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二人静 第四回 金春流能楽師中村昌弘の会


能を最後に観たのはいつのことだろう。まったく覚えていない。そもそも私は能を観たことがあるのかすら自信がない。たしか学生時代に授業の一環で鑑賞した気がするのだが。それぐらい今の私は能の初心者だ。もちろん、国立能楽堂を訪れるのは今回が初めて。

この度の機会は主催の金春流の能楽師、中村昌弘さんが狛江にお住まいであるご縁からお誘いをいただいた。私はそのご縁を逃がさず、きちんとした能を観劇し、堪能し、さまざまな気づきをいただいた。この日はあいにくの雨だったが熱心なファンは多数いるらしい。ほぼ九割がた席は埋まっていた。

能舞台といえばイメージがすぐ浮かぶ特徴のある外観。渡り廊下(橋掛かり)から前面に突き出た立体的な舞台までは幾何学を思わせる構築の美にあふれている。舞台の背後のほかはすべて開放された無駄のない空間。そんな能舞台を国立能楽堂は観客席を含めて屋内に収めている。屋内でありながら能の臨場感を感じさせ、同時にこの日のような悪天候でも気にせず開演できる。それが国立能楽堂の良いところだろう。

観客席から舞台を見て右後ろ奥に切戸口という役者の出入り口がある。開幕の合図を機に、四名の羽織袴の男性とまだ幼さの残る少年が舞台へと進み出てきた。そこからしずしずと進み出る様はそれだけで一つの様式美を感じさせる。仕舞の「邯鄲 夢の舞」が始まる。変声期を迎える前の少年のかん高い声と四名の地謡の野太い声の対照が印象に残る。重厚な地謡の響く中、少年の舞はわずかなたどたどしさを感じたものの、金箔があしらわれた扇を操る様は軽やか。この後に登場して解説を加えた能楽評論家の金子氏によると、少年は今日の主催の中村昌弘さんの息子さんだそう。昨年末に今日の演目である邯鄲を披露する予定だったが、急なインフルエンザで休演を余儀なくされたとか。今日の舞は雪辱を果たす舞台になったそうだが、無事に勤め上げられてホッとしている事だろう。次代の日本の伝統芸能を担っていってほしいと思う。

金子氏の解説は続いての狂言「空腕」と能「二人静」にも及ぶ。能楽評論家という職業は今日初めて知ったが、名乗るだけのことはあり、明快に見どころや聞きどころを語ってくださる。とても参考になった。

金子氏が退場した後は、仕舞「野守」だ。中村昌弘さんが優雅に扇を操り、舞に動きをつける。時にたたらを踏んで舞台から音の波動を発し、リズムを刻む。重厚かつ軽快な舞。さすがだと思う。まさに静と動。それでありながら、前にかざした扇に首をキリッと向ける所作がとても印象に残った。地謡の山井綱雄さんが謡う微妙なメロディの抑揚と、時折、中村さんがたたらを踏んで舞台を鳴らす外は静寂に満ちた舞。そこに一つのアクセントを与える首の表現。私が美しさを感じたのはそこだ。

私は仕舞を見るのはほぼ初めて。妻の日舞を何度か見、歌舞伎の舞台を見た程度だ。こうした所作の美しさは、きらびやかな西洋仕立ての舞台ではあまり感じることはない。ところが能舞台で見ると、その美しさがことさらに迫ってくる。この上なく簡潔な衣装でありながら、人の動きが鮮やかに迫ってくる。空気の動きまで感じられるかのような舞は、音響がまったくない澄み切った能舞台ならではのものだと思う。

続いての仕舞「昭君」は中村さんではなく、別流派である観世流の武田宗典さんによるもの。私はこうした舞踊を語る知識も経験もない。うまく語れないし、二つの演目の違いが何なのかも分からない。それでも二つの舞からは何らかの個性は感じられた。これが舞う演者の個性なのか、流派の違いによるものかは分からない。だが、この二つの仕舞は、時間も短く、メリハリもあってかえって印象に残った。

続いては狂言「空腕」。事前に金子氏から解説が加えられていたため、おおかたの筋は理解していたつもり。狂言はいわゆるコントの源流。だからセリフが観客に聞き取れなければ、何にもならない。正直、最初の三つの仕舞では、地謡が何を言っているのか全く分からなかった。

