Articles tagged with: 東野圭吾

人魚の眠る家


本書はミステリというよりも、医学的なテーマについて考えさせられる小説だ。
ここでいう医学的なテーマとは、脳死とは何か、果たして人間の意識とは何かを意味する。本書にはそれらのテーマが取り上げられている。

人の意識とは何か。この問題に対して容易に答えを出すのは難しい。
今、考えていること自体が意識なのか。考えていることを指の動きまで伝達するまでの全ての営みが意識なのか。この意識とは、私の自由意志であるとみなしてもよいのか。
脳波を調べると、情報の伝達からそれに基づいた選択が行われるよりも前に脳のどこかで反応が生じるという。つまり、私たちが判断を行っているという意識よりも上位の何かが命令を発している論議さえまことしやかに交わされている。

そもそも、私たちの意思とはあらかじめプログラムされた命令の発動でしかないという説すらある。
そうした意識について人々が思索できるのも、私たちが今まさに活動し、外界に向けてアウトプットをしているからだ。私が笑ったり声を出したり動いたりするからこそ、私以外の人は私に意識があると判断する。
では、不慮の事故で外界に反応しなくなった場合、意識はないとみなしてよいのか。
生存に必要な生体反応や生理反応は生じるが、まったく外界に向けて反応がない場合、その人は生きているといえるのか。

ここに挙げた問題は容易には答えが出せない。
現代の医学でも、こうした問題については脳波やその他の反応を確認して意識の有無、つまりは脳死の有無を判断するしかないのが現状だ。本当に脳が死んでいるのか生きているのかは、あくまで脳波などの客観的な要素でしか判断できないのだ。

では、客観的に脳波があっても、外部への反応が確認できない場合、脳死と判断することは可能なのだろうか。
それが自分の子どもであれば、なおさらそのような判断を下すことは困難だ。呼吸はしているし、ただ寝てだけのように思えるわが子に死の宣告を下す。そして、死に至らしめる。
それは子を持つ親にとってあまりにも過酷な判断である。不可能といっても過言ではない。

はたして、親は眠ったままのわが子に脳死の判断を下せるのか。また、下すべきなのか。

著者はそれらの問いを登場人物に突き付ける。もちろん、読者にも。

本書の中で脳死になるのは瑞穂だ。播磨和昌と薫子の間に生まれた娘だ。
この二人が瑞穂に起こったアクシデントを聞かされたのは、和昌の浮気が原因で離婚の話し合いをしている時だった。
プールでおぼれて脳死状態になった瑞穂をいったんはあきらめ、臓器移植の意思表示をした二人。だが、最終的にその意思を示す直前で瑞穂の手から反応が返ってきたことで、二人は延命に望みをつなぐ。

和昌が経営する会社では、ちょうど人間に接続したデバイスを脳から動作させる研究が進展していた。
その研究が娘の意識を取り戻すための助けになるなら、そして妻が望みを持ち続けられるなら、と離婚を取りやめた和昌は、娘の体を機械で操作する研究に手を染め始める。
その和昌による研究は進展し、研究の成果によって薫子は瑞穂を生きている時と変わらないように動かせるまでになる。
起きることのないわが娘を、さも生きているかのようにふるまわせる薫子は、次第に周囲から疎んじられるようになる。

狂気すら感じられるわが子への愛は、どのような結末を迎えるのか。そんな興味に読者は引っ張られていく。

法的には生かされているだけの脳死状態の人。
私たちは脳死という問題についてあまりにも無知だ。医者が脳死判定を下す基準は何か。脳死状態の人が再び意識を取り戻すことはありえるのか。脳死状態の人の法的な地位はどうなるのか。意識はなくとも肉体は成長する場合、その人の年齢や教育はどう考えるべきなのか。
また、脳死状態にある人の臓器を移植したい場合、誰の意思が必要なのか。その時に必要な手続きは何なのか。
当事者にならない限り、私たちはそうした問題に対してあまりにも無知だ。

私は常々、今の世の中の全ての出来事に対して当事者であり続けることは不可能だと思っている。
当事者でない限り、深くその問題にコミットはできない。そして、説得力のある意見を述べることもできない。だから私はあまり他人の問題に言及しないし、ましてや非難もしない。
さらにいうと、当事者でもない政治家や官僚があらゆる問題を決める仕組みはもはや存族不能だと考えている。
日々の暮らしに起こりうる可能性の高い出来事についてすら、いざ事故が起きてみないと当事者にはなれないのが現実だから。

本書を読むと、まさに脳死の問題とは、当事者にならなければ深く考えることもできない事実を突きつけられる。

では、死に対してはどうだろう。または、意識に対しては。
これらについても当事者にならなければ深く考えることはできないのだろうか。
ここで冒頭の問いに回帰してゆくのだ。
果たして意識とは何だろうか。

