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オールド・テロリスト


著者は近年、近未来の日本を描くことで現代に警鐘を鳴らそうとしている。『希望の国のエクゾダス』は、中学生たちが日本に半独立国を作り上げる物語だった。本書はそのシリーズに連なっている。本書の主人公は当時、中学生を取材したジャーナリスト、セキグチ。彼がルポルタージュの執筆依頼を受けた時から本書は始まる。セキグチにルポを依頼した人物は、自らを満州国の人間と名乗り、セキグチをNHKに招く。

その指示に従ってNHKを訪れたセキグチは、若者による自爆テロに遭遇する。九死に一生を得たセキグチは、ルポをウェブマガジンに発表して世間の反応を見る。そこにさらにニュースが飛び込む。自爆犯の仲間達の自殺死体とその傍に置かれていた犯行声明が見つかったのだ。その声明は隷書体で書かれており、セキグチの捜索の糸は、駒込の書道教室へと伸びる。そこには謎めいた女性カツラギと、老人たちのコミュニティが築かれていた。そこでセキグチに託されたのは次なるテロ現場への手がかり。池上の柳橋商店街。そこでセキグチは、植栽を整えるための苅払機の刃が通行人の首を切り裂く瞬間に遭遇する。

セキグチは何かが起ころうとしている事を理解する。老人たちのコミュニティが何か大それたことを計画しているに違いない。希望を持てなくなった若者をそそのかし、自爆テロに向かわせるコミュニティー。その正体は曖昧であり、謎に包まれている。目的を完遂するため、相互の関係がわかりにくい組織を構築した。ちょうどアルカイダのような。

カツラギと親しくなったセキグチは、そのつてで精神科を営むアキヅキの知己を得る。そして老獪なアキヅキとの会話から、オールド・テロリストたちの目指す大義の一端をうかがい知る。

心療医ならではのソフトな口調を操るアキヅキ。彼が発する膨大なセリフの中に本書の肝は含まれている。その中の二つを抜粋してみたい。

「・・・・前略・・・・

老人に関して言うと、弱虫は老人にはなれないんだ。老いるということは、これが、それだけでタフだという証明なんだ。

・・・・後略・・・・」(124P)

「・・・・前略・・・・

 誰もが生き方を選べるわけではない。上位の他人の指示がなければ生きられない若者のほうが圧倒的に多く、それは太古の昔から変わらない。それなのに、現代においては、ほとんどすべての若者が、誰もが人生を選ぶことができるかのような幻想を吹き込まれながら育つ。かといって、人生を選ぶためにはどうすればいいか、誰も教えない。人生は選ぶべきものだと諭す大人たちの大半も、実際は奴隷として他人の指示にしたがって生きてきただけなので、どうすれば人生を選べるのか、何を目指すべきなのか、どんな能力が必要なのか、具体的なことは何も教えることができない。したがって、優れた頭脳を持ち、才能に目覚め、それを活かす教育環境にも恵まれ、訓練を自らに課した数パーセントの若者以外は、生き方を選ぶことなどできるわけがないし、生き方を選ぶということがどういうことなのかさえわからない。そういった若者にとって、人生は苦痛に充ちたものとならざるを得ない。苦痛だと気づいた者は病を引き寄せるし、気づかない者は、苦痛を苦痛と感じないような考え方や行動様式を覚える。同じような境遇の人間たちが作る群れに身を寄せ、真実から目を背けるのだ。

・・・・後略・・・・」(132~133P)

このセリフなど、今の日本の抱える二分化の状況を端的にあらわしている。今の若者に何が起こっているのか。私も含めた若者たちはどういう試練を課せられてきたのか。実に考えさせられる。また、最初のセリフからは、老いているから弱いという思い込みをはねつける強靭なメッセージが伝わってくる。老いるということはそれだけ長く試練に耐えてきた証拠なのだ。今の私たちが生きていること自体が、先祖たちが生き抜いてきた証であるのと同じように。

