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アクアビット航海記 vol.27〜航海記 その14


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/18にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

暗雲が立ち込める


前回の連載で、私が親から自立した瞬間を書きました。
ところが、人生とはうまくゆかないもの。私の自立への願いは、思わぬ方向からストップを掛けられました。
それは妻からです。

前回の連載では、妻と結婚に向けて準備にまい進していた、と書きました。
その日々は希望と楽しみもありましたが、その中では私の意思だけではどうにもならないこともありました。
結婚とは私一人でするものでなく、妻と一緒にするもの。つまり、妻の意思にも影響されます。
ここで妻の意思が入ることによって、私の自立への願いは危うくなりました。

新婚生活をどの家で迎えるか。
それは私にとって、結婚式の段取りや新婚旅行先などよりもはるかに大切なことでした。
もちろん、妻には妻の価値観があったのでしょう。それはわかります。そして、自立したい私には私なりの切実な理由がありました。
少なくとも私は、妻の実家や実家の財産に寄り掛かった新婚生活を送るつもりは全くありませんでした。ミジンコのヒゲほどにも。

せっかく東京に出てきたからには全てを独力で作り上げたい。家を買えないのは当たり前なので、賃貸で二人だけの部屋を借りて。
それが私にとってあるべき新婚生活だったのです。

ところが、新居という肝心なことで、私と妻の間で意見の相違が発生しました。早くも結婚前から暗雲が。
ちなみにここで出てくる妻とは、本稿を書いている今も、私の妻で居続けてくれていますので念のため。

結婚への障害


さて、その暗雲は、私と妻が結婚への準備を進めるにつれ、晴れ渡っていたはずの私の頭上を覆っていきます。
連載の第二十回でも書いたとおり、妻は歯医者です。妻の祖父母も歯医者なら、妻の父母も歯医者。妻の弟君までも歯医者。どこに出しても恥ずかしくない歯医者一家です。
世間からは資産家と思われても不思議ではない家族。それが妻の実家です。無職の私が情熱のままにアタックした妻の実家はそんな家でした。
ところが、私が妻と出会う数年前に妻の祖父母、そして妻の母は相次いで世を去ってしまいました。
残されたのは祖父母が住んでいた広大な家です。

町田の官公庁が立ち並ぶ一等地。そこにある180坪の敷地。そこは二軒の家が建っていました。
一軒は木造の二階建て民家です。本連載の第十九回で私がH君と町田に旅し、そこで妻と初めて出会ったいきさつは書きました。そのときに泊めてもらった家です。
もう一軒は見るからに堅牢な鉄筋三階建て屋上付の家。歯科診療所も併設されており、歯科医を営んでいた当時の看板もまだ残っていました。
当時、この二軒ともに妻の祖父母がなくなった後、空き家になっていました。
妻の父は、そこから徒歩数分の場所に歯医者兼住居を営んでいました。

妻と妻の父の意見は、新婚生活は広大な空き家で過ごせばいいじゃないか、というものでした。
ところが私にはそれが嫌でした。めちゃくちゃ嫌でした。

多分、何も事情を知らない人にとってみれば、私なんぞ幸運な若造に過ぎないのでしょう。ギャクタマを地で行くような。
実情など、しょせんは当事者にしかわからないものです。
結婚までの半年の間、私はストレスにさらされていました。
いまさら言っても仕方ないことですが。

重荷への予感


たとえば、妻の親族とは法事などで集まる機会がありました。そして、まだ婚約者である私もそこに出席します。すると、私への視線をいやおうなしに感じるわけです。
いろいろと陰で言われていました。籍も入れていないのにどういうつもりかなど。
そうした空気はいかに鈍感な私でも気付くほどでした。
はっきり言ってしまえば、私など、ギャクタマどころか、金目当てで妻をモノにしたどこの馬の骨とも知らぬ関西からの流れ者。そんな程度の人間としてしか思われていなかったと思います。
私が拒否されていたのは、私の人間性に関係なく、私が関西人ということが大きかったようです。それには、私と直接関係のないある理由が関わっています。が、それは私もよく知らないことだし、本連載の本筋からは外れるので割愛します。

