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また一人昭和30年代の野球を知る方が・・・


8月14日、野球評論家の豊田泰光氏の訃報が飛び込んできました。享年81歳。

豊田氏は昭和30年代のプロ野球を知る上で欠かせない人物です。昭和30年代のプロ野球を語るには西鉄ライオンズは外せません。豊田氏は黄金期の西鉄ライオンズの主軸として必ず名のあがる選手でした。野武士軍団とも称された個性派集団にあって、一層の個性を放っていたのが豊田氏です。

豊田氏の訃報については、球界の様々な方から追悼コメントが寄せられました。中でも長嶋巨人名誉監督からのコメントは、長嶋氏の訃報と読めなくもない見出しがつけられ紛らわしいとの批判を浴びました。

見出し云々はともかくとして、長嶋氏のコメントは、豊田氏の輝かしい現役時を的確に表していると思えます。

「素晴らしい打者でした。巨人が3年連続で西鉄に破れた1956年から58年の日本シリーズでの大活躍は、強く印象に残っています。ご冥福をお祈りします」

見事なコメントですよね。ミスタープロ野球とも言われた長嶋氏にここまで言わしめた豊田氏の実力が伝わってきます。

豊田氏は現役を退いたのち、評論家として活躍しました。私が見た氏は、すでに球界のご意見番としてスポーツニュースの中の人でした。辛口な評論家として立ち位置を作った豊田氏は、その一方で、プロ野球の歴史の伝道師でもありました。過去を知らないプロ野球ファンに、今のプロ野球の隆盛が過去の積み重ねの上にあることを訴え続けました。

豊田氏の業績の一つは、ライオンズ・クラシックです。2008年から2014年まで、豊田氏の監修のもと催されました。在りし日の西鉄ライオンズの栄光を顕彰しつつ、西武ライオンズが確かに西鉄ライオンズの伝統を継ぐ後裔球団であることを宣言する感動的なイベントでした。それは黒い霧事件という残念な事件によって閉ざされた西鉄ライオンズの歴史を掘り起こす作業でもありました。黒い霧事件は西鉄ライオンズの輝かしい歴史に泥を塗ったばかりか、ライオンズの歴史を作ったであろう名投手を球界から葬り去りました。数年前、池永投手の復権はなり、さらにライオンズ・クラシックによって西鉄ライオンズの栄光も復権なったといえます。

私は当時、とてもこのイベントに行きたかったのですが、仕事があって行かれずじまいでした。今年は三連覇の最初の年から60年という節目の年。きっとやってくれるはずと期待していたのですが、豊田氏の訃報によってその願いは霧消しました。それだけにこの度の豊田氏の訃報が残念でなりません。

それにしても、60年もたってしまったのだと思わずにはいられません。赤ちゃんが赤いちゃんちゃんこを着るまでの年月です。長嶋氏のコメントがご自身の訃報と間違えられるほど長嶋氏も老いました。豊田氏もいつの間にか齢80を過ぎていた訳です。気がつけば西鉄ライオンズの黄金期を闘った戦士たちのかなりがあの世へ旅立ちました。

昭和30年代のプロ野球を輝かしいものにした生き証人の皆様が、次々と旅立っていきます。多分、これからも次々と訃報が飛び込んでくることでしょう。昭和30年代のプロ野球を彩った荒武者達が居なくなるに連れ、昭和30年代のプロ野球が我々から遠ざかっていきます。

今までに何度もブログなどで書いてきましたが、私は昭和30年代のプロ野球にとても強い憧れを抱いています。その憧れの対象は、豊田氏を筆頭に野武士軍団として巨人を叩きのめした西鉄ライオンズだけではありません。他のチームにも個性派が揃っていたのが昭和30年代のプロ野球だったように思うのです。

野球がまだ洗練から程遠い荒くれものの集まりによって戦われていた時代。巨人・大鵬・卵焼きと持て囃される前の時代。そして高給取りとして高嶺の花扱いされる前の時代。それは日本が、もはや戦後ではない、と宣言し、右肩上がりする一方の時期に重なります。いわば昭和30年代のプロ野球とは、日本が一番活気あり、伸び盛りだった頃を象徴する存在だったのではないでしょうか。