アキヅキは日本を焼け野原にするという。そして日本の原発の脆弱さを不気味に語る。さらに、謎かけのように歌舞伎町の映画館について言及する。予感を感じたセキグチは、新宿のミラノ座で「AMAOU」なるAKBやSKEの亜流グループが出る映画を見に行く。そして、そこでテロに巻き込まれる。高温で焼き尽くされた劇場からは数百人から千人に迫る規模の死者がでた。イペリットを使ったテロ。セキグチとカツラギ、そしてセキグチが出版社で机を並べていた同僚のマツノはそのテロで危うく死にかける。

そのテロこそ、コミュニティが真に牙を剥いた瞬間。そして遥かな満州国の頃から日本の奥底でうごめく策動が本格的に始動した証だった。そのコミュニティを作り上げ、満州国の生き証人である老人。明日にでも死んでしまいそうなほど衰えたその老人とセキグチは面会を果たす。そして老人から、コミュニティの中で先鋭的な手段に訴えるグループがあること、映画館のテロはそのグループが独断で行ったこと。グループの過激な行動は老人の意図を超えており、そのたくらみを止めて欲しいと頼まれる。老人から託された運動資金は十億。十億など老人にとっては単なる数字。金の流れを把握しきった老人による金の本質を突くセリフも興味深い。

セキグチとカツラギとマツノは、豊富な資金を元手にグループの計画に迫る。565ページある本書はここから、さらに紆余曲折がある。そしてその折々に重要なメッセージが読者に突き付けられる。例えば、

「わたしはあの人に興味がないし、あの人も、もちろんわたしに興味がない。ただし、だからあの人はわたしを信用しているの」

「・・・・前略・・・・

そういう人って、興味を持つ対象がいた場合、まず思うのは、とにかくこいつを殺したいってことです。

・・・・中略・・・・

彼は、どういうわけか、わたしには興味がなかったんですね。わたしのことを、殺したいやつだと思わなかったんです。だから信用されたんだと思う」(289P)

このセリフも、信用や人の関係の本質をナイフのようにえぐっている。

また、こういったセリフも登場する。

「テロの実行犯は、静かな怒りとは無縁です。衝動的に通行人をナイフで刺すような人にあるのは、甘えなんですね。もちろん、彼らにも怒りという感情はあります。ただ、静かな怒りではなく、現実が思うようにならないという幼児的な怒りです。そういう人は、甘えられる対象を常に探しています。自分をコントロールできない、また問題が何かもわかっていないし、見ようとしないし、認めようとしない。だから現実が思い通りにならないのは自分自身のせいではなく社会や他人のせいだと決めつけていて、誰かに、頼りたい、服従したい、命令されたい、そう思っているんです。今、そういう人間は社会にあふれかえっているので、探し出して、洗脳というか、誘導するのは、そうむずかしいことではないでしょう。

・・・・中略・・・・

特攻隊がなぜ美しいか、わかるか。彼らは、二十歳そこそこの若さで、国や、故郷、そして愛する人々を守るために、喜んで犠牲となった、彼らは、七十年後の今でも、尊敬され、英雄として崇められている、崇高で、偉大なものの犠牲になる、それがいかに美しく、素晴らしいかわかるか。

 そういう洗脳をされるのは、気持ちがいいものです。ある種の人たちにとっては、信じられないくらい圧倒的に気持ちがいい。自分で考える必要もないし、自分をコントロールできないと苦しんだり不安になったりする必要もない。

・・・・中略・・・・

その種の洗脳は、甘えることを当然と考える人間が多い社会において、宗教的で、恐ろしい効果を生むんです」(334-335P)

この言葉も読者にはささるはず。

著者の作品を読むといつも思わされるのは危機感の欠如だ。現実の営みがどれだけ緩やかな流れに乗っているか。仕事や家庭で忙しない国民たち。今の我が国にはある程度のセーフティネットが用意されている。それは世のぬるい流れに乗って生きることの快適さを保証してくれている。その流れに乗っていれば楽だ。楽だが、生の証を刻みつけるには、はなはだ心もとない。そもそもその様な生きざまでは、いざ有事が発生した際、まっさきに淘汰される。