ただ、そうした理由に関係なく、私は周りの方からそう思われても無理がなかったのもわかります。
当時の私は歯医者でもなければ、どこかの正社員ですらなかったのですから。東京に出てくるまでは無職の、ようやく派遣社員で働き始めて数カ月の人間。生活基盤などもちろんありません。実力もなければ名声もない。コネも何もない状態。多分、私が妻の父であっても反対するでしょう。妻の親族の皆さんが反対して当然。
逆に考えると、よく妻の父が結婚を許してくれたと思います。

私にはその状況がとてもつらかったです。そして、反発もしました。
私の当時のプライドなどないも同然。実力も伴っていなかったです。でも、妻の実家の財産にはお世話になりたくないという、ちょっぴりの矜持ぐらいは持っていました。

もう一つ、その二軒に住むことが、私にとってゆくゆくの重荷になるのではないかという予感を持っていました。
その二軒の家が建つ180坪の土地に住むこと。その土地の管理人となり責任を背負うこと。それらは私にとって、とてもやばい重荷になるという予感。
その予感こそ、私がこの場所に新居を構えたくないとの拒否感の原因でした。
その予感はやがて的中し、私を数年間、いや十年以上にわたって苦しめます。
ただ、その経験は私を苦しめると同時に私を段違いに鍛えてもくれました。そのあたりはいずれ連載でも触れたいと思います。

次回は結婚のことと、スカパーカスタマーセンターの運用サポートへの異動を描きます。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.26〜航海記 その13


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/11にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

結婚に向けて


東京に居を構え、職も確保した私。
次にやるべきは、結婚へ向けての諸作業です。
町田に住む妻とは家が近くなり、会う機会も増えました。
そこからは10月の婚姻届け提出、11月の披露宴までに向けての半年強を、式場や招待客、新婚旅行の行き先選びに追われていました。そこでもさまざまなエピソードや事件は起こったのですが、本連載はそれらの苦労を語ることが目的ではありません。いつかのゼクシィへ連載する機会に取っておきたいと思います。

それよりも語っておきたいことがあるのです。
語っておきたいこととは、私自身に備わった覚悟と、新居を決めるまでのいきさつについてです。
なぜかといえば、この二つは私のその後の人生航路、とくに起業へ至るまでの複数回の転職に大きく関わってくるからです。

まず、この時期の私に生じた心境の変化から語ってみたいと思います。

親への感謝


連載の第二十一回(https://www.akvabit.jp/voyager-vol-21/)で触れたとおり、私が東京行きを決めてから住民になるまでの期間は二週間ほどしかありませんでした。
その時の私は、何かに突き動かされていたに間違いありません。あまりにも唐突な思いつきと実行、親へ話を切り出した経緯と、親への感謝の思いについては書いた通りです。
ところが、その稿で書いた親への感謝とは、今の私が当時を思い出して書き加えた思いです。
実際のところ、上京へと突っ走る当時の私には、親への感謝を心の中で醸成するだけの余裕も時間もありませんでした。思いつめ、前しか見えておらず、未来へ進むことだけで頭が沸騰していた私の視覚はせいぜい20度くらい。後ろどころか横すら見えていなかったことでしょう。

私が親への恩を感謝するのは、上京してすぐの頃でした。
前触れもなく飛び出すように東京に行ってしまった不肖の長男のために、両親が甲子園から車で来てくれたのです。洗濯機や身の回りの所持品などと一緒に。
私がスカパーのカスタマーセンターに入る前だから1999年4月の中頃だったと思います。
私の父親は当時60歳だったのですが、名神と東名を走破しての運転は骨が折れたことでしょう。
当時の私は新生活に胸を躍らせていました。そして、あれよあれよの間に息子を失った親の気持ちに目を遣る余裕はありませんでした。
私の両親はあの時、東京に飛び去ってしまった長男に会い何を思ったのでしょうか。私の両親の心中はいかばかりだったか。寂しくおもったのか、それとも、頼もしさを感じたのか。私にはわかりません。