そう考えたとき、本書から得られる教訓は当事者意識の問題だけでないことに気づかされる。
私たちは普段、自らの意識を意識して生きているのか、という問いだ。つまり、私たちは自分の意識について当事者意識を持っているのだろうか。
冒頭に書いたような問いを繰り返す時に気づく。私たちは普段、自らの意識を意識して生きていないことに。

例えば呼吸だ。無意識に吸って吐いての動作を繰り返す呼吸を私たちが意識して行うことはない。
だが、ヨガ行者や優れたスポーツ選手は呼吸を意識し、コントロールすることによって超人的な能力を発揮するという。
また、大ブームになった『鬼滅の刃』にも全集中の呼吸がキーワードになっている。

呼吸だけでなく、歩き方や話し方、思考の流れを意識する。そうすることで、私たちは普段の力よりも高い次元に移り行くことができる。

脳死の問題について私たちが当事者になる機会はないし、そうならないことが望ましい。
だからといって、本書から得られることはある。
本書は、そうした意識の大切さと意識に対して目を向けることに気づかせてくれる小説だといえる。

2020/12/12-2020/12/15


時生


たまに、著者はSFの設定に乗っかった作品を書く。本書もそのうちの一冊だ。
本書が面白いのは、SFの設定を支える技術をくだくだしく説明せずに、台詞だけで虚構の設定を読者に納得させていることだ。

その設定とは、タイムワープ。

自分の息子が過去の若い自分を助けに来る。
その設定を私たちはどこかで聞いたことがあるはずだ。ドラえもんで。そう、第一話でセワシが高曽祖父ののび太を助けに来たエピソードが頭に浮かぶ。

もちろん、本書は一筋縄のひねりでおしまいにしない。幾重にも設定や伏線を敷き、物語の世界がほころびないよう工夫を加えている。

本書を結構のある物語に仕立て上げ、著者が語ろうとしたメッセージとは何か。
私はそれを若さの無知と愚かさ、そして若さが持つ自由の可能性だと受け取った。

多くの人は若さの謳歌し、楽しんで過ごす。
その一方で、多くの若者はその自由を存分に味わうあまり、後に残そうとはしない。一瞬一瞬を衝動で生き、刹那の快楽として消費してしまう。
それは傍からみると、無知で愚かな行いにも思える。
だが、自由のただ中にいる当人にとっては、自らに与えられた一瞬こそが正義なのだ。
他人からしたり顔でどうこう言われたところで耳には入らないし、入れるつもりもない。

ところが普通の人は、年老いてもなお、若い気持ちを抱き続けることは出来ない。
どれほどハツラツとしたチョイワルオヤジであろうと、どこかが若い頃とは違うものだ。
体の張り、立ち居振る舞い、言葉に至るまで若い頃とは変わりつつある。経験を積み、老成し、体のどこかは確実に衰えてゆく。それが老いる宿命の残酷さなのだから。

この事実は、若き日にどれだけ悟っていようと、老けてからどれだけ若々しく心がけようとも変わらない。
若い日の自分と老いた自分は絶対に違う。
ところが、自分が将来どうなって行くかなんて決して誰にもわからない。
未来から来た人以外には。

本書は、宮本拓実の成長の物語だ。
本書の冒頭は、拓実が妻の玲子と語る場面で始まる。
二人の間に授かった一人息子である時生が、遺伝性の病で死の床に伏し、余命もわずかしかない。
その時、拓実は、若い頃に経験した不思議な縁を麗子に語り始める。

コネも学歴も能力もない若い日の拓実。1970年代が終わろうとする頃だ。その日ぐらしの拓実の毎日に希望は見えない。
若い頃はやる気と無鉄砲な前のめりだけを武器として突き進む。拓実もそうだ。傲岸にもとれる言動と根拠のない自信だけで突っ走ってゆく。
そんな拓実の日々は根無し草のようで、展望はない。

そんな日々に現れたのが、トキオと名乗る少年。
少しだけ拓実より年下のトキオの不思議な言動は、拓実を苛立たせる。だが、トキオに導かれるように、拓実の人生は転機を迎える。
トキオのすべてを見通したような言動に拓実は振り回されつつ、徐々に導かれながら成長を遂げてゆく。

未熟と言う言葉がそのまま当てはまる拓実の言動に苛立ちながら、恋人を追う拓実と行動をともにするトキオ。
若い頃の実の父の体たらくに幻滅しながら。

子が時間をさかのぼって未熟な頃の親の様子を見る。普通はまずありえない。
逆に親としても、自分の若い頃の姿を子に見られることはまずない。
私自身、ジタバタともがいている若き日の姿を娘たちに見られたら、さぞや赤面するに違いない。