むろん、老人たちにしてみても、若い頃は軍国の流れに乗らざるを得なかった。望まぬまま有事に巻き込まれ、その記憶に引きずられている。だが老人たちは今、意図して有事を作り出そうとする。ぬるま湯の日本に刺激を与えるために。

本書はこのあと結末に向かって進んでいく。その結末は書かない。本書の筋書きよりも、あちこちにちりばめられた警句めいた言葉から何かをつかみ取ることが重要だ。本書は著者からの危機感を持つように、というメッセージなのだから。

‘2018/07/07-2018/07/08


夢幻花(むげんばな)


本書を読み終えた頃、街中には映画「天空の蜂」の封切り直前のポスターが貼り出されていた。駅や映画館で見かける「テロリストによって人質となった原発」というコピーは私の目を引いた。

言うまでもなく、本書の著者は「天空の蜂」の原作である同名小説の著者でもある。私も「天空の蜂」は十数年前に読んだ。今思い返しても先進的な内容で、原発の弱点を端的に暴いた傑作といえる。その後十数年を経て図らずも起こった福島第一原発の事故により、原発の脆弱性が浮き彫りになった。それを契機に改めて天空の蜂の先見性に脚光が当たり、今回の映画化につながったのだろう。

著者はエンジニア出身として知られている。その著者が現実に起こった原発事故の後、改めて原子力に向き合い、そして突き詰めて考えた成果。それを問うた作品が本書である。

作家がミステリーを書くとき、通常は謎ありき動機ありき、で書くのではないだろうか。しかし、本書は違うアプローチで書かれたように思う。どうすれば原子力についての思索をミステリーに織り込むか。本書はまずそこから構想が起こされたのではないだろうか。そして著者は原子力についての思索に作家としての心血を注いだのではないか。本書の帯にはこのように書かれている。「こんなに時間をかけ、考えた作品は他にない」と。

上の言葉の本意は、プロットや筋、トリックを考えることを指していないように思える。そうではなく、物語の背景や底に流れる原子力への思索をいかにして本書に織り込むか、にあったのではないか。しかし原子力という現実の鬼子を物語の前面に押し出したのでは、小説としての効果が発揮できない。著者はそう判断したのだろう。だが、それは素人から見て高度な技に違いない。しかし、著者は原子力を前面に出さず、なおかつ原子力についての思索を読者に問うことに成功している。

本書の筋やプロット、トリックは無論盤石の出来である。そのままでも上質のミステリーであることに変わりない。しかし、本書でもっとも印象に残った一節はエピローグにある。そこで読者は著者の思いを知る。そして本書が「天空の蜂」とは一味違う技巧で原子力について著者が語ったことを知ることになる。

本書の主人公が原発技術者であることは本書の冒頭で紹介される。斜陽産業である原子力産業に見切りをつけようか迷う技術者として。

本書で取り上げられる事件はアサガオを中心として回る。そこに原子力は登場しない。原子力とは関係のないまま事件は解決する。では原子力についての著者の思索はどこに現れるのだろうか。それはエピローグに現れる。謎がすべて解けた後、主人公がエピローグで下す決断こそがこの物語の肝なのである。その決断こそが、著者が原子力に対して正面からぶつかり、考え抜いた結論を効果的に表現する手段に違いない。その決断については、本書の筋とは違って著者のメッセージを読み解く肝となる。なので、本書については特にエピローグから本書を読まないほうがよいだろう。なお、その結論とは私が原子力について考える立場に等しい。

私は原発の漸次廃止には賛成する。そして今の原発が将来廃れるであろうとも予想する。ただし、全ての原発を即時廃炉とすることには反対だ。それは、大体発電手段の利用による燃料費の高騰といった経済的な理由だけではない。理由は他にもある。その理由こそが本書のエピローグで書かれている内容だ。