それでも今、こうやって当時の自分を思い出してみて、親のありがたみをつくづく思います。

当時、東京にも世間にも不慣れな私は、親の宿泊場所すら手配してあげられませんでした。そのため、私の両親は町田ではなくわざわざ横浜の本牧のホテルに泊まっていました。
数日の滞在をへて最終日、婚約者も含めて四人で横浜中華街を散策します。そして、いよいよ甲子園へと帰ってゆく両親とお別れの時が来ました。
その場所とは忘れもしない、JR石川町駅の近くにある吉浜橋駐車場でした。20年以上が過ぎた今でも、横浜中華街の延平門から石川町駅に向かう途中にその細長い駐車場はあります。
駐車場の端に停めた車へと歩いていく両親の後ろ姿をみながら立ちつくす私。この時の気持ちは今でも思い出せます。せつなく胸がいっぱいになる思い。
泣きこそしなかったものの、この時に感じた哀切な気持ちは、今までの人生でも数えるほどしかありません。横にいる妻(まだ婚約中でしたが)と一緒に東京で頑張っていこうとする決意。そして去ってゆく両親の後ろ姿に叫びたいほどの衝動。
この時に揺れた心の激しさは今も鮮明に思い出せます。また、忘れてはならないと思っています。
私の生涯で親離れした瞬間を挙げろと言われれば、このシーンをおいてありえません。この時、私はようやく東京生活への第一歩を踏み出したのだと思っています。

自立を自覚すること

誰にでも親離れの瞬間はあります。私が経験したよりもドラマチックな経験をした人も当然いるでしょう。親との望まぬ別離に身を切り裂かれる思いをした方だっているはず。
親との別れは全ての人に等しく訪れます。私の体験を他の人の体験と比べても無意味です。
ただ、私にとってはこの時こそが親から自立した自分を自覚した体験でした。親から離れ、一人で歩もうとする自らを自覚し、それをはっきり心に刻みつけた瞬間。
この経験は後年の私が“起業”するにあたり、よりどころとした経験の一つでした。なぜなら、自分が独り立ちし、一皮向けた瞬間に感じた思いとは、起業を成し遂げた瞬間の気持ちに通じているからです。少なくとも私にとっては。

私が関西の親元に住み続けていたら、間違いなく起業には踏み切れなかったと断言できます。
そして、親からの自立をはっきりと意識する経験がなければ、関東に住んだとしても果たして起業にまで踏み切れたかどうか。

ちなみに念のために言うと、自立と疎遠は違います。
私は上京してまもなく21年になろうとしています。その間、毎年の盆暮れにはほぼ両親のもとへと帰省しています。今でもたまにモノを送ってもらっていますし、仕事もたまに手伝ってもらっていました。

上に書いたような出来事があったからといって、両親を遠ざけたわけではないのです。自立は疎遠とは違います。
この時の自分は、親から自立し、別の家族として別の人生を歩み始めたと思っています。それが大人になった証しなのだと思います。

自分がある日を境に大人になったこと。それは誕生日ではなく、成人式でもありません。何かのタイミングでそのことを自覚した瞬間が、大人になったタイミングだと思います。
その刹那の感覚を記憶し、独り立ちした自分への確かな手応えをつかめているか。これこそが大人になってからの荒海を乗り切るにあたってどれほど大きな助けとなったか。
古くはこれを社会がイニシエーション儀式や元服式として与えてくれていたのでしょう。ですが、成人式が形骸化した今では、一人一人がこの成功体験を何とかして得、それを大切に温めてゆくしかないと思っています。