自分の可能性だけを信じて生きるのに必死の拓実には、自分の将来などわかるはずがない。
その時の衝動に任せ、生きたいように生きていくしかないのだ。
それこそが生きる営みの本質なのだから。

子が親の若い頃に介入する本書の設定は、生の営みの本質をあぶり出す。
拓実とトキオの親子は世代として連続している。
そして、世代が連綿と受け継がれているからこそ人という種は続く。

だが、同じ血を分けた肉親であっても、種が同じであっても、心を共有することは不可能だ。
たとえ顔やしぐさが似通っていたとしても、人は自分の内面しか見通せない。それが個人の本質だ。
他人からいくら助言されようと、生きるのはしょせん自分。

拓実は、東京から名古屋、大阪と恋人を求めて奔走する中、トキオの助言もあって成長してゆく。
そして、未来に関するヒントをトキオから少しだけ示され、それをもとに将来の足がかりをつかむ。

それは確かにトキオのおかげだ。
だが、そこに著者のメッセージが含まれている。
私たちは、生きている上で将来に活かせるヒントを毎日誰かからもらっている。
それを生かすも殺すも無視するも受け入れるも自分次第。
その積み重ねを大切にした人は、成功を手にする。その事は、今までの成功者たちが無数の文章として書き伝えてくれている。

そしてもう一つ、本書で見落としてはならないのは、拓実たちを助けてくれる数多くの協力者の存在だ。
タケミやジェシーといった、一期一会の縁だけで恋人を探す拓実たちに手を差し伸べる人たち。
それは、私たちが生きていく上で大切な、人と結ぶ無数の縁の重みを教えてくれる。
学校やバイト先、職場や地域で知り合った人々との出会い。そうした人々との触れ合いが私たちを次第に大人へと成長させてくれる。
常に生活をともにするパートナー程ではないにせよ、こうした一瞬一瞬を共有する人々からの助けに気づき、それに感謝できる人生と、そうでない人生の違いの大きさよ。

拓実は、トキオや仲間との経験を通して、やさぐれて投げやりだった自分を反省する。そして、成長のきっかけをつかんでゆく。

その姿は、私自身にとっても、自分の成長のいきさつを見ているようで恥ずかしくなる。
拓実ほど尖っていた訳ではないが、私の若い頃の行いも相当に馬鹿げていたと思う。
それが今や40代も半ばを過ぎ。経営者であり家長に収まっている。
でも、それはあくまで結果論でしかない。
私も若い頃は若い頃なりに一生懸命に生きようとしていた。

今もなお、私は自分の人生を後悔しないように生きているつもりだ。
本書はそうした私の姿勢を後押ししてくれる本だ。
生きることとは、自分自身を全力で生きること。
それを雄弁に語っている。

その真理を、SF風の設定に仕立て、エンターテインメントとしても楽しめるように仕上げている。

本書はところどころに、1980年代を迎えようとする頃の世相を表す工夫が施されている。細かい所を探すと面白いかもしれない。
本書の舞台は私が6歳の頃であり、私にとっても何か懐かしい匂いがする。

1979年に実際に起こった日本坂トンネルの事故は本書の重要なモチーフとなっているが、おそらくこれからも東名道を車で通るたび、本書のことを思い出すに違いない。

‘2019/3/29-2019/3/29


ゲームの名は誘拐


2017年の読書遍歴は、実家にあった本書を読んで締めとした。

私は誘拐物が好きだ。以前に読んだ誘拐のレビューにも書いたが、この分野には秀作が多いからだ。本作もまた、誘拐物として素晴らしく仕上がっている。本作の特色は、犯人側の視点に限定していることだ。

誘拐とは、誘拐した犯人、誘拐された被害者、身代金を要求された家族、そして、捜査する警察の思惑がせめぎ合う一つのイベントだ。それをどう料理し、小説に仕立て上げるか。それが作家にとって腕の見せ所だ。なにしろ組み合わせは幾通りも選べる。例えば本書のように犯人と被害者が一緒になって狂言誘拐を演ずることだってある。本書は誘拐犯である佐久間駿介の視点で一貫して描いているため、捜査側の視点や動きが一切描かれない。犯人側の視点しか描かないことで物語の進め方に無理が出ないか、という懸念もある。それももっともだが、それを逆手にとってうまくどんでん返しにつなげるのが著者の素晴らしいところだ。