ところが「空腕」はとても分かりやすかった。大蔵流の善竹富太郎さんがシテ。善竹大二郎さんがアドを演じていたが。この二人の発するセリフは朗々としてとても分かりやすい。どこが笑いどころなのかも理解できる。笑いのツボは数百年の時を隔ててもなお通じるのだ、と理解できる。

歌舞伎や落語など、江戸時代に発展した芸能が今も盛んに興行を行うのはわかる。だが、室町以前から受け継がれた芸能は今の世の中ではなかなか表舞台に出ることは少ない。ところが狂言は別だ。狂言は今の芸能界でも存在感を十分に発揮している。和泉元彌さんを真似たチョコレートプラネットの「ソロリソロリ」もそうだし、野村萬斎さんの活躍ぶりもすごい。それはセリフが明朗で、かつ人間の本性に切り込む芸の本質が、現代にもなお通じるからではないだろうか。

幕あいの休憩を挟み、続いては能「二人静」。今日の主演目だ。これまでの三つの仕舞と狂言はかろうじて舞のダイナミズムが現代の時間軸に通じるものがあった。だが、能はまったく違う。舞台の上で流れる時間は忙しない現代のそれとは別世界。橋掛かりを進んでくる菜摘娘や静御前の亡霊の歩みの遅さといったら。

ビジネスの現場ではあり得ない時間の進み。それは、合理化を旨とする情報業界に住む私にとってはもはや異次元に思える。現代人は忙しない、と揶揄されるが、その一員として生きていると、その忙しさは実感できない。だが、能舞台に流れるゆったりとした時間は、私の生活リズムとは完全に乖離している。ビジネスの現場にどっぷりの今だからこそ、能に流れる時間の遅さを新鮮に感じた。古き良き日本の風土や文化から見た時、現代のビジネスの時間軸とは果たして人のあるべき姿なのだろうか。そんなことを思った。

正直、あまりの時間の進みの遅さに、私は前半の菜摘娘が徐々に静御前に憑依されてゆく部分で三度ほど瞬間的に寝落ちしてしまったほどだ。金子氏よりここが見どころと教わっていたにもかかわらず。

後半、静御前の亡霊が橋掛りを渡って舞台へ乗り、菜摘娘と静御前の亡霊がそろって舞うシーンはクライマックスだと思う。ここも事前に金子氏の解説でなぜ難しいのかを教わっていた。いわゆる能面の目の部分は、わずかにしか開いていない。そして眼の位置は演者の顔に合わせているのではないという。つまり能面を被ると視野が極端に狭まる。それでありながら、菜摘娘と静御前の亡霊の所作にズレや狂いは許されない。そこを鍛錬と勘で合わせるのが見所だという。

正直、微妙なズレは何度か見かけた。明らかなズレも数度はあった。最初はそのズレが失敗に思え、残念にも感じた。だがやがて、そのズレをも含めて鑑賞するのが正しいのではないかと思うようになった。

そもそもズレとは基準としたリズムがあってこそ。ところが能を鑑賞していると基準となるリズムがわかりにくい。確かに能には囃子が付く。「二人静」でも太鼓と小鼓、笛や八名の地謡の方々が背後と脇に控えている。太鼓と小鼓の方は「ヨーッ!」「ハ」と声を伸ばし、合いの手を入れつつ鼓を打つ。だが、その拍子にロックやジャズのリズムは感じられない。そもそも、大鼓に拍子の整合性はあるのだろうか、と思ってしまう。だが、悠久のリズムに合わせ、演じられるのが能なのだろう。

と考えると「二人静」の少しぐらいのズレは許容しなければならない。そしてズレも含めて楽しむ。それが正しい能の楽しみ方ではないかと思った。解説で金子氏がおっしゃっていたが、能が好きだったことで知られる太閤秀吉の望みで「二人静」が舞われた際のエピソードが伝わっているという。当時も二人静を演ずるには同じぐらいの技量を持ち、背格好も同じぐらいの演者をそろえなければならなかったという。そして当代の実力ある二人の演者は流派も違い、犬猿の仲だったとか。実際、秀吉の前で披露された「二人静」の舞はバラバラだったという。にも関わらず、演目としては確かに完成されていたとか。つまり一分たりとも狂ってはならないというのは現代人ならではの感性であり、能の本質ではないということなのだろう。