親から離れて自立したことの感動をもち続けていることは、私が起業に際しての助けとなりました。
自立の瞬間の自覚を胸に大人になった私は、大失敗こそしなかったものの、その後に数えきれないほどの失敗をしでかしています。
でも、今に至るまでやって来れたのも、自立の感動が今もなお私にとって大いなる成功体験だからです。
そして、この成功体験があったからこそ、起業にあたっても尻込みせずに進めたのだと思っています。

次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.24〜航海記 その11


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/4にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

上京したてのなにもない私


1999年4月。かばん一つだけで東京に出てきた私。
最低限の服と洗面道具、そして数冊の本。これから住むとはとても思えない格好で、それこそ数日間の小旅行のような軽装備。

当時の私はあらゆるものから身軽でした。持ち物もなく、頼りがいもなく、肩書もしがらみもありません。
移動手段すら、自分の足と公共の機関だけ。それどころか、ノートパソコンや携帯電話はおろか、固定電話を持っていなかったため、インターネットにつなぐすべさえありませんでした。
私と世の中をつなぐのは郵便と公衆電話のみ
妻がいなければ私は完全に東京でひとりぼっちでした。

今思い出しても、私が当時住んだ相武台前のマンションの部屋には何もありませんでした。東京生活の足掛かりとするにはあまりにも頼りなく、大宇宙の中の砂粒のようにはかない住みか。
それでも、当時の私にとっては初めて構えた自分だけの城です。

当時の私がどういう風にして生活基盤を整えていったのか。
当時、私はメモを残しています。以下の記述はそこに書かれていた内容に沿って思いだしてみたいと思います。
まず、住民票の手続きを済ませ、家の周りを探険しました。
次いで、自転車を買いに、行幸道路を町田まで歩きました。さらに、国道16号沿いに沿って相模原南署で免許の住所移転をし、淵野辺まで歩き、中古の自転車を購入しました。これで移動手段を確保しました。
それから、通信手段については、住んで二、三カ月ほどたってポケベルを契約したような記憶があります。
近くに図書館を見つけたことによって、読書の飢えは早いうちから癒やすことができました。

それだけです。
あとは妻と会うだけの日々。本当に、どうやって毎日を過ごしていたのかほぼ覚えていません。

完全なる孤独と自由の日々


この頃の私はどうやって世間と渡りをつけようとしていたのでしょう。恵まれたコミュニケーション手段に慣れきった今の環境から思い返すと、信じられない思いです。
でも、何もないスタートだったからこそ、かえって新生活の出だしには良かったのかもしれません。
妻以外の知り合いはほぼ居らず、徹底した孤独。それでいて完全なる自由
この頃の私が享受していた自由は、今や20年近くの年月が過ぎた今、かけらもありません。

この連載を始めた当時(2017年)の数カ月、私はFacebookをあえてシャットアウトしていました。毎日、投稿こそしていましたが、他の方の投稿はほとんど目を通さず。
仕事が忙しくFacebookを見ている時間が惜しかったことも理由ですが、それだけではありません。私は、上京したばかりの当時の私に可能な限り近づこうと試みていたのです。自由な孤独の中に自分を置こうとして。
もちろん、今は家族も養っているし、仕事も抱えているし、パートナー企業や技術者にも指示を出しています。孤独になることなどハナから無理なのです。それは分かっています。
ですが、上京当初の私が置かれていた、しがらみの全くない孤独な環境。それを忘れてはならないと思っています。
多分、この頃の私が味わっていた寄る辺のない浮遊感を再び味わうには、老境の果てまで待たねばならないはず。