誘拐犯の佐久間駿介は、サイバープランの敏腕社員だ。ところが心血を注いだ日星自動車の展示会に関する企画が日星自動車副社長の葛城勝俊によって覆されてしまう。己の立てた企画に絶対の自信をもつ佐久間は、屈辱のあまり葛城家に足を向ける。俺の立てた企画を覆す葛城の住む家を見ておきたいという衝動。ところがそこで佐久間が見たのは塀を乗り越えて逃げ出す娘。声をかけて話を聞くと、葛城勝俊の娘樹理だという。樹理は、父勝俊から見れば愛人の子であり、いろいろと家に居づらいことがあったので家を出たいという。その偶然を好機と見た佐久間から樹理に狂言誘拐を持ちかける、というのが本書のあらすじだ。

本書は上に書いたとおり、一貫して佐久間の視点で進む。犯人の立場で語るということは、全ての手口は読者に向けて開示されなければならない。その制約に沿って、読者に対しては佐久間の行動は全て筒抜けに明かされる。それでいながら本書はどんでん返しを用意しているのだから見事だ。

本書は2002年に刊行された。そして本書の狂言誘拐にあたってはメールや掲示板といった当時は旬だったインターネットの技術が惜しげもなく投入される。だが、さすがに2017年の今からみると手口に古さを感じる。例えばFAXが告知ツールとして使われているとか。Hotmailと思しき無料メールアドレスが登場するとか。飛ばし電話をイラン人から買う描写であるとか。でも、佐久間が日星自動車の展示会用に考えたプランや、佐久間が手掛けた「青春のマスク」というゲームなどは、今でも通用する斬新なコンセプトではないかと思う。

「青春のマスク」とは、人生ゲームのタイトルだ。私たちが知る人生ゲームとは、各コマごとの選択の結果、いくつものイベントが発生するゲームだ。ところが、この「青春のマスク」はその選択の結果によってプレーヤーの顔が変わっていく。スタートからの行いがゲームの終わりまで影響を与え続け、プレーヤーに挽回の機会が与えられなければ興が削がれ。その替わりに救いが与えられている。それがマスクだ。マスクをかぶることで顔を変え、その後の展開が有利になるような設定されている。しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在。そんな佐久間の人生観が垣間見えるゲームシステムが採用されている。

「青春のマスク」のゲームの哲学を反映するかのように、佐久間と樹理の周囲の誰もが何かのマスクをかぶっている。それもだれがどういうマスクをかぶっているのかが分からない。犯人の佐久間の視点で描かれた本書が、犯人の手口を読者に明かしながら、なおも面白い理由こそが、犯人以外の登場人物もマスクをかぶっているという設定にある。だれが犯人役なのか、だれが被害者なのか。だれが探偵役でだれが警察役なのか。読者は惑わされ、作者の術中にはまる。 それが最後まで本書を読む読者の手を休ませない。そのせめぎあいがとても面白かった。

しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在という、佐久間の哲学。私たちの生きている世間の中ではあながち的外れな考えではないと思う。何も正体を隠さなくてもよい。正々堂々とあからさまに生きようとしても、大人になれば考えや立場や属する領域が幾重にもその人の本質を覆い隠してしまうのが普通だ。この人は何クラスタに属し、どういう会社に属し、という分かりやすい属性だけで生きている人などそういないのではないだろうか。少なくとも私自身を客観的に外から見るとまさにそう。そもそもどうやって稼いでいるのかわかりづらいと言われたことも何度もあるし。そう考えると私の人生もゲームのようなものなのだろう。

本書はそうした人生観を思い知らせてくれる意味でも、印象に残る一冊である。

‘2017/12/30-2017/12/31


片想い


本書はとても時代を先取りした小説だと思う。というのも、性同一性障害を真正面から取り上げているからだ。本書の巻末の記載によると、週刊文春に1999/8/26号から2000/11/23号まで連載されたそうだ。いまでこそLGBTは社会的にも認知され始めているし、社会的に性同一に悩む方への理解も少しずつだが進んできた。とはいえ、現時点ではまだ悩みがあまねく世間に共有できたとはいえない。こう書く私も周りに性同一性障害で悩む知り合いがおらず、その実情を理解できていない一人だ。それなのに本書は20世紀の時点で果敢にこの問題に切り込んでいる。しかも単なる題材としてではなく、動機、謎、展開のすべてを登場人物の性同一性の悩みにからめているのだ。

著者がすごいのは、一作ごとに趣向を凝らした作品を発表することだ。これだけ多作なわりにパターン化とは無縁。そして作風も多彩だ。本書の文体は著者の他の作品と比べてあまり違和感がない。だが、取り上げる内容は上に書いた通りラジカルだ。そのあたりがすごいと思う。