望む望まないに関わらず、わが国は原発が稼働開始した時点ですでに後戻りできない決断を下してしまった。そしてその決断の後始末は、誰かが長い時間、それも数世代に亘って担い続けていかなければならない。そこには賛成も反対もない。否応無しに誰かがやらねばならないのだ。それこそが私が原発の即時廃炉に反対する理由である。本書で主人公が下した決断もまさにその思想を沿ったもの。そこに我が意を得た思いだ。

‘2015/8/27-2015/8/28


精神論抜きの電力入門


貧しい資源の上に危うく乗っかった日本の繁栄。福島第一原発の事故によって、改めて我々にはその事実が突き付けられた。資源に乏しい我が国が、今の繁栄をどのように維持するのか。多くの人々が忘れ去ってしまったこの問いは、実は全く解決されていない。問題は棚上げされ、事故から4年以上の時が過ぎている。本書は、この問いに答える上で、重要な資料となるかもしれない。一読してそんな感想を抱いた。

著者は経済産業省で資源エネルギー政策の課長などを歴任した人物である。原発推進を国策とした経緯に当事者として関わり、政策の立案者として貢献してきた。いわば我が国原発推進の中心人物であり、その主張は原発推進の立場に依っている。

なぜ日本が原発に頼らざるをえないのか、どうして即時原発廃止が現実的でないのか。クリーンエネルギーが主流にならないのは何が問題か。そういった疑問に対し、本書では精神論に頼った議論を切り捨て、実務の立場からの解説に終始している。本書の題には「精神論ぬき」という言葉が含まれている。なぜそのような言葉を入れる必要があったのだろうか。それは、原発事故の後、精神論で今の電力危機を乗り切ろうとする風潮への警告なのだろう。

私も実は、当時精神論寄りの意見を吐いた一人だ。ただし、単純な精神論だけを唱えていた訳ではない。「電気が無ければただの箱」であるIT技術に生活の糧を得る者として、電力の安定的な供給=原発は必須と考えていた。そのため、原発の即時廃止についても慎重論に立っていたように覚えている。そして、原発は将来的には廃止の方向で考えるべきだが、代替エネルギーの無い現状では稼働せざるをえず、稼働させ続けた上で電力使用量を減らして徐々に原発から脱却すべきという意見を述べた。その意見は今も変わっていない。

夜間に煌々と明かりをつける住宅展示場や、繁華街の過剰にまぶしい光。これらをもう少し抑えるだけで、夜間電力量は減らせるのではないか。重要なのは昼夜の電力使用量の節約云々ではなく、万が一に備えて普段から節約(MOTTAINAI)の精神に慣れておくこと。それが資源貧国の民としてあるべきではないか、というのが私の思いだったように思う。今思い返しても、一歩間違えると精神論の罠に落ち込みかねない意見だ。しかし間違った意見だとは今でも思っていない。間違っていないが、私がその意見を述べるにあたり、裏付けとなる確かなデータや知識を持っていた訳ではないことは率直に認めたい。だが、本書は意見を述べるためのデータや知識を持つ、実務の第一線の著者が描いた本である。

著者の論考は、徹底して実務の立場に立っている。そこには一切の希望的観測は含まれない。理想論や希望論を排する姿勢は清々しいほどだ。冷徹な立場に徹して電力事情について解説された本書には、精神論の入り込む隙間もない。それでいて、本書が原発バラ色未来だけを描いた本かというと、そうでもない。原発利権や電力会社の構造問題にもきっちりとメスを入れている。著者の視線は常に原発の存在について、理想論や希望論を抜きにした、精神論からは遠く離れた場所に留まっている。著者の立場からいえば難しい、単純な原発擁護論とは一線を画しているのが本書の素晴らしい点の一つといえる。

第1章 電力不足の打撃と損失
第2章 原発依存にかたむいた事情
第3章 エネルギー政策の基礎とルール
第4章 再生可能エネルギーの不都合な真実
第5章 原子力をめぐる不毛な論争
第6章 賠償を抱えた東電の行く末
第7章 電力自由化の空論と誤解
第8章 「東日本卸電力」という発想の転換