むしろピッタリと一分の狂いもなく二人の演者の舞が合うことこそ、非現実的でかえって興が削がれるのではないか。デジタルを思わせる完全に同期された舞など、能の舞台にあっては異質でしかない。そんなものはVTuberに任せておけばよい。むしろ、能舞台の上に流れる雄大な時間軸にあっては少しぐらいのズレなど、差のうちに入らないことのほうが大切だ。

私はそのことに思い至ってから、舞台の舞のズレが気にならなくなった。

また、狂言と能では座席前のパネルにセリフが流れるようになっている。狂言は明確にセリフが理解できたので不要だった。だが、能ではさすがに何を謡っているのかわからずパネルのスイッチを入れた。そこで見た極端までに切り詰められたセリフ。それは古くからの日本語の響きが受け継がれており美しい。日本古来の美学が感じられる。ただ、惜しいことに、現代の日本には私も含めてそれを理解できる人がほとんどいない。

パネルにセリフを流すのはよいことだと思うけれど、このセリフをなんとかして理解できるものにできないか。それとも、これは能本来の様式として保存すべきで、セリフも変えずに今後も上演されていくのが正しいのだろうか。私にはわからない。でも、現代の能楽師は当然そのことを考えているはず。本来ならば観客に教養や素養があればよいが、それはかなわぬ願い。では現代のどこに能が生き延びる余地があるのか。

あらゆる文化がデジタルの波に洗われている昨今。能舞台の上こそは、現代ではもはや見られない情報から隔絶された世界なのだと思う。そして能舞台から発信される情報とは、舞台の上で演じられる所作や舞や謡いや拍子のみ。ピンマイクもなく、特殊効果にも頼らない舞台。磨き抜かれ、時流とは一線を画した美意識に純化された生身の人間から発せられる情報。今どき、そんな情報に触れられる機会はそうそうない。

私は能の孤高の世界観にとても惹かれた。そして能の世界に流れる時間軸から逆に現代の世界の疲れと歪みをみた。

そして能が生き延びる余地とは、まさにそこにあるのではないかと考えた。人本来のリズム。そのリズムとは本来、エンジンの動きやCPUのクロック信号、電磁波の周波に襲われるまでは、人間が刻んでいたもののはず。ところが今や人間が刻むべきリズムはデジタルの圧倒的な沸騰に紛れどこかに消えてしまった。だが、人が人である限り、そのリズムはどこかで誰かが保ち続けなければならない。それを担うことこそが能の役目ではないだろうか。

人を置き去りにしていったリズムは、この先もデジタルが牛耳っていくことだろう。だからこそ、能が求められる。能舞台に流れる時間だけが、人の刻むリズムを今に伝える。とすれば、能をみることに意味はある。時間を思い出すための能。人がデジタルから離れるためには、今や能だけが頼りなのかもしれない。

‘2019/06/15 国立能楽堂 開演 13:30~

https://nakamura-nou.saloon.jp/kouenkai/index/tandokukouenbacknumber.html


継母礼讚


先日、「官能の夢ードン・リゴベルトの手帖」についてのレビューを書いた。本書は、その前編にあたる。続編を先に読んでしまったため、なるべく早く本書を読みたいと思っていた。

本書を読んで思ったこと。それは「官能の夢〜」が本書の続編ではなく、逆に本書が「官能の夢〜」のプロローグなのでは、という気づきだ。「官能の夢〜」に比べると本書のページ数はかなり少ない。本書で著者が挑んだエロスや性愛への探求。それは本書としていったん結実した。しかし、著者にとって本書は探求へのきっかけでしかなかった。本書で取り掛かったエロスや性愛への探求を、続編である「官能の夢〜」でより深く掘り下げた。そうではなかろうか。だからこそ本書は「官能の夢〜」のプロローグだという印象を受けた。

継子の少年フォンチートの小悪魔のごとき誘惑におぼれ、ルクレシアは一線を越えてしまう。「継母礼讚」とは、無邪気なフォンチートが父に読ませた、あまりに罪深い手記のタイトルだ。本書には、義理の母子の間におきた過ちの一部始終が描かれている。エロスや性愛を描くという著者の狙いは、ストレートだ。