本書は帝都大アメフト部の年一度の恒例飲み会から始まる。主人公の西脇哲朗の姿もその場にある。アメフト部でかつてクォーターバックとして活躍した彼も、今はスポーツライターとして地歩を固めている。学生時代の思い出話に花を咲かせた後、帰路に就こうとした哲朗に、飲み会に参加していなかった元マネージャーの日浦美月が近づく。美月から告白された内容は哲朗を驚かせる。美月が今は男性として生きていること。大学時代も女性である自分に違和感を感じていたこと。そして人を殺し、警察から逃げていること。それを聞いた哲朗はまず美月を家に連れて帰る。そして、同じアメフト部のマネージャーだった妻理沙子に事情を説明する。理沙子も美月を救い、かくまいたいと願ったので複雑な思いを抱えながら美月を家でかくまう。

ここまででも相当な展開なのだが、冒頭から44ページしか使っていない。本書はさらに377ページまで続くというのに。これだけの展開を仕掛けておきながら、この後300ページ以上もどう物語を展開させていくのだろうか。そんな心配は本書に限っては無用だ。本書には語るべきことがたくさんあるのだから。

読者は美月がこれからどうなってゆくのかという興味だけでなく、性同一性障害の実情を知る上でも興味を持って読み進められるはずだ。本書には何人かの性同一性障害に悩む人物が登場する。その中の一人、末永睦美は高校生の陸上選手だ。彼女は女子でありながら、あまりにも高校生の女子として突出した記録を出してしまうため、試合も辞退しなくてはならない。性同一性障害とはトイレ、浴場、性欲の苦しみだけではないのだ。世の中には当たり前のように男女で区切られている物事が多い。

私は差別意識を持っていないつもりだ。でも、普通の生活が男女別になっていることが当たり前の生活に慣れきっている。なので、男女別の区別を当たり前では済まされない性同一性障害の方の苦しみに、心の底から思いが至っていない。つまり善意の差別意識というべきものを持っている。ジェンダーの違いや不平等については、ようやく認識があらたまりはじめたように見える昨今。だが、セックスの違いに苦しむ方への理解は、まだまったくなされていないのが実情ではないだろうか。

その違いに苦しむ方々の思いこそが本作の核になり、展開を推し進めている。だが一方で、性同一性障害の苦しみから生まれた謎に普遍性はあるのだろうか、という疑問も生じる。だがそうではない。本作で提示される事件の背後に潜む動機や、謎解きの過程には無理やりな感じがない。普通の性意識の持ち主であっても受け入れられるように工夫されている。おそらく著者は障害を持たず、普通の性意識に生きている方と思う。だからこそ、懸命に理解しようとした苦闘の跡が見え、著者の意識と努力を評価したい。

ちょうど本稿を書く数日前に、元防衛省に勤めた経歴を持つ方が女装して女風呂に50分入浴して御用となった事件があった。報道された限りでは被疑者の動機は助平根性ではないとのこと。女になりたかったとの供述も言及されていた。それが本当かどうかはさておき、実は世の中にはそういう苦しみや性癖に苦しんだり耐え忍んでいる方が案外多いのではないかと思う。べつにこの容疑者を擁護する気はない。だが、実は今の世の中とは、男女をスパッと二分できるとの前提がまかり通ったうえでの社会設計になっていやしないか、という問題意識の題材の一つにこの事件はなりうる。

いくら情報技術が幅を利かせている今とはいえ、全てがオン・オフのビットで片付けられると考えるのは良くない。そもそも、量子コンピューターが実用化されれば0と1の間には無数の値が持てるようになり、二分化は意味を成さなくなる。私たちもその認識を改めねばなるまい。人間には男と女のどちらかしかいないとの認識は、もはや実態を表わすには不適当なのだという事実を。

「美月は俺にとっては女なんだよ。あの頃も、今も」
このセリフは物語終盤366ページである人物が発する。その人物の中では、美月とは男と女の間のどれでもある。男と女を0と1に置き換えたとして、0から1の無数の値を示しているのが美月だ。それなのに、言葉では女の一言で表すしかない。男と女の中間を表す言葉がまったくない事実。これすらも性同一性障害に苦しむ方には忌むケースだろうし、そうした障害のない私たちにはまったく気づかない視点だ。これは言語表現の限界の一つを示している。そしてそもそも言語表現がどこまで配慮し、拡張すべきかというかという例の一つに過ぎない。

本書がより読まれ、私を含めた人々の間に性同一性障害への理解が進むことを願う。

‘2017/12/09-2017/12/11


嘘をもうひとつだけ


私がまだ読んでいない「加賀恭一郎」シリーズは数冊ある。本書もその一つ。本作は連作短編集だ。五編が収められている。

本書の全体に共通しているテーマは女性のうそについて。女性がつくうそにはさまざまな目的がある。その多くは自らの過失や犯した罪を隠すため。そんなうそはその場しのぎであり、入念な計画もなく、狡知をこらしてもない。全ては急ごしらえなうそ。だから聡い人物にかかるとばれてしまう。それが加賀恭一郎であればなおさら。