ここに各章の表題を挙げたが、論じるべき点は全て論じきっているといえる。日本の電力を考える上で、本書で提示された現状を出発点とすることは重要ではないかと思う。

ただし、事故当時、精神論を唱えた私としては、まだ理想論や精神論は捨て去りたくない気持ちもある。精神論を排した本書には一矢でも報いておきたいところである。例えば、本書の第一章、第二章。電力使用量を下げねばならないという市井からの主張に対して、著者は現実的でないと一刀の元に切り捨てている。ここは少し納得が行かない。著者の唱えるすべての施策が実現しても尚、また、仮に原発事故が起こらなかったとしても尚、電力を無尽蔵に消費し尽す今のライフスタイルは見直さねばならないのではないか。これは電力問題にとどまらず、日本の将来を考える上で重要な論点ではないだろうか。

もう一点、本書ではクリーンエネルギーについても国内外の事情を紹介した上で、現時点では質量ともに代替電力としては期待できないと結論付けている。この結論は現時点では認めざるをえない。だが、著者は決してクリーンエネルギーの将来を見捨てている訳ではない。それは本書を読んでも明らかである。本書を読んだクリーンエネルギー開発の技術者の方は、是非とも本書を読み、発奮してクリーンエネルギーを開発して頂きたい。精神論にも似非科学にも無縁の、文句のつけようのないクリーンエネルギーを。その点は、私も著者も思いは一緒だと思う。

最後に、本稿を書く段になって、著者のブログhttps://ieei.or.jp/2015/06/sawa-akihiro-blog150623/ を読む機会があった。そこには、原発推進派としての著者からの贖罪にも似た言葉が綴られていた。本書ではそういった贖罪の言葉は見られない。おそらくはあえて外したのだろう。だが、このブログからは著者の真摯な態度が伝わってくる。本書を読んで、所詮は原発推進派の都合にそったことしか書かれていないんでしょ、と思う向きは、このブログを読まれることをお勧めする。クリーンエネルギーを望む声が高まってもなお、原発を推進せざるをえない日本の貧しい資源事情について、思いを致すこと間違いない。

著者とて、決して手放しで原発が最適解と考えている訳ではないのだ。著者一人にその重荷を背負わせるのではなく、我々市民として電力の節約を唱えることは、決して精神論ではないと思うのだが。本書とブログを読み、著者の真摯な姿勢に感銘を受けても尚、私が抱く電力節約についての想いだけは変わることはなかった。

という内容を書いたまま、8か月近く本稿を眠らせていた。読んだ順に読読ブログをアップするという方針のため、他のレビューを待っていたのだ。今日、本稿をアップするわけだが、結果として本書を読み終えて一年以上が経ってしまった。しかも、あろうことかその間に著者は病魔に侵され、この世から去ってしまった。今年の1月16日のことである。著者と面識があった訳ではないけれど、ブログから著者の想いに触れていただけに衝撃を受けた。当ブログが存命中の著者の目に触れることはなかっただろうことは分かっている。だが、著者の存命中に本稿をアップしたかった。アップが著者の死後になってしまったことは慙愧に堪えない。

私が偉そうなことは言えないことは重々承知だ。IT業界に生きるものとして、電気に縛り付けられた一人にすぎない。プライベートでも電気の点けっぱなしは始終やらかす。著者からみれば私もまた電気を湯水のように使い倒す大衆の一人なのだろう。それは分かっている。だからこそせめて、こういった文章をものし、著者の想いに少しでも報いたかったと思うのだ。

著者亡き今、東京は都知事が辞任するという体たらく。それでいて2020年のオリンピックは着々と迫っている。電力問題など真面目に考えている人などほんのわずかしかいないに違いない。さぞ無念だったことだろう。本書や著者の遺したブログが少しでも多くの方の目に触れることを望みたい。

‘2015/6/20-2015/6/24