太陽の簒奪者


ハードSFは読んでいる間は楽しく読めるのだが、読み終えるとなぜか中身を忘れてしまうことが多い。本書も同じだった。
設定や頻出する英文字略語、登場人物などは真っ先に忘れる。それらが失われると、筋の運びすらバラバラに解けていく。

本書については、あらすじすらもあやふやになっていた。
そのため、本稿を書くに当たって改めてざっと読み直してみた。
本書のあらすじはこんな感じだ。

突如として水星の地中から高く噴き出した柱。それを発見したのは高校の天文部の部長である白石亜紀。その柱は水星を構成する鉱物資源であり、それは太陽の引力に引かれ、直径8000万キロのリングとなって太陽を取り巻いた。
それによって地球に届くべき太陽エネルギーは激減し、地球は寒冷の星と化した。収穫は減り、それによって多くの産業が衰えていた。大量の人が死んでいき、既存の経済に頼ったあらゆる体制は崩壊していく。
リングがなぜできたのか、リングをどうすればなくせるのか。
長じて科学者となった亜紀は、長きにわたってリングの謎に関わっていく。

本書は異星人とのファースト・コンタクトを描いている。
リングの正体については、本書の中盤あたりで描かれる。だから本稿がネタバレを含んでいても許してほしい。
このリングは、正体の不明な異星人がどこかの星系から次の星系へ船団ごと移動するための手段だ。

リングの構築にあたって、地球と人類に甚大な損害を与えた異星人。異星人を糾弾し、彼らを撃退する迎撃体制が組まれる。そうした風潮に対し、白石亜紀はその異星人が地球に知的生物がいると知らずにリングを設定したのではないかと仮定する。そして、異星人を迎撃しないよう必死に訴える。異星人とのファースト・コンタクトに臨んだクルーは、そこで何を見るのか。

著者は、本書を書くにあたって、異星人とのファースト・コンタクトにおける可能性を熟慮したのだろう。本書を読めばそのことが感じられる。

実際、私たちがファースト・コンタクトを経験する日は来るのだろうか。
私はこの広大な宇宙のどこかに人間と同じような知的生物は存在すると思っている。その存在と遭遇するのはいつか、またはどういう形で遭遇するのか。私にはわからない。そもそも、その存在に確たる証拠がない以上、私がそう思っていることは、もはや信仰に近いのかもしれない。

人類と異星人が遭遇するケースはさまざまに考えられる。例えば、SETI(地球外知的生命体探査)が検出した信号をもとに何かしらの交信が始まることもあるだろう。パイオニア・ボイジャー探査機に取り付けられた銘板を見た異星人が地球を訪問する可能性もゼロではない。逆に、人類の発したメッセージとは無関係に異星人が地球を発見する可能性もありえる。
人類と異星人の遭遇のあり方についてはあらゆるケースを考えた方がいいし、SF作家にとってはテーマとしては使い古されていても、あらゆる書き方が可能である。著者がその一つとして描いたのが本書だ。

異星人の文明が地球よりも相当進化している場合、そもそも遭遇の実際は、人類が想像することすら難しいかもしれない。著者のようなSF作家が知恵を絞っても思い付かないような。

では仮に、私たちの思いもよらない方法で遭遇が実現したとする。
その時、人類は国や民族、宗教の違いによって殺し合うよう段階から、一つ成長できるのではないかと思っている。
異星人は思考回路や思考パターンも人類と違うだろう。そもそも知的水準すら今の人類を凌駕しているとすれば、人類は彼らの思考パターンの片鱗さえも読み取れないはずだ。その時、異星人の容姿や思考回路の違いなど、人類が悩む暇などないはずだ。マスコミが面白おかしく取り上げるとしても。
容姿や思考パターンの違いなど、本書で書かれたようにほとんどの人は触れずに終わってしまうだろう。

ただ、遭遇して初めて人類は知るだろう。それぞれの個人が持つ考え方の違いなど、異星人と人類の違いに比べたら、比較にならないことを。
自分たちが仕事や宗教や文化、価値観の違いに悩んでいることなどちっぽけであることを。それを争いのタネとすることの愚かさを。

そこから人類はどのような道を選んでいくのだろうか。
そもそも今の人類のあり方は、生命として能率的な形なのだろうか。今の生命体としてのあり方は絶対の普遍なのだろうか。
もし、生命のあり方から変えた方がよりよい未来が望めるのなら、どのような生命へと変わっていくのか最適なのか。

なぜそう思うのか。それは、本書に出てくる異星人が、生物としてのあり方を根本から変革しているからだ。
われわれの存在と違う形で発展した異星人の姿が描かれた本書は、今の人類のあり方に問いを投げかける。

今の人類は、それぞれの個体がそれぞれの思惑や欲求をばらばらに抱えている。だから、生まれた民族や文化や宗教や土地に縛られた思考しか巡らせられない。
そのあり方のままで果たして、種族としての進化は可能なのだろうか。

そうした思索からは、根源的な疑問すら湧き上がる。私たちの存在のあり方が理想の形なのだろうかという。
全ての思考の型が今までに人類の発展する中で設けられた枠から抜けられないとすれば、人類が次の段階に進むことは到底無理だろう。
もし人類が次の段階に進みたいのであれば、私たちは徹底的に自らを客観的に考える訓練をしなければならない。自己の思考の道筋を客観的に考え、その思考の道筋を自分の主観から自由にする。それはまさに哲学が今まで苦闘してきた道そのものだ。

SFとはサイエンス・フィクションの略であることは誰でも知っている。だが、フィクションだからといって、その内容を自己の思索の材料にしないのはもったいない。たとえ壮大な時間軸であっても。

‘2020/05/22-2020/05/23


成功している人は、なぜ神社に行くのか?


本書は、神社に祈ることの効用を勧めている。その中にはスピリチュアルな視点も含んでいる。
本書が説く効用とは、端的に成功を指している。成功とは政治や経営なども含め、人を統率し、その名を天下に残すことにある、と考えてよいだろう。
古今、天下人の多くは特定の神社を崇敬していた。成果を上げ、成功した人の多くに共通するのが、特定の神社を熱く崇敬していたことだという。

私は神社仏閣によく立ち寄る。
訪れた旅先の地に鎮座する神社で旅の無事を祈る。そして家族、会社、地域や親族の発展を望み、日本と世界の安寧を願う。

私は誰に祈っているのか。
もちろん、神社であれば御祭神が祀られている。寺であれば安置された仏様がいる。
私の祈りはおおまかにいえば、それらの神仏に対して捧げられている。
ただ、私は具体的な神仏を念頭に置いて祈っていない。例えばスサノオノミコトとかタケミカヅチとか、廬舎那仏とか。私は、目の前の本殿や本堂に鎮座する神仏というより、自分の中に向けて真剣に祈っている。

当たり前だが、宗教が信仰の対象とする神は私の中にはいない。私にとって神仏とは目に見える形で存在するものでもない。
仮に神仏がいたとしても、そうした存在は私たちの認識の外にいる、と考えている。例えばこの宇宙を創造した存在がいたとする。その知的存在を神と呼ければ、神は実在すると考えてもいい。だが、私たちにはその存在を認識することは到底無理。なぜなら宇宙ですら知覚が覚束ないのに、その外側から宇宙を客観的に見ることのできる存在を知覚できるわけがないからだ。
だから私は、神は目に見えず、知覚も不可能な存在だと考えている。
とはいえ、神が知覚不能の存在だとしても、自分のうちの無意識にまで降りることができれば、神の片鱗には触れられるのではないだろうか。その無意識を人は昔から集合的無意識といった言葉で読んできた。
神のいる世界に近づくためには自分を深く掘り下げる必要がある。私はそう思っている。

では、自分のうちに遍在するかもしれない神に近づくためにはどうすればよいか。必ず寺社仏閣で詣で、そこで祈ることが条件なのだろうか。
私は日常の生活では神に近づくことは容易ではないと思っている。
なぜなら、日常はあまりにも雑事に満ちているからだ。自分の無意識に降りられる機会などそうそうないはず。

今、わが国は便利になっている。外を歩いてもスマホをつければ情報がもらえる。
ふっと思い立って旅することも、いまや気軽にできるようになった。
それは確かに喜ばしいことだ。
だが、その便利さによって、あらゆることが気持ちを切り替えずにこなせるようになってきた。気持ちと集中力を極限にまで高めなくてもたいていのことはできてしまう。
だが、その状況になれてしまうと、正念場にぶちあたった際、人は力を発揮する方法を忘れてしまう。
仕事でも暮らしの中でも、いざという時の集中力がなければ乗り超えられない局面はやって来る。
危機的な状況に出会うたびに、日常の態度の延長で局面にあたっていても大した成果は得られない。

自分の中で気を整え、集中して力を発揮するための術を身につけておかないと、平凡な一生で終わってしまう。自分の中で気持ちを切り替えるための何かの言動が必要なのだ。
だから、私たちは神社仏閣に訪れ、静謐な空間の中で祈る。日常からの変化を自分の中に呼び覚ますために。

私も長じるたびに雑事に追われる頻度が増えてきた。その一方で、スキルやガジェットを駆使すればたいていのことはこなせるようになってきた。
だが、ここぞという局面で成果を出すためには、気持ちを込める必要も分かってきた。そうでなければ成果につながらないからだ。そのため、私は神社仏閣で祈る時間を増やしている。たとえスピリチュアルな感覚が皆無だとしても。

さて、前置きが長くなったが本書だ。

冒頭にも書いた通り、わが国には幾多の英雄が名を残してきた。今でも政治家で国の政治を動かす立場になった人がいる。
そうした人々の多くに共通するのが、神社を熱く崇敬していたことだ。
古くは藤原不比等、白河上皇、平清盛、源頼朝、北条時政、足利尊氏、豊臣秀吉、徳川家康から、現代でも佐藤栄作、松下幸之助、出光佐三、安倍晋三。etc。
藤原不比等と春日大社、平清盛と厳島神社。源頼朝と箱根神社。徳川家康と諏訪大社。

それらの偉人のうち、何人かは自らが祭神になって祀られている。
有名なのは豊国神社。豊臣秀吉が祀られている。日光東照宮と久能山東照宮には徳川家康が。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎は東郷神社の祭神でもある。

今までの歴史上の物語を読むと、そうした英雄が戦いの前に神社で戦勝を祈願する描写のいかに多いことか。
祈りとは「意(い)宣(の)り」。つまり意思を宣言することだ。
言霊という言葉があるように、意思を常に宣言しておくことは意味がある。常に意思を表に表しておくと、周りの人はそれを感じ取り、御縁を差し伸べてくれる。
かつて聞いたエピソードで、こんなことが印象に残っている。それは電話相談室の回答で、流れ星を見かけたら三回願いを唱えられたらその願いは叶うのはなぜか、という質問への回答だ。
なぜ願いは叶うのか。それは流れ星を見たら即座に自分の願いが三回思い浮かべられるほど、普段から頭の中でその願いを考えているからだ。

私も法人を立ち上げた40歳過ぎから神社への参拝頻度を増やした。
この忙しない情報処理業界でなんとか経営を続けて居られるのも、こうした祈りを欠かさなかったからではないかと思っている。
上に書いた通り、自分の中でけじめをつけ、気持ちを切り替えるためだ。

本書には禰宜や宮司さんが行うような神道の正式な参拝方法が説明されているわけではない。
むしろ、私たちが気軽に神社で参拝するためのやり方を勧めている。
もっとも基本になるのは、年三回は参拝に行くこと。そしてきちんと心の中で祈ること。
私の祈り方はまだまだ足りないし、精進も必要だろう。そのためにも本書を折に触れて読み返してみたい。

‘2020/05/19-2020/05/22


タイタンの妖女


著者の名前は前から知っていた。だが、きちんと読んだのはひょっとすると本書が初めてかもしれない。

本書のタイトルにもある”タイタン”は、爆笑問題の太田さんが所属する事務所は本書のタイトルが由来だそうだ。著者のファンである太田さんに多大な影響を与えていることがわかる。

正直に書くと、本書はとても読みにくい。
訳者は、SF小説のさまざまな名作を訳した浅倉久志氏である。だから訳文が読みにくいことが意外だった。氏が訳した他の作品では、訳文が読みにくい印象を受けた覚えがない。それだけに意外だった。本書はまだ浅倉氏が駆け出しの頃に手がけた訳文なのかもしれない。

本書は直訳調に感じる文体が読むスピードを遅らせた。
でも、作品の終盤に至って、ようやく著者の描こうとする世界の全体が理解できた。そして読むスピードも早まった。

著者が描きたいこと。それは、人類の種としての存在意義とは何かという問いだ。その問いに沿ってテーマが貫かれている。
人は何のために生き、どこに向かっているのか。私たちは何のために発展し、どこに向かって努力し続けるのか。
その中で個人の意識はどうあるべきなのか。
そのテーマは、SFにとどまらない。純文学の世界でも昔からあらゆる作品で取り上げられている。

今、科学の力がますます人類を助けている。それと同時に、人類を無言の圧力で締めあげようともしている。
科学の力は必要。そうである以上、SFはそのテーマを探求するための最も適したジャンルであるはずだ。
本書は、そのテーマを取り上げたSFの古典的な名作として君臨し続けるだろう。

本書は人が人であり続けるための過去の記憶。その重要性を描く。過去と現在の自我は、記憶によってつながっている。
記憶が失われてしまうと、過去の自分と今の自分の連続性が損なわれる。そして人格に深刻な支障が出る。
火星人の軍隊として使役されるだけの兵隊の姿。それは、記憶をしなった人格がどれほど悲惨なものかを私たちに示してくれる。
マラカイ・コンスタントは、彼の生涯を通してさまざまな境遇に翻弄される。記憶を失った人格が翻弄される様子は、ただただ痛ましい。

一方、神の如き全能者であるウィンストン・N・ラムファード。彼は本書において、人の目指す目標を描くための格好の存在として登場する。現在と過去、そして未来の出来事。それらをあまねく把握し、自在に創造も干渉もできる存在として。
そのような神の如き存在は、私たちにとっては理想でもある。人類とは、これまでその理想を目指して努力してきたのかもしれない。
だからそのあり方の秘密が明かされるとき、私たち人類は何のために誕生し、そして進化したかについて深刻な疑問を抱くに違いない。

マラカイ・コンスタントの大富豪としての存在は、ツキだけで成功を収めてきた人生の虚しさを突きつける。経済とは、富とは、生きがいとは何か。そのような深刻な疑問は読者にとっても人類にとっても永遠のテーマだ。それを著者は読者に突きつける。

そうした疑問に答えられる存在。それは普通、神と呼ばれる。
だが、本書においてはそれは神ではない。
むしろ神よりももっと厄介で認めたくない存在かもしれない。
私たち人類を、創造し、遠隔で操ってきた存在。より高次の生命体、つまり異星人である。

異星人の不在は今の科学では証明できない。そうである以上、人類がそうした生命体によって操られていないとだれが断言できようか。
そうしたテーマこそ他ジャンルで取り上げるのは難しいSFの独擅場でもある。

自由な意思を奪われ、地球、火星、水星、土星の衛星タイタンと運命を操られるままにさすらうコンスタント。
ツキだけに恵まれ、好き勝手に豪遊する本書の冒頭に登場するコンスタントには好感が持てない。
ところが記憶を奪われ、善良にさすらうコンスタント、あらためアンクの姿からは、人の悪しき点が排除されている。だから好感が持ちやすい。
そうした描写を通して著者が書こうとするのは立身出世のあり方への強烈なメッセージだ。
私たちが社会の中で成功しようとしてあがき、他人を陥れ、成り上がろうとするあらゆる努力を本書は軽々と否定する。

種としての生き方の中で個人の意思はどこまで許されるのか。そしてどこまでが虚しい営みなのか。
宗教とは何で、進化とは何か。科学の行く先とは何か。芸術とはどういう概念で、機械と生物の境目はどこにあるのか。
本書はそうした問いに対して答えようとしている。その中で著者のメッセージはエッセンスとしてふんだんに詰め込まれている。

本書は新しく訳し直していただければ、とても読みやすい名作となり得るのではないだろうか。

一つだけ本書で印象に残った箇所を引用しておきたい。
本書の筋書きにはあまり関係がないと思われる。だが、今の私や技術者がお世話になっているクラウドについてのアイデアは、ひょっとしたら本書から得られたのではないか。
「一種の大学だ――ただし、だれもそこへは通わない。だいいち、建物もないし、教授団もいない。だれもがそこにはいっており、まただれもそこにはいっていない。それは、みんなが一吹きずつのもやを持ちよった雲のようなもので、その雲がみんなの代りにあらゆる重大な思考をやってくれるんだ。といっても、実際に雲があるわけじゃないよ。それに似たあるもの、という意味だ。スキップ、もしきみにわたしの話していることがわからないなら、説明してみてもむだなんだよ。ただ、いえるのは、どんな会議も開かれなかったということだ」(286ページ)

不気味なほどに、インターネットの仕組みを表していないだろうか。

‘2020/05/12-2020/05/19


アメリカの高校生が学んでいるお金の教科書


経済学の本をもう一度読み直さなければ、と集中的に読んだ何冊かの本。本書はそのうちの一冊だ。
新刊本でまとめて購入した。

前から書いている通り、私には経済的なセンスがあまりない。これは経営者としてかなりハンディキャップになっている。

私だけでなく妻も同じ。お金持ちになるチャンスは何度もあったが、そのために浪費に走ってしまった。だからこそ長年私も常駐作業から抜け出せなかった。その影響は今もなお尾を引いている。

私は若い考えのまま、お金に使われない人生を目指そうとした。金儲けに走ることを罪悪のようにも考えていた時期もある。
二十代前半は、金儲けに走ることを罪悪のように考えていた。

妻は妻で、生まれが裕福だった。そのために、浪費の癖が抜けるのに時間がかかった。
幸いなことに夫婦ともまとまったお金を稼ぐだけの能力があった。そのため、家計は破綻せずに済んだ。だが、実際に破綻しかけた危機を何度も経験した。

私たち夫婦のようなケースはあまりないだろう。だが、私たちに限らず、わが国の終身雇用を前提とした働き方は、お金について考える必要を人々に与えなかった。
一つの企業で新卒から定年まで勤めあげるキャリアの中で、組織が求める仕事をこなしていけばよかった。お金や老後のことも含めた金の知識は蓄える必要がなかった。それらは企業や国が年金や保険といった社会保障で用意していたからだ。

私もその社会の中で育ってきた。そのため、金についての教育は受けてこなかった。風潮の申し子だったといってもよい。
だが、私はそうした生き方から脱落し、自分なりの生き方を追求することにした。ところが、お金の知識もなしに独立したツケが回り、会社を立ち上げ法人化した後に苦労している。もっと早く本書のような知識に触れておけば。

世間はようやく終身雇用の限界を知り、それに紐付いた考えも少しずつ改まりつつある。
私も自分の経験を子どもやメンバーに教えてやらねばならない。また、そうした年齢に達している。

本書は、アメリカの高校生が学ぶお金についての本だ。
アメリカは今もまだ世界でトップクラスの裕福な国だ。経済観念も発達している。貧富の差が激しいとはいえ、トップクラスのビジネスマンともなると、わが国とは比べ物にならないほどの金を稼ぐことが可能だ。

それには、社会の仕組みを知り尽くすことだ。金が社会を巡り、人々の生活を成り立たせる。
人が日々の糧を得て、衣服に身を包み、家に住まう。結婚して子を育て、老後に安閑とした日々を送る。
そのために人類は貨幣を介して価値を交換させる体系を育ててきた。会社や税金を発明し、労働と経済を生活の豊かさに転換させる制度を育ててきた。
金の動きを理解すること。どのようなルートで金が流れるのか。どのような法則で流れの速度が変わり、どの部分に滞るのか。それを理解すれば、自らを金の動きの流れに沿って動かさせる。そして、自らの財布や口座に金を集めることができる。

その制度は人が作ったものだ。人智を超えた仕組みではない。根本の原理を理解することは難しい。だが、人間が作った仕組みの概要は理解できるはずだ。
本書で学べることとはそれだ。

第1章 お金の計画の基本
第2章 お金とキャリア設計の基本
第3章 就職、転職、起業の基本
第4章 貯金と銀行の基本
第5章 予算と支出の基本
第6章 信用と借金の基本
第7章 破産の基本
第8章 投資の基本
第9章 金融詐欺の基本
第10章 保険の基本
第11章 税金の基本
第12章 社会福祉の基本
第13章 法律と契約の基本
第14章 老後資産の基本

各章はラインマーカーで重要な点が強調されている。
それらを読み込んでいくだけでも理解できる。さらに、末尾には付録として絶対に覚えておきたいお金のヒントと、人生における三つのイベント(最初の仕事、大学生活、新社会人)にあたって把握すべきヒントが載っている。
それらを読むだけでも本書は読んだ甲斐がある。私も若い時期に本書を読んでおけばよかったと思う。

376-378ページに載っている「絶対に覚えておきたいお金のヒント10」だけは全文を載せておく。

絶対に覚えておきたいお金のヒント10
この本ではお金についていろいろなことを学んだが、いちばん大切なのは次の10項目だ。

1、シンプルに
お金の管理はシンプルがいちばんだ。複雑にすると管理するのが面倒になり、自分でも理解できなくなってしまう。

2、質素に暮らす
お金は無限にあるわけではなく、そして将来何が起こるかは誰にもわからない。つねに倹約を心がけていれば、いざというときもあわてることはない。

3、借金をしない
個人にとっても家計にとっても、代表的なお金の問題は借金だ。借金は大きな心の負担になり、人生が破壊されてしまうこともある。ときには借金で助かることもあるが、必要最小限に抑えること。

4、ひたすら貯金
いくら稼いでいるかに関係なく、稼いだ額よりも少なく使うのが鉄則だ。早いうちから貯金を始めれば、後になって複利効果の恩恵を存分に受けることができる。

5、うまい話は疑う
儲け話を持ちかけられたけれど、中身がよく理解できない場合は、その場で断って絶対にふり返らない。うまい話には必ず裏がある。

6、投資の多様化
多様な資産に分散投資をしていれば、何かで損失が出ても他のもので埋め合わせができる。これがローリスクで確実なリターンが期待できる投資法だ。

7、すべてのものには税金がかかる
お金が入ってくるときも税金がかかり、お金を使うときも税金がかかる。商売や投資の儲けを計算するときは、税金を引いた額で考えること。