私がプロ野球をみはじめた時期は1980年代です。甲子園に住んでいた私は、甲子園球場の熱狂も寅キチ達の声援もよく知っています。バックスクリーン三連発に、長崎選手の満塁ホームランに狂喜した阪神ファンです。

でも、何か物足りなかったのですね。阪神タイガースよりも、その戦う相手に。阪神以外のチームがスマート過ぎた、というのは言い過ぎでしょうか。巨人にしてもそう。当時の巨人監督は藤田氏。球界の紳士たる巨人を代弁するかのような紳士キャラでした。阪神が日本シリーズで闘った相手監督は、管理野球でしられる広岡氏でした。皮肉にも野武士軍団の後裔チームは当時黒い霧イメージを払拭するため管理野球に活路を見いだしたわけです。

当時の私にとって、阪神タイガースの敵とは魅力的なキャラでなければならない。そう思っていたのかも知れません。でも敵キャラとしては何か飽きたらない。そう思ったからこそ当時の私は大人向けの高校野球史やプロ野球史を読み耽る小学生となった。ひょっとしたらですが。でも、今思っても難しい本をよく読んでいたと思います。たぶん当時の私にはそこに描かれる個性的な選手達が魅力的に映ったのでしょう。かつてプロ野球の試合とはこれほどまでに魅力的だったのかと。

ひょっとすると私は当時のプロ野球選手たちに武士の憧れを抱いていたのかも知れません。ちょうどいまの子供たちが戦国武将に夢中になるように。

下剋上上等。高卒出の新人投手が神様仏様と持ち上げられる実力主義。分業制が幅をきかせる前の、グラゼニが正しいとされる世界。

私にとって、昭和30年代のプロ野球とはそのような魅力に溢れた世界だったのです。スポーツグラフィックナンバーがまだ二桁の頃の西鉄ライオンズ特集号も持っていたし、ベースボールマガジンが刊行した選手たちの自伝も読み漁りました。ナンバーが出した西鉄ライオンズ銘々伝というビデオももっています。

多分当時の野球は、いまの野球に比べてレベルが低かったことでしょう。それは日米野球の結果を見ても明らかです。しかし、巧さと魅力は似て非なるもの。たしかに今の日本プロ野球は格段にレベルアップしました。その象徴がイチロー選手です。イチロー選手の偉業は、メジャーリーグでの3000本安打達成で不滅となりました。ただただイチロー選手の才能と努力の賜物です。そして、イチロー選手の姿にかつてのプロ野球をしるオールドファンは、野球が輝いていた時代の時めきを感じるのではないでしょうか。イチロー選手を見出だしたのは当時の仰木監督。黄金期の西鉄ライオンズのメンバーです。昭和30年代の個性を重んずるプロ野球の遺伝子は、イチロー選手の中に確かに息づいているはずです。魅力の上にある巧さとして。

そしてイチローの偉業の前に、プロ野球を育て上げた選手たちの戦いの積み重ねがあったことを忘れてはならないと思うのです。それは単なる懐古趣味ではありません。まだプロ野球選手の社会的な地位が低い頃、ただ野球が好きな選手たちによって行われていただけ。でに魅力だけはたっぷり詰まっていたと思うのです。

でも野球の粗野な魅力が失われ、人気スポーツになった時期に起こったのが黒い霧事件です。奇しくも昨年から今年にかけ、あろうことか球界の紳士の巨人軍の内部で発生した賭博事件は、何かの暗示のように思えてなりません。

人によっては60年前の三連覇を、一極集中が進む東京への地方の意地とみる人もいるでしょう。または、かつて西鉄ライオンズを率いた三原監督が自分を追いやった巨人を見返したのと同じ姿をソフトバンクの王会長にみる人もいるかもしれません。しかし私はかつて福岡で猛威を振るった賭博が東京で起こったことに、東京と地方の立場の逆転を感じます。

もし、東京が再び野球でも都市としても日本の盟主でありたいのであれば、昭和30年代のプロ野球から学ぶべきものは多いように思います。水戸出身の豊田氏は辛口にそれをどこから見守っていることでしょう。


1995年


先を越された。そんな思いだ。本書を読み終えた直後に抱いた感想は、それから半年以上を経て本稿を書いている今も変わらない。

未だ道半ばの私の人生。その人生において、特筆すべき年を挙げるとすれば、1995年をおいて他にない。だからといって他の年が順風満帆だったり、起伏や抑揚のない平凡な年だった訳ではないのはもちろんだ。