「官能の夢〜」は、フェティシズムの観念的な思索に費やしていた。ドン・リゴベルトの手帖に記された手記の形をとって。本作は、エロスや性愛の身体感覚の描写が主となっている。その描写は執拗だが、エロスや性愛の表面的な描写にとどまっている。エロスの観念的なところまでは降りていないのだ。だが、性愛とはつまるところ身体感覚の共有であり、その一体感にある。

エロスが身体感覚である主張を補強するかのように、フォンチートとルクレシア、ドン・リゴベルトの危うい関係の合間に、本書ではリゴベルトやルクレシアやフォンチートや侍女のフスチニアーナが登場する異世界、異時代の挿話を挟んでいる。そこでの彼らは世俗と超越している。そして俗世のしがらみなど微塵も感じられない高尚で清らかな存在として登場する。異世界の彼らからは精神的なつながりは一切感じられない。思考の絡みはなく、肉体的な関係として彼らをつないでいる。といってもそこには性欲や性愛を思わせるような描写は注意深く除かれている。あくまでそこにあるのは肉体の持つ美しさだけだ。だから本書には性交をあからさまに描写して、読者の欲情を催させる箇所はない。本書が描く性愛やエロスとは、性欲の対象ではないのだ。

そのイメージを補強するかのように、本書の表紙や冒頭に数枚の絵が掲げられている。いずれも裸体の女性と子供が描かれており、その姿はどこまでも妖艶だ。しかしそこにみだらさは感じられない。美的であり芸術的。それは本書の語る性愛やエロスにも通じる。

義理の母子に起きてしまった過ちは道徳の見地からみると罪なのだろう。しかし性愛そのものに罪はない。フォンチートとルクレシアの行いは、リゴベルトとルクレシアがそれぞれの身体感覚に忠実に営む行いと根源では等しいのだから。少なくともしがらみから解き放たれた本書の挿話や冒頭の絵画から感じられるメッセージとは、性愛自身に罪はないことを示している。

著者は、本書と「官能の夢〜」の二冊で、性愛とエロスから社会的通念や、ジェンダーの役割を取り除き、性愛それ自身を描くことに腐心しているようだ。その証拠に「官能の夢〜」では、リゴベルトに道化的な役割まで担わせ、男性としての権威まで剥奪しようとしている。

性愛とは極言すれば生物の本能でしかない。脳内の身体感覚や、脳内の嗜好-ちまりフェティシズムに還元されるものにすぎない。だが、著者の訴えたいエロティシズムとはそこまで還元し、立ち返らなければ掴めないのかも。

だからこそ、本書と続編である「官能の夢-ドン・リゴベルトの手帖」は対で読まなければならないのだ。

‘2016/10/27-2016/10/28


聖痕


本書は221党員にとってして待ちに待った最新作である。221党なんて言葉はない。著者のファンを勝手にこう呼んだだけだ。だが、パソコン通信の時代から運営されている著者のフォーラムの名前は221情報局という。221=ツツイであることはいうまでもない。221は著者の番号であり、ファンにとってはお馴染みの数字なのだ。

著者のホームページ(https://www.jali.or.jp/tti/)には221情報局へのリンクに貼られている。パソコン通信の頃からネットを活用した文筆活動を自在に行っていた著者にふさわしく、シンプルかつ読み応えのあるページとなっている。だが、更新頻度がさほど高くないのが惜しいところだ。だが、そんな221党員のためにASAHIネット企画「笑犬楼大通り」が開設された。もちろん著者のホームページからも笑犬楼大通りへのリンクが貼られている。笑犬楼大通りの中でも「偽文士日碌」はちょくちょく拝見している。それはWeb上の日記。だがblogとは少し違う。ページは書籍をあしらったデザインになっている。読者はページをめくるように紙の端をクリックする。すると著者の日々を行き来できるのだ。

著者の日々とはテレビに出たり、著書にサインをしたり、編集者を応対したり、執筆活動をしたり賑やかだ。作家と役者とタレントを兼ね、座長やクラリネット奏者やパネリストをこなし、東京と神戸の両方に家を持つ著者の日々はマンネリとは程遠い。ファンにはお馴染みだが、著者は今までに何度となくこうした日記スタイルの作品を出版している。「偽文士日碌」も今までの日記スタイルの作品を踏襲している。自らも家族も編集者も作家も友人も、著者の日記に登場する人や事物は全て実名だ。著者の日記スタイルには私も大きく影響を受けている。そんな私にとって「偽文士日碌」を読むことは楽しみの一つだ。