8、長期で考える
今の若い人たちは、おそらくかなり長生きすることになるだろう。人生100年時代に備え、長い目で見たお金の計画を立てなければならない。

9、自分を知る
お金との付き合い方には、個人の性格や生き方が表れる。将来の夢や、自分のリスク許容度を知り、それに合わせてお金の計画を立てよう。万人に適した方法は存在しない。

10、お金のことを真剣に考える
お金は大切だ。お金の基本をきちんと学び、大きなお金の決断をするときは入念に下調べをすること。お金に詳しい人から話を聞くことも役に立つ。

‘2020/05/01-2020/05/11


もっと遠くへ 私の履歴書


本書を読む少し前、Sports Graphic Numberの1000号を買い求めた。
そこには、四十年以上の歴史を誇るNumber誌上を今まで彩ってきたスポーツ選手たちの数々のインタビューや名言が特別付録として収められていた。

その中の一つは著者に対してのインタビューの中でだった。
その中で著者は、755本まで本塁打を積み上げた後、もっとやれたはずなのにどこか落ち着いてしまった自分を深く責めていた。引退した年も30本のホームランを打っていたように、まだ余力を残しての引退だった。それを踏まえての言葉だろう。
求道者である著者のエピソードとして印象に残る。

著者が引退したのは1980年。私が小学校1年生の頃だ。
その時に担任だった原田先生から聞いた話で私の印象に残っていることが一つだけある。それは、王選手がスイングで奥歯を噛み締めるため、ボロボロになっていると言う話だ。なぜかその記憶は40年ほどたった今でもまだ残っている。
後、私は著者によるサインが書かれた色紙を持っていた。残念なことにその色紙は、阪神淡路大震災で被災した後、どさくさに紛れて紛失してしまった。実にもったいないことをしたと思う。

本書は、著者の自伝だ。父母や兄との思い出を振り返った子供時代のことから始まる。
浙江省から日本に来て五十番という中華料理の店を営んでいた父の仕事への取り組み。双子の姉だった広子さんのことや、東京大空襲で九死に一生を得たこと。
墨田区の地元のチームで野球に触れ、左投げ右打ちだった著者を偶然通りがかった荒川選手が左打ちを勧めたところ、打てるようになったこと。
甲子園で優勝投手となり、さらにその後プロの世界に身を投じたこと。プロに入って数年間不振に苦しんでいたが、荒川博コーチとともに一本足打法をモノにしたこと。
さらに巨人の監督に就任したものの、解任される憂き目に遭ったこと。そこで数年の浪人期間をへて、福岡ダイエーホークスの監督に招聘されたいきさつ。長きにわたってチームの構築に努力し、心ないヤジや中傷に傷つきながら、日本一の栄冠に輝いたこと。さらにその後WBC日本代表の初代監督として世界一を勝ち取るまで。

本書を読む前から、著者の文庫本の自伝なども読んでいた私。かねて福岡のYahoo!ドームの中にあると言う王貞治記念館を訪問したいと切に思っていた。福岡でお仕事に行くこともあるだろうと。
本書を読んでますますその思いを募らせていた。

それがかなったのが本書を読んでから11カ月後のこと。福岡に出張に行った最終日、PayPayドームと名前を変えた球場の隣にある王貞治ベースボールミュージアムに行くことができた。

ミュージアム内に展示された内容はまさに宝の山のようだ。しかも平日の夜だったこともあり、観客はとても少なかった。私はミュージアムを心ゆくまで堪能することができた。帰りの新幹線さえ気にしなければ、まだまだいられたと思う。
そしてその展示はまさに本書に書かれたそのまま。動画や実物を絡めることにより、著者の残した功績の素晴らしさが理解できるように作られていた。

ミュージアムでは一方足打法の連続写真やそのメリットも記され、等身大のパネルやホログラム動画とともに展示され、一本足打法が何かをイメージしやすい工夫が施されていた。
その脇に「王選手コーチ日誌」と表紙にタイトルが記されたノートが置かれていた。荒川博コーチによる当時のノートだ。中も少しだけ読むことができたが、とても事細かに書かれていた。著者もこのノートの存在をだいぶ後になるまで知らなかったらしい。
ミュージアムの素晴らしさはもちろんだが、一方で本書にも長所がある。例えば、一本足打法の完成まで荒川氏と歩んだ二人三脚の日々で著者自身が感じていた思いや、完成までの手ごたえ。その抑えられた筆致の中に溢れている感謝の気持ちがどれほど大きいか。それを感じられるのは本書の読者だけの特典だ。これはミュージアムとお互いを補完し合う意味でも本書の良さだと思う。

そこからの世界の本塁打王としての日々は、本書にも詳しく描かれている通りだ。

ただ、著者の野球人生は単に上り調子で終わらないところに味がある。藤田監督の後を継いで巨人の監督に就任して五年。その間、セ・リーグで一度優勝しただけで、日本シリーズでは一度も勝てなかった。そして正力オーナーから解任を告げられる。
数年後、福岡ダイエー・ホークスから監督就任の依頼があった著者は悩みに悩んだ結果、受諾した。当時のホークスはとても弱いチームだった。かつて黄金時代を築いた南海ホークスの栄華は既に過去。身売りされて福岡に来たもののチーム力は一向に上向かない。
そんなところに監督として招聘されたのが著者。ところがそこから数年、なかなか勝てない時が続いた。バスに卵を投げつけられるなど、ひどい仕打ちを受けた。

それを著者はじっと耐え忍び、長い時間をかけてホークスを常勝チームに育て上げていった。今でこそソフトバンク・ホークスと言えば常勝軍団として名をほしいままにしている。その土台を作ったのが著者であることは誰も否定しないはずだ。

ミュージアムでもホークスの監督時代のことは多く取り上げられていた。だが私は、著者の選手時代の輝きに当てられたためか、あまりその展示は詳しくみていない。
著者のためにこのような立派なミュージアムを本拠地に作ってくれる。それだけで著者が福岡で成し遂げた功績の大きさがわかろうと言うものだ。

本書はあとがきの後も、著者の年表が載っている。さらに全てのホームランの詳細なデータや輝かしい記録の数々など、付録だけでも60ページ強を占めている。
まさに、本書は著者を語る上で絶対に落とせない本だと思う。
いつかは著者も鬼籍に入るだろう。その時にはもう一度本書を読み直したいと思う。

‘2020/05/01-2020/05/01


ほら男爵 現代の冒険


著者の作品を読むのは久しぶりだ。

しかも本書は多数のショートショートを集めたものではなく、長編小説の体裁をとっている。
私は今までに著者の長編小説を読んだ記憶が思い出せない。ひょっとしたら初めてかもしれない。

ほら男爵。シュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵の異名だ。
高名なミュンヒハウゼン男爵の孫だ、と自ら名乗るシーンが冒頭にある。
私はミュンヒハウゼン男爵の事を知らなかったが、この人物は実在の人物であり、Wikipediaにも項目が設けられている。

18世紀のドイツの人物で、晩年に人を集めて虚実を取り混ぜて話した内容が『ほら吹き男爵の冒険』として出版され、いまだに版を重ねているようだ。本書は、それを著者が新しく翻案し、孫のシュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵を創りだし、冒険譚として世に送り出した一冊だ。

著者は、かつてSF界の御三家と言われた。
SF作家の集まりでも奇想天外なホラ話を披露しては、一同を爆笑の渦に巻き込んでいたと言う。
ショートショートの大家としても著名だが、ホラ話の分野でも第一人者だったようだ。

そうであるなら、著者がドイツのほら男爵の話を書き継ぐのはむしろ当然といえる。

本書は四つの章に分かれている。ほら男爵が奇想天外な冒険をサファリ、海、地下、砂漠で繰り広げる。

それぞれの場所で時間も空間も無関係にさまざまな人物や物が登場し、出来事が起こる。それはもう想像力の許す限りだ。
鬼ヶ島に向かう桃太郎に遭遇し、ギリシャの神々と仲良くなる。幽霊船に乗れば人魚がくる。さらには不思議の国のアリスやドラキュラ伯爵まで。ニセ札をばらまく犯罪者が現れ、東西の首脳は茶化される。現代の文明が発明したはずの事物が実は古代のピラミッドの下に埋められたタイムカプセルにある。
もう、やりたい放題だ。
古今東西のあらゆる空間と時間が混在し、著者の思うがままにほら男爵の冒険は続く。

本書の内容は決して難しくない。むしろ、子どもでも読めると思う。
もともと、著者は読みやすい小説を書く。それは長編でも変わりないようだ。
長編であってもショートショートと同じテンションで書くには苦労もあっただろう。だが、著者は本書にも次々にエピソードを繰り出し、読みやすい作品に仕上げている。

ただし、本書には毒が足りない。著者のショートショートは風刺に満ちていて、考えさせられるものが多い。
だが、本書の毒とはより広い範囲に及んでいる。それは、人々が常識に囚われる様子を笑う毒である。

あらゆる常識、知識、思い込み、考え方。
人が囚われる思い込みにはいろいろある。

それは、教育と文明の進展によって人々が備えてきた叡智だ。
教育によって人々は知識を蓄え、常識を身につけてきた。
それが現代文明の根幹を支えている。

だが、それによって奪われたのが人間の想像力の翼ではないだろうか。
本書は1960年代の終わりに発表された。つまり、日本の高度経済成長期の真っ只中だ。大阪万博を翌年に控え、公害が日本のあちこちを汚している頃。科学万能の信仰がピークを迎え、行きすぎた科学の力がまだ自然を汚染するだけで済んでいた頃。
人の生き方や働き方に深刻な影響はなく、皆がまだ右上がりの成長を信じ、それを望んでいた頃。
ところが著者はその時、想像力の枯渇を予期していた。そしてそれを風刺するかのように本書を著した。

人々の行動範囲は文明の進展によって広くなり、世界は狭くなった。時間のかかる仕事は少しずつ減り、人々のゆとりが少しずつ生まれてきた。
ところが、本書が著された頃からさらに未来のわれわれは、相変わらず不満を訴え欲望の行き場を探している。そして、想像力は枯渇する一方だ。

かつては、夜になれば火の明かりだけが頼り。あらゆる娯楽は会話の中だけで賄われていた。話を聞きながら、人々はそれぞれの想像力を働かせ、楽しみを心の中に育んでいた。
ちょうど、ミュンヒハウゼン男爵が人々に語っていたように。

そのような昔話やおとぎばなしが世界中のあちこちで語られ、現代に受け継がれた。
なぜ受け継がれたのか。それは、物語こそが人々にとって大きな娯楽だったからだ。
今やそれが失われ、人々は次々に注ぎ込まれる娯楽の洪水に飲み込まれている。そして、想像力を働かせるゆとりすら失いつつある。

著者はそれを予見して本書を描いたのではないだろうか。
ほら男爵の時代に立ち返るべきではないかと。

本書が発表されてから五十年以上が過ぎた今、豊かなはずの人々は満たされていない。生きがいを失って死を選ぶ若者がいる側で、いじめやパワハラが横行している。誰もが持て余した欲望のはけ口を他人や環境にぶつけ、自らの不遇を社会のせいにしようとしている。

人の心の動きは外からは把握できない。心の中で何を想像しようとも、それは他人には容易には悟られない。想像力を働かせればその限界はない。時間や空間を気にせず、あらゆる場所であらゆる事ができる。想像力こそが、人に残された最後の自由なのかもしれない。
その世界では自らを傷つける人はいない。空も飛べるし地下にもぐれる。本書に描かれたような奇想天外な人や出来事にも出会う事だって可能だ。

想像力は自らを助けるのだ。

本書のように一度自分の中で好き放題に想像してみよう。
そして借り物の世界ではなく、自分だけの物語を紡ぎだしてみよう。
その時、何かが変わるはずだ。

‘2020/04/28-2020/04/30


FACTFULLNESS


本書は、とても学びになった。
本書を読んだ当時の感想は、7日間ブックカバーチャレンジという企画で以下の文書にしたためた。
その時から一年数カ月が経ったが、今も同じ感想を抱いている。

Day1で取り上げるのは「FACTFULLNESS」です。昨年、ベストセラーになりましたよね。

今、コロナを巡っては連日、さまざまな投稿が花を咲かせています。その中には怪しげな療法も含まれていましたし、私利私欲がモロ見えな転売屋による投稿もありました。また、陰謀論のたぐいが盛んにさえずられているのは皆様もご存じの通りです。

私はFacebookでもTwitterでも、そうした情報を安易にシェアしたりリツイートすることを厳に謹んでいます。なぜなら、自分がその道に疎いことを分かっているからです。
ですが、四十も半ばになった今、自分には知識がある、と思い込んでしまう誘惑があることも否めません。
私のように会社を経営し、上司がいない身であればなおさらです。
独りよがりになり、チェックもされないままの誤った情報を発信してしまう愚は避けたいものです。

本書は、私に自分の無知を教えてくれました。私が世界の何物をも知らない事を。

冒頭に13問の三択クイズがあります。私はこのうち12問を間違えました。
著者は世界各地で開かれる著名な会議でも、出席者に対して同様の問いを出しているそうです。いずれも、正答率は低いのだそうです。

本書の問いが重要なこと。それは、経歴や学歴に関係なく、皆が思い込みで誤った答えを出してしまうことです。
著者によれば、全ては思い込みであり、小中高で学んだ知識をその後の人生でアップデートしていないからだそうです。
つまり真面目に学んだ人ほど、間違いを起こしやすい、ということを意味しています。

また著者は、人の思考の癖には思い込ませる作用があり、その本能を拭い去るのはたやすくないとも説いています。

本書で説いているのは、本能によって誤りに陥りやすい癖を知り、元となるデータに当たることの重要性です。
また、著者の意図の要点は、考えが誤りやすいからといって、世の中に対して無関心になるなかれ、という点にも置かれています。

本書はとても学びになる本です。少しでも多くの人に本書を読んでほしいと思います。
コロナで逼塞を余儀なくされている今だからこそ。
陰謀論を始め、怪しげな言説に惑わされないためにも。

正直にいうと、私はいまだに偏見の霧に惑わされている。
というか、偏見に惑わされないと思うあまり、判断を控えている。
コロナの中でオリンピック・パラリンピックを開催し、その後、急に感染者数が減った事。私はこの時、なんの判断も示さなかった。
専門家でないことはもちろんだが、私の中で下手な判断をくだせば逆効果になると思ったからだ。
こればかりはFACTFULNESSを読んでも実践できなかった点だ。

「世界は分断されている」「世界がどんどん悪くなっている」「世界の人口はひたすら増える」「危険でないことを恐ろしいと考えてしまう」「目の前の数字がいちばん重要」「ひとつの例にすべてがあてはまる」「すべてはあらかじめ決まっている」「世界はひとつの切り口で理解できる」「だれかを責めれば物事は解決する」「いますぐ手を打たないと大変なことになる」
これらは本書が説く思い込みの例だ。

コロナは世界中でワクチンの争奪戦を呼び起こした。
その時、先進国ではいち早くワクチンが行き渡ったが、発展途上国ではいまだにワクチンが出回っていないという話も聞いた。
この情報は、果たして正しい情報なのか。
上記に書いた思い込みではないのだろうか。
私はこれもまだきちんと調べられていない。

FACTFULLNESSは怪しげなニュースソースに乗っかって言説を吐くことを諫めてくれた。
だが、このように一大事の際に何をみれば正しい情報を得るのか、という点については、一人一人が探していくしかない。
例えばテレビ番組では連日コロナ関連の報道がなされていたが、ああした番組をただ見比べて自分で判断していく以外に道が見つけられなかった。
テレビ局ごとに別の専門家が意見をいい、それを比較するのが精いっぱい。

本書の説く内容に従うならば、私たちはよりおおもとのニュースソースにあたり、加工・脚色された情報を見極めなければならない。
だが、コロナは遠くの国の出来事ではなく、自らに降りかかった災厄だ。しかも何が正しいのか専門家すらわかっていない現在進行形の出来事。
そうなると冷静に判断することも難しい。
それがコロナの混乱の本質だったように思う。

気を付けなければならないのは、これがコロナに限らないことだ。これから起こるはずのさまざまな事件や災厄についても同じ。
マスコミも私たちも等しく、コロナから学ばなければならないことは多いはず。反省点は多い。
「大半の人がどこにいるのかを探そう「悪いニュースのほうが広まりやすいと覚えておこう」「直線はいつかは曲がることを知ろう」「リスクを計算しよう」「数字を比較しよう」「分類を疑おう」「ゆっくりとした変化でも変化していることを心に留めよう」「ひとつの知識がすべてに応用できないことを覚えておこう」「誰かを責めても問題は解決しないと肝に銘じよう」「小さな一歩を重ねよう」
まずは、これらの提言を実践するしかない。

ただ、本書を読んだ後、私が実践し続けようと心がけていることはある。
それは謙譲の心だ。
上の7日間ブックカバーチャレンジの後、弊社は人を雇う決断をした。そして人を雇った。
それが今年だ。
人を雇うことによって、今までの一人親方として営業と開発と総務経理を兼ねる立場から指導する立場へと役割を変えた。

そうなると指導する前提で話をしなければならない。指導ということはあらゆることに秀でている必要があるのだろうか。
否。そんなことはない。
確かに開発にあたっては、知識が必要だ。
だが、本当に経営者は開発の知識において従業員を上回っていないとだめなのだろうか。
違うと思う。
その時に私の心に去来するのは、謙譲の心だ。決して自分が正しいと思わない。
これは本書から得た学びだ。13問のうち12問を間違えた自分が正しいはずがないのだから。

‘2020/04/20-2020/04/28


虚構金融


私はあまり経済系の小説は読まない。
本書は、淡路島の兵庫県立淡路景観園芸学校のイベントに仕事で参加した際、「お好きにお持ち帰りください」コーナーで手にとったものだ。以来、二、三年積ん読になっていた。

そのため、本書については私の中には何の知識もなかった。著者の作品ももちろん初めて読む。
だが、本書は、とても読み応えのある一冊だった。

大手銀行同士の合併に際し、財務省に対する便宜を図ってもらうために贈収賄があったのではないか。その疑惑が、東京地検特捜部の捜査対象だった。そんな中、財務省の官僚である大貫が謎の死を遂げた。
その大貫を検事として取り調べていた後鳥羽は、贈収賄の実態についてさらなる調査を進める。汚職疑惑から明らかになる謎とは。それが本書の大まかなあらすじだ。

官僚や検事としての生き方、そして身の処し方。外部から見た時、どちらもさほど違いがないように思える。もちろん、当事者にとってみればそれはナンセンスな視点のはず。
私のような技術者でさえ、関わる職種によって職務の内容が大きく違うのは当たり前だ。技術者だからなべて同じと思われては困る。検事と官僚を同じ枠でくくることも同じ誤りに違いない。
ただ、一つだけ言えることがある。それは、誰もが目の前の任務に専念し、目の前の難問を解決しようと仕事に取り組んでいることだ。

後鳥羽には家族もいる。大貫にも家族がいる。
だが、肥大した利権と権力にまみれた世界は、家族の憩いや願いなど一顧だにしない。彼らのささやかな平和を一蹴するかのように、陰険な手が危害を加えてくる。圧力や妨害が当たり前の任務を遂行する彼らを駆り立てるものは何だろうか。

私自身の考えや生き方は、本書に登場する男たちの多くとは少しだけ異なっている。だからこそ、本書の世界観は新鮮だった。もちろん、このような小説は今までに何度も読んだことがある。ただ、それは私が何も分かっていない若い頃。
今の私は経営者である。ある程度自由が効くワークスタイルで働けている。今の私のワークスタイルは、検事や官僚のような生き方とは離れてしまった。

だが、私は本書に出てくる男たちの働き方を全て否定しようとは思わない。
仕事に熱を入れる彼らの姿は美しい。
日本の高度経済成長期に、本書に出てくるような男たちが黙々と仕事をしたからこそ、日本は世界史上でも稀な復興を成し遂げた。それは分かっているし、私が先人の成果の上で暮らしていることも理解している。
著者は彼らの姿を硬質で冷静な筆致で描く。

銀行員は規模を追い求める。銀行を大きくするためなら手段は問わない。
政治家は愛想よく振る舞い、日本を導く大志を語る。その裏で権力抗争に明け暮れる。
官僚は今を生きることに必死の国民や次の選挙に気もそぞろの政治家とは違い、数十年先を見据えた国家の大計のためと建前を振りかざす。
検事は権力の悪を暴く名目の元、疑惑に向けて捜査を怠らない。

誰もがそれぞれの仮面をかぶり、その仮面に宿命づけられた任務を遂行する。そして長年、仮面を被り続けているうちに、それが習性となってはがれなくなった仮面に気づく。
それを自覚しながら、それぞれの信条に殉じて任務に向かう。

著者はこうした人々を客観的に、そしてバランスよく描いていく。

捜査する後鳥羽は、大貫が改革派議員と勉強会を開いていた事実を知る。彼は何かを探していた。それが、大貫と大貫を追うように死んだ改革派議員が殺された原因ではないか。後鳥羽はそう当たりをつけ、調査を進める。
やがて彼の家族や彼自身にも危害が及ぶ中、彼は大貫が追っていた対象とそれが指し示す事実に行き当たる。

その何かはここでは詳細に書かない方が賢明だろう。本書を読む方の興味を殺いでしまう。
だが、それは決して荒唐無稽な陰謀論の産物ではない。
とても説得力があるし、それがなぜ大貫の命を奪ったのかも理解できる。
ちょうど私が初めて新聞を読み始めた頃、当時の新聞の一面には二つの品物が連呼されていた。牛肉とオレンジ。

今の日本をさして、財政の危機を指摘する論は頻繁に見かける。財政の支出に占める国債の利息の割合や、収入を国債に頼っている現状。
体力を顧みない国債の乱発は、やがて日本を破綻させる。そのような悲観的な論を唱える論者は多い。

だが本書を読めば、財務省が国債の乱発に余裕をかましていられるのかに得心が行く。私の勉強不足なのかもしれないが、今までに本書に書かれたような切り口で日本の財政を切り取った論を見かけたことがなかった。

おそらく私は、勉強不足で半可通の代表だろう。大貫が見つけた問題意識を今まで考えたことすらなかった。そうした半可通が官僚や政治家の思い描く未来とは逆の、的を外した論をSNSなどで書き散らしている。
官僚や検事はそうした浮ついた論とは一線を画し、目の前の大義に向けて能力を発揮せんとしている。
本書を読み、官僚や検事を駆り立てるものが何かについておぼろげながら理解できたように思う。