どの謎も、あとから分かればいかにもその場しのぎの偽装だ。ところが、偶然が重なったり、部外者が後からみた程度ではすぐには見当がつかない。しかし、わずかなほころびが加賀恭一郎には矛盾と映る。そしてそれを見越した巧妙なカマをかけると、背後の犯罪が暴かれる。すべてが推理小説の、捜査の常道に沿っている。五編ともお見事だ。ただし、この後に発表される『赤い指』に比べると、少し物足りなさは感じた。本書は「加賀恭一郎」シリーズでも中期に位置する。『赤い指』は冷徹な頭脳を持つ加賀恭一郎を豊かな人情を秘めた魅力的な人物として書かれた傑作だ。「加賀恭一郎」シリーズはここで確立したともいえる。それからすると、本書は短編集だ。どちらかといえば優れた頭脳の持ち主としての加賀恭一郎が前面に出ていた。キャラクターの魅力が確立される直前の作品といえる。

だが、加賀恭一郎が持つ別の魅力は、五編においてきっちり書かれていた。それは謙虚さだ。聞き込みのセリフの一言一言に、加賀恭一郎の謙虚さがにじみ出ている。そういえば、このシリーズ全体に通ずるのが、物的証拠より聞き込みによって事実に迫ることを重んじていることだ。物的証拠とは聞き込みで得た結果を補強するものでしかない。聞き込みによって事件の全貌を見いだしてゆく加賀恭一郎の特徴が、本書ですでに確立しているのがわかる。

「嘘をもうひとつだけ」
「冷たい灼熱」
「第二の希望」
「狂った計算」
「友の助言」
とある五編のそれぞれのタイトルは、それぞれを読み終えてから見てみると、言いえて妙なタイトルになっている。その中でも「冷たい灼熱」という反語的なタイトルをもつこちらは、一番ひねりが効いているように思った。内容も「冷たい灼熱」は、他の四編と一線を画している。本編のキーとなるのはとある悪癖だ。だが、最期までその悪癖の固有名詞は明かされないままだ。多分業界への配慮なんだろう。けれど、それがかえって印象に残った。

うそとは多くの場合、自分にとっての利益が他人にとってのそれと相反する場合に生まれる。自分の願う利益が他人にとって不都合な場合、それを押し通すためには事実を隠したりうそを言ったりしなければならない。それは本来、許されることではない。だが、人はうそをついてしまう。もしばれた場合には社会から制裁が科される。だが、それを覚悟してまでうそをつく。人をそうまでさせる理由は人によってそれぞれだ。そこをいかに現実にありそうな理由として書くか。そして、うそを付くほか選択肢がなくなった、追い詰められた人間の弱さをどうかくのか。それもまた、推理小説にリアルさを与える。しかも短編の場合は、うその原因を簡潔に記さなければならない。推理小説の作家の腕前が試される点はここにもある。そこがしっかりと説得力を備えて書かれているのが、本書の魅力だ。

そもそも推理小説とはうそを出発点としなければ成り立たない。動機よりもアリバイよりもトリックよりも、まずはうそが優れた短編を生む。どうやってうそにリアルさを持たせるか。どのようにうそに説得力を持たせるか。そして、いかにして簡単にばれないうそを仕込むのか。優れたうそをひねり出すのは、簡単なようでとても難しいはず。あえて言ってしまうと、推理小説を書く作家とは、とびきりのウソツキでなければならないのだ。多分、著者はそれを十分に理解していたはず。だからこそ本書が生まれたのだろう。うそに目を付けたのはさすがだ。

冒頭に書いた通り、本書は推理小説の短編はこう書くべき、の見本だ。「加賀恭一郎」シリーズというより、すぐれた推理小説の短編として読むのがオススメだ。

‘2017/08/11-2017/08/12


禁断の魔術


著者の作風に変化を感じたのは「夢幻花」だったと思う。その変化についてはレビューにも書いた。私が感じた変化をまとめると、謎や解決のプロセスを本筋できちっと書き込み、なおかつ、それとは並行する別の筋に作者の想いや主張を込める離れ業を見せるようになったことだ。作風の変化というより作家として新たなレベルへ進化したというべきか。