職探し


足の確保に続いて、私が取りかかったのは職探しです。
そもそも、私が上京に踏み切ったのは、住所を東京に移さないと東京の出版社に就職もままならなかったからでした。
住民票を東京に移したことで、退路は断ちました。もはや私を阻むものはないはずと、勇躍してほうぼうの出版社に履歴書を送ります。
ところが、出版経験のない私の弱点は、東京に居を移したからといって補えるはずがなかったのです。
そして、東京に出たからといって、出版社の求人に巡り合えるほど、現実は甘くはなかったのです。出版社への門は狭かった。
焦り始めた私は、出版社以外にも履歴書を送り始めます。そうすることで、いくつかの企業からは内定ももらいました。
覚えているのは品川にあった健康ドリンクの会社の営業職と、研修を企画する会社でした。が、あれこれ惑った末、私から断りました。

私は、生活の基盤を整える合間にも、あり余る時間を利用してあちこちを動き回っていました。
例えば土地勘を養うため、自転車であれこれと街を見て回っていました。
町田から江の島まで自転車で往復したことはよく覚えています。
江の島からの帰り、通りすがりの公衆電話から内定を辞退したことは覚えています。上にも書いた研修を企画する会社でした。

私が内定を迷った末に辞退したのも、大成社に入ってしまった時と同じ轍を踏むことは避けたいと思ったからでしょう。
そして、思い切って上京したことで就職活動には手応えを感じられるようになりました。少なくとも内定をいただけるようになったのですから。
かといって、いつまでも会社をえり好みしていると生活費が尽きます。もはや出版社の編集職にこだわっている場合ではないのです。
ここで、私は思い込みを一度捨てました。出版社で仕事をしなければならない、という思い込みを。

この時の私は職探しにあたって、妻や妻の家族には一切頼りませんでした。
将来、結婚しようとプロポーズを了承してもらっていたにも関わらず、職がなかった私。
そんな状況にも関わらず、私は妻に職のあっせんは頼みませんでしたし、妻もお節介を焼こうとしませんでした。
そもそも、当時の妻が勤めていたのが大学病院の矯正科で、私に職をあっせんしようにも、不可能だったことでしょう。

今から思うと、結果的にそういう安易な道に頼らなかったことは、今の私につながっています。多分、ここで私が妻に頼っていたとすれば、今の私はないはずです。
ただ、一つだけ妻が紹介してくれた用事があります。
それは、大田区の雑色にある某歯医者さんを舞台に、経営コンサルタントの先生が歯科のビデオ教材を録画するというので、私が患者役として出演したことです。
たしか、私が上京して数日もしない頃だったように思います。

当時の私に才がほとばしっていれば、この時のご縁を活かし、次の明るい未来を手繰り寄せられたはずです。ひょっとしたら俳優になっていたかも。
少なくとも、今の私であればこうした経験があれば、次のご縁なり仕事なりにつなげる自信があります。
ですが、当時の私にはそういう発想がありません。能力や度胸さえも。
愚直に面接を受け、どこかの組織に属して社会に溶け込むこと。当時の私にはそれしか頭にありませんでした。つまり正攻法です。

このころの私の脳裏には、まだ自営や起業の心はありませんでした。
自分が社会に出て独自の道を開く欲よりも、大都会東京に溶け込もうとすることに必死だったのでしょう。そうしなければ結婚など不可能ですから。

この時、私がいきなり起業などに手を出していたら、すぐさま東京からはじき出され、関西にしっぽを巻いて帰っていたことは間違いありません。
もちろん、妻との結婚もご破算となっていたことでしょう。
無鉄砲な独り身の上京ではありましたが、そういう肝心なところでは道を外さなかったことは、今の私からも誉めてあげてもよいと思います。

妻の住む町田に足しげく通い、結婚式の計画を立てていた私。浮付いていたであろう私にも、わずかながらにも現実的な考えを持っていたことが、今につながっているはずです。

結局、私が選んだのは派遣社員への道でした。職種は出版社やマスコミではありません。スカイパーフェクTV、つまり、スカパーのカスタマーセンターです。
そのスーパーバイザーの仕事が就職情報誌に載っており、私はそれに応募し、採用されました。
考えようによっては、せっかく東京くんだりまで出てきたのに、当時の私は派遣社員の座しかつかめなかった訳です。