改めて今、インターネットで国債の状態を見てみた。すると、国債は相変わらず同じ状況が続いているようだ。
今、日本の財政が破綻したら果たしてどうなるのだろうか。いや、そもそも破綻することはないような気がする。

このような重要なことを知らずに、失われた30年などとドヤ顔で語っていたとすれば笑止千万だ。私は自らの無知に心から反省するとともに、本書を読んで襟を正す思いになった。

‘2020/04/18-2020/04/20


煙草おもしろ意外史


なぜ本書を読もうと思ったのか。正直あまり覚えていない。
ふと積ん読の山の中からタイトルに目を留めたのだろう。普段から私がタバコを含む嗜好品の歴史について関心を持ち続けていたからかもしれない。

本書はタイトルだけで判断すると、お気軽に読めるタバコの紹介本に思える。だが、それは間違いだ。
本書が取り上げているのはタバコの歴史だけはない。もちろん、タバコの世界的な伝播や、流行の様子には触れている。だが、本書はその様子から人や社会を描く。さらに本書の追究は、嗜好品とは何かという範囲にまで及んでいる。人が生まれてから成長し、社会に受け入れられる中で嗜好品が果たす役割など、民俗学、社会学の観点からも本書は読み応えがある。
正直、本書はタイトルの付け方がよくない。そのために多くの読者を逃している気がする。それほど本書の内容は充実している。

今、日常生活でタバコに触れる機会はめっきり減ってしまった。
公共の場は禁煙。それが当たり前になり、歩きタバコなどはめったに見かけない。肩身が狭そうに街の喫煙所に集まる喫煙者たち。副流煙がモクモクとあたりを煙らせる中、喫煙所のそばを足早に通り過ぎる非喫煙者たち。その中に私もいる。

私はタバコを吸わない。ただし18歳の頃、早速吸い始めた高校時代の同級生に吸わされそうになったことがある。その時、反発してキレそうになり、それ以来、紙巻きタバコは一度も吸ったことがない。
ただ、水タバコと葉巻はそれぞれ一回ずつ吸ったことがある。30代から40代にかけてのことだ。美味しかったことを覚えている。

なぜ私がタバコに手を出さなかったか。それは、喫煙者が迫害、もしくは隔離される未来が目に見えていたからだ。
当時から束縛されるのが嫌いだった私は、タバコを吸うと行動範囲が制限されると感じ、決して吸うまいと決めた。

だが、上で水タバコや葉巻を試したことがあると書いた通り、私は嗜好品としてのタバコにそれほど嫌悪感を持っていない。もちろん街を歩いていて煙が流れてくると避けるし、喫煙部屋に誘われると苦痛でしかない。
他の三つの嗜好品と違い、タバコだけは副流煙が周りの非喫煙者に不快な思いを与える。だから、専用の場所で吸えば良いのだ。酒も同じ嗜好品だが、酔っ払って暴れない限りは他の人に迷惑をかけない。せいぜい酒臭いと思われる程度だ。
だから、喫煙が可能なバーはもっと増えるべきだし、喫煙者が集える場所がもっと増えても良いと思っている。その中で好きなだけ吸えば済む話だと思う。要するに公共の場で吸わなければいいのだ。

私は酒やコーヒー、お茶をよく飲む。これらは嗜好品だ。タバコを加えて四大嗜好品というらしい。嗜好品が好きな立場から物申すと、タバコだけが迫害される現状は少々喫煙者に気の毒とさえ思っている。
タバコだけを迫害する前に、他に手を入れるべき悪癖は世の中に多いと思っている。
タバコ文化がどんどん迫害され、衰退している。
それは私にとって決して歓迎すべき事態ではない。タバコを吸わないからと悠長に構えていると、他の趣味嗜好にまで迫害の手が及ぶかもしれない。
だからこそ私は、本書を手に取ろうと思ったのかもしれない。

シャーマンが呪術で使う聖なる草。薬にもなるし、心を不思議な作用に誘う。トランス状態に人をいざなうためにタバコは用いられ、病んだ精神を癒やす効果もあるという。
アンデス高地が原産のタバコが、アステカ・インカ帝国を征服したスペイン人によってヨーロッパにもたらされ、それが瞬く間に世界で広まっていった。

イギリスの国王や、日本の徳川秀忠のようにタバコを嫌い、迫害した君主もいる。だが、人々がタバコの魅力を忘れなかった。
嗅ぎタバコや葉巻、パイプ、噛みタバコ。さまざまな派生商品とともにマナーやエチケットが生まれ、世界を席巻した。

産業革命によって大きく産業構造を変えた世界。その中で人々は都会に集い、ひしめきあって暮らした。技術を使いこなすことを求められ、最新の情報を覚え、合理的な動きを強いられる。情緒面よりも理性面が重視される毎日。
そのような脳が重んじられる時代にあって、脳を癒やすための手段として、嗜好品、つまり酒や茶やコーヒーやタバコはうってつけだった。

私が開発現場にいた頃、タバコ休憩と称して頻繁に席をはずす人をよく見かけた。
私はタバコを吸わない。だが、よく散歩と称して歩き回り、それによってプログラミングの行き詰まりを打破するアイデアを得ていた。
同じように、タバコ休憩も安易に無駄な時間と糾弾するのではなく、そうした間を取ることによって新たなアイデアを得ることだってある。タバコを吸うことで脳が活性化されるのであれば、それこそまさにタバコの効能だろう。

だが、近代になりタバコが若年層にも行き渡るようになり、健康と喫煙の問題が取り沙汰されるようになった。

ここからが本書の核となる部分だ。
ここで断っておくと、本書の著者は日本嗜好品アカデミー編となっている。その立場は、嗜好品をよしとし、大人のたしなみを重んじて活動する団体のようだ。
つまり、タバコに対して好意的に捉えている。むしろ、タバコを排除する動きには反対していることが本書から読み取れる。
例えば、健康の基準が時代とともに変化していることを指摘し、その基準を社会が一律に決めることに反対している。
また、物質が幅を聞かせる世の中にあって、人々の心が空洞化していることを取り上げ、タバコを悪と糾弾することが社会の正義にかなっているという風潮に反対する。乗っかりやすいキャッチフレーズが空洞化した心に受け入れられたのが、タバコへの迫害ではないかと喝破する。

そもそも昔はタバコも大人への通過儀礼として認められていた。それが、大人と子供の境目が曖昧になってしまった。それがタバコから文化的な意味を奪い、単なる健康に悪い嗜好品と認識されていまった現状も指摘している。
この部分では、河合隼雄氏、小此木啓吾氏、岸田秀氏といったわが国の著名な精神分析家の分析が頻繁に引用される。民俗学、社会学、精神分析理論、心理学、民法などを援用し、現代の文明社会の歪みと、その中で生きていかねばならない人の困難を提起する。
本来なら、生きる困難を和らげるのがタバコの役割だった。ところが、和らげる手段すら排除されようとしている。
人は死ぬ。生まれた瞬間に死ぬ運命が決まっている。その恐れは人類の誰もが持っている。それを和らげる存在が必要だからこそ、人は嗜好品に手を出す。それは責められる類のものではないだろう。人が進化し、自我を持つようになってしまった以上は。

「本能の壊れた」人間は、自然に即して生きることが出来なくなったため、さまざまな装置や仕組みを考案し、それらを使って生きる道を確実なものにしようと努力するようになった。(190ページ)

つまり、古来シャーマンがタバコを用いて人に癒やしを与えていた機能。それを今、文明社会から奪ってしまってよいのだろうか。編者はそう訴えたいのだろう。

本書でも述べられているが、嗜好品を闇雲に排除するのではなく、節度を持った喫し方を啓蒙すれば良いはず。喫煙者が節度を持って決まった場所で吸い、それが守られていればタバコが絶滅させられるいわれはないはずだ。
それこそ、私が前々から考えていたことだ。

ただし、本書を読んだ後に世界はコロナウィルスによって蹂躙された。コロナウィルスは肺を攻撃する。もし、喫煙によって肺が弱っていれば、肺炎になって致死率は上がる。これは、タバコにとっては致命的なことだ。
タバコが生き残るとすれば、まず禁断症状を薄めつつ、精神を安定させるように改良する必要がある。さらに、肺への影響も最小限にしなければ。そうした改良がないと、タバコはますます絶滅へと追いやられていく。
むやみやたらにタバコを排除すればそれで済むはずはない。もし今のように能率ばかりを求めるのであれば、その代替となる嗜好品には気を配る必要がないだろうか。そうでなければストレスが増すばかりの世に暮らす人々の精神的な健康が損なわれる気がする。
ストレスフルな世の中にあって、タバコなどの嗜好品が絶滅した世の中に魅力的な人間はいるのだろうか。いない気がする。

かつて、作家の筒井康隆氏が短編『最後の喫煙者』を世に問うた。そこで書かれたような世の中にはなってほしくない。

本書は隠れた名書だと思う。

‘2020/04/12-2020/04/18


破れた繭 耳の物語 *


耳の物語と言うサブタイトルは何を意味しているのか。

それは耳から聞こえた世界。日々成長する自分の周りで染みて、流れて、つんざいて、ひびいて、きしむ音。
耳からの知覚を頼りに自らの成長を語ってみる。つまり本書は音で語る自伝だ。
本書は著者の生まれた時から大学を卒業するまでの出来事を耳で描いている。

冒頭にも著者が書いている。過去を描くには何から取り出せばよいのか。香水瓶か、お茶碗か、酒瓶か、タバコか、アヘンか、または性器か。
今までに耳から過去を取り出してみようとした自伝はなかったのではないか。
それが著者の言葉である。

とは言え音だけで自伝を構成するのは不可能だ。本書の最初の文章は、このように視覚に頼っている。
一つの光景がある。
と。

著者は大阪の下町のあちこちを描く。例えば寺町だ。今でも上本町と四天王寺の間にはたくさんの寺が軒を占めている一角がある。そのあたりを寺町と呼ぶ。
幼い頃に著者は、そのあたりで遊んでいたようだ。その記憶を五十一歳の著者は、記憶と戦いながら書き出している。視覚や嗅覚、触覚を駆使した描写の中、徐々に大凧の唸りや子供の叫び声といった聴覚が登場する。

本書で描かれる音で最初に印象に残るのは、ハスの花が弾ける音だ。寺町のどこかの寺の境内で端正に育てられていた蓮の花の音。著者はこれに恐怖を覚えたと語っている。
後年、大阪を訪れた著者は、この寺を探す。だが幼き頃に聞いた音とともに、このハスは消えてしまったようだ。
音はそれほどにも印象に残るが、一方で、その瞬間に消えてしまう。ここまで来ると、著者の意図はなんとなく感じられる。
著者は本書において、かつての光景を蘇らせることを意図していない。むしろ、過去が消えてしまったことを再度確認しようとしているのだ。
著者は、日光の中で感じた泥のつぶやき、草の補給、乙行、魚の探索、虫の羽音など、外で遊んで聞いた音を寝床にまで持ち運ぶ。もちろん、それらの音は二度と聞けない。

昭和初期ののどかな大阪郊外の光景が、描写されていく。それとともに著者の身の回りに起こった出来事も記される。著者の父が亡くなったのは著者が小学校から中学校に進んだ歳だそうだ。
しばらく後に著者は、父の声を誰もいない部屋で聞く。

時代はやがて戦争の音が近づき、あたりは萎縮する。そして配色は濃厚になり、空襲警報や焼夷弾の落下する音や機銃掃射の音や町内の空襲を恐れる声が著者の耳をいたぶる。

ところが本書は、聴覚だけでなく視覚の情報も豊富に描かれている。さらには、著者の心の内にあった思いも描かれている。本書はれっきとした自伝なのだ。

終戦の玉音放送が流れた日の様子は、本書の中でも詳しく描かれている。人々の一挙手一投足や敵機の来ない空の快晴など。著者もその日の記憶は明晰に残っていると書いている。それだけ当時の人々にとって特別な一日だったに違いない。

やがて戦後の混乱が始まり、飢えに翻弄される。聴覚よりも空腹が優先される日々。
そのような中で焼け跡から聞こえるシンバルやトランペットの音。印象的な描写だ。
にぎやかになってからの大阪しか知らない私としては、焼け跡の大阪を音で感じさせてくれるこのシーンは印象に残る。
かつての大阪に、焼けただれた廃虚の時代があったこと。それを、著者は教えてくれる。

この頃の著者の描写は、パン屋で働いていたことや怪しげな酒を出す屋台で働いていたことなど、時代を反映してか、味覚・嗅覚にまつわる記述が目立つ。面白いのは漢方薬の倉庫で働いたエピソードだ。この当時に漢方薬にどれほどの需要があるのかわからないが、著者の物に対する感性の鋭さが感じられる。

学ぶことの目的がつかめず、働くことが優先される時代。学んでいるのか生きているのかよくわからない日々。著者は多様な職に就いた職歴を書いている。本書に取り上げられているだけで20個に迫る職が紹介されている。
著者の世代は昭和の激動と時期を同一にしている。感覚で時代を伝える著者の試みが読み進めるほどに読者にしみてゆく。五感で語る自伝とは、上質な歴史書でもあるのだ。

では、私が著者と同じように自分の時代を描けるだろうか。きっと無理だと思う。
音に対して私たちは鈍感になっていないだろうか。特に印象に残る音だったり、しょっちゅう聞かされた音だったり、メロディーが付属していたりすれば覚えている。だが、本書が描くのはそれ以外の生活音だ。

では、私自身が自らの生活史を振り返り、生活音をどれだけ思い出せるだろう。試してみた。
幼い頃に住んでいた市営住宅に来る牛乳売りのミニトラックが鳴らす歌。豆腐売りの鳴らす鐘の響き。武庫川の鉄橋を渡る国鉄の電車のくぐもった音。
または、特別な出来事の音でよければいくつかの音が思い出せる。阪神・淡路大震災の揺れが落ち着いた後の奇妙な静寂と、それを破る赤ちゃんの鳴き声。または余震の揺れのきしみ。自分の足の骨を削る電気メスの甲高い音など。

普段の忙しさに紛れ、こうした幼い頃に感じたはずの五感を思い出す機会は乏しくなる一方だ。
著者が本書で意図したように、私たちは過去が消えてしまったことを確認することも出来ないのだろうか。それとも無理やり再構築するしかないのだろうか。
五感を総動員して描かれた著者の人生を振り返ってみると、私たちが忘れ去ろうとしているものの豊かさに気づく。

それを読者に気づかせてくれるのが作家だ。

‘2020/04/09-2020/04/12


父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。


本書は、経済関係の本を読む中で手に取った一冊だ。新刊本で購入した。

タイトルの通り、本書は父から娘に向けて経済を解説すると体裁で記されている。確かに語り口こそ、父から娘へ説いて教えるようになっているが、内容はかなり充実している。まさに深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい。

実は私も、娘に向けてこの本を購入した。私の長女は、イラストレーターの個人事業主として中学生の頃から活動している。
私も経営者とはいえ、経済的にはまだゆとりはない。有能な経営者とは言えないだろう。だが、少なくとも四人の家族を養うだけの金銭はこれまでに稼いできた。
だが、娘はまだこれからだ。個人事業主とはそれほど簡単に稼げるものではない。実際、どこかに常駐しておらず、家で仕事している娘はまだ稼ぎが少ない。
だからこそ、本書のように経済の本を読んで勉強しておいた方が良い。私はそう思った。
今まで経済をろくすっぽ学ばずにやってきた私が、さんざん苦労してきたからだ。

本書の第一章では、なぜ格差が生じるのかについて説明する。
南北問題と言う言葉がある。同じ地球の北半球と南半球で富に格差が発生している現実だ。裕福な北米やヨーロッパ、中国と、貧しい南半球の国々。
なぜ違うのか。それは『銃・病原菌・鉄』でも示されていたが、地理的な問題だ。南北に長いアフリカは、緯度によって季節や気候ががらりと違ってしまう。そのため、作物も簡単に伝播させることが難しい。ところが、東西に伸びたユーラシア大陸では気候の違いがあまり発生しなかった。そのため、一つの文明・文化が勃興すると、さしたる障害もなしに東西に素早く広がった。北アメリカも同じように。
そして、オーストラリアなど、自然が豊かな国では人々はただ自然から食物をいただくだけで生きていけた。身の危険もないため、人々は植物を貯めておく必要も、余剰を意識する必要もなかった。

第二章は市場をテーマにしている。経験価値と交換価値。その二つの価値は長らく経済の両輪だった。
個人の体験は交換が利かない。だから自らの経験や知識を人のために役立てた。個人の経験それ自体に価値があり、対価が支払われる。経験価値だ。
ところが徐々に貨幣経済が発展するとともに、市場で貨幣と商品を交換する商慣習が成り立ってゆく。市場において貨幣を介してモノを交換する。交換価値だ。
何かを生産し、それを流通させるまでには資産が欠かせない。自然の原材料や加工道具、それに生産手段だ。さらにそうした資産を置く場所と空間。さらに、かつては奴隷として抱える労働力も資産に含まれた。そうした資産や不動産や労働力は、交換できる価値として取り扱うことができた。
過去のある時期を境に、人類の経済活動において交換価値は経験価値を凌駕した。

第三章では、交換価値で成り立っていた経済が次の段階に進む様子を取り上げている。利益や借金が経済活動の副産物ではなく、企業にとって目的や手段となる過程。それが次の段階だ。

賃金も地代も原料や道具の値段も、生産をはじめる前からわかっている。将来の収入をそれらにどう配分するかは、あらかじめ決まっているわけだ。事前にわからないのは、起業家自身の取り分だけだ。ここで、分配が生産に先立つようになった。(78ページ)

既存の封建社会のルールに乗らなくてもよい起業家は、借金をして資産を増やし、それをもとに競争するようになった。

第四章では、借金が新たな役割を身につけた理由を説明する。
借金とは、現在の価値と未来に利子がついている価値との交換だ。貸主は貸した金銭が、将来にわたって利子付きで戻ってくること期待する。つまり、将来の価値と今の価値の交換だ。その差額である利子が貸主の利益となる。

今、周りにある企業や国、銀行と取引するのではない。将来の企業、国、銀行と交換する。それが借金のカラクリだ。今、存在する価値の総量以上は借りられない。だが、将来の利子を加えると、今の価値の総量よりも高い金額が借りられる。これが金融の原点であり、ありもしない富がなぜ次々と生まれてくるカラクリだ。
貨幣をさして兌換貨幣と呼ぶ。かつては金を保有している国が、いつでも保有する金と貨幣を交換してもらえる約束と信頼の上で貨幣を発行していた。いわゆる金本位制だ。
その考えを推し進めると、将来も今の経済体制が維持される前提のもと、未来の利子がついた価値と今の価値を交換する金融の仕組みが成り立つ。

第五章では、労働と賃金関係について説明される。今までの説明で、経済の成り立ちが描かれてきた。だが、今やロボットや人工知能が人類の労働力にとって替わろうとしている。それらとどう共存するか。
本書はこの後第六章、第七章、第八章と人類が今直面している問題に経済の観点から切り込んでいく。仮想通貨や環境問題、人類の未来といった問題に。
実は本書は、この後半からがさらに面白い。

今の市場経済に未来はあるのか。経済活動に携わる人の誰もが考えたことがあるのではないだろうか。
一見すると、社会を回すためには今の方法しかないように思える。需要と供給。給与と消費。資本と市場。人の欲求と向上心をかなえ、勝者と敗者を生産しつつ、今の資本主義の世の中は動いている。

だが、その概念に揺らぎが生じたからこそ、SDG’sの概念が提唱されている。持続可能な開発目標。つまり今のやり方のままでは持続が不可能であることを、国連をはじめ誰もが感じている。
その中にうたわれている十七の目標は一見すると真理だ。資源は限られているとの前提のもと、化石燃料を燃やしてあらゆる社会活動が回っている。金融システムもコンピューターが幅を利かせるようになった以上、電力とは切っても切れない。今の経済活動は有限の資源を消費することを前提に動いている。その前提を変えなければ、経済活動や地球に未来はないと。それが著者の懸念だ。
交換価値とは、自然を破壊しても生じる価値であり、人の欲望には限度がない。著者はおそらく、SDG’sが唱える十七の項目ですら生ぬるいと感じているに違いない。

将来に対する信頼が今の金融システムを支えている。その将来が危うくなっている。
利子が戻ってくるはず将来が危ういとなると、借金がリスクとなる。つまり信頼が崩れてしまう。金融システムの前提である錬金術は、将来への信頼が全てだ。

将来の価値と今の価値を交換する。つまり将来を食いつぶしているのが今の経済の本質だ。果たして将来を食いつぶしてよいのだろうか。食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
人間が今まで動かしてきた制度や社会を変えるのはすぐには難しい。だが、この社会を維持していかなければならない。今のままのやり方ではどこかで限界が来る。

そのために著者は本書を用いて、さまざまな提言を行っている。

交換価値のかわりに経験価値が重んじられる社会に。
機械が幅をきかせる未来に、そもそも交換価値は存在しないこと。
機械が生み出した利益をベーシックインカムとして還元すること。
権力は全てを商品化しようとするが、地球を救うには全ての民主化しかないこと。

とても素晴らしい一冊だったと思う。

‘2020/04/01-2020/04/08


太陽の子


本書は、関西に移住した沖縄出身者の暮らしを描いている。
本書の主な舞台となる琉球料理屋「てだのふあ・おきなわ亭」は、沖縄にルーツを持つ人々のコミュニティの場になっていた。そのお店の一人娘ふうちゃんは、そのお店の看板娘だ。
本書は、小学六年生のふうちゃんが多感な時期に自らの沖縄のルーツを感じ、人の痛みを感じ、人として成長していく物語だ

お店の場所は本書の記述によると、神戸の新開地から東によって浜の方にくだった川崎造船所の近くという。今でいう西出町、東出町辺りだろう。この辺りも沖縄出身者のコミュニティが成り立っていたようだ。

