られた存在である帰還者とは本来相容れるはずがない。

では、そのような帰還者でない帰還者に向けて、語り手のお役所は何をそんなに事務的に解説するのだろうか。論理空間の執行者たるお役所が、帰還者に向けては論理にならない論理を堂々と語る。そのこと自体が「さかしま」ではないか、ということになる。つまり、本編はお役所という存在に向けての強烈なアンチテーゼの文章なのだ。固定された論理、つまりは法や条例で時間に生きる住人である帰還者を縛ることそのものが「さかしま」なのだ。著者が告発する「さかしま」とはその根源的な矛盾に他ならない。

続いての一編は「考速」。文章という存在の不可思議な多義性を追求した一編だ。文章が単語の切り方によって幾通りもの意味を持ちうることはよく知られている。いわゆる「ぎなた」読みだ。

弁慶がな、ぎなたを持つ
弁慶がなぎなたを持つ

この二つの文は、音読みすると「べんけいがなぎなたをもつ」となる。同じ読みであっても、句読点の置き方や単語の切り方によって文の意味がまったく違ってくる。本編ではそういった文章の構造論が追求される。追求されるのは「ぎなた」読みの可能性だけではない。文章を一つの図形の展開図としてみなし、それを再び立体に再構成し直す可能性の追求。そこまで著者の手は及ぶ。

思考に思考が追いつくことは果たして可能か。0と1による思考の限界。思考の循環を定理や公理とよぶことで、論理破綻から逃れるという論法。回路図と背理法のコンピューターノイズ。文章の語彙のならびが冗長ゆえに短くあるべきという考えと、文章の長さ故にあるいは圧縮することのかなわぬ長さがあるべきという考えの対立。

本編は、言語の成り立ちを問う。人類が長年の文化的お約束に安住して、なあなあでやりとりする言語の意味を。そもそも見直されなければならないのは言語が生物にのみ許された通信信号-プロトコルであるとの前提ではないか。著者が問うのは曖昧なお約束、つまり言語そのものについてだ。そして著者の問いを突き詰めた先には、人工知能による人工言語が待ち受けているに違いない。

続いての一遍は「The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire」。題名からしてデヴィッド・ボウイのあの名曲を想像させる。

そして、本編の内容は本書の中でも一番とっつきやすいかもしれない。「銀河帝国」という語彙を、あらゆる種類の文章にはめ込むことで、銀河帝国という言葉の意味が変容する。銀河帝国の意味は短くもなり長くなる。矮小にも縮めば雄大にも化ける。ユーモラスに変化し、かつ神聖さを帯びる。その自在な柔軟さは、言語がそもそも記号の集まりでしかないという事実を読者に再確認させる。文章論や文体論といったところで、それらを構成する単語のそれぞれはしょせん記号でしかない。本編は、著者が作家として文章へ挑んだ結果ではないだろうか。

たとえば
01:銀河帝国の誇る人気メニューは揚げパンである。これを以って銀河帝国三年四組は銀河帝国一年二組を制圧した。
23:銀河帝国を二つ買うと、一つおまけについてくる。三つ揃えると更に一つがついてきて、以下同文。
41:包帯で変装とは古い手だぞ銀河帝国第二十代幼帝。いや、今は銀河帝国第四十代幼帝とお呼びした方がよいのかな。
48:この世に銀河帝国なんていうものはありはしないのだよ。銀河帝国君。
81:家の前に野良銀河帝国が集まってきて敵わないので、ペットボトルを並べてみる。

続いての一編は「ガベージコレクション」。IT技術者にはこの言葉はよく知られている。プログラム内部で確保したメモリ領域をプログラム終了時に自動的に集めて再使用できるよう解放する機能をガベージコレクションと呼ぶ。昔のプログラム言語にはこの機構が備わっていなかった。つまりプログラマーはきちんとメモリの解放処理を行わねばならない。そうしないと解放されないまま使えないメモリ領域が増大してしまう。その結果、メモリの使用可能域を圧迫し、コンピューターが重くなる原因となる。いわゆるメモリリークだ。

本編で語ろうとしているのは、すべての情報系を制御しようとする試みだ。往々にして情報とは一方向のみに伝わる。すでに発信された情報は、もはや逆方向に戻ることはない。情報を逆流させて制御する試みは、人類に残された最後の領域となる可能性がある。今まで人類が意識したことのない、情報の方向性という問題。それにもかかわらず指数的に増大する情報量は、ログという形でロールバックされることが求められている。それは今後の情報社会の基盤に求められること必至の要件だ。システム開発の現場でもデータベースを使う際はログによる更新の制御は必須だ。障害時に更新前の情報に戻すロールバックや、正常時に情報の更新を確定させるコミットメントは当然の機能として設けられる。これをあらゆる情報系に拡大する思考実験が本編だ。