しかし、この決断が私に情報処理業界への道を開きました。
次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.22〜航海記 その10


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2017/12/28にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

前半生のまとめ


前回に書いた通り、上京した私。
悩める前半生から心機一転、新たな人生へ足を踏み入れます。

ここで後半生に入る前に、今までの連載を振り返ってみたいと思います。
ただ、振り返るにあたり言っておかねばならないことがあります。
それは、何が良くて何が悪かったかの判断を拙速に決めてはならないことです。その判断基準は人によって、時期によってまちまちだからです。
ましてや私の場合、成功者ではありません。まだ発展途上の不安定な状態です。
不安定な今を基準にそれまでの人生を判断することだけは戒めないと。

なので、ここでは振り返る基準を”起業”したという事実において判断してみようと思います。
起業にあたって、前半生の私の何が良かったのか、何がまずかったのか。
”起業”したという事実をもとに、前半生のまとめを記したいと思います。

七つの賜物


まず一つ目に挙げられるのは、私が大学卒業後、新卒として社会に出なかったことです。
新卒で採用されなかったことによって、私は社会人としての基礎訓練を受けずに社会に出ました。これは私の足かせになりましたが、型にはまらずに済んだメリットもありました。そのどちらが良かったかは、今となっては結果論にすぎません。
ただ、人と違うレールを歩んでいるという引け目を無理やり味わったことは、私の起業へのハードルを確実に下げました
また、若い時分から、一つの現場に縛られることがなく、さまざまな職場を経験できたことも、私にとってはプラスだったと思います。

二つ目に挙げられるのは、私がなにがしかの技術を手にした状態で大学を卒業したことです。
大学の学問を修めただけでなく、ブラインドタッチという技をもって社会に出ました。
これは、当時の私にとって武器となりました。
もちろん、ブラインドタッチだけで起業できるはずはありません。しかし、入力オペレータとして派遣登録できるぐらいには、私の役に立ってくれました。なぜなぜなら、社会に出てすぐ、自分の技術でお金をもらう経験を積めたからです。
私が上京して仕事したとき、大学のブランドには頼れませんでした。当時、東京では私の出た大学は無名だったからです。つまり、出身大学がどこだろうと関係がないのです。
その時、人に貢献できるスキルが己にあるかないかだけが問われます。
技術の大切さを若いうちに痛感できたのはよかったと思います。

三つ目は、自分の内面を底の底まで見つめた経験です。
人生に悩み、自分の限界を痛感し、底で這いずり回る苦しさを実感したこと。これは自分の弱さや未熟さを教えてくれました
よく「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言います。その通りだと思います。
私の場合はまず鬱の症状が自分自身の壁として立ちはだかりました。この壁は厚く険しかった分、壁を打ち破った先にある世界の広がりを自分に示してくれました。
また、大学時代に経験したホテルの配膳のアルバイトと、ブラック企業でしごかれた経験は、私の天狗の鼻を容赦もなくへし折りました。
それらの経験は、自分にとって向いている仕事はなにかを考える上で頼りになるガイドになりました。
後半生、起業で苦しくなった時も何度もありました。ですが、それ以上に苦しい経験を積んでいると、心は折れないものです。

四つ目は、人の上に立つ経験を積んでいたことです。
私にとっては大学時代の部活がそうです。
規模の大小や、種類は問いません。形はなんだってよいのです。どういう形であれ、人の上に立つ経験。それは、起業に踏み切る上で私を後押ししてくれました。
私の場合は末端の派遣職員の立場も味わったため、両側の立場から物事を見る視点も養えました
あと、若い時期に孤独を噛みしめ、孤独に慣れる術を持っていたことも起業には助けとなりました。経営者は孤独なのです。