『兎の眼』を著した人としてあまりにも有名な著者は、かつて教師の職に就いていたという。そして、17年間勤めた教員生活に別れをつげ、沖縄で放浪したことがあるそうだ。

本書は、その著者の経験がモチーフとなっている。教員として何ができるのか。何をしなければならないかという著者の真剣な問い。それは、本書に登場する梶山先生の人格に投影されている。
担任の先生としてふうちゃんに何ができるか。梶山先生はふうちゃんと真剣に向き合おうとする。ふうちゃんのお父さんは、沖縄戦が原因と思われる深い心の傷を負っていて、日常の暮らしにも苦しんでいる。作中にあぶり出される沖縄の犠牲の一つだ。

「知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような勇気のない人間になりたくない」(282ページ)
このセリフは、本書の肝となるセリフだろう。ふうちゃんからの手紙を、梶山先生はその返信の中で引用している。

ここでいう知らなければならないこととは、沖縄戦の事実だ。

私はここ数年、沖縄を二度旅している。本書を読む一昨年と三年前のニ回だ。一度目は一人旅で、二度目は家族で。

一度目の旅では、沖縄県平和祈念資料館を訪れた。そこで私は、沖縄戦だけでなく、その前後の時期にも沖縄が被った傷跡の深さをじっくりと見た。
波間に浮き沈みする死んだ乳児の動画。火炎放射器が壕を炙る動画。手榴弾で自決した壕の避難民の動画。崖から飛び降りる人々の動画。この資料館ではそうした衝撃的な映像が多く見られる。

それらの事実は、まさに知らなくてはならないことである。

沖縄は戦場となった。それは誰もが知っている。
だが、なぜ沖縄が戦場になったのか。その理由について問いを投げかける機会はそう多くない。

沖縄。そこは、ヤマトと中国大陸に挟まれた島。どちらからも下に見られてきた。尚氏王朝は、その地政の宿命を受け入れ、通商国家として必死に生き残ろうとした。だが、明治政府の政策によって琉球処置を受け、沖縄県に組み入れられた琉球王朝は終焉を迎えた。
沖縄の歴史は、戦後の米軍の占領によってさらに複雑となった。
自治政府という名称ながら、米軍の軍政に従う現実。その後日本に復帰した後もいまだに日本全体の米軍基地のほとんどを引き受けさせられている現実。普天間基地から辺野古基地への移転も、沖縄の意思より本土の都合が優先されている。
その歴史は、沖縄県民に今も圧力としてのしかかっている。そして、多くの沖縄人(ウチナーンチュ)人が本土へと移住するきっかけを生んだ。

だが、日本に移住した後も沖縄出身というだけで差別され続けた人々がいる。ヤマト本土に渡ったウチナーンチュにとっては苦難の歴史。
私は、そうした沖縄の人々が差別されてきた歴史を大阪人権博物館や沖縄県平和祈念資料館で学んだ。

大阪人権博物館は、さまざまな人々が人権を迫害されてきた歴史が展示されている。その中には沖縄出身者が受けた差別の実情の展示も含まれていた。関西には沖縄からの出稼ぎの人々や、移民が多く住んでいて、コミュニティが形成されていたからだ。
本書は、沖縄の歴史や沖縄出身者が苦しんできた差別の歴史を抜きにして語れない。

ふうちゃんは、お父さんが子供の頃に体験した惨禍を徐々に知る。沖縄をなぜ疎ましく思うのか。なぜ心を病んでしまったのか。お父さんが見聞きした凄惨な現実。
お店の常連であるロクさんが見せてくれた体の傷跡と、聞かせてくれた凄まじい戦時中の体験を聞くにつけ、ふうちゃんは知らなければならないことを学んでいく。

本書の冒頭では、風ちゃんは自らを神戸っ子であり、沖縄の子ではないと考え、沖縄には否定的だ。
だが、沖縄が被ってきた負の歴史を知るにつれ、自らの中にある沖縄のルーツを深く学ぼうとする。

本書には、山陽電鉄の東二見駅が登場する。江井ヶ島駅も登場する。
ふうちゃんのお父さんが心を病んだのは、ふらりと東二見や江井ヶ島を訪れ、この辺りの海岸線が沖縄の南部の海岸線によく似ていたため。訪れた家族やふうちゃんはその類似に気づく。
どれだけの苦しみをお父さんが味わってきたのか。

父が明石で育ち、祖父母が明石でずっと過ごしていた私にとって、東二見や江井ヶ島の辺りにはなじみがある。
また明石を訪れ、あの付近の光景が沖縄本島南部のそれに似ているのか、確かめてみたいと思った。

そして、もう一度沖縄を訪れたいと思った。リゾート地としての沖縄ではない、過去の歴史を直視しなければならないと思った。沖縄県平和祈念資料館にも再訪して。

私は、国際政治の複雑さを理解した上で、それでもなお沖縄が基地を負担しなければならない現状を深く憂える。
そして、本書が描くように沖縄から来た人々が差別される現状にも。今はそうした差別が減ってきたはず、と願いながら。

‘2020/03/28-2020/03/31


日本書記の世界


令和二年。日本書記が編纂されて1300年。
その年に日本書紀を解説する久野先生の講演を聴く機会をいただいた。講師の後、久野先生ご自身が書物に署名してくださる機会にも恵まれた。久野先生の日本書記にかける熱い思いは、私に日本書紀の世界への興味を抱かせた。それもあって、入門篇と言える本も読んでみたいと思った。
久野先生の日本書紀への熱い思いには感銘を受けたが、だからこそ、主観を排した中立の立場で書かれた研究書を読まなければ、と思った。また日本書記が中立の立場からどのように捉えられているかについても知っておきたかった。
本書は著者による主観を排し、なるべく客観的な事実を述べることに終始している。私の目的に合致している。

本書はまず概観の章が設けられている。
そこでは日本書紀の成立年代が養老四年(七二〇)であること。六国史の第一の書として編纂されたことが記されている。
他にも、編纂の材料がどこからとられたか、名称や年表、執筆者、内容といった、日本書記の全体像の大筋が取り上げられている。

日本書紀は、直前に日本を騒乱の渦に巻き込んだ壬申の乱によって資料が散逸するなど、編纂にあたっての苦労があったようだ。
さらに、日本書記がわが国の歴史を振り返る史書として、手本となる中国の史書に遜色のない内容と体裁を目指したことによって、編纂者による苦労は大だったようだ。
そのため日本書紀は同時期に編纂された古事記との違いを打ち出すためか、漢文で書かれている。古事記との比較においても注目すべき内容が多い。

日本書記は舎人親王による編纂が中心だが、紀清人らが執筆の実務に当たったことも紹介されている。
わが国の最初の史書であるがために、神代の時期から歴史を取り扱うことが求められた。証拠も文書も残っていない伝説を史書としていかにして取り扱うか。そうした編纂者たちの苦労にも著者は筆を割いている。
凡例をどうするか。漢文調をどうするか。名称については当初は日本書紀ではなく、日本紀であったこと。そもそも借字日本紀と言う別の日本書記の存在や、和銅五年に上奏された日本書紀の存在説など、日本書紀には別の版があった可能性を本書は説明している。

また、日本書記の紀年方法は古くより議論が絶えない。初めの頃に在位していた天皇の物故年齢や在位年数が異常に長く設定されていること。年数が長い理由について、古くからさまざまな諸説がとなえられてきたが、結局のところ定説と言われる紀年方法はないこと。
また、歴史上の出来事の出典はどこから題材としたのか、という問題も重要だ。なぜなら、わが国の歴史とされているものが実は中国側から見た歴史に過ぎないと言う問題もはらんでいるからだ。本書には日本書記の出典元として、多様な書物が紹介されている。史記、漢書、後漢書、三国志、梁書、隋書、藝文類聚、文選、金光明最勝王経、淮南子、唐実録、東観漢記。

こうした成立にあたっての処処の問題を考えると、日本書紀とは単純に礼賛だけしていれば良い類の文書ではなさそうだ。もちろん日本書紀がわが国最初の史書であり、尊重すべき対象であることは当然だが。

そこから本書は内容の紹介に移る。まず神代の時代。神々が誕生し、神々が国土を生む。さらに日月神が生まれ、天照大御神から誕生した神々が地に満ちていく。天孫降臨神話から、海幸山幸の物語、スサノオの挿話が紹介される。

さらに神武天皇の実績が描かれる。
神武天皇とは、言うまでもなく初代天皇である。神武東征もよく知られた神話だが、日向の高千穂が出発地として設定されている。実はその理由について、定説がない。本書にもそのことに触れているが、私としても日本国家の成り立ちがどこかについては、興味が深い。

続いて綏靖天皇から開化天皇までのいわゆる欠史八代の天皇について書かれている。この部分に関してはあまり研究は進んでないようだ。
さらには景行天皇、成務天皇について。景行天皇とは、いわゆる日本武尊の父とされる。そうした日本武尊の伝説と史実の比較も著者は指数を割いている。
続いての応神天皇と神功皇后は、本書の中でも多めに取り扱われている。それはその時期に目立つ天皇の在位年数に空白がある問題だ。一説に神功皇后=卑弥呼という説もあるが、その説も踏まえ、同時期になんらかの巨大な争いがあったことが示唆される。この時期も古代史の愛好家にとっては興味深い部分だ。
古代史でも日本書紀の記述の中でも、この部分はクライマックスの一つだ。大陸や朝鮮半島の史書と日本書紀がリンクし合い、謎が解けそうな予感。何かが明らかにされようとしているのに、それが決して解決されない。そのロマンも日本書紀の魅力に数えて良いだろう。

同時にこの時期は、大陸や半島からの人物の来日や文化の流入が相次いだ時期でもある。その意味でもわが国にとって重要な時期であることに間違いはない。
その後の仁徳天皇も、最大の陵墓を擁する天皇として知られている。が、その知名度のわりに、仁徳天皇の事績と伝えられたものが実は根拠もなく曖昧であることを本書は指摘している。

この辺りからの歴代天皇の記述には不自然な年数が見られなくなる。が、一方で天皇に対する描写が荒れはじめる。そこで描かれた天皇の業績は、とても神々の末裔を描いたとは言えない。
家臣に殺された安康天皇や、雄略天皇、武烈天皇が成したとされる残虐な行いの数々。
政府が編纂した史書であるにもかかわらず、天皇を貶めた表現がある。著者はこの部分を天皇観に異なる解釈があったのではないかと指摘している。こうした部分についての著者の解釈はとても慎重であり、断定をしないように気を配っている。

続いての継体天皇からは、著者は国体の系統に何かの断絶があったことを示唆している。
むしろ、この時期は対半島との関係や、仏教伝来についての記述が増えていることを指摘する。

こうして記紀は蘇我氏と物部氏の争いや、聖徳太子、大化の改新から壬申の乱へと記載が続く。
著者の姿勢は断定を避け、あくまでも諸説並列を原則としている。
記述は簡潔で、特定の立場に依拠していない。そのため、入門編としてスイスイ読み進められる。

以降の本書は、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治以降に続く日本書紀の研究史を紹介する。
先人たちによる多くの研究の上に日本書紀は解き明かされてきた。だが、先に見てきた通り、まだまだ日本書記には根本の部分で謎が多い。
そして、それが人々を惹きつけてきたこともまた事実だ。

私としては、本書を入門書として折りに触れて目を通したい。そして、基本的な知識を忘れずにいたいと思う。

‘2020/03/26-2020/03/28


その後の鎌倉 抗心の記憶


本書の出版社は山川出版社だ。
こ存じの方も多いと思うが、高校の世界史と日本史の副読本でお馴染みだ。

そんな本書が取り上げるのは、タイトルの通り鎌倉の街についてだ。
イイクニツクロウ鎌倉幕府。
誰でも知っている1192年の鎌倉幕府成立の年号を語呂合わせで覚えるための言葉だ。

1192年に鎌倉幕府が開かれたことで、東国の一寒村に過ぎなかった鎌倉は日本史にその名を刻むこととなった。

では鎌倉幕府が瓦解し、室町幕府に幕府の機能を奪われた後の鎌倉は、どのように衰微していったのだろうか。
それを本書は取り上げている。

何度かブログに書いてきたが、私の住んでいる家のすぐ近くを鎌倉街道が通っている。新田義貞公・足利尊氏公といった大平記の世を彩った武将がその道を何度も駆け、鎌倉に攻め込み鎌倉を守ろうと行き来した。

鎌倉幕府が滅びた後も、しばらくは鎌倉が歴史の中心であり続けた。
中先代の乱で北条時行は諏訪から鎌倉を目指して進軍し、政治の中心が京都の室町御所に移った後も、東国の中心は依然として鎌倉であり続けた。
鎌倉府や鎌倉公方が設置され、東国の武将たちが東国に睨みを利かせるためには鎌倉に拠るのが普通だった。南北朝の抗争においても鎌倉は島国の中心であり続けた。

なぜ私は鎌倉の街並みについて本書を通して学ぼうと思ったのか。それは鎌倉に仕事上でご縁が生じたためだ。「カマコン」という街を活性化させるための参加型のイベントにも参加した。また、鎌倉に本拠を構える面白法人カヤックさんとのご縁もできた。その他、鎌倉にて活動する会社の方とのご縁もできた。私自身も鎌倉市商工会議所で登壇した。

こうしたご縁の数々を通し、鎌倉の街並みの魅力が現代でもなお保たれていることを知った。

一度は歴史の表舞台から消え去ったはずの鎌倉は、なぜいまだに存在感を保ち続けているのだろうか。寺社仏閣が多く残されているからだろうか。それとも小町通りの風情が観光客を惹きつけるからだろうか。
それだけでなく、何か鎌倉時代からの歴史の風が脈々と吹き続けているからではないか。
鎌倉には何か進取の気性のような風土があるのではないか。

それを知るために本書を通して鎌倉を知りたかった。
そもそも、鎌倉幕府が瓦解した後もどのように鎌倉の街が命脈を保ち続けたのかを知りたかった。

室町時代に入っても上杉禅秀の乱の舞台となり、さらに永享の乱などの諍いもあった。上杉家や関東公方、堀越、古河公方などが関東の覇権を求めて乱立した。その時に関東でもっとも騒乱が絶えなかったのが鎌倉の街だ。室町幕府が置かれた京と比べてもその不安定さは同じだった。そうした流れの中、鎌倉は徐々にその中心を失っていく。
決定的なのは、戦国の騒乱によって室町幕府や関東管領から権威が失われたからだろう。そうなってからの鎌倉にかつての勢威は失われてしまった。

本書は続いて、場の記憶と称して、街のあちこちに残された歴史の遺構を紹介している。七つの切通で外界から閉じられた鎌倉。外からの攻めには強いが、一度攻めこまれると脆かった鎌倉。そのため、街が兵火で灰塵に帰すこともなく、街の外観は保たれた。
鎌倉幕府が去ってのちは、日本の中心から徐々に外れていった鎌倉ことで、当時を偲ばせる遺跡が今も残されている。

鎌倉の街並みに残された遺跡を紹介しながら、それぞれの出来事が鎌倉に残した遺構を紹介する本書は、場から鎌倉の歴史と記憶を掘り起こしていく。

特筆すべき事は、鎌倉は何か特定の勢力の拠点ではなかったと言うことだ。元弘の乱で鎌倉幕府が滅ぼされて以降は特に。
それ以降は鎌倉を本拠とする勢力が入れ代わり立ち代わり鎌倉でかりそめの政務をとった。そして短い間に次のあるじに勢力を明け渡した。
中世を通じて政治の中心としての性格が弱く、それが、鎌倉を決定的に破壊の対象となる事態から無縁だった理由だ。
そして、鎌倉を現代に生きながらえさせたと言える。

本書は、応仁の乱以降の鎌倉を全く描いていない。
江戸時代に水戸光圀のような人物が鎌倉にやってきてその衰えを慨歎する姿が紹介されているのみだ。

だが実はその時期の鎌倉こそ、私たちにとって知りたい鎌倉の情報が詰まっているのではないか。

特に鎌倉は仏教の本場だ。そうした仏教の大寺院が江戸幕府の宗教統制の中をどのように生き延びたのか。
その観点からの鎌倉の歴史はぜひとも知りたかったように思う。

また、明治になって鉄道が通った。その際に街の人々は鉄道が通ることについてどのような反応を示したのか。伝統のある都市が進取の陸蒸気を受け入れる際には何の葛藤もなかったのだろうか。
また、今の若宮小路を軸とした鶴岡八幡宮の門前町である街並みの再構築はどのようになされたのか。
そうした観点でも実は鎌倉はまだまだ興味深い。
本書がそれに触れていなかったのは残念でならない。

おそらく、上に書いた現代の鎌倉が備える進取の風土を考えるには、江戸と明治の鎌倉も知らなければなるまい。
著者かまたは別の著者による鎌倉の歴史を当たってみたいと思う。

‘2020/03/24-2020/03/26


日本昔話百選


日本昔話と言えば、私たちの子どもの頃は市原悦子さんのナレーションによる土曜夜のアニメがおなじみだった。よくテレビで見ていたことを思い出す。
また、子どもの頃、わが家には坪田譲治氏によって編纂された日本昔話の文庫本があった。私はこれを何度も読み返した記憶がある。

長じた今、あらためて日本の昔話とはどのようなものだったかを知りたくなった。そこできちんと読み返してみようと思った。本書は大きな新刊の本屋さんで購入した。
本書は三省堂が出している。三省堂といえば辞書の老舗出版社だ。そうした出版社が昔話についての本を出しているのが面白い。辞書に準ずるぐらい、永久に収められるべき物語なのだろう。

日本昔話とは、誰でも知っている「桃太郎」や「浦島太郎」「舌切雀」といった話だけではない。それ以外にも名作は多い。
知られている昔話の他にも、面白い作品はまだまだ埋もれている。
私がかつて読んでいた坪田譲治氏の作品で覚えているのが「塩吹き臼」だ。欲をかいた男が何でも出てくる臼から塩を出したまま、止め方を知らぬまま船とともに海に沈む。どこかの海の底で今もなお、臼から湧きだし続けている塩が海の水を塩辛くしたというオチだ。
「塩吹き臼」は、子どもの頃の私に、なぜ海の水は塩辛いのかという疑問に答えてくれた。それとともに、欲をかいてはひどい目にあうとの教訓を与えてくれた。印象に残る「塩吹き臼」は本書に収められている。

昔話と言っても、単に勧善懲悪の話だけではない。寝太郎のように寝ているだけの男が思わぬ富を手にする話もある。それとは逆に実直で堅実な老夫婦に思わぬ幸運が飛び込んでくる話もある。
言いつけを守らなかったばかりに得られるべき幸運を逃す話もあるし、人でない生き物が思わぬ富を持ち込む話もある。

そうした昔話の数々は昔から伝えられてきただけあって、物語として洗練されている。幼い子どもでも理解できる長さで、物語の展開の妙を伝え、教訓をその中に込める。長い間にわたって語り伝えられてきた間に物語の骨格に適度な脚色だけが残されてきた。そうした粋と言えるものが昔話には詰まっている。

本書には全部で100話の話が収められている。

例えば本書の中には「桃太郎」も載っている。本書に載せられた「桃太郎」は川を流れてきたのが桃であることや、長じてから鬼退治に向かうところはおなじみの内容だ。だが、怪力の持ち主との設定だけで、桃太郎は義侠心や正義にあふれた青年ではない。成り行きで鬼退治に向かうところも大きく違う。
おそらく正義感の要素はあとから追加された設定なのだろう。その方が子どもにとって伝えやすいという思惑が加わったのだろうか。

本書の中には「花咲爺」も収められている。本書に載っている「花咲爺」は、私の知っている話とそう違わない。善人の爺さんの身の回りには金になる話が舞い込むが、悪人の爺さんは善人の爺さんの上前をまねる。そしてすぐに成果だけを求めては、うまくいかずにひどいことをする。

本書には「舌切雀」も載せられている。夫婦でも温和な夫と強欲で狷介な妻によって取りうる態度が違えば、得られるものも違う。夫婦であっても物事への対処の仕方によって得られるものが違う教訓は、欲望の醜さを分かりやすく教えてくれる。

本書は各地の古老の名前が何人も載っている。こうした人々が脈々と地域に伝わる話を口承で伝えてくれたのだろう。
だがいまや、こうした話が子どもたちの間に伝わることはほぼないはずだ。炉辺の物語の代わりに、テレビやネットやゲームが子どもたちの時間の友だからだ。わざわざ祖父母から話を聞く必要もなく、時をつぶす楽しみなど無限にある。
現代で失われてしまったものは他にもある。それは地域ごとの豊かな方言だ。本書にも話の中に方言があふれているし、終わりを表す決まり文句として登場する。

面白いのは「文福茶釜」だ。有名なのは群馬県館林市の文福茶釜だが、本書に採録されているのは鳥取県に伝わる話だ。
同じ話であっても全国に広まり、それぞれの地で方言をまといながら人口に膾炙していったのだろう。

テレビの力によって関西弁のような特定の方言は全国区に広がっている。その一方で、地域の中で人知れず絶滅への道をたどっている方言のいかに多いことか。そうした方言が本書には収められているが、それも本書の功績であろうか。

もう一つ本書には「わらしべ長者」に類する話が載っていない。
知恵を使ってさまざまなものを物々交換していく中で、少しずつ保有する資産を上げていき、ついには長者へと成り上がる。
その話は資本主義の根幹にも関わる話なので、採録してくれてもよかった気がする。

こうした昔話から、私たちはどのような教訓を受け取ればよいだろうか。
昔話から私たちが受け取るべき教訓とは、普通に生きている上で気づかないきっかけを、ここぞという時に取り込むための心の準備だろうか。
昔話の多くからは能動的ではなく、受動的な態度が重んじられているようにも思う。
つまり、私たちは人生の中で受動的に与えられた環境をもとに受け入れ、その中でいざという時に動く心構えを感じ取っておくべきなのだろうか。

受動的。これはわが国特有の人生への考えにも通じている気がする。
これらの昔話には、天変地異への備えや諦めといった日本人がわきまえておくべき態度が含まれていない。だが、積極的に自らの人生を変えていこうとする意欲や取り組みの大切さは主張していない。少なくとも本書からはその大切さはあまり感じられない。