最終的には超現実数を持ち出すことによって、著者はその解決を図ろうとする。だが、それはその時点でこの試みが頓挫するに違いないということを意味する。情報のエントロピーは増大し続け、それを回収することは誰にもできそうにない。だが、回収できなければ、それはすなわち情報が世にあふれ続けることになる。しかもそのほとんどは無価値な情報のゴミだ。つまりガベージ。いったい、それを誰が解決できるのか。そもそも数学に無限やゼロは許されるのか。本編からはそんな著者の問題提起が読み取れる。

最後の一編は「墓標天球」。

本編は一度読んだだけでは分からなかった。本稿の初稿では本編について書くのを断念したくらいだ。初稿を書いて約一年が経ち、本稿をアップする前に本編をもう一度読んでようやく少し内容がつかめた。

本編は比喩の極北に挑んでいる。本編にあふれるそれらが何に対する暗喩なのか、何を指すメタファーなのか。それを正確に指し示すことは困難だ。それでいて、本書には筋書きがある。いや、筋書きのようなもの、といったほうが良い。その筋書きらしき展開が螺旋状に、もしくは一回転する球のように、もしくは一回りできる立方体のように、どこに向かうでもなく循環する。その筋書きは、少女と少年の周りで時間を巡り、空間を巡る。それは本編に登場する立方体の展開図のようだ。

循環し、周回する天球は本編ではもっとも基本となるイメージだ。天使、または神が最初の天球を回したあと、その内側の天球を別の天使が回し、さらに別の天使が・・・と入れ子構造は無限に小さくなる。アリストテレスの神存在論を逆にゆくような議論だ。その中で天球の内側にいる人間とはただ営むための存在に過ぎない。

私は本編全体が指している比喩の対象とは、この天体の上で繰り広げられるあらゆる意思の営みではないだろうか、と推測する。この天体とは地球に限らない。他の生命体のいる天体でもいい。その上で営める生命の動きを単純化する。本編に出てくる少年とは人類の男。少女とは人類の女の投影だ。人類が過去から未来へと営むあらゆる意思を徹底的に単純化すれば、本編になるのではないか。

インペトゥム。本編で何度か登場する言葉だ。「創造のあと、単純な創造を繰り返す力」と少女がセリフで補足する。つまり、営みとは最初の創造のあとの単純な繰り返しに過ぎないのだ。そこに意味を無理やり付与しようと果てなき努力をする少年=男と、ただあるがままに営みを生きて行く少女=女。

少年は球体を一周させるかのように溝を掘る。丁度人類が伐採し、掘削し、開墾し、建築するように。何の目的かは誰にも分からない。強いていうなら経済のため。そして営みのため。

少年と少女は出会い続ける。そしてすれ違い続ける。出会ったら子供が生まれる。すれ違っても営みは続いてゆく。そうした営みの全ては記録され続ける。ただ記録するために記録され続ける。禁忌は何かのためだけに禁忌であり、豚は食べるためだけの豚に過ぎない。少年と少女の間にやり取りされる封筒の中身は開封するまでもない。常に一つの真実だけが書かれているのだから。

本編が指し示す比喩の対象とは、実は全ての営みには根源的な目的などない、という虚無的な事実なのかもしれない。少なくとも人類にとっては。全ては螺旋階段をだらだらと登り続ける営みに帰着するほかないのだと。それは政治、経済、科学、哲学、恋愛、スポーツ、など関係ない。全ての営みをいったん漂白し、単純に比喩して抽出したのが本編ではないだろうか。

本書には、もう一編が隠れている。それは帯に記されている。帯に記されているのは「目次」というタイトルの目次だけでなる短編だ。40マスある格子状の各ページを進んでいった結果、徹底的に読者は著者と本と読者の間をさまよい、混乱させられることだろう。目次という本そのものの構造すら著者の手にかかれば抽象化され、解体されてしまう。

いったい著者の目指す極点はどこにあるのだろう。私は本稿を書いたことを機に改めて著者に興味を持った。もう少し著者の本を読み込んでみなければ。

‘2016/03/25-2016/03/28


紙媒体の未来


十日ほど前、山手線の王子駅近くにある紙の博物館に行ってきました。

王子と紙、といえば王子製紙が思い浮かびます。王子は日本の製紙業、それも洋紙業の発祥の地です。今もなお、洋紙会社の本社や工場が集まり、国立印刷局の王子工場も健在です。