さて、本書である。なぜ前置きで「偽文士日碌」を紹介したかというと、本書の筆致は「偽文士日碌」に良く似ているからである。本書は葉月貴夫の生涯を書いている。幼少時から髪に白いものが混じる年齢までの生涯が書かれている。本書で描かれる貴夫と貴生の周囲の人々の織りなす日常は、「偽文士日碌」で描かれた著者の日常を思わせる。

先に私は著者の日記スタイルに多大な影響を受けたと書いた。著者の日記は今までに何冊も出版されている。それらに共通するのは露悪的な姿勢である。つまり、謙譲や遠慮とは無縁のスタイル。生活や出来事を隠さずに描く。例えそれが贅沢三昧な日々であろうとも。自粛などという小癪な態度とかけ離れた日記スタイルは実に小気味良い。下手な隠し事はかえって読む人にとって侮辱となり、隠すことがすなわち嫌みにもなる。そのスタイルは、「偽文士日碌」でも本書でも顕著といえる。

葉月貴生は幼い頃に暴漢にナニ(本書内の雅語では露転と呼ばれる)をちょんぎられる。そのため、中性的な美しさを損なわない。また、性欲にも悩まされることがない。しかも、頭脳明晰で東大卒。料理の腕も抜群で、経営するレストランは客が引きも切らない。レストランに来店する各界の名士とも懇意で、友人関係にも困っていない。また、彼の年の離れた妹を娘として育てる。その娘がこれまた美形で躍りの名手だ。そういった恵まれた、華麗な日常が描かれるのが本書である。そんな彼の日常が遠慮や謙譲など一切なく語られる。

本書には露悪以外にもう一つ特徴がある。それは、かつて世界の文学史で脚光を浴びたラテンアメリカ文学からの影響だ。マジックリアリズムと称されたその作風は、現実に即した描写をしながら極端な状況を描写することで人間の認識を超えたところに読み手を運ぶ。本書には突飛なことが起こるわけではない。ありえない風景が出現するわけでも超人がスゴ技を披露することもない。だが、葉月貴生の周辺の人々や事物は出来すぎている。理想的過ぎるぐらいに理想的なのだ。その誇張された美化こそが、本書に漂っているマジックリアリズムの影響だと思う。ちなみに著者はラテンアメリカ文学からの影響を隠そうとしていない。かく言う私がラテンアメリカ文学の愛好家となったのも、著者からの感化なのだから。

では、理想的すぎる葉月貴生の生活をここまで露悪的に描いたのは何故だろうか。

一つは、日本的な偽善性への著者なりの態度表明だろう。昭和天皇の崩御の際や、東日本大震災では自粛という言葉が大分取り沙汰された。

もう一つは著者の考える美、にあるのではないか。葉月貴生は去勢された身だ。そのため、性欲に煩わされない。しかし、性を嫌悪するかと思えばそうでもない。それは自ら経営するレストランの上階を逢い引きの場として提供することでも表明されている。つまり、真の美とは周囲に影響されず、世俗にあっても美しさが損なわれない。清濁併せ呑んでもなお、美が決然と立っている様とでもいうか。世俗にありながら超然かつ孤高を保てる強さこそが真の美ということだろう。要するに著者が考える美とは自ら無欲であること、ではないだろうか。

美をテーマとした本書を書くにあたり、著者はある工夫を施している。それは雅語の多用だ。いまやほとんどの日本人から忘れ去られ、誰にも顧みられなくなった語が本書にはたくさん登場する。ページが進むにつれ、使われる雅語の割合は増えていく。このところの著者の作品に目立つのはことばに関するこだわりだ。昔から、愚鈍ではなく魯鈍という言葉を使う著者に相応しく。

本書は老いてなお創作意欲盛んな著者の、余生の手慰みとはかけ離れた力作である。私も著者の作品はほぼ全て読んでいるつもりだが、まだまだ著者の日々は追いかけて行きたいと考えている。

‘2015/03/05-2015/03/09