こうした本書の癖を考えてみた時、実は本書は代表的な話を百話選んだだけで、まだまだ昔話の豊潤な世界には限りがないのだと思う。

‘2020/03/09-2020/03/23


殺人鬼フジコの衝動


女性が生きていくには、美しく健やかな生き方だけでは足りない。したたかで醜くなくては。

男性からは書きにくい、女性の生の実情。著者は汚れた部分も含め、生きていくために必要なあらゆるきれいごとを排した負の側面を女性ならではの視点から描く。

藤子は育児放棄寸前まで親から見捨てられ、学校ではありとあらゆるいじめを受けていた。それは裸にされて性器をいじられると言う、もはやいじめのレベルを超えたいじめ。
本書の前半部分を読み通すのは、相当の覚悟が必要だ。この救いのない藤子への扱いがいつまで続くのか。読者は小説が早く明るい方向へ切り替わってほしいとすら思うはずだ。

藤子の受難は、両親と妹が殺されたことによって次の段階へと進む。孤独の身になった藤子を救ってくれたのは伯母。伯母のもとで暮らすことになった藤子は引っ越し・転校する。そして同情という得難い武器を得る。同情によっていじめられる必要がなくなった藤子は、新たな学校で立場を得ることに成功する。そこでは打算だけを頼りにクラス内で地位を得ようとする藤子の姿が描かれる。その立ち回り方は醜く、人気者も裏に回れば汚れている。
女の子がクラスでうまく立ち回るには、清く正しくではやっていけない残酷な現実。著者はそれらも含めて冷酷に描いていく。

学校を卒業し、仕事や友人、恋人にも恵まれる藤子。ところが、恋人と友人との間で三角関係の複雑さに襲われ、ついには殺人に手を染める。どこまでも運命は藤子を更生から遠ざける。凄惨な死体処理を恋人と二人で行う中、恋人は藤子を恐れ、藤子に秘密を掴まれたとおびえるあまり、まともな社会生活を送る気力を奪われる。さらに恋人の親は資産家ではなく、元資産家でしかなかった事実。
単なるヒモに成り下がる恋人との殺伐とした毎日。

この時点で藤子の人生には選択肢がなくなってしまう。この結末を藤子のせいにするのか、それとも環境のせいにするのか。
決して自分の母のようにならないと誓っていたはずなのに、事態はどんどんと藤子の意に反する方向へと進んでいってしまう。

そんな藤子の姿は、生命保険の外交員スカウトも引き寄せる。新たなる仕事への勧誘。ところが羽振りの良さそうなスカウトも、裏側では悲惨な日々を過ごしている。子育てどころか、ネグレクト。藤子が幼い頃に受けたような悲惨な境遇をしなければならない虚栄に満ちた日々。
恋人との間に生まれた美波を異臭がするまで押し入れに閉じ込め、行き着く先は謎の失踪。

ここまで徹底的な転落劇を描いておいて、著者は藤子に何も救いを与えない。それどころか読者も闇に引き摺り込もうとしているのではないか。
読者はこの希望が見えない小説から何を汲み取ろう。何を教訓としよう。

刹那のお金を得るためなら、いとも簡単に目の前の人物を殺す。目の前の理不尽な現実を凌ごうとする藤子の生き方はすでに修羅。夜の蝶になってもそれは変わらない。すぐに化けの皮が剥がれ、それを糊塗するために次の犯罪に手を染める。

終わりのない地獄の日々は、ある日終わりを告げる。
続いて登場するのは、藤子の娘とされる著者。そもそもこの本は藤子を描く目的で描かれていた。
そこから後は、興を削いでしまうので書かないが、本書にはある仕掛けが施されている。この救いのない小説を、その仕掛けを味わうために読むということもありかもしれない。
小説とはあらゆる現実を切り取る営みだと考えれば、救いがない物語の中にも真実はあると見るべきだろう。

例えば本書の藤子の姿を見て、自分より下がいると安堵する読者もいるだろう。藤子の境遇に比べれば、自分の人生などまだマシと前向きになれる人もいるはずだ。または、自らの人生のこれからに起こりうる苦難や障害を本書から読み取り、避けてゆくために本書を役に立てると言う人もいるはず。

読みあたりが良く、感動できることだけが小説ではない。余韻は強烈に悪いけれども、印象に残るのならまたそれも小説。
著者の作品は他には読んだことはないが、大体似たような作風だと言う。また読んでみようと思うのかどうか、今の時点で私にはわからない。

だが、この救いようのない時代を生きる者の1人として、こうした人生を送っていたかもしれない可能性。こうした人生もまたありうるのだと思える想像力。それは本書のような小説を読まない限り決して触れることのない領域だろう。

それはまた、今の社会制度の歪みでもあり、教育制度の欠陥かもしれない。もちろん、資本主義そのものが人類にとって害悪なのかもしれない。人の心の度し難い弱さや醜さを見てとることも簡単だ。
事実からは事実に即した答えしか出てこない。フィクションは著者の想像力に委ねられるため、逆に事実に束縛されず、読者が自在に教訓を受け取ることができる。

雑誌や新聞のルポルタージュからは読み取れない人生の大いなる可能性。それこそが小説というメディアの秘める可能性だと思う。

‘2020/03/06-2020/03/08


アンジェラの灰


文書はピューリッツァー賞受賞作だそうだ。
伝記部門で受賞した。

1930年に生まれた著者が68歳の時に発表した自伝だそうだ。
著者は長い間教師を勤めた方で、物語を書くのは初めてだそうだ。だが、教師人生の中で英文の授業を担当してきた。あらゆる国から来た生徒たちに英語を教える手法の一つに、親の伝記を書いてみる指導を行っていたらしい。
その中で著者も、自分自身の自伝を何回も書いていたそうだ。それが本書の底になっているということを解説で知った。

冒頭にこのような一文がある。
「惨めな子供時代だった。だが、幸せな子供時代なんて語る価値もない。アイルランド人の惨めな子供時代は、普通の人の惨めな子供時代より悪い。アイルランド人カトリック教徒の惨めな子供時代は、それよりももっと悪い。」(7ページ)

アイルランドと言えば19世紀半ばのジャガイモ飢饉による人口減で知られる。人がたくさん亡くなり、アメリカなど諸外国への移民が大量に発生したためでもある。
本書のマコート一家も一度はニューヨークへ移住する。だが、すぐにアイルランドに戻ってきてしまう。

なぜか。父のマラキが無類の酒飲みだったから。

飲んだくれの父親に振り回される家族の悲劇。昔からのよくある悲劇の一形態だ。本書は父の酒飲みの悪癖が、主人公や主人公の母アンジェラを苦しめる。その悲惨な毎日の中でどのように子供たちはたくましく生き延びようとするのか。

給与を必ず持って帰ると言いながらもらったその場ですぐに飲み代に使ってしまうだらしない父。それでいて、避妊など知らないので次々と母の体内に子供を増やしていく。主人公のフランク、弟のマラキ、双子のマイクルとアルフォンサス。さらにマーガレットと名付けられた妹やオリバー、ユージーンという弟もいたが、三人は幼い頃になくなってしまう。もちろん、劣悪な環境のためだ。

幼い子供たちを育てながら、三人の子供を亡くしながら、頼りにならない夫をあてにせず生き抜こうとする母。

およそ自覚が欠けており、夫として親として頼りがいのない父。でも、子供たちにとっては父は最大の遊び相手。遊んでほしいと父を求める姿がとてもいじらしい。

子供たちも母を助けるために、クリスマスの日に金を稼ぐ。石炭が運搬される道に沿ってこぼれた石炭を拾い集める仕事。真っ黒になってびしょ濡れになって帰ってくる。息子たちが金を稼いできても、父は動かない。たとえお金がなくなっても恵みを受けるような仕事はプライドが許さないからだ。
プライドが高く、それでいて生活力がない。まさに絵に描いたようなダメ親父だ。

本書は、カトリックの文化の中で育つ主人公の物語だ。そのため、カトリックの文化に則った出来事が多く描かれる。例えば初聖体受領、さらに信心会への出席。堅信礼。

ところが、カトリック文化は酒を許容する。まるで人を救ってくれるのは神だけでは足りないとでも言うように。酒も必要だと言うように。
父はそうした背景に甘え、赤ん坊ができても気にせずに酒に溺れて帰ってくる。
主人公が10歳を過ぎる頃にはもう父は、尊敬すべき対象ではなくなっている。

私も酒が好きだ。そのため、本書の描写はとても身につまされた。
アイルランドは、今でもアイルランド・ウイスキーの産地として知られる。もちろんギネス・ビールの産地としても。

酒は百薬の長と言うが、退廃を呼び覚ます悪い水でもある。
酒の悪い側面を本書で見せられると、暗澹とした気分になる。
私は幸いにして酒にそこまで溺れずに済んだ。
本書は、酒文化の悪い面を示すには格好の教材なのかもしれない。

ちょうど本書の描かれている時代は、アメリカの禁酒法の時代だ。なぜ禁酒法が生まれたのかを知るためには、悲惨な目にあうマコート一家の様子を見れば良い。
もちろんその原因の大部分は父の意思の弱さがあるのだろう。だが、そもそも酒があるからいけないのだ、とする考えが禁酒法の根底にはある。

その一方で主人公は徐々に成長する。チフスによる入院も乗り越え、角膜炎による失明の危機を乗り越え。性に対して興味を持ち、徐々に母のために家計を手伝うようになる。

電報配達の仕事を通じ、自分の家以外のさまざまな家庭の内実を知る。そこで童貞を捨て、別の仕事(借金の督促状の執筆)を受ける。主人公にはすでにアメリカに渡る明確な目標があるので、それに向け、何で身を立てていくのかが見えてくる。それは文章を作成する能力だ。

本書は相当に分厚い本だ。だが、読み始めるとあっという間に読み終えてしまう。まさにそれこそが、主人公が培った文章作成能力の結果だろう。

絶望の中でも仕事は与えられるし、そこからチャンスは転がっている。本書は、主人公がアメリカに向かうところで終わる。
19歳の主人公が酒に興味を持つ兆しはない。おそらく父を反面教師としているからだろう。

本書には続編があるらしいが、そうではアメリカで主人公が経験したさまざまな苦難が描かれると言う。また読んでみたいと思う。

‘2020/03/01-2020/03/05


女信長


実は著者の作品を読むのは本書が初めてだ。今までも直木賞作家としての著者の高名は知っていたけれど。
著者の作品は西洋史をベースにした作品が多い印象を持っていて、なんとなく食指が動かなかったのかもしれない。

だが、本書はタイトルが興味深い。手に取ってみたところ、とても面白かった。

織田信長といえば、日本史を彩ったあまたの英雄の中でもだれもが知る人物だ。戦国大名は数多くいる。その中で五人挙げよといわれた際に、織田信長を外す人はあまり多くいないはずだ。
戦国時代を終わらせるのに、織田信長が果たした役割とはそれほど偉大なのである。

以下に織田信長の略歴を私なりにつづってみた。
尾張のおおうつけと呼ばれた若年の頃、傅役である平手正秀の諌死によって行いを改めた挿話。
弟を殺すなどの苦戦を重ね、織田家と尾張を統一したと思ったのもつかの間、今川義元の侵攻が迫る。勢力の差から織田家など鎧袖一触で滅ぼされるはずだった。
ところが桶狭間の戦いで見事に今川義元を討ち取る功を挙げ、さらに美濃を攻め取り、岐阜城に本拠を移す。そこで天下布武を印判に採用し、楽市楽座の策によって岐阜を戦国時代でも屈指の城下町に育てる。
そこから足利義昭を奉じて京に足掛かりを築くと、三好家や松永家を京から駆逐する。さらには姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を敗走させ、基盤を盤石にする。
比叡山を攻めて灰塵と化し、石山本願寺も退去させ、長篠の戦で武田軍を打ち破り、安土城を本拠に成し遂げた織田政権の樹立を目前としたまさにその時、明智光秀の謀反によって業火の中に消えた、とされている。いわゆる本能寺の変だ。

その衣鉢を継いだ羽柴秀吉が天下統一を成し遂げ、さらにその事業は徳川家康によって整備された。江戸幕府による260年の平安な時代は、織田信長の偉業を無視しては語れないだろう。
織田が搗き、羽柴がこねし天下餅 座りしままに喰らう徳川
この狂歌は徳川幕府による天下取りが実現した際に作られたという。
当時の人にも徳川政権の実現は、織田信長による貢献が多大だったことを知っていたのだろう。

そうした織田信長の覇業の過程には、独創的な発想や、疑問とされる出来事が多いことも知られている。

独創的な発想として挙げられるのは、たとえば楽市楽座だ。他にも西洋の軍政を取り入れたことや、種子島と呼ばれた鉄砲の大規模な導入もそう。
疑問とされる出来事として挙げられるのは、たとえば正妻である濃姫が急に史実から消え去り、没年すら不明であること。また、本能寺の変によって燃え盛った本能寺の焼け跡から、織田信長らしき死骸が見つからなかったことも挙げられる。
そもそも、なぜ明智光秀が本能寺の織田信長を襲ったのか。その根本的な理由についても諸説が乱立しており、いまだに定説がないままなのだ。

そうした一連の謎をきれいに解釈して見せ、まったく新しい歴史を読者に提示して見せる。それが本書だ。ただ、織田信長が女だったという一点で整合性が取れてしまう。これぞ小説の面白さ。

もちろん、織田信長が女だったことを史実として認めることは難しいだろう。だが、歴史小説とは史実を基にした壮大なロマンだ。著者によってどのような解釈があったっていい。
源義経は衣川から北上し、大陸にわたって成吉思汗にもなりうる。徳川家康は関ケ原で戦死し、それ以後は影武者が務めることもありうる。豊臣秀頼は大坂夏の陣で死なず、ひそかに薩摩で余生を送ったってよい。西郷隆盛は城山で切腹せず、大陸にわたって浪人として活躍するのも面白い。
その中にはひょっとしたら真実では、と思わせる楽しさがある。それこそが歴史のロマンである。小説の創作をそのまま史実として吹聴するのはいかがなものかと思うが、ロマンまでを否定するのは興が覚める。

本書は、織田信長が女性だったという大胆極まりない設定だけで、面白い歴史小説として成り立たせている。
冒頭で、娘を嫁がせた尾張の大うつけを見極めてやろうとした斉藤道三に女であることを見破られる。そして処女を散らされる織田信長こと御長。この冒頭からして既にぶっ飛んでいる。

だが、そこで斉藤道三の心中を丁寧に描写するのがいい。その描かれた心中がとても奮っている。
群雄たちがせいぜい、ただ領地を切り取るだけの割拠の世。これを打破するには、まったく違う発想が必要。そうと見切った織田信秀が、男の発想では生まれない可能性を女である御長に託したこと。その意思を斉藤道三もまた認め、御長には自らが亡きあと美濃を攻め取るよう言い残したこと。
まさにここが本書の最大の肝だと思う。
冒頭で信長の発想が女の思考から湧き出たことを読者に示せれば、あとは歴史の節目節目で信長が成した事績を女の発想として結び付ければよい。

そして、信長について伝えられた史実や伝聞を信長が女性だったと仮定して解釈すると、不思議と納得できてしまうのだ。
たとえば信長の妹のお市の方は戦国一の美女として名高く、兄である信長は美形だったとされている。
また、信長は声がかん高かったという説がある。その勘気に触れると大変であり、部下はつねに戦々恐々としていたという。そして先にも書いたような当時の常識を超えた政策や行いの数々。
それらのどれもが、信長が女という解釈を可能にしている。

本稿ではこれから読まれる方の興を殺がないように、粗筋については書かない。

本書は、信長が女だったらという解釈だけで楽しめる。それはまさに独特であり、説得力もある。本当に織田信長は女性だったのではないか、と思いたくなってしまう。本書はおすすめだ。

‘2020/02/27-2020/02/29


「ご当地もの」と日本人


本書を読んでいる最中、商談の後に神奈川県立歴史博物館を訪れた。
「井伊直弼と横浜」という特別展示をじっくり楽しんだ。

すると、神奈川県立歴史博物館のゆるキャラこと「パンチの守」が現れた。私は館内を鷹揚に巡回する「パンチの守」を追った。「パンチの守」が博物館の表玄関に出て迎えたのは彦根市が誇るゆるキャラこと「ひこにゃん」だ。
全くの偶然で二体のゆるキャラの出会いを見届けられたのは望外の喜びだった。
しかもそのタイミングが本書を読んでいる最中だった。それは何かの暗合ではないかと思う。

私はゆるキャラが好きだ。地方のイベントでも会うたびに写真を撮る。

私が好きなのはゆるキャラだけではない。

私は旅が大好きだ。月に一度は旅に出ないと心身に不調が生じる。
ではなぜ、旅に出るのか。それは日常にない新奇なものが好きだからだ。

日常にない新奇なものとは、私が普段生活する場所では見られないものだ。その地方を訪れなければ見られないし、食べられないもの。それが見たいがために、私はいそいそと旅をする。

例えば寺社仏閣。博物館や城郭。山や海、滝、川、池。美味しい名物や酒、湯。珍しい標識や建物。それらは全てご当地でしか見られないものだ。
もちろん、食べ物や酒はアンテナショップに行けば都内でも味わえる。郷土料理のお店に行けば現地で食べるのと遜色のない料理が味わえる。
でも違う。これは私の思い込みであることを承知でいうが、地方の産物はやはり地方で味わってこそ。

他にもご当地ソングやご当地アイドルがある。地方に行かなければ存在にも気づかない。でも、現地に行けばポスターやラジオで見聞きできる。

私などは、ご当地ものが好きなあまり、地方にしかない地場のスーパーや農協にも行く。必ず観光案内所にも足を運ぶ。もちろん駅にも。

そうした私の性向は、ただ単に旅が好きだから、日常にないものが好きだから。そう思っていた。

だが、著者は本書でより深い分析を披露してみせる。
著者によると、ご当地意識の発生については、律令国家の成立の頃、つまり奈良時代にまで遡れるという。
当時、大和朝廷には各地から納められた物品が届いていた。いわゆる納税だ。租庸調として知られるそれらの納税形態のうち、調は各地の名産を納めることが定められていた。
地方からの納税の形で、大和には各地の風物の彩りに満ちた産物が集まっていた。

大和が地方を統べるためには、役人も派遣する。国司として赴任する役人も、地方と大和の赴任を繰り返していた。地方ではその地の新鮮な産物を楽しんでいたはずだ。例えば魚は、大和では干物でしか手に入らないが、現地では生魚として刺し身で味わえたことだろう。干物とは違う新鮮な風味に満足しながら。

各地の名産を納めさせるためには、その地の状況を把握しなければならない。だから、各地の風土記が編まれた。著者はそう推測する。

大和朝廷と地方を行き来する役人の制度は、江戸時代になり参勤交代が制度に定められたことで強固なものとなった。それが260年近い年月も続けられたことにより、日本人の中にご当地意識として根付いたのだと著者は説く。

実際、他の国々では日本ほどご当地にこだわらないのだという。その理由を著者は、日本の国土が東西南北に広く、海と山の多様な起伏に恵まれているため、土地によって多様な産物があるためだと考えている。

江戸時代から各地の産物の番付表があったこと。春夏の甲子園が地方の代表としての誇りを胸に戦うこと。県民性の存在が科学的に実証されていること。地域性を実証する団体として、県人会の集まりが盛んであること。

そう考えると、私も東京に住んで二十年近くになるが、いまだに故郷への愛着は深い。マクドナルドはマクド。野球は阪神タイガース。そのあたりは譲れない。

私は、クラウドを使ったシステム構築を専業にしている。だから、合理的な考え方を尊んでいるつもりだ。だが、故郷への愛着はそうした合理性の対象外だ。そもそも比べること自体がナンセンスで、価値の範疇が違っている。
それは当然、私だけでなく日本の多くの人に共通した考えだと思っている。

東京は私のように各地から集った人の持ち寄る文化や価値の違いが渦を巻いている。顔には出さずとも、それぞれが違う県民性を抱く人の集まり。だからこそ、各人が鎧をまとって生きている。皆が仮面をかぶって生活をしているから、こんなに冷たい街になったのだ、という論はよく聞く。

著者は本書でさまざまなご当地ものの実情を挙げていく。その中で、ご当地ものにも光と影があることを示す。
ゆるキャラの成功が経済効果をもたらした自治体もあれば、いつのまにかひっそりと姿を消し、お蔵入りを余儀なくされたゆるキャラもいる。

また、商品に産地を名付けることの規制が整っていないこと。それが傍若無尽な産地を騙った手法の蔓延につながっていることにも警鐘を鳴らす。
著者が例として示すように、縁日の屋台に描かれた富士宮焼きそばや中津から揚げの文字は本当に産地の製法を使っているのかという疑問はもっともだと思う。さらにいうと、製法はその土地の手法をまねていても、果たして素材はその土地のものなのか。つまり地産地消でなくても良いのか、という疑問まで生じる。

また、ゆるキャラの著作権の問題も見過ごされがちだ。本書ではひこにゃんの著作権訴訟も取り上げている。著作権について述べられている章は、私が神奈川県立歴史博物館でひこにゃんを見てすぐに読んだため、印象に残る。

今、戦後の経済発展が、似たような街をあちこちに作ってしまった反動がご当地キャラに現れているとの分析はその通りだと思う。各地が画一的だからこそ、無理やり地域に結びつけた名物を創造し、違いを打ち出す必要に駆られている。それが今のゆるキャラの過当競争になっている事実など。

著者はそうした負の面をきちんと指摘しつつ、地域の多彩な名物が日本の魅力の一つとして、諸外国にアピールできる可能性も指摘する。
オリンピックを控えた今、日本には有名観光地だけでない魅力的な場所を擁していることも。

地方の活性化をなんとかしてはかりたい、東京一局集中の弊害を思う私には、本書は参考となった。

‘2020/02/21-2020/02/26


闇に香る嘘


本書は乱歩賞を受賞している。
それも選考委員の満票一致で。
私もそれに同意する。本書はまさに傑作だと思う。

そもそも私は、本書を含めて全盲の視覚障害者の視点で描かれた小説を読んだ記憶がない。少なくとも本書のように全編を通して視覚障碍者の視点で描かれた小説は。
巻末の解説で有栖川有栖氏が谷崎潤一郎の「盲目物語」を挙げていたが、私はまだ「盲目物語」を読んだことがない。

視点が闇で閉ざされている場合、人はどう対処するのだろう。おそらく、自分の想像で視野を構成するのではないだろうか。手探りで、あるいは杖や記憶を頼りとして。
それでも、健常者に比べて情報の不足は歴然としている。