「夢幻花」はシリーズものではなく単発作品だった。普通は安定のシリーズものではなく単発作品で実験的な手法を試すのが常道だと思う。

だが、著者はガリレオシリーズの一冊である本書で新たな手法を試す。今までガリレオの活躍を読まれてきた方にはお分かりだが、ガリレオシリーズは新しい科学的知見がトリックに惜しみ無く投入される。ガリレオこと湯川学が物理学者としての知見で謎を解くのがお決まりの構成だ。決して理論だけに凝り固まらず、謎や犯人との対峙の中で、ガリレオの人としての温かみが垣間見える。そんなところがガリレオシリーズの魅力である。

本書でもガリレオの前に科学的な装置を駆使した犯罪が立ちふさがる。その装置を使って一線を越えようとする人物の素性も序盤で読者に明かされる。それはガリレオのかつてのまな弟子。師は果たして不肖の弟子の暴走を止められるのか。それがあらすじだ。

もちろん著者は本筋をおろそかにしない。読者は、著者が安定のレベルで紡ぎだす謎解きの醍醐味を味わうことになる。いまや熟練の推理作家である著者にとって、謎の提示と解決までの筋書きを用意するのはさほど難しくないのだろう。

著者が用意した本書の裏の筋は、ここでは書かない。本筋にも関係のあることだからだ。表の謎が解かれた後に明かされる裏の事情。それは正直にいうと「夢幻花」で受けたインパクトよりも弱い。

でも、それはガリレオというキャラクターを語る上では欠かせないピースである。それをあえて本筋の後に持ってきたことにより、著者の新たな挑戦のあとがみえるのである。

あえて難癖をつけるとすれば、犯人の意図を挫くためにガリレオがとった行動にある。うーむ、さすがにそれは間抜けすぎでは、と思った。

‘2016/08/20-2016/08/20


真夏の方程式


当代きっての人気作家である著者。その魅力を語りつくすには私の文章では力不足だろう。あえて二つ挙げるとすれば、多作なのにシリーズものに頼らないこと、シリーズもの以外にも秀いでた作品が多いことだろうか。我々素人からみても、シリーズもののほうが毎回設定を構築する手間が省ける分、作家にとって楽なことは分かる。しかし著者はシリーズものに頼らない。それでいて、あれだけの良作を産み出し続ける著者の筆力は半端なものではないと云える。

とはいえ、昨今の著者を超がつく売れっ子にしたのは、代表的な2シリーズの力に与ることも否めない。代表的な2シリーズとは、「新参者」「麒麟の翼」に代表される加賀恭一郎シリーズと、「探偵ガリレオ」「容疑者Xの献身」で知られるガリレオシリーズのことである。シリーズ物にありがちな惰性とは無縁な2シリーズは、駄作とも縁がない。

この2シリーズに共通する魅力とはなんだろうか。私はそれを人情に篤い主人公のキャラクター設定に見た。加賀恭一郎も、ガリレオこと湯川学も、怜悧な論理を自在に操る能力の持ち主だ。しかし、二人とも論理一辺倒の人物ではなく、その論理が情の豊かさに裏打ちされているのがいい。論理を越えたところで見せる暖かく血の通った振る舞いが、読後に爽やかな感動を残す。謎が解かれるカタルシスももちろんだが、彼らの見せる優しさに心を動かされ、それが後々まで小説の余韻として残る。

彼らの情の篤さは、事件の幕引きにおいて顕著だ。加賀恭一郎シリーズには「赤い指」という名作がある。この事件で、加賀恭一郎がとった事件の幕の引きかたは感動的とさえいえる。それは、厳しくそれでいて相手を真に思いやらねば決して出てこない言動である。ガリレオにしても理詰めに謎を解き、犯人を追い詰めるだけの冷徹なキャラであれば、ここまでの支持が得られたかどうか。理論の塊にみえる彼が時折見せる人間的な心の揺れは、理論武装の平素からするとその人間臭さが余計に強調される。物理学の公理に照らすと合理的でない行動も、ガリレオの心は彼の心にとって合理的な行動を選ぶ。理論と自らの人間性のはざまに揺れる彼の悩みや迷いは、大方の読者にとって大いに共感できる部分であり、だからこそ本シリーズが支持されるのだろう。

ガリレオは本書でも、印象的な言動を多々見せる。冷静で論理の筋が通った頭脳のさえは相変わらず。が、本書にはガリレオのペースを乱す人物が登場する。それは恭平少年である。海岸沿いのひなびたリゾート地へ向かう列車の中で知り合った恭平少年とガリレオ。お互いの行先が一緒であることから、ガリレオは宿泊先を少年が泊まる宿に定め、夏休みの間の二人の交流が始まる。事件に巻き込まれるという類まれな経験とともに。