今回私が紙の博物館を訪問した理由は二つあります。一つは、紙の歴史やリサイクルの仕組みに興味があったこと。一つは、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性を知りたかったことです。

紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、非常に勉強となりました。日本の古紙利用率が六割にもなること。また、紙を発明したのは漢の蔡倫ではないこと。蔡倫よりも二三百年前に紙が使用されていた事が発掘物より証明されていること。また、PCなどのIT機器に欠かせない基盤も、実は紙の一種であることを知りました。このように、紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、得るところが多かったです。特に蔡倫が紙の発明者でないことは知らずにおり、定説に寄りかかっていた自分の怠慢を反省しました。

ただ、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性については、残念ながらそれに関する展示には巡り会えませんでした。

そもそもなぜ私がこのような事に興味を持っているか。それは情報媒体としての紙の価値を再発見したからです。IT業界の端くれで飯を食っていながら、なぜディスプレイではなく紙なのか。

そもそも私は、本を読むのが好きです。電子書籍よりも紙の本の愛好家です。もちろん、電子書籍も使いますよ。Kindle端末こそもっていませんが、タブレットにはKindleアプリも入っています。しかし、私にとっての情報媒体とは、相変わらず紙なのです。本のページを繰ることに至福の時間を感じます。Kindleアプリで本を読むことはほとんどありません。

なぜ私が紙の本を好むのか。最初はそれを、本好きの執着心だと思っていました。IT業界にいながら保守的な自分を怪訝に思うこともありました。私の収集癖を満たすには本を貯めこむことが一番だからと思ったこともありました。

でもどうやらそうではなさそうです。この数年、参画しているプロジェクトで毎週議事録を書いています。経営層にまで閲覧される議事録ですから、チェックは欠かせません。チェックを行う上で、紙を節約しようとディスプレイをにらみ付けます。眼球が充血するまで読み込んだ後、印刷して紙面で読むと、誤字が湧くのです。まるで隠れていたかのように。

これはなんでしょうか?

何度も印刷した紙から誤字が湧き出すのを見るにつけ、私には一つの妄想から逃れられなくなりました。液晶ディスプレイには、何かしら人間の視神経を阻害し、集中力を減退させる仕掛けがあるのでは?と。

紙の博物館では、ディスプレイに対する紙の優位性についての答えは得られませんでした。ですが、同様の研究はあちこちで行われているようです。森林保護は共通の課題なのでしょう。私もネット上で様々な考察や研究論文に目を通しました。

それら論文や考察によれば、液晶ディスプレイは、ディスプレイの表面と図像を表示する層にわずかな距離があるようです。今の技術では数ミリ単位よりも少ないほどの。そして、そう意識して液晶ディスプレイを凝視してみると、焦点がぼやけていることに気付きます。一方、紙の文字を見るとくっきりと焦点を結びます。それは反射や透過や発行する液晶の性質によるのかもしれません。おそらくはこのわずかなずれが網膜に映った文字と脳内の認識のずれに繋がっているように思います。

では、ディスプレイのボケた焦点は、ディスプレイの解像度をあげれば解消するのでしょうか。私はそれだけではないように思いました。

紙とディスプレイ。表に出ているのは、共に文字や画像です。しかし、ディスプレイの背後には我々の気を散らすアプリが盛りだくさんです。例えパスワードロックを掛けて集中モードにしても、鉄の意思で画面に集中しても、ディスプレイの背後に隠れているモノが脳に何らかの連想を与えるのでしょう。では紙はどうか。紙は紙でしかありません。印刷されている情報はインクの集まりでしかなく、その背後には何も潜んでいません。

この事は、我々IT屋がアプリにいろんな機能を盛り込んでしまうことへの警告かもしれません。もはや、ディスプレイとその背後に控える情報量は人間の頭脳に余る。そう思います。ITの普及は人間の処理能力を遥か後ろに置き去りにしました。

多分このことは、電子ペーパーが普及し、解像度や触感が紙そっくりに再現されたとしても変わらないでしょう。紙はそこに印刷された情報以外のものを含まず、我々に余計な連想をさせないから集中できる。そう結論付けて構わないと思います。

紙の博物館でも、ディスプレイに対する紙が優位なのは何かをどんどん研究して頂きたいと思います。無駄な紙の使用はやめるべきですが、人間の脳を焼き切らせないためにも、紙に活躍の場は残されているはずです。

そしてその研究成果は、最近ホットな「人工知能は労働者の職を奪うか」の問いに対するヒントになるかもしれません。大容量の情報の受け渡しは、人工知能に任せましょう。人間は人間の脳が許容できる情報を発信し、それを受け取る。IT嵐の後も生き残る仕事とは、そのような仕事である気がします。