私も本書を読んだ後、目を閉じて少し移動してみた。だが、たったそれだけのことが大変だった。
暗闇の視野の中、街を歩くことを想像するだけで、もう無理だと思ってしまう。ましてや、謎解きなどとんでもない。
視覚情報を欠いて生きることは、とても不便なのだ。

本書が描くような闇の中を手探りで行動する描写を読むと、普通の小説がそもそも、正常な視点で語っていることに気づく。その当たり前の描写がどれだけ恵まれていることか。
全盲の人から見た視野で物語を描くことで、著者は健常者に対して明確な問題意識を提示している。
本書は、健常者に視覚障碍者の置かれた困難を教えてくれる意味で、とても有意義な小説だと思う。

もう一つ、本書が提示しているテーマがある。それは、中国残留孤児の問題だ。
太平洋戦争が始まる前、政府の募集に応じて満洲や中国大陸に入植した人々がいた。それらの人々の多くは敗戦時の混乱の中現地に放置された。親とはぐれるなどして、現地に放棄された人もいる。ほとんどが年端のいかぬ子どもだった。彼ら彼女らを指して中国残留孤児という。
彼らは中国人によって育てられた。そして成長してから多くの人は、自らのルーツである日本に帰国を希望した。
私が子どもの頃、中国残留孤児の問題が新聞やニュースで連日のように報じられていた事を思い出す。

彼らが親を見つけられる確率は少ない。DNA鑑定も整っていない1980年初めであればなおのこと。
双方の容貌が似ているか、もしくは肉親が覚えている身体の特徴だけが頼りだった。
当然、間違いも起こり得る。そして、それを逆手に他人に成り済まし、日本に帰国する例もあったという。

幼い頃に比べると顔も変化する。ましてや長年の間を離れているうちに記憶も薄れる。
ましてや、本書の主人公、村上和久のように視覚障碍者の場合、相手の顔を認められない。
そこが本書の筋書きを複雑にし、謎をより魅力的な謎に際立たせている。
視覚障碍者と中国残留孤児の二つを小説の核としただけでも本書はすごい。その着想を思いついた瞬間、本書は賞賛されることが約束されたのかもしれない。

自らの孫が腎臓移植を必要としている。だが孫のドナーになれず、意気消沈していた主人公。さらに、血がつながっているはずの兄は適合検査すらもかたくなに拒む。
なぜだろう。20数年前に中国から帰国した兄。今は年老いた母と二人で住んでいる兄は、本当に兄なのだろうか。

兄が検査を拒むいくつかの理由が考えられる。背景に中国残留孤児の複雑な問題が横たわっているとなおさらだ。その疑心が主人公を縛っていく。兄と自分の間にしがらみがあるのだろうか。それとも、兄には積りに積もった怨念があるのだろうか。
それなのに、村上和久にはそれを確かめる視野がない。すべては暗闇の中。

そもそも、視覚でインプットされる情報と口からのアウトプットの情報との間には圧倒的な断絶がある。
私たち健常者は、そうした断絶を意識せずに日々を暮らしている。
だが、主人公はその断絶を乗り越え、さらに兄の正体を解き明かさねばならない。
なぜなら、孫娘に残された時間は少ないから。
そうした時間的な制約が本書の謎をさらに際立たせる。その設定が、物語の展開上のご都合を感じさせないのもいい。

中国残留孤児のトラブルや思惑が今の主人公にどう絡み合っているのか。そこに主人公はどのように組み込まれているのか。
そうした相関図を健常者の私たちは紙に書き出し、ディスプレイで配置して把握することができる。だが、主人公にはそれすらも困難だ。
そのようなハンディキャップにめげず、主人公は謎の解明に向けて努力する。その展開に破綻や無理な展開はなく、謎が解決するとまた新たな謎が現れる。

目が見えない主人公が頼りにするのは、日々の暮らしで訓練した定位置の情報だ。
だが、それも日々の繰り返しがあってこそ。毎日の繰り返しからほんの少しでも違った出来事があるだけで主人公は異変を察知する。それが謎を解く伏線となる。
主人公の目のかわり、別居していた娘の由香里も担ってくれるようになる。あるいは謎の人物からの点字によるメッセージが主人公に情報を伝える。

白杖の石突きや踏み締める一歩一歩。あるいは手触りや香り。
本書にはそうした描写が続出する。主人公は視覚以外のあらゆる感覚を駆使し、事件の真相の手がかりを求める。
その五感の描き方にも、並々ならぬ労力が感じられる。実に見事だ。

本書の解説でも作家の有栖川有栖氏が、著者の努力を賞賛している。
著者は幾度も新人賞に落選し続け、それでも諦めず努力を続け、本作でついに受賞を勝ち取ったという。
そればかりか、受賞後に発表した作品も軒並み高評価を得ているという。

まさに闇を歩きながら五感を研ぎ澄ませ、小説を著すスキルを磨いてきたのだろう。
それこそ手探りでコツコツと。

あり余る視覚情報に恵まれながら、それに甘えている健常者。私には本書が健常者に対する強烈な叱咤激励に思えた。
ましてや著者は自らの夢を本書で叶えたわけだ。自分のふがいなさを痛感する。

‘2020/02/19-2020/02/20


初めてでもグングンわかる経理・簿記のツボ


本書は、先日に読んだ「一番やさしい簿記」に続いて読んだ会計の一冊だ。

「一番やさしい簿記」は、仕訳について重きを置いていた。何度も何度も読者に仕訳の練習問題を解かせることで、基本を理解させることに重きが置かれていた。(一番やさしい簿記レビュー
おかげで私は、かつて取得した簿記三級の知識を思い出すことができた。

本書はより専門的に経理業務を解説した本だ。本書が取り扱う経理業務の範囲は、経理業務の全体に及んでいるように見受けられる。
本書はもちろん仕訳についての説明がなされている。だが、「一番やさしい簿記」に比べるとその割合は少ない。せいぜい、本書全体の五分の一程度だろうか。

その分、本書は、仮払いや取引、預金取引、手形管理、販売管理、与信管理といった各勘定科目の内容について説明する。

売上や仕入の管理、消費税や役員報酬、給与支払、保険給付、請求書、減価償却、固定資産の管理など、経理の業務には仕訳以外にも覚えることが多い。
「一番やさしい簿記」を読んでから、本書を手に取った私の順番は間違っていなかった。

経理の各勘定科目の種類。技術者としてクラウド会計ソフトを操るにあたっては知っておくべきだ。他のクラウドシステムと連携させる際は特にこの知識が求められる。
そうした意味でも本書は役に立った。
特に弊社が採用している会計freeeは、左右の貸方借方を釣り合わせる複式簿記とは違う設計思想で作られている。ということは、そもそもの貸方借方の概要を知っておく必要がある。
セミナー登壇、ブログ執筆、動画作成と私自身が会計freeeの解説者のような立場である以上は。

取引をどのように仕訳として連動させるのか。
会計freee内で導かれた最終的なアウトプットを、どのように他のシステムにつなげれば良いのか。
会計を扱う技術者として、覚えるべき知識は多い。

そこで疑問が生じる。
経営者としては、どこまで経理の実務に精通すべきか。
私のような半人前の経営者にとっては悩みどころだ。

当然、本来ならば経理も経理の専門家に任せるべきだろう。
弊社の場合、顧問税理士の先生に経理の処理はすべてをお任せしている。

経理のデータは経営上の判断のために必要だ。その元となるデータは仕訳の作業の積み重ねから生まれる。その仕訳処理は経理ソフトやクラウド会計ソフトが自動的に行ってくれるようになった。
さらに、上に挙げた各勘定科目の内容については、税理士の先生がすべてを取り仕切り、しかるべき科目に振り分けて決算資料に導いてくれる。

では、経営者が本書から学ぶべき内容はどこにあるのだろう。
技術者として本書から得るべき要は何なのだろう。

経理の実務に経営者自らがあたる必要はない。それにもかかわらず経営者は、その勘定科目が何を表しているのか程度の最低限の知識は持っておくべきだと思う。
なぜなら、財務諸表は会社の状況を見るために欠かせない項目だからだ。
財務諸表の各勘定科目が何を意味しているのかわからなければ、会社の状況もわかるはずがない。
そして会社の状況が把握できなければ、会社を誤った方向へと進めかねない。それは経営者としての命取りとなる。

だから本書を読むことで、経営者は経理の実務よりも、勘定科目が何を対象とし、どういう目的で行われているのかを理解することが肝要だと思う。

当然のことだが、営業活動によって生まれた売上はすぐに入金とはならない。売掛金として収益に計上されるが、手元で自由に扱える資産にならない。
買掛金も支出になるが、負債にならない。
後日、入金があり次第、仕訳のルールに基づいてしかるべき勘定科目に記載される。売掛金は収益から資産へと。買掛金は負債から支出へと。

同様に、そのことは会社のキャッシュフローを把握する考えにもなる。
キャッシュフローを見誤って投資のタイミングを誤れば黒字なのに倒産してしまう。

また、投資する際も経理上の勘定科目の場所を間違えると、財務諸表で会社の財務に誤ったインパクトを与えてしまう。
もちろん、そうした事態を未然に防ぐために税理士の先生がいる。弊社も顧問料をお支払いしている。
だが、そこで顧問契約を結んでも、何をしてもらっているのかわからないようなら、支払う意味が半減する。
そうした意味からも、本書が扱う程度の知識は経営者として把握しておくべきなのだろう。

本書を読むきっかけとなったfreee & kintone BizTech Hackは四回に渡って催され、オンラインハンズオンの講師を二度、スタッフを二度務めた。任務は無事に終了した。
ハンズオンの中では、kintoneで作った取引データのステータスを請求まで進め、その時点でfreee上に取引データを作った。勘定科目を売掛金として。
ところが、参加してくださっていた税理士の方から、勘定科目は売上高の方が良いのでは、という意見をいただいた。
つまり、私自身の理解はまだまだ足りていない、ということなのだろう。
実際、上で偉そうに経営者が持つべき財務諸表の知識を語ったが、私が持つ経理の知識は足りない。私の財務の知識など、まだ個人の家計の延長でしかない。
経営者として学ぶべきことは多い。

さらに、私は技術者としてどういう知識を学ぶべきか。会計や経理の知識を今後どう学んでいけば良いのか。それをfreeeにどう活かしていけば良いのか。
それには経理や簿記を学ぶしか道はないと思っている。

その結果、私は簿記二級の取得にチャレンジすべきか。
そして、そもそも本書の内容に熟達すれば、簿記二級は合格できるのだろうか。

おそらくそうした点まで理解して初めて本書を読み切ったと言えるはずだ。
今の私にはまだまだ遠く及ばぬ域だ。

‘2020/02/18-2020/02/18


蒼き狼


著者の書く文章が好きだ。
端正でいて簡潔。新聞記者から小説家になった経歴ゆえ、まず伝わる文章を徹底的に鍛えられたからだろうか。読んでいて安心できる。

そうした、端正な文章が、地上最大の帝国ともいわれるモンゴル帝国を一代で築き上げたチンギス・ハーンをどう描くのか。前々から本書は一度読んでみたいと思っていた。ようやくこの機会に一気に読み終えることができた。

本書の主人公はテムジン(鉄木真)だ。テムジンはモンゴルの一部族を率いるエスガイとその妻ホエルンの間に生まれた。
当時のモンゴルはさまざまな部族が争っており、中国の平原を治めていた金からすれば与し易い相手だった。
たまにモンゴルと金の間で小競り合いが起こる度、部族の首長の誰かが惨たらしく殺されていた。
口承による伝達が主だった当時のモンゴルで、先祖が惨たらしい目にあった悲劇が伝えられる。何度も何度も。話を聞かされる間に、幼いテムジンに金への憎しみを植えつけていった。

もう一つ、テムジンには悩みがあった。
生まれた頃、母ホエルンはメルキト部に拉致された。メルキト部の男たちに犯され、すぐにエスガイに奪還された。そしてテムジンを産んだ。
つまり、テムジンの父はエスガイなのか、それとも他の誰かなのか。誰にもわからない。幼いテムジンがふと知ってしまったこの疑惑に、テムジンは死ぬまで悩み続ける。
本書はエスガイとホエルンを描くことから筆を起こし、テムジンの出生の悩みのみなもとを描いている。

テムジンが幼い頃から聞かされ続けた伝承は他にもある。
「上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる慘白き牝鹿ありき」
で始まる伝承。それは祈祷の形をとっていた。その話を聞かされ続けるうちに、テムジンの胸にはモンゴル部に生まれた誇りが燃え盛っていった。それとともに、蒼き狼の子孫として恥じぬように生きたい、との思いも。

ところが、自らの血にメルキト部の誰ともしれぬ血が混じっているかもしれない。その恐れがテムジンを苛んでゆく。
その恐れこそが、テムジンの飽くなき征服欲の源泉であり、生涯をかけてテムジンを駆り立てた。そのテーマを掘り下げるため、著者はテムジンの心をむしばむ疑いを何度も違う角度から掘り下げる。

エスガイの不慮の死により、モンゴル部はテムジンとエスガイの係累を除いていなくなってしまう。
テムジンの身の回りの肉親だけになってから、少しずつ勢力を盛り返してゆくモンゴル部。必死に勢力を戻そうとするテムジンの奮闘が描かれる。

あらゆる人や組織の一代記に共通することがある。
それは、若年期や創業期の試練を丁寧に描くことだ。最初の頃は試練が続き、歩みも遅い。
それがある一点を超えた途端、急速に発展していく。加速度がつくように。

それは自分自身にスキルが身につき、はじめは苦労していたことがたやすく成し遂げられるようになるため。
もう一つは経験が人を集め、それを活用することでさらなる成長につながるため。
それは私自身の人生を顧みてもわかる。

伝記に費やされる字数も同じだ。苦労して成長の歩みが遅い時期は濃密に描かれるため、速度も遅い。
だが、一度軌道に乗った後は濃度が薄くなり、読む速度も加速する。

本書もその通りの展開をたどっている。
だが、著者は規模が大きくなったモンゴル部を描くにあたり、ある工夫を施している。そのため、立ち上がりの苦労をして以降の本書は、濃度を薄めずに読みごたえを保つことに成功している。
それは長男のジュチは、果たしてテムジンの血を受け継いだ息子か、という疑問だ。
テムジンの妻ボルテも、結婚の前後に他部族に拉致された。それはテムジンの母ホエルンがたどった軌跡と同じ。

自分の血ですら定かではないのに、自らの長男もまた同じ運命にとらわれてしまう。

ジュチは、父が自分に対して他の兄弟とは違う感情を抱いていることを察する。そのため、自分が父の息子であることを証明するため、なるべく困難で試練となる任務を与えてほしいと願う。
その心のうちを承知しながら、あえて息子を遠くに送り出す父。

本書を貫くテーマは、父と息子の関係性だ。それが読者の興味を離さない。

もう一つは、男女の役割のあり方だ。草原に疾駆するモンゴルの男にとって、子育ての間に自由に動けない女はとるに足らない存在でしかなかった。
その考えにテムジンも強く縛られている。それは彼の行動原理でもある。敵の女は全てを犯し、適当にめとわせる。
ところが、メルキト部を破った後に得た忽蘭(クラン)は違った。それは女ではあるが、自分の意思を強く持っていることだ。従順なだけで手応えのないそれまでに知った女性とは違う存在。

忽蘭は戦地であっても側においておかねば死ぬといい、従軍もいとわない。そんな忽蘭はテムジンを引きつけ、数ある愛妾の中でも寵愛を受ける。

だが、忽蘭がテムジンの子を身ごもったことで、二人の関係に変化が生じる。
そうした描写からは、今の感覚でいくら平等を唱えようとも、生物が縛られる制約だけはいかんともしがたい運命が見える。
そうした生物の身体に関する不平等は、力こそが全てで、衝動と本能のままに動く当時のモンゴル帝国では当たり前の考えのだからこそ、鮮やかに浮き上がってくる。

文明に慣れ、蒼き狼でも白き牝鹿でもない現代人にとって、男女平等の考えは当たり前だ。
だが、この文明が崩壊し、末法の世に陥った時、男女のあり方はどう変わってゆくのか。
本書から考えさせられた点の一つだ。

また、本書は文化の混淆もテーマになっている。
本書の終盤では、モンゴル帝国の版図が拡大するにつれ、遠いホラズムとも交流が生じた。そのホラズムの文物に身を包む雄々しきモンゴルの武将たちの姿に違和感を抱いたテムジン、あらためチンギス・ハーンが、自分だけはモンゴルの部族のしきたりに従っていこうと決意する姿が描かれている。
版図が拡大すると、違う文化に触れる。それはまさに文化の混合の姿でもある。

今やその混合が極点に達した現代。現代において急速に混じり合う文化のありようと、モンゴルが武力でなし得た文化の混合のありようを比較すると興味深い。

本書の巻末には著者自身による「『蒼き狼』の周囲」と題した小論が付されている。創作ノートというべき内容である。
その冒頭に小矢部全一郎氏の「成吉思汗は源義経也」が登場する。著者が本書を描くきっかけとなったのは、成吉思汗=源義経説に感化されたというより、そこからチンギス・ハーンの生涯が謎めいていることに興味を持ったためだという。

私が最も再読した二冊のうちの一冊が高木彬光氏の「成吉思汗の秘密」だ。とはいえ、本書には成吉思汗=源義経説が入り込む余地はないと思っていた。そのため、著者が記したこの成り立ちには嬉しく思った。

‘2020/02/14-2020/02/17


決定版 日本書記入門 2000年以上続いてきた国家の秘密に迫る


私が持っている蔵書の中で、著者本人から手渡しでいただいた本が何冊かある。
本書はその中の一冊だ。

友人よりお誘いいただき、六本木の某所でセミナーと交流会に参加した。
その時のセミナーで話してくださった講師が著者の久野氏だった。

セミナーの後、本書の販売会が開催された。私もその場で購入した。著者による署名もその場で行っていただいた。恵存から始まり、私の名前や著者名、紀元二六八〇年如月の日付などを表3に達筆の毛筆で。
私は今まで作家のサイン会などに出たことがなく、その場で署名をいただいたのは初めてだった。その意味でも本書は思い出に残る。

著者が語ってくださったセミナーのタイトルは「オリンピックの前にこそ知っておきたい『日本書紀』」。
くしくもこの年は日本書紀が編纂されてから1300年の記念すべき年。その年に東京オリンピックが開催されるのも何かの縁。あらためて日本書紀の素晴らしさを学ぼうというのがその会の趣旨だった。

私はこの年にオリンピックが開かれることも含め、日本書紀について深く学ぶよい機会だと思い参加させていただいた。

私は幾多もの戦乱の炎の中で日本書記が生き残ったことを、わが国のためによかったと考えている。
古事記や風土記とあわせ、日本書記が今に伝えていること。
それは、わが国の歴史の長さだ。
もちろん、どの国も人が住み始めてからの歴史を持っている。だが、そのあり様や出来事が記され、今に残されて初めて文明史となる。文献や史実が伝えられていなければただの生命誌となってしまう。これはとても重要なことだと思う。
そうした出来事の中にわが国の皇室、一つの王朝の歴史が記されていることも日本書紀の一つの特徴だ。日本書記にはその歴史が連綿と記されている。それも日本書記の重要な特徴だ。
たとえその内容が当時の権力者である藤原氏の意向が入っている節があろうとも。そして古代の歴史について編纂者の都合のよいように改ざんされている節があろうとも。
ただ、どのような編集がなされようとも、その時代の何らかの意図が伝えられていることは確かだ。

日本書記については、確かにおかしな点も多いと思う。30代天皇までの在位や崩御の年などは明らかに長すぎる。継体天皇の前の武烈天皇についての描写などは特に、皇室の先祖を描いたとは思えない。
本書では継体天皇についても触れている。武烈天皇から継体天皇の間に王朝の交代があったとする説は本書の中では否定されている。また、継体天皇は武力によって皇統を簒奪したこともないと言及されている。
在位年数が多く計上されていることについても、もともと一年で二つ年を数える方法があったと説明されている。
ただ、前者の武烈天皇に対する描写のあり得ない残酷さは本書の中では触れられていない。これは残念だ。そのかわり、安康天皇が身内に暗殺された事実を記載し、身内に対するみっともない事実を描いているからこそ真実だという。
その通りなのかもしれないが、もしそうであれば武烈天皇に対する記述こそが日本書記でも一番エキセントリックではないだろうか。
素直に解釈すると、武烈天皇と継体天皇の間には何らかの断裂があると考えたくもなる。本書では否定している王朝交代説のような何らかの断裂が。

本書は久野氏と竹田恒泰氏の対談形式だ。お二人は日本書記を日本史上の最重要書物といってもよいほどに持ち上げている。私も日本書記が重要である点には全く賛成だ。
ただ、本書を完全な史書と考えるのは無理があると思う。本書は一種の神話であり、歴史の真実を書いたというよりは、信仰の世界の真実を描いた本ではないだろうか。
ただ、私は信仰の中の本であってもそれは真実だと思う。私はそう捉えている。
書かれていることが確実に起こったかどうかより、ここに書かれた内容を真実として人々が信じ、それに沿って行動をしたこと。それが日本の国の歴史を作り上げてきたはずなのだから。

例えば新約聖書。キリスト教の教義の中でも一番超自然的な出来事が死後の復活であることは言うまでもない。新約聖書にも復活に当たることが書かれている。
だが、ナザレのイエスと呼ばれた人物がいた事は確かだろう。そして、その劇的な死とその後の何かの出来事が復活を思わせ、それが人々の間に熱烈な宗教的な思いをもたらしたことも事実だと思う。要は復活が事実かどうかではなく、当時の人々がそう信じたことが重要なのだと思う。

それと同様に、日本の天皇家の先祖にはこういう人々がおり、神々が人と化して葦原の中つ国を治め始めたことが、信仰の中の事実として伝えられていればそれでよいのだと思う。今から欠史八代の実在を証明することや、神武東征の行程を正確に追うことなど不可能なのだから。

残念ながら、このセミナーの少し後に新型コロナウィルスが世界中で蔓延した。
東京オリンピックは一年延期され、日本書記が完成してから1300年を祝うどころではなくなった。
著者とも何度かメールの交換をさせていただいたが、私自身も仕事が忙しくなってそれきりになっている。

だが、日本書記が今に残っているのは確かだ。キリのよい年であろうとなかろうと、学びたいと思う。本書を読むと1300年前の伝統が確かに今に息づいていることと、その良い点をこれからに生かさねばならないと思う。