大学を卒業したのは1996年。衝き動かされるように鞄一つで上京したのは1999年。結婚したのも同じ1999年。初めての子が産まれたのは2000年。苦労の末に当時の家・土地を売却、今の家・土地を購入したのが2005年。個人事業主になったのは2006年。法人化が2015年。

上に挙げたイベントは、私の人生で大きな節目となっている。むしろ人によっては人生の一大イベントとして扱われることだろう。にも関わらず、私はそれらイベントをさしおいて、1995年を自分史の筆頭に挙げる。

何故か。

それは、自分の内面と、自分を取り巻く社会の変動がリンクしたのが1995年だからである。

年明け早々の阪神・淡路大震災。以前にも書いたが、我が家は全壊し、なおかつ早朝の壊滅した街を西宮から明石へと車を駆って見届けた。それからの1ヶ月は、命の儚さや社会のもろさを心に刻むには充分過ぎる経験であり、短すぎる日々だった。

オウム真理教による地下鉄サリン事件。これもまた、当時地震の影響もあって躁状態になりつつあった私を宗教から遠ざけた。当時の危うい私にとってオウム真理教はこれ以上無いほどの反面教師となった。この事件がなければ、或いは地震後に揺れる心のまま、どこかの宗教に入信していたかもしれない。実際、大学に入ってからというもの、キャンパス内でも勧誘を受けたことが2度ほどあったぐらいなのだから。

就職氷河期の到来。1995年は私にとって就職活動の年でもあった。氷河期と言われる割には、最終面接まで到達し、調子に乗って旅行三昧に走り、全てを台無しにした。あそこで真っ当に新卒採用されていたら、私の人生航路も違う航跡を描いていたことだろう。後悔は全くないが、当時の社会状況と心の動きが私の心に乱気流を起こしたと云えるだろう。

また、Windows95の発売も忘れてはならない。といっても私の家にPCが入るのは翌96年の秋になってから。この時はまだブラインドタッチが出来る程度で、ITの世界で飯を食っていくことになろうとはつゆほども思っていなかった。しかし1995年がWindowsブームの年であったことは、私のIT技術者としての原点に大きく影響を与えているはずだ。私が芦屋市役所にアルバイトで雇われたのが1996年。ここでWindows95に親しみ、今に至るIT技術者としてのスタートを切ったのだから。

本書には、上に挙げた4つの出来事以外の様々な出来事が取り上げられている。これらを読むと、1995年が地震やサリンだけの年ではなかったことを痛感する。それら事件を著者は丹念に新聞・雑誌から拾い上げ、本書で開陳する。しかも、そのほとんどが、浮かれていた私の記憶からこぼれ落ちていたことに今更ながら気づく。

例えばラビン・イスラエル首相の暗殺。青島都知事・横山府知事の当選。都市博は中止となり、住専問題や二信組問題が世を騒がした。カラオケが全盛期で、ヒットチャートにはメガヒット曲が並び、T.Kサウンドが一世を風靡した。イチローが210本のヒットを放ち、オリックスがパ・リーグを制したのもこの年で、野茂投手が米国で旋風を巻き起こしたのも懐かしい。

これら全てを、私は22歳の若者として享受し、浮かれ、永遠に今の時間を楽しめるものと考えていた。社会人になる直前のモラトリアム最後の年が1995年。どれだけ多くの物を与えられ、かつ、取り逃したことか。昔はよかったというつもりはないが、幸せな時期であったのは確か。

著者も私と同じく1973年の生まれだという。おそらくは私と同じく青い時代を楽しみ、事件に衝撃を受けたことと察する。しかし私と違うのは、著者は本書としてきっちり1995年の総括を果たしたということだ。私とて、本書を読む2日前の1/17に震災の日の自分をようやく振り返った。が、まだ当時の社会や経済を振り返るところまでは至れていない。本稿の冒頭に書いた「先を越された」とは、私が行うべきことを著者に先に越された悔しさでもある。と同時に、同世代の著者がそれをしてくれたことに一抹の安堵も覚えた。

‘2015/1/19-2015/1/21