本書でガリレオが見せる恭平少年への接し方は、本書の最大の見どころである。子どもが苦手という設定のガリレオだが、それゆえに手慣れた大人としての接し方ではなく、彼なりの振る舞いで恭平少年と相対する。一見すると冷徹な理屈で冷たく突き放すように見えるが、そこには恭平少年を大人扱いし、真に少年の立場にたって考えた彼の思いやりが背景にある。恭平少年も、大人の型にはまらず血の通ったガリレオとの交流に感じる思いがあったのか、ガリレオを博士と呼んで慕う。

子どもを子ども扱いせず、一人の人間として接することで、子どもはその相手に敬意を抱く。私も子を持つ親として頭では分かっているつもりだが、それを実践するのは口にいうほど簡単ではない。しかし、本書で描かれるガリレオと恭平少年の交流はどうだろう。ある時は親身にある時は突き放し、恭平少年のひと夏の自立を促すガリレオの様子は、とても独身物理学者のそれとは思えない。

本書の前半部では、自然保護と資源開発の対立が描かれる。それは釣り餌のようにして読者の前にぶら下げられる。それらに対するガリレオの考えも述べられ、大変興味深い。おそらくは著者が平生考えている内容をまとめた内容と思われるが、頷ける論理である。しかし、本書は自然保護論を云々する本ではない。序盤でこういった少し手垢のついた題材での対立が描かれることに、失望を覚える読者もいるかもしれない。ああ、ガリレオシリーズもついにマンネリ化への道を進むのか、と。しかし、本書はそんな単純な筋書きでは進まない。むしろ恭平少年とガリレオを囲む外部が俗っぽくなればなるほど、彼らの交流の豊かさが際立つ。私はそのような意図があって、本書の構成にしたのではないかと思う。

本書のテーマはあくまでガリレオと少年のこころの交流に置かれている。ガリレオが恭平少年に対してみせる気遣いや応対は、読者が大人であればあるほど、普段の子どもへの向き合い方を考えさせられるものである。子どもをいかにして世間から守り、自立した大人へ旅立たせてやれるか。それは決して頭で考えるものではない。

事件は現場で起きているという。それは云うまでもない真理に違いない。しかし、事件は子どもの中にも何かを起こすことも忘れてはならない。今までの推理小説は、子どもの心中を描写することにおいて、あまりにも無関心だったように思う。事件に巻き込まれるという経験は、大人にすら平穏なものではない。ましてや、子どもに対しての影響はもっと重大なはず。有事のとき、大人がどのように子どもを守り、どのように事件の影響からケアするのか。本書が提起する内容は存外に重く、考えさせられる。

云うまでもなく、子どもにはこれからの人生と可能性がある。それを活かすも潰すも大人の責任となる。理屈だけでは追い切れない人生の複雑な襞の一つ一つを、ガリレオは恭平少年に提示し、それと直面するようにさばき、守りぬく。本書を読む興を削ぐことになるのでこれ以上は書かない。が、本書がガリレオシリーズの名作としてまた一つ加えられるのは間違いないとだけは書いておく。

‘2014/10/3-2014/10/4


新参者


私が人形町界隈に通勤していたのは今から数年前、1年半ほどの期間であった。縁があって人形町を本拠とした会社設立に参画することになったのだが、その会社と縁が切れた今に到っても、設立に立ち会ったことは、私の仕事スタイルにとって重要な影響を与え続けている。

そしてその期間、勤め人としての立場で関わった人形町も、私の中で非常に良い印象を、今に到るまで残し続けている。昼飯を求めて路地から路地をうろつき、仕事の休憩時間にベランダから見降ろした、活気ある街の風景など、人形町の魅力を堪能した1年半だった。

なので、本書には実際に街で過ごした者として、単なる読書体験以上の共感を覚えるとともに、新参者としてここまで人形町の市井を作る人々と関係を作り上げた、著者と主人公である加賀刑事に羨望と嫉妬すら覚える。

人形町を知る者には心当たりのある街並みと店舗。実名こそださないものの見当がつけられる店の店員や主人たちが、加賀刑事の丹念な聞き込みによって、それぞれの抱える人情の温かみと機微に気づかされていく。

加賀刑事といえば、すぐれた洞察力と冷静な論理の裏側に隠れた人情の篤さによって魅力的な人物造形がされているが、本書では人形町に住む人々の人情と、加賀刑事自身の人情が言葉のやりとりから深みをましながら交わされる。「新参者」とは排他的のようでいて、実はそうではない反語的な題名の付け方と感心した。

旅情ミステリとは一線を画す、深い街への造詣と、磨きあげられた人物観察が成し遂げた、秀逸な小説として、本書は外せないし、人形町を紹介するにあたり、本書を候補を挙げることに、何らためらいはない。

私が都心で開業するとしたら、人形町は第一候補地であり、開業なったら、本書を片手に街の散歩をしてみたいと願うばかりである。

’12/04/16-12/04/17