‘2020/02/13-2020/02/13


鞆ノ津茶会記


本書は著者の最晩年の作品だ。

著者は序でこのように述べている。
「私は茶の湯の会のことは、現在の茶会のことも昔の茶会のことも全然智識が無い。茶会の作法や規則なども全く知らないが、自分の独り合点で鞆ノ津の城内や安国寺の茶席で茶の湯の会が催される話を仮想した。」(六ページ)

著者は福山の出身らしい。私はそのことを知らなかった。
福山から鞆ノ津まではそれほど遠くない。本書を読む一年前、kintone Caféで福山に行った際、鞆の街並みを初めて訪れてみた。安国寺には行けなかったが、本書にも登場する鞆城跡には訪れた。城跡からみた鞆ノ浦の眺望や、瀬戸内の凪いだ海の景色を堪能した。

そこで何度も行われた茶会の様子と、交わされた会話を連ねてゆくことで、著者は戦国時代の激動の世相を客観的に描いている。
本書はまず、天正16年3月25日のお茶会の様子から始まる。場所は足利義昭の茶屋だ。一度は将軍の座に就いた足利義昭は、その後ろ盾であるはずの織田信長によって追放され、当時は鞆ノ津にいたことが知られている。

そのお茶会では戦国の世に生きる人々がさまざまな噂話を語る。語られるのは、まず九州征伐。
当時、鞆ノ津は毛利家の支配下にあった。毛利家の重鎮である小早川隆景は島津軍を攻めるため九州へと従軍し、留守にしている。

そうした戦国の世の現実をよそに茶会に集う人々。ある人は引退し、ある人は悠々自適の暮らしを営んでいる。そして、茶会の中で騒然とした世間の噂話を交わし合う。

当時にあっては、こうした情報交換こそが激動の世の中を生き抜くために欠かせなかったのだろう。
本書は、11年近くの時間を描く。鞆を舞台にしたこの物語の中で登場人物の増減や異動はあるが、おおかたの顔ぶれは似通っている。

おそらく毛利家にとって最大の試練は、羽柴秀吉軍が備中高松城を包囲した時だろう。
だが、それは本能寺の変によって変わる。城主の清水宗春の切腹を条件として、羽柴軍は明智軍と雌雄を決するために東へと引き返していった。
その試練を超えたからこそ、このようにお茶会も楽しめる。

本書はまずそうした当時の毛利家の置かれた状況を思い起こしながら読むとよい。

毛利家にとって最大の試練を乗り切った後、つかの間の平安が続く。
島津攻めが終わった後は、小田原攻め。日本を西に東にと軍勢は動く。だが、荒波の立つ世相とは逆に鞆ノ津は凪いだように穏やか。人々は茶会を楽しみ、そこで世間の噂話に花を咲かせる。
その客観的な視点こそが本書の特徴だ。

小田原攻めの結果、太閤秀吉によって諸国は平定され、日本は統一された。
ところが、鞆ノ津は運よく戦火から逃れられていた。そのため、茶会で交わされる噂話には緊迫感が欠けている。あくまでも茶の湯の場の弛緩した話として、平穏に噂話は消費されてゆく。
世の中の激動と反するような鞆ノ津の状況がうまく表現されている。

だが、秀吉の野心は日本を飛び出す。朝鮮半島の向こう、明国へと。それによって、鞆ノ津を治める小早川隆景は渡海することになった。
鞆ノ津も世間の影響からは全く無関係ではない。茶会をする人々は、そうした世の中の動きを噂話とし、茶会の興に添える。

この時期、千利休が秀吉によって切腹させられたことはよく知られている。
茶会に集う人々にもそのような噂が上方より流れてきた。皆で切腹に至る原因を推測し合う。

本書で語られる原因は、千利休の切腹は朝鮮攻めを太閤秀吉に諫めたことで怒りを買った、というものだ。この説は私もあまり聞いた記憶が無く新鮮だった。
だが、確かにそういう解釈もあるだろう。当時の人々がそうした推測をさえずっていた様子が想像できる。
茶の湯を広めた千利休の話題を茶の湯の場で語らせるあたり、著者の想像力が感じられる。

人々は太閤秀吉も耄碌した、などとくさしつつ、一方で朝鮮の地で繰り広げられているはずの戦の戦局を占う。
一進一退の攻防がさまざまな手段で伝えられ、日本でも朝鮮での戦いに無関心でなかったことが窺える。

やがて文禄・慶長の役は太閤秀吉の死によって撤収される。その際の騒然とした状況なども本書は語る。人々は続いての権力者が誰か、ということに話題の関心を移してゆく。
庶民というか中央政局から一歩退いた人のたくましさが感じられる。

そこでちょうど、度重なる戦役から戻ってきたのが安国寺恵瓊だ。外交僧であり、大名と同等の地位を得ていたとされる安国寺恵瓊。この人物が茶会に参加することになり、本書の中でも茶会の中に度々噂に上がっていた長老が、日本の歴史の節目節目に登場していたことを読者は知る。

太閤秀吉が亡き後の実権は徳川家康に移りゆく。家康に対抗する石田三成との反目と、それぞれの思惑を抱えた諸大名の動きが茶の湯の場での自由な噂話となって語られてゆく。

本書は鞆ノ津を舞台としている。おそらく鞆ノ津以外にも全国のあちこちで茶会が開かれ、それぞれで談論がなされ、謀議がたくらまれていったことだろう。
茶の湯の意味が本書を通して浮かび上がってくるようだ。

本書は関ヶ原の戦いの直前までを茶の湯の参加者に語らせ、そして唐突に終わりを告げる。
その終わり方は唐突だが、実は関ケ原の戦いの後に斬首された安国寺恵瓊の最期を暗示しているともとれる。
知っての通り、関ヶ原の戦いでの毛利軍は、ひそかに家康に内通していた吉川広家によって南宮山の陣にくぎ付けにされていたからだ。しかも戦後処理の際、毛利家は安国寺恵瓊を生贄に仕立てるかのように引き渡した。そのおかげか、西軍の総大将という役割でありながら毛利家の取りつぶしを逃れた。

そうした長老の哀切な運命を暗示しつつ、本書は終わる。それが読者に余韻を残す。

本書の解説で加藤典洋氏が詳細に語っている通り、本書は著者の最晩年の作である。だが、戦国の世を茶の湯の会という客観的な手法で描いた傑作といえる。
また鞆ノ津に行きたいと思う。

‘2020/02/09-2020/02/12


一番やさしい簿記


今、クラウド会計システムはどれくらいの種類があるのだろうか。私もよく把握していないが、私の脳裏に即座に浮かぶのは会計freeeだ。

2019年の12月、freee社において開催されたfreee Open Guild #07で登壇を依頼された。そのタイトルは「kintone エバンジェリストがfreee APIを触ってみた」。
登壇の資料を作るにあたり、会計freeeのAPIリファレンスを念入りに読み込んだ。その作業を通して、私はfreee APIのリファレンスにかなりの好印象を持った。わかりやすく見やすいリファレンスを作り上げようという配慮が随所になされている。それはfreee社の掲げるオープンプラットホームを体現していた。
さらにその登壇をご縁として、私はfreee Open Guildの運営スタッフにもお誘いいただいた。
そうした関わりが続いたことで、私の中ではfreee社に対する親しみが増している。
おそらく今後も、私がfreeeとkintoneの連携イベントで登壇する機会はあるに違いない。実際、2020年には両社が共催したfreee & kintone BizTech Hackというイベントで二回ハンズオン講師を勤めた。さらに、freee社よりご依頼を受けて動画コンテンツも作成した。
今後もfreee社から案件を受注する機会は増えていくことだろう。

そんな訳で、私は久しぶりに簿記を勉強しようという気になった。
私は大学の商学部に在籍した頃に簿記三級を取得している。授業の単位取得の条件が簿記三級の合格だったからだ。
私にとって簿記の資格とは、単位のために受けるだけで、当時はなんの思い入れもなかった。それ以来、簿記からは完全に遠ざかっていた。

それは個人事業主として独立した後も変わらずだった。青色申告事業者として事業主登録を行ったにもかかわらず。青色申告者である以上、正式な簿記による経理処理が求められる。だが、私はお世辞にも褒められた簿記はやっていなかった。さらに法人として登記してからは、経理の実務は税理士の先生に完全にお願いしており、私自身が簿記の仕訳に携わる機会はますます減った。
ところが今回、freee社とのご縁ができたことで、最低限の知識を得ておく必要に迫られた。できるだけ簡単で、手軽に読める簿記の本を読まねば。そこで、手に取ったのが本書だ。

本書の見開き折り返しには、
本書は
超初心者の基礎学習
3級受験前の復習に役立つ内容です!
と書かれてある。
既に三級を持っていた私には本書の内容はとてもわかりやすかった。
そして仕訳とは何かを徐々に思い出すことができた。

左が借方、右が貸方。単純な内容だ。取引を必ず対となる借方と貸方に記載する。その時、借方と貸方の勘定科目に書いた金額の合計は一致しなければならない。
それが複式簿記のたった一つの要点だと思う。

もちろん税理士の先生になりたければそれでは足りない。複雑な簿記を流暢に使いこなすことが求められる。
だが、仕訳と決算さえこなせればよいぐらいのレベルであれば、本書ぐらいがちょうどいい。

冒頭のプロローグでは、著者がいかにして簿記一級に満点で合格できるまでになったかと言う経歴がわかりやすい文章で書かれている。

歯科診療所の受付をやりながら、出入りしていた税理士さんに憧れ、簿記を勉強して始めたこと。何度もあきらめそうになりながらこつこつと勉強を続け、簿記一級を満点で合格したこと。今では公認会計士として働いているそうだ。

超初心者向けと言うだけあり、本書は簡単な仕訳の処理方法が何度も何度も繰り返し登場する。それは懐かしい宿題のドリルのようだ。
資産、負債、資本、そして費用と収入。この5つが簿記の中では基本の枠となる。取引の属する勘定科目によって、その5つのどこに入るかを当てはめていく。そして結果として左右が合計金額で等しくなるように振り分けてゆく。

ただ、借方と貸方の左右に振り分ける当て込みの方法は案外と難しい。右と左が収益と費用で変わることも理解を難しくする。

勘定科目の金額が正の値である場合、適した勘定科目が属する枠に転記する。逆に負の値である場合、反対側に転記すればいい。
そしてそれが対となる勘定科目では逆の位置になる。それさえ覚えれば、仕訳については何とか理解できる。
本書を読んでいるうち、大学時代に受けた簿記の知識がよみがえってきた。

本書はまさに一番やさしい簿記とうたうだけあって、かなりの説明を仕訳に割いている。
私の印象では全体の6割が仕訳の説明に当てられている。次々と仕訳の事例が登場し、それに取り組むうちに読者は自然と仕訳に慣れていく。そういう仕掛けだ。

本書は、伝票についても説明が割かれている。伝票は受発注のシステムを作る上で不可欠の知識だ。私の仕事でも頻繁に登場する。
ただし私は今まで伝票のことをデータ管理の観点からとらえていて、簿記や経理の観点からは考えてこなかった。だが、実は伝票とは簿記の必要から生れた仕組みなのだ。私は本書を読んでそれを理解した。仕訳帳に記帳するかわりに伝票に記帳するようになったいきさつなど、学びからはいつになっても新たな発見をもたらしてくれる。
三伝票制、五伝票制があることも本書によってもう一度教えられたことだ。三伝票制は入金伝票、出金伝票、振替伝票で管理する。五伝票制はそれに売上伝票と仕入伝票が加わる。
売上伝票の勘定科目は売掛金しかなく、仕入伝票の勘定科目は買掛金しかないこと。
こうした知識も本書を読んで再び学びなおせた。仕事で使っている知識の歪みが補正されるのは学ぶ者の喜びだ。

また、決算書の作り方についても本書は丁寧に説明してくれている。
私も決算書は最低限の見方だけは知っている。だが、その作り方となるとさっぱりだった。
本書の説明を聞いていると、その仕組みが理解できる。そして、会計システムのありがたみが実感できる。
その進化系であるクラウド会計のこれからも楽しみだ。

‘2020/02/05-2020/02/09


蛍の森


著者は被爆後の広島を語る上で重要な三人の人物を描いたノンフィクション「原爆 広島を復興させた人びと」を著した。私はこの本を読んで著者に注目した。
その著者が初めて出した小説が本書だ。

ハンセン病、またの名をらい病と呼ばれる病気がある。かつては業病として恐れられた。遺伝病と誤解され、患者は忌み嫌われた。各地にハンセン病患者を収容する隔離施設ができ、収容された後は子が作れないよう断種手術がなされた。そんな忌まわしい歴史がある。

今では遺伝病ではなく、菌に侵されることで発病するメカニズムが解明されている。らい菌の感染力は弱く、万が一発病しても殺菌と治癒が可能だという。伝染する可能性も、密接な接触がなければ高くないことが分かっている。

つまり、過去に行われていた患者に対する隔離や断種などの政策はいずれも、医療知識の不足が招いた迫害だったことが判明している。
らい予防法は廃止された。ここ数年はハンセン病患者による国を相手取った訴訟が各地で結審し、国の責任や違憲であったことなど原告の訴えが認められつつある。
ニュース報道の中ではさまざまな迫害に耐えてきたハンセン病患者の涙ながらの訴えがマスコミなどで報じられた。

だが、私たちは、らい病患者が被った苦しみの深さをまだ知らない。

私はかつて、大阪人権博物館(リバティー大阪)で、ハンセン病患者の差別の実態を展示で見たことがある。
だが、それでも迫害の凄まじさやそれに耐えてきた患者たちの慟哭の意味を真剣に考えたことがなかった。そして、彼/彼女らの苦悩について、本書を読むまで私は何も知らなかった。

本書は、香川と徳島の間の山村を舞台としている。差別から逃れ、隠れ住むらい病患者たちを描きながら、人間の暗い本性を暴いている。その描写は、あまりにも陰惨である。
著者は今までノンフィクションの分野でさまざまな題材を手掛けてきた方だ。だが、ノンフィクションの手法を採るとモデルとなった方や関係者に迷惑をかけかねない。おそらく著者はそう判断したのだろう。
著者は本書を小説の形で展開させている。

四国と言えばお遍路さん。よく知られている。四国を訪れるとよく目にする。つまりお遍路さんは街中を歩きまわっていても不自然ではない存在だ。
そのため、四国八十八箇所を巡る以外の目的を持っていても、お遍路さんに紛れて各地を巡ることが可能だ。
本書に登場するのは、らい病の治癒を願いながら旅から旅へと移動し、施しを受けなければ生活がたちいかなかったらい病患者たちだ。

私はお遍路さんの背後にそのような事情があることを知らなかった。そしてこれが著者の独自の創案であるかどうかも知らない。
本書はそうした事情を持ったらい病患者による組織が四国の各地に点在し、その中で外から隔離されたらい病の患者同士でコミュニティーを形成していた設定で話が進む。
らい病のことをカッタイと呼ぶ異名がある。彼らはカッタイ者と呼ばれ差別されていた。
本書ではカッタイ寺の住職を中心に、ほそぼそと隠れ住むらい病患者の暮らしが描かれている。

1952~3年。そして2012年。2つの時代が本書では描かれる。
両者をつなぐのは乙彦だ。

幼い頃、雲岡村に住んでいた乙彦は、父なし子として自分を産んだ母によって育てられた。そうした生まれから、雲岡村の人にはあまり良く思われていなかった。しかも母は自ら首を吊って死んでしまう。その結果、乙彦は村の深川育造の下に身を寄せた。だが、迫害はいっそうひどくなる一方で、ついに村から脱出しようとする。
その時に乙彦は少女の小春に助けられ、カッタイ村の一員として迎えられる。

時は流れて2012年。乙彦の息子である私の視点で物語が進む。
医者であり、結婚もしていた私。だが、父の乙彦が、雲岡村で深川育造を殺そうとした事件が私の人生に深く影を落としている。
リサイクル業で成功し、都議にまで上り詰めた父が、なぜ全てを投げ捨てるような行いをしたのか。その殺人未遂から十年がたち、今度は深川育造ともう一人の男が行方不明になった。ついに我慢の限界を迎えた妻から離婚を突きつけられた私は、雲岡村で行方不明事件の捜査をしている警察から参考人として呼ばれる。

乙彦はどこに行ったのか。そして昔、乙彦の身に何があったのか。
この二つの物語を軸として本書は進んでいく。
その中で本書のテーマであるらい病患者たちが被った迫害の歴史が赤裸々に語られてゆく。

本書は、人間の持つ差別意識など、醜い部分も臆せずに描いている。

2012年のわが国は高度経済成長を遂げ、さまざまな社会的な闇が過去のものとして顧みられなくなりつつある。
だが、つい数十年前までは、この国にはいわれなき差別が横行し、因習やしがらみが色濃く残っていたことは忘れてはならない。
戦後の民主主義が広く国民に伝わったといっても、田舎ではまだまだ過去を引きずっていた事実を私たちは認識しておかねば。なぜなら、かつてのムラ社会にはびこっていた差別は、ネット上に舞台を移してあちこちで被害者を生み出しているのだから。

過去に比べて知識も増え、教育も行き渡った現在。だが、皆の心から差別が一掃されたか。もちろんそんなことはない。
文明のレベルが上がり、国民の識字率が上がっても、人が差別意識を持つ心のあり方は改善されることはないのだ。

著者は、差別する側の人間にも理解を示す人がいたことを記している。その一方でカッタイ村の住民の中にも醜い心を持つ人物がいることも忘れずに書く。

人は、置かれた状況によって醜くもなる。だが、どのような状況であっても心を気高く持ち続けることもできる。

本書の陰惨な余韻は、乙彦がかつてどのような出来事を経験し、それが今にどのような影響を与えたか分かったところで消えない。
むしろ、その余韻は私の心の奥底に潜む本能を引きずり出す。差別をしてしまう本能。
私は本書を読んだことでその本能を突きつけられた。だが、そうした本能の醜さを認めた上で、自分を律して生きていくしかないと思っている。

‘2020/02/02-2020/02/04


人災はどこから始まるのか 「群れの文化」と「個の確立」


本書は、元日本原子力研究所や日本原燃株式会社といった原子力の第一線で働いていた著者が書いている。
原子力技術者が、東日本大地震が起こした惨禍とそれに伴う福島第一原子力発電所の事故を受け、贖罪の気持ちで書いたものだという。

題材が題材だからか、本書はあまりなじみのない出版社から出されている。
おそらく、本書に書かれている内容は、大手出版社では扱いにくかったのだろう。
だが、本書をそれだけの理由で読まないとしたらもったいない。内容がとても素晴らしかったからだ。

こうした小さな出版社の書籍を読むと校正が行き届いていないなど、質の悪さに出くわす事がたまにある。本書にも二カ所ほど明らかな誤植があった。
私の前に読んだどなたかが、ご丁寧に鉛筆の丸で誤植を囲ってくださっていた。
だが、その他の部分は問題がなかった。文体も端正であり、論旨の進め方や骨格もきっちりしていた。
著述に不慣れな著者にありがちな文体の乱れ、論旨の破綻や我田引水の寄り道も見られない。

しかも本書がすごいのは、きちんとした体裁を備えながら、明快かつ新鮮な論旨を含んでいる事だ。
原子力発電所の事故を語るにあたり、官僚組織の問題を指摘するだけならまだ理解できる。
本書のすごさは、そこから文化や文明の違いだけでなく、事故を起こす人の脳の構造にまで踏み込んだ事にある。

こう書くと論理が飛躍しているように思えるかもしれない。だが、著者が立てた論理には一本の芯が通っている。
著者は福島第一原子力発電所の事故を踏まえ、人間の脳を含めた構造や文化から説き起こさなければ、過ちはこれからも起こりうると考えたのだろう。
事故が起こる原因を人間の文化や脳の構造にまで広げた本書の論旨は、きちんとまとまっており、新鮮な気付きを私たちに与えてくれる。

本書の主旨はタイトルにもある通り、ムレの文化が組織の危機管理の意識を脆弱にし、責任の所在が曖昧になる事実だ。

日本の組織ではムレの意識が目立っている。それは戦後の経済成長にはプラスとなった。
だが、著者は、日本が高度経済成長を達成できた背景がムレの意識ではないと指摘する。それどころか、日本の成長は技術の向上とその時の国際関係のバランスが有利に働いた結果に過ぎないと喝破する。
日本の高度経済成長に日本のムレ組織の論理はなんら影響を与えなかった。
それは私たちにとって重要な指摘だ。なぜなら、今もなお、過去の成功体験にからめとられているからだ。
著者のような高度成長期に技術者として活躍した方からなされた指摘はとても説得力がある。

その結論までを導くにあたり、著者はまずムレと対立する概念を個におく。
それは西洋の個人主義と近しい。当然だが、個人主義とは「俺が、俺が」の自分勝手とは違う。

そうした文化はどこから生まれるのだろうか。
著者は、文化を古い脳の記憶による無意識的な行動であると説く。レヴィ=ストロースの文化構造論も打ち出し、それぞれの文化にはそれぞれに体系があり、それが伝えられる中で強制力を備えると説明する。

一方で著者はフェルナン・ブローデルの唱えた「文明は文化の総体」を批判的に引用しつつ、新たな考えを提示する。その考えとは、古い脳の所産である文化に比べ、文明は新しい脳である大脳の管轄下にある。要するに、理性の力によって文化を統合したのが文明だと解釈してよいだろう。
続いて著者は西洋の文化の成り立ちを語る。西洋はキリスト教からの影響が長く強く続いた。宗派による争いも絶えず、国家も文化も細かく分かれ、摩擦が絶えなかった西洋。そのような環境は相手の信教の自由を尊重する関係を促し、個人の考えを尊重する文化が醸成された。著者はイタリア・スペイン・フランス・ドイツ・イギリス・アメリカの文化や国民性を順に細かく紹介する。

ついでわが国だ。温暖な島国であり外敵に攻め込まれる経験をしてこなかったわが国では、ムレから弾かれないようにするのが第一義だった。ウチとソトが区別され、外に内の恥を隠蔽する文化。また、現物的であり、過去も未来も現在に持ち込む傾向。
そうした文化を持つ国が明治維新によって西洋の文化に触れた。文化と文化が触れ合った結果を著者はこのように書く。
「欧州という「個の確立」の文化の下で発展した民主主義や科学技術という近代文明の「豊かさ」を享受しています。それを使い続けるならば「個の確立」の文化の下でなければ、大きな危険に遭遇する事は免れません。」(168p)