五つ目は、読書の習慣を得たことです。
苦しい時期に本を救いを求めたことは、一過性の快楽ではなく、書物の中から心を養ってくれました。
本の中には著者や登場人物による多様な視点と、そこから導き出された考えが詰まっています。そして、人生を多様な価値、あらゆる角度から教えてくれます。
未熟で若いうちは、実生活で熟練のための経験を得ることなど、そうそうありません。しかし読書はそれを可能にしてくれます。
”起業”して一旗をあげることも、組織の中で仕事を全うすることも、書物の中では等しく経験できるのです。
その効果を若いうちから感得できたことは私の人生の糧となりました。

六つ目は、新たな人々との触れ合いです。
違うフィールドにいる人と接点を持ち、お付き合いする。それは人生の可能性を広げてくれるのです。
この人とのご縁の大切さが自らの助けになることを知り、その出会いに感謝できたことも重要だったと思います。
読書で得た多彩な人生への見方を、人々との付き合いで実際に確かめる。その経験は、人にはそれぞれの人生の可能性があることも教えてくれました。もちろん自分の可能性も。
さらに、それぞれの人が自分の考えや価値を抱いて生きていることも身をもって知りました。それが多様性につながります。比較する基準の多さは、人と自分を比較する呪縛から私自身を解き放ってくれました。
それらの経験は、私の仕事の幅を広げてくれたばかりか、生涯の伴侶を得る時にも役立ちました。
変に人嫌いにならず、人とのご縁が自分を成長させてくれる実感を若い頃に得られたのはありがたかったです。

七つ目は、瞬発力の大切さを知ったことです。
私が上京する直前、2週間ほどの間に一気呵成に物事を決断し、実行に移しました。
その行いは、私の人生を新たなステージへと進めてくれました。
瞬発力の大切さは、後半生で起業に踏み切る際にも実感しました。
”起業”した後は、悩んでいる時間などなかなか取れません。時には後先を考えずに飛び込むこともあります。当然、失敗もあります。私がブラック企業に飛び込んだように。
でも、過ぎてしまえばそれは結果です。過去の失敗として懐かしく思える日が来るのです。
そのためにも直感に従って決断することはなおざりにしてはなりません。石橋をたたいて渡らない、などもってのほか。
瞬発力の大切さを肝に銘じたことも、私の人生の財産です。

感謝します

本稿を書いた2017年の年末は、私が常駐先から抜け、真の意味で独立を果たす時期でした。
正直にいうと、当時、安定収入が入らなくなることにためらいました。家計も苦しかったですし。
本稿を書いてから今、3年近くがたちました。コロナで経済が失速していますが、なんとかやってこられています。安定収入がない怖さも最近はそれほど感じません。
今の状況など、私にとっては這い上がるべき場所さえも見えなかった時期に比べれば大したことはありません。その時期を乗り越えた経験は、今の自分を勇気づけてくれます。
たぶん、これからも苦しい時期はあるでしょう。が、この頃に味わった苦しみを思い出せば、乗り越えられると信じています。

後半生も、さまざまな試練が私を待っています。何度も打ちのめされました。死を思う事もありました。
でも、なんとか今、本稿を書けていることに感謝したいです。

最後に、当時、私にこういう連載の場を提供してくださったCarry Meさんにあらためて感謝を申し上げます。当時の「本音採用」編集長の野田さんにも。
また、つたない私の文章と私の取るに足りない一生に付き合ってくださっている読者の方にも感謝の言葉を。そして、両親や肉親、私とご縁のあったすべての人にも感謝の言葉を。

本連載第一回で書いたように、私は個人と家庭と仕事の両立を目指しています。
そして、人には人の考えがあり、それを押し付けるつもりもありません
あくまで私は淡々と自らの起業までの歩みを記すのみ。
引き続き、後半生をつづっていきます。ゆるく永くお願いいたします。
皆様のアフターコロナが良くなることを願って。