ここまでで本書は五分の三を費やしている。だが、脳の構造から文化と文明にいたる論の進め方がきっちりしており、この部分だけでも読みごたえがある。

そして本書の残りは、東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故と、その事故を防げなかったムレ社会の病巣を指摘する。
ムレに不都合な事実は外に見せない。津波による被害の恐れを外部から指摘されても黙殺し、改善を行わない。それが事故につながった事は周知のとおりだ。
社会の公益よりムレの利益を優先するムレの行動規範を改めない限り、同様の事故はこれからも起こると著者は警鐘を鳴らす。

著者は最後に、ムレ社会が戦後の民主化のチャンスを逃し、なぜ温存されてしまったかについて説き起こす。敗戦によって公務員にも職階制を取り入れる改革の機運が盛り上がったそうだ。職階制とは公務員を特定の職務に専念させ、その職域に熟達してもらう制度で、先進国のほとんどがこの制度を採用しているそうだ。
ところが明治から続く身分制の官僚体制が通ってしまった。GHQの改革にもかかわらず、冷戦体制などで旧来の方法が通ってしまったのだという。
その結果、わが国の官僚はさまざまな部署を体験させ、組織への帰属意識とともに全体の調整者の能力を育てる制度の下で育ってしまってしまった。
著者はそれが福島第一原子力発電所の事故につながったと主張する。そして、今後は職階制への移行を進めていかねばならないと。
ただ、著者は世界から称賛される日本の美点も認めている。それがムレの文化の結果である事も。つまり「ムレの文化」の良さも生かしながら、「個の確立」も成し遂げるべきだと。
著者はこのように書いている。
「これからは、血縁・地縁的集団においては古い脳の「ムレの文化」で行動し、その一方で、感覚に訴えられない広域集団では「個の確立の文化」によって「公」の為に行動する、というように対象によって棲み分けをする状況に慣れていかなければなりません。」(262P)

本書はとても参考になったし、埋もれたままにするには惜しい本だと思う。
はじめにも書かれていた通り、本書は原子力の技術者による罪滅ぼしの一冊だ。著者の年齢を考えると自らの人生を誇らしく語るところ、著者は痛みで総括している。まさに畢生の大作に違いない。
著者の覚悟と気持ちを無駄にしてはならないと思う。

‘2020/01/30-2020/02/01


ハル、ハル、ハル


本書は、三編の短編からなっている。
どれもがスピード感に満ちており、一気に読める。

「ハル、ハル、ハル」
「この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ」という一文で始まる本編。
“全ての物語の続編”というキーワード。これが本編を一言で言い表している。

全ての物語とは、出版された小説に限らない。あらゆるブログやツイッターやウォールやストーリーも含む。物語は何も発表されている必要はない。人々の脳内に流れる思考すら全ての物語に含められるべきだからだ。
この発想は面白い。

物語とは本来、自由であるはず。物語と物語は自由につながってよいし、ある物語が別の物語の続編であるべきと決めつける根拠もない。
場所や空間が別であってもいい。物語をつむぐ作者の性別、人種、民族、時代、宗教は問わない。どの物語にも人類に共通の思考が流れている限り、それが続編でないと考える理由は、どこにもない。

本編のように旅する三人組のお話であっても、読者である私の人生に関係のない登場人物が出てこようとも、それはどこかで私=読者のつづる物語とつながっているはず。
十三歳。男。十六歳。女。四十一歳。男。本編の三人の登場人物だ。

私に近いのは四十一歳の男だろう。彼と私に似ているところは性別と年齢ぐらい。
彼はリストラに遭い、妻子にも逃げられ、今はタクシー運転手をしている。そんな設定だ。

そんな彼が偶然拾ったのが、子供のような年齢の若い男女。二人はなぜか拾った拳銃を持っており、それで男を脅してきた。どこか遠くに行け、と。

三人の名前のどこかにハルがつくため、奇妙な連帯感でつながった三人は、あてもなく犬吠埼を目指す。ちょうど、人生について投げやりになっていた年長のハルは、若い二人の勢いにあてられ、誰かの続編の物語を生き始める。

そう考えてみると、そもそも私たちの人生も誰かの人生の続編と言えないだろうか。それは生殖によってつながった生物的なつながりという意味ではない。時代や場所や文化は違えど、一人の人生という物語を生きることは、誰かの人生の続きを生きることにほかならない。同じ惑星で生きている限り、人がつむぐ物語は誰かの物語に多かれ少なかれ関連しているのだから。

私たちは本編に出てくるハルたちの物語をどう読むべきだろうか。自分の人生に関係ないとして退けてよいだろうか。作り話だと知らぬふりをすれば良いだろうか。
どれも違う。
彼らの行動は自分たちのひ孫が起こす未来かもしれないし、並行している可能性の現実の中で自分がしでかす暴挙なのかもしれない。

「そして物語に終わりはない。全部の物語の続編にだって。この場面のあとにも場面はずっとずっと続いて。時間は後ろに流れ続けて」(71P)

私たちの人生にも、本来の終わりはない。意識のある生物があり続ける限り。
終わりが来るとすれば、56億7千万年あとに地球が消え去るか、あらゆる原子が一点に終息したビッグクランチの時点だろう。
だが、そんな無意味なことを考えても仕方がない。それより、誰もが誰もの人生の続編を生きていると考えたほうが、生きやすくはないか。著者が本編で提案した物語の意味とは、そういうことだと思う。

「スローモーション」
一人の少女の日記だったはずなのに、それがどんどんと意味を変えていく本編。
さまざまな少女の文体がめまぐるしく変わり生まれてゆく文章は、少女の移ろいやすい意識のあり方そのものだ。

自分と他者。世間と仲間。外見と内面。
少女の意識にとってそれらを区別することは無意味だ。
全てが少女の中で混在し、同じレベルで入れ代わり立ち代わり意識の表層に現れる。

そんな鮮やかな文章の移り変わりを堪能できる。

そして本編はある出来事をきっかけに、少女が過去をつづっていたはずの文章が、現在進行する時間の流れに沿い始める。

それもまた、現実を自我の中に消化しながら生きる少女の意識にとっては、矛盾がなく存在する自分なのだ。

さらに少女の日記はレポートとしての文章から報道としての性格を帯び始める。
その移り変わりは、今の世に氾濫するSNSのあり方を表しているように思える。
人の意識が無数に公開され、自分で自分の感想を報道して飽きない今の世相を。

著者がそれを見越して描いていたとすれば本編のすごさは実感できる。
小説としての可能性も感じさせながら、今の世を切り取って批評する一編だ。

「8ドッグス」
本編のタイトルを日本語に訳すと八犬。
ここから想像できるのは「南総里見八犬伝」だ。
言うまでもなく江戸時代に書かれた日本文学史上に残る作品だ。
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が書かれた玉を持つ八人が、さまざまな冒険をへて里見家の下に参ずる物語だ。

その有名な物語を背景に奏でつつ、著者が語るのはある男の内面だ。
彼女であるねねを思いつつ、律義に生きる彼の思考の流れはどこか危うさをはらんでいる。
ねねのためといいながら彼が行う行動。それは、八犬伝をもじった刺青を自らに彫るなど、どこか狂気の色を帯びている。

徐々に暴走してゆく狂気は、ねねを見張るところまで突き進んでいく。
そしてそこで知った事実が彼の狂気にさらなる拍車をかけてゆく。

ここで出てくるのは皮膚だ。彼は皮膚に仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字を丸で囲って彫り込む。それらの文字は社会で生きる規範となるべき意味を持っている。
だが、それらの文字が皮膚に彫り込まれることで、現実と自我を隔てる境目は破れ、彼の狂気が現実の社会に害を及ぼしていく。

狂気の流れがこれらの文字を通して皮膚へ。それを文学としてメッセージに込めたことがすごい。

‘2020/01/29-2020/01/29


昼は雲の柱


著者の作品を読むのはこれで三作目だ。著者は「震災列島」「死都日本」の二冊で、宮崎・鹿児島と濃尾平野を壊滅させている。

本書で壊滅させられるのは、富士山のふもとに控える山中湖村や御殿場市、裾野市のいったいど。

令和の今、富士山が噴火するとどうなるか。おそらく日本は言葉では表せない状態に陥ることだろう。壊滅的。
実際、江戸時代の宝永の大噴火では、富士山から吹き上げられた火山灰が江戸に積もったという。
ところが、今の東京の人々は噴火のリスクをとても楽観的に考えているように思う。なぜなら、江戸の街に降った火山灰は人体に直接の影響を与えず、後世に噴火の恐ろしさが伝えられていないからだ。

だが、現代は江戸時代とは違っている。現代は情報の時代だ。
あらゆる経済活動が情報機器の扱うデータに頼っている。
人々の日常すら、見えないデータの流通がなくては滞ってしまう時代。江戸時代とは社会的な状況が違っているのだ。

それらの情報機器が火山灰の襲来にどこまで耐えうるのか。残念ながら厳しい結果となるだろう。
火山灰の細かな粒子が機器の内部に入り込み、予期せぬ誤動作を起こす。そうなった時、首都の機能はどこまでダメージを受け、人々の生活にはどれほどの影響が生じるのか。

それだけならまだいい。
もし富士山から噴き出た火砕流が御殿場や三島や沼津まで流れた時、街はどうなってしまうのか。
その時、日本の大動脈は切断される。その時、日本の経済はどれほどの痛手を被るのか。
誰にもわからない。
確かに試算はされている。とはいえ、それらはあくまでも試算に過ぎない。
情報社会の恩恵を謳歌している今の日本は、まだ首都圏直下型地震も富士山大噴火も経験したことがないのだから。誰にもその被害は想像できない。

著者は「震災列島」「死都日本」の二冊で、日本の地質上の宿命を描いている。
各プレートがせめぎ合い、マントルが摩擦する上に浮かぶ日本。地震と火山との共存が古代から当たり前だった。
日本が享受している繁栄とは、実はあやうい地盤の上に乗っている。それを認めるのはつらいが事実だ。
それが今までの日本の災害史が示してきた教訓なのだ。

本書の冒頭には上下二段で富士山周辺の地図が掲げられている。
上段では神縄・国府津-松田断層帯の断層が図示されている。下段では富士山が噴火した際、火砕流が及ぶ範囲が図示されている。
神縄・国府津-松田断層帯は、伊豆半島の上部を巡って富士山頂を通り、富士山の西側で富士川河口断層帯となって海へと延びている。
その形は伊豆半島の生い立ちが、もともと太平洋の南の彼方に位置していた古代に起因している。
伊豆半島はかつて島だった。そして日本列島へ北上し、日本列島に衝突した。その衝撃が丹沢山地や富士山や箱根の景観を作り上げた。
皮肉なことに、その衝突によって富士山は日本列島のシンボルにふさわしい姿となり、観光資源を生み出した。そして古くから日本列島に住まう人々に富士山は崇められてきた。
かつては二つの峰を持つ「ふち(二霊)山」として。
時には怒り狂い、人々に自然の圧倒的な力を見せつける。その姿はまさに神。

本書が面白いのは、地質学の最新成果を盛り込みながら、一方で人々にとっての神とはなにか、どうして生まれたのかという考察が豊富に加えられていることだ。
その解釈はとても興味深い。
著者がめぐらす考察の範囲は日本神話にとどまらない。
たとえばソドムとゴモラで知られる旧約聖書の挿話も本書には登場する。シナイ山とアララト山の関係も。
地球の変動が人類の深層記憶として刻まれ、それらが各地で神話として語り継がれてきた。

太古の人類にとって、火山の噴火とは人知が圧倒的な及ばぬ力を感じさせる一大イベントだったことだろう。
火山こそが神と等しかった。神は怒らせると噴火や地震としておごり高ぶる人類に鉄槌を下す。
その一方で噴火は人類に火を教えた。熱を加えることで肉は食べやすくなり、食物は殺菌できるようになる。人々の健康は増進し、寿命を延ばした。
世代間の伝承が進むようになり、人間は文明を持つまでの進化を遂げた。それらもすべて神、つまり火山が人類にもたらした恩恵だ。

ホモ・サピエンスが生まれたのはアフリカの大地溝帯であることはよく知られている。そしてその地は火山地帯でもある。
著者は本書の主要な登場人物である山野承一郎の口を通して火山=神説を語る。
類人猿が人類へと進化したきっかけには火山の噴火があった。この説にはとても興奮させられた。

長きにわたって伝えられてきた火山の恩恵と恐ろしさ。それは人類に神への畏敬を生み、人々は神によって導かれ、種として成熟を遂げた。

本書は冒頭で徐福伝説を登場させ、富士山のふもとに徐福の墓を置く。もちろんそれは著者の創作だろう。
秦の始皇帝から命ぜられ、蓬莱山に不老不死の薬を探しに来た徐福。彼が富士山を発見し、それを神の象徴として感じたという想像。それはロマンチックな心を目覚めさせる。

本書では富士山が噴火する。その圧倒的な描写は本書の一つのクライマックスだ。
だが著者が書きたかったのは、その破壊の側面ではないはずだ。上にも書いた通り、著者は火山が人類に恩恵を与えてきたことを記してきたからだ。
では、富士山が本書で描かれる通りに噴火したら、日本列島に住む私たちにはどのような恩恵をもたらされるのだろうか。
私は、その恩恵とは東京への一極集中を終わらせることにあると思う。富士山の噴火をきっかけに首都圏の機能が壊滅的なダメージを受ける。それをきっかけに日本列島の各地に分散した日本人。それが未来ではないか。

そういえばかつて日本沈没を描いた小松左京氏も、分散した日本人に希望を見いだしていた。私もそう思っている。

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‘2020/01/27-2020/01/28


文明が衰亡するとき


著者の本を読むのは初めてだ。

以前から著者の名前は高名な国際政治学者として知っていた。

今、世界は不透明な状態になりつつある。
40も半ばを過ぎた私がこれから生きていくにあたり、何を指針とすべきか。

40歳半ばとは本来、より広い視野と知見を持っているべき年齢だ。
技術者として生計を立てている私と言えども、技術と言う枠だけにとらわれず文明にまで視野を広げて物事を捉えていかねばなるまい。

文明。その言葉だけを考えてみると、その実態はとてもあいまいだ。
その言葉を聞いて真っ先に考えるのは、長らく続いている印象だ。
ところが私たちの世代が世界史で習ったエジプト・バビロニア・インダス・中国の四大文明は、遺跡にその姿を残すのみ。その繁栄の様子は歴史の彼方に埋もれてしまった。
一方で文明を人類全体の枠組みで捉えなおすと、昔から脈々と受け継がれてきた文明は今の現代の世界として続いている錯覚を受ける。
文明とは、あらゆる意味を包括した言葉であるため、逆に実態を掴もうとするとどこかに遠ざかってしまうのだ。

となると、個々の文明を詳しく見ないことには、文明の本質は把握すらおぼつかない。
著者は本書で、代表的な時期と場所の文明を取り上げる。
四大文明がそうだったように、文明は繁栄と衰亡の時期を行き来する。景気の波のように興廃の振幅を幾度もへて、そしてついには衰えていく。それがほとんどの文明の宿命だ。

わが国にしても、戦後の焼け跡から立ち上がり、世界史上でも有数の繁栄を誇った。だが、バブル崩壊を境に一転、長きにわたる停滞が続いた。停滞の今から振り返ると、もうあれほどの繁栄には二度と恵まれないのでは。そんな憶測が多数を占めている。
そうした悲観的な観測が世間を覆う中、私は日本の将来について何をなすべきなのだろう。
再びわが国が繁栄するため、社会を引っ張っていくべき年齢。それが40代から50代の熟年世代なのだろう。もう、新たな活力は若い世代に負けるし、斬新な発想も難しいかもしれない。だが、脂ののった年代でもある。そのような世代が次の世界に何を引き継ぎ、何を残すのか。
そのためにも、果たして日本の今後はどうなるのかは考えねばなるまい。もちろん、その予測は人によって多様なはず。

日本は皇室が二千年近く続いている国であり、そう簡単には衰亡しないと言う意見もある。
一方で、経済的な面から考えれば、資源のない日本にはこれ以上の発展は望めないという声もある。
私の意見では、経済的な発展はもう見込めないだろうと思っている。少子化はすでに挽回の不可能な地点を越えてしまったからだ。
ただ、日本が培ってきた文化的な素養がこれからの世界に貢献できる可能性は高いと見ている。

そうした文明の未来を占うにあたり、これまでの世界の諸文明がどのように衰亡したのかを知識として持っておくことは必要だと思う。

本書が書かれたのは1980年代の初頭だ。つまり日本が上り調子になっていた時期にあたる。
オイルショックを乗り越え、ジャパン・アズ・ナンバーワンのスローガンが一世を風靡し、バブルが崩壊する未来は予兆すらなかった頃である。

著者はまずローマ帝国の歴史を見る。
なぜあれほどの規模と繁栄を誇ったローマ帝国が滅びたのか。その歴史を追いながら衰退の原因を検証していく。

私たちが思っている以上に当時のローマの文明は進んでいた。今に比べると技術力は足りないが、当時の技術の粋があらゆる知恵と工夫となって集められていた。都市に施された設備の洗練は進み、文化は栄え、繁栄は何世紀も続いた。

しかし、領土の拡張はある規模に至った時点で止まる。そして、ローマ帝国の版図はそれ以上広がらなかった。年月が徐々に、ローマの活力を奪って行った。
それだけではなく、領土が広がることで帝国の広大な地域から人が集まった。それは軍隊に顕著だった。軍隊が領土の維持に不可欠である以上、やむを得ない。
人が交わるのは、生物的には健全なことだ。だが、ローマ建国から繁栄に至るまでを支えてきた気質に他民族の文化や考え方が混ざったことで、国民から一体感が失われていった。国民意識とでも言おうか。
建国した頃のローマ人が抱いていた文化と活力は徐々に変質していき、そこに経済の衰退が重なることでさらに帝国はほころびていった。

著者は、経済的な衰退こそがローマ帝国崩壊の原因であるとの立場をとっている。
ゴート族をはじめとしたゲルマン諸族の侵入はローマ帝国にとってとどめの一撃でしかなかった。それまでにローマ帝国は衰退への道を確実に歩んでおり、滅びるべくして滅びたと考えるべきだと。
経済的な衰退がはじまった中、広大な国土を維持するために官僚の肥大を止められなかった。それによって意思の決定が硬直し、国の統制が国の隅々に行き渡らなくなった。それがローマの衰退の要点だと著者は説く。

続けて著者は、ヴェネツィアの繁栄と衰退の歴史を見ていく。
ヴェネツィアは、イタリア半島の付け根に築かれた干潟の上の都市からはじまった。そして地中海を交易と海軍で制圧し、中世の地中海世界を席巻した。その歴史は都市国家としてあまりに著名である。
その威力は当時の十字軍の目的を変質させ、各国の王をヴェネツィアの意思に従わせるほどであったと言う。

ヴェネツィアの存在がルネサンスの原動力となったこともよく知られている。地中海の一都市から生まれたルネサンスが、暗黒の中世と言われた長きにわたる西洋の停滞を終わらせた。今の西洋が主体となっている国際社会の礎を築いたのはヴェネツィアとすらいえるかもしれない。

だが、「新しい事業に乗り出す冒険的精神や活力の衰頽と守旧的性格の増大、自由で開放的な体制から規制と保護の体制への変化、すなわち柔軟性の喪失と硬直化」(164ページ)
という言葉の通り、ヴェネツィアにも衰退が見られた。ヴェネツィアを成長させた質実剛健な文化が失われ、快楽に流されるようになったあとは覇権を失った。

最後に著者はアメリカを語る。
アメリカと言えば現在も世界をリードするGNPでも第一の国家であり続けている。だから、アメリカに衰退を当てはめることには違和感がある。

だが、本書が書かれた当時のアメリカは、ベトナム戦争による敗北や、貿易赤字の増大によって衰退の傾向が色濃く出ていた。
合わせて当時は、日本が世界でも有数の経済力を発揮し出した時期。やがてアメリカを凌駕するのも時間の問題と考えられていた。

著者は、アメリカに象徴される西洋主導の工業文明そのものが衰えているのではないかとの視点を提示する。産業革命によってイギリスが世界の七つの海を制覇するまでに巨大化した。それ以降、イギリスの文化を受け継いだアメリカが世界をリードしてきた。

だが、各地で発生する公害はどうだろう。原油やその他の資源を消費することで成り立つ経済のあり方に発展の持続は見込めない。
著者はアメリカも政府が大きくなったことで国家が硬直していると指摘する。
ただ、このままアメリカは衰退するとは断定しない。しかし徐々に衰退していくのではないかと言う予想を示す。

最後に日本だ。
著者は、日本の今後を占う上で、ヴェネツィアやオランダなど小さな島国が発展したモデルに日本の今後のヒントがあるのではと提案する。
そうした国は通商で国家の繁栄を支えていた。日本も通商で世界に出ていけるのではないかと示唆する。

だが、本書が生み出されてから40年近くが経過した今、日本の衰退は明らかだ。
それは国としての柔軟性が欠けていることにあらわれている。
製品の製造にこだわるあまり、ソフトウエアの重要性に気付かなかった日本。今や世界のITの主導権は西洋やアジアの各国に握られている。
それはすなわち、アメリカが代表する西洋が再び文明の主導権を奪回したことでもある。

わが国の意思決定や組織文化は残念ながら時代の流れについていけなかった。
確かに日本は一度、世界のトップに上り詰めかけた。だが、今は衰退した状態である。
本書では文明の衰退のパターンが描かれてきた。そこに共通するのは、官僚組織の硬直だ。それが国の衰退につながる。今までの文明が衰退してきたパターンでもそれは明らか。
本書が上梓された際にはわが国が衰退することなど誰にも予想できなかったはずだが、やはりパターンにはまったといえようか。

私は組織から抜け出し、一人で活動してきた。そして今度は人を雇用して組織を作ろうとしている。果たして私の組織は衰退していくのだろうか。それは私の努力次第だ。
実際、私以外にも自らが組織を作り出そうとしている人は多くいるはずだ。そうした組織を連携させ、一つのうねりを作り出す。遠い将来の衰退が確実だとしても、それが私たちの世代のやるべきことではないだろうか。

‘2020/01/18-2020/01/25